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No69
http://sekaishi.info 69 08 世界史 web_No69.jtd カトリック世界の発展 カトリック世界の発展 1)西暦 1000 年が迫ってくると、西ヨーロッパでは ≪キリストが再来し最後の審判を行う≫という 【 1: 】が広まり、キリスト教信仰が身分 を越えて高まった。 2)1000 年は何事もなく過ぎたが、人々の聖人を崇敬 し聖遺物を求める気持ちから、西ヨーロッパでは 11 ~ 12 世紀、【2: 】が流行した。 三大巡礼地は、 イェルサレム (図1のc)、ロー マ (図1のb)、サンティアゴ=デ=コンポステ ーラ(スペイン北西部。聖ヤコブの墓があるとされる?図1のa)。 図1に地名を書き込みなさい。 3)一般に国王の力は弱く、領主など地方権力が割拠する西ヨーロッパの社会状況から、ローマ教皇の権威 は急速に高まっていった。教会、修道院は、ローマ教皇を頂点とするピラミッド状の【3: 】 (ヒエラルキー)を構成していた。 4)西ヨーロッパではカロリング朝以来、皇帝や国王は大司教・司教・修道院長などを任命する権利、すな わち【4: 】を持っていた。 ≪比較≫ No61 ビザンツ帝国の「皇帝教皇主義」(皇帝はコンスタンティノープル総大司教の任免権 を持つ)と共通点がある。異なるのは以下に述べる 11 世紀以降の経過。 ドイツでは、神聖ローマ皇帝が聖職叙任権を持ち、【5: 】をとっていた。 当時の教会の世界は、政治とのつながりが深く、大司教や司教、修道院院長などの高級聖職者は、 国王や有力諸侯の一族が任命される例が多かった。 教会や修道院は、広大な荘園の領主として農民(農奴)から収奪した。 皇帝や国王の都合で聖職者にふさわしくない人物が任命されることも多く、聖職者の中には、聖職を売 買したり、妻帯するなど教えに反する堕落行為を行うものも現れ、教会や修道院の俗化への非難は高ま った。 5)教会改革運動は、修道院から始まった。 ≪復習≫ベネディクトゥス(480?-543?)は東方に起源を持つ修道院を改善し、529 年、イタリアの モンテ=カシノに修道院を開いた。「清貧・純潔・服従」の3原則に基づくベネディクトゥス会則 を定め、「祈れ、働け」の標語の通り祈り・労働・学問を重んじた。厳しい戒律を掲げ教皇やフラ ンク王権からも支持を受け、ヨーロッパにおけるカトリック布教に大きな役割を演じた。9世紀 には西欧の修道院をすべて統轄した。 11世紀以来、フランス東部の【 6: 】(ベネディクト派)は、 教会の浄化、 刷新運動の中心となった。 → 教皇グレゴリウス7世の改革に大きな影響を与えた! クリュニー修道院に限らず、多くの修道会が清貧と献身を唱えて改革運動を行った。 ① 12 世紀 シトー会(シトー修道会) ② 13 世紀 イタリア アッシジ(図1のf)の【7: 】(1209 創立) 聖フランチェスコは聖職者ではなかったが、インノケンティウス3世は彼らの運動を保護した。 正式の認可は、③のドミニコ修道会とともに次の教皇による。 ③ 13 世紀 スペインの【8: 】(1215 創立) カスティーリャ出身のドミニコ(ドミニクス)は南フランスのカタリ派異端※1の興隆を知り、 清貧と説教によって異端を根絶することを決意して、ドミニコ修道会を設立した。※2 ②と③は托鉢修道会であり、無所有を理想とし、都市で托鉢した。 6)叙任権闘争 (聖職)叙任権=大司教、司教、修道院長など高級聖職者の任命権のこと。 聖職叙任権をめぐる教皇と神聖ローマ皇帝(=ドイツ皇帝)の争いを叙任権闘争という。 最盛期は 11 ~ 12 世紀で、叙任権闘争といえば、普通は、以下の両者の争いを指す。 教皇【9: 】位 1073-85 は、クリュニー修道院の教会改革の精神に立ち、聖職売買や 聖職者の結婚を禁じ、教会の粛正、教皇権の確立につとめた。そのためには、神聖ローマ皇帝が持つ聖 職叙任権がどうしても必要だった! 1077 年、教皇グレゴリウス7世はついに行動に出た。 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に対して、神聖ローマ皇帝が行う聖職叙任を聖職売買とみなして禁止す ると宣言したのだ! 08 世界史 web_No69.jtd http://www.geocities.jp/sekaishi_suzuki/ 教皇グレゴリウス7世 破門 神聖ローマ皇帝による聖職叙任は聖職売買! 位 1073-85 】1077年≪頻出≫ 図1のe 雪のカノッサ城外に3日3晩立ち尽くし 許しを請うた、と記録されているが・・ (史実かどうかは不明である) 謝罪=【11: 神聖ローマ皇帝【10: 】位 1056-1106 ≪補足≫教科書などによく掲載されているハインリヒ4世が跪いている絵画で、一番右の偉い方は教皇グレゴリウス7世で はなく、その滞在先のカノッサ城の主トスカーナ女伯である。 ≪蛇足≫グレゴリウス7世は、その後ハインリヒ4世に反撃され逃亡先で死去。ハインリヒ4世は息子のハインリヒ(5世)に反逆され失意 のうちに死亡。ユリウス暦に閏年を加えて精度を高めたグレゴリウス暦を制定(1582年)したのは、グレゴリウス13世である。 1122年 妥協が成立した= 【12: 】 叙任権は教皇にある。 ドイツ国内では教会・ 修道院領地の継承の承認権は皇帝にある。 ただし、締結時はグレゴリウス7世、ハインリヒ4世の組み合わせではないことに注意しよう。 ヴォルムス協約は、教皇カリクストゥス2世、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の間で結ばれた。 こうして、神聖ローマ皇帝は聖職者の任命権を失い、【13: 】が確立した。 7)「教皇権は太陽、皇帝権は月」 と言ったとされるのは 教皇【14: 】 位 1198-1216 13世紀は、教皇権の絶頂期! 教皇インノケンティウス3世は、皇帝オットー4世、イギリス王ジョン、フランス王フィリップ2世ら を次々に破門、臣従させた。イギリス国王【15: 】が「失地王」とも呼ばれるわけは、フラン スと戦って敗北し、フランス西部の英領を失い、さらに教皇インノケンティウス3世と争って破門され、 全国土を教皇に献上して、これを与えられ、教皇の封建的家臣になってようやく許されたからである。 関連事項 1)10 世紀末、ドイツ、フランスでは「神の平和」運動が起きた。 貴族の私闘を抑えるため? 中世ヨーロッパでは自己の権利を侵害された者には、侵害した者に対して実力による自力救済を講ずる法的権利があった。 これをフェーデと言う。中世初期においてはフェーデは決闘を意味したが、金銭で解決することもできた。10 世紀頃にはフェ ーデは広汎に行われるようになり、身代金や掠奪を目的としたフェーデも増えたので、これを規制しようとする動きが現れた。 10 世紀後半に南フランスでフェーデを抑制しようという「神の平和」運動がおこり、11 世紀にはフランス全域およびドイツ にも波及した。はじめは信仰と結びついた「神の平和」運動であったが、ドイツでは徐々に国王権に回収され、国王権力ある いは領邦国家が裁判権を獲得して支配領域内で一元的な支配を及ぼすためのフェーデ規制に利用された。 2)カタリ派異端、アルビジョワ十字軍 ※1 カタリ派:マニ教的二元論と極端な禁欲主義を主張し、反教皇・反教会を唱えるキリスト教の異端。12 ~ 13 世紀に南仏、北 伊、ラインラントに広まる。南仏ではアルビ派とも言う。激しい弾圧で 15 世紀初頭に消滅。 アルビジョワ十字軍:インノケンティウス3世が提唱した。東方をめざした十字軍と同様、宗教的理由と領土欲の両方により 主に北フランスの諸侯を中心に組織された。南フランス諸侯はこれに反撃し、領土戦争の性格を持つに至る。1209 年、シモン =ド=モンフォール指揮下の軍が侵攻、ベジェが陥落、十字軍は約 1 万人の住民を無差別に殺戮したが、アルビ派は実際には 約 500 人に過ぎなかったといわれる。遠征は 1217,26,42 年にも行われた。南フランスは独自の文化を誇っていたが、20 年もの 戦乱で荒廃し、完全にフランス王の支配下に入った。1229 年から異端審問が始まり、アルビ派と認定されれば火刑。遺体が掘 り出されて火刑とされることもあった。アルビジョア十字軍は異端審問制度が確立する契機となった。なお、結果的にコンス タンティノープルを占領略奪した第 4 回十字軍も、その 7 年前にインノケンティウス 3 世が呼びかけたものである。 3)楽曲「ドミニク」 ※2 わが国でよく知られている視覚に障害のある少女のストーリーは、訳詞者の創作である。原 曲はカタリ派の人々にカトリックへの復帰を説いて旅をした聖ドミニコ(1170?-1221)の宗教活動をたたえたもの。 ペギー葉山版 ドミニク (日本語詩 あらかはひろし) 著作権により保護されているため web 版教材では歌詞を印字できません。 http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=43141 参照 【 】記入例 1:終末論 2:聖地巡礼 3:聖職位階制 4:聖職叙任権 5:帝国教会政策 6:クリュニー修道院 7:フランチェスコ修道会 8:ドミニコ修道会 9:グレゴリウス7世 10:ハインリヒ4世 11:カノッサの屈辱 12:ヴォルムス協約 13:教皇首位権 14:インノケンティウス3世 15:ジョン