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もっと - 宜野湾市
Gači-majaa a 第 31 号 ・2014年 12月 15日 (月 )発 行 年 2回 (7・12月 発 行 ) 編 集 ・宜 野 湾 市 教 育 委 員 会 文 化 課 市 史 編 集 係 〒901‐2224 ウ ∗ ∗ ∗ (098)870-9317 Fax (098)870-9316 E-Mail: Kyo i k u 0 8 @ c it y.g i n owa n .o k in a wa . jp 沖 縄 県 宜 野 湾 市 真 志 喜 1‐25‐1 (宜 野 湾 市 立 博 物 館 内 ) 問 い合 わせ・情 報 提 供 先 もっと ※ 宜 野 湾 市 役 所 の ホ ーム ペ ージ で、 バッ ク ナ ン バ ーも 公 開 中 ! ! ! HP : h t t p :/ / w w w.c it y.g in o wa n .o k in a wa . jp チ ドゥマイ 浦添市牧港と隣接する 宇地 泊 は、宜 野湾西海岸地区の南西端にあたり、北東 に真志喜、南東に大謝名とはさまれた地 域です。ンナトゥと呼ばれる入江が天然 の良港となり、近海で漁をする糸満海人 の出入も多かったようです。 ムラヤー 戦 前 は 碁 盤 上 に 家 が 立 ち 並 び 、村 屋 (公 サーター ヤ ー 民 館 )の 他 、 砂 糖 小 屋 が 3 か 所 あ り 、 東 側に県道が通り、大謝名寄りに軽便鉄道 が走っていました。宜野湾村で唯一、半 ▲宇地泊船だまり 農半漁の村では専業漁師は少数で、男性 1988( 昭 和 63)年 「写真集ぎのわん」より は農耕の合間に漁労を行い、女性たちは 捕れた魚介類を宜野湾・浦添の近隣集落から北は北谷周辺、南は那覇・首里あたりまで カ ミ ア チ ネ ー (か ご に 入 れ た 品 物 を 頭 に の せ て 売 り 歩 く )を し て い ま し た 。 1944(昭 和 1 9 )年 頃 は 、世 帯 数 1 1 9 戸 、人 口 約 600 人 で し た が 、翌 年 の 沖 縄 戦 に よ り 200 人 以 上 の 人 々 が 亡 く な り 、 村 も 甚 大 な 損 害 を 受 け ま し た 。 避 難 し て 捕 虜 に な った人々は、野嵩収容所に収容された後、大山等へ移りましたが、米軍により土地は接 収 さ れ「 キ ャ ン プ ブ ー ン 」と な っ て い た た め 、1952(昭 和 2 7)年 、旧 集 落 の 一 部 へ 居 住 が 許 さ れ る ま で は す ぐ に 戻 る こ と が で き ま せ ん で し た 。1969(昭 和 44)年 か ら「 キ ャ ン プ ブ ー ン 」の 返 還 が 始 ま り 、1974(昭 和 49)年 12 月 ま で に 土 地 は 全 面 返 還 さ れ ま し た 。 その後区画整理により、北側にあった田芋畑や海岸沿いも埋め立てられ、戦前の半農半 漁の村も今は新興住宅街となり、ホテルや大型商業施設が進出して宇地泊近隣も大きく 変わりつつあります。 次 の ペ ー ジ か ら 、さ ら に 詳 し く 宇 地 泊 つ い て み て み ま し ょ う 。 1 ➡ か い さ い じ ん 海 神 祭 海神祭は旧暦 4 月 1 日に行われる、豊漁と航海安全を海の神様に祈願する 行 事 で す 。ウ ミ ヌ ウ グ ヮ ン( 海 の 御 願 )と も い い 、宇 地 泊・真 志 喜・大 山 に 見 たこ ら れ る 行 事 で 、供 物 に 蛸 を 用 い る こ と か ら 、宇 地 泊 で は タ ク グ ヮ ー エ ー イ と も 称 し ま す 。宇 地 泊 に は 海 に ま つ わ る 年 中 行 事 が あ り 、そ の 中 で 海 神 祭 は 現 在 で も行われている行事です。宇地泊の海神祭についてみていきましょう。 海 神 祭 の 流 れ ( 1995(平 成 7)年 の 例 :「 ぎ の わ ん の 西 海 岸 」 よ暦り3)月 30 日 ) の 午 前 5 時 頃 、 漁 港 を 出 て 沖 で 漁 を 行 い ま す 。 前日(旧 たこ 戦前は昼に部落中の漁師が網漁をして魚を捕り、夜はイザイで蛸を捕っていました。 捕獲された魚や蛸は公民館で婦人たちに調理されました。また、宇地泊の漁師は真志 喜・大山も漁場としていたので、感謝の意味を込めて真志喜・大山にも魚や蛸を届け たそうです。 海 神 祭 当 日( 旧 暦 4 月 1 日 )の 午 前 9 時 頃 に は 、前 日 に 捕 獲 し た 魚 を 漁 業 組 合 の 男 たちがこしらえ、その魚を公民館で婦人達が調理しました。 巡 拝 は 、 午 後 2 時 30 分 か ら 行 い 、 ヒ ー ト ゥ ジ ー 、 ク ン カ ー 、 網 元 宅 に あ る 龍 宮 神 への御通し、ウフヤの火の神、公民館敷地内一角に設置された合祀所の順で祈願をし ました。参加者は自治会長や関係者数名で、供 物は揚げ魚と字のビンス(酒・花米を 入れた箱型の祭具)です。 戦前は、その日の晩に網元宅の前の路上で、部落中の人々に魚汁や刺身などが振る 舞われたそうです。 現在宇地泊で漁は行われて おらず、海神祭では 4 ヵ所の 拝所を回り祈願のみを行って いるそうです。 4 ヵ所の拝所 ①ウブガー(クンカー) ②ヒートゥジー ③龍宮神 ④合祀所(公民館敷地内) ▲ヒートゥジーでの拝み 「 ぎ の わ ん の 西 海 岸 」よ り ▲クンカーでの拝み 「ぎのわんの西海岸」 より 海神は海の神様で、海の彼方、ニライカナイの世界から村落に 訪れ、作物の豊穣、村の繁栄をもたらしてくれる来訪神です。 2 宜野湾マリーナ内にある公園の一角に、石碑があります。 左手に浦添市牧港、正面か ら右手にはコバルトブルーの海が広がる 雄大な景色が見えます。 「うちどまり 真砂子 てぃーだる紛らしゆる 御月 紛らしゆる 浜の真砂子」 と刻まれています。 ( 大 意 )宇 地 泊 の 浜 の 真 砂 子 は 白 く 昼は曇りでも日が照っているように人の 目 を 疑 わ せ る 。夜 は 暗 夜 で も 月 夜 の よ う に 人 の 目 を 疑 わ せ る 。浜 の 白 い 真 砂 の その美しさよ ※真砂子とは細かい砂のこと 「 宇 地 泊 節 」の 歌 詞 と な っ て い る こ の 琉 歌 は 、光 り 輝 く 白 い 砂 浜 が 、か つ て 宇 地 泊 に あ っ た こ と を 伝 え て く れ ま す 。1960 年 代 中 頃 ま で の 宜 野 湾 は 、田 園 風景と遠浅の海浜の残る自然豊かなところでした。宇地泊は海に面しており、 かて 海 は 人 々 の 生 活 の 糧 で あ り 、憩 い の 場 で も あ り ま し た 。と り わ け 、砂 浜 の 景 観 は す ば ら し か っ た そ う で す 。と こ ろ が 様 々 な 社 会 背 景 か ら 、公 有 水 面 埋 立 事 業 が実施され、開発のため宇地泊の海岸も埋め立てられました。 地域の景色が変化していく中、長老の方々の 「子や孫に美しい海岸線が存在していた事を何 らかの形で残したい」との声を受け、宇地泊区 自治会は市や県に要請を出しました。そして多 く の 方 の 尽 力 に よ り 、2007( 平 成 19)年 に「 真 砂子の碑」が建立されました。歌に読まれた浜 は今はありませんが、マリーナの公園は季節に よ っ て 美 し い 夕 陽 も 見 ら れ 、当 時 が 偲 ば れ ま す 。 宇地泊地区の方々の郷里への深い愛情と原風景 「海浜と海原」への感謝と誇りは後世へ語り継 ▲ 現 在 の 海 岸 線 ( 宇 地 泊 区 自 治 会 提 供 )が れ て い く こ と で し ょ う 。 さて、浜の白い真砂子はどこへ行ったのでしょうか? 実は宇地泊の浜の砂は、トロピカルビーチに運ばれたそうです。 あなたがすくい取った砂の中にキラリと輝くものがあったら・・・ それは宇地泊の浜の真砂子かもしれませんよ! ☆ 3 ☆ ☆ 恵みの海とウミンチュたち 宇地泊の船着き場 1984( 昭 和 59)年 市 史 5 巻 よ り 宜 野 湾 村 で 海 に 面 し て い る 地 域 は 、宇 地 泊 の 他 に 伊 佐 や 大 山 、真 志 喜 な ど が あ げ ら れ ま す が 、漁 業 を 行 う 人 々 の 数 に お い て は 、宇 地 泊 が 一 番 多 か っ た よ う あやつ です。ウミンチュ(漁民)は、漁船を 操 って網漁を専門に行っており、沿岸 の イ ノ ー で イ ザ イ 漁 を 行 う イ ザ ヤ ー と は 区 別 す る 傾 向 に あ り ま し た 。彼 ら は 宜 野湾地先海域で、日帰り操業を基本とした漁を行っていました。 宇 地 泊 漁 民 の 網 漁 は 、個 人 か ま た は 少 人 数 の 単 位 で 行 っ て い ま し た 。そ の ほ と ん ど が 血 縁 関 係 で あ り 、ウ ミ ガ シ ラ と 呼 ば れ る 年 長 者 が 全 員 を 取 り ま と め て はぎぶね い ま し た 。ま た ウ ミ ガ シ ラ は 、沖 縄 の 伝 統 的 な 剝 船 で あ る サ バ ニ や 網 漁 具 な ど を多く所有し、それを使用して漁を行っていたといいます。 海 域 に よ り 採 れ る 魚 の 種 類 は 違 い ま す が 、旧 暦 6 ~ 8 月 頃 に は ス ク が 、6 ~ 9 月 頃 に は ガ チ ュ ン が 毎 年 群 れ を な し て 漁 場 に 現 れ ま す 。そ れ ら は 海 底 に 潜 む ヒ チ グ ヮ ー や 、旧 暦 6 ~ 8 月 の 凪 の 日 に た び た び 押 し 寄 せ る ヒ ー ト ゥ の 群 れ と 共 に 、大 切 な 捕 獲 対 象 で し た 。宇 地 泊 周 辺 の 海 域 は 、今 で も 多 く の 魚 が 生 息 す る豊かな自然を残して私たちに引き継がれています。 市史編集係事業報告 8 月 11 日 (月 )か ら 13(水 )に ぎのわんのサングヮチャー (三 月 遊 び )の 調 査 に つ い て か け て 、沖 縄 国 際 大 学 か ら 3 名 の インターンシップがやってきま し た 。慰 霊 の 日 に 使 用 し た 写 真 パ ネ ル の 整 理 や 、出 版 の し お り 等 の 作 成 を お 願 い し ま し た 。皆 さ ん 元 気で何事にも一生懸命取り組ん でいると感じました。 ま た 、 そ の 他 に 9 月 4 日 (木 ) に は 、嘉 数 中 学 校 か ら 職 場 体 験 を 行 う た め に 、2 名 の 生 徒 が 市 史 に 市 史 編 集 係 で は 、宜 野 湾 で 古 く か ら 来 て い ま す 。地 味 な 仕 事 が 多 い の 行われている旧暦3月3日の行事で で す が 、少 し で も 市 史 の 内 容 等 を あ る サ ン グ ヮ チ ャ ー (三 月 遊 び )の 調 理 解 し て も ら え れ ば 、と て も う れ 査を行っています。調査に伺う際は、 しく感じます。 どうぞよろしくお願いいたします。 4