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金の華北支配と南宋 宋 の社会 宋の衰退と新法

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金の華北支配と南宋 宋 の社会 宋の衰退と新法
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08 世界史 web_No48.jtd
金の華北支配と南宋
金の華北支配と南宋
この項は No39(一部)で既習。
1)ツングース系の【1:
】ジュルチンは、
中国東北地方で半農、半猟、半牧の生活を送
り、キタイ帝国(遼)の支配下にあった。1115
年、【2:
(太祖)】 ワンヤン
アグダ位 1115-1123 のもとに統一され、国号を
金とし、都を上京会寧じょうけいかいねい黒竜江省
においた。金は 1125 年、キタイ帝国を滅ぼ
し 、「燕雲一六州」を受け継いだ。モンゴル
高原の騎馬遊牧民族を従えた。
2)金に追われたキタイ帝国(遼)の残存勢力は
耶律大石やりつたいせき に率いられて西に移動
し、1132 年、カラ=キタイ(西遼)を建国した(この国の支配者は仏教徒)。セルジューク朝を破り、
一時、東西トルキスタンを支配したこともある。後にモンゴル軍に滅ぼされる。
3)金の国内政策
キタイ帝国(遼)の二重統治体制を踏襲した。
漢民族:州県制
ミンガン・ムケせい
女真族:部族組織を基礎にした軍事、行政制度=【3:
】もうあん・ぼうこくせい
4)金は、宋と同盟してキタイ帝国を攻撃した際の違約を理由に、1126 年、都の開封(現河南省)を占領し、
1127 年、徽宗、欽宗、后妃、皇族、貴族ら(約3千人)を捕らえ北方に連れ去った。※1
この事件を【4:
】せいこうのへん と呼ぶ。これをもって、宋(北宋)は崩壊した。後掲
なお、徽宗位 1100-25 は既に「上皇」となっており、皇帝は欽宗位 1125-1127 だった。
宋(北宋)の社会
1)≪復習≫ 960 年、後周の武将の一人【5:
】が皇帝(太祖位 960-976)となって宋(北宋)を建国。
≪太祖(趙匡胤)位 960-976 の政策≫
後周の世宗の政策を継承。
①藩鎮(武人)を抑えて禁軍(正規の国軍)を強化。
②【6:
】の政治を行った。
官僚から武人を追い出し、文人を重用した。
③科挙に【7:
】を加える。
州試、省試に殿試を加え、科挙を完成させた。
井上靖『敦煌』は主人公が殿試に失敗するシーンから始まる。敦煌、莫高窟の第 17 窟「蔵経窟」
「宝庫」から発見(1900
年)された膨大な「敦煌文書」を、11 世紀前半(推定)に誰が何の目的で封じ込めたかをテーマとする歴史小説。
3)2代目の太宗位 976-997(太祖の弟)は、979 年、北漢を滅ぼし中国のほぼ全域を統一し、君主独裁体制を
確立した。
4)唐代の門閥貴族は荘園を失って没落、【8:
】けいせいこと呼ばれる新興地主層が台頭した。
彼らは没落した小農民を、【9:
】でんこと呼ばれる農奴に等しい小作人として使役して荘園を経営
した。 佃戸の多くは自分自身の農地を持ち、補完的に地主と小作契約することが普通だった。
宋代以降、科挙に合格した官僚を出した家を官戸かんこと言う。その多くが形勢戸であったため、官戸と
あわせて官戸形勢戸かんこけいせいこ(あるいは形勢官戸)と呼ぶようになった。
官戸とは唐代では、官に隷属する身分の低い階級のひとつを指す全く別の言葉なので注意しよう。
官戸形勢戸は庶民と区別して税籍に明記され、徭役ようえきの免除や税法上のいくつかの優遇(細部省略)
を受けるなどの特権と名誉を与えられ、支配層を形成した。
5)これらとは別に、士大夫したいふという用語がある。古代中国の 5 つの身分(天子・諸侯・大夫・士・庶
民)の庶民のすぐ上の支配階級を指す士と大夫が語源。儒教的教養を身につけた知識階級あるいは読書
人を広く指し、宋代以降は、実質上「科挙出身の文人官僚」を指すことが多い。少なくとも宋代におい
ては、官戸形勢戸は士大夫に包摂される。士大夫の方が広い概念であり、学者、文化人などはすべて士
大夫であり、それは清末まで続くから、中国の文化は士大夫の文化であると言っても過言ではない。
宋の衰退と新法
国防・外交費、官僚組織を維持する経費が増大し、財政難となる。
1)11世紀後半 第6代神宗位 1067-85
は 【10:
】任 1070-1076 おうあんせき を宰相に起用、改革を断
行した。・・・・断行した諸政策をまとめて、単に「
【11:
】」と呼ぶ!
目的は、(ⅰ)自作農や小商人の保護、(ⅱ)財源の確保、(ⅲ)国防力の強化。 富国強兵!
新法 ①青苗法(せいびょうほう)・・・小農民に穀物や資金を政府が低利で貸し付ける。
②市易法(しえきほう)・・・・・中小商人の売れ残り買い上げ、低利融資。
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③募役法(ぼえきほう)・・・・・労役奉仕を金銭で免除、希望者を雇う報酬にあてる。
④均輸法(きんゆほう)・・・・・特産物を政府が買い上げ不足地に転売
⑤方田均税法(ほうでんきんぜいほう)・・・土地の良否に応じて税を課する。
⑥保甲法(ほこうほう)・・・・・傭兵制に代わり民兵を組織的に養成する。
⑦保馬法(ほばほう)・・・・・・民間に軍馬、官馬を与え平時は農耕に使役することを認めた。
≪頻出≫世B受験者は上記7つの「新法」を正確に記憶せよ。
2)大地主、大商人の利益を代表する官僚たち(旧法党)に阻止され、王安石は失脚。1086 年、旧法復活。
その中心は、【12:
】1019-86
『資治通鑑』しじつがん の編纂者である
その後も「党争」はつづき、国政は混乱した。
新法党 VS 旧法党
南宋の建国と金
1)1127 年【13:
】建国
1279 年クビライに滅ぼされるまで存続。
徽宗(上皇)の9男、欽宗(皇帝)の弟、高宗 位 1127-62 が、「靖康の変」を逃れ、臨安(現 浙江省杭州)を
都として建国した。誰が正統な継承者かを問題にする正閏論せいじゅんろん が喧やかましい時代であったため、
即位の手続きの正当性に疑問があるとされ、混乱が続いたが※1、1132 年にようやく首都を臨安に定め
南宋の統治体制を確立するに至った。
高宗は金軍の南下を恐れる和平派の皇帝であった。1138 年、和平派を代表する秦檜(1090-1155 しんかい3年
間金に抑留されて帰還したので金の実情を熟知)を宰相に任用し、同年、金と和睦条約を締結した。
このため金との戦争に命をかけてきた主戦派の岳飛 1103-41 がくひと対立し、1141 年には岳飛を無実の罪で
処刑した。秦檜は、1142 年、紹興の和議 しょうこうのわぎ を結び、正式に大散関~淮河ラインを国境に定め
た。 ※2
このラインは地理学上、華北の畑作地帯と江南の水田地帯との境界とされる。
この紹興の和議で、中国史上初めて、中国の王朝(南宋)が遊牧民族の国家(金)に対して臣下の礼を
とり、金品を贈るも、約 100 年の経済的繁栄を得た。高宗の統治後半は金と再度和睦条約を締結し外敵
の侵入を防ぐ一方で、江南の開発を進めた。
金には臣下の礼をとり、モンゴル帝国の攻撃には長江、淮河ラインで防衛してきたが、1276 年、元に臨
安を占領されて降伏し、残存勢力も 1279 年に滅んだ。
2)紹興の和議で淮河以北を確保した金は、都を燕京(=中都大興、現 北京)に遷し、中国流の統治体制を
取り入れた。漢字と契丹文字から、【14:
】を作った。紙幣である交鈔 こうしょうを乱発。
モンゴル軍に攻撃され、都を汴京(べんけい 現 河南省開封)に移して抵抗したが、1234 年、モンゴル軍、
南宋軍に挟撃され、滅亡した。
高宗、兄(欽宗)の帰還を拒否る!!
1127 年の靖康の変で、上皇徽宗とその子で皇帝の欽宗は、后妃、皇族、貴族ら約3千人ともに金軍に連れ去ら
れ、1130 年以降は五国城(黒龍江省依蘭県)に抑留された。生かしておくということは必要なら帰還させるとい
うことだ。1127 年、欽宗の弟、趙構(高宗)が南宋を興すと、即位の正当性が疑われ、統治が安定しなかった。
すると、金の側から、兄である欽宗を送還しようかと申し出て来た。高宗はそんなことをされたら、自分は帝位
簒奪者さんだつしゃとみなされ、ますます皇帝権力が動揺すると考え、高宗は金に欽宗の抑留を継続する要望を婉曲
に述べ、それは受け入れられた。その一方、高宗は自分の正妻、憲節皇后の帰還に関しては積極的であったが、
彼女は五国城で病没してしまった。なお、画家としても名高い徽宗は 1135 年、五国城で病没した。
欽宗はよほど帰還したかったようで、高宗の生母である韋夫人が南宋へ帰還する際に、自分も南宋に帰還でき
るよう高宗に依頼してくれと、涙を流して嘆願したという。欽宗はその後も 30 年以上にわたって東北に監禁され、
1161 年、五国城で 61 歳で病没した。その後、欽宗の子孫は殺害され断絶した。
※2
岳飛がくひは国民的英雄で、秦檜しんかいは売国奴! ホントに??
臨安(現 浙江省杭州)に、金との戦争に命をかけた将軍岳飛の墓がある。岳飛は、農民の出身であるが勇猛果
敢な武将で金も彼の軍の精強を恐れた。その墓の向かい側にうずくまるのは、鉄格子の中で鎖につながれ謝罪し
ている当時の宰相秦檜しんかい夫妻の像とその家臣の像計4体である。なぜか銅ではなく鉄製。売国奴とののしられ、
打たれ続けたため、像はすり減っている。宰相秦檜は、金との和平を推進し、「紹興の和議」を結んだ立役者であ
る。金との徹底抗戦を主張する岳飛がくひを捕らえ、1141 年に無実の罪で殺した。岳飛の冤罪は後に晴らされ、1221
年に廟が建てられた。現存する岳飛の像は、彩色され大きく美しい。今日、岳飛像は別の建物にもう一つあり、
こちらには「民族の光」と書いてある。このように、岳飛は民族的英雄と祀られ、約100年間の平和と経済的
繁栄を確保した秦檜は鎖につながれている。現代中国では、このような人物評価は歴史的に課題があるという説
が有力化しているが、中国全土からやってきた観光客たちは岳飛の墓を拝み、秦檜夫妻の銅像(鉄像)の頭を手
で叩いている。「つばを吐きかけるな」という掲示まである。
※1
【
】記入例
1:女真族
8:形勢戸
2:完顔阿骨打 3:猛安・謀克制 4:靖康の変 5:趙匡胤 6:文治主義
9:佃戸 10:王安石 11:新法 12:司馬 光 13:南宋 14:女真文字
7:殿試
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