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10号 - 北海道医師会
こ弱心岳︼ ● ′ 第 10号 1989 室 蘭 市 医 師 親 交 会 誌 イ ン ド雑 感 児玉 上田 直彦 智夫 阻 大岩 澤山 大島 銀 屏風 から ハルカラ モイ︶ 加藤 治良 表 紙 ︵ カ ット 竹内 隆 一 昌生 室星 勝彦 大久 保洋平 三村 博 通 小 國 親 久 村井 ス 乙 加藤 治良 高 橋 則 夫 高 島 信治 安斎 哲 郎 ⋮加藤 治良⋮⋮⋮⋮⋮ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮阿部 昭治 ⋮⋮⋮ 高 橋 陽夫 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮高 田 芳朗⋮⋮⋮⋮。 次 十 年 一流 れ し , 茂 く く す 青木 1 8 11 指 紋 と遺 伝 情 報 ﹃ 扶 氏 医戒 の略 ﹄ 座 談 会 閑吟風流抄 ︱︱室 町 小 歌 編集 屋 蜘 15 18 21 目 聴 私 と 政 治 ⋮⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ 斉 藤 修 弥 ウ ィ ー ン の寅 さ ん ⋮⋮ ⋮ ⋮上 田 智 夫 康 夫 。 室 江 蘭 隆 一 一 ︰序刊内中 ︰・ ︰・ ︰・ ︰・ ︰。 ︰・ 住0﹁ 電︶ Cコ戸市 ・ 純 血教育 黒 光 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮加藤 治良 医師親 交会旭 川旅 行 記 ⋮⋮ 斉藤甲斐之助 快晴 の旭岳 平成 元年親交会旅行 会 員 異動 編 集 後 記 28 35 37 40 田 芳 朗 日本 や 日本 人 のそれ と は対照 的 で馴染 み にく いと聞 いて いたが ど 。 意外 にも 三十 階、 四十 階建 ての高 層ビ ルが林立 し て いる 今 日 で は ヨー ロ ッパはも とょり、世 界各 地 から直 行便 が多数 乗 り入 れ て いると いう こと であ る。 、 昨年 十 一月 に、 ボ ンベイ で アジ ア産業 保健学会 が開催 され イ ンドを 訪問す る機会 を 得た。イ ンドは仏教 の生 まれた先進国 であ 、 、 一度 は訪問 し てみた い国 であ った。気 候 風土 生 活 な どは り、 下粋耳 高 り ボ ン ベ イ 駅 前 通 初 め て のイ ン ド訪 問 、 大 阪 から延 々十 四時 間 の長く て退屈 な空 の旅 の末 に や っとイ 、 ンド のボ ンベイ に着 いた。空 港 に降 り ると 十 一月だ と いぅ のに 、 蒸 し暑 い空 気 が 一面 にただ よう 。 ホ テ ルは 一度聞 いたら忘 れな ダ ー と いう ボ ン ベイ の 一部 にあ り 、 ホ テ ル のす ぐ 近 く には 黄 褐色 の玄 武 岩 で で き た大 き な ″ イ ンド 門 ″ が あ る。 イ ンド 問 は ボ ン ベイ の西 岸 に建 ち 、 大 英 帝 国 の勝 利 の名 残 り を と ど め て 今 も そ の威 容 を 誇 っ て いる。 こ の附 近 を って こ こを 吹 き抜 け 散 策 す ると 、海 を 渡 ボ ンベイ は 世 界 で る 風 が 涼 し い。 も 有 数 の大 都 市 で、 1 - 一流 ホ テ ルで、 アポ ロ ・ブ ン い名 前 のタージ ・マハル ・ホ テル。 タージ・マハル・ ホテル (左 )と インドF日 ー には世 界的 に有 名 な石窟寺 院 があ る。イ ンド の僧 侶 たち が何 百年 も の歳 月を かけ て彫 った と いう 、 これら の石窟寺 院を ぜ ひ見 た か った。 -2- 原 ン 高 カ デ P(■ ― 司ホ η4 > つがケろ> 。 , イ 子 く 〒 ‐ Jゝ エロー ラ、 アジ ャ ンタは デカ ン高 原 の西 側 にあ る小村 で、 ここ rfa 訪 問 し てみ て、先ず 感 じた のは極 端 な貧富 差 と衛 生状 態 の悪 さ ビК,工 t rし 女 王 の ネ ック レス と呼 ばれ るマ リン・ ドライ ブ (ボ ンベ イ) ア カ ン 高 原 を γ であ ったが、 レセプ シ ョンや パ ーテ ィで出会 ったイ ンド の人 々は 寛大 で礼儀 正 しく 、謙虚 な印象 を う けた。 さすが に仏教 の国 の故 であ ろう か。 芍.4■ 71r7欧 、 ボ ン ベイ か ら アウ ラ ンガ バ ー ド ま で は か り に墜 落 し ても 決 し 、 て不 思 議 でな いよ う な イ ンド国 内 航 空 の中 古 識 行 機 に乗 り ア ウ 、 、 ラ ンガ バ ー ド か ら エ ロー ラ アジ ャ ンタま で は これ ま た 小 さな 。 オ ンボ ロタ ク シ ー に乗 って デ カ ン高 原 を つ っ走 った デ カ ン高 原 は 、 お世 辞 にも 肥 沃 と は 云 え な い広 大 な 平 野 の処 ど 、 ころ が 丘 陵 にな って いる。 平 地 には 糸 の よ う に細 い川 が 流 れ て 、 そ の周 辺 に は多 少 の草 本 が 生 え て いるが そ のほ か は 小 さ な 灌 木 が 点 々と 見 え るだ け であ る 。 こ の大 き な 丘 陵 の上 は ど う な って い 、 る のだ ろ う 。 た ま た ま ク ル マで丘 陵 の上 に登 る と こ こも 平 地 と 。 全 く 同 じ よう に道 が あ り 、 細 い川 が 流 れ て灌 木 が 生 え て いる 小 。 さな 小 屋 が あ って、 度 せ た 牛 が 時 々見 ら れ る 、 北 海 道 で これ だ け走 る と 、 さ しず め 有 珠 山 あ り 昭 和 新 山 あ り 、 そ し て洞 爺 湖 を 望 む 景 観 が楽 し め る のだ が イ ンド で は そ ん な わ 、 一時 間 前 の景 色 も 、 今 の景 色 も 一時 間 後 に見 け に は いか な い。 。 る であ る う 景 色 も 、 た だ た だ 大 平 原 が 広 が って いるば か り でぁ る 、 アジ ャ ンタ に予 約 し た ホ テ ル で 一休 み し て か ら ご 凩に エ ロー 。 ラ、 アジ ャ ン タ の両 方 の石 窟 寺 院 を 訪 れ る こと にし た 山 を彫 って造 った 石窟 寺 院 。 エロー ラは、 アウ ラ ンガ バ ード の北 西約 二〇 キ ロにあ る小村 、 ャ 丘 の中 腹 に二 ・五 キ ロにわた って広 が る石窟寺 院群 は アジ ン 。 タと とも にイ ンド宗 教芸 術 の至宝 と いわれ る 、 ャ 、 三十 四 の洞窟 があ って、 それぞ れが 仏教 ヒ ンズ ー教 ジ イ ナ教 に分 かれ て いる。 最も有名 な のが第十 六窟 のカイ ラーサナ ー タ寺 院 で、 三百年 の歳 月を かけ て山を 彫 り抜 いて造 った寺 院 であ 、 っ る。他 の窟院 の横穴式 とは異な り 山 の真 上 から掘 り下げ て造 た。 のみと金 槌 で掘 り出 した石 の量 は 二〇万 ト ン以上 に のぼ ると いわ れ る。 気 の遠 く な る よう な 時 間 の中 で、 ど ん な に苦 労 し て彫 った も の か 。 寺 院 の回 廊 にあ る踊 る シヴ ァと か 、 シヴ ァ と パ ー ルヴ ァテ ィ ー の結 婚 の場 面 な ど が 素 晴 し い。 アジ ャ ンタは 、 ア ウ ラ ンガ バ ード か ら 北 に約 一〇 〇 キ ロの 3 地 点 にあ る。 アジ ャ I型 一 ンタ に は 、 紀 一 世紀 か ら 七 世 紀 に か け て、 ワ ーグ ラー河 。 沿 いに造 られた雄大 な洞 穴 仏教寺 院 群があ る 二十 九 の洞窟 があ 、 って、中 の壁 画 や彫刻 が当 時 の女性 や宮 廷 生活 仏伝 な どを詳細 に伝 え て いる。 とく に第 一窟 では、 仏陀 の前 生物 語 から題材を と った宮 廷 で会 話す る王 と王 妃 とか、豊 かな胸 と ソフトな曲線 美 の女性 たち の壁 、 画 があ り、 それ ら の如何 にも チ ャーミ ング な顔 だ ちな ど 時 代を 、 。 超 えた魅力 を誰 でも感 じ る のではな かろう か ほん とう に イ ン 。 ドが世 界 に誇 る遺 産 であ ると云 ってよ いだ ろう 蛇 足 にな るが、 この石窟寺院 は 人世紀 ご ろ仏教 の衰 退 ととも に 、 忘 れ去 ら れ、密 林 に覆 われ てしまう が 一八 一九年 に狩猟中 の英 。 国 軍 人 に発 見 され て 一躍有 名 にな った エローラの第 16窟 寺院 カ ー ス ト 制 度 こば れ 話 ても誰 も文句 を 云わな い。 早 い話が 、 一枚 の布 を腰 に巻 いてさえ いれば よ い。あ る いはまた、 七十歳 の老婆 が真赤 な サ リ ーを まと っても少 しも おかしく な い。 し かしイ ンド には、 人間 の基本 的な イ ンドは自由 の国 であ る。何を着 ても よ いし、裸 で道 路を歩 い アジ ャンタの洞穴寺院 自由 を束 縛 す る社会 のしく み ″ カ ー スト制度 ″があ る。 イ ンド人 の多 く は、自 分 の この世 のす べては前 世 の結果 であ る と思 って いる。良 い境 遇 の子 とし て生 まれ る のは、前世 でたく さ ん善行 を積 んだ 結果 であ り、そ の逆 の場合 は前世 で悪 行を積 んだ 報 いであ ると思 って いる。 した が って底 辺 の階級 に生 ま れた人 は、 この世 ではどう しよう も なく 、来 世を 期待 す るだ け し か許 されな だ からイ ンド の人 々は、良 い来 世 に恵 まれ るよう 、 この世 で の し て拭 こう と は し な い。 そ れ ぞ れ の担 当 床 が 汚 れ て いても 決 置 か れ た ま ま にな る。 ま た 、 学 校 の先 生 は い つま でも 机 の上 に が来 な け れば 書 類 は ン ︵メ ッセ ンジ ャ ー ︶ き を し よ う と 思 って も 、 書 類 を 運 ぶピ ョ 所 へ行 って何 か 手続 あ るが 、 た と え ば 役 何 か で読 ん だ 話 で 命 働 いて いる。 小 さ い子 供 ま でが 知 恵 を し ば って 一生 懸 行 いを大 切 にし、 それぞ れ の立 場 で必死 に働 き生 き る のであ る。 が いる か ら であ る 。 カ ー スト 制 度 は 、 社 会 を 分 断 す る シ ス テ ム のよ う に考 え ら れ て イ ン ドの街 頭床屋 (ジ ャイプ ール ) いるが 、 同 時 にイ ンドを 統 合 す る シ ス テ ム でも あ る。 洗 濯 人 も 床 -4- ! F― ―i■ 、 司祭 ︶も 、 みんな全 イ ンド的規模 で そ 屋 も 、商 人も バ ラ モ ン ︵ 。 の社会 のしか る べきと ころ に位置づ けられ て いる 。 ﹁ カ ース 通 訳 のイ ンド人 の ラ マさんが こんな 話を し てく れた 、 ト制度 の最低 の階層 は乞 食 と いう こと にな って いる。 しかし 実 はそ の下 にもう 一つの階 層 があ る のです 。 それ は、 田合 から乞 食 、 にな ろう と 一念 発起 し て都会 に出 てく る。 し かし武 運拙 く 食 物 にあ り つけ なく て途中 で飢 え死 にし てしまう 。 これが最低 の階層 な のです﹂ と いう こと であ る。 乞 食 に施 しを す るな 。 イ ンド の貧 し さは鮮 烈 であ る。到 ると ころ に乞食 が いる イ ン ド の乞 食 に施 しを す るな 、も し施 しを す れば き っと後 悔 す ると注 ともなく数 人 の大 人 ︵の乞食 ? ︶が現 わ れ て ﹁ケ ンキ ン﹂ と か ﹁ キ フ﹂ と か片 言 の日本 語 で云 い寄 り 、 瞬 く 間 に財 布 か ら 数 万 円 を 引 き抜 か れ て し ま った 、 と いう こ 一体 彼 ら と であ る。 は 、 わ れ わ れ にも 分 ら な い、 得 体 の知 れ 献 金 ﹂ の こと ない ﹁ を 知 って いる の であ ろう か。 イ ンド の乞 食 に は 手 足 のな い人 が 多 い。 ラ マさん に聞 いたら親が子供 の手足を 切り落とす例も少なくな い 一生涯乞食をす るのだから、如何 にしたら多く の施 しを と いう。 受けられるか、考えた末 の知恵な のであろうか中なんとも哀れな 話 であ る。 イ ン ド カ レ ー と イ ン ドビ ー ル 、 イ ンド料 理 と いう とすぐ カ レー ライ スを 思 い浮 か べるが カ レ 、 ー ライ スだ けがイ ンド料 理 ではな いし だ いいち 日本 のカ レー ラ 。 イ スと本 場 のそれ とは かな り違 う ようだ イ ンド には長 い伝統 に つち かわ れた独特 の料 理が いろ いるあ る 、タ ら し い。 ボ ンベイ のホ テ ルでは、 これぞ イ ンドカ レーと いう - 5 - 意 された。 と にかく、 ち ょ っと街を歩 く と必らず 数 人 の子供 が ま つわり つき、 ﹁ア ・ルピ ー ︵一〇 円 おく れ ︶﹂ と云 ってど こま で も ついて来 る。ポ ケ ット には、 こんな とき のため に 一ルピ ー札 が 沢山 入れ てあ る。気 前 よくば ら まきた い気 持を 抑 え て ﹁ノー ノー﹂ 。 と い って振 り払 う が、あ ま りよ い気 分 ではな い 、 、 アーグ ラでわれ われ のバ スが止 ま ったと き に 赤 子を背負 って 。 さら に 一人 の子供を 連 れた お母 さん乞 食 が バ スの窓 ぎ わ に来 た 何も食 べて いな い。 お腹 が空 いて倒 れ そうだ ﹂ 身 ぶり手 ぶり で ﹁ と訴 え て いる。丁度 い い、 日本 から持 って来 た上等 のお某 子 が 一 袋 あ った ので与 えた。 す るとどうだ ろう 。少 しも嬉 し い顔を しな 、 いで ﹁ 何 んだ こんな も の﹂ と云 った かどう か プ イ と開きな お っ 。 て袋を 子供 に投げ 与 え、 こん どは別 のバ スの方 へ行 ってしま った この程度 ならまだ よ いが、以下 は同 行 の教 授先生 の体験 談 であ 、 る。乞食 の子供 達 があ ま り可哀 いそう な ので とう とう財 布を と 、 ど こから り出 し て何 ルピ ーかづ つ与 え よう と した。す ると突 然 子連 れの乞 食 (ア ー グラ) ‐,, ‐ ユ ロ ト半 →∼イ 11レ 羊沿 'ヽ タ ー リー に盛 りつ けた カ レー セ ッ ト 、 るう ち に、 き っと この味 の虜 にな ってしまう のではな いだ ろ う か と思 った。 、 イ ンド にはジ ャイ ナ教徒 のよう に 肉を 食 べず に菜 食 し かしな い人 が多 いが、 イ スラム教徒 は肉食 であ り、 ヒ ンズ ー教徒 はそ の 両 方 に分 かれ る。肉食 の場合 でも 、牛 は シヴ ァ神 の神 聖 な乗 りも のな ので食 べな い。 ま た、 イ スラム教徒 は豚を 不浄 な も のとし て 食 べな い。だ から、イ ンド で食 べられ る肉 は マト ンと チキ ンと い う こと にな る。イ ンド の街中 を 、持主 の いな いノ ラ牛 が我 がも の 顔 で歩 いて いる のも頷 かれ る。 さら に菜 食者 は魚 や卵を 食 べな いらし いが、牛 乳 と乳製 品 は好 ん で 口 にす る。唯 一の重要 な蛋自源 であ る。 ついで に菜食 者 料 理 で野菜 カ レーと いう のがあ るそうだ 。 どんなも のか見当 も つかな いが、種類 も多 く大 へん美味 し いら し い。前述 のセ ット料 理 の野 菜 カ レーは、 カ レーと いう より は 野菜 の コ コナ ッツ和 え のような 味が した。 。 イ ンド では生水 は絶 対 に飲 ん では いけな い 日本 のよう に消毒 殺菌 された水 道 が完 備 し て いな いから であ る。 屋台 にはジ ュー ス 、 も コー ラも ミネ ラルウ ォー ターも売 られ て いるが これも絶 対飲 むな と注意 された。 メlヵ l の瓶 を使 って、中 味 は手製 が多 いか ら であ る。 仕方 が な いので各 人が魔 法ビ ンかジ ャーを 用意 し て、 ホ テ ルの 朝食 ど き に 一日分 の沸騰 した湯を つめ ても らう。 そ の中 に紅茶 か ウー ロン茶 のパ ックを 一袋 入れ て、 チビ リ チビ リ飲 む とけ っこう イ ンド のビ ー ルは実 にお いし か った 盆 に碗 のよう な器が 七 つ並 べてあ る。 この器 にはそれぞ れ にト マ ト スープ、 チキ ンカ レー、 マト ンカ レー、 ブ レー ン ヨーグ ルト、 野菜 カ レー、ダ ー ルカ レー、米粉 のプ デ ィ ングな どが 入 って いる。 このほか に盆 には タ ンド リ ーチキ ン、 ナ ー ンか チ ャパ ティのパ ン った ろう が、 と にかくう まく て 一日 二本 ぐ ら いづ つ注文 し て飲 ん ど に。 美 味 し い。 イ ンド の飲 みも ので、 胃腸 の弱 い日本 人が飲 ん でよ い 、 のはビ ー ルだ け。 日本 ではビ ー ルを好 ん で飲 む方 ではな か ったが 。 のどが乾 いて いる せ いもあ 類 が盛 られ てあ り、 これら のパ ン類 をち ぎ って碗 のタ レを つけ て 食 べる のであ る。 お いしか った かと聞 かれ るが、何 回か食 べて い 6 ,4 十―レ 、午ヤ ― ・午キレ , ク>ぃ ︱リー に盛 り つけた セ ット料 理を賞 味 した。 ターリーとは金 属 の 世 。詢 yイ れ ′ 1(ラ ρ 一η >,い ,9→ y r や` ア 哺 ,=夢 買 い物 は掛 け合 いで始 ま る イ ンド で買 い物を す るとき は大 へん厄介 だ 。 ほとん ど の商 品 に 正 札 な ど ついて いな いから掛 け合 いにな る。 シ ャ ツ 一枚 買う にし ても 、高 いからまけ ろと頑張 らねば な らな い。 とく に外 国 人 には 高 い掛 け値を 云う らし い。努 力 と時 間 が 必要 にな る。 ふ つう は云 い値 の半額 ぐ ら いから掛 け合 い、七掛 けぐ ら いで商 談成立 す れば 成功だ と いう 。土産物 にはド ルの値 札 が ついて いるが、同 じも の て いた。夜 の九時出 発予定 の飛行機 が 、例 によ って四時 間 も遅 れ た お かげ で、 こ のホ テ ル で行 わ れ た 結 婚 式 を ゆ っく り 見 る こ 結 婚 式 は 夜 の七 時 とが で きた 。 頃 か ら 始 ま る予 定 で あ る。 そ の少 し 前 に な った ら 、 ラ ッパ や 太 鼓 の楽 隊 を 先 頭 に 成 勢 の よ い花 火 を 鳴 ら し て、 数 百 人 の行 列 が ワイ ワイ 騒 ぎ な が ら 、 ホ テ ル の広 い 列 は 上 等 のサ リ ー で 庭 に 入 って来 た 。 行 盛 装 し た御 婦 人 が 多 続 く ことが あ り、若 いカ ップ ルにと っては 二人 きり にな る のが待 ち遠 し い。イ ンド では九 五% が見合 い結婚 で、離 婚 は 一万 人 に 一 ふ つう と され て いる。結婚式 や披 露宴 は所 によ っては延 々何 日も ったイ スには花 嫁花 婿 が座 って式 が始 ま る。豊 穣 の印 のお米 が ま かれ た り、 お金 が積 まれ たり、 いろ いろ セ レ モ ニーがあ る。 、 イ ンド には さまざ ま な宗 教 の人が いて 結婚式 のや り方 が 異 る だ ろう し、同 じ宗 教 でも 、 カ ー ストや地域 によ って いる いる であ ろう。大 て いの場合 、花 嫁 側 が花 婿側 に多額 の贈与金 を出 す のが いから、多 分良 いと ころ の結婚式 であ ろう 。 庭 には舞 台 が組 ん であ って、当 然 の ことなが ら最上段 の花 で飾 イ ン ドの 結 婚式 (ジ ヤイ プール) 人 と いう から立派 であ る。 花 嫁 は 日本 とち が い、表情 が豊 か で、終始 に こに こし て愛嬌 が -7- が店 によ って倍 も値 段 がち がう 。 つま り この場合 は、安 い方 はあ ま り値 引 きしな いが、高 い方 は根気 よく掛 け合 えば 半額 ぐ ら いに な る。だ からイ ンド の買 い物 は疲 れ る。 。 イ ンド の屋 台 でバ ナナを 一房 買 った ら五〇円だ った 計算 した ら バナ ナ 一本 が 三円 にし か つかな い。物価 は安 いが 、 そ の代 り給 円に 料 も安 い。 ラ マさん に聞 いた ら、 イ ンド人 の平均 の月給 は ︵ 一般事 務 貝 は 換算 した ら ︶ド クターが 三万 円 、 ナ ー スが 二万円、 一万円 、 タ クシ ー の運転 手 は七千 円ぐ ら いだ そうだ 。 この給 料 は ぜ いたく さえ しな ければ 結構 生 活 でき ると いう 。 この国 で マンシ ョンや アパートを 買う とな ると驚 く ほど高 い。 ふ つう の マンシ ョ 一番安 いアパ ート でも ンは 一億 円 で、庶 民 には全く 手が出 な い。 娘 の 結 婚 式 一千万 円 はす るそうだ から、 結局 は地面 にゴザを敷 いた り、 テ ン トを張 って生 活す るし かな いこと にな る。 ヽ ジ ャイ プ ー ルで ア ンベ ー ル城 や天文 台 、博物館 を 見 た帰 り に、 アンベー ル城 の別荘 であ った シ ティパ レ ス ・ホ テ ルでひと休 みし 親 は 頭 が 痛 い い い。額 に つけた真赤 なビ ンデ ィ ︵田す辟 ︶が よく似合 い印象 的 だ った。 余談だ が、 このビ ンデ ィは、最 近 では フ ァ ッシ ョン化 し てサリ ー の色 に合 わ せてブ ルーや緑 、ピ ンクな ども好 ん で つけ ら れ る。 ただ未亡 人が つけ る ことは許 されな い。だ からガ ンデ ィ首 相も つけ て いな か った と いう 。 と ころ で、 褐色 の肌 の女性 にま とわれ、 風 にそ よぐ サリ ーほど 魅 力 的 なも のはな い。あ の華 や かな サ リ ーは い った い幾 らく ら い す る のだ ろう。大 て いは 一万 円 ∼ 二万円 で買 え るそうだ が 、 ホ テ 象幸 な のは三万円 ∼五万円 であ った。も ルのウイ ンド ウ にあ った一 ち ろん格安 のサリ ーもあ るだ ろう。 日本 の着物 が そう であ るよう に、 サ リ ーもピ ンからキ リま であ るら し い。 ラ マさん によ ると、 ﹁ 最 近 の若 い女性 はあ ま リ サリ ーを 着 な いが、年 頃 にな ると おし ゃれを し て着 るよう にな る。娘を嫁 入 り さ せるとき は親 は頭 が痛 い。持 が金 のほか に、 サリーを 一〇〇枚 ぐ ら い持 た せる のが ふ つ 一カ月分 の給料 でサリ ーを 一枚 買 前述 のよう に、 うだ からだ 。 ︵ え るかどう かだ から大 へん厳 し い話 であ る。 ︶ この頃 は サリ ーよ 橋 陽 夫 りも、 日本 製 の スクー ターを 持 って来 いと いう若 者 も いるそ うな﹂ と云 って大声 で笑 って いた。 高 人 は胎生 五 カ月位 です で に、十 指 にそれぞ れ名 札が付 け られ る と いう 。 これ は自 己 と非 自己を 区別 し、自 己が絶 対 唯 一の存在 で あ る ことを 示す独特 固有 の手段 であ る。名札 す なわち指紋 は、 万 一卯 生双 生児 で 人 不同 また万 指 不同 、終 生不変 一生 不減 であ る。 も同 じ指紋 はな いと いわれ て いる。身 体髪膚 五臓 六腑 に ついても 、 機 能 こそ互 いに似 ては いるが 、自 己 と非自 己が厳 重 に区別 され 更 に臓 器形 成細 胞 に ついても、更 にまたそ の細 胞 が持 つ遺伝 情 報 に ついても 、自 己 と非自 己が徹底 的 に区 別 され、自 己 と非自 己が 互 いに全 く同 じと いう ことはあ り得な いのであ る。自 己 は絶 対自 己、 非自 己 はまた絶 対 非自 己 であ る。 したが って自 己 と非自 己 の 交換 、自 己 と非自 己 と の合 同合 体 はま た全 く不 可能事 に属 す る の であ る。 ま こと に天 の摂 理 と申 す べき であ ろう 。詳細 に検 討す る な らば 、各臓 器 の表面 にも、他 人 の臓器 と間違 わ れぬた め でもあ ろう か、 自 己固有 の指紋 に似 た名札 な らぬ紋 様 が 発見 され る ので はと思 われ る。 指紋 の発生 には遺 伝 性 があ ると いわれ て いる。 したが って指紋 発生 は遺 伝 情報 に支配 され て いるも のと思 われ る。 す で にまた精 細胞 す な わち精 子 のも つ遺伝 情報 には同 じも のは全 くな いと いわ れ て いる。 これ は同 じ自 己す な わち同 じ独立 し た唯 一の存 在 はな いことを 示 し、個体 はそ れぞ れ皆 独立 した唯 一の存 在 であ って互 に他 人互 いに異物 であ る ことを 示 し て いる のであ る。 人体 は、 それぞ れ の遺 伝 情 報を も ち、 それぞ れ の目的をも った 細胞 同士 が 、秩序 よく配列 した集合 体 であ る。細 胞 と細 胞 が集合 接着 す る には、細 胞 同士を つなぐ な んら か の物 質 が存 在す るはず と いう こと で、 ついに京 都大学 竹内 教授 らが発 見 した細胞 と細胞 を つな ぐ物 質す な わち細胞 問接着物 質 すな わち カド ヘリ ンの存 在 はす で に周 知 の事 実 であ る。 この物 質 は細胞 の表面 にあ る 一種 の 接着 剤 のよう なも ので、同 じ型 のカド ヘリ ンを も ち同 じ遺伝 情報 を も つ細 胞 同士 は互 いにく っつく が、 異な る型 のカド ヘリ ンを も ち異 な る遺伝 情報を も った細胞 同士 はく っつかな いと いう こと で あ る。移植 臓 器が生着 す る には先ず 互 いの組織 細胞 が接着 しな け れば ならな い。 カド ヘリ ンは生命 の設計 図 であ る D NA によ って -8- 、同 じ 遺 伝 情 報 の支 配 の下 に、そ れぞ れ の細胞 で つく ら れ る蛋白質 と い われ て いる。 切創 が治癒 す るには、 まず 創 縁 と創 面 にあ る細 胞 同士 が 遺 伝 情報 の下 に分裂増殖 し、 次 いでカド ヘリ ンが作 られ、互 いに 接着癒 合 し て いわ ゆ る自然治慮 を 果 たすも のと思 われ る。 この治 癒 過程 は自給 自足 、自力 本 願、 凡 て自 前 、 ま こと に肉体 組織 の神 秘 的特 質 と申 す べき であ る。 この自然 治慮 作 用 に こそ外科 手術 の 可能 性 の根本 があ り、反自然治意 作 用 に こそ互 いに異物 であ る移 植 臓器 の癒合 不 可能性 の根 元があ るも のと思 わ れ る。 次 に移 植 臓器組織細 胞 の相互 接着癒 合 の こと であ るが、組織道 合 諸検 査合 格 の下 に、 ド ナ ー の臓 器す な わち 心臓 は レシピ エント の所定 の局所 に吻合 され て、接着癒合 が期待 され る のであ るが、 ド ナ ーと レンピ エントはも とも と非自 己同士 、互 いに他 人 であ る。 したが って相 互 の局所 の細 胞 はそ れぞ れ異 った遺 伝 情報 を も ち、 生産 され るカド ヘリ ンの型も互 いに異 な って いる ので相互 の組織 細 胞 は接着癒 合 しな いこと にな る。 ただ密 に縫合 され て いるだ け であ る。す なわち接着慮 合 した か に見 え るが 、 それ は偽 似 の癒 合 であ って本来 の癒 合 ではな くや が て互 いに分離 す る運命 にあ るも のと思 われ る。 次善 と最善 、 最書 と万全 の間 には移植 不適合 抗原 が残 って いる こ と にな る。 この残存 の組織 不適合 抗原 が ま た問 題 であ る。 すな わ ち この残 存抗原 が宿 主 ︵レンピ エント ︶と の間 に拒絶 反応を 起 し 、 てく るも のと思 われ る。 この拒絶 反応 は抑 制剤 サイ ク ロスポ リ ン 、 副腎 皮質 ステ ロイ ドな ど に依 って抑 制 され る のであ るが 完 全 に は抑 制 されず 小康 状態 に入 る のであ る。す な わち 拒絶 反応 の可能 性 は 一時休止 す るが潜 伏 す る のであ る。 臥薪 嘗 胆、 二年 二年更 に 四年 五年 の内 に、俗土重来 、あ た かも残 り火が突 然 発火 し て大 火 焼失を 招 くが 如く 、突 然作 動爆 発 、宿 主 は、侵 入し て いるよそ者 の心臓 と共 に爆 死 す るも のと思 われ る。哀 れ にも残 酷物 語 一巻 の 終 わ りと申 す べき であ ろう 。も っとも急性 拒絶 反応 は移植 後 二週 0% 以上 は 一年 以内 に起 こると いわれ 間位 で出 現し、 拒絶 反応 の9 受精 卵 は母体 とは互 いに異物 関係 にあ るが、十 力月 の間 は子宮 て いる。 内 膜 に着床 、以後 胎 児完 成 ま で母体内 に滞 在を 許 され る。母体 と の間 に拒絶 反応 が起 こらな いのは、母体 自 らが これを 抑制 し、互 に融 通妥協 す る のかも しれな い。 し かし滞 在期 限が到来 す れば 、 陣 痛 ︶を 発動 し、自然 の非常 口から異 母体 は いよ いよ拒絶 反応 ︵ 出産 ︶す る のであ る。 物 の胎 児を排出 ︵ 心臓移植 では、 切開 口が 二重 二重 に縫合 され、やが で挿 入 回は 組織 細 胞 の自給 自 足自力 本 願 で接着慮 合 し、自然治癒 し て閉鎖 し、 次 に拒絶 反応を 回避す るため の移植 組織 適合 性検 査 であ るが、 数 あ る中 で、主要 組織 道合 抗原検 査 が重要 祝 され て いるら し い。 移 植 心は宿 主 の体内 に完 全 に閉 じ込 められ永久 に異物 とし て存 在 、 す る こと にな る。宿 主 の肉 体 は移 植医 の意 図 に極 力 抵 抗 折角 の 最後 と いう こと にな る。 同種 の樹木 は接 ぎ木 でよく活着 す る。鉄 は熔 接 で容 易 に撲 着 す く妥協 もな い。抑 制剤 の副作 用 は いよ いよ致命 的、 ついに悲 惨 な 移植 心を除 去 す る べく執 拗 に拒絶 反応を繰 返す が、そ の都度 抑 制 剤 で抑圧 され る。勿論 異物 排出 の非常 口はなく 、互 いに融 通 もな と ころが この検 査 は万全 でもなく 最善 でもなく 次善 の検 査 であ る。 す な わち移植 抗原 の凡 てが完 全 に 一致道合 す る ことが 理想 ではあ るが、 現実 的 には困難 と いう こと で、 万全 でも なく最善 でもな い 次善 の策 であ る この主 要組織道合 抗原検 査 が 用 いられ る こと にな って いる。大 体道合 す れば よ いと いう のであ ろう か。 万全 の策 で もな く 最善 の策 でも なく次善 の策 と いう と ころ に問題 があ る ので はな か ろう か。 人命 に関す る限 り検 査 は万全 でなく てはな ら な い。 9 -― ―- る。 それ は いず れも彼 ら の組織 構造 が単純 で、 そ の上拒絶 反応 が な いから でもあ ろう 。また それ は、若 し彼 ら に遺 伝 情 報 や カド ヘ リ ンがあ るとす れば 、 いず れも同 一同型 であ るから であ ろう 。 人 間 は反 対 に組織 構造 が複 雑 で、遺伝 情報 は互 いに相 異 し、 カド ヘ リ ンの型 は互 に不同 、そ の上 拒絶 反応を も って いる ので互 いに癒 合 す る ことはまず 不 可能 であ る。人 間 は本 でもなく鉄 でも なく 、 いわ ゆるホ モサピ エンスであ る。 感 染 症 、 リ ンパ腫 、急 性腎毒 性 、慢 性腎毒 性 、肝毒 性 、高 血 圧 症 、末 補神 経症、糖 尿病、白血 致減 少症 な ど以上 いず れ も拒絶 反 応抑 制剤 サイ ク ロスポ リ ンの副作 用 であ る。 このう ち感 染 症 が最 大 の副作 用 でほとんど が致命 的 であ る。 サイ ク ロスポ リ ンはま こ と に怖 い有害 薬 品 であ る。厚生省 は、な ぜ このよう な危険 を 争 む 薬 品を 使 用禁 上 にしな いのか不思議 でな らな い。も っとも この薬 品 は臓 器移植 には絶 対不 可欠 の必需薬 品 であ るだ け に、背 に腹 は 替 えら れな いので、都合 上 黙 認 し て いる のかも しれな い。 しか し 患者 は常 時戦戦恐 恐生命 の危険 を警戒 し て いな ければ な らな い。 し かしまた この薬 品を使 用禁 止 にす れば 、臓 器移 植 は お手上げ ご 破算 と いう こと にな り かねな いのであ る。進 退維 れ谷 ま ると でも し て いる。死亡 の原 因 は拒絶 反応 と感染 症 と いわれ て いる。 開年 4月 に渡 米 、翌 月 日本 人 とし ては 二番 目 に心臓移 植を 受 け て帰国 した牧 野太平 さん は、術後 九 二〇 日目 に悲 惨 な死 に方を し た のであ る。す な わち ﹁ 帰国後 の翌年 拒絶 反応 抑 制剤 の副作 用が 出 は じめ、肺 全体 が粟粒 結核 に冒 され、 やが て骨粗 慈症 で腰 骨 と 胸骨を 骨 折 し、 そ の後 併 発 の腎炎 も悪化 、 胃 の出血 、 カビ など に よ る肺感 染を 起 こし、 まもなく意 識 不 明 とな り死亡﹂ と報 道 され て いる。 心臓移植 適応 患者 は、 六 カ月生 き られ るかどう か生存 の可能性 0% 以下 のも のとな って いる。 したが って この道応 患 者 は、 心 が1 臓を移 植 しなく ても 生 きられ る期間が大 体 六 カ月 と いう こと にな る。 したが って いう と ころ の心移植 患者 の生存率 日数 は、当 然 の 六 カ月を差 引 いた 日数 が実 質生 存 日数 と いう こと にな る のではと 思う 。 したが って先 の宮 崎 君 の生存 八三 日は逆 に九 七 日寿命 を短 縮 された こと にな り、牧 野 さん は生存 九 二〇 日とな って いるが、 実際 には七 四〇 日生命 を 延長 した こと にな る。 心臓移 植後 の生存 は専 ら医薬 品 に依存 し て いる ので、自力 的生 延命 ︶ であ る。 した が って いう と ころ の 存 ではなく他力 的 生存 ︵ 生存 率 は延命 率 とす べき ではな か ろう か。統 計 には 一年 生存率 は あ るが 六 カ月生存 率 は見当 らな い。 これは、 心臓を移 植 しなく て 申 す べきか。 サイ ク ロスポ リ ンは角 を 矯 め て牛 を殺 す たぐ いの薬 品 ではな かろう か。 拒絶 反‘ 応 及び 拒絶 反応抑 制剤投与 によ る不幸 の転 帰 は、医 療 訴 る のであれば この六 カ月操作 は不要 であ る。 す なわち、患者 は生 も当 然 生 きられ る この六 カ月を そ のま ま 一年 生存率 の中 に算 入 し 訟 の対象 にな り得 る可能 性な しとは断 言出 来な いであ ろう 。 副作 用を 知 らず に投与 した のであ れば 、 まだ情状 酌量 の余 地 はあ ろう が 、万万 承知 の上 で の投与 であ れば 、未 必 の故意 と か で酌 量 の余 てしま って いる のかも し れな い。 したが って この 一年 生存 率 は六 カ月延命 率 とす る のが妥 当 と思 われ る。 心臓移植 の総本 山 スタ ンフォード大学 は、最 近 四年 間 の心臓移 0% 以上 と発表 し て いるが、 これは六 カ月 植 患者 の 一年 生存率 を 8 0% 以上 と書直 す のが妥当 と思う。 も っとも移植 心が レ 延命 率 は 8 ンピ エント の体内 に何 日 ひ っついて いた か移植 の当 日を 起点 にす 地 は全く なく、当 の外科 医 は全責 任を負 わ され、厚生省 も ま た責 任を 問わ れ る こと にな りかね な いのでは と思 わ れ る。 、 3 4年 8月 日本 で最初 に 札幌医 大 で和 田教 授 とそ のグ ループ に よ って心臓移植 を 受 けた少年宮 崎信夫 君 は、術後 八三 日目 に死亡 ―- 10 -― 命 の座 であ る自分 の心臓を す で に摘出除 去 され て いる のであ るか 、 ら問題 の延命 日数 は、息者 自身 のも のではなく 移 植 心そ のも の 。 の縫合 に依 る附着 日数 と いう こと にな る のであ る 。 六 カ月 は 心移 植 適応患者 に保 証 され た最高 の生 き る権 利 であ る 。 移 植 後 六 カ月未満 で死 亡す れば提 訴 の恐れな しとしな い 現在 の 。 心臓移 植 はま さ に国際 コンクー ルの舞 台 さなが ら であ る 課 題 は 症例 数 と延命 率 であ る。後 は 野 とな るか山 とな るかは問題 ではな 、 く 、ただ ただ コンクー ルであ る。 心臓移植 は 公然 の許 された生 。 体 実験 ではな かろう か。 また外 科医 の冥利 でもあ ろう か 目下 わ 、 が国 でも コンクー ルに出演 す べく 動物 実験 で準 備 にお おわ らわ 。 晴 れ の舞 台 を夢 見 てひたす ら待 ち わび て いるら し い 近代医 術 は 遊び の具 であ ってはな らな い。楽 し みは邪 道 に のみあ る のではな い。正道 に こそ真 の楽 し みがあ る のであ る。免 疫 の原 理 に目を つ ぶり、 また遺 伝 の根本 原 理 に背を 向 け再び また 拒絶 反応 に目を つ 、臓器移 植 は責 任 ぶり、 ひたす ら移 植 にのみ専 念 す る のであ れば 、 外科 医 ︶本 位 と疑 われ ても仕 方 が無 もなく保 証 もな い全 く自 己 ︵ いのではな か ろう か。 一九 六七年 、 バ ーナ ード博 士 の世 界最初 の心臓移植 成功 が報 道 された時 は、 人類 の福 祉 いよ いよ到来 と賛 嘆 か つ感 嘆 したも ので 、 あ ったが、移 植後 の悲 惨な結木 が 明白 にされた今 は このよう に 、 不条 理な 心臓移 植 を なぜ 敢行 しな ければ な らな いのかと慨歎憂慮 一種 の恐怖 さえ覚 え る のであ る。 組織細 胞 のも つ遺伝 情 報 の相違 、 カド ヘリ ンのも つ型 の不同 更 に拒絶 反応 の存 在 は、 心臓移 植 を いよ いよ困難 に導 く も のでは な かろう か。 あ る腎移 植 の講演会 で 0 ○教 授十 一側 の腎を提供 し ても残 る 一側 の腎 は正 常 の7% は働 き ます。 真 剣 に︶︱ それ では腎提供者 の寿命 も 0 聴講 者 ︵ 7% と ぃぅ こと にな る のでし ょう か。 少 々御 機嫌斜 め ︶︱ そう いう ことは研究 し ておりま せ ○教 授 ︵ ん。 治 療 よ り も ひ た す ら移 植 を の み意 図 す る内 心 が 窺 わ れ な いでも な い。 、 心臓移 植 は、当 事者 が盛 ん に宣伝 し 且 つ熱 心 に勧 誘 し熱 心 に 、 勧 奨 す るほどそ んな に有 効 で また 一般 庶 民が大 騒ぎ し て期待 す るほど決 し てそんな にすば らしく また決 し てそんな に有 り難 い医 部 昭 治 ︵一九 八九年 八月 二十 日︶ 術 であ るとは思 われな い。 。 人間 は互 いに他 人 であ る。臓 器も ま た互 いに他 人 であ る 指紋 が同 じ人 は いな い。 阿 。 医師 であ った父 も九十 二歳 と いう高齢 で今年 の正 月 に他 界 した 。 父 の遺 品 の 一つとし て、私 は 一枚 の額 を所蔵 し て いる なげ し ︶ の上 に掲げ ら これ は我が家 では昔 から床 の間 の長押 ︵ 、 れ ており、 そ こに有 る のが当 然 の こと とし て受 け とめ て いた から 。 幼 か った私 にと っては特 に関 心を 持 つよう な存 在 ではな か った この額 は所 謂昔 の字 で書 かれ ており、 そ の上 可成 の長文 でもあ っ た ので、青年 期を迎 え ても 、私 は特 に興味 も持 てず に これを無 視 し続 け てきた のであ る。 、 、 やが ては医 師 への道を志 し始 めた私 は とあ る日 この額 の頭 、 磐﹂ の 一字 があ る のに気 付 き 医 者 に何 か関係 あ るも のに 書に ﹁ -11- 司︱ ︱ ︱ ︱ 違 いな いと考 え 、 父 に質 問 を 投 げ か け た こと を 記 憶 し て いる 。 う ろ覚 え で はあ るが 、 父 の答 え の大 凡 そ の内 容 は 以 下 のよ う な も の 江 戸 時 代 か ら累 代 続 く 有 名 な 医 師 の家 系 が あ り 、 こ の中 の 一人 であ った ろ う 。 は 徳 川 将 軍 家 のお抱 え 医 師 で、 こ の額 を 書 いた のも こ の人 であ る と いう 。 ま た 、 この人 の子 孫 の中 には東 京 帝 大 の医 学 部 教 授 にな った 人 も いた と いう こと だ った 。 そ の時 は これ ら の人 物 に つ いて は多 分 実 名 を 挙 げ て説 明 し てく れ た と 思 う が そ の辺 の こと は 全 く 覚 え て いな い。 そ し て こ の額 の文 章 の内 容 は 医 師 に と って大 変 重 要 な教 訓 的 な も のだ った の で、 こ の東 大 教 授 は 、 自 分 の先 祖 が 書 き残 し た こ の 書 き付 けを 複 製 し 、 自 分 の弟 子 達 へ医 師 の戒 め と し て これ を 贈 っ た と いう 。 こ の ことを 知 った 父 は羨 ま し く 思 い、 是 非 と も これ を 父が大 切 にし続 け てきたも のだ け に、 せめ て父 の存命 中 はきち ん とし てお こう と考 え はしたが 、私 の家 では座 敷 ではな く、 一段 格 下げ られ て次 の間 の欄 間 に掲げ られ た。 飾 った とは いう も の の、特 に関 心を寄 せる でも な く、む し ろ放 置 同然 の扱 いだ った。 ヽ 早 いも ので、 私 の母も来春 には十 三回忌を 迎 え る こと にな る の だ が 、当 時母 の追 品 の中 か ら当 家 に関す る多 数 の古 文 書を 見付 け 出 した。 この発 見 が契 機 とな って、私 が ﹁ 阿部家 三百 五十年 の歴 史﹂ を 調査 し、上 梓 し てからもう十年 にもな る。 この折 に、 必要 に逼 られ て或 る程度古 文書 も読 め るよう にな っ た私 は、面白 半分 に この額 を 読 ん でみ て驚 いた。 この額 にま つわ る父 の説 明を 想 い起 こし、 現在 の私 の知識 で これを考 按 し てみた。 感 激 し た 父 は 早 速 これを 表 装 し 座 右 の銘 と し て、 長 年 座 敷 に大 事 が 、 そ の王 侯 的 教 授 か ら 念 願 のも のを 直 接 戴 いた わ け な のだ か ら 、 も 以下 これ に準ず る︶ とし ても 、歴史 的 に非常 に有名 な 人物 であ る ことは衆 知 の事 実 で あ る。 この額 自体 は複 製 ではあ るが 、 この洪庵 が ﹃ 経験遺 訓﹄ の末 尾 の処を 、特 に抽 き出 し翻 訳 し、之を 自書 したも のな のであ る。 ︵ 洪 庵 は ワー フ ェラ ントを 扶 氏 と訳 し て略 記し て いる ので、私 この額 は十 九世紀 のドイ ツを 代 表す る内科 医 フー フ ェラ ント氏 の名 著 ﹃ 経験遺 訓﹄ の巻末 部 の和 訳 であ る。 又、 この訳者 は知 る 人ぞ 知 る緒 方洪庵 で、 この人は江 戸時代 の医師 とし ても 、蘭 学者 に掲 げ 続 け てき た のも 、 蓋 し 当 然 の こと と 云 え る。 若 き青 年 医 師 この扶氏 の ﹃ 経験遺 訓﹄ と いう本 の大部 分 は、後 輩 医師 のた め に、医 学医 術 の参 考 とな るよう に、彼 が半生 に亘 る自 己 の臨床 経 験を 書 き綴 ったも のであ り、 この部 分 は医 学 の進歩 と共 に、当 然 何 か の学 会 の折 に でも お逢 いで き た の であ ろ う か 、 こ の教 授 に 手 に入 れ た いと望 ん だ 。 だ った 当 時 の父 の感 激 察 す る に余 り あ る と い った 処 であ ろ う 。 時 は 経 ち 、 父 と の こん な会 話 の こと も 忘 れ てし ま った が 、 父 と 変革 し て然 る可き性 質 のも のであ る。 これ に続 く巻末 部 は医 師 への戒 めを 述 べたも ので、我 々の道守 直 ち に お願 いし て之 を 項 戴 す る こと が で き た と いう 。 父 も さぞ か し嬉 し か った こと であ ろ う 。 同 じ コー スを 歩 ん で医 師 と な った 私 も や が て故 郷 室 蘭 で開 業 し た 。 今 か ら十 五年 ほ ど 前 にな るだ ろう が 、 両 親 も 老 境 に入 った のを 機 す べき モラ ルを 十 二章 にわた って説 きる こしたも のであ る。 ここ の処 は、今後 医 学 が どんな方向 に発 達 し よう とも 、古 今東 西を 通 と いえ ば 、 王 侯 の如 き 存 在 であ った ろ う し 、 東 北 帝 大 出 の若 輩 医 今 で は考 え ら れ な い ことだ が 、 当 時 の東 京 帝 国 大 学 医 学 部 教 授 に我 が 家 の離 れ で倶 に生 活 す る こと にな った 。 当 然 の こと乍 ら 、 この額 も 一緒 に我 が 家 に引 越 し てき た 。 -12- じ ても、 不易 の医 の倫 理 と高邁 な る医 道 とを教 え たも のであ る。 この十 二章 に、洪 庵 ほど の大蘭 学者 、名医 師 でも痛 く痛 く感 激 し 扶 氏遺戒 の略 ﹄ た のだ ろう。特 に肝 に銘ず べき金 言 とし て これを ﹃ と名付 け て、自 ら書 き残 した物 が この額 であ る。 この最後 の処 には次 のような注釈を つけ、自他共 に守 る可 き人 生 訓 であ ると書 き加 え て いる。 右 件十 二章 ハ扶氏遺 訓 巻末 二附す る 所 の警戒 の大 要を抄 詳 せるな り 書 し て二三子 に示し亦 以 て自 警 と言 ふ 安政 十 己正 月 公 裁 誌 さ て、或 る程 度 の年 配 の医 師 であ れば 、学 生時代 か ら必携 の伴 内科 診 療 の実 際﹄ と いう医 書を ご 侶 とも言 われた西 川義 方 者 の ﹃ 緒 方 洪庵翁 抄 訳 存 知 の筈 であ る。 この本 の前後 の見 開 き の処 に ﹃ 扶 氏遺 フ氏医戒 ﹄ とし て この巻末 の十 二章 、額 に ついて いえば ﹃ 成 の略﹄ が載 って いる。 この ことを後 日 にな って知 った わ け であ るが 、若 し最初 から判 っておれば 、 この額 の解 読 には あ れ程 の苦 労 は不要 であ った ろう 。 併 し、 私 の努力 も 総 てが徒 労 ではな か った。 この額 と医 書 の訳 の両者 を較 べてみると、全 く同 一の文章 では 。 な く額 の方 には可成 り朱 や墨 で加筆 された処が あ る この ことは 何を意 味す るも のだ ろう か。 。 私 は、額 の方 は或 は洪庵 の原稿 ではな いか と推測 した 原稿 と 、 。 な ると、好事 家 にと って 一層貴 重 なも のとな る のであ る 併 し この両 者 は原本 も同 じ、 訳者 も同 じ であ るから、内 容 的 には殆 ど 一致 し て いる のが当 然 であ る。 そ の上 、 この訳文 は可成 の長文 で 、 あ る ので、額 の解 読文 の全体 を ここに載 せる ことは避 け て 西 川 博 士 の著書 をご 一読戴 きた い。 この両者を特 に比較検 討を 加 えた いと興 味を お持 ち の方 には、そ の コピ ーを差 し上げ る こと にし て そ の責 を免 れた い。 ここで大 方 の諸 賢 には、 父が恵贈 を 受けた と いう東大 教授 のご 芳名 はも う頭 の中 に想 い浮 かば れた こと であ ろう 。洪庵 の孫 にあ た る緒 方知 二郎博 士 そ の人 であ る。教 授 は病 理学 の権威 であ る こ と は勿 論 の こと唾液腺 ホ ル モ ン ・パ ロチ ンのご 研究 でも特 に有名 な方 であ る。 ここで額 の由 来 に ついて要 約 し てみる。 経験遺 訓﹄ 十 九世紀 ドイ ツ医 学 の指導 的内科 医 の扶氏 の大著 ﹃ 扶 氏遺戒 の略﹄ とし て書 を緒 方洪 庵 が翻 訳 し、特 に最後 の処を ﹃ き残 した。 洪 庵 の孫 の知三郎教 授 が これを複 製 し て弟 子達 に与 え た。 この 冨 宝 ①︺善 “ 含 ぶ NI 冨 窓 ︶ 中 の 一枚を 、 父が頂戴 し て自 ら の人生訓 とし て座 敷 に掲げ てお い た。 これが今 日私 の手許 にあ るわ け であ る。 医 の倫 理 とか、 ホ スピ スと云 った よう な ことが喧伝 され る最近 扶 氏遺戒 の略﹄ の内容 は誠 に時宜を 得 たも の世 にあ って、 この ﹃ 、 、 のと考 え る のであ る。 これ は我 々医 師 にと って必須 の知識 教養 。 教 訓 であ ろう。西 川博 士 の著書を 是非 とも再び 絡 いて戴 きた い こ こで扶氏 と洪庵 の横顔 を紹介 す る。 扶 氏 ① 〒 沖∽↓ε ゴ 君 ”牌ぎ ︺日 。 十 九世紀 ドイ ツの代 表 的内科 学者 。 ラ ンゲ ンザ ル ツに生 ま る 、 一七 八〇年 イ ェーナ大 学 に入 って医 学を修 め、後 に ゲ ッチ ンゲ ン大学 に転 じ、 人三年 卒 。直 ち にヴ ァイ マー ルに帰 り実 地診 療 に 従 う。 ゲ ー テ、 シ ラーを患 者 にも ち、親交 があ った。九 二年 イ ェ 一人OO年 プ ロイ セ ン宮 廷医兼 シ ーナ大 学教 授 とし て招 かれた。 ャリ テー病院医 長 とし てベ ルリ ンに赴 任 した。宮 廷 の信任厚 く、 ―- 13 -一 一〇年 ベ ルリ ン大 学創 立 に尽力 し 三〇年 以上 も そ の職 にあ った。 内 科学 教授 とな った。 又、内科 及び外 科学会 の創 立を 首 唱 した。 “︼ ロヨF = 一八三 六年 ﹃エンケイ リド ン ・メディ クム ︵ Ξ 〓? ヽ卜 。 ︶ を著 し、自 ら の五〇年 間 にわ た る診 療 経験を 公 にした 針 2 B ﹄ 扶氏遺戒 の略﹂ であ る。 これが ﹃ 経験違 訓﹄ で この巻末部 が ﹁ があ るも のであ ろう。併 し、 コピ ーと雖 も 、我が家 に来 てから で も 半世紀を 優 に越 え る。従 ってそれな り に箔 が つき、価値 は増 し てき て いる のではな いだ ろう か。特 に医 家 にと っては、 そ の内 容 から考 え ても 可成 り の値 打 も のであ ろう と自負 し て いる。 我 が家 でも長 男 は既 に医 師 とな り、今 の処 は三代 目 に亘 った医 家 と いえ る。従 って我が家 にと っても これ は秘蔵 に値 す る大事 な ζ字ぶ。 才 天保 七 ︶長崎 に行 き、 オ ラ ンダ医 ニー マンに従 っ 一八三六年 ︵ 二十 一才 の時江 戸 に赴 き、坪井 信道 、宇 田川玄員 ら に ついて蘭 学 江 戸末 期 の蘭 学者 、医 家 。名 は章 、字 は公裁 、洪庵 と号 した 。 備中 の人。十 七才 の時、医 学を志 し大 阪 に出 て中 天遊 の門 に入 る。 父が大 切 にし て いた額 でもあ り、私 にと っても意 義 のあ るも ので に逢 う こと は確 か であ る。 父 も私も室蘭 医 師会 には長 い問 お世 話 にな ってきた。従 って、 無 用 の長物 とし て邪魔 物 扱 いされ、次 の孫 の時代 には廃 棄 の憂 目 世代 の若者 には、 このよう な額を 読解す る ことは殆 ど不 可能 に近 い。加 え て、長男 が何 時 の日か建 てる であ ろうえ 小屋 にと っては 品 であ る。併 し、 長男 のよう に、 旧漢字 、 旧仮 名遣 いを 知 らな い て研鑽 し、 一八三八年大 阪 に帰 り、 開業 し診療 と種痘 の普 及 に努 はあ るが、額 の内容 性格 から考 え て、 私 は これを医師会 に寄贈 す る のが最も適当 であ り 、地下 の父 も き っと喜 ぶに違 いな いと思う 。 冨S IS3 ︶ 緒 方 洪庵 ︵ めた。傍 ら蘭 学塾 適 々齊塾 ︵ 適塾 ︶を起 こし 、多 く の人材 を育 て た。 明治年 間 に活 躍 した人 々の中 には、道塾 出身 者 が多 く、村 田 古 いも のであ り、汚 れ破 損もあ るが、 手を 加え て新 た に表装 で 不肖 私 も本 年 か ら医師会 の監事 に選 任 され た のを機 に、自省 自 戒 の意 を も こめ て、 これを謹 呈 した いと考 えます 。私 の意 のあ る 処を お汲 み取 り下 され て、 よろし ければ御 受納戴 きた い。 考 えま す。 各 位 が、 この医戒 の心を 心 と し て、互 いに日常診 療 に励 むな らば 、 私 が死蔵 す るよりも何倍 も世 に杵益 す る処 とな る のではな いかと も し直 し、会 長室 など適 当 な 処 に掲げ て戴 きた い。会 長 以下会 員 蔵六 ︵ 後 の大 村益 次郎 ︶、福 沢諭 吉 、長与専 斉 らを輩出 した。 又、 佐 野常 民、橋本左内 、大 島圭介 らも この塾 に学 んだ 。 虎 狼痢治準 ﹄ 、扶 氏 の 傍 ら、 ﹃ 病学 通論﹄ 、 コレラ の対策書 ﹃ 扶 氏経験遺 訓 な ど の訳著 を 公 にし、西洋 医 学 の普 及 著書 の訳 ﹃ ﹄ に努 めた。 文久 二︶江 戸幕 府 の奥医 師兼 西洋医 学 頭 一八六 二年 ︵ 取 とな った。 蛇足 ではあ るが、洪庵 のひ孫 即ち知 二郎博 士 のご 子息緒 方富 雄 博 士 も親 子 二代 に亘 る東大 医学部 教 授 で血 清学 の分 野 で活 躍 され、 殊 に梅毒 の血 清 反応 の緒 方 氏法 の発 見者 と し て我 々にと って馴染 み深 いお名前 であ る。他方 、曽祖 父洪庵 の研究 家 とし ても有名 な 方 であ ったが 、 この三月 に他 界 され た。 更 に、蛇足 の又蛇足 と し て 昇格に 次 の ことを書 き添 えた い。 この額 は既述 の如く コピ ー であ る。若 し真 筆 な らば大 変 な価値 ―- 14 -― 加 藤 ︱室 町小歌︱ あ ま り言葉 のかけた さ に あ れ見 さ いなう 空 行 く雲 の速 さよ 治 良 、 なん の へん て つも な い風景 に、時を 経 て おや と思う ほど惹 か 、 れ る ことがあ る。 そ の時 、そ のま ま にや り過 し て いた人 の こころ 言葉 にも 、な にか の折 にふと足を止 め、 やわ ら かく 反劉 し てみ る こ があ る。 この小 さな歌も そんな味を も って いる。 と ﹃ 永 正 一五年 ︶室 町時代 後 閑吟集﹄ が世 に出 た のは 一五 一人年 ︵ 梁 塵秘 抄﹄ から三百 五十年 た って いる。 期 、あ の ﹃ さ いおく けん そう ち ょう ︶と いう 連歌師 を編者 と 柴 屋軒宗 長 ︵ 。 す る説 もあ るが 、異説を た てる人 もあ り決 着を み て いな い 小歌 、 、 、 一ご 〓 、大 和 歌四 人、 近江節 二、 田楽 節 一〇 吟詩 句 七 早 歌 八 放 下 歌 三、 狂言 小歌 二、 しめ て三百十 一首 が連 歌形式 を と って集 。 め られた歌 謡集 で、中 世 歌謡あ る いは室 町 小歌 と称 され る 、 公卿 や 女官 、 女房 たち の宴 席 で のく つろぎ歌 、 それが遊 女 白 、 拍 子、侃 儡 ︵ く ぐ っ︶師 たち によ って広 ま って行く のだ が 狭義 、 。 の小歌 三百 三十 一首 の殆 どが恋 歌、艶 歌 、風流 歌 であ る 男 の心 、 女 の情 がすな る に流 れ、万葉 集 の東 歌を 連想 さ せもす るが 室 町 の世 とも なれば流 石 し ゃれ て いる。相当 きわ ど いも のでも 風流 の 磨 きがあ る。 きれ いだ。 宗 安 、隆 達 の小歌 へと継 承 され、安 土 ・桃 山時代 から江 戸歌謡 、 へと流 れ る のだ が、 現代 の露 骨 さ、当 世 の情緒 不毛 うす 汚 れた 。 日本 ことば の堕 落を あ らた め て思 い知 ら され る いく つか抜 き出 し て並 べてみよう。 解説 、注 解 も煩 わし いだ け で不要 だ が、 小生 な り の蛇足を 一行 。 ﹁ 閑吟﹂ とは心静 か に 口ず さみ吟ず る ことだ と いう 。 一 花 の錦 の下 紐 は 解 け てな かな かよしなや 柳 の糸 の乱 れ 心 い つ忘 れうぞ 寝 乱れ髪 のおも かげ 。あ と の心はかえ って詮な きも のよ。 一四 士口野川 の花 筏 浮 かれ て こがれ候 よ の 浮 かれ て こがれ候 よ の わ かだ ち ︶ 新茶 の若 立 ︵ 一 二一 摘 み つ摘 まれ つ 引 い つ振 られ つ それ こそ若 い時 の花 かよなう ・狐 ったり狐 ら れたり、袖を 引 いたり 振 られた り、戯 れ ての二人。 新 茶 の茶 壺 よ な う 入 れ て の後 は 〓〓 一 ﹂ち ゃ知 ら ぬ こち ゃ知 ら ぬ ア ・ ・男 と は 、 そ ん な も の よ の 。 ―- 15 -― 三四 柳 の陰 にお待 ちあれ 人間 はば なう 揚枝 木 伐 るとおしあ れ ・ ・言 訳 のあ れ これ 、恋 の知恵 。 五五 何 せうぞ 燻 ん で 一期 は夢 よ ただ 狂 ヘ ・ ・まじ めは捨 て て遊び 一筋 。 五九 わが恋 は 水 に燃 え た つ蛍 々 も の言 は で笑 上 の蛍 〓 二一 人買 ひ舟 は沖を 漕 ぐ と ても売 ら るる身を ただ静 か に漕げ よ 船 頭 殿 ・・西 か東 か、軽之津 か。 一 ハ 月 は傾 く泊 り舟 鐘 は聞 こえ て里近 し 袖を 夜霧 に濡 れ てさす 枕 を並 べて お取梶 や面梶 にさしまぜ て ・腕を 交 わしあ い、揺 られ ての共寝 。 ほお︶の木よなう 一五六 奥山 の朴 ︵ 一度は軸 になしまらしよ 一度は鞘 になしまらしよ お れ が 刃 は 、 これ よ 、 これ よ 。 一五 七 ふ て て 一度 は言 う て みう 嫌 な ら わ れ も た だ そ れを 限 り に よ ほ ど の こ と に 、 言 って や ろ う か 。 お きな か ︶ に 出 て見 たれば 奥 中 ︵ 一六五 一夜馴 れ たが 名 残惜 し さ に 舟 の速 さよ 霧 の深 さよ 一八〇 来 る来 る来 るとは 枕 こそ知れ なう枕 し ょうじ︶の枕 も の言はう には 勝事 ︵ ―- 16 -― 忍 ぶ恋 、 そ れ と も 片 想 い。 七 二 恋 風が 来 ては袂 にか いも とれ てなう 袖 の重 さよ 恋 風は重 いも のかな 忘 れねば 忘 るるか ・そよと吹き、袂 にまと いつくその重 さ。 思 い出 さず や 八 五 田ゆひ出 す と は ・・思 ひ出 す と は忘 るるゆえよ 弄斉 ︶ 思 い出 さぬ よ忘 れねば ︵ 八八 思 へど思 はぬ ふりを し て し ゃ つとし ておりや る こそ 底 は深 けれ │ゴ 睦言 を 知 って いる のは、枕 よお前 だ け 。 人 の耳 に入れ た ら、 ただ じ ゃおかな い 申 し た や な う 申 し た や な う 一言 〓 一 身 が 身 であ る う には 申 し た や な う 。 人並 み の身 な ら 、 う ち 明 け も し よう に へん て つも な い言葉 。 、 。 ・あ れも これも胸 にあ ふれ て だ が 二三五 あ まり言葉 のかけた さ に あ れ見 さ いなう 空 行 く雲 の速 さよ 二四 四 妹申 す やは ただ ただ ただ打 て 柴 垣 に押 し寄 せ て そ の夜 は夜も す が ら 現なや 二四九 降 れ降 れ雪 よ 宵 に通 ひし道 の見 ゆる に 。 ・。あ な た の足肋 が消 え るま で 二七 四 今結 た髪 が はらり と解 けた いか さま 心も 誰 そ に解 けた 二七 七 待 てども夕 の重 な るは 変 は る初 め か おぼ つかな はし ︶ て来 た 二八 二 あ まり見 た さ に そと隠 れ て走 ︵ まづ 放 さ いなう 放 し ても のを 言 は さ いなう そぞ ろ いとほ しう て 何 と せうぞ なう 二 八 七 人 の幸 く は わ れ も 心 の変 は れ か し 贈 む に いと ほ し いは あ ん は ち や 。 、 、 嫌 いにな ら な いも のか し ら あ の人を 。 わ た しだ け が 、ぁ ほ ら し い 花 篭 に月を 入れ て 駄賃 馬 に乗り たやなう 殿をう ≡﹂はど こ 石原 峠 の坂 の下 二九 九 ´ 足痛 や なう 三 一〇 しれを 漏 ら さじ ァ 漏 ら さじと 持 つが大事 な ・ ・花 篭 と月と︱︱ なん とも きれ いな言葉 篭 がな 篭 がな 一 二一 一 浮 き名 漏 ら さぬ篭 が な なう 。 あ え て色模 様 の濃 い二七首を 選ん でみた 、 言葉 のきれ いさと韻 のおも しろ さ 。 だ から卑 しく な い、 べと つかな い いう なれば ﹁マド リガ ル﹂だ 。 ―- 17 -― ﹃ 聴く く す り﹄ 安 斎 折口 郎 音 楽 放 談 も 数 次 を 超 す と、 ア レ、 こ の男 本 当 に お医 者 も や って いる の か し ら 、 な ど 音楽療 法 の ハシ リはイ スラ エル第 一代 の ﹁ 音 楽 で スト レ スを 解消 し よう﹂ と い った 類 の ハウ ツーも のの ペーパ ーバ ックが出 回 って いるが 、そ の内 容 には かな り いい加減 半 可な自称音楽 療 法家 が はび こる こと にな る。 近頃 ﹁ 頭 のよく な る音楽 観賞 法﹂ だ の て いる。古 代 ギ リ シ ャでは、神 殿茉 病院 で あ る アスク レピ アー デ スで薬物 療 法、 小外 な も のもあ るようだ からご 用 心が肝要だ 。 王 サウ ルのう つ病 を ハープ の演奏 で全治 さ せた ダビ デ ︵ 旧約 聖書 ︶と いう こと にな っ 科 、催 眠療 法 など と並 ん で コロス ︵ 合 唱団 ︶ 昔楽 療 法 には大 きく 分 け て二派 があ って、 態ご と に処方を きめ て音 楽を聴 か せる こと によ って病気 を癒 そう と いう も の、もう 一 一つは観賞 派 とも いう べきも の、 つま り病 による音楽 療 法 が行 われ て いて、 そ の効 用 に ついて アリ スト テ レ スは ﹁ 詩 学﹂ の中 で カ タ ルシ スと いう 理論を 展 開 し て いる。 こ つは行 動療 法派 とも いう べきも ので、患者 に合 唱 さ せた り、楽 器を 持 た せ て合 奏 さ せ の語を フ ロイ トが医 学 の世 界 に復 活 さ せた こと はご 存 じ であ ろう 、 と いう よう な音楽 療 法 の歴 史 や ら 理論 の展開 や ら、僕 の頭 の た り しなが ら、 レ クリ エーシ ョン療 法を 兼 音楽 療 法 の趣勢 は後 者 に偏 って いて、観賞 派 の方 は邪道 扱 いされ かね な いほど、両者 ね て治療 し よう と いうも ので、 現在世 界 の 中 にもだ いぶ詰 ま って いる のだ が 、根 が ケ チだ から減 多 に ひと には教 えられ な い、 と いう 訳 ではな いが、 ここで大 論文 や総説を ろん観賞 派だ って決 し て邪道 と言う には当 ダジ ャ らな いも ので、産科 医 や歯 科 医 が ︵ 展 開 し ても始 ま らな いから、も っぱ ら実 用 的な 、音楽 によ る スト レ ス解消 法 、あ る い は音楽 によ るイ ライ ラの癒 し方 、悲 し みを レにあ らず ︶ BG Mで分娩 や抜歯 の痛 みを の間 には深刻 な対立 があ る のだ そうだ 。む 一方 医 者 と 僕 の音 楽 狂 ぶ り は 周 知 だ し 、 乗越 え るた め の音楽 活 用法 、不眠 症 の音楽 中和 し よう とす る のも広義 の音楽 療 法 と言 と 思 わ れ ても 困 る し 、 な らば 医 者 の端 く れ と し て の本 姿 に立 ち 戻 って、 今 回 は音 楽 療 読 む く す り﹂ と 法 と いこう 。 某 週 刊 誌 に ﹁ いう コラ ムが あ る のを 真 似 た 表 題 は か よう な イ キ サ ツであ って、 ﹁ 効 く 薬 ﹂ の誤 植 で し ては 心 身 医 学 にも 多 少 と も 首 を つ っこん 療 法 と い った 、 明 日から役立 つ音楽 観賞療 は な い。 で こ い る も だ から 、音 楽 療 法 推 進 派 と 知 周 の人 々 の中 には ﹁ 北 海 道 の音 楽 療 法 を 育 て え る のだ が、 B GMも 選曲 や音 量 の設定を 法 の コツを伝 授 す る にとど めた い、 とは思 って いるが、脱線 自 在 な僕 の筆 の こと ゆえ 、 サ ルより は僅 か に毛髪 が三本 だ け多 く 、 し かも チ ンパ ンジ ーと知能指数 が ほとんど 結果 が どう な るか、保 証 の限 り ではな い。 音楽療 法士 ︵MT ︶が立 派な市 民権を も っ 大差 な い脊椎 動物 であ りな が ら、 人間 の日 る の は お前 し か いな い﹂ な ど と オ ダ テ る 人 も いる のだ が 、 いか に自 称 マル チ人 間 の僕 て久 し いのだ が、先 進 国 の中 では日本 が こ 誤 る とただ の雑音 よ りも っと始末 が悪 いこ とだ ってあ る。 ら な いし 、 情 熱 も 湧 いてく る わ け では な い。 の点 では優 に二十年 は遅 れ て いて、 と いう 常 生 活 は競争 社会 の スト レ スに満 ち て いて、 欧米諸 国 では PT ・O T ・STと並 ん で し か し 、食 わず 嫌 いで は 渚 券 に関 わ る と ば か り 文 献 を 読 み漁 る気 にな る と ころ は 、 マ より ほとんど無 に等 しく て、 それだ け に生 と いえ ど も 、 今 のと ころ そ こま では 手 が 回 ル チ人 間 を 自 称 す る所 以 と 思 吾 され た い。 ―- 18 -― 、 そ の スト レ スは専 ら左 脳 スト レ スだ か ら 左 脳を 休 め る には音楽 によ って右 脳を適 宜 に刺激 す る のが よ い、 と いう のが音 楽療 法 の基本 理念 であ る。要 す る に ロゴ ス的な左 脳 に休 暇 を与 え て、 パト ス的 な右 脳を マッ 、 サ ージす る のだ。 いま学 校教育 は受験 教育 、 それを暗 記 さ せ、 就職教育 で、論 理を 教 え ヒラ メキな ど は暗 記 の邪魔 に こそな れ決 し 。 てプ ラ スにな ら ぬ と教 え て いる ではな いか 、 ま た職 場 でも成功 の鍵 は全く 同 じ で 日夜 。 左 脳ば かりを コキ使 って いる ではな いか 左 脳 スト レ スに敗 れ た心身 症患者 と いう 程 ではなく とも 、左 脳を 休 め、人 間的 な バ ラ ン を 回復 さ せる には右 脳を 刺激 す れば よ ス や奥 様 ︶ いのは自 明 の理だ 。患者 や従業 員 ︵ 、 と の対 人 スト レ ス、税金 スト レ ス レセ査 、 定 スト レ ス、忙 し さ、 そ の他 医師 と いえ ども 日常 スト レ スには事 欠 かな いから、 つ い夜 とも な れば 巻 に迷 い出 てカ ラオ ケで 一 杯 、 とな る のは 人情 だ が、 チ ョットお待 ち 。 あ れ、 アル コー ルは スト レ ッサ ーです ょ う さを払 う 玉帯 な ど と いう のは実 は迷 信 で 、 す よ。 まあ それ には目を つぶると し ても 脳波 学 的 研究 によれば、 日本 人 にと ってカ 、 ラオ ケも邦楽 も音楽 ではなく て 文 学 な の だ そう であ る。 つま り、音 楽 な ら音楽 脳 で 、 あ る右 脳 で認 知 じ て いる筈 だ のに 日本 人 、 は チ ント ンシ ャ ンも演 歌 も左 脳 で っま り 。 文学 とし て聴 いて いる のだ と いう 芸 術療 、 、 法 と いう立 場 で趣味道楽 を考 え ると 演劇 作詩 作 歌、俳句 ・川柳 ・都 々 映画 、文学 ︵ 逸 などを含 む ︶は左 脳 的 と いう点 では問 題 があ ると言 え る。 では絵 画 ・工芸 。園芸 の 、孤 類 はどうだ ろう ◎ た し か に右 脳 的だ が 独 でも でき る作業 だ か ら対 人交流 の障 害 の 回復 には不向 きだ。 ュンク分折 心理学 派 の 、 これ は箱庭 を 箱庭 療 法 と いう のがあ るが 媒 体 とし て治療 者 と患 者 と の非言 語 的 コミ ュニケーシ ョンを 図 ろう とす る方 が主 目的 で、厳密 な意 味 で の芸 術療 法 とはイ マイ チ 違 う 。音 楽 には美術 工芸 にはな い時 間的秩 、 序 と いう も のがあ るから 観賞 だ け でも演 奏者 あ る いは作曲 者 と の交流 が体験 できる 定 められ た時 間秋 し、 ま し て演奏 行為 は ﹁ 序 の中 で非言 語的な共 通 の目標 に向 ってす る協 同作 業 ﹂だ から、社会 心 理学 的 スト レ スで最も傷 つき易 い対 人交流 の回復 にはも って こ いな のであ る。 我 田引水 と思 われ る 、 恐 れがあ るが、 これ には臨床 的 脳波学 的 に立派 な根 拠 が あ る のだ 。 、 ポ ド ル スキ ーと いう 人が いて 膨 大な疾 。 患病 態 別音 楽 処方 集を 発表 し て いる う つ 、 、 病、 不安 神 経症 、神経 性 胃炎 高血 圧 糖 尿病 な どな ど、 それぞ れ に十曲 内外 の曲名 を並 べて、毎晩 寝 る前 に二時 間 これを 聴 か 。 せると いう観賞 派 音楽 療 法家 であ る これ は参 考 にな りそうだ と思う のだ が 、音 楽 に 関 し ては かな り の モノシリを 自 認す る僕 で も 一度 も聴 いた ことがな い曲 が 沢山合 まれ て いるから、自信を も ってお勧 めす る訳 に は ゆかぬ。前述 ハウ ツーも のの ペーパ ーバ ックは大 部 分 これ の真 似 または 剰窃 であ る 上 に、某 レ コード会 社 の宣 伝 用 に違 いな い も のま で、定価金 一千 三百円 な り で売 られ て いる。悲 し みを癒 す音楽 、落 ち込 んだ時 の音楽 、う つ状態 から抜 け出 す音楽 と言 っ 、 た具合 であ る。素 人が考 え ると 落 ち込ん 、 だ 時 、う つの時 には リズ ム のは っきりした 、 景気 のよ い音楽 を聴 けば よ さそうだ が そ 同質 の原 理﹂ ︵アルト シ れ は間違 いで、 ﹁ ュー ラー︶と いぅ原則 があ り、悲 し い時 は 、 悲 し い曲 を 、暗 い時 は暗 い曲を 不安 な時 は不安を かき立 てるような曲を まず 聴 く べ 、 き で、 そ のあ と次第 に明 る い曲 元気 が出 。 る曲 に変 え てゅく のだ そうだ 異質 の音楽 は排除 を 受 け て、 間脳 ・下 垂体 ・自律 神経 系 に対 し て好 まし からざ る反応を 示す こと が生 理学 的 に証 明され る のだ と いう。 ゎれ わ れ の日常診療 で、う っ病患 者 のム ンテ ラ 、 に叱陀 激励 は禁物 と いう のは常 識だが そ れ と同 じよう なも のだ と思 えば 間違 いあ る ま い。 中 学高 校 生を中 心 にナガ ラ族 と いう のが 流 行 で、深 夜放 送 でDJを聴 かな いと勉 強 一- 19 -― っき の ﹁ 同質 の原 理﹂を 引 用す れば 日本 人 にと ってあ ら ゆ る ク ラシ ック音 楽 が 異質 な シ ックに限 ると いう のが世 界 の趨 勢 な のだ が、 ここがな かな か理解 し て貰 えな い。 さ 破壊 的暴力 的だ 。 この頃流 行 のシ ンセサイ ド ラム のリズ ムは右 脳 マッサ ージを超 え て いて いる筈 だ し、大 きす ぎ る音 量 、 リズ ム マシ ンによ るあま り に機械 的 で変化 のな い ンを絶 えず シ ャカ シ ャカ鳴 ら し て いる のは サ ラリ ー マンにも 少くな いのだ が 、 これ は 問題だ 。第 一、 DJ のシ ャベリは左 脳 で聴 ゆ る左 脳 的 要 素 を 黙 殺 し て聴 く と も な し に を 適 度 に絞 って、 解 説 や ら 批 評 や ら のあ ら ﹁ 春 の祭 典 ﹂ のよ う な バ ー バ リズ ム の音 楽 が 最 高 だ 。 た だ し 、 如 何 な る場 合 にも 音 量 シ ャ ク シ ャす るな ら スト ラヴ ィ ン スキ ー の だ 。 悲 し みを な し た いな ら 、 フ ォー レや モ ツ ァルト の レ ク ィ エム に勝 る曲 は な い。 ム ーや シ ベ リ ウ スが よ い。 ブ ラ ー ム スも よ い が 間 違 っても ブ ル ック ナ ー のよ う な 、 突 如 ラ ッパ が 鳴 り響 く よ う な も のは 避 け る べき が よ い。 落 ち 込 ん だ 時 な ら チ ャイ コ フスキ 安 を か き立 て る よ う な 雰 囲 気 か ら始 ま る曲 は 第 九 交 響 曲 の冒 頭 の よう な 、 いか にも 不 つも り で、 虚 心淡 懐 に音 楽 を 聴 いて み よう 。 た と え ば 、 不安 の解 消 に は ベ ー ト ーヴ ェン 感 作 す るた め に、 胎 児 が 母 の胎 内 で血 管 音 の リズ ム に乗 った 静 か な 音 楽 を 聴 いて いる 申 す 僕 を 見 た ま え 、 と いう と 自 信 過 剰 で筆 勉 強 にも ナ ガ ラ勉 強 の効 果 あ る こと 、 か く バ ロ ック のほ と ん ど す べ て の曲 な ら 胎 教 に る い曲 が よ か ろう 。 モ ツ ァルト の大 抵 の曲 、 あ ま リ リズ ム の強 烈 でな い、 お だ や か で 明 そ う で は な いか 。 た し か に胎 児 は音 を 聴 い て いる のだ 。 胎 教 と は こ の こと に違 いな い。 胎 児 な ら 、 母 親 が茶 碗 洗 いで手 を 滑 ら せ て ガ チ ャ ンと や る た び に胎 内 でピ ク ッと す る ら でも 遅 く な い。 な ん でも 五 カ月 を 過 ぎ た ス に は な ら な いと ころ が B G M の不 思 議 な 作 業 を す る のは 能 率 的 だ し 、 これ が スト レ 言 う な か れ 、 右 脳 マ ッサ ージ と 同 時 に左 脳 ナ ガ ラと いう の こそ 音 楽 療 法 式 観 賞 法 の奥 験 結 果も出 て いる。だ から音楽 療 法 は ク ラ ガ ラ、 居 眠 り し ナ ガ ラ、 あ る いは酒 を 飲 み のだ と いう 議論があ ろう 。だ が 、 これ は従 聴 く の でな け れば 、 ナ ガ ラ族 の優 等 生 に は な れ ま せ ん 。 こ の頃 ビ デ オ デ ィ ス クな る も 盛 を 買 いそ う だ か ら 、 これ は内 緒 に留 め て が は かど らな いし、電車 の中 でウ ォー ク マ 来 の学 校 教育 に罪 があ る のだ 。右 脳芸 術 の のが 出 廻 り 、 僕 は ケ チ で ま だ 寅 わ な いが 、 お く 。 聞 き流 し て戴 き た い。 珍 奇 な る外 来 演 奏 家 と いう 異 種 動 物 を 観 察 し てや ろ う と いう コ ン タ ン の時 は よ いが 、 う 。 全 神 経 を 集 中 し て音 楽 を 聴 く のは 切待 に大 金 を 投 じ て演 奏 会 に行 った と き と か 、 わ れ る か ら 、 ナ ガ ラ族 にな る資 格 は な か ろ の方 も 多 いだ ろ う が 、 これ では 耳 も 日 も 奪 良 い こと 受 けあ いだ 。 少 し く 長 じ てか ら の の胎 教 に は 手 遅 れ だ が 、 お 孫 さ ん には 今 か と こだ 。 こ の極 意 を 体 得 す れ ば 音 楽 が 明 日 への活 力 と いう 能 書 き は 万 全 だ し 、 我 が 子 義 であ る。 読 書 は左 脳 の作 業 では な いか と 代表 と いう べき音楽 でさえ、学 校 の教科 と な ると左 脳教 育 に化 け る。強制 的暗 記、 分 新 し いも のが お好 き な 先 生 方 は も う お持 ち ザ ー の人正 電 子音 は神 経を疲 労 さ せ こそす れ、安 らぎをも た らす証拠 はな いと いう実 析 、教 え られ る通 り の歌 唱、排他 的競争 、 マルチ ョイ式 試験 はま さ にす べて左 脳 的 で、 これ では音楽 が好 き にな れ る筈 が な い。だ から音 楽 が ﹁ わ か る﹂ には何 か特 別 の才 能 が 必要 で、自 分 にはそ れが無 いから洋楽 は と いう素朴 な感 想 こそ本 当 の音楽 観賞 であ 音 楽 療 法 と し て は これ は邪 道 で、 読 書 し ナ 好 き にな れな い、 と思 い込ん でしまう のだ 。 ﹁ よく わ からな いけど素 敵 な演奏会 でした﹂ る べきだ のに。 そ こで、 この拒絶 反応を 脱 一- 20 -― 波 久 鳥 ﹂ が 誕 生 し て十 年 が 経 ち ま 加藤 ﹁ し た 。 編 集 貝 の私 達 も 自 動 的 に十 歳 加 算 さ れ た わ け です が 、創 刊 以 来 の全 員 つ つが な く 、 これ も素 晴 ら し い こと です 。 今 日 は海 霧 です が 大 雨 の 日も あ り ま し た 。 非 常 に蒸 し 暑 い夜 も あ り ま し た 。 雪 の 日だ け は お そ ら く な いでし ょう が 。 大 久 保 先 生 に レ ー ルを つな いで項 いて、 きび し い反 省 を 混 え な が ら 、 ざ っく ば ら ん に、 楽 し い話 題 のあ れ これ で 一夕 を 過 ご し てま いり た いと存 じ ま す 。 瓢筆 か ら駒 大久保 小國先生が遥 か稚内 から お出 で い ただ いて創 刊 号 から の編集 委員が まず 全貝 揃う こと になり、 こんな嬉 し い事 はあ りま せん。上 田会 長 は いづ れ見 えられ ますが、 手順 とし て過去 から始 めた いと思 います。 初 代 委員 の大 岩先生 から、 ひと つ。 大岩 創 刊 号は昭和 五十 五年 だ ったね。 高島 誰 が言 い出 した の? 大岩 長 田先 生な の。創 刊号 にも書 いて い るけど、 そ の辺 の話を す るとね︱ ︱親交会 は元老 の先 生が 四、 五人 でや って いた の。 ト ップ 役 の長 田先 生 は雑 誌 の生ま れ る 一年 か 二年 前 に内 地 に行 かれ たんだ けど、 送別 お い、大 岩 ち ょ っと来 い﹀ と呼 会 の席 で ︿ -21- ば れ て、 や り残 し た 事 が あ る、 機 関 誌 を 作 り た か った ん だ が 、 そ こま で手 が のび な か った 、 ぜ ひ実 現 し てほ し い。 そ う 言 わ れ た ん だ け ど 僕 は そ っち の方 は 全 く わ か ら ん 。 皆 に相 談 し てね 、 ま あ 、 や って み る か 、 と いう こと にな って上 田 、 小 國 、 加 藤 と い っ た 先 生 方 が 声 を 出 さ れ て発 足 し た わ け 。 ︵こ こ で、 小 國 先 生 によ る乾 杯 ︶ 大 岩 酔 わ な いう ち に話 し て おく け ど 、 丁 度 そ の頃 は 先 輩 の元老 先 生 か ら 次 の世 代 に 大 岩 予算 が全 く無 か った ん で、金 を どう す るかが 問題。今 回だ けは商社 、薬 屋 さん に手伝 っても らおう と いう こと で、薬 屋 さ ん と自動車 屋 さんを 回 って金 集 めを しま し てね、 それ で出来 上 が った の。 を にせ年 度途 中 の話だ から委 員会 も予算 もな い。 五十 六年 に規約 改正 し て委員会 を 作 り予算 も出 来 、 よう やく 認 知を 受 けたと 笑︶ いう わけ。 ︵ 三村 創 刊号 は いく ら で出来 た ん です か。 加藤 あ れはね 、体裁 悪 か った んだ け ど、 まあ好 きな ことだ った し、割付 けも我流 で 綴 じ てみ て、見本 の つも りだ った の。 そう した ら 採 にな っち ゃ って⋮⋮ まあ 私 の 御 用 笑 ︶ でも、白 い鳥 ならただ で済 む から。 ︵ を波 久鳥 と ひね ってみた り、 ほ いほ い調子 に乗 り過ぎ ち ゃ って、反省 し きり。 私ね 、創 刊 号 の編 集 のとき驚 いた のは、 小國先 生が壁 に寄 り かかりなが ら手 にした 原稿 を ね、 そ の場 で校正 しなが らす いす い 清書 す るん です 。すご いなあ 、 とあ きれ て 筆 から出 た駒 と いう書 き方を され てます 。 大 久保 創 刊 号 の編集後 記 に上 田先 生が瓢 ま あ 、 才 能 屋 が いる こと 、 いる こと 。 俺 は 笑︶ び っく り し ま し た 。 ︵ ー ト だ か ら 、 こ の方 面 は どう な ん だ ろ う 、 と 心 配 し て いた ん だ が 、 いざ や ってみ た ら でも ね 、 医 者 な ん て のは技 術 の エキ ス パ 笑︶ 生 の後 ろ姿 が浮 ん でき ます 。 ︵ 高島 十年 間 よく や って これた のは何 だ っ た ろう と考 え て いたんだ けど、医師会 じ ゃ るた、広告集 め に苦 労 され た大 岩先 青 木 ︼ 初 め の頃 の強 い思 い出 あ り ます か? 目木 さん には創 刊 から去年 の九 号 大久保 圭 ま で いろ いろ タ ッチし ても ら ったん です が 、 上 が って いま せん よ。 ただ 四万 、 五万 の額 が感 じとし て大 きか った、当 時 はね 。 加藤 室蘭 印刷 の幸 松 さん と の話 で頁 八千 円ぐ ら い、今 で 一万円弱 でし ょう。あ まり じ ら れ る のは何 時 ご ろ か ら ? 大 久 保 加 藤 先 生 、 これ は続 き そ う だ と感 しま ったん です 。 名称 は委 員 ではなく編集 同 人 で上 田、大 岩、 大久 保 、 小 國、加藤 、高島 、 三村 、村井 の なく親交会 の雑 誌 とし て編集 でき る、 それ 大岩 いや、ぁ れ は三号誌を終 ってから。 実 は私が撤 退 のチ ャ ンスを う かが って いた んだ 。 それ で三号 のあ と何 人 か の先 生 と 一 二十 二、 三万だ った よね 。 大岩 一 諸 先生 でした。写真を 見 ます と昔 の医 師会 緒 に抜 けた の。 バ ト ンタ ッチ の時 期 で新 し い気 運 も 生 ま れ い いチ ャ ン スだ った ん だ 。 館 の奥座 敷 で、 テーブ ルの上 には何 も の っ が スムーズ に いけた原 因 でし ょう ね 。 それ と僕 の印象 では加藤 先 生。 最初 、表 紙 がな た か。 三村 委 員 の入 れ 替 え は 五 年 ぐ ら い後 でし 吾 万過 ぎ てか ら 。 加藤 一 えて 三号 を こ﹄ 大岩 先 生 、た し か に加藤 色 は出 ました よ。 でも絶 対悪 い方向 ではな いか ら。 てま せん。弁 当 も出ず 、空茶 だ け の編 集会 かな か決 ま らな か った んだ けど、先 生 が何 大久 保 上 田、大 岩 、 小 國、高 島 先生 のあ 章︶ 秀 ︶、神島 ︵ と に澤山、児玉 、遠藤 ︵ これ は、 と思 った。 枚 か描 いて持 ってきた でし ょう 。 いや いや 議 でしたね。 高島 雑 誌 の名前 は誰 が つけた の? はくち ょう﹂ 加藤 長 田先生 。白 い鳥 の ﹁ でした。 ―- 22 -― 吾万で終 り にしな い、 これを 固く誓 大岩 一 って発 足 した んだ が、私 はは っきり知 らん 年 間 ですが 、 かな り凝縮 されたも のが出来 三村 春 が来 て マスタープ ラ ンを 立 て て、 出来 上 が る のが十 一月、ぁ っと言 う間 の 一 ああ続 く な、 と感 じた ん です。 大 久 保 久 安 先 生 のゴ ル フと か 連 載 物 が出 の ペ ンネ ー ム で書 いてく れ ま し た ね 。 児 玉 ﹁ち ょ っと古 いお 話 ﹂ た だ く 事 も あ り ま し た が 、 そ の お蔭 で続 い て き た 訳 です 。 た とえ ば 北 原 先 生 が 小 雲 水 いで き な い。 そ れ で同 じ方 に続 いて出 て い 先 生が 入られ たん です 。 か った がピ ンチらし い気 配 も まあ 、あ った て いると思 います。 時 々開 いてみ て内容 の ま で はね 。 と いう か 、 そ れ が き ま り ま し た でし ょう 。 だ か ら 数 が 集 ま れ ば 楽 だ った ん です 。 これ 藤 先 生 に書 いて いた だ いて いる の で本 の筋 波 久 鳥 ﹄ の継 続 性 も か な り 安 て き てか ら ﹃ 定 し て き た わ け です 。 いま は安 斎 先 生 、 加 流 れを 感 じま す。 先 生方 が 無 い訳 じ ゃな いけ ど、何 人 か に ︿ 原稿 出 し てく れな いと続 きま せん よ﹀ と言 いま した ら、絶 対 に出 します よ、 と返 って 来 たん で安 心 し て いるん ですが ね。 新 し い若 い人 たち の投稿 に対す る不安 も らし いね、原稿 がな かな か集 ま らな く て。 大久保 そう です ね。親交会 に ついて残 し ておきた いことは長老 、先輩 の先生方 にほ ぼ 語 り尽 く し ても ら いま した。行事 、会 貝 名簿 も青木 さんが ま とめ てく れま したし、 記録 の面 はまず 出 来上 が った わ け で親交会 の フ ェル ラウ フはど なたも つかめ る様 にな った、 と思 います 。そ こで三号 から 五号 に う か息 づ か いの聞 こえ る文章 が並 ぶ、 そ ん の開 きが大 きく な い。身内 の肌 の匂 いと い が違 う んだ 。 っち の場合 、作 り やす いことは確 か 加藤 > です よね 。学 説 、 レポ ートがな いから硬軟 児 玉 若 い世 代 が 少 な いか ら 、 な かな か目 立 った若 返 り が で き な い。 大 岩 あ ん ま リ スパ ッと変 わ っても 馴 染 み 交 会 の顔 付 き ってそ う じ ゃな いです か 。 二 人 と そ の中 で増 え て行 く 、 自 然 の流 れ で す ね 。 変 わ ら な いよう で変 わ って行 く 、 親 加藤 書 いてく れ る方 が 居 ら れ た ら古 い方 も ど ん ど ん お願 いし た い。 新 し い人 が 一人 ら かも しれま せん 、安 保 闘争 の時 代 に入 る 高 島 こ のま ま 続 け て い いん じ ゃな い。 大岩 他 の医師会 では会 報 と混 み にな って ´うち は別 々、 これが い い。構造 いるけど、 かヽ う。 笑︶ 児 玉 品 し上げ ら れます よ。 ︵ が あ るん です 。 思 い切 って冒険 し て み ま せ かけ てが ﹃ 波久 鳥 ﹄ の スタイ ルを造 ろう と いう 過渡 の時 期だ った ん ですね 。 旧友 通 忍 ぶ草 ﹂ ﹁ 吾万過ぎ ま では ﹁ 加藤 一 わが青春 ﹂ な ど の核 があ った けど、 信﹂ ﹁ い つま でも続 く わけ じ ゃな し、新 し い絵 と 大岩 あ 、大 島 さん。 この委 員会 はね 人使 い荒 く てひど いよ。 かな り無 理な注 文あ る 編 集 者 が 変 わ って冒険 し て み れ ば 或 る いは 。 、そ 大久保 親 交会 発 足当 時 の会 員 の意 図 や会 大岩 い っま で古 い話や って いるんだ んな声 も出 て来 たんだ。 古 い絵 と のバ ラ ンスを考 え る必要 がね 。 の性格 は今 の人達 が 理解 し て いるも のとは 違 って いま した から、十年 の間 にそれを 記 録 に留 め ておく ことは大 切な テー マだ った 笑︶ と思う けど、 よ ろしく頼 みます よ。 ︵ 大久保 私思う ん です けど、皆 さん にお願 匂 い、 柄 を 引 きず ってし ま う 、 だ か ら 程 良 な雑 誌 です ね。 ま とめ易 い。 問題 は これ か ん です。 そ の仕事 が ほば終 った七 号あ た りから、 いし てみ ても 人 そ れぞ れ得 手 不得手があ る でし ょう 。嫌 だ 、 と いう方 には無 理 にお願 でも ガ ラ ッと は 変 ら な い、 ど こか に今 迄 の ん か、 横 書 き でも い いん じ ゃな いか って。 加 藤 何 年 か前 、 あ る先 生 に言 わ れ た こと が 消 え る、 そ れ も 困 るな あ 。 自 発 的な ユ ニー クな投稿 が日立 つよう にな り、雑 誌 の スタイ ルも 見え て来 ま し てね 、 ―- 23 -― い新味 が出 るかも しれな い。 小 國 いゃぁ、 た しか にそんな に変 わ るも ん じ ゃな いです よ。 冒険 し て良 くな るも の でもな し。 横書 き か縦書 きかは初 め にも議論 しま し たね 。 でも雑 誌 の性格 からは縦書 き ですね 。 漫画、 イ ラ スト、 コミ ックな ど のジ ャ ンル に分類 され て賑 や か ですね。 したね。 大 久 保 浜 町 の赤 い灯 ・青 い灯 か ら始 ま っ 笑︶ 小國 先生は直木賞 ではな い。 ︵ 三村 座談会 は好評 ですね。日玉 になりま ︵ 兵 衛 た ち の良 き時 代 のお 話 です よ ね 。 た ん です け ど 、 上 田 先 生 の テ ー マでね 。 児 玉 そ れ も い いです ね 。 きま した。 小歌が。 んだ 。 みんな の文章 読 むたび にすご い劣等 じ ゃな い。会 報 にし ょ っち ゅう⋮ ⋮。 大岩 喋 る のはまあ 、書 く のは全然 駄目な 三村 宿 題 ?あ ︱あ れ? 笑︶ っん、あ れ さ。 ︵ 大久 保 > 小 国 大 岩 先生 は書 いても喋 っても う ま い 高 島 中 島 町 の赤 い灯 は本 庄 先 生 が 親 方 や ってく れ た の、 張 り 切 ってね 。 楽 し か った 多 少 の違 いは 生 じ ま す か ら悪 し か らず 、 と ね 。 そ の後 は 一切 お断 り し て いな いの。 ﹁ 文 責 在 加 藤 と書 き か け てや め ち ゃ った ﹂ 笑︶ 責 任 と り た く な いも ん ね 。 ︵ 書 きし て いくんだ けど、 それが楽 し いの。 加藤 テープ聞 きな が らザ ラ紙 にまず 、荒 な いん だ 。本 棚 は 全 部 ノ ン フィ ク シ ョンば っか り 、 う ん 。 フィ ク シ ョンは ど う や って 三村 苦 労 され るん でし ょう 。 書 いて い いか わ か ら な いん だ 。 。 児 玉 喋 る のは いい、書 く のは嫌だ 、記録 に残 るから って言 う 人が いるんだ けど、記 録 に残 ってそ んな に怖 い事 があ るんだ ろう 小 國 ムーさん は聞 いてて書 か せるとう ま いです よ。 そ し てた ま に喋 ると実 にどぎ つ 大 岩 お れ も 出 た け ど 、 後 か ら 、 いや あ ︱ あ ん な こと喋 ら ん け り ゃよ か った って さ 、 蘭 東 は 中 島 町 の侍 達 で し た 。 こ こ二、 三年 か ら は 現 実 的 と いう かだ いぶ複 雑 にな って 笑︶ い事 言う んだ 。 ︵ う ん 。 でも 加 藤 先 生 が う ま ︱く ネ 、 恥 か か かな⋮ ⋮。 ねえ村井 先 生 、今 度書 くん でし よ> つ?・ 二村 先 生 の宿 題 は残 ってるん でし ょ 加藤 一 う 、まだ 。ね え、大久 保 先 生。 三村 宿 題 って?今 回 の? な いよ う に何 し てく れ る か らネ 、 う ん 。 マル秘 ・座 談 会 テ ープ 大久保 ず ︱ っと前 から のさ。 でも無 理 に 加藤 ど この会 誌 にも詩 歌、俳句 が の って いるん です よ。紙面 を う まく アレ ンジし て く れ るん です 。長 田、皆 川先 生 の短 歌 、大 久 保 お父 さん、曽 根 先生 の俳句 が消 え てか 催 促 しな い方 が いいと思 って、 ね。 加藤 あ れ はね、誌面 の構 図 の問題 もあ っ てね 、散 文 の文字だ け じ ゃ硬 いから⋮⋮ そ 感 持 つんだ 。 大久保 台湾 旅 行 の話な ん か楽 し いよ、面 なあ 。 笑︶ 出 るも ん な 。 ︵ 全 部 出 さ れ た ら 女 房 子 供 に逆 ら え な い人 らは全 く出 て こな いん です。詩 歌俳句 の載 らな い機 関 誌はち ょ っと珍 し い。 れ と、私だ って二段物 を書 いてみた いし。 白 いよ 。 加 藤 最 初 の浜 町 の時 だ け 断 り 書 き を つけ た の。 耳 か ら 文 字 への関 係 上 ニ ュア ン スに 大 岩 大久 保先生あ んた親 父 さん の弟 子 じ ゃな いの?俳句 のさ。 大 岩 そ う だ ろ う か 。 小 説 って読 ん だ こと 小 団 そう ですね。 大久保 それ で今 回出 るわけ です ね 、室 町 大久 保 駄 目 々 々、 わた し独 立 した んだ も 。 大岩 漫画 が まだ出 て こな いな。 四 コ マが あ っても いいと思う んだ が。 の漫画 ち ょ っと違 うん じ ゃな い?。 小 國 △′ 加藤 一口に漫画 と い っても今 は、劇 画 に ―- 24 -― 。 ︵ 笑︶ 三 日徹 夜 し ても疲 れな いです よ 三村 東室 蘭 のと きは 六時半 から十時 過ぎ ても終 り ま せん でしたね。 先 生、座 談会 のテープ は マル秘 扱 いでし た よね⋮ ⋮ まだ 、あ るん です か? 笑 ︶学 校時代 の校医 先生だ った 引 いた。 ︵ この ︿ 手を 握 った﹀ は、 さら っと軽 い調 ん です。 子 です 。聞 いて いる人達 は、 も ののはず み かホ ステ ス君 への エチケ ットな んだ ろう と 。 理解 します から、 どう って事 はな い も し 握 ろう とし たら﹀ も、な ま じ の配慮 から ︿ では却 って生 々し い、 いやら し いでし ょう 笑 ︶だ から ここは先 生 の語 るま ま に手を ︵ 。 笑 ︶彼 女が先 生 の手 握 ら せた方 が いい。 ︵ を 握 る のが 一番 無 難だ けど、 そ れ じ ゃ嘘 に 、 。 そ ろ そ ろ メ ンバ ー の交 替 も こな いだ 室 蘭 、 印 刷 さ ん に、 先 生 ま だ や ってん の って言 。 わ れ ち ゃ った 。 、 小 國 ぼ く 部 外 者 と し て眺 め てま す け ど ね 。 あ ま リ ガ ラ ッと変 え ても 困 るん じ ゃな い 。 や る人 を 特 別 育 て て いる のな ら 別 だ け ど 、 加藤 活 字 の大 き さ 行 間 は考 え な き ゃ駄 目 です ね 。 そ れ と創 刊 以 来 凸版 でや ってき た のは 、 難 し い漢 字 を 使 わ れ る先 生 が 多 か った た め で、 これ か ら は第 一水 準 の漢 字 だ 。 、表 け で結 構 で し ょう 。 紙 質 とあ わ せ て写 植 で ど う か 、 の問 題 。 三村 カ ラ ーを 入 れ た いです ね 加 藤 そ う 、 竹 内 先 生 の花 の寄 せ描 き 紙 に い いです よ 。 でも カ ラ ーじ ゃな いと ね 高 田 先 生 の測 量 山 だ って黒 自 では お気 の毒 です 。 ︵こ こで、 上 田会 長 見 え ら れ る ︶ 。途 中 で抜 け る に抜 上 田 今 、 解 散 し てね ひとしきり、ぁ れ これ話が はず ん で︶ ︵ け ら れ な く て。 加藤 十 一号を 迎 え る節目 で何 か アドバイ 。若 い っ スあ りま せん か、 生 み の親 でもあ る先生 と 、 し て。編集 委員 に若 い人を 入れ たら と い う意 見も あ るん です が。 大久 保 います ょ、有能 な若 い人 て のは要 す るに私 より若 い人。 フーん。 上 田 > ―- 25 -― 加藤 全 巻 た いせ つに保管 し て いたん です がね 、残 念 なが ら消 す こと にしました。 青 木 さん、消 し てく れました ? 。 ︵ 笑︶ 青 木 いえ、 まだ終 ってま せん 加藤 でもね 、 マル秘 だ な ん て鍵 かけ てお 、 く程 のも のじ ゃな いです よ。 まあ 家庭 の 笑︶ 事 情 によ ってはどう かな。 ︵ 奇 人変 人﹂ も面白 か った。ぁ と で 三村 ﹁ お こられ ま したけどね。 でも、あ の人た ち 笑︶ は皆 さん自覚 し てます から。 ︵ 笑︶ な る。 ︵ 大岩 ふ ︱む 、 いや いや ぁ、そ こま で考 え てく れ るとは。だ いぶ感 謝 せん と いかんな 笑︶ あ ︱。 ︵ 。 児 玉 今 度 から褒 美出 した らどう だ ろう た とえば 六号 から十 号 ま で の中 から選 ん で 。 優 秀作 に会 長賞 あげ る、な ん て 大久 保 また児玉 先生持 って いくん じ ゃな 。 いの。懸賞 かか ると絶 対、先 生 なんだ 大 。 ︵ 笑︶ 雪 の時 も 、 そ の前 の時 も そう いう 方 も います 。 それ か らどう でし ょう ね 、 大久 保 十 一号 か ら考 え てみた い 変 え て みた い事 が幾 つかあ るん です 。 活字 の大 き さ、紙 の質 、横 書 きは寝 て読 む のに便 利 と あ る 限 し , 大久保 米 沢先 生が面白 い話を 普 通 に話 し てく れたん です 。普 通 に話す と余計 に奇 人 笑︶ らしくな るん ですね 。 ︵ 先 生 、 どう です か、 司会 の苦 労 話。 加藤 特 にな いです よ。 やは り文字 にす る 場合 です ね。 耳 に聞 いた通 り の ニ ュア ンス 、 ま で活字 は伝 え てく れな い どぎ つくな っ 。 た り、下 手す ると右 が左 にな り兼 ね な い 、 大 岩先 生 の例 で説 明 します とね 中 島 町 の バ ーで隣 に座 って いる女 の子 の手を 握 った 大 岩︱︱ え ? い つ︶握 った の1 ん です 。 ︵ 、 笑 ︶す ると彼 女が ね、 アラ大 岩 先生だ ︵ ワタシ知 ってるう ︱。 先生 は サ ー ッと手を 波 久 L鳥 青 木 い い話 じ ゃな いです よ。 二号 でした 印象 に残 った事 、 プ ラ ス ,マイ ナ スを合 め て話 し てくれ ま せん か。青木 さん から。 大久保 では この辺 で、 この十年 間 で最も 雑 誌だ から保 ってきた と いう意 味 もあ るん くな れば 三 号 で止 ま る訳 です よ。親 交会 の あ る いは続 け る のが難 し いかを 、 よく問 わ れ るん です。普 通 の雑 誌な ら売 れ行 きが悪 村井 雑 誌を 作 る場合 、創 刊 が難 し いか、 大岩 あ ん た、 それ書 け よ、書 きな さ い。 ょう 。 それ で腰 が痛 く て痛 く て⋮⋮本 当 に 身を 以 て体 験 した と いう お話。 何 日か整 理な ど にかかり っきり にな る でし です けどね 。 ︵ 笑︶ 加藤 几帳 面な の。 まあ 、死 ぬま でや め ら ︵ 笑︶ か、校正 や る こと にし て いて、や った かや ら な いか、 どう いう わけ か本 が出来 上 が っ てしま った ん です 。続 ん でみた ら面 白 い本 れ な いよ。 ︵ 笑︶ 波久鳥 ﹄ のせ いが多 いん で 澤 山 腰痛 は ﹃ す か? 要 す る に、捨 てても い いと思うも のが捨 てられな い抵 抗 に会 った り、続 け る べきも 加藤 犯 人 は私なんだ。 調子 の流 れ で校正 いた のは後 にも先 にも 二号誌だ け でした。 所 があ ち こち にあ るん です。正 誤表を 作 る のが い い仕事 にな りま し てね 、別刷 りが つ メ ンバ ー でした からね 。 おとな しく し て居 た ん です。上 田先 生 は じめ、 そう そう た る 校 のとき新 聞部 に居 た ことがあ る ので興味 はあ ったん です 。初 め は出 る幕 じ ゃな か っ 大久保 私 、十年 にな るん ですが 、清水高 いますね 。 ければ な らん し、難 し いも んだ なあ 、 と思 大岩 ち ょ っと言 い忘 れた事 、 さ っきも言 と思 います。 に 一回 です し、 このま ま の スタイ ルで いい の雑 誌 の特色 ・個 性 から言 って、 このまま ず ︱ っと行 ってほし いと思う ん です 。 一年 ほう 、 ほう ︱︶ 代 に新 聞部 に属 し て いて ︵ こう いう ことは嫌 いじ ゃな いん です が、 こ でした。 ワープ ロで打 ってて同音 異 語が出 ますね 、あ れ で作 った文章 の様 に愉 快 を箇 ま でや った つも りが、実 は穴 だ らけ。文章 を楽 し みなが ら読 ん でる の。原稿 読 みは校 たん です けど、 ロート ルが引 退 し てようや 4 た、大部 分 、殆 ど。 大久 保 ・ 三村 十年 が ただ 過ぎ た感 じ です 。大 学 時 正す べからず 、鉄 則 は守 る べき ですね 。 笑︶ 村井 そう です よ。 ︵ のが何 か の加減 で没 にな った り、 そう いう ことが若 しあ れば編 集 委員 と し て反省 しな 青 木 でも、今読 ん で見 ても おも し ろ い。 った んだ け ど、う ん、時 期が良 か った こと、 人が良 か った こと、 これ が全 てな んだ 。 で三冊 ほど新 し い辞 書を 買 いま した。 この 離 れ てしま ってから毎 号贈 って頂 いてます が、親交会 はた い へん懐 かし いん です 。 と いう感 じ です 。僕自身 は創 刊号 が出 て、 あ 、 これ は続 く な、 と思 いま した。 そ の後 笑︶ 大岩 ん?俺 か い?な ︱ん にも無 い。 ︵ 小 國 僕 はね、先刻 どな たも言 って いる通 り産 み の苦 し みを踏 んだ のが 一番 よか った、 加藤 何 か注文 はあ りま せん か。 く 我 々の手 に回 った ん で、少 し本 腰を 入 れ るよう にな ったん です 。 一番 困 った のは残 念 な がら新 制中学出 で し ょう 、 旧仮 名 遣 いと当 用漢 字 のち ょう ど 又才 があ るわ け でもな いのに、何故 高島 一 委 員 にな ったか と いう と親交会 の会 計 や っ て いた から で、 最初 は いくら か かるか見当 も つかな い。大 岩先生 が広 告を 取 って歩 く 編集 のた め に。 狭 間だ った ん です 。送 り仮 名 、 テ ニヲ ハ、 新 旧漢字 の違 い⋮⋮昔 の辞書 じ ゃ駄 目なん ら せられた ら大 変な こと にな るなあ ︱ って。 ︵ 笑 ︶それ からもう 一つ。加藤 、小國先生 、 姿 見 て いて、 いやあ 、 これ から先何年 も や 上 田先生 、まあ医 者 であ りな が ら、な ん て こと です。 期限を気 にす るも のです から、 一番 の思 い出 は ですね 、腰 痛を 起 こした 変 な、 お かしな才 能持 ってるも んだ なあ ︱ って。 ︵ 笑︶ ―- 26 -― これ か ら は 新 制 中 学 の人 が 増 え るだ け で 。 す か ら 編 集 も 楽 にな る で し ょう カ ラ ーも 。 よ し 、 横 書 き でも か ま いま せ ん 新 人 登 用 。 も 結 構 、 い っま で も続 け て下 さ い 児 玉 ぼ く は ね 、 何 で こ の委 員 会 に 入 れ ら 。 れ た のか 全 く 見 当 が つか な いん です が ね 笑 ︶十 一年 目 か ら 変 わ り た いと いう 話 も ︵ 、 出 てま す け ど ね 、 ポ イ ント と いう か中 心 は 出 来 てま す し 、 大 久 保 先 生 な ん か は 腰 を 痛 。 め る ほ ど 熱 中 し て いる わ け です ょ じ つは 先 生 と 僕 と 同 じ宗 派 な ん だ け ど お寺 の和 尚 さ ん も 感 心 し てま し た 。 す ご ぃ 事 だ って。 幸 松 さん も スキ ー で 一緒 にな る ん だ け ど 、 大 久 保 先 生 は 几帳 面 で仕 事 は き つち り だ か ら 私 達 す る事 が な い って。 、 だ か ら 私 は ね 、 加 藤 先 生 と 二人 こ の 二 、 本 の柱 だ け は残 さ ん と ね あ と は新 人 で も 。 冒 険 でも ど ん ど ん や れ ば い い そ う 思 って ま す よ。 澤 山 僕 は動 め て いた 関 係 で親 交 会 の こと 、 た し か高 島 あ ま り 知 ら な か った ん です が 先 生 に誘 わ れ ま し てね 、 何 か お 手伝 いでき 。 た ら と⋮ ⋮ も ぅ 七 年 にな り ま す 、 硬 い硬 い って言 わ れ て るん です が そ ん 笑 ︶ こ の メ ンバ ー な に硬 く は な いん で。 ︵ 、 に入 って よ か った な あ 、 と 思 った のは 皆 、 さ ん 僕 にな いも のを 持 って いら っし ゃる 。 そ れ が と ても 嬉 し か った ん です 、 ゴ ル フに行 って僕 な ん か ま だ 若 いん だ と 思 って いま し た ら 上 の方 には も う 何 人 も 笑 ︶若 い人 は よく 動 き 居 な いん です ね 。 ︵ 。 ま す し 、 ど ん ど ん 言 いま す です か ら 新 し 、 い人 を 入 れ て少 しづ つ変 え て行 け ば 十 年 後 に は 自 然 に変 わ って いる ん じ ゃな いです か 。 そ れ で い いと 思 いま す 。 。 大 久 保 最 後 に上 田 先 生 百 万の編 集 を や った ん です 上 田 ゎた し、 。 が ね 、 正 直 ず いぶん 悩 ん だ ん です よ ど ん 。 横 にな っても 読 な 性 格 にす る か と いう 事 。古 い 、そ ん め る様 な 、 そ れ か ら医 者 と し て以外 の特 異 な 体 験 を し た 人 が だ いぶ居 る筈 だ と 人 た ち の忘 れ 去 ら れ て いる話 も あ る 。 な あ れ これ を 考 え た ん です 今 の ス タイ ルは 公 平 に見 て面 白 いと 思 い ま す よ 。 新 し く 、 と いう 話 が 出 てま す け ど ね 、 これ は 新 し い人 の寄 稿 が あ れ ば い い事 。 で編 集 に問 題 は な いと 思 いま す よ そ れ か ら 、 何 号 で し た ? 木 内 綾 さ ん のお 。 便 り 、 写 真 で そ のま ま 載 せ ま し た ね あ れ 。 は よ か った 、 す ば ら し か った ま あ 、 ご 苦 労 さ ん でも 一つよ ろ し く お願 いし ま す 。 。 長 田先 生 と 目木 さ ん の住 居 が 直 ぐ 近 く な ん で 大久保 圭 よ か った ん です 。 や っぱ り 旧 制 中 学 は 違 う な あ 、 と つく づ く 感 じ ま し た 木 内 さん のお 手紙 、 僕 は苦 労 し ま した から 。 加藤 この雑 誌 の性格 は会 員 の皆 さん承知 。 し て います から原稿を 受 け るだ け で いい 、 とす れば残 る のはただ 一つ 投稿 が途 絶え な いこと。 さら に望 めば新 人 の原稿 が増 え 。 てほ し い、 これ に尽 きますね 上 田 尽 きます。医 者 の書 くも のは身内誉 、 め とか 一方 的なも のが多く面白 く な い と 。 部外 者 は言う ん です そ の人たち が型破 り 。 で面 白 いと言 ってく れ てます から 、 加藤 おかし い言 い方 です が この本 が カ 、 ク ッとす るか相当 変貌 す る時 は 親交会 そ のも のの何 かが大 きく変 わ る時 じ ゃな いで 、 す か。 まあ 、流 れ るよう に流 れ て行く と いう こと です か。 。 ﹃ 波久鳥 ﹄あ る限 り親交会 は健在 な り こ 。 の自負 に燃 え てやります か 。 大岩 う ん、 いいこと言 った ぉれ感 銘を 笑︶ 受 けた、う ん。 ︵ 。 大久 保 な かな か ︿クビ﹀ にし てくれな い 笑 ︶そ れ では、看板 も とう に過ぎ ま した ︵ 拍 手︶ ので この辺 でお開 き に。 ︵ ―- 27 -― 私 と政治 斉 藤 修 弥 今 か ら振 り 返 ると私 が政 治 、 と り わ け 選 初 め て臨 んだ 選 挙戦 の印象 は強烈 で、男 て強 が り ではなく 、負 け戦をす ると人 間が い経験を した と自省 し て いる。 これ は決 し 通 り松浦 候補 の大 敗 であ った。 然 しな が ら この選挙 で私 はかけが え のな ヽ らな い。 の気 持を ゆさ ぶ る スリ ルと興奮 を体 験 した 見 え てく ると云 われた 云 い伝 え が本 当 に身 にし み るよう に自覚 された から であ る。あ 印象 を 今 でも鮮 明 に記憶 し て いる。 一般 に選挙 は 一度 や ると病 み つき にな る いては選挙 の占 め る割合 が高 いのも事 実 で った。 選挙 イ コー ル政 治 と短絡 的 に考 えら れ るも のではな いが 、 現実 の地方政 治 にお 揺 るぎな い信念 と決断 力を も ってそ の公約 件 であ ろう 。 そ し て幸 いに当 選 したな らば し、 明確 に説 得す る ことが政治 家 の第 一条 の選挙 を 通 じ て私 は少 し政 治家 と有権 者 の あ ろう 。 を 実 行す る こと であ る。 それが実 際 に出 来 関係 が理解 できた のではな いかと思う 。 これ ま で経験 した幾 多 の選挙 戦 の中 で最 と いう 話 が喧伝 され て いるが 、あ ながち的 はず れな 話 ではな いも のと思 わ れ る。 この し ま った 。 今 回 た ま た ま ﹁ 波 久 鳥 ﹂ か ら原 稿 依 頼 が あ った のを 機会 に、 自 戒 を こめ て も 即象 的な のは前 回 の知事 選挙 であ った。 るか否 かが政治 家 とし て本物 か偽 物 かを 問 われ る分岐点 であ ると思う 。 一方 、有権者 はどう であ ろう か。有権 者 市 長選挙 が き っかけ で道 議 選、 知事 選、衆 政 治 に関 す る所 感 を 述 べ て みた いと 思 う 。 横 路知事 二回目 の立 起 に対抗 し て松 浦 候補 を担 いだ戦 であ った が、当初 から圧倒 的 に は有権 者 は政 治家 の動向を気 にす るよりも 挙 に関 わ る よう にな って か ら 、 早 いも の で 十 数 年 の歳 月 が 過 ぎ てし ま った 。 若 気 の い と り つき は青 年 会 議 所 現 役 時 代 の市 長 選 挙 であ った 。 時 の長 谷 川市 長 が 三 選 な る か 横 路優勢 の下 馬評 のも と、松浦 候補 の苦 戦 は覚 悟 の戦 いであ った。私 とし ては前 回横 改 め て政治 家 とは何 かと考 え ると、大衆 が望 む こと、 ま た欲 し て いる ことを 先 取 り 否 か と いう 選 挙 で、 病 気 が ち であ った 長 谷 川 市 長 では 、 当 時 か ら 色 濃 く 出 て いた室 蘭 路候補 に対 し三上候補 が善 戦 し、僅 少差 で 感 に反応 し て いく雰 囲気 を 強 く感 じられ て な らな か った。 これは組織 、 団体 、個 人を 議院 選挙 な ど幾 多 の選挙 に関 わ る こと にな 民 が 自 覚 し て いた 時 代 であ る。 今 こそ強 力 敗 れただ け に今 度 は是非 一矢を 報 いた いと 問 わず 同 じ傾 向 で、基本 的 に政 策を徹 底 的 に討論 す る方 策を敬遠 し、感 情 的あ る いは た り で つ いのめ り 込 ん で いる中 に、 何 時 し な 市 政 立 て直 し の市 長 を 選 出 し よう と いう 私 の予想を く つが えす状 況 であ った。前 回 単純 な ムード選挙 に迎合 す る日本 民族 の特 か後 援会 長 な ど と いう 重 い肩 書 き が つ いて 熱 意 が 盛 り上 が り 、 岩 田 弘 志 候 補 が 対 抗 馬 の三上候補 への地 元 の盛 り上 が り とはう っ て変 わ る保守陣 営 の低 調な支援 の落差 に愕 か か り 、 成 り 行 き上 私 が 岩 青 会 な る青 年 組 世 の中 の流 れ、 それも マス コミが リ ードす る世 論 と いう多 数派意 見 に先を争 って、敏 の動 きも不透 明 の部 分が多 い。 私 の直感 で と し て正 式 に決 定 し た のは本 番 半 年 前 の こ と であ った 。 当 然 青 年 会 議 所 にも お 呼 び が 然 とす るととも に、 選挙 に対す る市 民 の読 異性 ではな いかと思 わ れ る。 今年 に入 って自 民党 は各 種 の選挙 にお い の不 況 脱 却 は極 め て困 難 であ る と 多 く の市 調 を と り な が ら 実 際 の選 挙 戦 に於 いて或 る 織 を 結 成 し 、 市 内 の青 年 団 体 と も 同 一の歩 み の変化 、 変 わり身 の早 さ に唖然 とす るば かり であ った。 結果 は大 方 の有権 者 の予想 思 っては せ参 じた のだ が、 現実 は余 り にも 程 度 の評 価 を 受 け る活 動 を し た のが 、 今 と な っては 災 のも と と な って いる気 が し てな ―- 28 -― さ れ た 民 意 は 、 これ ま で の自 民 党 政 治 に対 て敗 北 し た 。 と り わ け参 議 院 選 挙 は 自 民 党 に と って歴 史 的 な 敗 北 であ った 。 こ こ で示 化 の チ ャ ン スにす べき だ と 思 う 。 そ のた め に は政 治 の目 標 を も っと高 く か かげ る 必要 が た ま た ま 出 来 た こ の状 況 を 議会 政 治 活 性 す れ ば 政 治 の混 乱 を 招 く か も し れ な い。 だ 衆 院 と参 院 で多 数 派 が 異 な る こと は悪 く す る 明確 な 拒 絶 であ る と 思 う 。 投 票 の結 果 は 一つの方 向 を 示 し て お り 、 い っと き の感 が あ る の で は な いだ ろ う か。 海 部 首 相 は 就 任 早 々 の記者 会 見 で ﹁対 話 と 改 革 ﹂ と いう 情 によ る 結 果 で は な いの で は な いか と 思 わ れ る。 政 治 の構 造 に戦 後 初 め てと い って い 党 逆 転 の現 状 を 考 え る と 決 し て悪 い ス ロー ス ロー ガ ンを か かげ た 。参 院 に お け る与 野 いよ う な 変 動 が 起 こ って お り 、 有 権 者 は 消 費 税 導 入 と リ ク ル ー ト事 件 に よ って政 治 ヘ ガ ン では な いと 思 う 。 し か し全 体 的 に み る 変 化 の兆 と は今 回 の参 院 選 挙 に つ いて保 ろう か。 守 系 のプ ロが ﹁こ の選 挙 ほ ど カネ のか か ら ぬ 選 挙 は な か った 。 と に かく カネ を 使 った ら か え って反感 を 買 う のだ か ら ﹂ と 云 って いた のは 興 味 深 い。 ﹁ 政 治 文 化 ﹂ の変 化 は 要 約 す れば政 治 や政 治 家 を 何 か利益 を 得 る た め の対 象 と 見 る のを や め て、 自 分 自 身 を 政 治 の主 役 と位 置 づ け る よ う にな った こと だ と 思う 。 ま だ そ こま で断 言 す る のは早 い か も 知 れ な いが 、 そ の方 向 に動 き つ つあ る のは 間違 いな いの では な いか 。 国民 の ﹁ 政 治 文 化 ﹂ の変 化 に応 じ て政 治 も 変 わ ってく るだ ろう か 。 政 治 家 は これ ま で の恩 典 の配 分 者 と し て では な く 、 いろ い と世 代 交 代 の期 待 に こた え て登 場 し た 若 い ろ の価 値 の代 弁 者 、 調 整 者 と し て の働 きを の関 心 を 強 めざ るを 得 な か った 。 そ れ が 今 度 の選 挙 で ﹁これ ま で の政 治 のあ り 方 を 変 海 部 首 相 は政 治 や 消 費 税 等 の改 革 と い っ 首 相 の発 言 と し ては 、 政 治 を 変 え て いく 熱 い気 概 が 国 民 に伝 わ って こな い発 言 で は な た 内 政 問 題 だ け でな く 、 世 界 の中 の 日本 と え た い﹂ と いう 思 いに か り 立 て ら れ て投 票 所 に足 を 運 ん だ 有 権 者 が 多 か った の で は な な った のは 当 然 であ る。 今 、 政 治 は出 直 さ いか と 思 わ れ る 。 な け れ ば な ら な いと 思 う 。 三 十 余 年 の 一党 迫 を 吐 露 す べき だ と 思 う 。 政 治 家 は年 令 的 いだ ろ う か 。 自 民 党 に対 し て厳 し い結 果 に 支 配 の間 に自 民 党 は 謙 虚 に 民意 を く み上 げ 無 理﹂ る姿 勢 を い つの間 に か 忘 れ 、 ど ん な ﹁ に若 いと いう だ け で は意 味 が な いの で は な か ろ う か 。 改 革 への情 熱 と 勇 気 を 実 行 し て 変 化 は単 に政 治 の世 界 に止 ま るも の で は な いと 思 う 。 医 師 と患 者 、 医 師 と 地 域 社 会 、 し か し な が ら 我 が 国 の政 治 も 確 実 に変 化 ﹄ らな い。 行 動 が 必 要 と さ れ て いる よ う な 気 が し てな り従 来 のし が ら み や 慎 習 を 打 破 す る 理念 と 或 いは 日本 医 師 会 を 頂 点 と す る医 師会 内 部 にお いても 、 確 実 に変 化 の兆 は 現 わ れ て お の兆 が 見 え る気 が し てな ら な い。 これ ま で こそ若 さ と 云 え る の であ り 、 若 い首 相 の今 要 求 さ れ る時 代 が き て いると 思 う 。 ひ るが え って周 辺 を 眺 め る と 、 これ ら の でも 通 用 す る と錯 覚 し た の で は な いだ ろ う 後 の活 躍 に注 目 し て見 守 り た いと 思 う 。 いう スケ ー ル の大 き な 難 問 に立 ち 向 か う気 か。 追 い風 ﹂ が 吹 いた 。 き 一方 社 会 党 には ﹁ っと同 党 幹 部 でも 予 想 で き な か った よ う な 勝 利 であ ろう 。 各 種 の世 論 調 査 では これ ま の数 少 な い経 験 か ら み ても 、 政 治 の風 土 あ る いは ﹁ 政 治 文 化 ﹂ に この と ころ 変 化 が 読 み と れ ると 思 う 。 そ の意 味 で私 た ち は 今 、 重 要 な 変 わ り 目 に立 って いる の で は な いだ いう のが偽 わらぬ実感 であ る。 そう いう意 味 で私 にと って、 躍動 期 に入 った今 の政 治 は我 が身 のす ぐそば に在 ると で自 民 党 に投 票 し て いた 女 性 や 若 いサ ラ リ ー マン、 学 生 な ど が 自 民 党 離 れ を 起 こし て いる こと が 明 ら か にな った 。 し た が って社 会 党 の勝 利 は 自 民 党 の失 政 に よ る と ころ が 大 き いと い ってよ いだ ろう 。 ―- 29 -― 寅さん 上 田 智 夫 、 平成 元年 八月 現在 ︶、 フー テ つい最 近 ︵ 一度も ンの寅 さん の最近作 が上映 された。 寅 さん の映画を 見 た ことがな か った のだが ロケ場所 が ウ ィー ンと いう事 な ので映画館 に足を 運 んだ。 お客 さん は八人、 これ でも 最 近は平均 的な お客 だ そう であ るが、前 の 席 に見 おぼ え のあ る人が座 っており、上映 が終 ってみ るとやは り岩 田室蘭 市 長 さん で あ った。曽 遊 の地 ウ ィー ンが懐 かしく て見 に来 た と の事 で、 このあ と 二人 で思 い出 を 語 り人口った。 ウ ィー ンは安斎 先 生が時 々行 かれ て いる し、吉井 先 生 のお嬢 さん は音楽 の勉 強 で、 本庄 先 生 の征 子息 は医学 の研究 で永 在住 し 一寸出掛 けた私が旅行 記 ておられた ので、 を書く のは当を 得 て いな いが 、雑 誌 の埋 め 草 にと の要請を 受け て いた ので、室蘭 の寅 さん の行状 記とし て書 か せて貰 った。 イ スタート ル ンクも黒 山 の人だ かり で頭 越 し に見 るだ け。強行 軍 と飲 みす ぎ でや や お 昼食 だが 、 ど こも人 の波 、市 庁合 の前 の マ ミ ュン ヘンま で 某 月某 日、 た ま の休 みを 利 用 し てオ ー ス ト リ ア周辺 の旅 に出 た。本物 の寅 さんと違 って スポ ンサ ーは いな い。黒猫 ヤ マト の言 疲 れ。 ﹁ プ フアル ツ城﹂ な ど覚 え 切れず 、 ﹁ロー レ ライ﹂も 一瞬 の間、名 所、 旧跡 は、柴 又 の帝釈 天 の様 に 一箇 所 に離 れ て いる のが い い 孔 々 ロ マンチ ック街 道 は、 ロー テ ンブ ルグ で 旅 は手 ぶら でなくち ゃ﹂ い草 ではな いが ﹁ とば かり、 A BCを 利 用 し て成 田カ ウ ンタ ビ スで日本 語解説 もあ り、 この順 番を待 っ て更 に二十 分 く ら い。寅 さん には有難 いが、 、 旅行 案内 な ど で大 方 の人が 知 って いる ル ードヴ ィ ッヒニ世 と ワグ ナ ー の関 り合 いが 主 で、城 は外 から眺 めた時 が 最高 であ った 。 英 、 仏 、伊 の各国 語 のガイ ド の他 に、 サ ー ノイ シ ュバ ンシ ュタイ ン城 は ムード前 点 、 の雪 の中 だ が、 これ も城 の前 で 一時 間、独 ーま で荷物 を 先 送 り した。 手 ぶら で成 田 に 入 った のは いいのだ が、空 港 は超 混雑 で寅 さん の荷物 は な かな か出 て来 な い。集合 時 間は迫 って来 る、寅 さんたま らず 荷 物 の山 に踏 み こん で、汗 だ く でや っと自 分 の荷 物 を 探 し出 した。 混む時 には面倒 でも ラゲ ー ジは持参 が よ い様 であ る。 予定 であ った ル フト ハンザ でなく、 飛行 機 は悪 名高 いJA L。 コペ ン ハーゲ ンで乗 り換 え てや っと ル フト ハンザ、 お目当 ての 夜 ミ ュン ヘン ホ テ ルで酸 っぱ いキ ャベ ツを 山盛 り に食 一つだ った お土産 用 のオ リジ ナ ル時計を 買 った。 フラ ンク フルト の入回 は パ スポ ート の表 み。 こ こで寅 さん のお せ っか いが頭を もた げ、 ﹁ ホ ー フブ ロイ ハウ スに行 って来 る﹂ と言う と、忽 ち同 行 八人が集合 。責 任 は重 て いく かと思 って いた ら、面倒 が って尻込 べさ せられ、畜 生食 費を ケ チ ッたな と思 っ たが、 これ はザ ウ エルク ラウト。折角 のミ ュン ヘン、食事 の後 ビ ヤホ ー ルにでも つれ 紙を チ ラ ッと見 るだ け。 同 行 の 一人口く、 ﹁これ じ ゃ成 田出 国 、 入国 の スタ ンプだ け で、 ど こに行 ってきた のかわ かんな いや﹂ と残 念 が って いた。寅 さんも 、 ﹁スタ ンプ くら い手を抜 く な﹂ 、 と成 張 って見た か っ たが適 当 な言葉 が わ からな いのでや めた。 猫 の城﹂ ねず み の塔﹂ ﹁ ライ ン下 り は、 ﹁ ―- 30 -― いが アポ イ ント は 取 って いな い。 ま ま よ と ば か リ ハイ ヤ ーを 呼 ん で ﹁ホ ー フブ ロイ ハ ウ ス ヘ﹂ 。 さ て、 こ の ヒ ット ラ ー の ミ ュン ヘン 一揆 で有 名 な ビ ヤ ホ ー ルは 、 店 の前 に オ ー スト リ ア ヘの通 関 は 例 に よ って フリ 、 ー パ ス。 イ ン スブ ル ック 一泊 後 モ ー ツ ア ルト と ﹁サ ウ ンド オ ブ ミ ュージ ック﹂ の舞 長 い列 が 出 来 て いる。 悪 い事 と は 知 り な が ら素 知 ら ぬ顔 で店 内 へ、 マス タ ー と覚 し き 台 、 ザ ル ツブ ルグ 。 夕 食 後 、 ド レ ス ア ップ こ こか ら の眺 め は 、 ライ ト ア ップ し た 宮 殿 、 れ て席 に つく が 、 ま わ り に日本 人 は いな い。 が 、 上 階 は カ ジ ノ でぁ る 。 ボ ーイ に案 内 さ し て、 カ フ エウイ ンク ラ ー ヘ、 同 行 者 な く 寅 さ ん 一人 。 こ の店 は ず ル ツブ ルグを 見 渡 す 丘 の上 にあ って有 料 エレ ベ ー タ ー で昇 る お っさ ん に、 寅 ﹁ 空 いた席 は な いか﹂ 空 席 はな い。 並 ん で待 って いる﹂ マ ﹁ 我 々は 日本 か ら 、 こ の有 名 な ビ ヤ ホ 寅 ﹁ ー ル にや って来 た 。 何 と か な ら な い か﹂ 、 マス タ ーは首 を 振 るだ け 。 夢 中 な の で 一部 英 語 も ま 動 詞 と 固 有 名 詞 は ドイ ツ語 、 寸 つか え ぎ み であ った 。 帰 り の タ ク シ ー で メ ー タ ーが 来 る時 よ り 一寸 多 か った が 、 チ ップ を 合 め て支 払 う と 、 ﹁ ナ イ ン﹂ 。 実 は デジ タ ル表 示 の上 の表 示 は 時 計 で、 メ ー タ ーは下 にあ った 。 大 笑 い を し た が 、 理由 のな い料 金 を 受 け 取 ら な い オ ー スト リ ア人気 質 に、 寅 さ ん 思 わず ﹁え ≡ らい﹂ 。 ウ ィーン 宿 泊 は市街 から五十 分 か かる所だ ったが、 地中海 ク ラブ の姉妹 ホ テ ルとか で、行 程 の 中 の唯 一のデ ラ ック ス。 テ ニス、ゴ ル フ、 プ ー ル、 アーチ ェリ ー等 々完備 。 日本 び い き の女 の子がピ アノを ひく バ ーで、気持 ち ヴ アド スを飲 んだ 。 何 分 ホ テ ルが市街 から遠 いので、出 た ら よく ド クター ・ラヴ イ ックを気 取 ってカ ル 街 の案 内 が 一寸 わ か ら な いの で、 離 れ た 街 の輝 き 、 遠 く の山 道 を 走 る車 の ライ ト の 、 列 な ど 、 痛 く 寅 さ ん の気 に 入 った 。 食 事 五 千 円 一寸 ︶ ワイ ンと も 約 五 百 シ リ ング ︵ 所 で食 事 し て いる 日本 人 ら し い人 と外 国 婦 は 、 日本 では 考 え ら れ な い値 段 であ る。 彼 が 話 す﹂ マ ﹁ と ボ ーイ を 呼 ん でく れ た 。 今 度 は ド イ ツ じ り 時 に 日本 語 も 入 って いた 様 だ 。 寅 ﹁ 英 語 を し ゃ べる スタ ッ フは 居 な いか ﹂ 語 ま じ り の英 語 で、 手 ま ね よ ろ し く し ゃ べ 人 の カ ップ ル に声 を か け て み た 。 マダ ム。 メイ 寅 ﹁エク スキ ューズ ミ ー 、 ト ナ ー﹂ 、 マダ ム フ﹁エス、 シ ュア﹂ ガイ ド氏難 色を 示すも、 一方 的 に押 し切 っ て解散 。 帰 る迄 の時 間 は貴 重 であ る。 ベ ルベデー レ、 シ ェー ンブ ル ン等 一通 り の観光 ののち、 ツ わ れら に自由を ﹂ 。 三時 間後 に アー 一同 ﹁ オ ペ ラ座 の横 に集合 す るから とね じ込 んだ 。 勿 論 、 勇 を 鼓 し て声 を 掛 け る ま で 二、 三 ウ ィー ンは、 リ ンクと言 われ る環状 の部 分 に、 オ ペラ、 シ ュテ フ ァン寺 院 、 ケ ル ン アイ 、 ト ー ク、 ウイ ズ 、 ユア、 パ ー る と、 ボ ーイ ﹁O K こち ら に来 い﹂ と空 いた店 に案 内 し てく れ 、 面 目 を ほ ど ー スを 二杯 飲 ん で驚 か れ た が 、 何 、 ド イ ツ 回 国 の中 でブ ツブ ツや って み て か ら であ る。 と ころ が こ の紳 士 は 、 ロサ ンゼ ル ス の胸 部 こし た が ド ッと 冷 汗 が 出 た 。 ビ ー ル のグ ロ 人 は 五 、 六杯 は飲 む よ。 心 臓 外 科 の横 山 太 郎 氏 で、 も う 日本 語 も 一 翌 日 ガ イ ド 氏 に こ の話 を す る と 、 そ の押 し が あ れ ば ツ ア ー ガ イ ド が つと ま る よ と あ ト ナ ー通 り、美術史博 物館 、王宮 、市 庁舎 、 き れ顔 。 一- 31 -― ザ ル ツ フ ル グ で も よ く 出 会 った 、 志 を 抱 いて勉 学 に赴 い た も の の色 々な 事 情 で挫 折 し 、 プ ライ ド だ け が 鼻 に つ いて観 光 に来 る同 胞 を 一段 下 に 見 下 し な が ら 、 実 は ガ イ ド の収 入 が 本 業 に な ってし ま って いる 一群 の人 々 の 一人 の様 に見 え た 。 寅 さ ん の様 に常 々、 ﹁ 生 れた ま 犬 を 飼 う 資 格 が な い﹂ な ど と ま 育 った ﹂ ﹁ 言 わ れ 屈 折 し た 思 いを し て いる 人 間 には裏 新 酒 の居 夜 は グ リ ン ツイ ン の ホ イ リ ゲ ︵ 側 が 見 え る のか も し れ な い。 .′ 国会 議事堂 、ブ ルグ劇 場 、市立 公園等 が ス ッポ リ入 って いて、 一人歩 き には絶好 であ る。 ただ美 術史博物館 は長蛇 の列 で、待 ち 時 間 一時 間と聞 いてあ きら めた。市庁舎 の 食堂 、 ラート ハウ スケ ラー の騎 士 の間、 リ ッターザ ー ルで食事 を と思 って いたが 、満 杯 でお断 わり され、 オ ペラ座 の真 裏 にあ る ホ テルザ ッ ハーで コー ヒーと ケーキ にす る。 ザ ッハート ルテ﹂ は、 ガイ ド氏 の 有名 な ﹁ 説 明 では四百 六十 カ ロリ ー、 ウイ ンナ ー コ 酒 屋 へ︶ で さ よ な ら パ ー テ ィ ー、 あ ま り盛 り 上 が ら な いの で髭 の ア コー デ ィオ ン に声 ―- 32 -一 ー ヒーとも では六百 カ ロリ ーあ ると の事 、 猛烈 な甘 さと 一寸洗練 され な い感 じだ が、 を か け てh 菩 提 樹 、 ロー レ ライ 、 会 議 は 踊 る か ら 、 お 別 れ の オ ー ルド ロ ング ザ イ ン の ベ ー トーベ ンの 下宿 永 い伝統 の味 とは こんなも のか。 頃 には 同 行 の人 達 も 大 分 参 加 し 、 ド イ ツ人 、 すぐ 近く のブ テ ィ ック和光 は、プ チポ ワ ン等 の手軽 な お土産 には、 日本 人店 員 も お フ ラ ン ス人 、 英 国 人 の団 体 も 、 手を 振 り合 唱 に加 わ って、 さ よ う な ら 。 エン﹂ 。 ウ ィ ー ン の街 よ さ よ う な ら 、 ま た 必ず や って来 ま す 。 イ ゲ ン等 の政 治 家 な ど 数 え 切 れ な い銅 像 に 敬 意 を 表 し つ つ、 ﹁アウ フ、 ヴ イ ダ ー ゼ ー ア ・テ レジ ア、 カ ー ル大 公 、 プ リ ン ツ 。オ 楽 家 、 ゲ ー テ、 シ ラ ー の文 豪 、 宮 廷 の マリ ツ ア ルト 、 ヨ ハン ・シ ュト ラウ スな ど の音 の街 の ベ ー ト ー ベ ン、 シ ュー ベ ルト 、 モー 数 々 の思 い入 れ で お とず れ た 、 ウ ィ ー ン りすぐ免税 手続 きも出来 る ので便 利 ではあ る。 ケ ル ントナ ー通 り では結 局 オ ー スト リ ア煙草 ベ ルベデー レを 買 った位 か。 ウ ィー ンの現地 ガイ ド氏 は自称 ﹁ニセ、 ベート ー ベ ン﹂ 。第 二 の男 で有名 な遊 園地 プ ラターから、 ウ ィー ンの森 、 ハイ リゲ ン シ ユタ ツトと案内 したが、本業 は ウィー ン の音楽学 校 の助教 授 とか で、寅 さん と同 じ く放浪癖 のあ った ベート ーベ ンの十何 番 目 か の下宿 の 一つで、 手書 き の楽譜 や、 ハイ リゲ ンシ ュタ ット の追 書 に ついて説 明し、 成 る程 一応 のプ ロだ な と首肯 は さ せた。 し かし寅 さん の的屋 の感 では、 ロー マや パリ ホーフブロイハ ウスで「乾杯 」 グリンツインのホイリゲ ら さ よ う な 一話 竹 内 隆 αo﹁ 一刊 ⊂コ戸付 第 ゲ ー テ フ アウ スト の第 二部 は ∪協 J ︼争↓E ヴ︸ ︼ B r目β で終 っ 画ミド ・<o中 ⇔ ている。/永遠 に女性なるも の、われを招 きよす るよ/ である。 茅野 請 々 訳 学 生 の頃 のあ る夏 休 の こと、慶応 に行 っ た友 人 から聞 いた 話。 茅 野教 授 の フアウ スト の講義 は学 生を 酔 わ せるような名 訳 で終 った。 的 ︶な るも のとは何 学 生 永 遠 に女性 ︵ です か? 、 茅 野 そ れ はね、 辟 ﹂ 句目 ∬ です ょ 分 りま せん か。 、 教 授 は おも む ろ にチ ョー クを と って 黒 板 一杯 に最も シ ンプ ルか つ原始 的な 女性 の シ ンボ ルを 描 いて、教室 を 出 て行 かれた。 当 時、女子学 生 は居 らなく て幸 いであ った ︶ ︵ ち の し ょう し ょう ︶明治 、 茅 野 請 々 ︵ 第 一一話 王 金早 老 子 上編 を 谷神 不死、 是謂玄牝 、玄牝之 門 地根 、綿綿 若存 、 用之 不勤 谷 神 は死 せず 、 是れ の問、是 れを 天地 の根 と謂う 。 、 是謂天 存す るが若し。之を 用うれども勤きず 。 註訳 玄 牝 玄 は神秘 な。牝 は牡 に対 し て女性 。 であ り、 したが って物を 生 み出 す力 であ る 門 々が天地 の根 であ る ことは ゆえ にそ の ″ 容 易 に理解出来 る。 綿 綿 若存 い つま でも続 く 。 用之 不動 尽 き は てる ことがな い。 老子は難解 であ る。どう いう ふう にも解 釈出来る。何を言 って いるのかわからぬと 老 ころが沢山あ る。非常 に飛躍が多 い。 ︵ 荘研究 の第 一人者 小川環樹博士 ︶ 世 界 の名著 老 子 荘 子 中央 公論社 参 考資 料 老子は孔子 の教え に対する アンチテーゼ 湯川秀樹博士 ︶ であ る。 ︵ 経 て慶 応大学 教 授 。 ゲ ー テお よび 近代 詩 の 大 正 、昭和 期 のドイ ツ文学者 、 三高教 授を 研究 で知 られ て いる。 ―- 33 -― 純 血 教 育 室 江 蘭 ほし いと の書面 によ る丁重な依頼 を 受 けた 今 は時効 の 一昔前、某 女 子短 大 の校 長 よ り ﹁ 純 血 教育﹂ に ついて学 生 に 一席 ぶ って も のであ る。如何 な る理由 で産婦 人科 医 の 学 的 に納 得 し難 い事 が書 いてあ ると、あ と はもう 読む気 が しなく な り、 お っぽり出 す ことがあ る。あ る医 大 の教 授 は大 の嫌 煙家 で、あ る座 談会 で、 ﹁タバ コを 吸う医者 に 名医 は いな い。私 の教室 では全員 に禁 煙を わ せ て いる﹂ と い って いるが 、 この 一言 誓[ で この有 名教 授 の学説 ま で信 用出来 な くな る のであ る。 反対 に学 生時代 の授業中 、脱 でし ょい ︵ 全 く な い︶ 今 ま で真剣 に聞 き入 って いた学 生がざ わ め き出 した のは当 然 であ る。今 この話を ヤ ング にしたら どう であ ろう か。 ﹁ 彼 氏 の痕 跡 が 私 の体 に残 って いるな ん て素 敵 ジ ャ ン﹂ とか ﹁せめ て子供 が前 の彼 氏 に似 てく る の は満 足﹂ とか純潔 教育 も 逆効 果 にな る ので はあ ります ま いか。 講 演 が終 ってから の質堤応答 で ﹁ 結婚 に にな いが 、終始 コンド ーさん の世 話 にな っ 際 し て非処 女を 告知 す べきかどう か﹂ と い う のがあ った。相 手が みだ り に他 に告 知 す て いれば純 血 であ った ︵ 純潔 ではな い︶と 線 と いう か漫 談ば かり で時 間 が終 る教 授 が いた が、名講 義 と し て印象 に残 って いる こ とがあ る。 さ て当 日 の脱 線 、言 わず もが な の部 分 は こう であ る。 ﹁ 皆 さん、精 子免 疫 と いう医学 用語 があ ク スは子宮癌 にな る率 が多 いとか のオド シ えば初潮 教育 のと ころ では、 小学 校 三年 の もう 子供 が母親 に月経発来 を告げ ると、 ﹁ 来 た の、 いやね え ︱﹂ と いう 母親 の心な い 言葉 に深 く傷 つき、以来 月 経困難 症 に悩 む 実際例 な ど、 又 STD の話 や、若年 のセ ッ ︵ 真赤 な嘘 ︶添 いとげ れ な か った深 い仲 の の外 、管 理 に気を 付 け る訳 であ ります。 この事 は犬 や猫 でも同様 な のであ り ます 。 名 馬 は生 まれな く な る ので、馬産 地 では殊 倫 した りす ると、 それ 以後 は血 が にご り、 対す る言葉 使 いには留意 す る必要 があ る。 る場合も あ る ので、癌 の告 知 とは 又別 のむ ず かし さがあ る。ど んな答 を出 した か記憶 りま し て、 処女 が男性を 受 け入れ ると、腔 、 告 知 し てよろし いと解答 し て失笑を か った のを覚 え て いる。 も適当 に入れた。 真剣 に頷 く学 生 に気を よく し てお ったが、 彼氏をあ き らめ て他 の男 と結婚 したが 、子 は固く辞 退申 し上げ た ことは云う ま でも い。 ―- 34 -― 小生 にお鉢 が廻 って来 た のか知 る由 も な い し、 ﹁ 純潔 ﹂ の間違 いかとも思 純 血﹂ は ﹁ ったが、要 は道学者 風 にパ ンツの組 を しめ 直 す よう説 教 せよと の意 に解 した。 女臭 い教室 に入 って いく と、黒板 に ﹁ 純 子宮 より若 干 でも ザ ー メ ンが吸収 され 、血 中 にそ の男 の抗体 が出 来 、も はや純 血 では 囚 み に今 は コンド ーさんな ど と云わず 、 終 り頃 に つい脱線 し て仕 舞 った のであ る。 供 が昔 の彼 氏 の顔 にそ っく り にな って来 て、 血 に ついて﹂ と血 の字 が ついた演 題が書 い てあ る。先ず は性教育 の序 論を は じめ、例 と の大 切 さは動物 の世 界 でも そう であ りま な くな る のであ り ます 。古 来純血 を 保 つこ 例 の エイズ 騒 動 以来 プ ロテクターと いう の が ナ ウな名称 で、ま た生娘 と いう 語 は死語 にな り発昔 上 既娘 と解 され る のでヤ ング に 一寸 の脱線 で脆 くも潰 如何 な る卓 見 も、 嫁 さんが仰 天す ると いう 話 が よくあ ります し て、名 サ ラブ レ ッドが 一度 でも駄 馬 と不 れ ると いう典型 であ った。 よく医事 評論家 汗を ふき ふき狙 梶 た る思 いで退場 した の 、校 長室 でう やう や しく出 された講師 謝 の健康 に関 す る ハウ ・ツウ物 で、 一ケ所医 な 礼 で 快晴 の旭岳 里︻ 光 康 夫 今 年 の親交会 旅行 は好 天 に恵 まれた旭 川 方面 一泊 旅行 であ った。七月 八 日 の旭 川は 気 温三十 度 で快晴 。低 温海 霧 の室蘭 から見 一夜 明けた九 日も朝 か ると全 く羨 ま し い。 ら快晴 で雲 一つな い。午前 八時 、投宿 した 、途 パ レ スホ テ ルを デ ラ ック スバ スで出 発 中 旭 川空 港 に隣 接 す る東 神楽 の大 雪 山 カ ン ト リ ー ク ラブ でゴ ル フ組を降 ろす 。 バ スは旭岳を 目指 し天 人峡 と の分岐点 を 左 折す る。道 は急 勾 配 とな り、原 生林 の中 の全面 舗装 の道 路を 快道 に登 り、旭岳 温泉 そ こは高 度千 二百米 、すぐ近く に残 雪 が あ り、 そ こを 通 って登 山道が続 いて いる。 暫く登 って行く と、左 右 にキ バナ シ ャクナ ゲ や エゾ ツガザ クラ等 の高 山植物 の花 の饗 宴 が 人 々の眼を楽 しま せて呉 れ る。 や が て展望 台 に着 く。眼前 に 二千 二百 九 十 米 の主峰 旭岳 の雄姿が迫 る。 そ の右 に自 雲岳 、左 に北鎮 岳 、更 にそれ に連な る大雪 連峰 の展望 が素 晴 らし い。旭岳中 腹 からは 四、 五条 の噴 煙 が盛 ん に上 が って いる。そ の左 右 に登 山道 が続 き、登 山者 が登 って い る。右 側を 登 ると途中 に姿 見 の池 と旭岳 石 室 があ る。 突 然 、 スピ ーカ ーで監視 貝 から登 山道 の ロープ からそれ てお花 畑 に入り込 まな いよ う注意を 受 け て いる人が いた。先 日も高 知 大 学 教授 が高 山植 物を盗 掘 し て告 訴 された 由 。登 山 の マナ ーは守 りた いも のだ。 時 は過ぎ 駅前 で記念写真 を撮 リゴ ンド ラ を 通 り抜 け、 やが て終 点 の旭岳 ロープ ウ エ ィ駅駐車 場 に つく 。交 通 の至便 さと、 最近 の レジ ャーブ ー ム のせ いか、若 人 は勿 論 の に乗 る。静寂を 破 リ ウグイ スの鳴 き声 が聞 こえ る。水芭蕉 が咲 いて いると誰 かが言う 。 食後 入浴 の時 間もなく 、 二時 過ぎ 再び バ スに乗 り帰路 に就く 。車 窓 から見 る旭岳 は が入 り暑 か った。 運動 と空 腹 で食事 が 旨 い。然 し気 温が 三十 一度 で クー ラーがなく、 ま た窓 からは熱 風 バ スで少 し下 が り旭岳 温泉 に着く 。昼食 のジ シギ スカ ン料 理 に舌鼓を 打 つ。適 度 の 事 、老 人 や幼 児を ま じえ た大 群衆 に吃驚 す る。登 山 に詳 し い人 の話 では、 こんな雲 一 つな い上 天気 の旭岳 は非常 に珍 し いと言う 事だ。 四十 分 程待 ってから定 員 四十 六名 の ロー プ ウ エィ のゴ ンド ラに乗 り、眼下 にダ ケカ ンバ、 ハイ マツ、 アカ エゾ マツ等 の原 生林 や残 雪を眺 めな が ら、天 女が原 駅を 中継 し 三十 分程 で姿 見 駅 に着 く。 ―- 35 -― 司 J 司 1 1 1 モ ー ー ー 急 に雲 が かかり五分程 でまた雲 が去 り、山 の天候 の激 変 に驚 く。 途中 ゴ ル フ組を収容 し、 バ スは高 速道 路 を 経由 し て午後 八時室 蘭 着 。室蘭 は矢張 り 雨 でした。 医師 親 交 会 旭 川旅 行 記 斉藤 甲 斐 之 助 7月 8 日、 9 日 と 一泊 二 日 の旅 程 で恒 例 の医 師 親 交 会 旅 行 が 催 さ れ ま し た 。 大 岩 先 生 、 畠 山 先 生 が中 心 と な って企 画 立 条 さ れ 、 私 自 身 も 幹 事 の 一人 と し てお 手伝 いす る立 後 で分 った こと ですが ゴ ル フは 3組を 予 5名 の参 加希 定 し、確 保 し て いた と ころ に1 望 があ り、畠 山 先生を 慌 てさ せ、懸命 の努 にも食 指 が動 いた のです が、今 回 はゴ ル フ を楽 しま せ て いただ きま した 。 神 居古 渾を眺 め、 ガイ ド嬢 の美声 に聞 き惚 れな が ら、まだ まだ 明 る いう ち に旭 川市内 に入 りま した。 ホ テ ルま であ と十数 分 と い 平 野を横 に見な が らビ ー ルを片 手 に談笑 し、 とも トイ レ付 き のバ スを 仕立 てる ことが幹 事 の責 任 と恥 じ入 った次第 です 。 宿 泊 は旭 川 パ レ スホ テ ルと いう こと で、 まし た。 バ スの正 面 には例 の ベ ンツ マー ク の他 に ﹁ 室蘭 市医師会 御 一行 様﹂ と いう紙 も張 ってあ り、次 回 から は ベ ン ツではなく と で、 ついに止 むを 得ず 、臨時停 車 いたし 天気 は上 々で、 バ スの高 い座席 から石狩 力を な さ った のです が、結 局 4組 は とれず う所 で後 方座席 より SO Sがあ り、某 先 生 の勝肌が非常 に危険 な状 態 に陥 った と の こ 畠 山先 生を 含 む 1組 は旭 川市 近郊 の旭 川 ゴ ル フ倶楽 部 ︵ 台 場 ゴ ル フ場 ︶を ラウ ンドす ると いう こと にな り ま した。 さ て、旭 川ま では道南 バ スの誇 る豪華 サ ロンバ スによ る大 名 旅行 と いう こと で、市 内 各 所 で先 生方を ピ ック ア ップ した後 、登 別室蘭 イ ンタ ー で最後 に皆 川先 生 が乗 り 込 地方 都市 の ﹁パ レ スホ テ ル﹂ には余 り期待 しな い方 が良 いと いう大 方 の予想 に反 し、 ん で全 員集合 し 一路旭 川を 目指 しま した。 このバ スの正 面 には メ ルセ デ スベ ンツの マー クが誇 ら しげ に ついており まし て、中 場 にあ った の です が 、 余 り 役 卜は立 た な か った よ う です 。 今 年 度 は 旭 川市 に 一泊 のう え 大 雪 山 を ロ ープ ウ ェイ で姿 兄 の池 ま であ が り 、 付 近 を 散 策 し た後 、 旭 岳 温 泉 に降 り る と いう ハイ キ ング 組 と 、大 雪 山 カ ント リ ー ク ラブ で終 旭 川 の夜 は いろ いろ とあ った よう です が この部 分 は省略 いたします。 昨年 新 築 オープ ンしたば かり、設 備も良 く 食事 も まず まず 、 8 6街 にも 近く、今後旭 1 央 より後 部 は仕 切られ て別室 とな っており、 何 や ら怪 しげ な雰囲 気 が漂 って いると いう 1 川 で宿 泊 予定 の方 には おすす め いたし ます。 1 0年 近くを 経 代物 でした 。後 程 このバ スは 1 過 した中古 物 件 であ る ことが判 明 しま した が さすが に ベ ンツ、終始快 適 な旅行を提供 i 1 l I I I ・ I I l l l 1 1 ・ I I I I I I I I 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 翌 日、例年 はゴ ル フ組 には送 迎 の手段 は 用意 され な いと の こと でしたが 、今 回 は親 ! I 少 し 前 ま では室 蘭 か ら 旭 川 ま で車 で行 く l を 終 了 し、 予 定 通 り 8時 過 ぎ に室 蘭 に 帰 着 しました。 1 I 切 にも大 雪 山 カ ント リ ー ク ラブ ま でバ スが 寄 ってく れ る と いう スケジ ュー ルにな って ︰ I に は多 少 の覚 悟 が 要求 さ れ た か と 思 いま す が 、 現 在 道 央 自 動 車 道 は滝 川 ま で伸 び てお ー I 私 にと っては久 し ぶり の旭 川 で、 大 雪 山 ー I り 、 各 サ ービ ス エリ ア で ト イ レ タイ ムを と ー I で は学 生 の頃 に 、 随 分 と スキ ーを 楽 し ん だ ー I り つ つ4時 間 半 で旭 川 市 中 心 部 の パ レ スホ ー ︱ 思 い出 は あ り ま す が 、 夏 の姿 見 の池 は 知 ら ー ︱ おりま した。気 温 は順調 に上昇 し、午後 に 2度 近く ま で に達 し、 ま さ にサウナ風呂 は3 の中 で棒 を振 り 回す よう な ラウ ンド でした。 ー ︱ テ ルに到 着 し ま し た 。 1 し てく れま した。 ︰ 日 ゴ ル フを 楽 し む ゴ ル フ組 と に分 れ 、 両 日 1 共 に素 晴 ら し い天 候 に恵 ま れ て無 事 全 日 程 1 な か った も の です か ら 、 ハイ キ ング の ほ う ー 1 1 1 1 ―- 36 -― 1 1 、 私 事 にな り ま す が 、 最 近 自 動 パ ン焼 き 、 器 と いう も のを 手 に入 れ ま し て 毎 朝 焼 き 、 立 て の パ ンを 食 べ て いる の です が これ が 実 に美 味 し く て っ い つ い朝 か ら食 べ過 ぎ て し ま う せ いか 、 体 重 が オ ー バ ー気 味 だ った も の です か ら 元 に戻 す 絶 好 の チ ャ ン ス では あ りま した。 ラウ ンド後 ひ と 風 呂 浴 び て確 め た と ころ 確 か に 3 珀 の減 量 に成 功 し た か の よう に み え た の です が 、 失 った 水 分 以 上 のビ ー ルを 腹 に流 し 込 み 、 帰 り の車 中 で旭 川 駅特 製 の 駅弁 を 食 べ て み る と 結 局 は何 にも な ら な か つた よ う で し た 。 大 雪 山 登 山 の方 も 、 後 程 、 写 真 を 見 る と 、 写 真 に写 さ 絶 好 の天 気 に恵 ま れ た よ う で れ る時 は よ ほ ど 気 難 し い人 でも 大 抵 は笑 顔 を 見 せ る も の です が 、 ど の顔 も とび き り の 。 笑 顔 で写 って いる のが 印 象 的 で し た バ ス の方 は 親 切 にも 大 雪 山 カ ント リ ー ク ラブ 、 そ し て帰 り には 台 場 ゴ ル フ場 にも 立 、 ち 寄 り 、 も う 1組 を 拾 い上げ て 同 じ道 を 。 た ど って室 蘭 へと向 か いま す 畠 山 先 生 方 は 何 と こ の猛 暑 の中 1 ラ ウ ンド 半 回 って き た と の こと 、 さす が にプ ロは違 う と感 心 さ せら れ ま し た。 予 想 し て いた ょ う な 渋 滞 も な く 順 調 な ド 、 ライ ブ だ った の です が 用意 し て いた ビ ー ルが つ いに底 を つき 、 高 速 道 路 の サ ービ ス 、 エリ ア に は酒 類 の自 販 機 は な い と いう 新 、 も 民営 団 路 公 道 、な し い発 見 を し ま し た 。 考え て み れ ば そ の通 り な のか も 知 れ ま せ ん が 化 され れ ば 少 し は考 え も 変 わ る ので は ど と く だ ら な い ことを 考 え て いる う ちに バ 。 スは雨 の室 蘭 に到 着 いた し ま し た 前略 このたび は波久鳥 第 九 号を お送 り 。 頂 きあ りが とう ござ いま した 嬉 しく拝読 致 しま した。 東 町 旧医 院 の管 理 の為 、今 でも ニケ月 に 、相 変 わらず 中 一度 位 は室 蘭 を 訪 ね て居 り 島 町あ たりを 時 々う ろ ついて居 ります ので 会 員 の諸先 生方 にも たま にはお目 にかか る 機会 があ ろう かと思 います。 会 の益 々のご 発 展 と皆 様 のご 活 躍を お祈 車 々 り申 し上げ ます。 函館 市 広 野町 六番 広 野町住 宅 四 〇 三十 二 二号 山本 健 二郎 ︶ 一一 一 二 。一二 ・一一 ︵ ハ一 拝復 木 日はま た 御 心 にお懸 け いただ き ﹁ 波久鳥 ﹂ 第 九 号御 恵 送下 さ いま し て誠 に 有難 うご ざ いま した。 一昨 、昨 日と急 に雪 と風が訪づ れ て些 か 、 悲 しく な って居 りましたが 波久鳥 の訪づ れ と共 に先 程 から青空 と最涯 の陽光 が 日 に 滲 み て居 ります。 編 集委 員 の方 々の御 尽力 の程頁 毎 に読 み とれ ます 。 六十 二年十 一月 に親交会 の香港 マカオ旅 行 があ った由 、恰度私 も其 頃 アジ ア ・オセ ア ニア学会 で其 方 に行 って居りました ので 一入懐 かしく感 ぜ ら れます。 六十 二年 も旬 日を 経ず 終 ろう とし て居 り ますが、医師会 親交会 のご発 展ご隆昌 と諸 。 先生 の御健勝を遥 か に祈 り上げ て居 ります 稚内 市 こま どり 二丁目七十 一 国療稚内 病院 小國 親久 一 一 ハ︶ 一 二 ・ ︵ 一 ハ〓一。 御 無沙汰申 し上げ ております がそ の後 は 。 御清祥 のこと と存 じ上げ ます 此 の度 は貴会 誌御送 り下 さ いまし て誠 に 有難うござ いました。 。 当 方も御蔭 様 で無事 通ご し ております 。 会 員 の皆様方 によろしく お伝 え下 さ い まず は右御 札 ま で 草 々 静岡県 田方 郡中 伊 豆町上自 岩 一OO O 中 伊 豆温泉 病院 斎藤 幾 久 次郎 二。一二 ・一一一︶ ︵ 一 ハ一 ―- 37 -― 日立市大久 保 町 一丁 目 の三 本 日は波久鳥 を御贈 り頂 き有難 く拝 見致 しま した。厚く御礼申 し上げ ます 。 六三 ・一二 ・ 一五 ︶ ︵ 稲葉 眼科医 院 稲葉 真 例年 より厳 し いこの冬 諸 先 生 には呉 々も 御 自愛下 さ ってお元気 で良 い新年を 迎え て 下 さ い。 一筆 急 いで受取 の御 礼を 申 し上げ ます 。 千葉 県 千倉 町瀬 戸 三三 六〇 高 橋 清裁 拝啓 本年 も暮 れ よう とし て います が、 ︵ 六三 。一二 ・十 八 ︶ 十 日余 り で終 ります が、 日頃御 無 沙汰 ば か り で恐縮 に存 じ て居り ます。 編 集 に当 られ た諸 先生 には、念 々御健 勝 に てお過ご し の事 と拝察 致 します 。 例年 と異 った重苦 し い免 分 の年末 もあ と 室蘭 医 師会 の諸先生 には お変 りな く御 健 在 で御 活 躍し て居 られ る事 と推察 申 し上げ 長 田 度 全C T 一一T 二〇 ︶ 本 日 波 久鳥 お送 り頂 きま し て誠 に有難 う御 座 居 ま した。 歳 の瀬 も迫 り新 し い年 に向 って皆 様 の御 健康 と御多 幸を お祈 り申 し上げ ます。 峰 本 和枝 札幌 市南 区 川沿十 二条 一丁 目 ︵ エ 一 二 一 一 ハ〓一 ・ 。 ハ︶ 人、自 然が懐 かし く懐 旧 の念 一入 の余生 の 四十年 間 の在蘭 生活 でした ので、知 己、友 貴 親交会 の御 活 躍 ぶり 又諸 先生 の御 様 子も それ と知 られ て、慶賀 に耐 えな い次 第 です。 小 生室 蘭を 離 れ て十年 目 にな りま した 。 く御 札申 し上げ ます。 読 み続 け る に つれ 、 拝 読 さ せ て項 き ま し た 。 方 、 お 元 気 で御 活 躍 の御 事 な ど 、 た のし く れま した。 波 久 鳥 ﹂ が とど け ら 真 白 い大 雪 と共 に ﹁ 去 る十 月初 め て海底 ト ンネ ルを 通 って渡 さ て、波久鳥 第 九 号御寄贈 に預 かり、厚 道 致し ま したが便利 にな り御 地も 近く な っ 明け暮 れ ですが 、波 久鳥 に織 り こまれ た諸 木 谷 静 子 一一三 ハ 札 幌 市 北 区 新 琴 似 七条 二 丁 目 一十 二〇 ︱ 同慶 の至 り に存 じ て居 ります 。 た と思 いま した。洞爺 湖東湖畔 の墓 参 を す 先生 の面 影 が去来 し て、思 いは次 々と拡 が って心 の晴 れ る思 いです。 に致 し ます。 病 院 や本事 務所を 訪ね て挨 拶 致 しました が、 ︵ 六 三 ・ 一二 ・ 一七 ︶ 厚 く 御 礼 申 し 上げ ま す 。 か し こ いま す 。 い つも お 心 に か け て頂 きあ り が とう ご ざ や か な お 心 配 り 、 先 ず そ こか ら初 め諸 先 生 毎 号 変 る表 紙 の美 し さ 、 編 集 の方 々 の細 ま せ てから久 し ぶり に室蘭 に寄 り、新 日鉄 来年 度 は創 刊十 号 の事 と て、 又 一段 と素 波久 鳥﹂ 第 九号を 御 郵送 下 さ 此 度は又 ﹁ って有難 く 受取り ました。丁度 私 の農 閑 期 高 田、古賀 、本庄 、中 村 、大 岩 、飯 島 の諸 晴 し い記念 号 に取 り組 まれ る事 と、楽 し み にし て います 。 に入 って居 ります ので楽 し み に拝読す る事 先 生 に再会 し てお互 いの健 在を喜 ぶ事 が出 何 卒諸 先生 には よ き お年 を お迎 いあ るよ 諸先 生 にはお変 りなく益 々御 活 躍 の御 様 子 来 て何 より でした。 う祈 念 しなが ら、 延引 なが ら御礼 の言葉 と 何 よりと存 じ上げ て居ります 。 今年 も残 り少 な にな ってか りま した。 御蔭 様 で変 りなく 元気 に過ご し て居 り、 致 します 。 敬具 此 の度波久鳥 お届 け下 さ いま し て有難 う 川保健 所 の乳 児相談 の仕事 で全部 終 了致 し 市 川市柏 井 町 一の 一七九 一 来 る二十 日 の町 の健 康相 談 と 二十 一日 の鳴 ます 。 ―- 38 -― 親 交会 のおも な行事 1・ 9 30 転出 石 川 秀 人 。 雪 が 舞 い北 の国 も 冬 の序 章 でご ざ いま す 波 久 鳥 ﹂ を 御 恵 与 項 きま し て こ の度 は ﹁ 雄 ご ざ いま した。 本 を ひらく 度な つかし さ 一入 に拝見 致 し 。 長 誠 にあ り が と う ご ざ いま し た 。 心 よ り お 泄申 し上げ ます 。 橋 て居 ります。 仏前 にも お供え 致 しま した 高 主 人も さぞ喜 ん でる事 と思 います 。 O 受賞 祝賀会 及び 忘年 パ ー ティ 3年 2月 9日 昭和 6 1 於 室 蘭 プ リ ンスホ テ ル ○ 平成 元年 度定 期総会 ・懇親会 転出 新 し い年 も 益 々 のお栄 え を 念 じ 上げ て お 31 り ます 。 1・ 3 先生方 の変 ら ぬ御厚意感謝 申 し上げ てお 輝 ります。 お寒 さ の制御 自愛 遊ば し住 い新年 5日 平 成 元年 5月 2 於 ホ テ ルサ ンルート室蘭 吉 こ ころば か り の お 潜 を お 送 り 申 し上げ ま 原 した。 大 を お迎 え な さ います様念 じ居 ります。 御札 ま で かし こ ―- 39 -― ○ 親睦 旅行 平成 元年 7月 8日 ・9日 転出 。 31 御 笑 納 下 さ いま せ。 1・ 3 水 戸市 千波 町二 五九十 二 明 かし こ 高 先 は 心 よ り ぉ 膳 申 し 上げ ま す 松 松 岡 志げ 子 成 旭 川市 神 居町高 台 優 佳良織 工芸館 逝去 一 ︶ 二 。一二 。一〓一 ︵ エ ハ一 21 旭 川 ・旭岳 温泉 ○ 秋 の行楽会 3日 平成 元年 9月 1 於 亀 田記念 公園 1・ 3 木内 綾 名 全C 下 一一下 三〇 ︶ 事由 鹿 児島県 肝属 郡医 師会 会 長 東 達 郎 昭和 63・ 10∼ 平成 1・ 9 肝属 郡医 師会 立 病院 市立室蘭 図書館館 長 、 時下 、 ます ますご 清祥 の ことと存 じ お 慶 び申 し上げ ます 。 このたび は、下 記図書資料 をご恵贈 賜 り 厚 く御札 を申 し上げ ます。早 速整 理保存 の うえ、 広 く市 民 の方 々にご 利 用項 く所存 で ご ざ います。 今後 共 、 よろ しくご 協 力 下 さ います よう お願 い申 し上げ ます 。 日 氏 院 長 津 崎 邦 英 拝啓 貴 台益 々御隆昌 の段 お喜び 申 しあ げ ます。 波 久鳥 ﹂を御 送付 いただ さ て、 この度 ﹁ 。 きま し て誠 にありが とうござ いま した 早速 、当医師会 ・医 師会 立病院 の運営 な らび に学術 研究 の参 考 にさ せ て いただ きま す と共 に、永 く当 院 の図書 とし て保存 さ せ て いただ きます 。 ︵ 六 三 ・一二 。一四 ︶ ご寄贈 図書 波久鳥 第 九 号 月 年 先ず は とりあ えず 書中 を も って御礼 申 し 上げ ます 。 敬 具 ︵ 六三 ・一二 。一五 ︶ 会 員 異 動 部 先生が若 い人 に聞 いて います。 斉藤 先生 の テーブ ルも にぎ や か です 。今 年 はか 院 選挙 を中 心 に政 界はあ ふれ る程 の 話題を提 供 し てく れ た から でし ょう か。 ﹁ 室 江蘭 はや はり先 生だ った の﹂ 竹内 先生 はじめ ギネ の方 たち の顔 が見 え る テーブ ル、 ひとし きり笑 い声 が高 まり ま した 。 誰 かが室 町 小歌を 口ず さん で いて⋮⋮。 そんな サ ロンの様 子を 思 い描 きなが ら、 後書 き の ワープ ロを た た いて いるわ け です が、十年 は、あ っと いう間 でした。 創 刊十年 目だ から と特 に改 ま る こともな いです よね 。編 集 屋 の座 談会 でもや ります か。 それ で いきま し ょう や。 何 はともあ れ 一つの節 日、編 集 の先 生方 そ れぞ れ に幾 つか の問題点 は当 然う ま れ て いた わ け で、 それを会 員 の諸先 生 にも 知 っ て いただ こう、 そんな寸 法 でした。 にな りました が、編 集 屋 にし てみれば気 の 基本 的 には自 然体 で行 こう 、 と いう こと つかう こと難 し いこと です 。季 節 々々 の風 誌 波 久 大 久 保 〓一 村 神 島 連 込 藤 児 玉 澤 山 村 井 加 藤 鳥 治 良 ﹁ 波久鳥﹂十号編集委員 親会 発行 所 室 蘭 市 医 師 親 交 会 発行 日 平 成 元 年 十 二 月 五 日 通 姿 が目 に浮び ま した。削 り、む しり、伐 り、 平 印刷所 室 蘭 印 刷 株 式 人ム社 ︵ 加藤 ︶ ―- 40 -― 乙 彦 豊 雄 博 章 直 ン、 秀 洋 だ け ど俺 達 は化粧 し てや って いるんだ ぞ。 そんな 厠呆 な錯覚 だ け は持 ち たくな い、 と。 ふ いに、何 の関連も なく測 量 山 の哀 れな また自然 の理 にちが いあ り ま せん。 のよう に時を 得 た程 よ き新 風 の吹 き入 れも そ れ ぞ れ の テ ーブ ル で話 が はず ん で いま く り と真 剣 に。 高 橋 先 生 の席 でし た 。 ﹁ 緒 方 洪 庵 って知 ってた か い? あ ん た ﹂ 阿 あ る いは う なず き 、 あ る いは 反 論 、 じ っ 出 あ れ これ 、卓 上 には 写 真 や スケ ッチが な ら べら れ て いま す 。 上 田会 長 と高 田 先 生 を か こん で旅 の思 い 生 の選 曲 で し ょう 。 す 。 バ ロ ック音 楽 が 流 れ て いま す 。 安 斎 先 レ 司