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人吉農芸学院講演会 - みどりの風〜九州沖縄犯罪被害者連絡会

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人吉農芸学院講演会 - みどりの風〜九州沖縄犯罪被害者連絡会
犯罪被害者遺族となって考えること
九州・沖縄犯罪被害者連絡会(みどりの風)
副会長 松尾明久
2013 年 11 月 5 日
目次
1. 自己紹介
2. 事件のこと(当日~翌日)
3. 事件後の様子(1 週間後~)
4. 刑事裁判のこと
5.
6.
7.
8.
謝罪とは
事件後の問題(被害者アンケート)
再犯について(白書データ)
最後に
講演
1. 自己紹介
皆さんこんにちは。紹介いただきました松尾と申します。北九州からまいり
ました。
私は無差別通り魔事件の被害者遺族です。これからしばらく時間をいただい
て私の事件のことや犯罪被害者の家族としての気持ち、また事件後のことや、
裁判の様子、謝罪や再犯について述べさせていただきます。
皆さんには、自分の犯したこととは全く異なる事件の話と思うでしょうが、
犯罪によりいろいろな被害に遭った人、家族がいることを知ってほしいと思い
ます。
しばらく私の話にお付き合いください。これからの話の中で、皆さんには嫌
な言葉や不適切な言葉があるかと思いますが、どうかご容赦お願いします。
2. 事件のこと(当日~翌日)
事件が起きたのは今から 14 年前です。通称「下関駅通り魔事件」と呼ばれて
いました。皆さんはまだ小学生になったばかりか、2~3 才の幼い子供で事件の
ことは知らないと思います。ですが、平成 20 年 6 月に東京の秋葉原で起きた「通
り魔事件」はひょっとしたら覚えている方もいるのではと思います。下関事件
も同様の事件です。
平成 11 年 9 月 29 日の夕方 4 時 25 分頃、山口県下関駅構内で起きました。3
5才の男がレンタカーで駅前の歩道からコンコースに突入して、歩いていた人
達7人を次々に輪過して、改札口の前で車を降り包丁を持ってホームに駆け上
がり列車待ちをしていた人々8人を刺しました。
この惨事で、5人の方がなくなり、10人の方が重軽傷を負いました。私の
妻もコンコースで轢かれ、1時間後に息をひきとりました。
私は、妻が最後に何か言ったのか、息をひきとるまでの様子が知りたくて、
事件から2か月後、11月の終わりに妻が運ばれた病院を訪ね、妻を診ていた
だいた外科部長の先生に妻の最後の状態を伺いました。
先生は言葉が悪いのですがと断られて、奥さまが運ばれて来たときはもう「虫
の息」の状態で、右側の肋骨は全部折れ、全身打撲症で手を尽くしましたが、
及ばず申し訳ありません・・・と話してくださいました。轢過された時点で、
声を出すこともなく、命の灯を絶たれたのだと思います。
この事件の日は朝から良い天気でした。仕事に出かける私に、妻はいつもと
同じように笑顔で「いってらっしゃい!・・・今日は出かけますから夕方いつ
もの所で待っていますよ」と見送ってくれました。私は毎日交わす「いってら
っしゃい、気を付けて」の妻の言葉、
「いってきます」と手を振って家を出た私
の言葉が最後の会話となるとは夢にも思いませんでした。
その日妻は知り合いの家へ出かける日でしたから、夕方6時過ぎに待ち合わ
せのスーパーの前に行きましたが見当たらず、店の中を捜したり、しばらく待
ちましたが会えずに家に戻りました。家には灯りもなく妻も戻っていませんで
した。おかしい!こんなことは今まで一度もないのに・・・と思っていたら、
電話が鳴りました。出ると、下関署からで駅での事件を知りました。
署の方は、私の名前と妻の名前を確認してから「すぐ下関署に来てください」
と言われました。なぜなのか尋ねますと「奥さんと思われる方が事件に遭った
ので確認に来てください」と言われました。
私は、妻が下関に行くとは聞いていませんし、何か間違いではないかと思い
ましたが、
「確認に来てくれ」の言葉が気になり、署の方に「妻が下関に行って
いるはずはないのですが、もし妻でしたら自分で電話もできない状態なのでし
ょうか?」と聞きましたら、「もし奥様でしたら、すでに亡くなられています」
と言われ、まさか嘘だろ!と思ったのですが・・・妹の家に行っていた娘に連
絡し、妹夫婦と共に下関警察署に向かいました。
9時半頃着き待っていた署の方に案内され、地下の駐車場の隅にブロックで
作られた物置のような場所に寝かされている妻と会いました。
・・・すぐ妻と分
かりましたが、係の人に「奥さまに間違いないでしょうか」と聞かれても、頭
の中が真っ白になりしばらく声も出ませんでした。
おそらく身体中が傷だらけだったのでしょう。全身白い布に包まれ、顔の表
面にも紫色に滲んだ血のあざがありました。今朝「いってらっしゃい」と笑顔
で送ってくれた妻の顔ではありません。
その後、事件の説明がありましたが、事件発生から5時間余りで詳しい状況
説明はなく、聞いてもよく解りませんでした。
私の頭の中では話を半分聴きながら、半分はどうやって妻を家に連れて帰ろ
うか、物置のような暗い冷たい所から早く連れて帰りたい・・・と考えていま
した。頭の中は何をどうすべきかグチャグチャになった感じで、思考力がなく
なっていたと思います。
そんな中で、状況説明の後「司法解剖をします」と言われ、傷だらけの妻を
これ以上疵(きず)つけてしまうのは耐え難く断りましたら、係の人は令状を
取ってでもやりますと言われ、どうして司法解剖が必要なのかの説明もなく、
さらに、柩を用意してくださいと言われたりで、私も多分、感情的な受答えを
していたと思います・
幸い他の署員の方の計らいで市内の葬儀社に連絡していただき、深夜でした
が署へ呼んでもらって柩の用意と翌日妻を連れて帰る手配ができました。
後で落ち着いて考えますと司法解剖が必要なこと、当然柩も必要だとわかり
ますが、もっと丁寧に説明してほしいと思います。また遺体を安置する場所も
せめてもう少しきちんとした場所などに安置してほしいと思います。遺体は物
ではありません。
翌30日は朝早くから報道関係者が多数家に押しかけて来ました。事件の詳
しい様子もわからす、
(電話帳には載せていない)電話番号をどこで調べたのか、
電話を頻繁にかけてきます。事件を知って心配して電話をくださる方もいます
から出ない訳にもいかず、本当に大変な思いをしました。
ご近所の皆さんにもいろいろ取材した様子で大変ご迷惑をおかけしました。
3. 事件後の様子(1 週間後~)
事件から一週間くらいは、葬儀やその他慌ただしくて事件のことを考える余
裕もなく、4日間で2時間ほどしか眠ってなくて感覚がマヒして考える力がな
くなっていたようです。
しばらく(半月~1か月)くらいしてから、なぜ妻が事件に遭ったのか、犯
人はどんな男なのか、犯人に対する憎しみが湧いてきます。悔しさや悲しみ・
苦痛は忙しさが過ぎてから感じます。
精神的な苦痛、心身の痛み、身体の不調は長く続きます。事件前の普段の生
活ではなんでもなかったことにでも、イライラしたり感情的になったりしてス
トレスが溜まります。
また、裁判が始まってからのマスコミの取材や、全く根拠のないデマや噂話
もストレスの原因となりました。
家では娘と2人の生活になりましたが、お互い話をすることも少なくなり、
笑い声や笑顔は全くなくなりました。根暗な生活が長く、半年以上続きました。
それでも何とか父娘して少しずつ無駄話も口に出るようになり、事件前のよう
な生活に戻ることは適いませんが、どうにか普通の生活ができるようになった
のは1年余り過ぎてからです。
この1年はとても長く感じました。精神的に不安定で、いわゆる鬱(うつ)
の状態です。私の58年の人生が終わった。生きていても意味がない・・・虚
しい!・・・と思う日が度々ありました。
そんな気持ちを何とか乗り越えることができたのは、妻を殺めた加害者がい
かに裁かれるのか、きちんと見届けないと妻に対し申し訳ない!とおもったの
も立ち直るきっかけになりました。
4. 刑事裁判のこと
そんな普段の生活もままならず、落ち着かない中で刑事裁判が始まります。
同じ裁判でも、皆さんが経験したのは家庭裁判所での少年審判だと思います。
この少年審判は非公開で行われ、少年法で守られていて一般の人には分かりま
せん。しかし成人の犯罪を裁く刑事裁判は公開されていて誰でも傍聴すること
ができます。
下関事件の初公判は事件から3か月後の12月22日でした。それまで裁判
や司法に全く縁なく、関わりのなかった事が生活の中に入ってきます。初めて
検察庁や裁判所に行き裁判を傍聴しました。
今の裁判は新しい法律もでき、裁判員裁判など少し変わってきていますが、
全ての裁判が変わった訳ではありません。
当時の裁判は、加害者である被告人を裁くためだけの裁判で、被害者や家族・
遺族には何の配慮もされず、権利も認めてもらえず、一言も声を出せずに、傍
聴席に座って黙って聞いていることしか赦されませんでした。
また、10年程前まではよく問題にされましたが、私も初公判の際に妻の遺影
を持っていきましたが、法廷に持ち込むことは認めてもらえませんでした。何
故持ち込めないのか裁判所に尋ねると「被告人を刺激するといけないから認め
られません」と言い、また傍聴者の交代をお願いしたら、これも駄目だと認め
てもらえず、再三交渉してやっと認められましたが、その時の裁判所の言い分
は「裁判は貴方達被害者のためにやっているのではない!」と言われました。
これはほんの一例です。
裁判で被告人は自分の思っていることをいうことができますが、被害に遭っ
た人や遺族は一方の当事者なのに何も言えない。裁判という土俵の外に置かれ
ているのです。
先ほども言いましたが、現在は新しい法律もできて被害者の権利も少しは認
められるようになりましたが、まだまだ充分ではありません。同じように事件
に遭われた被害者やご家族に接し話をお聞きしますと、警察や検察に、あるい
は裁判所で私よりもっと過酷な仕打ちやひどい扱いを受けた方がたくさんいま
す。
どんな被害であれ、私達被害者は被害に遭った苦しみや悲しみに加えて、警
察や検察との対応や裁判などの苦痛と辛さに耐え、加害者に対する感情、精神
的な心の問題や生活など、それぞれ大きな苦しみを抱えていることを知ってほ
しいと思います。
では、下関事件の裁判でどんなことがあったのか、被告人が何を言ったのか、
いくつかお話しします。
この通り魔事件の刑事裁判は、下関地裁、広島高裁、そして東京の最高裁と、
31回の裁判があり、刑が確定するまで8年10か月かかりました。
被告人は一審の4回目の公判で「10人位殺そうと思ったが5人殺せて満足」
と言いました。5回目の公判では「神のお告げと指示があったので犯行を実行
した」と言いましたが、7回目の公判で裁判長の質問に「神のお告げは・・・
自分の実になると思って言った」と述べました。つまり、自分の罪が軽くなる
ようにとの虚偽の供述で、自分勝手な作り噺です。
11回目の裁判では、被告人が犯行前に通っていた病院の医師の証言があり
ました。自分に不利な証言が出ると被告は突然立ち上がって奇声を上げ床に転
がりました。これで裁判は50分間中断して結局この日の裁判は中止となりま
した。この行動も仮病を装った行為です。
謝罪の言葉も、弁護士に「傍聴席に被害者や被害者の家族が見えてるが何か
言うことはないかと促されて、
「どうもすみませんでした」と全く誠意のかけら
もない口先だけの一言です。被告の父親も広島高裁で一審の死刑判決について
問われた時「息子が大変なことをして申し訳ありません。息子は病気だし助け
てください」と言いました。
親子してこの謝罪を裁判官に向かって言って頭を下げ、傍聴席にいる私達被
害者や遺族には振り向きもせず頭も下げず無視をして・・・これは謝罪ではあ
りません。
しかし、これがマスコミの報道になると裁判の状況や謝罪の態度に関係なく、
被告人が謝罪した!と報道されます。裁判を見ていない人たちからすると多分
きちんと謝ったと思われるかもしれません。私達被害者から見ると非常に腹立
たしい報道でしかありません。
5. 謝罪とは
では、謝罪とはなんでしょうか?
この下関事件でも、被告人が真摯に反省し心から謝り、法廷の出入りの時に
も傍聴席にきちんと頭を下げる、自分の犯した事に偽りを言わず正直に述べて
申し訳ないといった態度であれば、私たちの気持ちも亡くなった人も負傷した
人も少しは心が安らいだかもしれません。今更言っても仕方ないことです
が・・・とても残念です。
私達被害者は、どんな犯罪であれ理由もなく被害に遭ったことで、加害者に
対し怒りや憎しみを覚えます。しかし、加害者が自分の犯した罪と真剣に向き
合い、被害を負わせた相手の人のことを思い、心から謝罪し償う気持ちを持て
ば被害者の憎しみも辛さも少しは薄らぐと思います。
加害者がしっかりと誠実に反省し、更生して社会復帰できることが、被害者
や私の望みでもあります。でも残念ながら前に述べましたように口先だけで「す
みませんでした」と言った誠意のかけらもない言葉や、刑務所や少年院を出た
ら償いは終わったと思っている人が多いのではないでしょうか。
刑務所や少年院に入って処罰されたから、犯した罪がなくなったわけではあ
りません。自分のやったことを素直に考えて反省すること、二度と過ちを起こ
さないことが大事です。それが被害を与えた人に対する償いの一部になると思
っています。
被害者が加害者を許すということは大変難しいことです。事件を犯した人は
みなさんを含め自分の犯した事に目を背けずに一生心の端に留めてほしいと思
います。
幼い子供でもいたずらをして諭されると「ごめんなさい」と素直に謝ります。
謝罪は被害者に対してだけではなく、自分の心に犯した事を詫びているのだと
考えてほしいと思います。
6. 事件後の問題(被害者アンケート)
(略)
7. 再犯について(白書データ)
(略)
8. 最後に
心ない言い方かもしれませんが、一度でも罪を犯すと、仕事を探すのも、あ
るいは仕事に就いていても、何かを行うにしろ社会や世間の目は厳しいと思い
ます。信用をなくすのは一瞬です。ちょっとした過ちでもそれまで培った信用
をなくします。逆に、信用を得るのは大変です。一度失ったものを取り戻すに
は長い時間と地道な努力が必要です。
皆さんも罪を償う与えられた試練として、挫けないで頑張ってください。
ともすれば私たちは楽な道を選びがちです。人生には登り路も険しい下り路
もあります。たとえ苦しくても、辛い道でも一歩ずつ歩いて耐えましょう。
今年5月に80才7ヶ月のお歳で世界の最高峰エベレスト(8848m)に3回
目の登頂を果たされた冒険家の三浦雄一郎氏が、
「生きることに、勇気を持って、あきらめないで夢を持つ」
とおっしゃっていました。
私も残された人生、何があってもあきらめないで生きていきます。若い皆さ
んの人生、未来はこれからです。挫けないでお互いに頑張りましょう。
説教みたいになりましたが、聴いていただきありがとうございました。
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