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漢帝国(後漢) 漢代の社会と文化

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漢帝国(後漢) 漢代の社会と文化
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漢帝国(後漢)
漢帝国(後漢)
豪族の連合政権
1)光武帝位 25-57、劉秀は、外戚、宦官を抑え、儒教を奨励し、皇帝中心の政治を進めた。
豪族たちとともに、荒廃した農村の復興につとめ、内政の充実に努めた。
後漢の前半は(1世紀まで)、政治的に安定した。
2)光武帝の時代(位 AD6-57)にあったこと、2つ覚えよう。
① AD40-43 徴(チュン)姉妹の反乱
後漢支配下の交趾郡でおきたベトナムの独立を目指す反乱。
一時は北ベトナム全域を支配したが、馬援の漢軍に敗れ殺される。
徴(チュン)姉妹は、今でもベトナムの民族的英雄である。
② AD57 倭の奴国の王が、後漢に使者を送ってきた。光武帝は「漢委奴国王」の金印と紫綬を授けた。
これは「後漢書」東夷伝による! (記録が正確なら、光武帝の死亡の1ヶ月前にあたる)
1784 年、(現在の)福岡県志賀島(しかのしま)で畑から出土した金印がそれだとされる。
≪比較≫「楽浪東方海中に倭人有り・・」は『漢書』地理志で、BC 1世紀の日本についての記述。これが日本に関する初出史料。
3)【1:
】「
( 漢書」を書いた班固の弟)の大活躍。
73 年明帝の時代、北匈奴討伐を行う
怯みがちな少数(36 名)の兵を「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
と励ましたことは故事となっている。北匈奴を服属させた。
北匈奴は、後に南匈奴と鮮卑族に追われて西に移動、2世紀半ばカザフ草原にいたことは確認されたが、その後
行方不明。4世紀にヴォルガ川に現れたフン族は、北匈奴だという説もある。(ヴォルガ・フン族、北匈奴説)
章帝の帰国命令に従わず、西域に残る。
彼は、31 年間も西域に駐在した。
75 年
約 30 年の奮闘で、パミール高原以東の諸国(=西域オアシス国家群)を後漢に服属させた。
91 年、班超は匈奴の息がかかった亀茲(クチャ/きじ)を討ち、和帝によって西域都護に任じられた。
西域都護は前漢の BC59 年に設置されたが、王莽以降一時中断していた。班超は西域都護府を亀茲(クチャ/
きじ)におき、50余国を服属させたが、西域都護は 107 年に廃止された。
97 年、部下の【2:
】かんえいをローマ帝国に派遣したがパルティアに阻まれ到達せず。
4)2世紀以降、後漢は乱れた。
幼帝続き、豪族も外戚や官僚となって党派をつくり宦官と対立し、政治は混乱した。
最悪の事件の例= 166、169 年の党錮の禁
儒教を奉じる官僚知識人グループ(党人)が宦官によっ
て追放される。
こうした政争のため、治水や灌漑の事業がとどこおり、農耕地が荒廃、飢饉があいついだ。
≪頻出≫
全く別件であるが、「後漢書」西夷伝によれば、166 年に「大秦王安敦あんとん」の使者と称する者
が象牙など南海の産物を持って日南(ヴェトナム中部)に到達、入貢した、とされる。「大秦王安
敦あんとん」とはローマ皇帝、マルクス=アウレリウス=アントニヌスに該当するとされている。
AD184 【3:
】が起き、後漢の滅亡は決定的となった。
黄巾の乱:宗教結社「太平道」の創始者、張角が起こした。
悪政と天災に苦しむ貧窮農民が黄色の頭巾をつけて参加した大反乱。華北一帯に波及。
主力は鎮圧されたが、呼応した諸反乱が相次ぎ、各地の部将も自立した後漢の滅亡は
決定的となった。ただし、張角は反乱開始後、まもなく病死してしまった。
☆「太平道」(張角)は「五斗米道」ごとべいどう(張陵)とともに、道教の源流となった。
5)後漢は(三国の)魏に滅ぼされたが、何らかの勢力に取って代わられたのではなく、
以後全国は群雄割拠の状態になった。・・・いわゆる 三国時代(ないしは魏晋南北朝時代)に突入した。
漢代の社会と文化
Ⅰ 社会
1)①→
2)②→
3)③→
Ⅱ
文化
中国的文物の原型が形成された時期である。
(「漢」は中国を意味する場合がある)
特徴:①農業生産力の向上、②商業の発達、③豪族の大土地所有の発達。
人口増加(前漢末には戸籍上 6000 万人)
絹、鉄、漆器、紙 物資輸送網の発達。
ただし、国家は農業を重視、商人は規制された。
前漢武帝の塩・鉄の専売に関する討論集は?
桓寛かんかん の『塩鉄論』
養蚕は殷代に創始されたと言われ、漢代には優秀な絹糸が生産され絹貿易が発展した。
大土地所有抑制策は失敗。豪族は、郷挙里選によって中央政界にも進出。支配層を形成。
特徴:①法家から儒家へ、②正史(公式歴史書)編纂、③製紙法、④漢字の確立
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1)儒学・・・前漢の初めまでは法家。前漢の盛期に天命思想などで皇帝権力を正当化、上下の秩序を重視
する儒家思想に転換。儒家思想は、儒学となって国家支配の基本理念となる。
薫仲舒(前漢 とうちゅうじょ)の献策(公羊学説)で武帝の時代に五経博士がおかれる。これが正統教義化
の始まり。
後漢では、訓詁学(くんこがく経書の整理・注釈。前漢に始まる)がさかんになった。
後漢の馬融ばゆう、【4:
】(ていげん/じょうげん) が名高い。
鄭は不正確。正しくは→
2)漢王朝の正当化のため、歴史書の編纂が奨励された。紀伝体で記述され、正史の模範とされる。
紀伝体:皇帝の伝記(本紀ほんぎ)とそれ以外の人物の伝記(列伝れつでん)を基本とするスタイル。
年月順に記述するスタイルを編年体と言う。
【5:
】前漢 『史記』
黄帝~武帝
紀伝体
班固
後漢 『漢書』
前漢・新
紀伝体
中国正史の模範とされる。
班固(32-92)は『漢書』を編纂し『白虎通』を著した後漢の歴史家。
『漢書』は前漢一代と新の歴史書で司馬遷の『史記』
と並ぶ二大歴史書である。班固は獄死したため妹の班昭が完成させた。弟の班超(32-102)は北匈奴征伐に活躍。
3)2世紀頃
宦官の【6:
】(後漢 さいりん)が紙の製法(製紙法)を大幅に改良した。
漢代までの記録は、木簡もっかん、竹簡ちくかん、まれに帛きぬに書かれていた。
木簡、竹簡は両端に小穴をあけ、紐でとじた。とじたものを、冊さくや巻かんという。
≪頻出≫ 751 年のタラス河畔の戦い(アッバース朝軍を迎え撃った唐軍が大敗)の唐軍捕虜の中に紙すき工がおり、製紙法
がイスラーム世界に伝えられた。アンダルシアを経由してヨーロッパに伝わったとされる。「
( 製紙法の西伝」)
4)漢字の確立
篆書(てんしょ)
↓
隷書(れいしょ)
↓
楷書 (かいしょ)
草書(そうしょ)
☆最古の辞書は
漢字の最古の書体。周代に地方差を整理して成立。秦(戦国)で使われた大篆、秦の
統一以降にこれを簡略化した小篆がある。
秦のころ篆書からつくられ漢代に普及。現在の漢字とほぼ同じ。容易に書ける。
秦漢以降、全国規模の文書行政が必要となり、漢字がこれを担った。
漢の時代に作られた。隷書より転化した方正な書体。後漢より銅器や碑文に。
漢の時代に作られた。隷書を早書きにして生じた書体。後漢末の張芝ちょうし以降発達。
『説文解字』 せつもんかいじ 後漢の許慎が編纂。辞書の祖。
5)そのほか漢代の文化として、以下のようなことも重要である。
ア)張衡(後漢 ちょうこう)
天球儀、地震計を考案。
暦法も発達・・・・太陰太陽暦(たいいんたいようれき 2、3年に1度閏月を設ける)が確立した。
イ)官営工場を中心に、精巧な絹織物、漆器、銅鏡が作られた。
絹の生産は殷代まで遡る。漢代には優秀な絹糸が作られた。
ウ)【7:
】の伝来は、インドから西域経由で、後漢のはじめごろ(紀元後1世紀なかごろ)とさ
れている。当時は、一般には普及しなかった。
エ)陰陽五行思想や易姓革命の思想が広まった。
6)前掲(1)(2)の経書や歴史書は、東アジア世界に共通する文化の源流の一つとなった。
前掲(4)の漢字は、製紙法の改良によって、紙とともに東アジア文化圏の礎となった。
王朝名「秦」は、インドで中国をさす語「シナ」となる。ここから英語の China などの語が生まれた。
王朝名「漢」は、漢字文化圏において中国とその文化の代名詞となった。・・・・「漢字」「漢人」
【MEMO】
【
】記入例
1:班超 2:甘英 3:黄巾の乱
5:司馬遷 6:蔡倫 7:仏教
4:鄭玄(鄭はウソ字)正しくは→
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