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一 一二三六~ 一 四〇五〕 は、 法兄の義堂周信 [一 一二二五 ~八八〕 とã

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一 一二三六~ 一 四〇五〕 は、 法兄の義堂周信 [一 一二二五 ~八八〕 とã
朝 倉
であるr笹⋮堅藁﹂、義堂のH記である﹁空拳日用工夫略集﹂ ︵以下、
る﹁勝定国師年譜﹂ ︵以下、r勝定年諸﹂と略す︶ や、絶海の詩文集
絶海中津の関東再達について
は じ め に
r日工集−と略す︶等によって、絶海の新たな事跡を確認し得るか
らである。本稿において取り上げた、絶海の関東再遊もそのlつで 45
絶海中津︹二二三六∼二四〇五︺は、法兄の義堂周信︹一三二五
∼八八︺とともにその漢詩文を﹁五山文学の双璧﹂と称せられてい
ある。
﹁仏智年譜﹄貞垣二年︹一二二ハ四︺条に﹁是の歳、一策、耐然と
一関東再遊の事実
る。二人はともに、夢窓疎石︹二一七五∼二二五二 の弟子で、
﹁五山文学﹂ の最初の開花期である、南北朝時代から室町時代前期
絶海の伝記史料として最も基本的なものは、弟子の叔京妙祁が撰
して関東の行有り﹂とあることから、絶海が入明前に京都から関東
にわたって活躍した禅僧である。
述したとされる﹁仏智広照浄印瑚聖国師年譜﹂ ︵以下、r仏智年譜J
へ赴いたことを指摘する研究者は多いが、帰朝後に再び関東へ赴い
一
と略す︶である。たとえば、古くは卍元師巽の﹃延宝伝灯録﹂から、
ていたことを指摘する人は誰もいない。しかし、r薫堅藁﹂をつぶ
1
最近では玉村竹二氏のr五山禅僧伝記集成−︵講談社、昭五八︶ に
さに見ると、[什隠上人の詩軸に放す] 二四五︶ につぎのような記
︵
至るまで、﹁絶海中津﹂ の項の記述はこの年譜に全面的に拠ってい
述がある。
︵上略︶上人蚤入毒舌天法兄室一。而蒙二慈氏天祐二老之賞識一。
︵2こ
る。が、この年譜に記載されている履歴をたどるだけでは、絶海の
生涯を網羅したとは言えない。なぜなら、別系統の絶海の年譜であ
所一。窺宜デ其疑然風骨。卓二絶干諸子之輩一。且慶l膏兄之有;
可レ謂一五之有レ遇者一夫。予嘗白レ甲往レ相。見二上人於南陽寓
て、﹁日工集し によると、義堂が報恩寺を建立したのは応安四年
ないので、﹁南陽の寓所﹂とは南陽山報恩寺のことであろう。そし
、
︹一三七二十月十五日のことなので、請書において絶海が関東に
−
1
−
赴いたとされる貞治三年∼貞治五年の間に、報恩寺で絶海と竹隠上
、
児。而不レ能レ忘レ懐奏。今観二諸彦之詠一。猶二吾桑日之懐レ感
−
而不∵レ巳。於レ是乎書以塞二其請一。
.
人が対面することは不可能であると思われる。ただし、報恩寺の前
また、﹃臥雲日件録抜尤﹄長禄元年二四五七︺ 二月三日条には、
丁旦
﹁上人、蚤に吾が古天法兄の室に入りて﹂とあり、玉村氏
三日、斎罷、洪恩院主来、茶話之次、問下恰雲先師自一一大明一帰
身にあたる寺は、すでに建立されていたと考えられる。
︻注︼﹁竹隠上人﹂については、落木氏や梶谷氏が指摘される
竹隠白肢ではなく、竹隠中筒のことではないか。本文中には
﹁五山禅林宗派図﹄ ︵思文閣出版、昭六〇︶ によると、竹隠日
朝之事上、答日、単一帰朝高在二筑紫一、普明国師聞レ之、遣レ
つと
航が大体正会丁瞼崖巧安−谷山可允−竹隠自厳という法統を
使頻促二帰洛一、蓋意在一旗嗣一也、時絶海同帰朝、欲三直赴一由一
東一、時慈氏和尚在二鎌倉一、然国師命重、逐入京云々、〒略一亜
承けているのに対し、竹隠中筒は夢窓疎石−古天周誓−竹隠
中綿という法統を承けているからである。また、﹁古天法兄﹂
︻注︼ ﹁洪恩院主﹂とは竺峰周曇、﹁悟雲先師﹂とは汝霜妙佐、
とばで有名な甲斐の乾徳山恵林寺に入寺したのは、康暦二年︹二二
絶海が、快川和尚の﹁心頭を滅却すれば火もまた涼し﹂というこ
と欲している。と、いうのも、当時、養生が語合の鶉恩寺に在った
.
からであり ︵r日工集亡、彼に依頼されていた夢窓の碑銘の件につ
汝霧妙佐とともに中国から帰朝した絶海は、ただちに関東に赴かん
とある。この竺峰周曇の懐古談に見ると、永和三年二三七七︺、
﹁普明国師﹂とは春屋妙花のことである。
とは古天周筈、﹁慈氏﹂とは義堂周信、﹁天佑﹂とは天佑蔵海
のことである。なお、禅僧の法系・道号・法詮に関しては、
八〇︺十月のことで︵﹃仏智年譜﹄︶、その後、彼が甲斐から関東へ
いて報告しておきたかったのだろうと考えられる。その往、永和四
以下も玉村氏・前掲書を参考にする。
再び赴き、﹁南陽の寓所﹂ で竹隠上人と相見したことがわかる。r大
年二三七八︺ に京都でしたためた書簡にも、
五九︶やr神奈川県玖地名〓日本歴史地名大系14、平凡社、昭五
教。且金沙池畔。可レ季一旬日之盤旋一也。結時春探。箕若レ時
︵上略︶小弟夏秋之問。将レ有二乗行二。柾レ道聖ヂ上剃l一請レ
︵JJ
日本地名辞書﹂や﹃日本地名大辞典14 神奈川県し ︵角川書店、昭
九︶ を見ても、相模国︵神奈川県︶ に﹁南陽﹂という地名は存在し
珍愛。不レ醇二祝望之圭一。︻与二金剛物先和尚一書二一四﹂ハ︶
︻注二物先和尚﹂とは物先周格のことである。また、﹁金沙池﹂
とは金剛寺十境の一つであり、r空軍集﹂巻第七に、
徳文章、衣︰被南国一、︼朝来帰、東人化レ雪、暇日招﹁諸老鳴二
子斯文一者と、比レ辞対レ旬、我曇仲老漢其一也、今也青衿、
往々伝二写其句一、以為二一集一・実希世重宝也、老登乃祖老
門生也、通家有レ好、公何不レ続レ之子、〒略︶
.■
日報撃世界。日毘慮宝闇。日円通境。日養正斎。目先照
伝聞西雲老人。過二江金剛新寺一。標二其境南為レ十。
仲老漢﹂とは曇仲通芳のことである。
︻注︼﹁桃源﹂とは桃源瑞仙、﹁勝定老師﹂とは絶海中津、﹁曇
堂。日金沙池。自得月軒。日甘醒芋。日九里栓。日豊聖
後も﹁東人﹂が教化されたという。もしも﹁東人﹂が関東の人を意
とあり、絶海の遺徳および文章が中国の人々にも感化を与え、帰国
︵﹁五山文学全集﹂第二巻。返り点は同書や落木氏
飼。蓋湖上之勝集也。︵下略︶
﹁義堂周信﹂甘本漢詩人選集3、研文出版、平〓︶
一つとなるだろう。
味するならば、絶海が帰朝後に関東に赴いていたことを示す根拠の
それでは、絶海が関東に再遊した時期について考えてみたい。恵
二 関東再遊の時期
・りH
等を参考にして、私に施した︶
という文章がある。
正承従者暫華一伊豆一。坐二夏三川一。錐レ未レ得二面曙一。以一一
林寺の住持としての任務を終えてからの行動を整理してみると、ま
とあり、永箪一年二三八二︺に甲斐でしたためた書簡にも、
精近一為レ喜。老頼日劇。世味淡然。独於二故旧一。不レ能レ遣レ
ず冒工集J永徳二年︹二二八二︺十一月三日条に、
所収の[西胤上人の雨中唱和の詩の序] 二四三︶には、つぎのよ
の塔頭である普同庵に帰任していたことがわかる。また、r蕉堅藁﹄
とあり、永徳二年十一月三日の時点で、恵林寺の住持を退き、同寺
︻注︼﹁昌勤﹂とは心伝昌勤︵慧勤︶ のことである。
同庵l一、為い田地訟L、
十一月三日、昌勤至、出二絶海書一、乃審下退一一苦杯﹁今帰二普
︵川“
情。東望恨様而巳。幸因二便風一。以寄二音塵一・。惟時春探。伏
巽珍歯。 [答二久竜和尚一書︵二︶二二五一︶
︻注︼﹁久毒和尚﹂とは久竜憎可のことである。
とあることから、絶海が依然として再び関東に遊学する意志を持ち
続けていたことがわかる。
︵畠一
横川景二二一四二九∼九三︺の﹃小補東遊集﹄には、
余在二京師一日、語二桃源も、乃祝勝定老師、曾準一大唐一、道
47
うな文章がある。
とあることから、永徳三年九月五日に、恵林寺住院の期間を終えて、
甲斐より帰京したことがわかる。その際、義堂は、ただちに三会院
こうして見ると、考えられる絶海の二度目の関東訪問は、永徳二
甲之為レ州。環以二群山一。帯以二衆川一。而蔽二乎大岳之陰一。
年の十二月頃から翌三年の四月頃にかけてか、もしくは永徳三年の
︵臨川寺の開山塔︶ の別院である大慈院に泊まっている絶海の許を
関西西胤上人。一日対二孤村雨一。望二群山要一。詩以寓レ思。
訪れ、旧交を温めている。
従而和音若干。敬二叙於余一。︵中略︶今年糞亥夏。五月不レ雨。
七月頃から八月頃にかけてか、ということになる。すなわち、前者
故山川之気。交会鬱結。盛暑則雲雨騰作。候状不レ恒。而我勝
逮二千六月契酉一乃雨。及レ信而止。己卯又大雨。弥レ旬不レ止。
の場合は甲斐恵林寺︵十一月三日︶−関東−甲斐勝善寺︵五月∼六
者練若。雉レ当l一劇珍一。無三林木以為二蔽障一。則迫然孤柑也。
余則始而喜。終而憂。而思亦随レ之何也。︵下略︶
月︶−京都︵九月五旦というコースを、後者の場合は甲斐勝善寺
︵五月∼六月﹀1関東−京都︵九月五日︶というコースを、絶海は
︻注︼﹁西胤上人﹂とは西胤俊承のことであり、彼の詩はr真
海、甲州より帰る﹂と記されていたことや、甲斐1関東−京都間の
たどったことになるのだが、﹃日工集∵水琴二年九月五日条に﹁絶
独坐孤村雨。高山四面雲。擁レ窓昏二貝葉一。侵レ刑長二
道のり、関東における滞在期間などを考え合わせると、わたくLは
雨中偶作
愚稿﹄に収められている。
苔紋一。唯合二静中質一。何曜二愁裡門l・。願貰二天上日一。
前者の可能性がより高いように思う。先に挙げた︻久竃和尚に答ふ
り故旧に於いて、情を遣ること能はず。東に望みて恨々たるのみ﹂
る書︵二︶] 二五二に﹁老蝶、Eに射し。世味、決然として、独
万国革破気一。
︵﹁五山文学全集し第三巻。返り点は私に施した︶
と記されていたが、絶海は、関東の旧知の人々に会うために、恵林
また、﹁突亥﹂は永徳三年︹二二八三︺ にあたる。
これによると、絶海は、永徳三年二三八三︺ の五月から六月に
寺の住持を退いてから京都に帰るまでの合間をねらって、甲斐から
もう一度、絶海と関東について、簡単にまとめておく。
あまり推れていない関東の地を再び踏んだのではないだろうか。
〇一度目︵入明前︶−貞治三年二三六四︺ ∼貞治五年︹一
かけて、甲斐の太平山勝善寺に滞在している。そして﹃日工集﹂永
五日、絶海帰レ自二甲州一、蓋悪林住院紀満也、入洛館二千大慈
徳三年九月五日条に、
院一、余往略叙二久閥之憲一、
48
三六六︺ ︵二十九歳⊥二十一歳︶
〇二度目︵帰朝後︶−永監二年二三八二︺十二月頃∼永徳
三年二三八三︺四月頃 ︵四十七歳∼四十八歳︶
三 古河雑言五首
さて、絶海の生涯に﹁関東再遊期﹂を新たに認めることで、彼の
詩文集であるr蕉堅藁﹂の詩文の配列の解釈にどのような影響が窟
されるであろうか。たとえばr日本古典文学大辞典﹂第三巻︵岩波
ようである。本集の詩は義堂詩の偶項中心主義に対し、侶項を
r語録﹂に移して、侶項とは異なる詩の世界をうち立てようと
したものであり、岐然・杜牧・貰休・林和靖といった晩唐詩風
に強く影響されている。 ︵三四〇頁︶
︻注︼本文中の異説に関しては、いまだに管見に入っていない。
義堂の﹁空軍集﹂巻第八の[次レ韻賀三霊姪住二捜州安国一]とい
人回レ里︼という詩に﹁帰来臥レ病古河浜﹂という句があることを
ぅ詩に﹁古河東畔天平寺﹂、︻乙巳春。予帰居二天平l一。歳款。又上
出版会、昭四五︶、二七頁参照︶ に病気で臥していた義堂を見舞
援用して、従来の研究者は、絶海は貞治四年︵乙巳︶ の春、天平山
︻内容︼全体は詩・疏・文から成り、詩は五言律詩二十六首・
うために古河︵今の茨城県古河市。利根川流域にある︶を訪れ、そ
書店、昭五九︶ の﹁笹一堅藁﹂の項︵名波弘彰氏執筆︶に、以下のよ
七言律詩六十七首・五言絶句十五首・四言四旬四首︵一首とす
の際に詩︵﹁古河雑言五首﹂︶を詠んだと考えている。しかし、この
安国寺︵現在は廃寺。今枝愛真氏﹁中世禅宗史の研究し ︵東京大学
る説もある︶・四言十六旬一首・七言絶句五十一首で、計〓ハ
年の絶海の行動については確証がない。r仏智年譜﹂貞治四年条に
うな記述がある。
四首。若干の未収載詩を含めても、義堂周信の完工華集−の詩
は、
︵〓︶
数二九〇〇首余︶ の十分の一に満たない。疏は十三編。文は
入明以後の作から成ると推定されている。ただ七言律詩の﹁古
分は制作時期が記されていないが、絶海の応安元年二三六八︶
他に明の太祖、明佃活遺憾澗ら数人の次韻詩が載る。詩の大部
う語は、r禅林象器箋j ︵無著道忠著︶ の第七類・職位門に
︻注︼﹁折公﹂とは大書法折のことである。また、﹁却来﹂とい
来一週二侍香一。
弔非レ徳不レ挙。率試以二提唱偽領一。特技典二蔵鎗一。次以二却
四年乙巳。師年三十歳。当二此時壷公力革二苦風一。凡叢林敬
河雑言五首﹂は貞治四年︵二二六五︶春、常陸古河での制作と
﹁忠日く。却采は洞家の挙唱なり。正位に向かふを向圭と為
序四編・書八箱・説二編・銘六編・祭文三宿で、計二十三宿。
考えられる︵異説もある︶から、入明以前の作も含まれている
49
す。正位より偏位に来たるを却采と為す﹂という記述がある
ように、職位が下がって勤めることをいう。
とあり、建長寺の大書法折の会下にあって、蔵主や焼香侍者を司っ
みたい。
六〇 古河裸言 五首
①初来借二宿古河媚一。閲見令二人事々華。官渡呼レ船招レ手急。
村春股レ棉得レ眠遅。江桂レ可レ愛少二奇石一。花縦堪レ看多二醜
②杜陵不レ唾二音域地一。風土如レ斯豊複疑。荘荻洲喧抽レ筍早。
枝一。宝樹宝池天上寺。春風春雨過二帰期一。
くを送缶︵五二という詩のなかで、﹁到る日、諸昆、もし我を
参苓地痩長レ百遅。病駒但仰新恩株。倦鶴応レ懐旧宿枝。且待二
ていたことだけがわずかに明らかである。
9
ところで、絶海は、帰朝した直後に九州で詠んだ[人の柏陽に之
間はば、倦憤、昔の清狂に似ず、と﹂と詠じている。入明する前に
蓬莱清浅日一。踏レ鯨直欲レ訪二安期㍉
⑤平生講レ学知二天命一。造物小児何用レ疑。絶重病時仇旅寓。荒
渓山未レ尽二登臨興一。江海誰同二汗漫期l一。
蒲薦松林留レ客遅。工部惟応レ憐一一北晦一。賛公甘欲レ孝l西枝一。
④頼拙傭吾成一後事。休居幸免二□時疑一。薫炉苔生招レ人共。
地剰栽l一校与一レ竹。願言長作二歳寒期一。
声探院夕陽遅。翠楊姻暗蔵二鵠葉一。紅香花低掛二鳥枝l・。買レ
③柴門華奄水之媚一。慣レ看沙湛棉不レ疑。香気陰窓辰霧潤。棋
︵京都や︶ 関東で修行に明け暮れた青春の日々を思い起こして、か
〓
っての自身を﹁活狂﹂と評しているのである。﹁活狂﹂という語は、
︵
‖
﹀
﹃漢書﹄武五千伝第三十三に、
活狂不レ古心︵蘇林日。凡狂者陰陽脈尽濁。今此人不レ狂似二狂
者㌔放言一清華也。戎日。色理活徐而心不レ慧日一滴狂一。活
狂如二今白磁一也。︶
行が狂者に似ているものを指して言うようである。あるいは、一途
村投処且栖遅。際レ空埜色煙連レ草。高レ夜稔声月在レ技。千載
という記述があるように、精神的には狂っていないのだが、その言
な禅道修行が周囲との妥協を許さない行動に彼を走らせていたので
九原如可レ作。香盟応下与二達持一期L。
結論から先に述べると、わたくLは、永徳三年の春、関東に再遊
地名﹄ ︵日本歴史地名大系19、平凡社、平七︶ の﹁甲府市 勝者寺﹂
が甲斐の勝善寺に帰るべき期日が過ぎた﹂と解すると、r山梨県の
まず第一首目の﹁帰期を過ごす﹂ということばについて。﹁絶海
あろうか、と思われる。このような精神状態にある時、果たして絶
した時に [古河の裸言 五首︼ ︵六〇︶を詠んだのではないか、と
の項に、
海は﹁古河雑言五首﹂を詠むことができたのであろうか。
考えている。以下に問題の六十番詩を掲げて、その理由を列挙して
50
・つ.′んh・
接屋町地区南部にある。太平山と号し、臨済宗妙心寺派。本
そして、甲斐でしたためられた [法華元章和尚に与ふる書] 二四
勧措比丘周亮が僧俗男女等に勧進して浄財を集め、大仏師増光
から禅宗寺院に改宗、無量寿仏︵阿弥陀仏︶を焼失したため、
胎内豊吉銘によれば、貞和三年二三四七︶頃に浄土宗系寺院
艶款艶。多宝景徳笑山無求。亦時時往来相会否。千里傾想。西
似レ坐一春風之中一。和尚与レ之周旋。必当二目撃両道存一。欺
︵上略︶幸甚。諭F及致与二等持法兄元会上。此老一団和気。
九︶ に、
を招いて瑞雲庵で釈迦如来像を造り、勝善寺に安置した。同銘
︻注︼﹁元章和尚﹂とは元章周郁、﹁等持法兄﹂とは義堂周信、
望二徳星之宋高巳。秋序方レ抄。惟箕為レ法白歯。以副二親祝一。
尊は木造釈迦如来。嘉慶元年二三八七︶ 八月一九日の同便の
文にみえる住持比丘中津は臨済宗夢窓派の高僧絶海中津で、多
法光は武田信成の法名、満春はその子布施満春、頼武は満春の
文の多くを占める軌進に応じた者を書上げた人名・法名のうち
的にも肉体的にも疲れ果てた絶海が、﹁旧宿﹂たる京都を恋しく思 51
言ではない甲斐の恵林寺における約二年間の住持生活を経て、精神
というくだりがあることを考え合わせると、辺境の地と言っても過
﹁笑山﹂とは笑山周愈、﹁無求﹂とは無求周伸のことである。
子と考えられ、武田一族の本尊造顕への関与がうかがわれる。
い、﹁新恩﹂たる公帖が発行されてそこに呼び戻されることを望んー
数の僧侶とともにこの仏像の遣使計画に深く関係していた。銘
永禄年中二五五八−七〇︶に天観が中興したと伝える︵寺記︶。
でいる、と解釈することはできないだろうか。
という記述があることから、甲斐に帰らねばならない諸事情の一つ
第四首目の﹁休居﹂という語は、﹃諸橋大漢和辞典﹄には﹁官職
︿て了
︵下略︶ ︵三九一頁︶
として、同寺の釈迦如来像の遥像計画があったのかも知れない。な
﹃韓非子﹄十過やr商子﹂墾令の用例が挙げてある。たとえば、前
を辞して家に居る。致任して家に居ること﹂と説明されており、
とあり、斉の桓公の補佐をしていた管仲は年老いて、仕事に堪えら
之。管仲老、不レ能レ用レ事、休l・窟於家一。
昔者斉桓公九二合諸侯一、一二匡天下一、為l竜伯長一。管仲佐レ
者の用例を見てみると、
︻1.J−
お、詩中に﹁天上の寺﹂とあるのは、先にも触れたが、古河東畔−
おそらくは現在の古河市付近にあったと推定される安国寺のことで
あろうか。
一よぐさ
ふべし、旧宿の枝﹂という詩句について。蔭木氏や寺田氏も指摘さ
れなくなり、家に引き籠もって休んでいる。絶海は直前に恵林寺の
っぎに第二首目の﹁病駒、但だ仰ぐ、新恩の株。倦鶴、まさに懐
れているように、﹁病駒﹂や﹁倦鶴﹂は絶海自身のことであろう。
住持を辞していたからこそ、この語を用いたのであろうと思われる。
第五首目の﹁学を講じて﹂ということばについて、蔭木氏は﹁修
行に励んで﹂ ︵r蕉堅藁全注h、二五頁︶ と訳されているが、これ
○応永二年︹二二九五︺−︵義満に対して︶r十牛図﹂ [仏
智年譜・翰林萌葱集・本朝高僧伝︼ 〓ハ十歳︶
○応永十年二四〇三︺−︵足利義持に対して︶ r信心銘﹂
書・史書、経典・禅書、詩文集等−を読み、そして講じていたかが
術振興会、昭三一︶ によると、当時の禅僧がいかに多くの書物−経
芳賀幸四郎氏r中世禅林の学問および文学に関する研究し ︵日本学
ったのか、今となっては知る由もないが、少なくとも自らを﹁活狂﹂
絶海は四十八歳である。絶海がどのような書物に関する講義を行な
この時、絶海は三十歳である。また永徳三年の春に詠んだとすると、
貞治四年の春に[古河の裸言 五首] 〓ハ○︶を詠んだとすると、
[勝定年譜] ︵六十八歳︶
わかる。その様相は、たとえば義堂の﹁日工集﹂等を見ても、詳し
と評した三十歳の時に ︵講釈の︶ 講師を勤めることは到底考えにく
はそのまま﹁学問の講義をして﹂と訳すのがよいのではなかろうか。
く知ることができる。ちなみに義堂は、同書によると、応安元年
一
い。蔭木氏もこのことを考慮して、前掲のような解釈をされたのか
6
二三六八︺八月二日、四十四歳の時にはじめて、諸子のために高
1
も知れない。同様のことは、同じく第五首日の﹁天命を知る﹂とい
︵
僧霊一の詩を講じている。ここで、絶海の講釈活動について、知ら
えられた使命、乃至は天から人間に与えられた運命を素直に受容す
うことばについても言える。﹁天命を知る﹂とは、天から自分に与
○廉暦二年︹一三八〇︺∼永徳二年︹二三八二︺−︵学徒に対
るーそれは自己の生き方に迷い、感情の動揺に身を任せ、人生に絶
れている範囲で整理してみると、以下のようになる。
して︶ r法華経﹄﹃首題輿望〓円覚種﹄等 [仏智年譜・本
生き方を自分なりに位置づけ、自己の生きるべき道を自覚すること
望しての諦めではなく、言わば、自己の運命を明らかにし、自己の
○嘉慶二年二三八八︺正月九日∼十九日−︵足利義満に対し
であると思う。こうした生き方は、﹁清狂﹂という心境とは対極的
朝高僧伝] ︵四十五歳∼四十七歳︶
て︶ r金剛経﹄ [仏智年譜・翰林萌蕊集] ︵五十三歳︶
なものと言えるのではなかろうか。﹁論語﹂為政第二に﹁五十にし
経﹂ [仏智年譜] ︵五十三歳︶
全体的にこの五首の詩のトーンは暗いものの、この一連の作に詠
ではないように思われる。
て天命を知る﹂とあるように、三十歳という若さで到達し得る境地
○嘉慶二年正月二十三日∼晦日−︵渋川幸子に対して︶ r円覚
○明徳四年︹一三九三︺夏−︵義満、空谷明応等に対して︶
﹁首楊敢経﹂ ︻仏智年譜・翰林萌葱集︼ ︵五十八歳︶
52
まれている季節は、春であると思われる。
只今室超人遼遠。灯火難レ同二一夕華。
︻注︼﹁蛋太初﹂については、一山一事−雪村友梅−大浦宗澗−
叔英宗楢の法統を承けた太初真峯のことではないだろう。年
代的に合致しないからである。玉村氏も、r五山禅僧伝記集
四r薫堅藁﹂七言律詩の配列順序
r窯堅藁﹂は絶海の生前に著わされたものなので、絶海自らによ
詩竃の下の自注に﹁太初、時に小山に在り﹂と記されているが、
成﹂のなかで、﹁太初真峯﹂の頃とは別に、﹁太初口肇﹂の頃
作︵二十三番詩∼四十六番詩︶、九州での作︵四十七番詩∼五十二
﹁小山﹂とは栃木県小山市のことで、古河から非常に近い距離にあ
lて
l厳選され、推敲を重ねられたとされている
−︵
︶入夫氏、蔭木氏等︶。
っ
番詩︶、京都での作︵五十三番詩∼五十九番詩︶とその配列がきち
る。当時、ここには諸山に列せられた青原山大昌寺︵現在は廃寺。
を設けておられる。
んと整理されている。そしてわたくLは、絶海は、永徳二年十一月
﹁中世禅宗史の研究し、二四一頁参照︶があった。第一首日に﹁孤懐、
たとえば七言律詩︵二十三番詩∼六十八番詩︶を見ても、中国での
に甲斐の古心林寺を退いて、翌三年五月に同国の勝善寺に入るまでの
耽々として春天に侍る﹂という旬があり、季節も春であることから、
れらの詩を一括して、京都での作の後に置いたと考えるのであるが、
六十二番詩は関東︵古河周辺︶ での作である。六十番詩と六十二番
hム
間に再び関東に遊学し、[古河の裸言五首]︵六〇︶を作成し、そ
六十一番詩以降の七言律詩の詠作状況は、いったいどのようになっ
︵古河周辺か︶ での作と考えてよいだろう。蔭木氏も﹁脚韻から推
測すると、やはり古河での作品であろう﹂︵柑堅藁全注し、一一七
詩の間に位置する [諒信元の至るを喜ぶ] ︵六一︶もまた、関東
まず六十二番詩を見てみる。
頁︶と指摘されている。﹁春風、暖かに動く、徳錦の草﹂という詩
ているのであろうか。
六二次レ韻答二笹太初見一レ寄二首太初時在二小山一
句があり、季節は春である。
林草道レ客枕レ書眠。花吹二征雪二香浮レ座。署起二雷雲一春動レ
語生多是口談レ天。壷隠高人愛レ説レ禅。竹径遊レ僧鳴レ履出。
六三 次二韻壷隠亭一
つぎに六十三番詩を見てみる。
①書開高駕此重還。避近何時慰二嬰別一。別夢依々迷二夜月一。孤
憤耽々惜二春天一。軍産河上無二来客一。桂樹小山多二隠賢一。強
擬三臨レ風歌二伐木一。詩篇未レ得レ共二芳廷一。
②憺昨逢二君相水辺一。粂如三璃樹倍二風前一。千釣筆力堪レ江レ鼎。
万丈文光欲レ戴レ天。陶陸応二吾蓮社輩一。山王不二是竹林賢一。
53
艶。還似退蔵機末レ密。巳観文彩瑛二時賢一。
関東に在住していた義堂の完工華集﹄巻第八にも[留二題能里居
士壷隠亭一二首]という詩があり、この詩と同−の脚韻が用いら
れている。
留二題能斐居士壷隠亭一二首
■一
占二得壷公小隠天一。新開二埜築一寄二逃禅一。三春不レ作一重別
酔一。六月偏宜二竹下眠一。毎対二高僧車一白慶一。還嫌三俗客
・華青野。疎鐘細磐他年約。準二擬栽レ蓮十八賢㌔
憑レ聞挙レ目妙二青天一。取レ楽何曾在二四禅㌔客散克龍楼上臥。
吟除司馬酔中眠。竹陰避レ暑凪吹レ帽。梅畔尋レ春雪酒レ乾。不レ
得二休官一林下去。高風巳見二一人革。
これは諸注の指摘するところであるが、同じく﹃空華集﹄巻第一
にはつぎのような詩がある。
苦レ熱。有レ慎一示山竹間壷隠亭千㌔
暑風吹レ帽﹂﹁l棉横眠万竹寒﹂という表現が見られる。と、いうこ
とは、この六十三番詩も関東︵古河周辺︶での作ということになる。
季節も春である。なお、﹁能受居士﹂については、関東武士ではな
かろうかとする説もある ︵﹃蕉堅藁全注し、一二〇頁︶。
六十四番詩以降も、六十八番詩まで七言律詩が並んでいる。
六四.次二韻栢樹心一
老屋醇條万境空。箸前鈴語響丁東。髪結嗟二我茎々自一。文錨
観二君欄々紅一。汗漫遊期畢海上一。風流王謝出も中l・。欲下
将二拙語海中高唱士。一詠時号二万鍍風﹂。
六五 送一一松上人帰一恕州一
東風望有給陽城。可レ忍忽々此送レ行。暁渚鳴レ鞭逢l一路熟一。
晴江解レ視超二潮平㌔原惜春浅穂鶴急。山意雪残鴻眉驚。安
ハ
新
.
得二海天霞片々㌔為レ君我作二錆衣撃。
六六 送二端介然上一レ京
男児志気如レ君少。欲下蹄五言ア叩中常闇上。碧海霞随二金錫一
転。瑞京日瑛一一錦柚一温。仲霊書奏天顔近。大覚詔帰師道尊。
作レ此寄二主人能受居士一
三界炎炎火一団。就レ中誰復得一癖安一。壷公随処天如レ許。一
白髪回レ頭江上客。鵬程九万畢薩賽一。
六七 送二復無巳帰一レ京
︻注︼﹁端介然﹂とは介然中端のことである。
掃横眠万竹寒。
詩題に﹁苦レ熱。有レ傾二小山竹問責隠亭子ことあることから、
肝胆相知二十年。壮図共著祖生鞭。暮容鎗レ我客天外。高歩羨レ
むか
﹁壷隠亭﹂が小山に存在したことが知られる。周囲には竹薮が生い
茂っていたらしく、r薙竪竺六十三番詩には﹁竹径に憎を蓮へて
君朝日辺。御苑桃花紅蹴レ雨。官街柳色緑勺レ欄。長安如有二故
くつ
属を鳴らして出で﹂、F空車集﹂には﹁六月偏宜二竹下眠一﹂﹁竹陰避レ
54
人間一。自首垂二論碧海前一。
ったものと見られよう。総陽が海路のかなたにあるとされている一
点からも絶海の現在地は甲州ではない﹂ ︵二五六頁︶と指摘されて
いる。また六十七番詩についても、﹁しかし詩の﹁長安もし故人の
六八 寄二宥寛伸一
我朋寛仲今詞伯。感二此棒々意気全㍉蛇吼二匝中寺戟獄。鸞
間ふあらば、自首給を垂る、碧海の前﹂という旬から、前作︵六十
冠寺にあったときの作と見ることができる﹂ ︵二五七頁︶と言われ
五番詩、朝倉注︶同様、至徳元年二三八四年︶以降絶海が阿波宝
六十六番詩と六十七番詩が京都での作ではないことは明らかであ
ている。たしかに阿波は海に面していて、上総や下総を東に望んで
回二筆下去雲腰。小斎蛍雪愁同レ案。上苑鴬花酔共レ延。巳央
る。わたくLは、六十四番詩∼六十八番詩もまた、関東︵おもに鎌
いるが、この地理的条件は、関東︵とくに鎌倉周辺︶ にも当てはま
無レ由レ夢二往事一。想君尚箪二作レ詩肩一。
倉周辺︶ での作ではないか、と考えている。旧交を温めるために再
︵おもに鎌倉周辺︶ での作と考え、六十番詩∼六十八番詩はすべて、
る。わたくLは、この海浜での詠を、六十番詩から引き続き、関東
五山文学は、歴史学の分野では、史料として頻繁に援用されるに
ている。
もかかわらず、文学の分野においては、ともすれば﹁傍流の文学﹂
お わ り に
表現からも推察することができる。季節は、六十五番詩、六十六番
として敬遠される嫌いがある。禅僧が抄者である﹁抄物﹂は、専ら
いと
絶海が関東に再遊している時に詠んだものであると考えるにいたっ
び関東に赴いたにもかかわらず、古河周辺での作のみというのは不
のほとりで生活していたということは、たとえば六十四番詩の﹁髪
自然ではなかろうか。絶海が老年期を迎えて、都から遠く離れた海
なげ
練、我が茎々の白きを嗟き﹂、六十六番詩の﹁碧海の霞は金錫に随
かうぺ
ひて転じ﹂や﹁白髪、頭を回らす、江上の客﹂、六十七番詩の﹁長
安、もし故人の間ふ有らば、自首、編を碧海の前に垂る、と﹂等の
詩、六十七番詩、いずれも春である。六十四番詩と六十八番詩の季
昭五二︶ のなかで、六十五番詩については、﹁東風、望沓たり、総
品を読み解いていく上での、言わば基礎研究にあたる。今後は、絶
今回の考察は、絶海中津に関する伝記研究の一環であり、彼の作
禅僧特有の見方、考え方、感じ方を明らかにすることが求められよう。
国語学の分野で活用されている。五山文学を明らかにするためには、
陽城﹂という詩句に注目して、﹁そうすると総州を東と言っている
寺田透氏は、﹃義堂周信・絶海中津﹄ ︵日本詩人選24、筑摩書房、
節はわからない。
のを根拠に、作者がすでに西帰し、さらに四国に﹁逃道﹂ ののち作
55
海の生涯に注目しつつも、﹃蕉堅藁︼の詩文︵とくに七言律詩以外︶
︻注︼﹁上杉兵部誰公﹂とは上杉能恵のことである。
の配列についても考え、彼の作品世界へ入って行きたいと考えている。 とある。
︵5︶r鎌倉九代後記﹂︵r改定史新生覧﹂第五冊所収︶の﹁応安﹂の現には
同四年十月、報恩寺供養、上杉能患執行ス、養父伊豆守重能、去建武
︻注︼
二年建立ニヨリテ也、
︵1︶﹁仏如目先l譜﹂の巻末には﹁応永三十年契卯秋八月rl小帥妙祈挟
と﹂
いと
うあ
記り
述、
があり、建武二年︹二一三五︺に、報恩寺の前身となる寺が、
講評は﹁妙析﹂を﹁妙祁﹂の誤りと見なして、同年詔の撰者を叔京妙祁と 間束管領上杉能憲の養父貌能によって建立されたことがわかる。ただし、
しているが、わたくLは、その意見に打肯することができない。拙稿﹁絶 ﹁日工竺応塞ハ年︹一三七三︺十月一目条に﹁雑恩寺今号二南陽山元也﹂
海中津年譜来︵ニーr仏知日広照浄印瑚聖国師咋訝しの再検討⊥︵r古代
とあることから、同寺の両日Tが袖陽山と称されたのは応安四年以後のこと
中世国文学﹂第十三号所収︶参出面。
であろう。
︵2︶引川はr五山文学全集﹂箪一巻、作品番号は正木英雄氏r推⋮堅藁仝注﹂
︵6︶引川は来=小大学史料編纂所舶﹁臥雲口件録抜尤﹂︵大口本吉記録、川
︵清文堂、平一〇︶による。返り点は蔭木氏・前掲彗入夫義需氏校注r五
店、昭三六︶による。返り点は私に施した。
両文学葉﹂︵新日本古典文学大系
84
、⋮石波背輿望一︶、梶谷宗忍氏r蕪堅︵7︶r夢窓車甚心宗普済国師碑銘Jはr競粁評類従﹂第九机下﹁伝部﹂に収
華果咋謂﹂︵相国寺、昭五〇︶等を参考にして、私に施した。
られており、その解題︵﹁群弛‖解題−第四下所収、玉村氏執筆︶には、以下
︵3︶r仏智在・譜﹂康磨二年条に、
のように記されている。
二年庚申。帥歳四十五歳。幕赤絵氏将二法羊咄レ師。挙一級裏佐公一
︵上略︶この碑銘は、良治五年︵一三六六︶夢窓の門人義党周信二
代レ之。秋以一也挙用二法甲斐州托徳血ilr林相手。九月初一二日就二亀
・
b
.
ヽ
.
1
三
二
五
−
一
三
八
八
︶
が
、
日
子
︵
作
文
の
豪
打
を
筒
粂
油
日
に
し
た
日
録︶を人
山中書仙華受鞄十月八日入党凡庫詭帥川里。有名之英無毒。
肌する同日の絶海中津二三二六−一四〇五︶に託し、ひそかー
に1
ニ時
守屋殆乎撫レ所レ容U師不レmレ之。孜孜誘腋也。学徒参叩。柿宴鎗昭 随一の文h案漣に撰文を依頼せしめたが、当時倭適等のことから、明
請而講二法華枕厳日光等一。描来聴衆汎溢毛菰帥旺化梅二輿丁此一発
の‖日本に対する感情が悪化し、宋漣は、これを柑って、撰文が延引さ
︻注︼﹁汝小林佐公﹂とは汝塞妙佐のことである。
れていた。絶海は、応安六年︵洪武六年︶来朝して棉明した天ム〓倍加
とある。
逸克助︵のち還俗して華克助といい、宰相となる︶を介して来漣にそ
︵4︶﹁日工集﹂応安四年十月十五日灸に、
のことを催促した。よって渋武八年︵永和元年、一三七五︶、来漣は
十月十五日、余応二上杉兵邦語公請一、印二刺於鎌倉城北一、名目丁一 その文を製した。しかし永くこの文は日本に持帰られなかった。応永
報思謹l
甲、山称二両革、Ⅲレ雅演黒鉱、余先試把レ輿間レ土二下、十一年二四〇四︶、追別使として入明した明室梵尭︵乱淋の弟子︶
人二籠中元後、万態耶一運搬一次、
が帰朝する際に、出発の前口、名を書けないある者が、夜中に旅鮪を
56
おとづれ、宋液から遺嘱され四十年来秘蔵して好梗を待ったといって
この碑銘を手渡したので、別室はこれを日本に脅しかえった。のち、
絶海の法孫古邦慧淳が、土佐から巨石を運んで、三会院に、この碑文
を刻して建てようと企てたが、運賃がかさむので、そのまま中止にな
った。︵下略︶ ︵一五〇裏
百工逆の巻末には、碑文将来の由来記が付されており、右の解説はそ
れによっている。
︵8︶引用はr五山文学新色第一巻による。返り点は私に施した。
︵9︶梯川の作品で﹁束人﹂という語を確認してみる。
I ︵上略︶紋日、子願即天下願也、不二井然一乎、照一此集中掛レ名者一、
桃源為レ首、而骨子故人也、巳知二子華手、整‖二予言一可也、興口保
見レ記省レ弓鶉将三再遊赴二束人之約一、欲レ留レ之、害レ得平、与二
其旧業従毎一黍離一、親三若随処野宿二乗下 共意亦筆、業知レ名
声敬l一此人一、江山為レ助、果待二此華、愛敬二后叙一、拒而不レ允、
末如レ之何、〒略︶ ︵r小補来遊処し后叙︶
t注︼﹁桃源﹂とは桃源瑞仙のことである。
所以作一血統一也、高駕入レ束、々人骨劇朝化一、錐レ失l初此一、両翼
Ⅲ 拝別以来、日久歳探、伏惟、尊候万福、景絵報レ梗而来、一咲祈レ喝
の突然の来訪を詑‖び、再び近江に帰ることを快く思わなかったが、親友桃
していた瑞渓の許を訪れ、r小祁束遊里の序を請い受けた。瑞渓は、相川
源瑞仙二四三〇∼八九︺が横川の帰りを待っていたので、やむなく東帰
この場合の﹁束人﹂は近江の人、=狂的に亭っと、桃源あるいは外珊箸の
を許したという。﹁翼将三再遊赴二束人之約一、欲レ留レ之、⋮苛レ得手﹂−
小倉粟港のことを指しているか、と思われる。彼らとの約束は、r小袖来遊
後竺所収の[劇l桃華詩井序]によると、百余白の間に近江に戻ること
Ⅲの文章は、楢川が万上ー里集九︹一四二八∼一五〇七?︺に宛てた悲間の
だった。
二郎である。同曲Hには﹁少霊・桃源今川亡﹂というくだりがある。少雲丑
についてはよくわからないが、桃源の没年は延徳元年︹一四八九︺十月二
十八日のことなので︵r蔭掠軒日録﹂等︶、﹁廿国難入レ翼々人骨服二共化こ
というくだりは、文明十七年︹一四八五︺、万里が太田遺激︹一四三二∼八
六︺に招かれて江戸に遊んだことを述べていると思われる。万里は、東達
来遊してからも、遺瀧が主催する詩歌会に出席したり、遺港の伯父にあた
する前から、遺激や上杉克正をはじめとした関東の武将たちと交流があり、
る叔悦祥帰に請われて黄山谷詩の講義をしたりしている。中川徳之助氏
r万里集九二人物品賀吉川弘文館、平九︶参照。この場合の﹁米人﹂は
人一也、共二者和之東大、使二千・−1人も、聖者野之薬師、梗二千束人一也、
散説]には﹁︵上略︶吾細築レ培受レ戒者三処、其一老筑之親告、使二千酉
四四〇上五一八︺のr翰林荊正集﹂第十四所収の[腱苑院殿百年己産屋
関東の人皇思昧している、とわたくLは解している。なお、景徐用麟二
:の文事は、r小榔来遊盤の後序からの抜粋である。r小補来遊盟は、
︻注〓策徐﹂とは且㍑徐周麟二九万里﹂とは万里集九のことである。
於彼一、欺警々、〒略︶ ︵r京花里[与二九万旦蔓
横川が応仁の乱を避けて、東方の地近江に遊んだ時に詠んだ作品を収めた
歳々為レ移也、〒略︶﹂や、﹁︵上略︶伝聞前年円党寺有二霊火事一、一日
迫二乎延磨戒培之典一、両野之薬師廃突、故東人骨忍二路華畢比叡壇一考
石二物降丁目レ天、祝レ之則舎利也、米人至レ此老害レ之、将レ信レ然乎、不レ
もので、その序文は、楢川の文学上の師にあたる瑞渓周鳳︹三元一∼一
倍レ然平、京師鎌倉兄弟之固也、︵下略︶﹂という文事があることを付記し
四七三︺が記している︵﹁五山文学新集﹂第一巻・解題︶。同序によると、
灯の穴湘院で帥見龍淵本珠との再会を果たした後、北岩蔵の慈雲庵に隠棲
応仁二年︹一四六八︺夏、一旦、近江から京都に戻った梯川は、東山ム盛
57
法レ舟自≒泉亘瀧HH一。課以三明年下二三峡こという詩に﹁詩洒活壁一
誰家数去椚杯兜。唯訳酔愛活狂等二真重刑喋‖菜レ周﹂、睦瀞の︻赴二成郎一
甫の[追レ悶旦一路十九謝日華︼という詩に﹁︵上略︶晩節漸於二詩建一細。
︵10︶引川は辻井之助氏﹁空華白川工夫略生し ︵太洋社、昭一四︶による。返り
十年。又摩二病華看二西川一。︵下略︶﹂、兄補之の[次二川振著作文潜一。
ておく。
点は蔭本氏r訓注 空華白川工夫略集﹂ ︵思文閣出版、昭五七︶を参老にし
惹早。黄著作魯蛙という詩に﹁︵上略︶新改聴二恭子一。不レ飲亦活狂﹂と
飲二王舎人才元華。時坐#戸部季尚函公択。光禄文少卿周喝大理杜少鋤
て、私に施した。
を参考にして、私に施した。
︵‖︶引用はr大正新修大蔵経﹂第八十巻﹁続諸宗部﹂による。返り点は同紙U
○琉璃浄潔柱徽璽一曲山川舞一敏光l。若使二無紋華一別調一。応三相
︵買蔀衰吟二大的⊥l居士紀公植竹湘=堂詩]︶
幌。赤蹟半抽レ残君恩猶到レ此。一板茸l軸忘一。
○梅什批‖堂巧琴楢引レ肌長。残季従二爛酔㍉万事転清狂。日的深慮レ
に挙げた五例しか見付けることができなかった。
翻ってわが匪lの五−=文学における用例を見てみると、今のところ、以下
靭な粕神力がそこに介在していたからであろう。
く、俗胱間から逸脱しっつも、自己の信念︵主張︶を賞き通そうとする強
林で酒を飲み、琴を弾じて、清談を行なったという﹁竹林の七賢﹂のごと
詠じられているように、﹁清祉﹂という語に﹁消﹂が間わってくるのも、竹
倦懐不レ似二此‖清華。
水掛二秒華。禅心憤レ石海大月。登‖菌敵将略用到‖諸昆如問レ挟。
西州雉レ好戦鵬彗千里相陽帰興長。衣械由レ花光二目撃。叩持濾レ
空 送三人之二相野
︵12︶全文は以下の通りである。
に、
︵り︶中国文学における川例を見てみると、たとえば杜柏の[壮遊]という詩
︵上略︶放萬斉拙間。袋最強清狂。春歌二進台上一。冬劇一専蒙二
呼レ鷹早碑林。迷レ根薫宗点間。射レ飛曾縦レ控。引レ⋮日華駕的一。就役
︰小六新二清狂一。 ︵r済北逆[琴]︶
謝三郎。 ︵了幻竺[弟一戯劇一︼一
○秋風鼓特発一清華。墾場分笑一喝識柁仇米華一粟革。玄沙‖ハ目元
︵四部叢刊所収本。返り古⋮は鈴木虎雄氏註解﹁牡庸全詩集﹂︵口
拠レ鞍喜。忽如レ携二葛嬰。︵下略︶
本国火‖センター、昭互二︶を参考にして、私に施した︶
葉二壷奄 ︵﹁雲門一曲〓謹次二日新政庵上人見レ示旦l︼︶
〇酔帰砲袖氾二香華。芸例題レ詩彩筆新。英レ怪清征畔愛レ噂珠頭長
とある。二十四故の時、郷貢生として受験のために郎︵長安︶ へ送り目さ
れた杜再は、あいにく落第してしまう。そして、その帰りがけに斤題の地
公一之者。北在レ藁欺。或玩。或荷。以官二千朝一。或遊。或処。以託二
○︵上略︶天隠也考票上l者之所二日而山一也。友祉所レ称。所レ華一於
方︵山東省と山西省︶ に気櫨に遊び、軽装肥帰、すこぶる清狂の態を尽く
すこと、かれこれ八、九年にも渡ったという。﹁春歌二蓑台上こ以下に記
之紬北山之北一。隠之識者。詭者也。挿入隠者也。︵下略︶
隠之巧者也。或腿仙。戎卓行。或佳二塗捷草。以耕一釣牧ナ樵南山
子情l沼狂迫U一。或柄杓戎悟空或卜笈。戎医報以彙一千捕門jII華。
されている祉市の行動は、甚だ常軌を逸しているが、自らが意図して破天
荒に振舞っているところに、被のH念︵主振︶ のようなものが見え隠れす
る。朴苗の[遣レ興 五且のうちの一首に、飲中八酒仙の一人である㌫知
事を詠じて、﹁封公雅呉語。在レ位常清狂︵下略︶﹂とある。また、同じく鉦
58
︵r業鏡台﹂[天隠字叙︼︶
﹁凪匹は一休宗純︹一三九四l四八こを形容する語として有名で
あるが、﹁清狂﹂は五山の詩文であまり見受けられない語である。五山文学
における意味・用法も、中国文学におけるそれと変わらないようである。
︵14︶引用は百納本一二⊥四史所収本による。︿ ﹀内は割注を示す。返り点は私
に施した。
︵15︶引用は四部叢刊所収本による。返り点は竹内照夫氏校注r韓非子j上
︵新釈漢文大系日、明治轄院、撃一五︶を参考にして、私に施した。
︵16︶r日工処し応安元年八月二日条に、
八月二日、わ二諸子講l寓整空詩一、按霊二、僧伝所望章二也、
三一者会稽讐・関川健一・慶雲霊一也、
とある。
○建仁寺両足院歳r東海橘井蛙二絶句︶﹂
︵17︶r蕪竪巴に収められていない詩が、他者に見受けられることがある。
漫事二芭華
幻啓従来不二自持一。区々保爾復胡為。票未≡必留二千華。大小秋
謝=人事一推苗一
風一任レ吹。
遠抹二葉ザ為レ我分。先梢寓薄万里寄秋来若布二㍍眠雨−。一法小
破衣
心却恨レ君。
竹之賛
百結懸鵠肩上垂。春風幾度着心吹。七零八落似二何処一。窓外芭蕉秋
Tfhす〇
一Lイnけ
薫々竹窒此只管凪影参差年毎原。追想退勧耽二埜趣一。溝阿椚畝塵一
高堂一。
釣台
○苗華若木詩抄﹂︵抄文は省略する︶
生来不レ説l刊興亡一。風雨蓑衣両壁筍具∪二査花深処夢一。一竿釣
惜レ春
莫レ到二文王一。
万般春色弟成レ空。多少燕化暮雨中。黄鳥数声人寂々。柳絡無レヵレ
繋二東風一。
両蟻障子一一骨
O r翰林五姐集j巻第四十八
懸日間元全盛時。鞋削春レ詔舞二椎や。訳恩〓少蟻寓語。沙苑晩凪
吹一転華。
伯楽軋レ逢蟻易レ塗風射㌫宗為レ誹璽一鵬騎山長鰍華十二天開
両
陳∵北龍.。
客策レ‰米一。
春江西過録懲タ。四前面扉碧南。位相捷々賽氾華。果宥−一訪
これらの詩がどのような経緯を緯て他曲目に収められたのかはわからない
が、r椎⋮竪兇二桁時に除かれた作目輿である可能性もあるだろう。
※引用本文については、旧字体や異体字を私に改めた箇所がある。
本稿は平成十年度広島大学竪川国文学会秋季研究埠会丁工月二上∴‖︶にお
︻付記︼
ける口頭発表を加箪修正したものである。
﹂あさくら・ひとし、太宰大学院川上課仕け川在与−
59
Fly UP