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中世医療文化のHeteroglossia ――イングランドにおける病気と治療

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中世医療文化のHeteroglossia ――イングランドにおける病気と治療
中世医療文化の Heteroglossia
――イングランドにおける病気と治療に関する言説の多様性――
デニ・レネヴィ(Denis Renevey)
要旨翻訳 久木田直江
私はこの講演で、中世ヨーロッパにおける文学と医学の接点を探り、文学作品や医学書の新たな
読み方を提示しようと思う。そのために、中世ヨーロッパにおける病気についての解釈を形成す
る上で、言語表現(特に読者を説得するための修辞を用いた表現)が担った役割に焦点を当てる。
また、各々の社会は独自の方法で疾病経験を解釈すると唱える Byron Good の研究に依拠しなが
ら、heteroglossia(多様な言語、表現、言説)について検討する1。医学で使われる言葉は病や治
療という経験を表現する一つの方法にすぎない。中世ヨーロッパでは、古代や中世医学の権威に
全幅の信頼を寄せたスコラ学の言語が、病や治癒を語る一般人の言語(その中には病者自身の語
りや自らの病を契機に新しい自己認識を獲得する過程を綴った修道女の著作がある)と並存し、
競争関係にあった。
この講演では、このような問題を以下のテクストを通して考える。最初に取り上げるのはラテ
ン語から中英語に翻訳された Lanfranc of Milan(ミラノ生まれのランフランコ)の Chirurgia Magna
(
『外科大全』
)(c 1295-6)である。外科学を論じたこの著作は、権威ある医学(中世では主に内科
学)の言語や考え方を適応しながら、その絶対的権威に挑戦するテクストである。次に中英語の
ロマンス、ジェフリー・チョーサーの Troilus and Criseyde(
『トロイルスとクリサイデ』
)を取り
上げる。チョーサーはこの作品において、医学の言説を医学的権威への批判を表するために利用
し、医学の言説が病者への圧力や脅しとして機能していることを示唆している。
1. 中英語版 Chirurgia Magna への序
Lanfranc of Milan は Guy de Chauliac が現れる以前に活躍した外科医の一人で、イタリアの諸都市
で活躍した外科医のグループ(Bruno Longoburgo of Calabria1、Teodorico Borgognoni of Lucca、
Guglielmo da Saliceto 等)に属する。彼らはラテン語で外科学に関する著作活動を行い、外科学を
内科学に比肩する地位にまで押し上げた。(それに至るまで、外科学は内科学に劣る医学の一分
野とみなされていた。
)
Chirurgia magna の序において、Lanfranc は自分と外科医の仲間を、実践を通して権威を獲得し
た医者として作り上げた。Chirurgia magna は外科学の地位に対する人びとの意識の変化を示すと
共に、外科学に内科学と同様の価値や重要性を与えた。Lanfranc は自らの主張を展開する際、ギ
リシャ・ローマの医学的権威に依存するだけではなく、外科医としての自らの経験と権威ある学
1
Byron J. Good, Medicine, Rationality and Experience: An Anthropological Perspective (Cambridge: Cambridge University Press,
1994), particularly chapters 1, 2 and 6.
1
問との間に有益な対話を生み出そうとする。それは以下の一節から窺い知ることができる。「各
章では、私が学んだ医学の権威を頼りに、そして神のご加護によって私がこれまで行った経験に
よって語る」2。
Lanfranc が強調するのは、患者を説き伏せ、操作するレトリックではなく外科学の実際的な側
面である。とは言え、Lanfranc が言葉についても言及することがあるのも事実だが、そのときは、
専ら実際的側面を強調するためだ。彼が語源について関心を示していることを指摘したい。この
場合、彼の語源の説明は、手を用いて実践する外科手術―外科学の実際的側面−を強調している。
surgery はギリシャ語の ‘siros’に由来し、英語では「手」を意味する。ギリシャ語の ‘gru’
は「働く」ことを意味する。手術の目的も成果も手の働きによるからだ。ガレノスは名前
についてかく語る。物の本質を知りたい者は、その働きや効果よりもせっせとその名前に
ついて学ぶように . . . 手術は、人間の手によって人体を切り開いたり、骨折や負傷部位
を治したり、もとの健康な状態かできる限りそれに近い状態に回復させることである3。
このように、言葉の語源やガレノスらの権威に言及することで、医学における外科学の地位が高
められる一方、著者 Lanfranc の実際の経験が強調されていることがわかる。よって、このテクス
トは(ダンテやチョーサーが俗語で権威を構築したように)
、中世末の外科学の分野において、新
たなる自信を得た自己が形成され、世に現れ出たことを示唆する。ここには、過去という巨人の
肩の上に立つのではなく、経験に基づいた新しい科学の確立のために、それを利用しようとして
いる外科医の姿勢が見えてくる。
このことは、同じテクストにおける外科医についての描写にも検証できる。以下に示すように、
外科医は医学の知識、手先の器用さ、そして高潔な徳目を備えた模範的な人物として描かれる。
外科医はよいかたちの手と細長い指に恵まれ、身体は震えてはいけない . . . 外科医
はあらゆる哲学と論理学を学び、聖書を理解しなければならない。医者にふさわしい話
し方をするために文法を学ばねばならない . . . 心地よく話すために修辞学を学ばねば
ならない . . . 外科医は美徳の衣に身を包み、良い評判と名声が生まれるようにしなけ
ればならない4。
この描写は中世社会の現実と大きく異なるかもしれない。しかし、これは大学医学部で教育を受
けた医師(内科医)と同等の地位を得ようとする外科医の願望を示しているのである。このよう
に、Lanfranc の Chirurgia magna は、権威ある中世医学の言語と並存しつつ、時には緊張関係にあ
った外科医の言説の存在を明らかにする。
2
Lanfrank’s “Science of Cirurgie”
3
Lanfrank’s Science of Cirurgie, ed. R. von Fleischhacker, EETS os 102, 1894; repr. 1975, pp. 7-8.
4
Lanfrank’s “Science of Cirurgie”, pp. 8-9.
2
2. ジェフリー・チョーサーの『トロイルスとクリサイデ』
このように外科学は中世医学の言説のレトリックを利用しながら、この言説の優位性に異議を唱
え、その権威を弱体化させる。この内部からの異議申し立ては亀裂を生み出す。そこは外部から
の著作家が入り込む場となり、医業を営む人びとを攻撃しつつ、倫理的挑戦が繰り広げられる。
このような例は中世の文学作品に見られるが、とりわけイギリスの詩人ジェフリー・チョーサー
(c. 1340-1400)の主要な作品である『カンタベリー物語』(c. 1387-1400)と『トロイルスとクリサイ
デ』(1382-1386)に現れる。
『カンタベリー物語』は、カンタベリー大聖堂にあるトマス・ア・ベケットの墓を詣でる巡礼
者の一行が旅の行き帰りに語る話を集めた物語である。巡礼者は当時の社会の様々な階層の出身
者で、職業も多様だ。その中には医師(おそらく大学出の医学博士)がいる。彼は「総序の歌」
の中で、医師として明らかに失敗した例として紹介される。自分の知識と富をひけらかすこの医
師は、実は、病気の治療においては微塵の才能も持ち合わせていないようだ:
この医者はあらゆる病気の診断ができ、いずれの臓器の問題か、いずれの体液が原因か
知っていた。彼は模範的な開業医だった。いったん病気の原因がわかると、すぐに薬を
処方した。彼のそばには薬剤師が控えていて、薬を送ってきた。こうやってお互いに儲
けていた。この協力関係は今日に始まったわけではない。医師はいにしえの名高い医学
者(ガレノス、アヴィセンナ等)をよく知っていた。聖書はほとんど読まなかった。立
派な服を身に着けていたが、金遣いには注意深かった。ペストで儲けた金は蓄えていた。
医学では、金は強壮剤であるためか、特に金を好んでいた5。
チョーサーはこの医師を患者の健康への配慮や倫理観に欠けた人物に作り上げている。さらに、
この人物が後に巡礼仲間に語る「話」には医学用語などは登場せず、それどころか、彼が治療よ
りも拷問を、生よりも死を語るに優れていることを明らかにする。チョーサーは当時の社会の価
値観に対してあからさまな批判をしないと評されているがゆえに、医業を営む人びとに対する彼
の不信や侮蔑は特別の注目に値する。
医師の権威に対する同様の侮蔑は、『カンタベリー物語』より先に書かれた『トロイルスとク
リサイデ』においてより複雑になる。この作品では、医学の言説がナラティヴを形作るために新
しい方法で用いられ、それは登場人物の内面を展開させるため、また彼らを死へと導く失態を表
現することとなる。
『トロイルスとクリサイデ』は、トロイア戦争物語に属する恋愛物語である。チョーサーはい
にしえの物語に取材し、中世文学のポピュラーなジャンルであるロマンスに仕立て上げた。ロマ
ンスに登場する恋する主人公(男性)は普通「恋の病」を患っている。恋の病は単なるメタファ
ーではなく、明確な症状を伴った疾病であり、恋する主人公の容体を表すためには医学用語が使
われる。例えば、第一巻でトロイルスは恋に落ちるが、その新しい精神状態は病と呼ばれる:
5
Geoffrey Chaucer, The Canterbury Tales, General Prologue, lines 419-444.
3
こうして、ゆられてボートに乗り、お互いに逆に吹きつける二通りの風のあいだで、大
海原の真っ只中に居るのだ。
ああ、この実に不可思議な病気は何だろうか。寒中の暑さ、暑中の寒さで、僕は死ぬの
だ6。
恋の病を患う者には医師が必要だ。『トロイルスとクリサイデ』では、クリサイデの叔父パン
ダルスが二人の仲立ちとなり、二人の関係が深まるようにけしかける:
ああ、一体これはどうしたことか、
何一つ特別の理由もないのに君が絶望している。
彼女の御慈悲をうけられないと、どうして君がわかるのか。
こういう場合には、処置なしにしてはいけない。
やって見なければ分からないんだ7。
パンダルスは、医学の言説を用いて二人に対する自分の権威・権力を確立し、二人の関係の進展
を背後で操る。しかし、この恋愛を仕組んでから、パンダルスはこのカップルを破滅へと導き、
最後はトロイルスを死に追いやるのである。医学の言説は皮肉にもこのような結果をもたらした
のだ。
チョーサーの創造したパンダルスは、トロイルスとクリサイデを結びつかせようとやっきにな
る怪しい人物だ。チョーサーはこのような人物に医学の言説を操らせることによって、人を説き
伏せる力を有する言葉について読者に再考を促す。
このロマンス全体において、パンダルスは医学の言説の修辞的な威力を意識し、自分の目的達
成のために意図的にそれを用いる:
医者の手当てが欲しければ、まずは、
自分の傷口を医者に見せなきゃ駄目だ8。
トロイルスは権威に抵抗する力はなく、パンダルスから癒しを求める病者として自らを彼の前に
差し出す。癒しは、初めはパンダルスによって、後には彼の姪であるクリサイデによって与えら
れる:
[パンダラスは言う]
一番いいのは、君が僕に、君の悲しみすべてを話すことだ。
そして僕の誠実を信じるように。もし、いつまでたっても、君の助けにならなけれ
6
Geoffrey Chaucer, Troilus and Criseyde, I: 4141-4120.
7
Geoffrey Chaucer, Troilus and Criseyde, I: 778-784.
8
Geoffrey Chaucer, Troilus and Criseyde, I: 856-858.
4
ば、僕を八つ裂きにして、木に吊るすように9。
パンダルスは診療を行う医師の役割を引き受け、彼らの言葉や語りを巧みに使い、トロイルスの
身体と魂を完全に操作する。その一方で、クリサイデにはトロイルスの病を癒すために彼女の愛
をトロイルスに捧げるよう説得するが、そのやり方は一種の脅しとも言える:
「でも仮にもお前が彼を殺すようなことなら、僕はこのナイフで喉を掻っ切って死
ぬ。
」彼の眼から涙が流れ出ました。
そうして言いました。
「仮にお前が僕たち二人を殺し、それで罪を問われなければ、
巧くやったものだ。しかし、二人が命を落したとして、何の得になるのだ」10。
彼の脅しはギリシャ軍の陣営に引き渡される直前にクリサイデが発する言葉に反映されている:
私を見れば、悲しみを一挙に見られます。
この苦悩、心の悶え苦しみ、悲痛、
悩み、刺すような心の痛み、恐怖、狂乱、それに心の病11。
クリサイデがトロイルスを裏切り、ギリシャ軍の兵士ディオメデスに愛を捧げるはるか昔に、ク
リサイデは叔父に支配されたのだ。第一巻の早い段階で、パンダルスはクリサイデを従順な操り
人形に変え、困難な状況の中で正しい選択決定をする意志を奪い取ってしまっていた。
トロイルスの破滅も同様だ。パンダルスの癒しは、病を治すことではなくトロイルスを精神的
にも肉体的にも感染状態のまま放置することだ:
彼の容姿は余りにも変わり果てたので、彼が通りかかっても、誰も気づかなかった。
彼は痩せ細り、青白くやつれて、弱々しくなり、杖にすがって歩く程だった。そし
て自らの憤怒で自分自身を痛めつけた12。
パンダルスが、二人を結びつけるために医師の言説をでたらめに、誤って用いていることは第 5
巻の最後のスタンザにおいて明らかとなる:
このような健康状態では、つまり、あなたが健康を与えてくださらなければ、僕は全く
健康になれないのです。僕の身体が墓に包まれるのはあなたの気持ち次第です。僕を激
しい苦痛から救えるのはあなた次第です。
9
Geoffrey Chaucer, Troilus and Criseyde, I: 830-833.
10
Geoffrey Chaucer, Troilus and Criseyde, II: 323-329
11
Geoffrey Chaucer, Troilus and Criseyde, IV: 841-845.
12
Geoffrey Chaucer, Troilus and Criseyde, V: 1219-1223.
5
さようなら、わが愛しき方よ!あなたの T13。
トロイルスのどうにもならない健康回復への望みは、医師の言説を用いてトロイルスを癒そうと
したパンダルスの失敗を露呈する。
『トロイルスとクリサイデ』は『カンタベリー物語』の医師と
同様、権威ある言葉を用いて他人を操縦し、支配する過ちを明示している。
このように、
『トロイルスとクリサイデ』は、病や癒しについて中世の heteroglossia の一例と考
えられる。チョーサーは医学の言説を作品に取り入れることで、権威的言説を用いることの危険
性を示そうとした。最後に、『トロイルスとクリサイデ』は中世末にヨーロッパ全体を襲ったペ
スト以降に書かれた作品であることを指摘したい。ペストが蔓延した際、医師たちは手をこまね
いて見ているばかりだったという事実が、病や治癒に関する多様な言説を生み出した。こうして、
唯一とされた真実に対抗することで、医学や医業に関する多様な見方が現れたのである。
13
Geoffrey Chaucer, Troilus and Criseyde, V: 1415-1421.
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