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被占領地におけるイスラエル入植地の諸問題

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被占領地におけるイスラエル入植地の諸問題
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被占領地におけるイスラエル入植地の諸問題
100071
-類型化によるシオニスト入植史へのアプローチ-
Case of Israeli Settlements in the Occupied Palestinian Territories
-Approach to the History of Zionist Settlement through Categorization-
今野 泰三(大阪市立大学院)
IMANO, T. (Osaka City University)
キーワード:パレスチナ・イスラエル紛争、ヨルダン川西岸地区、イスラエル入植地、政治地理学
Keywords:Palestinian-Israeli Conflict, West Bank, Israeli Settlements, Political Geography
1967 年戦争、いわゆる「第三次中東戦争」において、
る東エルサレムが 1967 年戦争直後にイスラエルによって
イスラエルは、ヨルダン川西岸地区(以下、
「西岸地区」)
、
事実上「併合」された一方、それ以外の西岸地区の諸地域
ガザ地帯、シナイ半島、ゴラン高原を占領した。そして、
も、イスラエル軍が 70 年代後半から 80 年代前半にかけて
戦争直後からイスラエルは、これら占領地において入植地
発布した一連の軍令によって、6の地域評議会(mo’atza
(settlements)の建設を開始した。占領地における入植
ezorit)と 13 の地方評議会(mo’atza makomit)に分割
地の建設は、ジュネーブ第四条約に違反していると国際社
されている。これらの評議会には、イスラエル領内の評議
会で非難されており、国際連合総会決議だけでなく、安全
会と同等の法律上・行政上の地位と権限が与えられている。
保障理事会決議でも、入植地の建設とそこへの民間人の移
この政策を通じてイスラエルは、ユダヤ国家の存在(人口
送(transfer)が国際法に違反していることが明言され、
統計上のユダヤ人多数派とユダヤ的な国民社会の維持)に
入植地の撤収が要求されてきた。
「脅威」を与える西岸地区パレスチナ人のイスラエルへの
それにも関わらずイスラエルは、1979 年のシナイ半島
編入を行わずに、理論上はイスラエルの領土には含まれな
返還と 2005 年 8‐9 月のガザ地帯からの一方的な撤退を除
い西岸地区の入植地と入植者に国内法を適用し、領内と同
き、これらの領土を占領し続け、特に西岸地区で入植地を
等の行政サービスを入植者に提供し、さらに入植地を国家
建設・拡張し続けている。1993 年のオスロ合意でも、入
民生部門に編入することを可能とした。一方、西岸地区の
植地の問題は「最終地位交渉」まで棚上げされ、イスラエ
パレスチナ人に対しては、オスロ合意以降も、イスラエル
ルは合意締結後も、新たな入植地は建設しないという約束
軍の安全保障法令(軍令)が諸領域で適用され続け、オス
に反して、「自然増加」の名の下に、新たな入植地の建設
ロ合意に基づいて創設されたパレスチナ自治政府には、パ
と、既に建設された入植地の拡張を続けてきた。これは言
レスチナ人への行政サービスに対する管轄権が移譲され
うまでもなく、ブッシュ前大統領が提案した「ロードマッ
たにすぎない。
プ」和平案にも反しており、入植地建設が与えるパレスチ
つまり、西岸地区には現在、二重の統治システムが存在
ナ人への大きな影響(パレスチナ人所有地の接収や封鎖、
するのである。一方のシステム内には、イスラエルの法律
移動の制限、入植者による暴力や水資源の独占など)と相
が適用され、イスラエルの政治・経済・社会システムに統
まって、イスラエル・パレスチナ紛争およびイスラエル・
合され、イスラエル領内と同等の行政サービスを享受し、
アラブ紛争における最大の問題の一つとなり続けている。
イスラエル軍や治安機関による保護のもとでイスラエル
現在、東エルサレムを含む西岸地区には、110~130 の
入植者が暮らす。他方のシステム内には、イスラエルの軍
入植地に加え、87~147 の「アウトポスト」と呼ばれる小
事占領下に置かれ、イスラエル国家への安全保障上・人口
規模入植地が建設され、それらの入植地に合わせて約 47
統計上の脅威として扱われ、入植者用のバイパス道路によ
万 9000 人が居住している。さらに、西岸地区の一部であ
って分断された居住地(オスロ II 合意に基づき「A 地区」
や「B 地区」と呼ばれる)に押し込められ、それら居住地
略が支配的だった入植政策の戦略・方向性が、宗教シオニ
間の移動はイスラエル軍や国境警察によってコントロー
ス ト の メ シ ア 主 義 運 動 グ ッ シ ュ ・ エ ム ニ ー ム ( Gush
ルされる、パレスチナ人住民が暮らしているのである。
Emunim)と修正主義シオニストのリクード党の興隆によっ
ところで、パレスチナ問題はイスラエル問題であると言
て転換すると共に、これら異なるシオニズム潮流の入植活
われることがある。つまり、パレスチナ人やアラブ諸国と
動が並行して進んだ時期と考えられるからである。2 つ目
シオニスト(あるいはイスラエル)の対立が、1967 年戦
の理由は、西岸地区における入植地の体系的・基礎的な研
争後のイスラエルによる占領・入植地建設とそれに対する
究がこの時期に集約されており、それ以降の研究の多くも、
パレスチナ人の抵抗によって始まったわけではなく、1880
この時期の研究で確立された手法やパラダイムに基礎を
年頃から開始されたシオニスト・ユダヤ人のパレスチナへ
置いているからである。さらに、西岸地区の入植地の類型
の移民・入植活動と、そこから生じたパレスチナ人追放と
化がこの時期の研究でほぼ網羅されたことも、80 年代初
彼らの所有地の奪取に起因するという見方である。よって
頭の研究に焦点を当てることの理由である。
この見方では、1967 年以降の占領地でのイスラエルによ
なお、本発表での主な論点は以下の通りである。(1)先
る入植活動は、100 年に及ぶシオニストのパレスチナ植民
行研究では、ヨルダン渓谷での最初のナハル(イスラエル
地化政策の延長線上にある。さらに、イスラエルの入植地
国防軍の入植部隊が建設・維持を担う小規模入植地)とし
建設を含む占領政策は、
「イスラエルの地」
(歴史的パレス
てメホラ入植地(Mehola)を建設したのが、宗教シオニス
チナ)におけるユダヤ人の民族的支配の確立を主目的とし
トの流れをくむブネイ・アキヴァ(Bnei Akiva’)運動のメ
て、パレスチナ人を追放し、パレスチナ難民の帰還を妨げ、
ンバーであるという事実が看過されてきた。また、渓谷の
パレスチナ人の抵抗を抑圧してきたイスラエルの諸政策
モシャブのいくつかが、ユダヤ教正統派コミュニティーで
の継承に過ぎない、ということになる。この主張を巡る論
ある点も過小評価されている。(2)アロン計画(1960 年代
争は、単に学術界に限ったものではなく、より本質的な問
後半に労働党政権内で立案・実施された入植計画)に基づ
題、すなわちイスラエル・パレスチナ紛争の性質や、イス
くヨルダン渓谷への入植政策では、物理的条件に適した技
ラエル国家/シオニズムの倫理性とも深く関わっており、
術とメンバーを供給できる入植運動が選択されたと言わ
究極的には、何を「問題の解決」としてその実現を目指す
れているが、なぜ右派シオニストのミシュケイ・ヘルー
のかという問題とも関わってくる重要な論点である。よっ
ト・ベイタール(Mishkei Herut Beitar)運動や、ブネイ・
て、シオニスト移民・入植史を理解することは非常に重要
アキヴァ運動の参加が許されたのかが、明らかにされてい
なのであるが、そこでは以下の四点が特に問題となる。
ない。(3)グッシュ・エムニームに関する研究の多くも、
1.シオニズムの各思想的潮流とパレスチナの自然条件・
グッシュ・エムニーム創設前後の動きに焦点を当てている
経済社会状況と入植パターン・戦略の相互関係
2.各時代の主権者と移民・入植者の関係
3.入植活動の目的と性質の継続性と断絶性
4.もし断続があったとしたら、その転換点はどこか?
ため、1967 年戦争直後のヨルダン渓谷における、ユダヤ
教正統派の入植者の思想や実践には言及していない。
以上挙げた点は、「現実主義的」や「穏健派」と評され
る労働シオニスト(労働党)が、1973 年のグッシュ・エム
よって、本発表では、シオニズムの性質と、その歴史・
ニーム創設以前の段階で、宗教シオニストといかなる関係
地理的展開(特に思想や政策面での継続性と断絶性)を捉
にあったのかという問題及び、1960 年代における左派シ
えるためのスタート地点として、西岸地区のイスラエル入
オニストと右派シオニストの関係性という問題とも関わ
植地を性格別に類型化する。本発表は、先行研究における
ってくる。このように上記の諸点は、これまで対立的に捉
類型化の方法や、その意義および問題点を整理することに
えられることの多かったシオニスト諸潮流の間の入植活
主眼を置くが、先行研究の中でも特に、1980 年代初頭の
動やイデオロギーを巡る関係性を見直す上で重要である
政治地理学的な諸研究に注目したい。その理由はまず、80
だけでなく、さらには、グッシュ・エムニーム創設初期に
年代初頭が、シオニスト入植史における重要な時期だから
おける民族宗教党内での継続性と断絶性(対立や変化)を
である。すなわち、80 年代初頭は、それまで労働党の戦
より深く理解する上でも欠かせない視点なのである。
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