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西周稿本目録解題: 春の部

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西周稿本目録解題: 春の部
Kobe University Repository : Kernel
Title
西周稿本目録解題 : 春の部(Notes and Comments on the
Catalogue of the mannuscripts written by Nishi Amane
(Part. 1))
Author(s)
蓮沼, 啓介
Citation
神戸法學雜誌 / Kobe law journal,59(4):1-111
Issue date
2010-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81004902
Create Date: 2017-04-01
西周稿本目録解題
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沼
神戸法学雑誌 第五九巻第四号
西周稿本目録解題
蓮
れる筈であったが、結局、採録されずに終わり今日に至っている。第二巻に採録された﹁ことばのいしずえ﹂につ
なお春の部に含まれる稿本のうち﹁詞ノ麓路﹂および﹁日本語範﹂は当初の企画によれば全集の第三巻に採録さ
ものではない。便宜の上で仮に付した番号であることを予めここでお断りして置きたい。
二七より後の稿本を冬の部として取り上げる積もりである。なお番外の三より後の番号は実際には稿本に振られた
げ、更に墨番号の二一O より一四九までと番外の一から番外の二六までを秋の部として取り上げ、最後に番外の
まず墨番号の一から五Oまでを春の部として取り上げ、次に墨番号の五一から一一九までを夏の部として取り上
されていたと推定される墨番号には括弧を付して置いた。
﹁西周ニ闘スル書類拍﹂に採録されながら、現存する西周文書には含まれない稿本もある。こうした稿本に付
き足す。これが本稿の狙いである。
西周文書に含まれた刊本や稿本に付された漢数字の分類番号に沿って大久保利謙の解説を付し、必要な補正を書
は墨により振られた漢数字の通し番号であり、こちらは墨番号と呼んで区別することにしよう。
た分類番号であるが、こちらは﹁西周ニ闘スル書類拍﹂に対応する番号である。朱番号と呼んで置こう。その二
西周文書に含まれた稿本には二種類の分類番号が付されている。その一は朱筆により甲乙丙丁のいくつと振られ
春
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部
いても﹁解説は第三巻の﹃調の麓路﹄及び﹃日本語範﹄ の解説とともに同巻に掲げる﹂(第二巻解説七七 O頁) と い う
当初の計画は変更されてしまい、その解説はなお活字にされないまま空白が残されている。
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C ﹁西周稿本目録考証﹂神戸法学雑誌第五七巻二号を参照されたい。
(l) 蓮沼啓介ニ C入
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) 本稿の叙述は当初夏の部から始め、春の部は最後に取り上げる積もりであった。
以下にいう西周文書目録は、西周文書を所蔵する国立国会図書館、憲政資料室に備えた西周文書の索引である西
周 文 書 目 録 の こ と で あ る 。 ま た 大 久 保 目 録 と い う の は 大 久 保 利 謙 の 作 成 し た 西 周 稿 本 目 録 の 略 称 で あ る が 、 そ のH
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と が西周全集第三巻の解説一玉頁以下に掲載されているので併せ参照されたい。
総
記
にいたった。この仕事に力をつくされた先人の功績を記念するために、第一同の編纂企登以来の経、過の大要を書いておきたい。
つぎに全集の編纂であるが、これは今岡のものにいたるまで、幾度かくわだてられ、そのつど種キの事情によって挫折して今日
総記は存在し・ない。本稿はその代わりを目指すものである。
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第一同の全集計査は西の線、迭で、かつ門弟の一人である故相津英次郎氏が中心となって恩師のためにくわだてたものである。英
口
E の長兄枇の養家先の相津家を嗣ぐべく伯父枇の養子となった。血統上
次郎氏は商の夫人石川氏舛子の次兄岡野周吉の次男で、周 '
西夫人の甥である。かような関係で少年時代から西の家に寄宿し、内弟子となっていた。
相津英次郎編﹁雪廼舎主人相棒耽・同扇子侍﹂(昭和十五年十月刊、非賢口同)による。
相棒氏は私が麻生氏の後を受けて全集の編纂をくわだてた頃、(昭和十四年五月頃)に、﹁百築、連環の巻末に題す﹂という一文を
ものして賄られた。これはその頃﹁百撃退環﹂の刊行が故尾佐竹猛博士一をはじめ同好者の問で話題にのぼっていたからであった。
それには相棒氏と森鴎外等を中心とする第一同の全集編纂の顛末がくわしく、述べてあるのでここにその部分を引用しておく。
﹁西周が、明治文化の先駆者であることは、今日に於いては次第に、噴く知られるに至つてはゐるが、周の菟去を去る僅かに六、七
年の明治三十六、七年頃には、かへって周の撃問とその名とを知る者は、築界、及び箪部の一部の人今に限られてゐたのである。そ
れは周がその多くの著、述を殆んど出版することなく、又寧部に於いては常に山際公の顧問の地位にあったこと等に由来するのであ
る。そしてこの事を私は探く遺憾に思ってゐたのであった。
畑町キ、明治三十六年に、周の七周忌の法要が行はれたので、私は蛍時職地の金棒から上京して参列し、大森に周の嗣子男爵紳六
郎氏を訪問したのである。その時、私は紳六郎氏に、周の撃問、事績が陵く一般に知られてゐないのは、ひとへに周の著、述が殆ん
一つには先魔者としての周の拳識と事業とを、江湖に庚く知らしめることともなると思
ど出版されることなく、徒に低限底に秘両概されてゐるのみであることに依ると考へられるが、悲し周の遺稿の総てが後表されたなら
ば、一つには事問上に於ける貢献となり、
はれるので、この七周忌を期し、その記念ともして周の遺稿を、﹃全集﹄の形式を以って後表されては如何かと、勧めもし、相﹄談も
したのである。そして遺稿の整理や、編輸などは、自分が引き受けても差し支へはないと語ったのである。しかし、同氏は容易に
このことを承﹄諾せず、暫らく考へさせて貰ひたいとのことであったのである。だが、私は知人、下河迩宇五郎氏が出版印刷のこと
にくわしいので、大髄の量をきめて、出版資の見積もりを依頼したところ、約千五百岡なら引き受けるとの事であった。今日に之
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を考へると、自費にて出版するといふ事は全く不思議な事の様に思はれるが、営時は自費出版ならでは出版し得ない程、周の名は
A -祉の-吐長であった義兄の山漫丈夫に、全集出版計晶賢一を
一般的でなかったのである。その後、私は嘗て周に撃んだ、 高
A 時犬阪紡績 官
話し、出版には千五百周桂一か、ると相談したところ、先生の遺稿が出版せらる、は淘に結構だ犬賛成であるがその後起人には佐々
木ヘ育英舎に製ぴ、首時第二十銀行頭取であった佐キ木憤忠郎氏)と、森岡崎外とを加へ、出版資は自分と佐々木とで引き受け様、
就いては遺稿の整理、編輯等のことは、多忙で到底出来ないから、その方は君と森とでして賛ひたいとのことであった。私は、早
速佐々木氏に商舎して全集出版について相談すると、同氏は一もこもなく賛成し、自分も山港君同様に忙がしいし、遺稿の整理、
編輯等と云ふ仕事は、自分には不、通賞だから、出版費の方で協力したい。費用に就いては、松岡(後司法大臣、松岡正久氏)も加へ様、
同氏には自分から話して置くが、松田からは三百困程出して貰ったらよからう、との話だったのである。佐々木氏が松田氏のこと
を云ひ出されたのはその図織があるのである。
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周の塾、育英舎は、元来、松平春巌侯の依属にて、福井落士のために設けた、 同時の新らしい塾であった。松田氏は稿井落士で
して止まなかったのである。あたかも議可が馳同を断ったと同じゃうに、非常な熱心さであったのである。佐キ木氏は、温厚な人物で
恒絶されたのである。しかるに翌日、再ぴ同舎を訪れたが、又拒絶されたにも拘らず、翌々日、三度同舎を訪れ、入門を懇﹄請して
はなかったが、周を慕って育英舎に入門したいとて同舎を訪問したが、幹事をして居った佐々木氏から、他藩士を理由に膝もなく
はあるが、再三の拒絶に風馬牛の如き松田氏の執拘なまでに熱心な訪れには、業をにやして玄関口で大整で押問答をしたのである。
きて、いよ/¥全集を出版することになったので、山、注の話の如く森鴎外博士に、遺稿の整理、編輔の仕事に協力されんことを計
されたのである。
の経過を報じて、再ぴ、全集出版の承諾を求めたのであるが、紳六郎氏も山、没、佐キ木雨民が賛成だといふことをきいて快く承諾
があったのである。それは兎も角として、私はこれで大韓出版資も千三百園調、達し得るに至ったので、書面を以って紳六郎氏にこ
それを周が聞きつけ、ぞれ程に熱心ならば入門を一許したらよからうとのことで、他落士としての入門者であったと云ふ特別の闘係
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ったところ、欣然快諾せられ、自分は校正に嘗るから、君の方で原稿を作成して貰ひたいとのことであったのである。賞時、私は
石川燃から三重燃に特任し、津市に居住してをったので、津の方へ紳六郎氏から、、遺稿全部の、途附を受け、多忙な職務を持ってゐ
たのではあるが、夜間、校務の絵暇を努めて見出して、原本の蒋しをとり始めたのである。そして後には、一この人に手侍って貰ひ、
兎に角、明治四十一年には、全部の筆鶏原稿を作り上げたのである。
その問に、私は会倍増には、題字や序文などを添へたがよからうと考へ、紳六郎氏に、全集の題字や序文を、公爵徳川家、逮氏、判官
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田正久氏、文部大臣男爵牧野伸穎氏、文部次官、得柳政太郎氏に依頼されたいとの意見を述べたのである。この文部大臣と次官とを
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また私が相淳氏から直接聞いたところでは挫折のおもな理由には箪部への遠慮、とくに軍人勅論起草岡係の資料がからんでいたと
これか第 岡全集編纂の後起並ぴに挫折の願末であるが、右の相棒民の記、過によると慎重論の提案者は森岡崎外ということになる。
氏が逝去し、大正十二年には佐キ木憤思郎氏が、彼の関東大震災の厄に曾って倒れ、出資者二名を失ってしまったのである。
し得るの日を待つこととしたのであった。爾来、私は全集出版の機舎の至るのを待ち積けて来たのであるが、大正九年には、山、遺
出版は一時中止せねばならなくなったのである。そして原本と持率寓原稿とは、共に紳六郎氏の手許に留め置かる、事となって出版
考慮した上でないと後表は出来まい、との事だから、今暫らく授表は見合せたがよいと恩ふ、と云われたので、止むなく、金品衰の
民より筆潟原稿を借覧したしとの求めに感じて見せたところ、今これを後表すると物識を醸すやも知れぬものもあるので、慎重に
準備も次第に整ったので、私は原本と鐘骨河原稿とを携さへて上京し、紳六郎氏を訪問したのであるが、その後、紳六郎氏は、森
へ趣意書の原本官時異を挿入したので引用を省略する)
頒布して、一般の賛成を求めゃうとしたのである。時に明治四十一年十一月であった。その趣意書は次の如きものである。
であった。斯くして、原稿も出来上り、出版費の方も調達し得るに至ったので、私は﹃西周入ミ晶提出版趣意書﹄を作って、こを蹟く
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いうことであった。このとき柏崎伸民などが持率寓した多量の印刷用の原稿は、商の白骨草稿本とともに起稿年代の推定が行われたこと
は後に、述べるとおりである。
第一同会集編纂のことは、麻生義嶋崎氏の﹁明治の先発者団周先生﹂へ明治文化研究合同編﹁季刊明治文化研究﹂第二輪所牧、昭
和九年二月刊)にも同様のことが書いてある。これも相棒氏の談話によるものと思われる。
西周の稿本は、その日銀が明治三十一年にでた森岡崎外の﹁西周侍﹂の巻末にかかげてあるから、少なくともその存在だけは早く
から世に紹介されていたが、これに関心をもっ研究者はながくあらわれなかった。これはひとり西のみでなく、撃者といえばまづ
本家本元、西洋の諸大家か研究の針象となり、明治初期の紹介者たちの昔、心なとはほとんど顧みられなかったから西のごときもな
これは稿本の貨物の一判明が紹介された最初である。この集は 晴海議士口の﹁防学問のすすめ﹂、加藤弘之の﹁人権新日説﹂、田口卯吉の﹁日
の増刊﹁明治名著集﹂に﹁百一新論﹂の全文が餓刻され、口槍には山円像・筆蹟とともに﹁美妙築設﹂の稿本の一部の篤異が載った。
多かったことがその理由の大なるものであった。その闘に明治四十年六月、博物館創業二十、週年記念として刊行された雑誌﹁太陽﹂
がく忘れられていた。とくに西の場合は楠謀議官や加藤弘之などとくらべて公刊の著書が少なく、また軍部開係のかくれた仕事が
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AY 時の文化、政治、経油開の各方面の岡願が盛んとなり、西周も新文
化韓設の指導者の﹃人として次第に高く評領されてきた。大在四年五・六・七月刊の﹁図家及図家製﹂という雑︼誌に鵜棒聴明博士の
大正期を迎えると明治維新時代が研究の釣照となりはじめ、
が、くわえられたことは、もとより営然、であったとはいえ、西の存在を一般に墜認せしむるに役立った。
﹁新日本之青年﹂等の十六種の明治古典、をかかげてある。その選擦も賞をえた意義の漆い企剖であったが、これに西の﹁百一新弘剛﹂
本経済弘明﹂、中江兆民の﹁民約﹄蒋解]、馬場辰猪の﹁天賦人権弘担、坪内道、途の﹁小説神髄﹂、西村茂樹の﹁日本、道徳弘明﹂、徳富蘇峰の
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﹁百一新論に於ける法家思想﹂がのり、また尾佐竹猛博士が大政泰、還と西の憲、法思想との岡係を論じて明治憲政の褒達における西
の功献を明らかにしたへ尾佐竹猛﹁維新前後に於ける立憲思想﹂大正十四年刊)。ついで昭和初頭に刊行をみた﹁明治文化全集﹂は
この時期の明治維新研究を記念するものであるが、その思想篇には﹁百二重担、法律篇には﹁寓図公法﹂が牧録され、後者にはと
くに吉野作造博士が解題を書いている。これは明治文化史上における西の地位を改めて築界に認識せしめ、雨書を明治の古典とし
て普及せしむるに役立った。
撃著作品柄﹂と題して、昭和八年十月、岩波書庖から刊行した。奥附によると十月十五日印刷、十月二十日第 刷後行、菊版一珊、
に研究費の補助を受けた。しかし全集の刊行は容易でないのでまづ酉の撃問の基礎となる哲撃的方面の著書稿本をまとめ、﹁西周哲
麻生氏は商家の了解のもとに商の橋本研究に着手し、昭和十年度に帝園祭士院から﹁西周の製説の研究及甘片道稿の出版﹂のため
家に紹介し、協力者として編輯・校訂を麻生尽に鳴し、再ぴ全集編世帯の事業が燃えあがった。これが第二同の全集計重である。
た﹂と嘗いてある。かくて麻生氏は商周の撃問に閥、心をもち、一且強折した全集編纂の再興を希望したので、指揮民は麻生氏を西
周研究の端椅をひらくものであった。前掲相淳氏の文には﹁私はこれによって西周の研究者のあることを知って極めて愉快であっ
その他の西の稿本類の閲覧をめぐって昭和三年から相、海英次郎氏との問に交渉がはじまったのである。これがまづ最近における西
妙助努読﹂の稿本の鳥居時であった。これがたまたま日本美築史の研究をくわだてつつあった麻生氏の、注意をひき、この﹁美妙築設﹂
の﹁西周哲拳著作集﹂の刊行であった。そしてこの麻生氏を西周研究に、導いたのはほかならぬ前掲﹁明治名著集﹂の口檎にのった﹁美
まり顧みられない有様であった。この西周研究の寂実をやぶって西の存在を築界に大きく、伊ぴあがらせたのは故文撃士麻生義輝氏
しかしまだ西周は不遇でその存在は﹄晴、昌伸一稔士一口や加藤弘之にくらべて影は薄く、橋本類は依然として明治史の研究者からもまだあ
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限定四百部、定憤四圏、編者は東京市中野区上高田町一丁目九十七番地麻生義輝となっている。警践に商の山円像潟異(明治十三年
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六月潟)、井上哲次郎博士の序文ミ頁と編者序回頁を掲げ、本文三三一頁、﹁開題門﹂・﹁霊魂一元弘明﹂・﹁尚白知明記﹂・﹁美妙架設﹂・
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﹁生性検組﹂﹁生性盈記﹂・﹁人一智弘明﹂・﹁情智闘係論﹂・﹁-吐舎鶏論ノ説﹂・﹁百一新論﹂・﹁敬門弘明﹂・﹁致知啓蒙﹂・﹁知読﹂・﹁人世三賀説﹂・
﹁諜利皐読﹂・﹁挙問ハ淵決・ヲ、畑町クスルニ在ルノ弘明﹂・﹁攻略論﹂・﹁幸-唱ハ性霊上ト形骸上ト相合スル上ニ成ルノ論﹂・﹁東京師範事校
こ道徳撃ノ一科ヲ置ク犬意ヲ論ス﹂・﹁論理新設﹂・﹁心理-説ノ 斑﹂・﹁理ノ字ノ説﹂の二十この論文をおさめである。このうち*印
を附したのは未刊の稿本である。巻末に麻生氏の作製にかかる西周年譜と、民の西周研究をまとめた﹁解読││西周の哲印字上の功績、
特に本書に牧載したる詩論文の成立及ぴ解穂﹂と題する五十二貝におよぶ長文が附載してある。これは稿本による最初の西周研究
で、このうちには稿本の起稿年代の考訟のみならず、この﹁著作集﹂に牧めた以外の未刊稿本、とくに﹁百事連環﹂についてその
大綱を紹介してある。かくてこの解説は諸橋本の公刊とともに西周研究の指針となった。井上哲次郎博士の序文を将戦すると
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畷的確、復た疑を容る冶の品開地がない。巳に明治七年に﹁百一新弘明﹄を著はして百敬皆哲皐によっで総括せらるべきことを論じ
源頭を成したのである。然れども向ほ仔細に是等と比較釣照して之を考ふるに何人よりも早く指を苦撃研究にに染めたること明
味を感じたゃうである。而して崎来明治初期に至って哲撃に闘する著﹄諜を後行し、加藤弘之、西村茂樹等と共に我図耕口組干愛生の
フヒツセリングに就いて主として法制の撃を修めたのである。留肋争中己にカントの、永遠卒和の論を知り、又コントの賛詑昔製に興
西周氏は元と石州、津和野の人である。けれども蚤に江戸に出で幕府に仕へ、幕府の命により和蘭ライデン犬撃に留撃し、数授
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ある。氏の哲印事的傾向は大髄経験主義的資"遊主義的であった。氏の和蘭在集中に経験撃波の哲撃者オプゾ l マ!の影響もあった
理製﹄と題し、其上巻を後行し、又一年を経て其下巻を後行したのである。心理撃と云ふ助事名も、此書名によって一定したので
アニズムを嗣附議して﹃利印字﹄と題して世に公にし、其翌年米岡人ジョセフ・ヘ 1ブンのメンタル、フヒロソロフヒーを誇して﹃心
れが亦我固にが、ける論理泊予の鳴矢である。但し論理撃と云ふ術語は氏の譲諮ではない。明治十年に至って氏はミルのユ 1チタリ
たのである。哲撃と云ふ術-諾の用ひられたのも是を以て始めとなすのである。同年又﹃致知啓蒙﹂を著して之を後行したが、是
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西周稿本目録解題
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かも分らぬが兎に角ミル、スペンサ1等の影響を受くること多大であった。特にミルに尺枕したのである。ミルは言ふ迄もなく
コント汲の人であった。西周氏が未だ進化論を唱道するに至らなかった所を考へて見るとスペンザ!の影響はミルのそれ程では
なかったようである。氏は加藤弘之や津旧民道のやうに唯物主義を唱道することを敢えてしなかった。然し氏を理想主義者と見
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るには鈴り経験主義的資詮主義的傾向が勝って居った。氏は楠捧稔 古口に先ちて大に女性の敬重すべきことを認めたのであるが、
是れ亦蓋しミルの影響であったであろう。氏は蘭、英、崎町の諸圏諸に通じ、又、借快挙の索、養があった。漢製は主として頼山陽の門
人後藤松陰に事んだのである。それで氏は議日誌を錦、迭すること頗る巧妙で、而して又文才に富んで居った。曾て﹁心理的学﹄を隷
するに首って其中引用せられたる詩句を或は漢詩に哉は新健詩に巧妙に議出したのである。新髄詩は明治十五年余等の接行せる
﹁新髄詩妙﹄を以て起源となすのであるけれども、氏がそれより三年前に巳に之を試みたことは十分注目に侵すると思ふ。其諜
つるぎつゑまっかげいはほささといきぞりしもわかむし。えそもいくきっかひみころもうるはしはなむこ
詩に云く、
あやそのほうひげにひそりあきたかりしねそろ契まにちかままにほかかうぐや
剣を杖に。松蔭の。殿場へて。吐息つく。時哉見ゆる。若武者は。是は抑箪の。使かや。見れば衣の。美麗さ。新郎とかも。
かすめゆぴはさかうばこなにことときどきはなかさか
詩またる。其義者の。新剃は。秋田を刈れる。刈裕の。発へる様に。さも似たり。近づく僚に。馨ふ香は。そも時款貸舗の。
娘から。指に挟める。香盆の。何鴛なりや。時々に。鼻に臨場して。喚くめるは。
余は曾て撃生時代に﹁心理撃﹄を餓関したのであるけれども、何故か此れに針して無関心であったが、今岡此一篇は明治文撃
史の研究上看過すべからざる事であると気付いたから之を滋に掲げて識者の注意を促す次第である。麻生義輝君昨年余を訪ひ、
今夏再ぴ余を訪、って日く、西周氏の哲撃に闘する巳刊末刊の著作を悉く編纂して之を﹃商周哲撃著作集﹄と題し、岩波書庖に托
して、世に公にせんと欲す、請ふ之が序文を作れと。余之を諾して未だ果たさゾるに偶キ遊意動き、伊香保に之き、尋いで四寓
に抵り、霊泉に浴すること十有徐日にして崎京せしに、麻生君より督促あり、﹄該番印刷己に成る、速に其序文を、途れと。乃ち筆
を援って此序文を作る。同願すれば明治十七年の春、余相旬、逸留製を命ぜられ、特に彼地に向はんとするに嘗って、哲撃舎に於て
余の矯に、途別舎を開きたるに西周氏も亦来舎せられたので余は氏と一面識あることを喜ぶのである。借地がそれは賛に今より五十
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年前の事である。余は亦﹃哲撃字義﹂の草稿を氏に、逸って其意見を問、ったこともある。それから昨年余の岩波講座に執筆したる
﹃明治哲撃の問顧﹄には努頭第一に西周氏を拳げて論じたのである。きつ云ふ町議で余は哲撃上氏と因縁の、浅からざる者であるが、
氏の姻戚にして曾て民の偉を州したる岡崎外森林太郎氏とは在街中以来親突ありし者である。是れ余の喜んで此序文を作る所以で
ある。此書 たぴ世に出でんか折口築界の興味を惹くこと、決して鮮少なら、さることを疑はないのである。
昭和八年九月廿一日
井上哲次郎
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やや粗雑なうえに譲りもある。とくに断片類を、逸しているのは研究資料として甚だ物足らないものであった。麻生氏はこの選集に
ま移しているから、利用者は注意を要する。さらに各稿本の起稿年代の考定も、だいたい第一同全集のときのものに準擦しており、
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八四賀、昭和十七年七月刊)で後表された。
先生論集﹂を底本としたので、﹁明六雑誌﹂の欲 ヘ人生三賀説の後牟)を補ったとともに、またこの﹁論集の﹂脱文改ざんをそのま
、
ついで全集刊行の計撃も首尾よく結貸し得なかった。なお麻生氏の西周研究は、復後に、遺著として出た﹁、近世日本哲築史﹂へA 5版
しかしもれたものもあるし校-訂また必ずしも十全ではない。とくに﹁明六雑誌﹂掲載の-諸論文は、いかなるわけか、萱生泰三の﹁西
理からぬことであった。その意味でこの﹁著作品柴﹂の功績は大きく、これによって明治三十年以来の全集編纂計剖の一端が呆された。
西の拳問を再評憤せしめる原料となったが、これまで商の製問を検討すべき材料かほとんど公開されていなかったから、これは無
麻生氏の﹁著作集﹂はなかく埋もれていた未刊の稿本のうち重要なものを公開したから、完全な全集ではなかったが、たしかに
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麻生氏の逝去は商の全集計撃にとって大きな不幸であった。ところが麻生・相津雨氏の計晶賓とは別途に、昭和十年以降文師事博士
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西周稿本目録解題
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上回駕年・同新村出雨博士が西の図﹄詩集に闘する、遺一稿の整理研究を企て、-帝園祭士一院から研究費の補助を得て、営時東京帝岡大築
文製部図誌研究室助手であった岩淵悦太郎氏が新村博士の下で事に営っていた。たまたま私は昭和十二年以来帝図撃士院の属託と
して同院の沿草史を-調査していた関係から、第二代東京製士舎院曾長であった商の事践について調査の必要に迫られ、その結果西
家と協議のうえ麻生氏の、造業を受縫ぐこととなった。新村博士は前記の整理事業の達成をかねてこの全集の完成を念願され、私を
推し、昭和十五年度以降ミヶ年にわたって﹁西周法稿の整理解説及出版﹂のため高松宮家の有楢川宮記念撃術奨助金を受如、せしめ
られた。これが第三岡目の入五倍増編纂の溌端である。
商家賞主一酉酉乙氏は私の建知の先輩であったのでこの計養に多大の好意を寄せ、稿本一切、ならびにまた明治三十年代以来の全
集編纂資料をあげて提供された。相津英次郎氏も営時なお健在であったので諸家に散在する稿本類の蒐集に協力され、また商の事
践についても有盆な資料を提供された。編纂については帝園祭士院舎員新村出博士をはじめ、同文皐博士桑木殿翼民・同文築博士佐々
木信網民と、法築博士尾佐竹猛氏が監修として内容劃され、柳田泉氏(早稲田大挙敬授、現文事博士一)・三枚博普氏(現文集博士検演市
立大防学教授)・堀経夫氏(伽峰、符撃情博士一、営時大阪商科大接哉授)・岩淵悦太郎氏(凡周囲時第一高等製校敬授、現一国語研究所所長)・桧下
芳男氏へ元敬育総監部岡崎託、現法撃博士工準院大挙敬授)・鈴木安賎民(現法築博士静岡大助半数授)等が校訂ならびに解説を分櫓さ
れることになって、橋本の再整理から事業を開始した。
まづ稿本を分類して目録を作成し、全集として編纂すべき構想をたてた。つぎに第二間以来の全集編纂の、過程を再検討して、臨
成の倍率官吋原稿にしてなお使用にたえるはなるべく利用し、しから、ざるものは新たに作成し、原本との封校、句一端唄黙の附加などの作
業を行った。また故相棒英次郎氏を介して、故岡不騎氏から﹁百築、連環﹂その他の提供をうけ、またひろく番翰類の蒐集につとめた。
校訂については分機をさだめ、故桑木殿翼博士が﹁百一新弘明﹂を、故尾佐竹猛博士が憲法関係をすすんで引受けられ、その他哲撃
関係を三枝博普氏、軍制闘係を松下芳男氏、圏諸欄係を岩淵悦太郎氏、経済築関係を堀経夫博士、文集閥係、と﹁心理撃﹂とを柳
回泉氏と、それぞれ檎嘗を承諾され、その闘に鈴木安裁氏が幹事役の勢をとった。この陣容で事が淫ばれたが、その問種キの事情
1
2
5
9巻 4号
で第二奇の刊行が意外におくれた。印刷用の原稿はほぼ全部用意されたが、その一部は一校訂者の手許で焼失した。しかし犬部分
は残されたので、今岡これを利用した。
全集はふ主主巻の議定で、第一巻に﹁百撃連環﹂と﹁百二型柵﹂を牧め、第二位官は哲製細川・図誌編・敬育編・雑著縮、第三位世法律政治相柵・
祉曾経、焼縞・軍制編、第四位官は﹁心理撃﹂・﹁利梨、第五巻は随筆・詩歌・序駿・犯行・書翰・日記・雑纂を牧める設定とした。刊
行は中央公論祉が引受けられ、まづ佐用﹃巻の印刷から着手して、﹁百一新弘珊﹂の解説は桑木陣取築博士が執筆、﹁百撃連環﹂の校訂並
ぴに解説は大久保利謙が営り、 A 5版、巻頭に新村博士の序文三頁、西周入玉集線記入頁、目次二頁、解説七五頁、本文六一七頁が
成った。校了までは中央公論祉においてなされたが、刊行の直前に同祉が一時解散となったので、後行は日本評-論-吐の手に移され、
昭和二十年二月二十日第一刷が後行となった。
引きつづいて第二巻以下の後行に移るべきであったが、あたかも戦細川の地域大によってこれが体得し、戦後は関係者の四散、出版
倍増の完成を熱望する、選動がおこり、私にこれをはかられた。その結果、昭和三十三年の秋、津和野町に西周記念舎が創立された。
情勢の困難、さらに編者の一身上の事情によって、遷延した。編者は、雨三年前より績刊について日本評論祉に謀ったが種キの事情
私もまた十数年来の計章一を同舎の議行のもとに公にすることを承諾した。
三巻を以て完結とし、私が校訂にあたり、解説も新たに起稿することとした。
首尾を一貫せしめた。最初第二琶の稜刊に営ってたてた編別のままであるが掲戟の順序を若干幾更した。これは刊行上の都合によ
西周全集のこの第三巻を以て二権最初の刈行漁定を終る。第三巻には最後に稿本日銀と西周略年︼譜とを附して第一巻・第二巻と
(全集一、一一一一│三五頁)
勢も一幾し、事情も棋士ったために、前回の監修ならぴに協力をえた方々を再ぴ煩わすことは不可能であるので、構想を新たにし全
出版の一切は宗高房審主宗高松太郎氏か引受けられ、ここに第四同自の全集刊行か後足するに至ったのである。この祈念集は時
から念速に再開も困難であったところに、西の郷里島根懸津和野町において有志の問に、西の生誕百三十年を迎える記念として全
法 学 雑
,
B
t
,
戸
神
西周稿本目録解題
1
3
るものである。ただ牧録稿本の設定としたうちで、言語・図詩編に牧むべき﹁詞の麓路﹂(一之上位官) 一冊と﹁日本語範﹂三時とを
漏した。これは組版が困難なことと、分量の閥係上からやむなくつぎの機舎に譲ったのである。西の圏諸問弘明、文典論は、明治初期
の図諮問挙史上においては注目すべき存在であるのみならず、西の思想構造の重要なかなめをなし、その思想形成の論理を理解する
ためには除外できないものであるからこれは引つづき刊行を期している。この金三巻に牧録しなかったもので、まとまったものは
奮版入玉集に牧めた﹁百梨、連環﹂と-諜警の﹃心理皐﹄、﹁利撃﹄﹁云何惟人﹂(更﹀NHBBEES の人類撃の﹄議)、明治二十年以降の日
記である。このほかは、全くの紙片、または牧録があまりに困難な断片以外は、草稿断片、質害等に至るまで及ぶだけ整理して閥
酉周文書一二七
(全集三、二頁)
係編に牧録したから西周全集の名に恥じないものとなったと信じている。巻末に詳細な全著作・稿本の目録を掲げたからそれによ
って一覧してもらいたい。
﹁西先生論集﹂
かくて西が生前自己ウ著書として完成したものは、わずかに﹁百一新論﹂と﹁致知啓蒙﹂ぐらいとなる。﹁明六雑誌﹂その他に後
表した論文も雑誌掲載爪,まま放榔しであったが、たまたまその重要なものをまとめ萱生奉三が明治十三年四月、﹁偶詩西先生論集﹂
と題して出版した。これは商みづから手を下したものではないが、生前の刊行であるから西の著書に準ずるものとしてよかろう。
洋装背皮、大仏ソ︼∞﹄u
ng・、序文五頁、目次五頁、本文三九四買、、定債は登岡武袷銭。明治十五年十二月に再版を後一行した。初
F
B
-×
版の奥付は
明治十三年三月十日版権免許
静岡町明士族
東京榊回区西小川町登丁目萱番地
原著人
麹町区三番町五拾八番地
愛知豚士族
土
撃
浅草匿今月町廿二番地
兵庫牒士族
東京府平民
介
編次人
批評人
出版人
外
日本橋匝横山町二丁目
光
周
リ
手
3
長
製論理ト栴道スヘキ、高山町ナル、深、遠ナル、被密又隠微ナル、研究議論ニ渉リタル者?ン、、近来西洋製術、精ん吋盛ンナルニ随フ
ヲ見ス、然ルニ此等辰星落キノ著作文章ノ如キモ、唯一圏一家ノ盛衰ト、 一人一個ノ利害得失ヲ論排端康スルニ止リテ、所担問哲
祖徐ノ政談、竹山ノ草卒危言、林子卒ノ、海図兵談、蒲生、曾棒、及藤田氏等ノ﹄諸建策ヲ除非スレハ、和、袋三千年間、更こ観ル者
クハ風流出叶戯ノ浮華文字ニシテ、経論有用ノ言砂ナシ、注文正公、王荊公、蘇東被ノ背尚一言書、善相公ノ封事、新井筑前ノ讃史鈴論、
通監、逸史、外史ノ如キハ、姑ク之レヲ置キ、鴻儒碩撃ト細川セラレ、一世ノ泰斗ト仰レタル、築士論客ノ著作文章ヲ槻ルニ、多
偶評西先生論集叙
巻頭に左の土居光撃の序文をかかげてある。
生
居
A比
童
基
差
是
三
止
西
萱
余常こ調フ、支那及本邦撃士ハ、精榊微弱気力振ハス、故ニ其ノ後シテ著作文章トナル者、二十二史、十三経、大日本史、本朝
所
鹿
正
同
同
同
同
高
1
4
d
,
t 5
9
巻 4号
雑
品
,
.
寸→
戸
法
神
西周稿本目録解題
1
5
テ、事士論客林々生出、其ノ著作文章、亦大﹄﹂奮時ノ面白ヲ一洗シ、論緋亦自カラ新奇ヲ出品ソ、ルこ非スト難モ、旬、ホ是レ支那
日本ノ気習ヲ腕セザル者二、ンテ、其ノ著作、新聞、及雑誌等ニ後衛スル者ヲ閥スルこ、大抵二三百字ノ短文章少議論ニシテ拍車寛
一場ノ茶話、宿談こ泡キス、時アツテ新聞社説ノ欄内こ於テ、名弘明妙策ノ披ヲ逐フテ掲載セルアリ、其文二三千言ノ長キヲ童子、
識者ノ博餐ヲナス者アレハ、其ノ結尾ハ必此レハ是レ西洋何撃士ノ何番ヨリ諜出スルナリ、何民ノ何論ヲ騰録セルナリト、其原
著立記セサル者ナシ、亦以テ 白
AT 今築士論客、向幼稚ニシテ、気力精神ナキノ一端ヲ窺フこ足ルヘキナリ、此問榊問、指揮、加篠、
中村ノ諸名家、及才人楠地氏ノ出ルニアツテ、或ハ経済ヲ以テ鳴リ、或ハ議論ヲ以テ鳴リ、或ハ普諜ヲ以テ鳴リ、或ハ道徳文章
ヲ以テ鳴リ、又攻ハ遊説奔走ヲ以テ鳴り、一世ヲ震蕩、ン、干古ヲ姿際スト雄モ、是亦西洋製士ノ議論ヲ組、述継承シ、能ク自由自
在こ其ノ胸臆ヲ吐露陽、遠セ、ン者多、ントス、調西先生、製問、淵博、識見超阜、且深ク致知撃ヲ攻修スルヲ以テ、立弘明常二国民理上ヨ
リ来リ、濁自一個ノ民意見、新考案ヲ出、ン、舎﹄ア前人ノ糟粕飴唾ヲ挙メス、長篇大作時々後作、兵賦弘明、敬門﹄論、人生三璽説、
知読ノ如キ、宛モ長江大河ノ源ヲ千山首円盤ノ中ヨリ授、ン、演々泊キ、廃原、沃野ヲ貰向子、ン、腕蛇、海ニ定ルカ如ク、一題動モスレハ、
十有数問、只其ノ言論ノ奇且快ノミナラス、論法、皆致知ノ築規ニ合スルヲ以テ、相叩テ浮虚妄誕ノ病ナ、ン、其精榊アリ、気力ア
リ、老盆牡ナルハ、資--今世其此ヲ見仏ソルナリ、余故ニ数々一言アリ、日ク、日本築士惟西先生ノミ、西、洋築士ノ風アリ、精神アリ、
光
奇
芸
議
亦西洋製士こ恥チザルナリト、偶西先生論集成ルヲ告夕、余図テ柳平生ノ一一言ヲ書、ン、以テ序文トナシ、旦﹂江湖大雅君子ニ質スト
杜
属
一
玄
フ
、
明治十三年四月廿五日
日
生
巻三に﹁人生三賛設﹂一ーー入、虫色四には﹁知読﹂ ーー五、﹁秘密読﹂・﹁情費説﹂・﹁煉化石、造ノ読﹂の十篇をおさめである。このうち
内容は四位官にわけ、巻一が﹁兵賦弘明﹂一ーー十三(但し前品干のみて巻二に﹁敬門論﹂一六、﹁愛敵-論﹂・﹁図民一気風-論﹂・﹁駁奮相公議一題、
辱
1
6
誌
5
9
巻 4号
戸4
雑
寸一
﹁兵賦論﹂は﹁内外兵事新聞﹂に、他の九篇はいづれも﹁明六雑誌﹂の掲載である。
縫裁は欄外の所キに土居光撃の批評をかかげ、本文の校訂は、改行をくわえ、重要な個所に傍 O及び傍粘をほどこし、人名地名
には傍拍械を附している。これらは営時の慣習であやしめないが、本文については問題がある。﹁明六雑誌﹂掲載ものと釣検してみる
と用語にかなり相違がえ出される。これは選本として西の原稿を用いたことも絶無とはいえないとしてもへとくに﹁人生ミ賓説﹂
が﹁明六雑誌﹂に来牧誌の後牟を掲げたことから)、まづ﹁明六雑誌﹂によったものとしなければならない。してみると問題は、こ
の校訂に商が拠、ったかということが考慮にのぼってくる。明治の十年代には洋式の印刷術がようやく普及し、議査官界も受けいれた
平
﹄
Eホ
ので、この種の名家の文集類の編纂が盛んに行われて、げんに西の友人榊田孝卒の論集﹁目指経世絵弘明﹂ヘ﹁農商緋﹂以下﹁明六雑誌﹂
掲載の論文に至る論文集、明治十二年十月刊、正楽堂蔵版)という、この蓄と類似のものがやはり土居光撃の批評を附して出ている。
この西の﹁論集﹂もその一っと見ていい。首時はまだ版権が法的に確立していなかったので著者の許諾なき餓刻が自由に行われ、
ために杜撰なものが横行した。この場合の校正などはもちろん編者の手で勝手になされ、しかもかなりルーズであった。だからこ
の﹁論集﹂の校訂も編者の怒意になったものと考えてよい。
節を牧めていることで、これはこの﹁論集﹂の大きな功績である。この部分は未刊であるから、西の原稿に擦ったのであらうが、
ただこの﹁議集﹂の﹁人生三賓読﹂について特筆すべきことは、勧岬﹃設で、述べるように﹁明六雑誌﹂本に快けた後半の五ーへの四
遺憾ながらその入手の経路を明記していない。土居光撃あたりが西の手からえたものとすれば、この﹁論集﹂の編纂、と西との関係
止マサル
﹁明六雑誌﹂本
(四五二只)
本人ミ倍増本頁
止
マ
・
レ
﹁西先生論集﹂本
のために雨本針校の結果を者干摘出してみると﹁知-説﹂では
別で、校訂は賞時の出版慣習から編者が一方的に行ったものと解しておきたい。これは﹁﹄論集﹂本の校訂ぶりで推測しうる。参考
に密なるものがあったことが想像され、ひいては校訂にも西の意見がくわわったことも推測される。しかしそれとこれとはやはり
戸
法
神
サ
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西周稿本目録解題
1
7
非ルナシ
へ四五二頁)
へ四五二頁)
ヲ
能其類
(四五三頁)
道
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へ同前)
(五一六頁)
是故ニ個んゴ誠ニ能
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市北ル耳
ノ敬之ル
(五一八頁)
へ五一人頁)
へ五一九頁)
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是故ニ個キ人々-誠二能
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(四五三頁)
・︽似織か︾
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つぎに﹁人生三賀読﹂をみるとだいたい﹁知一説﹂と同様なものである。
(四六二貝)所調製科
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へ四五五頁)
蟻・ルカ才ノ
スイ・如トミ
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(四五人頁)象撃諸術
(四五人頁)
事用脈彼・* 能非
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書 倫5ク
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削叩チ我カ同生同人ト相(五一九頁)
フエルロ!キリアチニlル
交ハルノ道弁ニ推シテ以
此三賀ヲ貴重スルノ外ニ出ル
公ケニ其事ニ任スルノ道、亦
削叩チ我カ同人ノ依託ヲ受ケテ
テ人ヲ治ムル要町チ同生
-英、ン
へ五二八頁)
(五二七頁)
(五二七頁)
(五一二頁)
同人ノ依託ヲ受ケテテ公
ケニ其事ニ任スルノ道亦
比三賀ヲ貴重スルノ外ニ
、
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出ル1英
口中ニ挿セハ
未ダ以テ
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卒
細川主﹄ア
.
、
1
ものもあるが、がいして多少讃み易くしようとする編者の勝手な手入れであると解される。もとより﹁明六雑誌﹂の本文自抽胞が、
自身との閥係を推すべき書入れなどはない。
(全集一、十二│二O頁)
った。商家の手、標本中にこの﹁弘同集﹂初版一同掛かあり、希子朱で誤植を直してある。しかしこの裁本からこの﹁論集﹂の編纂と西
むしろそれは、避けるべきと恩われるから、本人主倍橋本はア切﹁明六雑誌﹂本に磯り、かつ後表営時の形態をそのまま侍える方針をと
りとてこの﹁論集﹂本も良心的な給水訂本とはいえない代物である。したがってこの書を改訂テキストとして扱うことは危険であり、
嘗時の印刷技術の程度から、必ずしも良好でなく、担問槌があり、用字も不統一で、著者の綿密な校正を経たものと恩われないが、さ
以上は者干の例で、全文がこの調子である。送り仮名の、追加のほかに、設槌、腕字もあり、用字の改ざんに若干訂正とみるべき
屡
:
セ
・
絶煙倫・口
ヘ
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ホ・中
テ管・以ニ
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1
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5
9
巻 4号
雑
歪+
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学
戸
法
神
西周稿本目録解題
1
9
(三及び四) ﹃利学﹄
上下
西周文書の中に該当する書籍は見当たらない。
﹁利印字﹂は上下二焼、明治十年五月十八日版権免許、和袋、黄表紙、木版、八行二十字詰、大さ字紙版、扉は中央に﹁利撃﹂と書
﹁英図禰留氏原著
名をかき、右側の上方に大日本西周隷述﹂とあり、その下に定償金登圏、左側には掬翠楼毅版とある。議文は漢文、本文の欄外には
謀者の-註記と阪谷索、(朗慮)の評言がある。上巻本文六十七枚、下巻本文六十三枚、阪谷索、の敏文三枚を附す。この序文の原稿は
残らないので刊本によった。句論明黙反黙は刊本により、ただ人名、術語等に附された)線は除いた。用字には俗誌を、混用してある
がこれはしいて正字に統一しなかった。
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P
U
S
-×ロ G
S
- 上巻五十四枚、下巻五十一枚。浄書本で、阪谷索、の一関を乞い、
なおこの﹁利撃﹂に稿本二加がある。自釜本、大サ
阪谷が欄外に-評言を書きこみ、最後にこれも自筆で敏文﹁書翻﹄議捕拘同氏利挙後﹂(朱筆)を書いている。この馳叫﹄諜や序文の起稿年代
は判然しないが、阪谷の駿文は明治九年九月上旬とあるから、その少し前のことであらうか(この稿本、上巻の表紙義文書によっ
て少なくとも明治七年以降のことが知られる)。功利﹄設について西が関心を持ったのはそう古くなく。﹁人生三賓説﹂あたりであらう。
麻生氏の﹁著作集﹂の解説によると、西はこの設には興味を持ち、この蓄を愛識して舎、つ人ごとに吹聴した。西本願寺の役僧鈴木
軸語、泣げは西と親交があり、彼を介して、徒主光勝とも交るにいたったが、光勝はこの警の内容を知っていたく興味をひかれ、この蛾諒
を商にすすめ、西もこれにうごかされて織隷の筆をとったのであるという。
(全集一、六二六頁)
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0
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E帥
占
士
5
9巻 4号
雑
宅
発
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装
二期
上冊及び下冊
西周文書一九一!?一九一ーーニ
明治十一年二月刊
明治十二年二月刊
下上
司丹冊
﹃薬般氏著心理学﹂
理
五及び六
'
L
、
設に牧録した)。この書は商が熱心に識んでかなり影響を受け、とくに﹁吾朗挙連環﹂の構想にも示唆をえたと思われることは、拙稿
のと判定されるこの蛾議のための詩語表があるからまづ﹄瑛りないであらう(その一部は本金集哲撃篇の十一行哲築関係断片﹂の解
心理肋争犠誇凡例
本文一四七頁、引用番目十七頁がある。﹁凡例﹂の全文を左にかかげるへ句讃黙は新たに附した)。
WB-×HF8・上慨は明治八年版の再刊、識者の凡例三頁、原著者序文が五頁、目次十貰、本文は七二八頁、下慨は新しい、追加で、
サN
四枚、本文三十九枚、中巻本文八十九枚、下巻本文一二二枚。明治十一、十二年に至って同じく文部省版洋装二蜘本で完結した。犬
隷警は商の思想形成をみるうえに重要である。この蜘町田蒋はまづ前牟を明治入、九年に文部省版和装本三冊として刊行した。上位官序文
﹁西周の歴史観﹂(﹁明治史研究幾書﹂第二期第四巻﹁近代思想の形成﹂所牧)にも指摘したごとくである。そういう意味からこの
の埼訂版である。この蓄の餓隷か何時頃に着手されたか明らかでないか、少なくとも明治三、四年頃かららしい。これはその頃のも
で、わが闘でもかなり識まれ二時は各印字校で敬科書にも用いられていたということである。編者がみた上野岡書館本は一八七七年
ghミ
きミミ旬、虫色守s
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e遠近をも令、等がある。いづれも敬科書風の啓蒙書、この容さ同訟をも守もその一つ
原著者はアメリカのシカゴ神祭校の榊撃教授、ア1 マストカレツヂの知識・道徳哲撃の敬授を歴任した人で、この警のほかにも
ミミ・﹄∞司を課したものである。
心理撃は宮町、ESgp同
HU--hh-U-の容さミ窓口h
勺守田宮内主主 hrEhRhhghgRhQ
A
でここで簡単に説明しておく。
﹁寓園公法﹂・﹁百一新論﹂・﹁致知啓蒙﹂・﹁利知事﹂に就いてはそれぞれの解説でのべるが、﹁心理撃﹂はこの全集に一臨恨のぞいたの
氏実
事年般
法
品ん
戸
寸ー
申
ネ
ジヨセiフ ヘ 1ブ ン ア ム メ ル ス ト
原書ハ瑚劉利柑醐剤ノ人制調1d
澗明氏ノ蕃ハス所二シテ、割制民ハ前崎咽劉矧倒閣ノ大祭校こテ性理道徳二科ノ博士ヨリ、後
チカゴ
来観柑倒府ノ一聯敬書院ニ軸時、ン、模型神理撃ノ博士タリシ人十リ
書名ハ﹁メンタル、フィロソフィー、インクリュ lヂンク、インテルレクト、センシビリチ lス、エンド、ヰル﹂ト題、ン、
﹂四百情着、三部ヲ包括セル心理賄事ト云フ義ナリ、今約シチ心理撃ト名ク
ボストン
議スル所ノ本ハ千八百六十九年、制割胡府ノ瑚剖咽街ゴールド、子 Jド、リンコルン杜ノ印刷ニ係ハル
本邦従来欧洲性理ノ書ヲ誇スル者甚タ稀ナリ是ヲ以テ議字ニ至リテハ困ヨリ、過従スル所ヲ知ラス、且漢土儒家ノ読ク所二比
スルニ心性ノ底分一層微細ナルノミナラス、其指名スル所モ自ラ他義アルヲ以テ別ニ字ヲ選ヒ諮ヲ、造ルハ亦己ムヲ得サルニ
出ツ、故ニ知覚、記性、意識、想像等ノ者キハ従来有ル所二従フト縫モ、理性、感性、発性、悟性等ノ若キ、又致知家ノ術
語概念、資在、主観、客観、崎納、演繰、総合、分解等ノ若キこ主リテハ、大率新造こ係ハルヲ以テ謡明者或ハ其意義ヲ得ル
ヲ難ンスル者アラン、然ルニ凡ソ此等眼目ノ字弁こ篇章ノ首項ニ係ハル字眼等ノ若キハ、通篇唯一定ノ字ヲ用ヰ、上下文義
ノ矯ニ巳ムア占持品ソル勢アルニ非レハ敢テ漫リニ他諮ニ換ヘ憲ヲ取リテ融制セサルヲ以テ、識者其上下文義ヲ推、ン通怯垣間後ヲ照
シテ之ヲ熱考セハ其一旨趣ニ、通スル亦難キニ非ルヘシ、是識者ノ庶幾スル所ナリ
欧洲性理ノ書諸子百家ノ蕃ハス所、殊ニ、治繁汗牛音ナラス、此書巻末ニ戦スル所ノ引用書目二徴、ン以テ其一斑ヲ窺フヘシ、
著者ノ鞠劣ノ若キ図ヨリ其九牛一毛タモ窺フコト能ハス、況ヤ見解ノ是非ヲ論スルニ於テヲャ、回ヨリ後挙ノ敢テ味ヲ容ル
所ニ非ルヲ知ル、然ルニ、近日欧洲諸家 こノ著、述ヲ関スルニ新見創憲亦鮮カラス、而テ此番ハ犬要其新見創意ヲ取ラサル者
--似タリ、唯此書ハ立論ノ旨趣時中子卒正ニシテ言僻ヲ靖クモ亦詳明備、悉カノ菅家憤手ノ詰屈碩難深奥解、ン難キノ庭ナシ、
旦又此拳ニ須用ナル名目ヲ提出スルニ主リテハ細犬、遺ス無ク、綱脚本リ自陣取リ整然トシテ保理アリ、是ヲ以テ初メテ此撃ニ従
E
能
事スルノ徒二在テ、其門ヲ得其梯ヲ職事スルノ便二至リテハ、此害特こ其還に腐ル者アラムト云爾
明治十一年一月
書
西周稿本目録解題
2
1
右の二期本は、その後縮冊合本の民間版一明本がでている。手許には明治十五年七月再版、蜘剛︼議出版人小笠原美治、後免弘令枇書
庖とあるものと、明治二十二年十一月版、議行粂印刷人神奈川懸卒民竹川新四郎とあるものがあり。このほかにもなお同類の版本
があるので、原蓄が敬科書に使用されたためでもあらうが、かなり韻まれたらしい。
なお西の稿本中にこの譲警の全部にわたる隷稿本がある。自釜本、墨書、雁皮紙無罫、大サはい山∞
S
- ×﹄unB田俊綴十一時。これは
十頁)
議が成って一慮、添書したらしいが、なお庭キに訂正がくわえてある。この譲が完成した年月は明記がないが、少なくとも明治七年﹁致
1
知啓蒙﹂の出版後から十年頃であることは、この稿本の表紙に﹁致知魯蒙﹂の刷本などを利用してあることで推察される。
(全集一、七
西周文書九九に心理学の翻訳を書き綴った稿本が十一点残されている。稿本には朱で番号が振つであるが、番号
は九までで止まっている。並び替えに間違いが生じたためである。
今その事情を説明した拙稿を誤植を訂正した形で引用する。
九九l九
九
九九 ll
八
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九九l七
七
九九六
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九九五
ノ
、
九九l 四
五
九九l
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一
ブL
ブL
西 が ﹁ 直 覚 力 ﹂ の 箇 所 を 翻 訳 し た の は い つ 頃 の こ と で あ ろ う か 。 西 周 文 書 に ﹁ 心 理 学 ﹂ の稿本が含まれている。
プL
ブL
プL
今表に纏めて次に掲げて見る。
九九l
一
一
一
四
稿本番号
朱番号
プL
2
2
日
,
"
t
,
5
9巻 4号
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学 雑
法
戸
申
ネ
西周稿本目録解題
2
3
巻ノ
巻
ノ
巻ノ三
巻ノ四
心理学 心 理 学
心理学
編 言 発稿題目
七
心理学
原稿
巻ノ六
六回
巻ノ五
心理学
原稿
巻ノ七
巻ノ八
心理学
第九
巻ノ十
心理学
本文
ノ三
第口
心理学
ナ
時情
旭発
目!
日
命
心理学
第七巻
口~
巻立て
心理学
序文
目録
心理学
第二巻
題増
目補
本文の
章立て
四一葉
論言
三O葉
.
.
.
.
L
.
IL
一二八
葉
一三四葉
十一葉
十
七七葉
五
第二区 第一区
第二部 第二部
第三区
情款ヲ 再現力ヲ
論ズ
払一円ス
十
一O八葉
第二区
発端
題目
第一部
九
一九六葉一二二葉 八四葉
ノ
、
六二桜木
七
第一区第一区第一区
第一区
第一部第四部第三部
丹先端叩
表現力ヲ直覚力ヲ反射力ヲ
論ズ論ズ論ズ
題目
四
紙葉
買
杢
目
次
時系列に沿った形に順序を並び替えて見る。
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題増第
目補区
の
九
、
二
月 5六
十、六月 )M十、六月 (M十、十月 )(M
十、十月)
執 筆 年 月 (M
月 M七、士一月 M十、五月 (M
七年五月 )M七、六月 (M七、七月 )(M七、八月 )M
心理学
第一巻
、
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第里
表
題
内
題
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序入
九
九
上
一
一
一区
発端
九九 l 一口
巻十
部区
一区
二部
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巻五
九九 l七
巻七
九九 1八
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発端
巻八
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九
九
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巻六
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稿本番号
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目
次
巻
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緒
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巻
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(巻五)
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巻六
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九
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巻五
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巻七
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ブ
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九
九九 1 四
巻四
二部
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ブ
T
.
.
ブL
ブも
プL
の巻立ては次の様であったと推定される。
九九ム=
発端
一区
巻
稿本番号
ブt
プもー
巻
諸言
七
増補区
五
四一
部区
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部区
Cコ
区
四
部区
朱番号
巻
ブ
T
.
.
目
次
巻立て
内
この段階では九九 l一Cの 稿 本 が 手 元 に 無 か っ た た め に 、 そ れ を 飛 ば し て 巻 の 一 か ら 巻 の 七 ま で の 漢 数 字 を 振 っ た も
廿
ブL
ブL
l五の巻立てはまず﹁巻ノ七﹂と書き七を丸で抹消し﹁巻ノ五﹂に訂正している。また九九ムの巻立てはまず﹁巻
九
ノ六﹂と書き、六を丸で抹消して﹁巻ノ四﹂に-訂正し、更に四を抹消して﹁巻ノ六﹂に訂正している。 つまり最初
区
巻
ブL
九
部区
七
増一
補区
五
四一
部区
朱番号
内
錯簡があることは明白である。並び替えの間違いが発生した経緯を窺って置こう。
廿
巻
四
部区
巻立て
-
2
4
5
9
巻 4号
~,'Ii
雑
学
法
戸
申
ネ
のと推計される。九九 l五の稿本を書き上げた時分に最初の巻立てを書き込んだことが推計される。九九 l五の稿本の表と
裏の表紙には宮内省の用紙が裏返して再利用されており、西が明治九年の一月に宮内省の御用掛に任じられた時分
に書き上げた稿本であることが判明する。九九 l一口の稿本は明治九年九月に刊行された﹁心理学﹂三の稿本であるか
ら、おそらく校正の為に版元に送られていて、西の手元に戻つてはいなかったものと推測される。
ところが晩年になって稿本の整理に手を付けた折に、稿本の巻立てに沿って番号を振った際に、巻の五に当たる
稿本が見当たらなかったためであろうか、西は九九 l五の稿本を続きと勘違いして巻立てを﹁巻ノ七﹂から﹁巻ノ五﹂
に書き換えてしまったのであろう。これに合わせて九九上(の稿本の巻立てを﹁巻ノ六﹂から﹁巻ノ四﹂に書き換えた
ところ、既に﹁巻ノ四﹂のあることに気づいて、再ぴ﹁巻ノ六﹂に再度の訂正を行ったものであろう。稿本の九九 lE
は﹁直覚力﹂を論じた章の訳稿であるが、この章では時間や空間また同一性や因果関係の概念が取り上げられてい
て、カント哲学の体系で言えば、感性の部門で扱われる材料が先頭に並んでいたため、悟性つまり理解力の部門に
属する﹁反射力﹂を論じた章の訳稿である稿本の九九ムよりも前に位置することにそれほどの違和感を覚えなかった
のであったのかも知れない。
こうして﹁巻ノ五﹂が発見げされたので、残りの稿本に順序良く巻立ての漢数字を振ったものの、九九 l一Oの稿本
九
九九 lz
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ブL
ブ
1
.
.
﹂という漢数字の箇所が余白として残された内題を付けるに至って
を見つけ出して巻十と巻立てを書き込んだところまでは良かったのであるが、九九一口の稿本と九九 l二の稿本が続いて
1三
ノ
、
C
いないという奇妙な事実に気づき、﹁心理学第
ブ
z
ー
プも
ブも
ブ
1
.
.
いる。稿本の巻立ては空白のままに残したものであろう。
九
五
稿本番号
朱番号
四
西周稿本目録解題
2
5
2
6
回しl
5
9巻 4号
吾.
.
.
雑
1
去 学
戸
神
巻立て
巻
巻
巻四
(巻五)
巻六
巻七
巻人
巻
十
﹁致知啓蒙﹂
上下
本二本と、刊本とをおさめたが、いま各稿本の内容を一括して解説し、それが刊本にいたるまでの推敵の過程を説明するにあたって、
治七年であるが、そこにいたるまでたぴたび稿があらためられ、しかもそれがよく西家に襲擬されていた。本金集には代表的な稿
﹃致知啓蒙﹄は、商が生前刊行した主著の一つであり、また日本ではじめて-試みられた形式論理挙の解-読書である。その刊行は明
七及び八
行ったのは明示九年中のことであったという結論に至る。
心理学の翻訳の仕事の方はしばらくの聞は中断していたものと推計される。従って西が﹁直覚力﹂の箇所の翻訳を
掛かっていることが判明する。明治八年の三月には兵語字書の編集の命が再び下っている。この作業に追われて、
ともあれ九九ムの稿本を西は明治七年の十二月に書き上げており、明治九年になってから九九 l五の稿本の執筆に取り
のであろう。
される。西は朱筆の番号を付すことを断念し、並び方に問題があることをそれとなく後世に伝えることに決したも
号を順調に振って行ったところ、九九一 Cの 稿 本 の 内 容 を 瞥 見 し て 錯 簡 に 気 づ き 、 途 方 に 暮 れ た の で は な い か と 推 察
西は最晩年に再ぴ稿本の整理に着手し、朱筆の番号を稿本に付した模様である。だが、巻立てに従って朱筆の番
でいる。
代わりに西は九九 l一口の稿本の表紙には﹁本文ノコこと書き込みを加え、九九 l二 の 稿 本 の 表 紙 に は ﹁ 大 尾 ﹂ と 書 き 込 ん
巻
西周稿本目録解題
2
7
ミ
ヰ
本
本
本
本
本
本
刊
致
五 五
五
致知朗苧
撃
第一矯
干
高
致
新
致
蒙
知
啓
啓
蒙
第一巻
蒙
刊本第一巻、第二巻
宅
年
骨
骨
骨
二勝
二時
背
骨
本
車
E
章
E 事E
原印争門 第一篇
新
原稿定本
原
ハ本と岡本、永見裕の寄寓本
第
新
原
原
原
本
日
生
日
長
イ
ロ
二冊
(全集て三一人上(三九頁)
二巻のそのはじめの部分はすでに明治二年ごろに起稿されている。しかし第十四章以降はホ本にいたるまで草案らしいものは残つ
と同じものである。前述したように、﹁闘争原稿本﹂へ第一一橋本)の最後の第十三、十四の二章がこの刊本の第十三章にあたるから、第
の欄外にハ本成立以後にくわえられた訂正によるところもあることはすでに指摘したごとくである。下へ第二巻)はホ本の第二巻
本文三十一枚、下(第二巻)は四十四枚、奥附はない。上(第二きの本文はほほハ本(第三稿本)であるが、ロ本へ第二稿本)
明治七年七月刊、上下二湖、和袋、宇紋件、丹表紙、木版十行二十字詰、同年九月後行の再刊がある。上(第一巻)は自序二枚、
J¥
まづ西家襲裁の稿本並ぴに刊本をあげると左の、通りである。
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本
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行語
一第一巻
一第二位官
四十一枚
三十 枚
方不明の版木を漸くさがしあてて敷首都を再版したという。餓刻本には麻生氏の﹁著作倍増﹂のほか三枚博普編﹁日本哲撃金書﹂第
こ十
六巻﹁西洋哲製綿﹂へ昭和十二年三月刊 V に牧載のものがある。なを商家橋本中にはこの﹁致知唇蒙﹂刊行関係の書類がある。一つ
れ部
はに
枚
一序文
二次紙裏
同 紙
数
は出版の願書とその許可書であり、他は表紙に﹁明治七年三月、致知啓蒙開版入費出納計簿﹂とある牟紙を綴ぢた大サい
N
U
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-×
設費
町包・の帳面である。願書と許可書は潟異版にかかげ、後者は次にその全文をかかげる。
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日
言
学
」れ
三郎、明六社員)に一任された、ただちに貰れる議想もなかったのでまづ百部を刷り、、っち十五部はみづから知友に配布した。一
相、棒英次郎氏の﹄談話からでたのであらう。稿本の筆潟は門人佐野東へ松岡憐の女婿)があたり、出版は友人瑞穂屋卯三郎(清水卯
の著で、幾同か稿を改めた綾刻彫心の帥労作である。麻生氏の解説にはこの警の刊行に闘する裏話が紹介してある。これはおそらく
義の必要から書かれたとあるが、同舎の開設(明治三年)以前からの起稿であるからそれは譲りで、この警はやはり商の純皐同上
さて﹁致知魯蒙﹂の起稿ならびに刊行については麻生義輝氏の﹁著作集の﹂解説に説明がある。それによると、私塾育英舎の講
あるのでこれを補った。文字に若干周到同があるのは傍に註記しておいた。結局この金倍増本は内容的にはホ本の校訂本となっている。
干Ijい
法
理般
略に
2
8
5
9
巻 4号
さ
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戸
雑
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西周稿本目録解題
2
9
一表題
五月十八日
三度目清算
紙
受朱ト武百袷文 黄唐紙
武朱ト五百文
四月十四日
資唐紙
拾五枚
百部分
仕立代
六百枚代
紙
字紙武丸
瑞穂屋詰問
表
摺手間
枚
登雨ト六拾六銭六厘
五月六日
武拾武銭五厘
五月六日
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百部分
人
五月十一日
一登朱ト武百文
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七 四
雨 雨
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.
1
5
5
9
巻 4号
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版木師
三月十九日夕刻渡ス
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三月十八日
444
品叩
正
内三枚四枚三十一枚之さ一方)枚腕
口
表一珊保町萱丁目五番地
一版下一枚ヨリ十枚マテ、渡ス
三月三十日
一版下十一ヨリ二十三ア波ス
四月ミ日岡野
版下二十一ヨリミ十二ごア渡ス
一版下第二巻
五月二十日渡ス
回
首都分
八雨登部ト百六袷文
へ以下二枚目ウラに﹁同萱部登朱ニ而六雨三分ミ朱トミ百拾武文五分﹂まで、逆に書き込み︺
金三拾圏
備
仕
版木第二空ヨリミ十枚務取
五月二十日
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法
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戸
申
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西周稿本目録解題
3
1
武百部分
三百部分 武払四四雨三分ト四百八拾文
摺手間
表紙裏共
七拾五枚
七百五拾枚
査
部
七月四日
版木手附
三月十九日
内印紙代
三月十九日
一金百雨
ミ月十九日出ス
日
百
三十雨
一百文内ヨリ借リ
同萱分登朱ニ而六雨三分三朱ト三百払岡武文五分
同萱分試朱ニ而八雨萱分三朱
千枚ニ萱分ニ而五雨試分試朱
ミ百部 武官崎武千五百枚
百部 七千五百枚
拾
日
昔
3
2
5
9巻 4号
版下代
五月二十日
版木代
七月四日
香美減代
一八百三十文
右文部検認書潟本ニ琉キ入用此内ヨリ借ル
字紙武〆代四雨ト七匁
七月三十一日
字紙
取巻ヘ之時
八月三日
八月十五日
版木代
三十雨
七十五枚並ニ序文表題共
マケニ付
二分ト三百三十文
査分三朱ト
武百武拾五文
登朱ト三百文
武袷七雨
四百八拾文
黄唐紙五枚
雨
主主帖
八月十七日
五
三分武朱
法 学 雑
八月十九日
五十部百般
表装代
戸
誌
神
3
3
西周稿本目録解題
〆B
五拾雨代金請取
一月十一日卯三郎
3
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0
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5
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百
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0部 =30
O
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表紙百枚代
3
.
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〆九拾八雨ミ分試朱五百武文
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.
0
0
0
四割引一部ニ什拾試匁引
同ロ
ナ
五〆四百目
金ニシテ九拾雨ナリ
〆百日
三分ト五百文
内四郎納本代武雨引キ
八拾八雨ナリ
内再版代四拾登雨武分ト四袷登文引キ
残リ四拾六雨登分三朱ト五雨入姶四文
総勘定但試本五十部込
版下代
版木代穂合
八拾七園
四雨武分
武雨試分
試朱ト五百八拾五文
摺手間
三分ト五百文
唐紙共
圏
表紙百枚代
百雨O三分査一朱ト四百六十文
口
学
五
三分試朱
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五十部表装代
6
、
〆入拾八雨三分ト五百文
ミ袷八雨三分ト五百文
五拾雨
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総
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3
4
5
9
巻 4号
三
*
…
雑
戸
神
西周稿本目録解題
3
5
略
豆認可書であるがなおほかに左の一通がある。これは前記解一読に掲げなかったので左に、追補しておく。
(全集一、六四六ーーさ一頁)
静岡県貴族士
族著述出版人
@
周
党之上御尋之義ハ私引請可申奉存候以上
明治七年三月
文部省御中
日
差出さず、改めて七月十八日附で正式に届出となり八月ミ日の認可となった。そこで二月附の序文は用いないままとなった。遮れ
これによるとこ月ごろに脱稿して三月に出版屈を用意をしていたが、何かの都合で六月刊が九月に延びたので右の三月附の属は
商
右ハ西洋ロジック之助事ヲ啓蒙ノ矯ニ著シ候書ニテ 切御倹例ニ背申候筒倹更ニ無之倹問私毅版ニ致、ン出版仕度此段奉願倹若シ後
試刷所牟紙本
ものである。西文書にあるこの出版閥係の文書は前記解説中に潟異へ第四四国)を掲げたが、これは本式の局番で、第四三園はそ
﹁数知啓蒙閲版入費出納計簿﹂の表紙は三月附とあり、内容によると三月から版下の製作にかかっているからこの序文はその直前の
の関係上本文中におとした。これは日附が﹁明治七年二月﹂となっておるからその頃に腕稿とみられる。第一巻の解一説中に掲げた
つぎに刊本には掲げてない﹁致知啓蒙自序﹂(一枚)の表題あるものがある。第二十一闘のように朱書の訂正が多い。欄外は版組
は刊本にあるもので、朱奮の﹄一訂正多し。刊本序はこの訂正本の字句を妻子修正したものである。傘考のため第二三園として掲げた。
ロ・ごB)、墨書、自持率、これに二本があり、一本へ二枚)
西の﹃致知瞥蒙﹄ヘ第一巻奇胎争相柵所牧)の序文草稿二織がある。雁皮紙 O U S×
謀
賞六月中出版
致知啓曲家
虫
記
た理由はよくわからないが、版下作成が間にあはなかったからであると考えられる。
﹃致知啓蒙﹄の初刊本については、本金集第二壱の解説六回八ページ以下に述べ、明治七年七月十六日附出版願書と認可書を岡版
として掲げておいた。それには明治七年七月刊、上下二珊、和製丹表紙本と同年九月後行の再刊本がある旨を記、逃しておいたが、
この丹表紙本は右の出版認可以前の非貰の私版本でと解される。下餅の巻末に奥附がないのは私版だからであろう。同年九月強行
著
の再刊本はその際、加市議本がありながら不注意で解説を漏したのでここに補-読しておく。上下二班、和製本で自序及ぴ本文は丹表
西
紙本の版木を用いている。ただ丹表紙本の題築はたんに﹁致知啓曲家﹂とあるが再刊本﹁周致知啓蒙﹂と著者の名を刻してある。
表紙は丹表紙でなく薄ねずみ色、下慨に奥附があるへ闘版参照)。つまり西の友人であり、明六-吐員で出版事業をしていた異色あ
る文化人瑞穂屋卯三郎の初免である。第一巻六五一ページ以下に掲げた﹁致知啓蒙関版入費出納計簿﹂によると出版は最初からこ
の瑞穂屋が請負っていたので、私版本についで瑞穂屋版出版の設定であったのであろう。この瑞穂屋版は明治七年九月の後免であ
金二勝
{疋債五拾銭
るが、同年十二月十六日の﹃郵便報知新思五三六験には左のわ近刻﹂の珠舎がでている(初出)ので参考のために左に掲げておく。
西周先生蕃
西周蕃
致知啓蒙
金二慨
瑞穂屋卯三郎議白
定債五拾銭
ついで同紙の同年十二月二十三日、五回二験には左のごとき後刊の庚舎がある。
東京本町三丁目
必す再三熟識其理を了解せずんハある可からす
此の書ハ西周先生多年の発を以て西洋ロジクと云ふ畿を精細に片仮・名交じりを以て著したるものなり凡議論に閲するものハ文章
近
にもあれ言語にもあれ、必此の方法を隼んで編、述論仙併せすんパ、途に水掛論に、渉るもの乃此の書ハ其方法を示したるものなれパ筆者
致知啓曲家
刻
3
6
5
9
巻 4号
~t
雑
学
戸
法
神
西周稿本目録解題
3
7
十郎以上多数により次第割引仕候
右の書ハ過日御披露申上候西洋にでロジクと申﹄議論の緋法論文の作法を設き著ハ、ンたるものにて本邦未曾有の珍書なり
但遠方の御仁ハ園都住庭姓名共﹄詳細御記し定憤御届け次第無貨にて早速御念り可申上候以上
東京本町三丁目 瑞穂屋卯三郎
右の庚告によると十二月になって﹁、近刻﹂とあるのは、九月説明党が何等かの都合で接行が、遅れたためであらう。
なお前記解説に引用した麻生義嶋崎氏の解説記事の百部刷本は丹表紙私版本のことか、または瑞穂屋版を指すのか唆昧であるが、
恐らく私版本のほうであろう。また明治十周年に再刷本をだしたとあるがこの版本は編者も未見である。
上下
(全集三、解説五七│五九頁)
なお端穂屋卯三郎については井上和雄氏の﹁みずほ屋卯三郎﹂へ同氏﹃審物ミ見届、昭和十四年、審物展望枇刊)を参照。
(九友び+) ﹃百一新論﹄
西周文書の中に該当する書籍は見当たらない。
刊本、明治六年八月出版官許、同七年刊行、和製本、品干紙版、精表紙、上下二跡、木版、十行二十四字詰、上巻の本文は三十八枚、
下巻は三十五枚である。巻頭に山本質馬の序を附し、同人の蔵版となっている。商家の稿本中に原稿、断片ともになし。
この奮は山本発馬の出版にかかる。この出版についてかつて私が相津英次郎氏から直捜紬略取したところによるとこの奮の出版さ
れた明治六年頃に、京都から山本先馬が上京してたびたび西を訪問したという。相海民は営時商家に寄寓していたのでこの訪問の
3
8
5
9
巻 4号
~t.
︿マる
ことを記憶して、これは恐らくこの蓄の出版に関係するものであったらうということである。山本は木戸考允の知迭をえており、
京都に在る時の著なり。稿本なし。﹂
木芦の日記を払慨すると、明治六年には上京して八月三十一日の僚には﹁京都府山本格馬来語数字、賞世の形情を談論し、彼亦輿余
同歎するもの多し﹂とある。
本書の成立について、森岡崎外の﹁西周健﹂所載の﹁商周所著書目﹂には、﹁百一新弘明
0頁)。しかし幕末の稿本そのままか、攻はこれに訂正加持率をして出版した
とある。また麻生義輝氏の﹁著作集﹂解一説並びに﹁、近世日本哲拳史﹂もこの 説
明を、つけて京都時代の原稿のままで後の加筆なしと
ε
しているへ﹁一著作品柴﹂三六八頁、円近世日本哲撃史﹂
ものかということが、一慰問題となるであらう。しかし原稿はおそらく山本が持容してそのまま持ち崎ったのであらうから確定的
のことは判定しがたい。
西は慶膝元年十二月にオランダ留撃から時鞠し、翌二年九月には折から京都に、滞在中であった徳川慶善に呼ばれて上京し、その
塾の後を託されその寄生を教えた。それがもとで三年二月に四燥大宮西へ入ル更雀寺に移った頃は舎津、海、楠井、備中等の藩士
まま慶懸三年十二月の王政復古の政壊まで側、近にいた。その期間の絵暇に、﹁高図公法﹂の隷稿の制正、さらに友人木村宗三の洋製
か集り、書生が五百人、近くに及んだという。そこで略キ規則をさだめ、塾の形態をととのえた。この塾には諸侯もきて西洋哲撃の
(昭和三年刊)があるがこれには西との関係、とくに﹁百一新弘明﹂刊行のことは記してない。京都時代のものらしい痕跡は、下位官の
志社を創立したことは有名である。このような関係から一懸京都時代のものとしてもおかしくはない。偉記一に青山霞村著﹁山本質馬﹂
親交を結んだ。明治となって府騰の顧問となって、京都の殖産興業に力をつくし、京都府曾議長となった。また新島義を扶けて同
山本発馬(﹄∞出l
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) は舎津落士、元治元年に京都にでて落の京都守護職除に加わり傍ら子弟の敬育に従事し、その頃に商と
ず、こ吉田も柏崎れていないのはどういうものであらうか。
そのうちにはこの警のことを何等述べてない。この自殺俸は明治十八年頃に書かれたもので、﹁百一新弘耐﹂刊行後であるにかかわら
寸ー
講義を聴くものもあったという(森岡崎外﹁西周侍﹂)。ところでこの頃の動静については、自殺侍﹁商家諮略﹂によるほかないが、
員ゐ
き
宅
法
雑
戸
神
西周稿本目録解題
3
9
二十二枚目ウラ(本金集本二七九頁二行自)に富豪の例として大阪の鴻ノ、池、鹿島屋の名をあげていることで、これは大阪に、近い
京都で書いたものと思わしめる一つの訟擦となるであらう。しかしこれとても一つの推測資料にすぎず、結局この警の内容によっ
て判定するほかない。哲拳問題への閥心は文久年間にきざし、オランダ留印字中に津田異道と議論を交えた。フイセリングに従撃し
て政治、経済を撃ぶ暇に﹁互ニ-議論ヲ闘ハシタリ、但君ハカント汲ノ哲拳ヲ喜ビ、余ハコムト民ノ費削挙ヲ好メリ﹂へ森岡崎外﹁商周侍﹂
の津田真、道序文)とあり、津田が唯物論に傾倒したのもこの頃であったという。この蓄における西の儒敬批判もその頃に駆胎した
こともあながち無理な推測ではない。さらにこの嘗の最後に示された撃問の飽系論は、後の﹁百撃、連環﹂の前駆ともみられる。ま
た明治三年の﹁文武挙校基本並規則書﹂と比較して、西の哲撃鰭系思想の後展、過程と関連せしめることも、この寄の根本思想の形
成を考察する手がかりとなるであらう。なお巻末の﹁哲事﹂はこの諮が公刊の警に用いられた最初であることも附記しておく。
校訂は明治七年の初刊本によった。句議黙がないので新たに附し、濁黙を多少補った。ルビは原本、通りとし、補ったものは()
内にいれた。用字は正字俗字を、混用してあるので正字に統一して礼は穂、神は胸、辞は鮮にあらためた。人名などに疑わしいもの
そ
つ
もあるが原本のままとした。しかし明白な誤や腕字は補正した。かなり無理な用字がある。たとえば﹁鼎ヘニ鋳附ケテ﹂(本金倍増本
二五七頁)、﹁大、湊ナ餅ヲ﹂(本会倍増本二六六頁)。これらはそのままとした。この﹁百 新論﹂は西の代表的著作として、﹁太陽﹂堵
刊の﹁明治名著集﹂へ明治四十年刊)、をはじめ、﹁明治文化会倍増﹂思想編、麻生義輝編﹁著作集﹂へ二二│一六六頁)に翻刻され、
(全集て三一四上︿三七頁)
前同の全集第一巻にもおさめた。校訂にはこれらを参考した。前同の全集本には桑木殿翼博士の解説があるほかに、同博士の﹁西
周の百工聖巴ヘラヂオ新書本、昭和十五年刊)がある。
全集第三巻に見える津田真道宛の西周書翰はこの時つまり明治六年八月のものである。
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巻 4号
雑
(十一より+固まで) ﹁万国公法﹂
横演に臨時着してただちに江戸に崎った。悟町朝後は再び開成所の前職に復し、翌二年正月十五日から開成所に出動した。折しも開成
西、津田は事習を終り、慶膝元年十月十四日、レイデンを出哉、パリーを経てマルセ l ユから便船に投じて同年十二月二十八日
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所は、時勢の念特に懸ずぺく一機構の改草を企て、西、津田は同僚の加藤弘之、市川粂恭とともに授業規則の取調を命じられた。﹁商
書面員一郎周助儀、去ル成年中より阿蘭陀図へ健習罷越、昨丑年迄四ヶ年之問、レ 1テン府撃校において勉強刻苦致候に付、盤ザ
たからである。この任官に関する幕府営局の理由香は、これを左のごとく諮っている。
所数授職、帳として切米首儀、別に手首として十人扶持、金十二雨を賜った。これはオランダ留撃の知識が幕府から高く評領され
四の一、﹃日本製士院記要﹄七の一参照)││、その結果は剣然しない。同年三月十二日、西、津田は幕府の直参に抜擢され、開成
家諮零﹂並びに市川の﹁浮天爾日記﹂等にその記事があるが│1h拙稿﹁津団員道の著書に就いてこよこ﹂│13帝図築士院記事﹄
法
はじめる。
詳しいし、本篇の三﹁五科撃鞠間関係文書﹂の解説にも胸れたから、少しく順序を特倒して、鵠鞠後の﹃帯同園公法﹄ 謀、遺の問題から
オランダ留撃に就いては、鴎外森林太郎の﹃西周侍﹄、さらにその奥様となった酉の自叙侍﹁商家諮零﹂(本金集第三巻に牧む)に
この﹃背周囲公法﹄謀、述の由来については、どうしても西・津田のオランダ留撃のことから、述べなければならない。しかし、この
感四年の刊行にかかる。
レイデン UESにおいて、レイデン犬撃の敬授、ンモン Hフイツセリングからうけた講義芯常、号、を時園後に蜘附議したもので、慶
﹃昔両国公法﹄は、西周が、津田国民道とともに、文久、廃騒の交へ一八六三│ 八六五)にオランダに留撃をとげ、滞在約二ヶ年間、
西周文書の中に該当する書籍は見当たらない。
四
戸
学
神
西周稿本目録解題
4
1
術之成熟は申迄も無之、彼図之政髄事情、通覧致し罷島町候に付、此度新規被召出、数授職被仰付、御切米首侠骨崎御手営御扶持方十
人扶持金武拾雨ツ﹀被下候様致し度、元来、洋撃は岡家之強弱貧富に聞係致し候儀に候得は、修行人共厚く御世話有之倹折柄、最
緊要之御所場に付、数導方規矩着賞に、相役一日も早く御隆盛相成様致し度、右雨人儀は彼図撃校之模様暗記致し属候に付、甘片
後乱戦授職共申 A
口御稽古場向指揮致候得は、禰以御盛業之基礎知国立、随而人材御敬育之御趣意貫徹可致、乍併同人共同疋迄之、通、出
役こ而は落士之儀ニも有之、何時主用ニ而図許 h罷崎候様之儀も難計、左候而は折角傍習被仰付積年之御失費相掛倹詮も無之、
且何も英偽等之拳術も心得居候こ付、格別御用燐相成候は勿論、彼図之直侍を請、成業致候ものいまた御圏内一人も無之人物に付、
数授職一同よりも願出候問、書面之通被仰付候様、海軍奉行陸軍奉行開成所頭取相願倹
(東京大事史料編纂所所蔵﹁開成所伺等留 坤﹂所牧文書)
これによっても、西、滝田の新知識への期待のみならず、幕府蛍局がいかなる角度から-辞儀していたか、さらにこの時給におけ
る幕府の諸改草案との関連も窺われて、﹃寓図公法﹄﹁泰西図法論﹄等が出現する時代的の意義を察知することができるのである。
マノアタリ
オランダ留撃は幕命であり、したがって西、津田は留賄事中の撃習の結果報告を行った筈である。この報告とは要するに、この﹃意向
岡公法﹄の﹁凡例﹂に﹁余等裁こカノ石筆モテ書キトレルモノ﹂とあるオランダ文の講義筆記にほかならない。どうして行われた
かは調べるよしもないか、幕府首局は雨人に約して﹄該筆記の和解を命じた。﹁商家叫靖国主この三月の僚に﹁此頃上命こテ所偉ノ書ヲ
事、ンテ上ル受トナレ月日未詳カナラスとある。この豆町ニtス﹂とは﹁五科口夫記略﹂を指す。﹁西周辱﹂にこの年﹁四月官周と異
J其 事 ハ 前 ニ 記 ス ﹂ 一
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道とに命じてその持ち来ル所の和蘭政事撃の奮を譲せしむ﹂四月下命としたのは、西の﹁上高図公法謀本表﹂に﹁首夏奉絡-諜之﹂
とあるのに擦ったのであろう。
その結果、西はぎ時四国同町宮・即ち﹁宮内図公、法﹂を、津田は辺白書E
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-郎ち﹁泰西園、法論﹂の腕峨譲に着手した。﹃蔦図公法﹂は今日刊
一﹂│﹃日
本のみで、語稿本類は一切洩らぬか、津田の﹁泰西国治弘巴の方は幸い自撃の諜稿原本がほほ完全に津田家の文書中に残っておる。
それよるとこの年の五月十五日から課業がはじまり、八月二十五日頃に終っているへ拙稿﹁津団員道の著作に就いて
4
2
59
巻 4号
本製士院犯要﹄七の工誉府、)。西の-隷業もこれと平行した筈であるから、その進行情態が推測されよう。ところが、│恐らく 旦
語時業を卒、えた九月十九日に、嘗時京都滞在中の徳川慶喜から酉は津田、市川とともに上京を命ぜられ急燦旅装をととのえ、同月
二十五日京品有した。へ﹃西周億円前掲拙稿のこ参岡山)これは慶喜が彼等洋筆者を顧問として側、近におこうとしたからであったわ津田、
市川は間もなく崎東した)。しかし、西は京都に赴いたものの、念に何等の諮問もなかった。﹁西家諮嬰﹂に
此頃閑暇ナレハ公法謀本ノ校正、ナドニ従事シ、品開ハ、酒色ニ日ヲ、消セリ、兎角スル内、滝田ハ御用ナシトテ一個月徐リ京師ニ在テ崎
府ヲ命セラレタリ云々
とある。津田異道が崎東以前であるから、これは京着早々のことである。岡崎外の﹃西周侍﹄に﹁無柳他傑痛飲して日を、消す。暇あ
。西周助和萌留集中、高図、導法和解いたし呈幕、的
。第五時後、調箇来訪
同八日
れば則ち高図公法の謀本を取りて剛正を加ふるのみ﹂とあるのは、右の﹁商家諮辱﹂の記事に擦ったのである。
法 学 雑
京都において西は、はじめ東町奉行組屋敷の栗山荘殺の家におり、ついで上京黒門通中立資下る複本町柳屡甚七の家に移り、つ
建議したらしく、そこに後藤象次郎の名がでていることが注目される。
この資料は、尾佐竹博士も引用しているが、これによると﹃駕図公法﹄謀本提出の頃へ七月以前)に西が政髄改章、議事院弘明を
後藤(象次郎)話もスル、何分方今昔、行六ケ敷可有之と申合属候事
皇国立図之論、議事院等之建白、幕釆用こモ可相成模様候庭亦不被行、営時偽筆御相手、且調物御用而巳繁多、朱本意属候序こ
また、伊達宗城の﹃伊、遠宗城在京旦記﹄へ日本史籍協舎揖晴香本)慶庵二年七月八日の候(五四九貰)に
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西周稿本目録解題
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命季冬卒校正之業、滋﹄議而上之云ムことあり、慶懸二年の冬に-議文の修正を終って
いで三年二月頃四候大宮西へ入る更雀寺に特じ、ここで私塾を開いた。この間の西の動静は﹁西周侍﹄に﹄詳しい。﹁昔時図公法﹄の譲
業はこの京都において完了した。
西の﹁上高岡公法謀本表﹂に﹁首夏奉格﹃諜之
十二月二十八日附のこの上表を添えて幕府首局へ進験した筈である。﹁商周抽時﹄に、﹁十二月二十八日高図公法議成る﹂とあるのは
この上表の日附に擦ったのである。ところが、前掲伊達宗域の記述によると、すでにこの年七月に幕府に提出したようである。伊
、透かそう書いているからま、違いではなかろう。すると上表の日附と随臨することになる。
今日この﹁寓図公、法﹄の献上本をみるをえないが、津田家に残る﹃泰西岡、法弘剛﹄の﹃咽時稿中には、美濃版、表紙へ白紙)に﹁泰西
第三巻
図法
左四
側下
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5定稿﹂とある、ゆ潟本があって、験上本の控らしく、その面影を侍えるものがある。
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日﹂第
巻部
、に﹁幸田真J
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大阪、心療施問、通 敦賀屋矯七﹂とあり、
る上表を除いたのであらう。これは岡村千曳氏の所蔵にかかり、去る昭和二十八年、図立園舎図書館主催幕末和蘭留撃生閥係資料
版木は官版本と同じであるが、﹁上高図公法謀本表﹂を侠く。これは天賜とあるから朝廷下賜本と発しく、従って将軍への験鮮であ
このほか、特別版がある。松平春犠蓄蔵本、清様刷和袋二跡、題築に﹁天賜官同圏公法﹂とあり、第一枚に﹁越図図書﹂の印を捺す。
なお、架蔵本に同表紙の薄葉紙刷本│但し扉は黄色刷ーもある。これは奥附に﹁外図官印﹂を快く。
中央上段に﹁外図官印﹂の朱印が捺してある。
第二慨は四十四枚半、第三分明四十八枚、第四冊三十枚、奥附は左側に﹁官版書籍製本書
高図公、法謀本表﹂一枚を掲げ、凡例三枚│十行二十二字詰、総目次三枚、諸言線括学枚、そのつぎが本文で十一枚宇│十行二十字詰。
美議版、和装四棚、黄表紙、題築は﹃官版禽園公法﹄とある。整版。扉は本文に由雨具版とした。片仮名。第一慨は扉のつぎに﹁上
官版
﹁昔同図公法﹄にはこ種の刊本がある。一は官版とあるもので、他は民間版である。
*
学
展示曾に出陳された。その際の﹃幕末和蘭助同製生関係資料目録﹄を品会照。
本金集はこの官版を違本として。民間版と針校し、組版は官版に採った。
民間版
字紙版、和製四湖、精表紙、整版、題築はたんに﹁寓図公、法﹂とある。扉は中央に﹁和蘭壊、個林氏寓図公、法﹂とあり、京都の竹
経糖小曲筆
践刻
主
隣
十枚、奥附には﹁官﹄許
刻
未
英政如何
刻
近
れたもので、この官印はその際に制定されたものである号法規分類犬会﹄政髄門三、二十二頁参照︺。してみると、さきの﹃中外新
間﹄に四月段刻とあるのといささか矛盾することにならう。この粘が刊行月の推定に少しく疑問を投ずるが、しかしこれは外図官
設置後に捺されたものと解すほかないであらう。前記の薄葉紙刷本にはこの官印がないし、また外園事務局の官印があるものが或
は後見されるかもしれない。外交官事務はまだ東京移特の前であったから、大阪での刊行は不思議ではない。
つぎに、民間版は官版刊行に、遅れたもので、これは奥附に﹁慶庵戊辰夏後行﹂とある。醤暦であるから、まず、五、六月頃のこと
感
葱棲鴇殿堂が板元である。ひら俄名。第一慨は巻頭に﹁上寓図公法謀本表﹂二枚、凡例三枚│十一行十九字詰、柚略目次は三枚、一報開
言総括が牟枚、本文は十一枚十一行二十字詰。第二加は四十二枚半、第三加四十五枚卒、第四冊
戊辰夏後行﹂とある。
まず、雨版の刊行の時期について考察してみる。
慶
官版は﹁慶感四戊辰年﹂とあるから、少なくとも明治改元以前でなければならない。然らば九月以前の何月の刊であらうか。こ
泰西図法論
主
自
刻
れには、確訟となる資料はまだ見営たらないが、﹃中外新聞﹄第十二競へ慶感四年四月十日接行)に﹁附西、洋図法隼に闘る番目﹂が
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あり、
西洋事情践刻
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とあるから、少なくとも四月以前の刊行であることは明瞭である。なお、この﹃寓図公、法﹄が西周の謀本であることは訣りなかろう。
昔時国公法
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ところが、これには﹁外図官印﹂の捺印が少しく問題となるのである。外図官はこの年の同四月二十一日の政軸阻害によって-設置さ
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巻 4号
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西周稿本目録解題
45
であらうか。
なお、津田賀道の﹁泰西図法弘明﹂は、初版の開成所版以降、開成撃校版、文部省版と埼刷され、明、冶十年前後に民間で織湖一肪
本まで刊行されたが、﹁官同園公、法﹄の方は、右の二種が刊行された後、増刷はなかったようである。昭和四年五月、﹃開冶文化全倍増﹄
口伝律篇に、﹃泰商圏、法弘明﹂と﹃性、法略﹂とがともに続刻された。これは民間版で、吉野作造博士の解題がある。
﹁泰西岡法論﹄と﹃昔両国公法﹂とは平行した出版でありながら、事情はかなり違っている。津田は西とともに京都へ赴いたがただ
ちに江戸へ呼ぴかえされて、以来引きつづいて開成所に在勤していたので、﹃泰西一図法弘明﹄も十分譲文に推敵をくわえ、開成所から
出版した。開成所の職員であるからこれは営然であらう。ところが西の方は慶庵二年九月から一年有徐も、江戸を留守にして開成所
から離れていたため津田の謡番と同様に﹃高岡公法﹄を開成所から刊行する措置がとれなかった。
のみならず。西の﹁五科口訣紀略﹂(本篇ミ所牧)によると、京都敗走の、混乱で﹁性法読約﹂の譲稿を紛失したとあるから、行後、述申告照)、
﹃寓園公法﹄の謀稿、並ぴに原本のオランダ文の筆記等も、或はその際同時に失ったとも考えられる。そういう関係で﹂江月に跨っ
た営座は、﹃宮内図公、法﹂の-諜蓄を刊行することは到底不可能であった。恐らくこの推測は確貨であらう。西の文書中に﹃寓園公、法﹄
の誇稿ゃ、オランダ文の筆記等が一切残らないのは、この推測を傍設するであらう。津田の方は、混飢中、江戸にいたのでそれ等
が残った。
かくて、もし右の推測が晶画るとすれば、京都から敗走して町議稿を失った西によって﹃鳶図公法﹄か刊行される筈はないのであるが、
しかも、それが﹃泰商圏、法論﹄とほほ同じ頃に、立汲に刊行されているのは仰も如何なる事情によるのであったろうか。この謎を
解くのは、明治六年二月に、西からフイツセリングに宛てたオランダ文の書翰である。(フイツセリング文書にある)。今、関係部
分を"隷すと左の通りである。
(前零)
今回は御-講義を受けた鳶図公、法の餓譲二部を御、品怒りします。この二部は小生の原本から印刷したものでなく、小生の門人ども
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呆たされなかったし、また、西自身がフィッセリングに約束した﹄註稗附の定本の出版もそのままとなった。官版が大阪版であるこ
時代に、西がこの諜奮の刊行を期し﹁凡例﹂まで書いていたことが知られるのである。同じく議告した﹁公、法名義集考﹂の附録は
となり理解しやすくなっている。﹃寓図公法﹄は、肝心の譲稿が失われているので比較しがたいが、軸時潟本をそのまま刊行したもの
祖暗稿本の議文の方は、かなり生硬且つ冗漫で卒識して意味の不分明なところがあるが、刊本はよく改められ全縫として簡潔、明確
﹃首円園公法﹄と平行して刊行された﹁泰西図法論﹄に就いてみると、最初の譲稿と刊本とを比べると詩文が、かなり退っている。
黙を吟味してみよう。
ともかく、西が右の雨版に競りが多いと不満の震を表したことは、雨版の隷文を検討しても、凡そ了解される。以下少しくその
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の出版を橡告していることでわかる。これも西自身が刊行したのなら営然、削除したであらう。ただ、この﹁凡例﹂によって、京都
﹁凡例﹂は、 見この上梓のためらしくみえるが、これも京都時代に奮いたものそのままであることは、失われた筈の﹁性、法論約﹂
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しく、類似の例は 晴海議吉の著書の場合に、著者稿爆が慨歎したほど臆面もなく行われた。西の﹃官同図公法﹄もそのこ別である。
有金な文献と-認めて勝手に上梓した、いわば官製偽版であった。奇怪ではあるが、版権のない混乱期に珍しくない現象であったら
官版とある以上政府の公定版のように受けとられるが、貨は外交嘗局が、たまたま西の内人か持っていたこの﹄議稿をみて、外受上
右の書翰によって、異相はほほ解明される。町ち、﹃背円図公、法﹂の官版、民間版ともに﹄蒋者の酉が何等関知しないものであった。
(以下容)
の和英齢典及日本歴史の二郎は御令息様ヘ小生並に津田氏より呈上するものであります。
問暇あれば註穂附のものを小生の手で出版したいと思っております。津田氏の図法論は同氏より貴下へ、又米人ヘパ lン同町rmg
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とは蛍時外交省局が大阪に在ったからである。民間版も京都版で、官版を若干修訂した再偽版であった。
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文が椅今整っているのは、出版者が勝手に文章を修正したこともあらう。また、官版には節の香焼に錯乱があるが、これも粗漏で
ある。節番械は明白な一哉りゆえ-訂正しておいた。しかし民同版にも娩係全集本六十頁九行自等があるが、まず民同版の方か多
少宜しい。吉野博士が﹁明治文化全集﹄に、民間版を蔓本としたのは営をえているが、同博士の解題には二種の版本があることに
官版所載のものを寓民版とした。民間版にもこの上表が載っているが、若干文字の相違がある。民間版は五行目の﹁於百年﹂が﹁於
まず、警頭の﹁上背時閣公法ミ謀本表﹂は幕府へ将軍) への上表であるが、これは刊行賞時名文と稀されたものという。本金集には
は一 言も絢れず、したがって民間版を採用した理由も何等一説明していない。
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第こ巻第八章第六節(全集本三六頁)は、針校したように官版の﹁隔スヘカラス云んこが民間版では﹁隔すへく云んこと、逆の謀
本金一集には、官版と民間版との異同を註記したから、比較してもらえると思うが、者干針校の結果を指摘しておこう。
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というなら、或は最初の困惑稿そのままかもしれず、﹃泰西図法弘同﹄の刊本に比べるとかなり議文が生硬なのは後者ほど譲文に洗練の
文官
手が施していなかったからであらうと思われる。
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へず
本
版ともいえない代物である。謀者が憤ったのも晶画一然であらう。
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一日﹂、六行自の﹁海沌﹂が﹁混沌﹂、裏のこ行自の﹁照代﹂が﹁昭代﹂となっている。また、民間版には、官版の末尾の﹁臓月
二十八日﹂のつぎに﹁開成所数授職臣﹂の七字がある。これは、この上表が将軍宛のものであるから、新政府版である闘係上、官
版が蛍然故意に削除したのである。ゆえに民問販の方が元の形である。
この上表について石黒忠恵、の手記があるから左に掲げる。
文久慶臨恨の問、西洋の撃術盛に関進に向ふに営り、和、借関向争者大に之に反抗し頗る西洋製者を憎み、目するに戎夷を以てす。其時キ
に於て西周先生和蘭より締り持率に寓図公法の原本を験したるに、将軍特に其謀本を求めらる。依て先生之を課して更に寓図公
園
AE 時予寝字を以て撃資に供す。故に此文
法謀本を上るの衰を副て将軍に験せらる。其表文は漢文にして文章簡にして明、雅にして陽、名文と稀し侍寓して聴く梅賛す。
漢筆者、流之を識で日、戎夷輩にして此文を作るものあり油断す可からすと云ふに至る。
石黒、忠恵時年八十四
東京牛込弊屋の病床に於て
を崎時寓すること十徐岡、而して其後其プ本を箆底に採り索るに得す。常に之を憾とし令嗣西紳六郎男に其事を話したるに、男百
方探索此本を寄示さる。一一讃感慨に堪す、其由を紙末に識す。
昭和三年十月十六日
︺で補った。以下本文でも同様。
し、他は他に九は凡に改め、明白な韻字を正し、
JE 利、傘、過と牟捕、等が、混用してあるのは一方に統
無とナシ、調と一去、英吉利と険 口
あり、へ前、述のごとくその逆もあるが)これは補った。その他、然民と然レ除、予と預、操、事とコト、 1、僚と条、併と弁、蓋と差、
官版についてみると、本文の植字はかなり不統一であり、西が誤植が多いといったのも蛍然である。民間版と比較すると腕僚が
﹁凡例﹂では、民間版にあって官版で削った部分を︹
故老の記憶といえどもそのまま事賓と控認めがたいであらう。
右は、石黒忠恵が、商周の嗣子商紳六郎氏より婚られた﹃寓図公法﹄の刊本の巻末に誌したもので、相津英次郎氏の特寓したもの、
事
詩
これをここに鞠載する。ただ、文中﹁将軍特に其ミ謀本を求めらる﹂とあるのは、西蹄朝の蛍時、京都滞在中の将軍慶喜の話とすると、
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西周稿本目録解題
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また句諸問結をほどこした。
﹃官同園公、法﹄の原本筆記本は、商の手許にあった筈であるが、それは前、述のごとく、恐らく失われたのであらう。ところが、幸い、
津国民道の建議文書中から見出された。
津田民道の奮裁文書の 部は、蓄蔵書とともに大正二年六月、津田の令息弘道民から慶一際義塾大祭岡書簡に寄賭された。その他
は津田家に襲載。慶一懸義塾大祭圏書館寄婚のものについては、三漫清一郎稿﹁津田道治編者津田真道﹂へ﹁三国製舎雑誌﹄三十五
の三)参照。
津田家製酷械のものについては、津田、道治編﹁濯団員道﹄(昭和十五年刊)、及ぴ大久保利謙稿﹁津田員道の著作に就て﹂一、二、ミ
(﹃帝図拳士院柁事﹄ミノ四、四ノ一、﹃日本築士院紀要﹄七ノこ参照。
この津田家襲蔵本のうちに、﹃泰西図注弘担譲稿原本七綴とオランダ文の洋式ノートブック (HGnB×
﹄ ong) 六慨がある。この六
肪のうち四慨はぎ持四国円四%とあり、まさに﹃高図公法﹄の原文である。鉛筆書きで、その一部の潟異を本巻の口檎に掲出しておいた。
口絡にもあるように、第 附坊の見返しに墨で﹁列国公法﹂とあり、第二、第三慨には﹁禽図公、法﹂とある。このオランダ文筆記は、
去る昭和二十八年三月、図立図曾圃書館赤坂本館で催した幕末和蘭留拳生閥係資料展示舎に陳列し、その際私が編纂した﹃空木和
蘭留筆生闘係資料目録﹄に、沼田次郎氏の協力をえて調査した結果を-記録しておいた。このオランダ文原本は、近く本金集の別巻
として刊行する議定であるから詳しい解説はそれに譲る。
5
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g忠臣旨の・漢詩﹃蔦図公法﹄、﹁性、法読約﹂等その他の参考文献の註記があるが、これは謀者の附した
西の詩文に、丁緯艮
ものである。
参考のため左に口槍とした﹃寓図公法﹄のオランダ文原文を掲げておく。
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西周稿本目録解題
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人しか有ってゐぬのだが、其のどちらを借りたのか分らない。明治元年に寓し了ったことは表紙の記載に依って明である。上は開
巻第二只謡言の二菜、下は第三巻諸一言の工業である。此庭に寓した所では判然せぬが、原物に依ると熟れも毛筆で奮いたもののよ
うである﹂とある。しかし、肘枕述のごとく商の筆記が失われたとすれば津田のものであろうということになる。するとそれは、本
原
(慶庵四年刊)
J
(慶慰ミ隼 諜)
ち明治四年刊)
(全集二、交=工夫頁)
巻の口絵に掲げた津田文書にあるノ lトを特出馬したものにほかならないことになる。此頃に神田は開成所で津田と机を並べていた
ことからも、津田から借りた可能性が多い。
(十五)﹁性法説約﹂
周 平周
西周文書の中に該当する書籍は見当たらない。
名
まず、フイツセリングが選んだ五科とその織譲奮を表示すると左の通りである。
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へ翻謡番)
(﹁性、法﹄設約﹂)
﹃恒法略﹄
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首同図公法之助字(図際公、法)﹁寓岡公法﹄
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政表之拳(統計撃)
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記五科授業之略
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(廃層、四年刊)
へ明治七年刊)
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本橋本の末尾の﹁丁卯之年、余等奉命議所崎博之嘗云キ﹂以下が削除してあるので、﹁五科口訣紀略﹂が元来は﹁性法論約﹂の線序と
民の議する性、法口-挟の凡例に-譲る﹂とある﹁凡例﹂とは、まさにこの稿本にほかならないのである。ところが、﹁五科口訣紀略﹂は、
めに起草したことは、前述した通りである。従って形式を整えるためとくに漢文で書いた。﹃泰西図法論﹂の凡例に﹁其詳なるは西
はじめ﹁自序坦時五科口訣櫓口法﹂とあり、末尾の文句から、まさしく五科講義の議書の総序として﹁性、法読約﹂の巻首に掲げるた
本金集でその全文をはじめて公表する。
この事貨をとりあえず、前掲﹃幕末和蘭留拳生関係資料目録﹄及び﹃日本歴史﹄第六二競に寄稿した﹁幕末和蘭留畢生﹂で報告し、
没していたのであったから、この稿本は、いわば失われた﹁性、法読約﹂の忘れがたみである。
﹁性法設約﹂の誇稿刊行か流産したので、この線序も存在の意義を喪失して、そのまま西の盤底におかれ、その後最、近に至るまで埋
して起草されたものであることが抹殺されてしまったのであるが、このう記五科授業之略﹂によってこの事賓が判明した。つまり、
法
口訣紀略﹂のことであるから、この﹁記五科授業之略﹂は森鴎外も注意しなかったようで、晶眠、近まで埋れていた。しかし、表題は
の﹁酉周所著書目﹂に﹁五科口訣紀略﹂とあるのは﹁侮中引用する所のもの帥ち是なり﹂とあるように、つぎの口に掲げた﹁五科
自倍率本、墨書、用紙は美濃版、十行紺罫紙、柱文字なし、二枚、但し二枚目は墨付宇枚と二字であるへ埼入蒋異参照)。﹃西周侍﹄
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ング文昏に全文が残っているので、これも﹃鳶圏公法﹄の原文等とともに別巻として印刷に付す濠定としている。
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m同時は、フイツセリングの五科の第一で、、症の本質を説明したもので、講義の総論に営る。原文は、幸いフイツセリ
おこの﹁悼伝之助さとともに、﹁天然ノ本分﹂とも議されていたへ津田異道隷語、﹁五科製習関係文書﹂の五万
理助きとなったのであるへ穂積陳重著﹃活窓夜話﹄参照)。しかし、ともかくそれまではこの西の譲諮が一時普及したのである。な
法省蔵版として刊行した議書は﹁任法講義﹄となっている。晶画時自然法という認もあったが、後に穂積陳重博士の考案によって﹁法
謡が一般的に用いられている。明治七年以降、法挙校で開講したボアソナlドの自然法設に闘する講義を同校の井上操が議し、司
る﹁性﹂の字義によって翻案したもので、西あたりの考案らしく、その後明治初年には東京大築、司法省の法助事校その他でこの-諜
田は、はじめ、﹁性法之助事﹂と議している。この﹁性、法﹂という隷諮は、原題の自然法の意味を、中庸、孟子、乃至は朱子撃におけ
これは﹃高図公法﹄と同じく、フイツセリング敬授の講義筆記の隷である。謡番の原題は、 ZEEH
吋・同色へ自然、法)であり、西、津
れない。
故堂とは神田の寄驚械であらう。後免所は東京室町三丁目の紀園田保源兵衛である。再販も異版もなかったようで、編者の目には絢
の内側に奥附を付す。扉と各紙の柱に﹁求故堂蔵版﹂とあり、また廃には﹁磨、通﹂という謀者神田孝卒の械の印が捺してある。求
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国翼道の序二枚、謀者の緒 吉田二枚、目次一枚卒、﹁性、法分系圏、本文は九行二十字誌で、三十四枚と一行の合計三十四枚、裏表紙
出芝という題築を付す。巻首に西周の序二枚、、津
(全集二、七 O
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五頁)
本橋本は二慰脱稿しているが、なお訂正、抹殺、わずかであるが朱筆の訂正がある。また若干、黙の句識黙がある。脈問刻には訂
正の跡を示し、句議制は原本にある、結以外に、新たに全文に補った。
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明治四年春刊、和装本一冊、字紙件、木版、黄表紙で、表紙には﹁﹁性法略
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巻 4号
この﹁性、法之撃﹂、町ちZ
EE-同町同の脈問認は、はじめ商周の櫓嘗となっておって、﹁寓図公、法﹂の隷業についで、慶棒、二、三年の交
に京都で徳川慶喜の側にあった問暇に隷了して﹁性法読約﹂という題をつけた。﹃寓図公、法﹄の﹁凡例﹂に、同警についで上梓する
と議告し、また問書中には、所キの注記にこの書名があげてある。また、つぎの﹁五科撃習関係文書﹂のい門に牧めた己記五科授業之略﹂
を、五科講義の課警の線序として書いて﹁性、法読約﹂の巻首に掲げる筈であった。
ところが、﹁性口伝説約﹂は刊行を前にして原本譲稿等一切を、慶康三年末、議者商が慶喜に従って京都を敗走した、混乱の際に紛失
した。この一件は﹁五科口一訣紀略﹂に書いてあり、それによって森岡崎外の﹃商周侍﹄にも記、逃しである。ところがたまたま、西の
京都私塾の塾生であった大野藩の服部寛てか一本を寓していたので、これを明治となってから西に賄った。が、しかし、すでに神
田孝平の謀本が刊行されていたのでそのまま盤底にしていた。その後佐野常民から借覧を求められて貸拠し、これがまた佐野の手
許で紛失したという。﹁商家議零﹂の﹁五科口訣紀略﹂(本巻一四一頁)の欄外に﹁時佐野常民骨材全権公使﹂とあるから、これは佐
野がオl スタリl駐在地問理公使、特命令 権公使となった明治六年一月以降、翌七年十二月時朝の頃までのことらしい。
ほとんど見蛍たらない。ただ原本に﹁海﹂とあるのを通行の得に改めた程度で、その他は、句﹃噛唄粘がないので前例の校訂方針によ
校訂は、原本を忠貨に線刻することにつとめた。これは謀者が出版したものなので、﹃背問図公法﹄のような不統一や魯魚の談りは
って新たに付した。但し西の序文のみは原文に句貼がある。
の名が和帳面四一の裏表紙に書き込んである。﹃皇国文法階梯﹄の本文の末尾に﹁近江国蒲生郡八幡之民高田義
係は不明であるが、高田義甫が明治六年八月に出版した﹃皇国文法階梯﹂の書名と著者である高田義甫と西野古海
なお東京図書館旧蔵本に西周訳、高田義甫出版﹃性法説約﹄明治二一年。が含まれている。西周と高田義甫の関
C)
(全集二、六九人│七 C頁
なお、この謀本は R
明治文化全集﹄第八巻の法律矯へ昭和四年五月二十日刊)に、全文が復刻され、吉野作造博士の解題を掲げてある。
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西周稿本目録解題
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甫﹂と見える。明治六年の夏には山本覚馬が東京に出向いているが、山本覚馬と高田義甫の関係も不明である。
l 五 大久保目録一三八
洋風ノート (茶帳面) 西周文書一 O 一
一真白から一頁おきに四頁にわたっている。
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なお断片三十一の本金集二O七頁六行自のつぎ、ペン寄きで左の英文が挿入しある。本文に註記をもらしたので、追加しておく
新たに附さなかった。執筆年月は明記がないが、内容によってその時期を判断するほかない。
ら五枚牟にわたって書いてある。墨書、丁寧な細かい格審で書風はややわかい。この部分は句識黙があるのでそのままとりいれ、
断片三十 1 三十四。これは本巻第五の﹁問題門﹂の無題本か書、込まれた外国製の帳面からとった。後から数えて十六枚目か
(全集一、穴一四 l上︿一五頁)
十一の﹁哲築関係断片﹂におさめた。この無題本もその一つであるが、洋風帳面なので漢文は、逆に冊末から書き、この無題本は借用
撃時代のものらしく、蘭文英文のノ lト(ぺン書)が十数頁あり、それに交えて毛筆書きの漢文が幾篇か書きこんである。これは
製の薄い帳商に書き込んである。その健裁を説明すると表紙は褐色、良質の、洋紙を用いた普、通のノートブックである。オランダ留
本の方は文章が途中で切れている。恐らくこの無題本の方が初稿で、﹁問題門﹂とあるのはその改稿本であらう。この無題本は外図
のあとに、無題本は﹁其他有巷撲人﹂以下二十三字がくわわっている代りに﹁累世之久不思﹂以下一九六字を快いて、しかも無題
ところが、これと別に、内容をほぼひとしくする無題の自筆稿本がある。雨者を比較すると、末の方で﹁於豆偽利加、有若馬崎歎﹂
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西周文書二九
(全集一五一
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三十二、三十三、三十四は三十 から敷枚をへだてて寄かれ、書風も三十一とはちがい草慢の墨書である。無知ゆえこの部分は新
たにほとこした。
洋風ノート (青帳面) 丙ノ六
起稿の年代について第二間金集用の原稿には第三十九園のごとく﹁明治三年起稿﹂とあり、麻生氏の﹁著作集﹂が﹁明治三年稿﹂
想への傾倒を表白して、その後の商の哲知事思柏崎の原型が、遺憾なくあらわれてる黙で、これはまさしく西の官製的関眼であり、問題
ンダ留撃時代にコント督撃にはじめて捜した頃のものとしてもいいかと思われる。そうしてみると、コント、ミルの賛誼主義的思
フイi 、ボジテイビズムの隷語も替課してるところなどから(哲撃の詩語は文久年間に、きざすが)明治三年より、遡るもので、オラ
のであるが、まづ西洋哲撃と束、洋の儒撃とをその賛 なりとして全鵠的に西、洋哲撃の受取り方もまだ初歩的である。またフイロソ
この無題本は丁寧な枇明書で、筆蹟からいうと留助事時代としても差支えない。内容から考察すると、これは哲撃入門ともいうべきも
としているのはこれに擦ったとみていい。蘭文英文はオランダ留集中のものであらうか、漢文断片に就いては判定がむづかしい。
したものである(同奮の解一設には商の自筆原稿は紛失したとある)。
ただ第一一間金集用の筆出馬原稿のうち同文の﹁問題門﹂と題したものがあるから﹁著作集﹂本はこの膏全集用の原稿をそのまま採録
にあたる自筆の稿本は今日商家奮裁稿本のうちには見あたらないし、また﹁西周侍﹂の番目にもこの﹁問題門﹂はあげていない。
麻生説明嶋崎編﹁西周哲撃著作集﹂ヘア│二貰)ではじめて公にされた。﹁著作品塙﹂本は﹁開題門﹂という表題をつけてあるが、それ
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西周稿本目録解題
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の門なのである。
この﹁開題門﹂にかぎって第一同会倍増原稿本を本文に牧め、無題の自倍率本の方は附戦とした。校訂には、第一同全集原稿本はそ
れにある匂識黙をもととし、無題本は無黙なので編者において新たにほどこした。なお附戦口以下は、同じ帳面にある﹁開題門﹂
(全集一、六三ーー竺豆頁)
と闘係あると発しき断片を採録し、句讃黙のあるものはそのままとし、ないものにはほどこした。蘭文英文にも哲拳闘係のものが
あるが、これは第三巻にゆづった。
追加﹁開題門﹂の自筆本について
第一巻哲拳篇一九│二0 ページに牧めた問題門の自筆本。第一巻の解題へ六一三ページ)に白骨草橋本は見首らないと書いたが、
その後商家文書中の洋風ノ lト(丙ノ六、詩集と表記のあるもの)中に、この﹁問題門第こがあるのを後見したので、はじめのペー
ジの湾民を掲げる。墨附六枚、まさしく第一間金集用原稿の底本でこれが﹁問題門﹂の、清橋本である。第一巻の本文と針校すると、
(全集三、解説七八頁)
一九ページの本文七行自の﹁須社威抱﹂は﹁演杜威架﹂となっており、二0 ページの柊りからこ行自の﹁幾﹂は﹁婆﹂である。こ
西周文書一六六
れは第一巻牧銀本の誤植と認定されるのでここで訂正しておく。
洋装手帳
縦が約 E
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-横幅が約AWE-の厚手の表紙にベルトの付いた手帳である。
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真吉
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明治九年十二月
明治九年十一月三十日
人名と住所を書き込んだ備忘録の模様である。中ほどに次の記事が見える。
川田
太田徳次郎
十二等出仕
吉村
柴田
十四等出仕
十三等出仕
出
仕
陸軍省への出仕の記録らしい。
七
日
等
西周文書六
大久保目録一四一
その思想形成の論理を理解するためには除外できないものであるからこれは引つづき刊行を期している。この金三巻に牧録しなか
漏した。これは組版が困難なことと、分量の闘係上からやむなくつぎの機舎に譲ったのである。西の思想構、迭の重要なかなめをなし、
るものである。ただ牧録稿本の設定としたうちで、言語・図詩篇に牧むべき﹁詞の麓路﹂三之上巻) 一冊と﹁日本語範﹂ミ協とを
首尾を一貫せしめた。最初第一巻の説明刈に営ってたてた編別のままであるが掲載の順序を若干幾更した。これは刊行上の都合によ
西周全集のこの第三巻を以て一懸最初の刊行橡定を柊る。第三巻には最後に稿本日銀と西周略年諮とを附して第一巻・第二巻と
云何惟人
明六社で活躍した時期に用いた知人の住所録の模様である。
また加藤弘之や津田仙や西村茂樹や瑞穂屋卯三郎や坂谷素や福沢諭吉といった名前が書き込まれた箇所もある。
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十九より廿一まで
一
一
5
8
5
9巻 4号
誌
雑
j
去 学
戸
神
西周稿本目録解題
5
9
ったもので、まとまったものは奮版全集に牧めた﹁首撃連環﹂と隷書の﹁心理助芝、﹁利隼﹄﹁云何惟人﹂へ吏﹀N
B国
gg自 の 人 類
撃の謀、明治二十年連稿の日記である。このほかは、全くの紙片、または牧録があまりに困難な断片以外は、草稿断片、覚書等に
至るまで及ぶだけ整理して閥係編に牧録したから西周全集の名に恥じないものとなったと信じている。巻末に詳細な全著作・稿本
の日銀を掲げたからそれによって一覧してもらいたい。
(全集三、三頁)
﹁云何惟人﹂の稿本には挿絵の箇所が空白のままになっているが、草稿類一括の中に二十四枚の挿絵が纏めて保
管してある。挿絵は実際には二十五枚ある。うち三枚には第何図といった番号が付されていない。また手のひらの
丙ノ八
酉周文書三O
大久保目録五七
挿絵を一枚の用紙に並べて描いたものが二点ある。それぞれ第十九図と第二十図また第二十一図と第二十二図の挿
絵に当たる。
復某氏書
NhhNSXH
羽田・表紙も本文と同氏、左側の上に﹁復某氏書﹂とありその下方に﹁西し天根﹂
理に鵠するものなり﹂と解説してある。内容のうえから原本の表題にない園撃者の文字を加えたのであらう。
某氏書﹂であるが、森岡崎外の﹁商周侍﹂の本文並ぴに﹁商周所著書目﹂は﹁復図撃者某書﹂として、﹁拘世間、洋三撃を論じて唯一の道
起稿の年代については巻末に﹁明治三きさらぎのとまりいつかのひ﹂とあり、明治三年二月十五日となっている。原稿本は﹁復
とある。八行、墨付十三枚。この稿本のみは麻生氏の﹁著作集﹂にももれていたので、この全集本が最初の公表である。
自筆、浄警本、墨書、宇統、無罫、大さ
廿
6
0
5
9
巻 4号
商は奮幕臣阿部潜から懇望されて沼津の徳川家兵撃校の頭取就任を受諾し、明治元年九月東京を立って、沼津に移った。これを機
舎に翌二年十一月には休暇盲目を許され、十六年ぶりで故郷に父時義を省したが、これは義、永六年落籍を腕して以来の鵠郷であった。
薄主亀井件以監は、翌三年正月、二月の交に、しきりに西をまねいて祭政を諮詞し、また郷人も多く来って菌、洋の撃術風俗をとうた。
そこで二月中、西は﹁文武拳校基本並規則嘗﹂(本金集敬育篇に牧む)を草して件以監に上った。この﹁復某氏書﹂もこの際のものである。
津和野は大図隆正の郷里で、大図門下には幅初美静を生んでいる。また藩主教監も維新後は榊械官に出仕して副知事となった。
この嘗はこのような環境のもとに西が洋撃の啓蒙思想に立って図拳批判を試みたもので、某氏とは誰かわからないが、この稿本の
批判の釣象は主として犬図隆正一汲の撃風をきしているものと解される。
筆蹟は細字で、句議黙はない。訂正もほとんどない。校訂には句議結をほどこし、融当態仮名は現行のひら仮名にあらためた。所ん吋
に濁点、があるが、不統一なのでこれは一切のぞいた。体、辞、画などの略字も用いてあるがこれは正字に統一し、明白な訣りは訂
生復某氏書﹂、その下に﹁なが美の銭香﹂とあり、加末には商の奥奮を寓したつぎに﹁同卯月末の三日講究謹むて富士の麓なる沼津
詞の麓路
ゆたか
丁ノ七
西周文書六七
門生、氷見裕﹂とある。
巻
之
大久保目録一 O 八
(全集て三一七 l│
三一人頁)
西の日本文法研究で最も早いものはち﹂とばのいしずゑ﹄である。松井筒治博士警毅本には西と同藩の稿初美静が明治三年冬に
廿
この稿本は門人、氷見裕の鶏本がある。、氷見の女婿にあたる故岡不朗氏の所裁本、 一冊、小形の罫紙に蒋す、墨書、表紙に﹁西先
ゆたか
の肢の宿りに寓しけりぬ
正した。
法 学 雑
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;
戸
申
キ
西周稿本目録解題
6
1
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5
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下な
切れているが、調の麓路ではアのくだりからわのくだりまでの表が作られている。更にゐの部、 ゑの部、をの部の
に載せた名のくだりはアのくだりからかのくだりとさのくだりとなのくだりをへてはのくだりのかきさしまでで途
ことばのいしずゑの巻の一に当たる声の学、びの箇所を修補した稿本である。ことばのいしずゑではまきのひとつ
(旧全集て四四頁)
これによって撃術の方略としての文字、文章の意義が明かとなり、文章撃を普通撃の第二位に置いた意味が明瞭となるのである。
ナクシテハ、頗難キ業ラア猶足無ウシテ行キ、手無ウシテ持ツこモ替ヘツヘシ、ザレハ、ヵレノ奮キ世キヨリモ、此致知撃ヲハ、
第二章文
文章科ノ、ミツノ撃ヒノ、奥ノ拳ヒトシテ、語科、情
25旬、文科、忌問問。号、論科ナト立テタリ、﹂築関渉と述べてある。
ヲ件st
、
イト、近ク、相睦ベル関係カラ、又撃ヒノ序テモ、ィト、近ク、係ハレルコトアリ、ソハ、此致知撃ニ、入リナムニ、言語文僻ノ拳
ヵ、ハリアヒ
の思想は﹁致知啓蒙﹄一にも﹁考ヘト、言語トハ、ィト親、ンキ族ラニテ、動モスレハ、紛レ易キナンメリ、サテ、カク、此二ツノ者ノ、
-﹄ノ範﹂後端
は、右の様に、談読術ゃ、文章撃や、詩歌曲争の基礎と成る者て有るからに、此の諮範の撃ヒ無しに、高上な諸印字科ヘ、進まうと欲ふハ、
、。﹃日本普
E 又これ同様
梯子無しに高い庭へ登らうと思ふと、同様なれま、努めく、此の唱範の拳ヒを、忽こ潟て成り在せぬそ﹂
梨、即ち和歌逮一献の撃ヒも、皆寓上な拳科に属すれは、此の諮範の区域の外に、在る的て有る。爾ハ爾リなから、此の諮範の拳ヒ
ノサ妙
が成立する。日く﹁其レより、進んて、一説話の上へでは談読術、文の上ては文章梨、又進ては致知撃、爾て文章製の枚、別ては詩歌
ハナシダンセイ
言語の理を立てるのが諮範である。ゆえに諮範は普撃、言築、話撃の三部より成る。この詩範から進んで談読術、文章撃、致知撃
凡そ文は思想の表現、健法のため必須の国内である。この文の根底には整(普)、言、語、説話がある。説話が文字に害かれて文となる。
ことばことはなし
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E語
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宮島
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複に西の撃術論の根擦を窺ふことが出来るのである。
更害
6
2
9
巻 4号
a
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~
雑
寸ー
法
戸
神
表が付されているばかりでなくて、 ハ行の間濁文字を含む言葉の表やじとぢやずとづを区別する表も作られてい
される時代に入っていたと推計される。空海はあるいは子供のころにあめっちを習ってそれを覚えていた可能性す
論する。だが、空海がいろは歌を作った時点には既に上代の八母音がほぼ消滅し、日本語の音韻が四十八文字で表
ことであるから、いろは歌の成立時点は平安中期まで下るはずであり、空海の時代まで湖ることはあり得ないと推
をそのままに写し取っているという前提に立って、日本語の音韻が四十七文字で表される時代は平安中期より後の
だが、私見によれば大矢の主張は成り立たない。第一レロ⋮。大矢はいろは歌は手習い歌であるからその時代の音韻
ている。大矢透は三点の論拠を挙げてこの見方を打ち消している。
西周はいろは歌は弘法大師の作であるという伝統的な見方に立っているが、現在の通説ではこの見方は否定され
韻鏡の改定にまで踏み込んでいる程である。
湖って説き明かすという企てを西周は引き継ぎ、日本語範では白井寛蔭の音韻仮字用例を引き合いに出して更には
まっているが、この後には、本居宣長が漢字三音考や字音仮字用格において試みた字音の語棄の仮名表記を韻鏡に
では成立し・ない。字音の探求は詞の麓路では高低アクセントの表記に上声平声入声去声の区別を利用する範囲に止
漢字語葉は日本語の外であるとする見方に立っと字音の語棄を解き明かすという問題意識は日本語の文法の内部
書体で書き、普通の本文は行書体や草書体で書くという書法を西周が発見した瞬間の記録であろうからである。
本の縦線を引いて抹消して、そのわきに棺書体で弘法大師や吉備真備と書き直しているが、これは漢字の語葉は楢
しい見方に到達した模様である。声の学びの始まりの箇所において普通の行書体で書いた弘法大師や吉備真備を三
の一大転換を遂げたためであると推察される。西周は漢字語棄は大和言葉では・なくて中国語の語葉であるという新
調の麓路は一の巻で終わっているが、これは西周がこの稿本を執筆している途中に、日本語の文法に関する方針
る
。
西周稿本目録解題
6
3
ら考えられる。空海が試みたのは手習い歌作りとは別のことである。空海は異なる音韻を表す文字の標準数を悉曇
の韻母十二と桂文三十五の合計である四十七と見定め、必要最小な数の文字を確定することを企て、既に混用の気
配が見られた榎の枝を一字に纏めていろは歌を詠んだと推計される。第二点。仮名の用字法が平安初期には全く確
立していないというのは大矢の調査する通りであるが、いろは歌は始めは口づてに伝承された発音の歌であると推
定される。いろは歌は音声の符号である。当時はあめっちが手習い言葉であり、いろは歌が手習いに使われるのは
ずっと後の世のことである。第三点。七五調の四句からなる歌謡の形式は今様に見られるものであり、この形式を
前なるや
豊浦寺の
西なるや
という七五調の調べが既に現れている。空海が三歳の年である。この調
纏ういろは歌は今様の流行した平安末期の作であると推定されると大矢はいう。だが宝亀元年の童謡をみれば、葛
城寺の
べを二回繰り返せばいろは歌の調べとなる。今様といろは歌の関係はいろは歌が普及して今様が流行ったのであ
り、今様が流行ったからいろは歌の調べが七五調に定まったのではない。大矢は原因と結果を逆転させているので
ある。
大矢の学説の欠点はあめっちの作者が誰であるかを明らかにできないところにある。あめっちの原作者は私見に
よれば吉備真備である。天地星空を日本語でどういうのかを中国人に教える試みからあめっちが生まれた公算が高
ぃ。訓を振るには片仮名が必要となる。片仮名で表す五十音もまた吉備真備が作成した公算が高い。悉曇を用いて
日本語の音を表記すれば自動的に五十音の表が出来上がる。後は悉曇を片仮名に変換するだけのことである。あめ
っちは始めは四十八音ではなくて人犬上末まてでで終わる尻切れトンボの状態にあったと推算される。天地星空山
川峯谷雲霧室苔人犬上末。漢字二子にそれぞれ二音が配られている。用語から推察するに布教を志す者に日本語の
基本を教えている模様である。
四十八音のあめっちがやや腰折れなのは息子の吉備泉当たりがその完成者であるからであると推察される。残つ
6
4
5
9
巻 4号
誌
雑
学
法
戸
神
た音を巧く組み合わせて意味のある文句を生み出すのは案外難しいことであったに違いないからである。榎の枝を
はいいとしておふせよとか少々苦しい。ゆわなどという耳慣れぬ言葉を持ち出さなくてはならないあたりに苦労と
苦心が渉み出ている。
こうした困難を突破するには空海の天才が必要であった。いろは歌の作成。それは空海の天才のなせる業であ
る。おそらく空海は阿音を表すゼロ符号を想定して初めから悉曇は四十八文字からなると見定めていたのであろ
う。それに倣って日本語にも﹁ん﹂の音を表すゼロ符号があると見なして、いろは四十八文字と見ていたものであ
ろう。我が代はわ我よであり、わと我の聞に﹁ん﹂という一音が潜んでいると見なしていた公算が高い。ゼロ符号
は形なき文字であり空の思想を担うのにいかにも似つかわしい符号である。﹁ん﹂は余韻を示す云々の﹁ん﹂でも
ある。﹁ん﹂はやがて末尾に移り﹁京﹂の一字で示されるに至る。京の夢、大坂の夢。空とは地上高く広がる天空
の世界である。空とはいわばうつつを越えた夢の世界のことでもある。形なき文字に空の思想を託す。空海の天才
なくして誰がこのような歌を詠めるであろうか。
紅葉と惑ふ
疎ぶらし
千鳥の跡も
止まらざりけり
大矢説の破綻は宇津保物語の解釈に集中する。手習いにまずあめっちを用いることを描き出す場面に次の歌が登
場する。
まだ知らぬ
諸行無常をまだ知らない稚けない子供にいろは歌を習わせても、紅葉のこと?と戸惑うばかりで興味をかき立てる
ことにはならないのが落ちである。疎ましいとも厭わしいとも感じるからであろう。これでは千鳥の足跡のごとき
﹁女手﹂の文字も記憶に止まることにはならない。いろは歌の手習いは子供たち特に女の子には向いていないこと
西周稿本目録解題
6
5
を諭す寓意の歌である。この歌はいろは歌を念頭に置いて詠んだものであると解する伴信友の説に対して、大矢は
いろは歌なしにこの歌の解釈を試み、草体の文字を見て枯れ葉を連想するといった意味不明の不可解な説明に行き
着いている。
そもそもあめっちをあめっちほしそと七音に詠むのも、 いろはをいろはにほへと、ちりぬるおわか、と七音に区
切って詠む習慣に倣って成立した言い回しであろう。いろは歌の場合に七音の区切って音だけを諦すのは、始めの
うちは深い意味に踏み込まない様にするための算段であるに違いない。
大矢透﹃音図及手習調歌考﹄は平仮名の五十音図が天台系であることを実誼した力作であるし、また明了房秘記
が偽書であることを喝破した傑作であるが、宇津保物語の解釈には失敗していると言わざるを得ない。
大矢は考証家らしく証拠を並べて行く。しかしその証拠の一部は大矢説を掘り崩すものである。まず天文本和名
抄に五十音と並んでいろは歌が記入されていることを確認している(六三頁)。その仮名の字体は承暦三年に写し
た金光明最勝王経音義の序文に続いて掲げてあるいろは歌の仮名の字体と概ね閉じものであり、衣が恵と同じとさ
れているなど不審の残るところもあるにせよ、和名抄の作者である源順が既にいろは歌を見知っていた証拠と考
えられる。源順はあめっちの歌も詠んでいるから、あめっちもいろはも知っており五十音にも通じていた公算が高
。
される矢田部公望による追記と推定される部分であるが、ここで矢田部公望が先師と呼んでいるのは延喜の講義の
講義の記録である承平私記の開題から取ったものである。引用箇所は承平講義の博士であり承平私記の筆者と推定
釈日本紀は鎌倉中期の人である卜部兼方の作品であるとあっさりと片付けているが、問題の大部分は承平の日本紀
先師説云(中略)伊日波者弘法大師作之由申惇欺此者自昔惇来之和字於伊目波爾被作成之起也。
また穆日本紀の開題に次の記事があることも大矢は見落としてはいない (六九頁)。
し
、
土ひ
S
E
=
R
博士であった藤原春海ばかりでなく承和の菅野高年や元慶の善淵愛成などをも含む言い方であり、伊日波は弘法大
師が作ったという説に対していろは歌の作者は弘法大師であるが、和字すなわち仮名文字は昔より伝来したもので
あり、弘法大師が仮名を作ったわけではない。弘法大師はそれを伊目波にまとめ上げたのだと矢田部公望は師説を
引き合いに出して説明しているわけである。この記事ほどに伊呂波歌の作者が弘法大師であることを明白に語るも
のも少ないであろう。
丁ノ
西周文書六
大久保目録一 O 二
要するにいろは歌は弘法大師の作であるとする伝統的な見方はまだまだ健在であるということである。
土佐日記
大久保目録一一五
和紙を紙薩りで綴じた縦長の冊子に書かれた稿本である。二つ折の表側左隅に墨で何枚目かを示す漢数字の頁数
酉周文書七回
が二十五まで振つである。引用符が記入されている。話の学びの資料と推定される。翻訳活話文集の書かれた稿本
丁ノ一三
の後半に土佐日記の草稿があるが、それを清書した稿本である。どちらの土佐日記も明治十二年中の作品と推計さ
廿
五
自筆、浄事青木、一川柳、墨書、大版牟紙、無、罫、表紙は本文と同紙、左側の上方に﹁生性殺議第二きとあり、次の一枚には右側下方に﹁笑
第一巻
れる。
生性震謹
学
四
1
去
廿
6
6
5
9
巻 4号
戸
雑
申
ネ
西周稿本目録解題
6
7
酉(明治六年) 一月一日ヨリ創業六月三日ニ至リ校合了スル﹂と書いてある。その次が本文第一枚目となって、以下七八枚、裏表
紙も本文と同紙、これを一慨に小よりで綴ぢてある。本文の書き方は上の欄外をひろくとってそこに細字で註を掲げ、 @@Oの記
競で本文と針照せしめである。本金集はこれを適宜本文の闘におろした。稿本は、印をもって句議結がほとこしてあるので、手を
くわえずこれをそのまま採用した。上欄の註には句識黙がないのでこれは新たにくわえた。
これは、崎市誉本で、校合を終った決定稿本であるが、用字、法は必ずしも統一されていない。正字俗字を混用し、梨、費、観などは
正字であるが、訳、差、況、体、脳などの俗字髄を交え、はなはだしいのは鵠と休とを混用している。これらを原本、通りとするこ
とはあまり繁雑となるので正字に統一し、明白な誤りは訂正した。また送り儀名は細字となっているがこれは本文と同様9ポで粗
んだ。地名と人名に附された左右の傍線はそのままとしたからこの稿本にかぎり左傍のものも抹殺のしるしではない。
この橋本は批判生義嶋崎氏の﹁著作倍増﹂(二十二│八十三頁)ではじめて印刷に附された。量のみならず、内容からも商の哲皐上の主
著である。著作の年代に就いてはその完成へ校合)が明治六年の六月であることが自記によって知られる。完成のうえこれを公刊
する議定であったことは刊本﹁致知唇蒙﹂第七章の末に﹁コハ生性愛議ニ読クヘシ﹂とあることで察せられるが、ついにその選ぴ
にならず、また、叫申書本も第一抱強のみに止まって、第二巻以下は犠譲の断片が残っているだけで、結局未完成に終った。しかしその
構想はかなり前から徐々に形成され、まづ明治三、四年ころからであることは、この稿本の内容に関連する﹁霊魂一元弘明﹂その他の
断片から推して考えられる。さらにコント哲撃に封する傾倒がオランダ留挙時代からとすれば、構想の種子もそこまで、遡り得るの
であろう。麻生義輝氏が﹁著作集﹂の解題ヘミ八六頁)で、第一次原稿の着手を明治四年頃としたのは、明治三年九月の上京以後
商の知事問的、活動が軌道にのり、﹁百築、連環﹂の講義が開始された時期を目標とした判定であるが、ほほ訣りないと思われる。
題名は、はじめ﹁原性篇﹂、﹁性原篇﹂または﹁康弘以内﹂としていた。これは﹁致知魯蒙﹂の草稿本﹁五原新範﹂(ロ本及ぴハ本)
第七草の末尾へ本金集三六四頁)に﹁こは性原篇にとくべし﹂へこれははじめ原性篤と書き、さらに右傍に符ちょうをつけて性原篇
6
8
学
5
9巻 4号
誌
雑
法
戸
神
に改めてある)とあることによって察知される。さらに﹁性原篇﹂のミ宇を抹殺して傍に﹁生性授滋﹂と直してある。また第十二
章の末の方で﹁そは康弘獄門に云々﹂とあるのをロ本では傍にやはり﹁生性後議﹂と訂正してある。そしてこの訂正からもこの嘗の
月、郎ちこの浄書本を書きはじめた明治六年一月か、あるいはその少し前かであらうがハツキりした時黙はわからない。こ
起稿がまづ明治四年前後とすることができるのである。つぎに﹁生性愛議﹂と訂亙したのは何時であるか、これは少くとも明治六
年の
の改正表題の﹁生性授精植﹂は西の註記にあるように﹁生性﹂は孟子からとり、これに﹁縫レ議﹂をくわえたものである。
構成は二篇に分れ、第一編は﹁源ニ涼リ宗ヲ開ク﹂、第二篇は﹁坤度氏ノ生縫製﹂とし、これを第一胞をとしてある。第二巻以降は、
わずかに織-隷の断片が残っているにとどまる。しかし﹁生性剖記﹂がその積穏であるともみていいからこの奮の主題はその後も西
の脳裏をさらなかったのである。第一編の前宇はこの誉会幽胞の線論であり、同時にこの頃西が到達していた哲撃的立場を組織的に
被捜したものである。順序としてはまづ哲撃の性質を論じ、さらに西洋哲挙史を概説し、最後に至って今余が宗として本づく所は
コントのポジテイピスムであると、コント哲撃を自己の立場とすることを明らかにしている。そしてこの立場から、この﹁生性議議﹂
は入玉編コント哲撃の解説に終始している。
本稿本はだいたいそういう内容であるが、論、遺にはこつの種本を用いている。そして同時にこの二番が首時の西のコント知識の
2
0闘の辺、﹄刊号、台、町内向、国旬、qq
∞ UU版
1 である。すなわち第一篇八枚目ウラヘ金本集本四一一貝)に宮司町田の
ARH
原嫌であったとみていい。ともにcg片岡町民自民可hggの著で、第一は哲曲学史の叙、述の種本となった円
b
s
h念品目、由連言sysh司令司、円、§sh町、高旬、ミ、
ぬも
略憶を書き、その蕃﹁附侍哲撃史﹂剖ちこの原奮を紹介し、さらにその最後の章のコント哲拳の解説の部分の融関惑をかかげている。
qr司2 0∞ロlH∞認)はイギリスの文人で、また、通俗的苦撃蓄の著作家であった。ロンドンに生れ、ドイツに留撃し
守口同町四同町田
た。そしてイギリスの閤秀作家として著名なジョージエリオットの事責上の夫として有名となった人である。著書は多くて、この
耕口組干史のほかにコント哲撃の解-説書がある。ルイスはスペン十!と交友関係があり、普段干思想はコント、汲であった。著書にはこの
K
ほか h本ミ号器、ミ旬、、急句、きぬ及、暗号、注・ミ﹄∞記│可句、守 hh﹄
、宮内可ぬ¥む望書道 円、﹄∞SIS-等がある。この列侍縫哲撃史は
h也
西周稿本目録解題
6
9
一八四五年初刊以来多く版を重ね、日本でも明治時代にはひろく韻まれている。ギリシア以来の哲挙史であるが、最後がコント哲
撃となっており、これがこの奮の結論となっている。
,
ミ
晶
むきれ町、語、ES司君、ロ与竜夫、な何色、む語、、・のEミ
h、
EESSEESn訟 の
第二編﹁坤度民ノ生縫製﹂はまづコント哲撃の大晶子を紹介し、そのつぎにさきの列傍鵠哲撃史と同じ著者のむ語、与、﹄ hehsqb可 ぬ 刊
aSミミ号、き省、
a
号待
E
S
-守主室町、
おnESN=-NNの記思議をかかげている。これが第二の種本である。つまりルイスのコント官製解説を借用して説明に代えている
a
s
.
a
-、第十九章は
八五三年版と幾りな
のである。西のコント知識はコントの原著ではなく、その通俗的解読書によるものであった。西があげている一八五三年が手にい
EEぽ﹄出口g8En白戸号ミ本の昆毘年版によったが、これには一八五三年の序があり、内容は
らないので
大久保目録五一
(全集一、六一八上(一一一一頁)
・
色 SBBU¥ 第十八章は SE九
いと思われる。第十六章は待。官自民足。忌邑え虫色。明第十七章はEU28E
百
酉周文書二五
5巳である。
SE円四百曲目5 一富良包曲目回目。同町田Baa白
(廿六) 万葉集{子訓
以て補ふ﹂と注記がある。﹁小生﹂とは大久保利謙を指す。表紙に続く一枚目から十六枚目までの原稿用紙には中
が書いてある。丙ノ一のわきに﹁小生西家より文書預りの際﹃寓葉集字訓﹄なし、別にこの寓本あり、今俄これを
枚に書き綴った写本である。表紙には欄外に丙ノ一と書き、五行目と六行目の二行に跨がって寓葉集字訓という題
その代わりに第一回全集のために編集用に作ったと見られる写本がある。表紙を入れ四百字詰めの原稿用紙四七
西周文書のなかには該当する稿本は見当たらない。
丙
ノ
7
0
5
9巻 4号
~t
来
住
程下に一から一六までの洋数字が振つである。十七枚目から後には頁数は書き込まれていない。
一枚目の一行目の始まりに﹁雑歌﹂とあり﹁万こと細字の注が付されている。以下万葉集の巻第一の雑歌の調
書きと本文が書き殻られている。 一例を挙げよう。
藤原宮天皇御製歌
春過きて、夏来るらし、白袴の、衣干したり、天の香具山
藤原宮の右側に持統と注があり、御製歌の下に時猶浄見原に宮の在せし時也と分かち書きの注が付されている。
香具山の右側には二本の縦線が引いてあるが、これは固有名を示す符号であろう。
十七枚目の一行目の始まりには﹁巻第二相聞﹂とあり、磐之媛の恋歌に始まり一因。番歌の調書きと本文が綴られ、
更に二十六枚目の一行目の始まりには﹁挽歌﹂とあって有馬皇子の悲哀の歌に始まり一交番歌までの詞書きと本文
注では﹁吾﹂という名ことばのかはりが第二位に置かれているからである。この注は西周が万葉集の字訓を調べて
ばのいしずゑの段階において既に西周はてにをはのニやヲなどを位言くらいことばという名で呼んでいるが、この
が、ここで第二位という位を示す言葉が吾という名がはりことばの位として語られていることは見逃せない。こと
いる。﹁吾懸ひゆらむ﹂を橘千蔭は吾が恋がゆらめくないし吾ご恋ゆらむと読んでいることを注記したものである
制作年代を知る手掛かりは少ないが、一因。番歌に見る﹁吾﹂に﹁千蔭吾ヲ第二位ニ讃メリ﹂という注が付されて
が綴られている。
~与
法
寸一
戸
神
西周稿本目録解題
7
1
本居宣長流の国学の文法論を再点検することを企てた証しではあるまいか。
キタリケレパ
ナリヌ
因にことばのいしずゑに先立つと推計される次の断片を見ると名ことばが枠で固まれ、位取りが右側に記入され
ヲ
回
福
ている。
同凶
国E
丁ノ一四
リヌ﹂の省略形であるからである。
文典稿本第一稿
西周文書七五
大久保目録一一六
の繋ぎに振り分けられているわけである。なお﹁アケ﹂が二位とされているが、ここは﹁アケ(スリノキヌ)ニナ
なぎという三種類に分別されている。位は名ことばに付着していて、位の付着した名ことばをつなぐてにをはが名
この断片の段階ではてにをははつなぎことばとして捉えられていて、なのつなぎとはたらきのつなぎとことばのつ
ノ
区別の表とか代言の訳字つまりながわりことばを書き表す漢字の表とか定言第一種と定言第二種の事例とかが書き
り異なった訓を持つ言葉の例示とか十五結法と七接法の分類の試みとか働きことばに見られる自然と自動と他動の
中ほどには助質言と助用言の事例を並べた箇所や、清濁の仮名を別字にするという仮名遣いの提案とか両訓つま
漢呉の別という漢音と呉音の読み分けに始まり、字音の表がこれに続く。
横長の和帳面の表紙に文典稿本という題が書いてある。
廿
七
込まれている。終わり近くに日本語範の概要と他の学術との関連と順序を示す記述があって、この稿本が日本語範
の草稿であるらしいことが判明する。
字音の探求は調の麓路では取り上げなかった課題であり、その続編に当たると推定される。従って和帳面二七は
ことばのいしずゑや調の麓路の草稿である和帳面四一の後で使われたその続編に当たる帳面であると推定される。
西周は和帳面四一を明治六年八月ころまで用いていたと推定されるので、和帳面二七は明治六年の中ほどから使わ
れ始めた模様である。日本語範の執筆を開始した明治十二年近くまで使っていたものであろう。
草稿類一括の中に明六社の名のある原稿用紙に漢字音図が書き込まれたものが三枚含まれている。これは西周が
丙
ノ
明六社で活躍していた時分に字音の探求を行っていたことを示す証左である。
(廿八) 詠草
詩
丙
ノ
酉周文書二九
大久保目録五五
西周文書のなかには該当する稿本は見当たらない。
集
ジを本文第三十一闘に掲げておいた。
﹁-詩集﹂。西常用の横長本の小さな帳面(十四行)に奮いてある。表祇に﹁﹃詩集﹂と書いてあるのでかく呼んでおく。第 ぺ 1
廿
九
7
2
5
9
巻 4号
~t
法 学 雑
戸
神
西周稿本目録解題
73
これは後年商が若い頃の作品を整理して書き留めたもので、所ム吋設問作を朱持率で訂正している。本金集はこれを底本とした。はじ
めにこの﹁詩集﹂を掲げ、つぎに﹁幾肋草稿﹂を掲げ、検索の便宜のために下段に、通し番競をふしておいた。この自作整理は何時
頃の仕事であったか、九一番の末に明治甲南・(一七)五月附の版文を載せている。それによると三年ほど前に野村某から喝され、
悦附するをえずようやく暇をえて成就したというのである。
以上の集に、漏れたものを拾って﹁拾、遺﹂として最後に附した。このうち一五人から一六一までの四篇は第三の﹁詩集﹂から切り
とって他の断片とともに残されていたものである。このう七ニ五人は二九と三O の問に、一五九から一六一までは三Oと三 との
間にあったものと認められる。﹁詩集﹂の該部分が切りとられたもので、四つの断片は用紙一筆践ともに﹁詩集﹂と全く符合している。
本来﹁詩集﹂の該部分に挿入すべきであったかもしれないが、作者の削除とみて﹁拾遺﹂へまわした。このほか﹁丙ノ六詩集﹂と
題した洋風ノiト立加がある。自筆らしい。﹁難肋集﹂と内題を書き、ご一二、一三二、ごこミの三篇を書いてあとは白紙である。自
ら清書するつもりでそのままとなったのであらう。なお、このノ lトの、逆の方から﹁問題門第この清稿本が書いてある。
西の漢詩の功拙はここで問、つべくもないが、みられるごとくほとんど壮年時代の作であり、その詞蓄は若い頃の西の崎博記資料と
しての憤値がたかい。これによりほぼ嘉、永六年江戸へでる前の行動がわかるのである。なお鴎外の﹃商周侍﹄の﹁凡例﹂の参考文
(全集三、解説七七頁)
軟には﹁蓄髪記弘化四年三月作﹂が掲げてあるが、西文書にはかかる題記のものは見営らない。これは恐らくこの﹁詩集﹂一一九
番の﹁戊申二月云今一不知友﹂とあるものを指すのであらう。
なお蓮沼啓介一九人一﹁西周詩集の成立事情﹂神戸法学雑誌三O 巻 四 号 を 参 照 さ れ た い 。
7
4
5
9巻 4号
~,t
草稿
甲ノニ七
酉周文書ニ O 大久保目録ニO
によって種々の特色がくわえられているが、その一こをあげると普、通の手監とちがって中世の古文書を牧録している。また伊、達政
本願寺三十六人集切、藍紙背同業切、明月記切(定家自持率)等がある。以上は原﹁群鳥蹟﹂所牧で、全部琴山の極。これに商の増補
めのある﹁群鳥蹟﹂の題築が一板あるがこれは原手監の題築であろう。内容のうちで良質のものはも犬聖武、二十巻本歌合切、西
が自分の考案によって手監の原形を織し、一知ごとに板張仕立に改めたものである。﹁冷泉免綱卿﹂へ冷泉翁綱は享保七年、復)と極一
である。これは西
学
寄贈されたのであるからこ悠これで完成としたものらしい。現在は板張のまま保存されている。﹃西周侍﹄に﹁六月(二十五年)先
はこの﹁群鳥蹟﹂のほかに﹁砂之跡﹂という手監も購入していた。この目穏も右の帳面にある。この﹁群由局跡﹂は東京製士舎院に
断、女、連歌、一刷、倍、隠となっておりこれも西の考案である。また前記帳面には﹁明治十九年考定培補群鳥蹟次第﹂がある。西
普通の手監に牧めない、近世人物のものを拾っているのは西の製問的見識によるものとして注目される。内容の編別は帯、皇、達、哉、
宗書翰、同ラテン詩文へ但しこれはローマバチカン法王宮附属図書館所毅原本の鳥居時)、麻田剛立、間重新、伊能忠敬の書状などの
法
板に張りつけ、板敷の線計正編二O六枚、横縞一五八枚計三六四枚となっている。板の犬さは﹄ω臼田町町田× N仏目。
S
今その概容を説明すると、正端唄二編からなり、正編はこ七四知、繊細柵は一七五黙で、これは普通の手監とはちがい、特別製の桐の
西が埼-訂した﹁群白崎蹟﹂、明治二十五年六月、東京築士舎院に寄婚され、その後同院から図立博物館に寄託されて現在に至っている。
鳥蹟﹂司の原物には掲げていない。ここにはこの帳面から採った。この版文の後にも関係覚書があるがこの駿文以外はすべて除いた。
はじめに線日銀を掲げ、そのあとにこの駿文を書いている。ただし、﹁郡烏跡﹂の埼訂は完成するに至らなかったらしく、この駿文も﹁群
たもので、表祇に﹁一草稿 明治十七年﹂へ甲ノ二七)とある横長帳固に奮いたものである。この帳商は﹁群鳥蹟﹂の増補闘係の覚書で、
った。その蒐集の状況は本巻に掲げた明治十五年以降の日記に散見している。この駿文は﹁群鳥践﹂の由来と入手の経路を自記し
﹁群白崎蹟験﹂。﹁群鳥践﹂は商晩年の明治十七年頃に手にいれた手監で、西はこれを土蔓として熱心に古書室を集めてその埼補を行
十
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:
戸
車
住
神
西周稿本目録解題
7
5
西周文書二ニ
大久保目録二二
(全集三、解説五二│五三頁)
哲書欄附ミm
w二百七十枚並に群鳥蹟四函二O六枚を東京製士曾院に寄賭す﹂とある。なおこの﹁群鳥蹟﹂原本の調査には東京大挙
史料編纂所教授桃祐行氏の示品吹を、えた。
草稿(百学連環覚書) 甲ノ二九
その基礎となった﹁覚書﹂が何時頃から起稿されたかは吟味の要があろう。
次に右両本の著作年代について一言しておくと、氷見本は明治三年十一月以降の講義であるからしばらく問題にしないとして、
て補訂することができ、またその欠本も補ひうること前述のごとくである。
るが、反商門人の筆記であるだけに誤字も多く、記述に一誤謬、あるいは不正確なところもすくなくない。これらは﹁覚書﹂によっ
ものである。後者は編章の目次が立てられ、前者に比べると形式が整ひ、またいろいろと説明も加へで肉づけされている特長があ
とを対校総合するときほほその全貌がわかる。﹁覚書﹂は全体の詳細川な腹案であり、、永見本はそれに基いて西が反覆門人に説明-説した
﹁盲学連環﹂は西の手によって最後の決定本はできていない。その意味で未完成品ではあるが、今日残されている、氷見本と﹁覚書﹂
第二冊がその続編であることを気付かなかったものか。
﹃西周伝﹄附載の﹁西周所著書目﹂に﹁百学連環残欠一巻﹂とあるのは﹁覚書﹂のことで、﹁百学旋網﹂の文字ある第一冊のみを指し、
を承けて最終の造化史までを録し、両冊を合せて﹁百学連環﹂全部を一貫している。
毛筆を以て細書されている。第一冊は総論より政事学の確定図、法(、氷見本では本全集本一九七ページ)までを収め、第二冊はこれ
これは元来西自筆のノ lトで、原本には題名がない。﹁覚書﹂の題名は編者が仮につけたものである。和装小形の機本帳面二冊に
升
十
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6
5
9巻 4号
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雑
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法
戸
神
﹁覚書﹂二冊は横本の帳商に書かれている。これは商が手許に携帯していた備忘録ともいふべきもので、第一冊の始めには静岡落
時代の人名簿があり、その次にはこれもノ lト風に、神名や歴代天皇の名、古代地名等が奮いである。﹁百学連環﹂論述用の日本古
代史の断片らしい。その辺りから﹁盲学逮環﹂が書き出されており、中程には公用書類を写したり、また終りの部分に明治ミ年の
覆歴の一部がはさまって、冊末には明治ミ年九月以降の日記が奮いであるへ第三巻、解﹁説八0 ページ参照)。放に全体の模桜から見
て、﹁百学連環﹂はどうも書きさしの帳面の余白を利用して後から記入したものと思われる。そこでこの﹁覚書﹂は育英舎で講義を
することとなってからその用意のためにボツボツ書きだしたものらしい。このように解すれば、明治三年十一月の開講を遡ること
あまり、遠くない頃から筆を下し、講義の、進行につれ持率をすすめたものと恩われる。この持率の進行については、前節﹁育英舎と、氷見裕﹂
を参照されたい。なお﹁覚嘗﹂は、前記のように、種キの雑記が、混入している。﹁百学連環﹂ノ lトの部分を掲げたが、参考のため
(全集四、六一人│六一九頁)
﹁連環﹂関係のほかに前後の雑記も若干そのまま掲げておいた。なお、本金集には、活字化か困難なことと、図版その他西の手書き
自慶騒三年十二月
至明治元年正月
を正確に伝えるためにオフセット版で掲げた。第一冊は四六0 ページまでで、それ以下が第二冊である。
旦記断片
この断片は﹁百撃、連環質審﹂(甲ノ二九)い門の最後のところに二ページにわたって書きこんである。墨細書、自筆、一見して品開白
N
S ×∞-FB) に﹁百築、連環﹂の草案を血児書風に誉
に後で書いたものらしい。この﹁盲学連環覚書﹂ハ門は、西常用の横長帳面(﹄∞
いたもので、これは編者がお閏鞠﹁西周全集﹄第一巻に牧録したときにかく俄精したものである。二品川あり内容からい門と口とした。
このい門は表紙にただ﹁草稿﹂と題名が書いてある。この二冊のうち﹁百闘争、連担増﹂の覚書の部分だけは奮輯﹁商周全集﹂第一巻はオ
フセット版で複製した。問書の解説参照。
この断片は日記というより慶臆三年十二月から翌二年二年の徳川慶喜の上野議慢に亙る期間の身迭のメモで備忘のため後に書き
西周稿本目録解題
77
とめたものである。この帳面のはじめに京都静岡閥係の知人など、またこの断片の前後に和歌漢詩を書きちらしている。この断片
の執筆年代は判然、しないが、沼津時代か、東京崎遠直後頃、﹁百筆、連担増﹂、述作の頃と恩はれる。
(全集三、解説八O頁)
横長の和帳商の表紙の右肩に墨で叫川一と書いてある。又鉛仕草で﹄おク加里と左肩に書き込んである。別に縦に向けて草稿とあり甲
ノ二九という朱筆の番号が付されている。
表紙をめくると人名が書き込んであるが、例えば山本覚馬には京都切通、河原町東へ入ル、十津川屋敷という居所が添えてある。
他にも京都の地名が散見され、どうやら京都時代の知人の名簿らしいことが窺われる。
終わり近くに慶応三年十二月から翌四年二月に亙る幕末の日記のメモがあるが、これは大君であった徳川慶喜の上野謹慎に至る
幕末の返却の記録である。文中こか所に﹁今日﹂と見える。西周助はこの和帳面を持って城一誌に当たり、伏見の戦いに臨み、又犬
阪から江芦へと返却したらしく、返却の、途中に書き留めた日記であることが推察される。また大君とも見え、徳川慶喜がなお大君
であった二月中に書き終えたものと推算される。
この和帳面にはほかにも地名や器物名や神名や天皇名やらが書き込んであるが、天皇名は神武に始まり三六代の自宅極で終わって
いる。そのすぐ横には宮島渡しゃ金比羅参りの船賃などの経費が鉛筆で書き込まれている。こうして見ると津和野への帰郷の旅の
途中で書かれた鉛筆書きのメモの方が早い時点、で書き込まれていたに違いない。皇極一に至る歴代の天皇名はそうしたメモ書きより
も明らかに後のある時点に番かれたものであり、それ故に、余白の終わったころで急に打ち切られたことが見て取れる。
盲学連環の覚書は和帳面を縦に向けて横書きで書き綴つである。こうした縦向きの帳面の利用に先立って和帳面を横長に向けて
英字で様キの学問の名称が書き込まれ、ところどころに訳語が付されている箇所がある。例えば﹄同町g
Dq には脳学という訳語が
。
﹄
付されている。酉周は明治三年の間十月に大学南校規則を起草しているが、この起草に当たって色キな学問分野の相互の関連を模
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8
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巻 4号
a
t 5
雑
索した時の筆のすきぴの跡ではないかと推定される。
横書きで綴られた盲学逮環の覚書は明治二年に津和野に赴いた紀行の記録よりも後に書き込まれたものである。鉛筆で書かれた
日記の上に重なる様に百学連環の記事を書き込んだ箇所がある。猶多人又伊色列人に始まる盲学連環の記事は、十一月朔日沼津
出立に始まり、用紙の中程に十二月十八日津和野到着とある鉛撃による縦嘗きの日付や記事とは向きを変えて横書きでその上に審
き込んである。三月朔日津和野出立からの記事はそのまま残されていて、京都着と薄曇で乱脅かれた次の行から横書きで聖パウロも
使途の一人であると説明する百学連環の記事が再開されている。、っち﹁三月朔日﹂から﹁三日、内山より廿日市まで﹂は鉛筆書き
であり、﹁堀田氏ニ泊る﹂から築にかわっているのは、それに先立つ箇所に鉛筆書きの日付が隠されていることを示すための工夫に
違いない。全集図、ミ九九頁1思一一貫参照。因に旧全集本ではこの箇所の鉛築審きは印刷に写つてはいない。
古代の名前が番かれた記事の方が百学、連環の横書きの記事よりも先に警かれたものである。園都として吉備、浪速、河内、龍回、
紀伊、倭という縦書きの文字が横に並んでいる箇所では、盲学、連環の横書きの記事は園都の名前を、避ける様な具合にやや下側に下
事であることは明白である。明治三年の初夏であったと推定して置きたい。それも四月五月の頃である。別の和帳
古代の地名や人名を西周が書き込んだ時点はいつ頃であろうか。それが津和野帰郷の旅から静岡に戻った後の記
(全集四、三五九頁)
がった位置に書き込まれているからである。
法
表紙に見える草稿という題は百学連環の草稿のことである。これに対して舟一という墨の漢数字は横向きに和帳
ある。
の研究はやがて万葉集の字訓の調査に及ぴ、片や仮名文の成立を促し、片や字音の探求を推し進めて行った模様で
岡に戻ってまず日本古典の探求を開始し、人名や地名をそこに求め、日本語の源流を探った模様である。日本古典
面に神武紀の一節が引かれ分析の手が加えられている。この断片は明治三年の初夏のものと推算される。西周は静
戸
学
神
西周稿本目録解題
79
面を用いた記事の見出しであり、鉛筆書きの船旅の航程は津和野への旅のメモの見出しであるに違いない。
なお全集第四巻に掲載する百学連環覚書の第一冊の終わりが四六 O頁に移動してしまっているが、これは誤植によ
る誤りである。実際には神武紀元より幕末までの年数の計算(四六一頁)や津和野紀行の際に詠んだ和歌(四六二//四六四頁)
や刑法と自然法則の対比(四六=一頁)や四六五頁に載せる︿包回章陀までが第一冊つまり和帳面舟一の記事である。
誤植の原因であるが、新全集の第四巻の四否頁に該当する旧西周全集の冒六頁に[以上第一冊終]とあるため、うっ
雑録読書云々
かりそれをそのままの形で引き継いだために発生したものと推計される。
(品川ニ)
酉周文書一五
大久保田録一五
西周文書の中には該当する稿本は見当たらない。
生物錯気学
r・∞色'ωω4・
N5525Bwdそ・同﹀・2吉百四回国自昏。 mmv号円臣官-
詳﹂とある。故男爵西周君遺書目録の二七一に次の書が見える。
﹁千八百五十六年伯霊口学士チムメルマン著民間物理教授書第一冊中三百七頁ヨリ三百五十マデ此一篇ダケ抄
ナ
什
み司﹂
=三陣
己丑大和遊記(明治廿二年) 甲ノ二五
己丑大和遊記 明治二十二年
西周文書一九
大久保目録一九
横長小形帳図、西常用のものに書いてある。これは本金倍増に牧録しなかったので簡単に解題しておく。帳面の表紙には上掲の表
題がある。三枚目から書きはじめである。墨書、自持率、墨附は三六枚。内容は明、冶二二年八月十日夫人升子とともに南遊の途にの
ほり、静岡、名古屋、京都、奈良、大阪等を歴遊した紀行である。﹁西周侍﹄にもこの紀行によった略-記がある。京畿の古﹃吐等と
紀元二千五百四十九年(明治廿二年)
己丑大和遊記
千八百八十九年
西国文書一八
大久保目録一八
(全集三、解説七五頁)
年(明治廿二年)と記し、また左側には千八百八十九年と記してある。
という趨が縦向きに縦書きで書いてあり、その右に紀元二千五百四十五
横長の和帳面の表祇に横向きに礼川四と墨で書いである。己丑犬和遊記
訪うて史蹟、偽像、とくに正倉院の資物には多大の閥心をよせて、演物日銀を掲げている。同月二八日時京した八日聞の旅で、古
国
宋
甲ノ二四
美術へのふかい興味をみることができる。
Tl﹂
旧知人名、明治三年日記
これは元来西自筆のノ lトで、原本には題名がない。﹁覚書﹂の題名は編者が仮につけたものである。和装小形の横本帳面二怖に
品川五
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長
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9巻 4号
法 学 雑
戸
神
西周稿本目録解題
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1
毛筆を以て細書されている。第一冊は総論より政事学の確定国法へ、氷見本では本全集本一九七ページ)までを収め、第二冊はこれ
を承けて最終の造化史までを録し、両冊を合せて﹁百学連環﹂全部を一貫している。
﹃商周伝﹂附載の﹁西周所著書目﹂に﹁百学連環残欠一巻﹂とあるのは﹁覚書﹂のことで、﹁百学提網﹂の文字ある第一冊のみを指し、
第二冊がその続編であることを気付かなかったものか。
﹁盲学連環﹂は西の手によって最後の決定本はできていない。その意味で未完成品ではあるが、今日残されている、氷見本と﹁覚書﹂
とを対校総合するときはほぼその全貌がわかる。﹁覚書﹂は全体の詳細な腹案であり、、氷見本はそれに丞いて西が反覆門人に講説し
たものである。後者は編章の目次が立てられ、前者に比べると形式が整ひ、またいろいろと説明も加へて肉づけされている特長が
あるが、反面門人の筆記であるだけに誤字も多く、記述に誤謬、あるいは不正確なところもすくなくない。これらは﹁覚書﹂によっ
て補-訂することができ、またその欠本も補ひうること前述のごとくである。
次に右両本の著作年代について二百しておくと、、氷見本は明治三年十一月以降の講義であるからしばらく問題にしないとして、
その基礎となった﹁覚書﹂が何時頃から起稿されたかは吟味の要があろう。
﹁覚書﹂二冊は横本の帳面に警かれている。これは商が手許に携帯していた備忘録といふべきもので、第一冊の始めには静岡落時
代の人名簿があり、その次にはこれもノ lト風に、神名や歴代天皇の名、古代地名等が奮いである。﹁百学連環﹂講述用の日本古代
史の断片らしい。その辺りから﹁盲学連環﹂が書き出されており、中程には公用書類を写したり、また終わりの部分に明治三年の
覆歴の一部がはさまって、冊末には明治三年九月以降の旦記が書いてある(第三巻、解-説八0 ページ参照)。故に全体の模様から見
て、﹁盲学連環﹂はどうも書きさしの帳商の余白を利用して後から記入したものと恩われる。そこでこの﹁覚嘗﹂は育英舎で講義を
することになってからその用意のためにボツボッ書きだしたものらしい。このように解すれば、明治三年十一月の開講を遡ること
1トの部分を掲げたが、参考のため
あまり遠くない頃から筆を下し、講義の進行につれ筆をすすめたものと思われる。この筆の進行については、前節﹁育英舎と、氷見裕﹂
を参照されたい。なお﹁覚書﹂は、前記のように、種々の雑記が混入している。﹁盲学、連環﹂ノ
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59巻 4号
﹁、連環﹂関係のほかに前後の接記も若干そのまま掲げておいた。なお、本金集には、活字化が困難なことと、図版その他西の手書
きを正確に伝えるためにオフセット版で掲げた。第一冊は四六0 ページまでで、それ以下が第二冊である。
(全集一、さ八上三九頁)
自明治三年九月二十一日
日一記断片
歪同十一月十五日
﹁百撃、連環覚書﹂(甲ノ二四)匂のなかに所キ散在して書きこんである。このうちい門の﹁東京崎遠道中日程覚書﹂は表紙に書いて
あるものをとった。これは全くのメモである。つぎの口も右の帳面の柊りのほうに書きこんである。﹁明治三年﹂の見出を掲げて九
月廿一日の、沼津後途から書く、どうも﹁百挙連環﹂その他の除自に書きこんだようで、筆跡、墨色からみてその覚書風に書き留め
たものらしい。間十月二十三日で紙が蓋き前の方へかえて書きつづけている。西には日記やメモ、人名などを二三の帳面や同じ帳
横書き、墨書、自筆。沼津から東京に召されて兵部省に出仕する前後の日記で、簡単ではあるがこの前後の動向を窺うべうべき唯
函のあちこちに書きちらす妙な嫌があるが、この日記の書きこみは﹁質審﹂の執筆の時駄を窺はしめる。ここには月日順に掲げた。
一の資料である。なお本金集第二巻の敬育篇解読七五七 1七六0 ページに関係記事があるから参照されたい。
三年日記は末尾近くから書き出され、閏十月二十三日で紙が尽き、前の方に戻ってまた終わりに向かって書き続け
録したものであることを示すものと推定される。うち旧知人名は表紙から順に書き込まれているのに対して、明治
から品川を経て東京に至る日程と旅程が書き込まれている。これはこの和帳面がまず旧知人名と明治三年日記を記
一旧知人名、一明治三年日記、一草稿という題が記してある。来録了と鴎外の書き込みもある。ほかに小田原
横長の和帳面である。表紙には品川五という漢数字が墨で書いてあり、甲ノ二四と朱筆で記してあるわきに
(全集三、解説八 O │八一頁)
学
雑 誌
法
戸
神
西周稿本目録解題
8
3
られている。
ところが裏表紙にも天地を逆にして舟五という漢数字が墨で書いてある。更に洋人の名前が横文字で書き散らし
てあるozsE2aEとか ZSE巳SFとかいった名前である。
裏表紙の方から和帳面を縦向きに用いて横書きで時に天地を逆に訳を付す形で百学連環の覚書の続きの部分が書
き込まれているが、裏表紙はこの覚書の部分の表紙である模様である。西周はこの和帳面を表の方からと裏の方か
らと二方向に活用しているのである。これに合わせて表紙も表の表紙と裏の表紙と二重に書き分けているわけであ
る。明治三年日記は表の方から書いた記事であり、実際に表表紙から離れ裏表紙に近付く順序に日付が並んでいる。
紙数が足りなくなったために前に戻って再ぴ表から裏に向かって日付が進む方向に記事を書いたわけである。従つ
て明治三年日記は終わりの部分がまだ全て余白であった段階に末尾近くに書き込まれた記事であり、これに対して
百学連環の記事は裏表紙の方から天地を逆に表表紙に向かって日記の余白に書き綴られたものである。尤もその一
部は更に逆行する方向に書かれており、その執筆の順序は必ずしも明白ではないところも残っている。全集第四巻
の四八九頁から四九ニ頁に載せる﹁人身上ノ諸権ノ事﹂は調べ直しを書き綴った箇所である。これに対してさ一五頁から亙二八
頁に掲げる部分は和帳面品川一の余白に覚書の草稿を織っていた段階において和帳面品川五の余白に別に書き込まれた
と解される。
なお全集には乱丁が見られる。五二五頁の次に五二人頁が続き、五二七頁から五二六頁に進み、芸一四頁の天地を逆にした原稿
に繋がることになる。ユダヤ教などの教門についての説明を終えたところで、法学の分野に移り国際公法と国際私
法とロ l マ法の解説が続きサヴイニ l のところで終わっている。永見本にはロ l マ法の記述が欠けているが、ロー
E
7
1
0
=一人二右が芸一人頁、同左が五二七
マ法については余りに専門的であるため初学には向いていないと西周自身が判断して講義では省略したものと推察
される。 マイクロフィルムのコマ番号で言えば、 E72一人一左がさ一豆頁に対応し、
頁に対応し、 E 了。三人=一の右が五二六頁に対応する。同左が吾一四頁に対応する。西周は王室頁から五二人頁に掲げる部分は
和帳面掛川一と同一の向きにつまり表表紙から裏表紙に進む順序に従って原稿を書き込んでいるわけである。
ともあれ百学連環の法学の部分は明治三年日記の後半の部分を跨いで裏表紙から表に向かう順に記事が書き綴ら
れていて、明治三年日記よりも後に書き込まれたものであることは明白である。尤も次に引く記事は百学連環の一
部ではなくて、永見裕を始とする福井藩からの留学生に西周が津和野に出掛けて留守となる聞に読み始めるべきと
高葉集略解
日本記
改正三河後風土記
源平盛衰記
藩翰譜
(全集四、百学連環覚書、杢︿ O頁参照。)
して選んだ課題図書のリストであろうと推算される。いま漢籍と翻訳書を除いて和書の部分だけを引用しよう。
v
播磨風土記
度
職官志
出雲風土記 常陸風土記 殿、河風土記
太平記
職康診
制
議
s
一Fmw
、
士
平家物語
令義解
古語拾、遺
通
当
主
延
襟
5
主
花
物
語
喜
式
十訓抄
略
8
4
5
9巻 4号
法 学 雑
戸
神
西周稿本目録解題
8
5
諸論説
甲
ノ
生理学
きつづきかかげた。
西周文書十七
西周文書十六
大久保目録+七
大久保目録+六
での誇稿がある。これはこの﹁生性殺慈﹂第二壱に牧めてない。第二巻の草稿とする橡定のものであったと恩われるからこれを引
まだ草稿程度である。第十八枚のウラから引きつづいて原本第二十一章3
Hnzz唱脳出向宅SB冒と岳gq二一九頁の下から八行目ま
全集本八五│一一 O頁)にあたる部分の蛾﹃諜草稿である。しかしこの全集の校訂は、崎市警本のみによった。この﹁生理挙﹂は誇文も
ぢたもの、墨付はこ十五枚である。その第一枚から第十八枚目のオモテまがこの、晴香本の本文五一枚の四行目以下へ原本の第二十章、
﹁生性愛趨﹂はこの、岨伊香本のほかに二部の鶴譲草稿が残っている。一つは﹁生理撃﹂と題する帳面で、宇紙をこッ折にして検に綴
丹
十
しに立ってまずこの箇所の訳出を試みているのである。
更に﹁人類創生ノ地﹂の途中までの訳稿である。西周は身体と精神の関係を解きほどく鍵が言語にあるという見通
ことが書き留められている。内容は﹁人心ノ開化人間ノ文明﹂から﹁人ノ言語﹂﹁髄質ト心意トノ関係﹂にかけて、
幅52Fほどの横長の和帳面である。表紙に品川六と墨で書き、諸論説と題を書き、﹁云何維人﹂の原稿である
十
f
7
七
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(生性発誼断片) 西国文書一 O 一
l 一 大久保目録一三九
S
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回世田町号お白血q
宗教関係断片
酉周文書一 O 一ll二 大 久 保 目 録 一 四O
備であったらう。結局以上で原本のHvaHの第十六章から最後の第二十一章まで﹃議了してあるのである。
九
けるつもりであったらしいがそのま、放置されたものである。
表紙に墨で品川九と書いてある。題は無い。﹁理外の理﹂を宗教に特有の思考様式と捉えて、近代科学の進展によ
(全集て六一一西頁)
断片三十五。字紙を四つ折にし、横に綴じた小時子、大仏ソ尽n
B
-に書いてある。墨書、墨付二枚卒、まだ稿をつづ
m
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(全集一、六三上(一一一ニ頁)
町
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崎同固ときみ曲目OBnBEMEEZES町
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BE口町一雪岳町、おお司S
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から七行目の司唱。回目宮﹃白叫町宮切な回目宮町O
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O Mags- 以下から同章末の﹃852nZ saEmpZ53えのC
B同町ぽ芳三宮﹄。忠良sgq呈き三
5 3 8呂、町向。柏町、白星古田ミS
紙には題名なく、﹁品川八﹂と香競だけ書いてある)、墨書、墨付十四枚傘、前掲の第二十一章の詩文の噴稿で、原本では二一九頁下
N
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-に書かれ(表
つぎに附載としておさめたものはこれとは、べつの帳面でやはり字紙をこツ折りにしたもの、大サ民・∞n
s
-×H
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5
9巻 4号
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雑
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法
戸
申
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西周稿本目録解題
8
7
り宗教の領域が狭まりつつある趨勢を見通しながら、人関心理の領域における宗教の将来に探りを入れる力作であ
る。これは﹁理の字の説﹂と対をなす論文であり、明治二十年代に書かれたものと推定される。
冊子の終わり近くに感情と意志の分類を掲げ、更には漢字による道徳感情の分類表や人間心理に備わる能力の分
類表を乗せているところから見て、﹁心理説ノ一班﹂に連なる西周の思索の到達点を示す晩年の作品であることが
窺われる。人間心理には﹁覚悟﹂と﹁心性﹂の能力が備わっている。﹁覚悟﹂の能力は﹁格物窮理﹂﹁審察分排﹂﹁思
慮記憶﹂の類いの知覚と認識の能力である。西周の関心は﹁心性﹂の能力の分類に向かっている。認識の能力につ
いては近代哲学が既に詳しい分析と内省を掘り下げているので、西周の関心が感情と意志の分析に向かっていたこ
とは明白である。﹁心性﹂の能力には﹁願想﹂という欲求の能力がまず挙がっている。次に﹁性情﹂の能力という
道徳感情の発動が並んでいる。次は﹁道念﹂という善悪判断の能力である。最後に﹁志意﹂という立志や意欲の能
力である。﹁願想﹂には色欲、財欲、勢欲、勝欲、友欲、誉欲、識欲、行欲の八欲が並んでいる。﹁性情﹂には公道、
仁慈、誠信、愛園、愛家、愛己の六情が並べてある。﹁道念﹂には善悪の弁別と主宰の認識と報麿の憧れと後福の
願望が挙がっている。﹁道念﹂は宗教的な感受性と善悪判断の能力なのである。﹁志意﹂については事例は挙がって
、ahlh、A O
U
J
匂し
随
筆
西周文書一 O 一│三
大久保目録一五二
意志の実例は周知の事実であるし枚挙に暇がないからであろう。
四
字紙牟哉、雁皮紙、一冊、墨附三十六枚と四行、あとに徐白がかなりある。だから未完のものと恩はれる。末尾に﹁百筆、連環﹂
O
の走り書一枚品開。本稿は曾て麻生義嶋崎氏によって紹介されているが、全文の公開は本金倍増が最初である。表紙は白紙、挿入闘のよ
うに表題があるが、これは明かに後の記入で﹁四O﹂という整理香競と肉筆と認められる。郎ちはっきりした表題はないので依り
に原本にある表記に従った。本文の文字は細字で美麗な書風である。墨附は三六枚と四行、あとに白紙か十九枚、最一枚徐には﹁百
皐連環﹂その他の草稿断片へ第一巻哲撃篇十一﹁哲築関係断片﹂)に牧録したのと同類のものが書いである。これはこの﹁随筆﹂の
執筆年代推定の材料となるであらう。校訂は、蔦葉俵名を現行ひら俄名に改め、句讃駐をふし、抹殺部分も左側に傍線を附して生
かし、書きこみは本文中に組みいれた。各節は改行がないので若干新たに改行したところがある。内容は﹁末庚の蕎﹂﹁削明白 Hの培養﹂
﹁脚二ツあるもの﹂﹁石の洞﹂﹁十寓の死罪﹂﹁日本の﹄神風﹂﹁アルタイ山の織﹂﹁宇内のミ傑﹂の入簡にわかれているが、会怯輔が一貫
が人の世の道の象徴であるという。そこで荻生但徐、本属宣長流の古筆思想的考え方は根本
第一節﹁末庚の蕎﹂は、扇の末庚の形ちの﹁いや庚がりいや集え﹂から一読きおこし、これ
した論説となっている。流麗な雅文で寄かれ函の和文の凡ならざるを示すとともに、内容も西の思想の二聞をみるべき力作である。
来
氏
表
﹁兵賦弘珊﹂へ本批官軍事篇所牧)等によってもわかる。しかし、西がカントの﹁、永久平和の震に﹂
本表﹂の﹁天下一家四、海こ閤﹂にみえ、さらに﹁人生三賀読﹂(第一巻哲拳矯五二五ページ)、
つ問題として、永久平和の思想からつよい感銘を、つけていたことは、はやく﹁上寓図公法隷
の語るところであるが(森岡崎外﹃商周侍﹄序)、ヵントの哲撃をどれほど理解したのかはべ
想を援用している。西がオランダ留築中にカント汲の哲製を喜んだとは、同行の友津田民道
らない。︾﹂ の
J 際商は論擦として、カントの説く﹁悠久治幽眠、無彊平和﹂へ、永久平和弘咽)の恩
的に誤っていると批判し、人の世は進化の相において把えるべきであるという進化思想の強
四
調となっている。これがこの﹁随筆﹂金篇の趣旨であるが、このような、進化思想は、人間-吐
随
O
学
舎は無肢に進歩するものであるという西、洋の啓蒙思想の進歩の概念に共鳴した結果にほかな
筆
8
8
山
5
9巻 4号
至士
法
雑
戸
神
西周稿本目録解題
8
9
﹄
N52釘g 42agH可也町へ高坂正額、カント﹁、永久平和の震に﹄岩、波文庫本)を、その内容からよく理解して採用したものとは思は
れない。恐らくフイツセリングの図際公法の講義の際でも、図際、法上の問題としてその一端を聞き、﹁、永久卒和﹂という理想像に感
銘した程度であったらう。これは、この﹁随筆﹂のなかで人の世が無隔週平和に到、遣すべきことは人類に﹁開化に漸むの性﹂が備つ
ているからという理由で説いているところからでも推測されることである。しかしカントがこの警で説くような世界公民法による
永久平和の保誌というような法撃的構想は片鱗だに及んでいない。しかもこの﹁随筆﹂における西の思想の基調は進化の思想であ
るから、この際のカントの援用はむしろ過切でないともいえるのである。この﹁随筆﹂の内容の大字は東西民族史-論というべく﹁畢
党天翁の大慈眼より四海帯雨闘の人民を同一視したらむには、戦争にもあれ、講和にもあれ、互に機飢混和して最末に彼の四、海一和、
無彊一治幽胞の世界を興、さむとせる大仁なり﹂会二 0 ページ)というように、不可知的な天語、の概念の支配で歴史を-説明しようとして
いる。こうなるとますますカントと、透、ざかるものである。世界民放興亡史を説き、東方蒙古民族は健カヘ武力)にまさり、南方ヨ l ロツ
パ民族の心力(文明)にすぐれており、結局心力の勝利に持して世界が無彊卒和の域にすすむ、これか天翁の議理であるというの
がその金鰹の犬趣旨である。であるから古筆思想がいたずらに世を、実季なりとする蒙を否定するので、そこに商の瞥蒙家的面目を
はっきりみることができ(第一巻哲撃篇所牧﹁復某氏盛芝参照)。かかる意味からこのこ騎は唇蒙思想、進化思想に立脚した西の歴
史的哲祭論であるといえるのである。この歴史哲撃の基本として天翁、天意、、というような概念を掲げている。その賛髄をどう考
えていたかは何等はっきり説明していないが、宇宙を支配する絶針者、或は統合者の意味であろう。これは恐らく西がオランダ留
挙中に撃んだ自然、法の思想を基礎としたもので、大自然哉は宇宙の鰹系に内在する統一考として-設定した概念であろうと解される。
だからこれは儒教の夫、或はキリスト教のゴッドのような宗救的なものでない、そこに西の思想の特色があったのである。この﹁随
筆﹂はこのような歴史哲撃を書こうとしたものであるが、末尾に﹁そは後に開化の源を論する所に﹂へ二三二ページ)とあるのをみ
ると、何かこの問題を健系的に﹄説こうとした、遺作の後端であるように恩はれる。しかしこの計警はこの﹁随筆﹂で柊り、それが後
に形をかえて﹁図民気風弘明﹂、﹁兵賦論﹂となった。
9
0
5
9巻 4号
さて、この﹁随筆﹂の起稿年代であるが、その明記なく、また推定すべき確としたきめ手もない。麻生義輝氏は前記﹃著作集﹂
巻末の解説で﹁慶爆の末年か或は明治二年頃迄の持率﹂(四O三ページ)と推定しているが、これは上限をオランダ留隼以降とし、下
限は商の思想がこの稿本の基調となる、進化思想から徐キに賛議主義的傾向をつよめた明、治三、四年頃までとしたのである。しかし、
慶感末にするのは無理で、それは文中に﹁余も先キの幕府の時開成所へ仕へまつりしかは云ムこへ二二三ページ)とあるによっても
安営ではなし、また前記の麻生氏の論説岨、法にも疑問がある。しかしそれには鯖れないこととして、起稿年代の考詮は、やはりこの﹁随
筆﹂全髄の論調をみることが必要がある。論調を味識するとこれはどうしても幕府の崩壊時のものでなく、その混乱した世相が明
治新政府の成立によって漸く安定に向い、前途に何等か光明を見出した時期の新時代的空気の所産でなければならない。また西の
境遇からいっても慶臆末期はまだこのような希望的な大作の執筆はありえないから、明治初年のものと断定できる。またこの明子
らに明治維新の成就によって日本の新時代を縫験として感得した。こうした新時代到来の映像が商をしてこの随筆の筆をとらしめ
ある。西はオランダ留曲学中に西欧十九世紀の繁栄をまのあたりみてそこに﹁四、海一和、無彊平和﹂の栄光の世界相に感銘した。さ
るい希望が然観的論調で述べられ、麿筆者の唐癖とともに図撃者の皐図焼をしりぞけて世界史的な細川野の必要を-説いていることで
この﹁随筆﹂を讃んでとくに感じられることは、会髄の調子がきはめてオプテイミスチックなことで、日本の将来についても明
心ム
の様式も明治初年のものと同種であることも傍誌の一つとならうへ第一巻哲撃篇所牧﹁生性愛議﹂二九ページの圃版及ぴ同書解
ナ
一説六三二ページ挿入園版)。また文憶や書風からいうと明治三年稿の﹁復某氏書﹂(第一巻哲撃篇所牧)と似ている。
法
紹介した。これは義経が蝦夷から縫鞄に渡って元朝の始祖となったということだけのことである。シーボルトは文政十二年一旦
吉思、汗読は英雄不死侍-設の一つであるが、シーボルトはこの設を長崎蘭、通詞吉雄忠次郎から開いて崎図後、大著それ司、ミのなかで
﹁随筆﹂のなかで、西が開成所時代に、ン lボルトが源義経郎元の太祖へ成吉恩﹂汗)設を柏崎れまわった話を奮いている。この義経成
にもキメ手はないが、沼津時代か東京崎早キかということになろう。
たとすれば、その起稿の時粘はどうしても幕末でなく、明治初年のまだ新政府成立の印象の鮮明な頃としなければならない。これ
戸
雑 誌
神
西周稿本目録解題
9
1
日本を、追放され、安政六三八五九)年七月に再渡して文久元年には江戸まできた。﹁随筆﹂の記事にあるのはこの頃のことであ
るがさすがに西はこれを附舎の読と批判したのである。この附舎の﹃読の由来経過について岩崎克己氏が-詳しい調査の結果と、関
係文献をまとめ﹃義経入夷渡滴読書誌﹂へ昭和一八年、非宮崎口町)を私刊した。このうち、序一読六O│六一ページに西に閲する記、逃
がある。
﹁調所の敬授手俸に大由時線左衛門高任という蘭筆者がゐた。同僚の手塚律裁好盛とオランダ尺度エル止とフ lトg
B のことを弘明
じたが、分明でないのでシ lボルトに質問した。シーボルト答へて、フ lトは日本の尺と殆ど異らない。その故は元の太-岨以下
二世三世がヨーロッパに侵入した時、日本の尺度を彼に偉へたからである。なぜ蒙古人が日本の尺度を用ひたかつて? 元の太
組が日本人だったからに外ならない。彼の日本名は000と云ふ。閲踏を避けて蝦夷地に、逃れたが土人を徒服したため盆、、兄の
怒を買ひ討伐の風-評に恐をなして満州に渡った。ついで蒙古に入て一地を攻掠し、次第に、近隣の諸図を併呑してついに図を元と
稀した。自分が先年支那に渡航した折、一冗の太粗の建立にかかる建靖世帯寺記と題する神文を示されたことがある。蒙古文で讃め
ないので支那人に就いて獲た大語、が即ち上に、述べたところである。なほ悔の側面には鳥居が刻んであったと。(中略)大島は-端唄め
ないながらも神文の鶏しをとっておいた。犬由時の同僚西周もシiボルトから元の太-岨はわが義経、妖借は緋慶と聴かされたけれ
ども信を捨かなかった。蒙古宇の碕文も示されたが漢字が混ってゐて、それにラマの数名があったやうに-記憶する、と﹃末演の寄﹄
は-言っている﹂(六O│六一ページ)
さらに岩崎氏は問書の書誌篤(二三 │二三二ページ)に。﹁末演の詩﹂という題で、円随筆﹂から岡係-一記事を抄出している。と
ころでこの抄出には﹁酉周の研究者故麻生義輝氏の一不敬による﹂とあるから麻生氏が抄出して提供したものであるが、﹁末慶の寄﹂
の表題の下には﹁西周著明治二年稿未刊﹂と註記がある。これも麻生氏によると思はれるが、してみると氏はさきの﹁著作集﹄
の設を若干改めたものらしい。﹁先キの幕府の時﹂の文句からの修正設と思はれるが、この方が正鵠に、近いことは勿論である。
(全集三、解説三四│三七頁)
9
2
5
9巻 4号
~t
﹁兵賦論﹂は西の論文中最も分量が多いのみならず構想雄大で彼の力作の一つに数えなければならない。﹁兵賦﹂とは本文のはじ
めに﹁兵賦トハ軍ヲ立ツルノ本質こシテ、之ヲ図民ニ賦課スルヲ云フ﹂と説明している通り徴兵のことである。この論文はもと、
明治十一年九月十五日以降、前、述の燕背骨舎において陸軍将校を前に断機ミヶ年にわたって試みた講演で、これを﹃内外兵事新聞﹄
第百六十六抽明から第二百八十九挟までへ明治十一年十月二十日刊から同十四年二月二十七日刊まさ断織掲載したものである。こ
のうち其 から其十三までは萱生奉三編﹁儒-評西先生論集﹄に牧録されている。本金集は其二十こまで全部を牧録したが、ただこ
の明治新聞雑誌文庫本﹃内外兵事新聞民もこの﹁兵賦弘明﹂掲載の部分は紋融制であり、商家にも蔵本ない。ただ幸い第二間金集編纂
用の櫓官時本があるので本会倍増はこれを底本とした。この路湾本は其二十こで柊っているが、これで完結したのかどうか。多分そう
であろうが也市戦誌の賛物をみないので判明しないし、また各同議、績の月日、掲載競数その他もよくわからない。またこの時期の商
の日記もない。なお校訂は右の倍率官時本により養子用字の統プを行った。
学
品千は兵賦の必要の理由となる戦争論でこの戦争の針一極として世界卒和の問題を論じ、この世界平和の可能性についてカントの、永久
世界の民放興亡史論においている。これは酋のご慢の歴史哲製思想で、この粘からもこの﹁兵賦論﹂は注目すべき作品である。前
象論でなくこの論旨が展開された明治初年の日本の図際情勢に卸した賛際的図策論である。しかもこのこの図策論の論擦を雄大な
白く、また西の思想研究上重要なのはこの前置のほうである。この前半はご慢の商濁自のナショナリズム論というべく、それも抽
本論文の内容は第十七岡までの前半が前置というべく、第十人間以降が兵賦、即ち徴兵論の本論となっている。しかし識んで箇
法
本部この頃から図防問題、とくに隣邦清図の兵備の調査を開始し、やがて﹁隣邦兵備略﹄の編纂が行はれて商はこれに上衰を喬い
かれるのである。﹁兵賦論﹂は軍備絶封、必要論であるからとはいえ、やはり明治十年初頭の封外的危機意識の反映がみられる。参謀
列図釣峠の争闘場裡とする。これは﹁随筆﹂における幾観論とは鈎照的で同じカントを援用しながら論調のいちぢるしい饗化に驚
ている。この﹁兵賦弘明﹂ではカント、流の、永久卒和弘帽を一寓年後の理想世界として、遠い彼岸へと押しやって現貨の世界は弱肉強食の
平和論(四海共和、無彊治鵠)を援用している。このカントの卒和論はすでに明治初年の﹁随筆﹂(本巻﹁詩文集﹂所牧)に引かれ
戸
雑
申
ネ
西周稿本目録解題
9
3
ているへ以下掲載)がはこれはこの﹁兵賦弘同﹂の主題をより現資的な﹁東方論﹂の立場から-論じたもので、雨者はもとより密接な
関連がある。魯蒙家西は西欧文明闘の智力の勝利を確信している。そこで現貸世界の﹄認識から公口俊博むべからず、修好位吋むべから
ずと軍備のゆるがせにすべからざることを強調するのである。この軍備必要﹄論は前述のごとく明治十年代以降の日本の封外情勢に
針臨唱すべき図策論であるが、思想史にみるとこれは図権論の系列にぞくする。
この歴史哲拳で西は﹁天翁﹂、或は﹁天翁の智略﹂ということをいっているが、この天翁の詩は-諸文倍増に牧めた﹁随筆﹂にも用い
られているへ﹁随筆﹂解説参略。第十八同以下の後宇は前述のごとく徴兵論でこれは西の西洋率制に闘する﹄該博な知︼識を駒栄せしめる
ものである。
(全集三、解説九│一 O頁)
﹁ゼオロジ l﹂﹁メテオロジ 1﹂ に ま だ 訳 が 付 い て い な い と こ ろ か ら 見 て 、 明 治 三 年 二 月 に 提 出 さ れ た 文 武 学 校 規
則 に ﹁ 晴 雨 学 ﹂ と あ り ﹁ メ テ オ ロ ジl﹂ と い う 傍 訓 が 振 つ で あ る の や ﹁ 地 質 学 ﹂ と あ り ﹁ ゼ オ ロ ジl﹂ と い う 傍 訓
が振つであるのよりも前の作品であると推算される。おそらくは明治二年の十月に役儀御免と百日の休暇の願いを
出した時分の作品であろう。十月十八日にはご褒美を貰っているし、西周には心楽しい日々であったことは確実で
ある。随筆の全体に漉る楽観的な気分はこうした﹁学校規則﹂の制定という大仕事を成し遂げた達成感に裏打ちさ
れている模様である。体力による覇者の時代から心力による覇者への時代への進展という歴史発展の原動力の移動
への着眼は新鮮である。文武における文の優位を西周は自信を込めて語っているのである。間もなく休暇も認めら
れ津和野への帰郷の旅に立ったため、文明開化の源を論ずるはずの随筆の続きはそのままに放置されてしまった模
様である。津和野に滞在中に日本文典執筆という新たな企てを抱くに至ったからであろう。
ともあれ扇に醤えて末広の寿を言祝ぐ出だしの論調には尊嬢派の政権に対する不安感も一掃され、新しい朝廷の
政権が徳川家の政治に増して力強く発展し安定していることへの喜びが糠っている。﹁鈴舎の大人﹂本居宣長が古
道になずんだことや﹁其徒﹂平田篤胤などが更に﹁あらゆる外園のミトロジーをも附曾して、天下に路せむと企て
ける﹂のも古代を崇拝するという誤謬の見解の実例にほかならない。西周は進歩の思想に立って古学の批判を敢行
しているのである。これは﹁復某氏書﹂に見える国学批判に先立つものである。
この随筆では﹁天津神﹂といい﹁上帝﹂といい﹁天翁﹂とも言っているが、﹁復某氏書﹂では﹁天津神といひ、
上帝といひ、ゴッドといひ、ヂウといひ、神といふの類ひ﹂はどれも﹁造物主﹂というのと同じことであると語つ
ている。﹁天翁﹂とは﹁造物主﹂のことなのである。
横長の和帳面の表紙に四一と漢数字の番号が墨で記されていて、題はない。はじめの部分はことばのいしずゑの
大久保目録一四八
うち巻の二に当たる言葉の学びの箇所の草稿であるが、源氏物語の始まりの箇所を記したところより後の部分はす
(国語関係断片) 酉周文書一 O 一 四
べて余白であり、時々に考えついたり纏まったりした思索の内容を順不同に書き散らしたり書き並べたりした全く
された明治六年八月前後まで使っていたと推定される。
ら静岡に戻った頃に使いだし、裏表紙に皇国文典階梯という書名が書き写してあるところから見て、この書の刊行
なかには日本語範の草稿が追記された箇所も認められる。こうした追記は別として、西周はこの稿本を津和野か
の草稿の模様である。
法
四
9
4
5
9
巻 4号
p
,
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"
"~
雑
戸
学
神
西周稿本目録解題
9
5
なお服部隆二
大久保目録一四九
/O四﹁西周の国語研究西周文書﹃稿本(四)﹂をめぐって│﹂上智大学国文科紀要二0 ・
二
一
0 0三
を参照されたい。
(国語関係断片) 酉周文書一 O 一│七
五﹁西周と日本語の表記法
た表四と表五を参照されたい。
CC
1
日本語文典の記述を中心に│﹂上智大学国文学科紀要二二に付され
あったに違いない。そうした下書きをいわば清書する形でことばのいしずゑの執筆が進められたことは確実であ
較的に短時間の聞に執筆が可能であったのは、和帳面四一と小冊子四二という草稿が既に出来上がっていたからで
つ明治三年夏の作品であろうと推計される。ことばのいしずゑは短時間で執筆されたと推察されるが、こうした比
ことばのいしずゑのうち巻の一に当たる声の学びの草稿である。明治三年冬に執筆されたことばのいしずゑに先立
縦九行の罫線紙を綴じた和綴じ本である。表紙に墨で漢数字の四二と記されている。題はない。始まりの部分は
四
なお服部隆二
る
9
6
ロ.~,
5
9巻 4号
苦+
トー
大久保目録二一
トー
酉周文書二一
一草稿
(朱)
甲ノ二八
﹄
ト
(哲学関係断片) 甲ノ二八
断片一ーl二九 哲拳闘係のもので、最も重要なのは、次頁にかかげた表紙のある
和装横綴の帳面一規である。表紙は褐色、全部毛筆の細書、英文もあるがこれも同様墨
nED﹄口同明同町
﹄
︾
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臼
一
可
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大サ 1
5
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書であり、断片一二九はこのうちからとった。哲撃以外では法築関係の断片があり、
冊末には履歴などが書いてあるがこれらはそれぞれ闘係の篇におさめた。
まづ表紙裏には書名などを書きとめた走り書きのあとに、第一の断片が細字で書いて
ある。これは断片第十五とともに、この帳面の昔拳断片の糠網目であり、また営時の西
哲壌の髄系のプランをなすものである。その意味で極めて重要とする。つぎに第一枚に
これはもちろん司君g の該害額諜へ心理曲さのためのものであるからここには除いたが、
は﹁ミ町田区昌宏師宅守ノ譲語﹂と書き、官製用誌の隷語表その他の健警が亙六枚ある。
参考のためそのうち主要な﹄諜﹄誌を整理してつぎの一覧表を作成してみた。
骨骨滴
、色町向﹄
HM
﹄MM
議骨骨
同
︾
﹄
同
u、包町
陣
立
今.~
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四
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歴史
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積物拳
植物事
Botany
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進化史
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コ、ロ
記佐
Zoology
動物挙
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ワケ, 言行
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所行,
欲
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知覚
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理ヲ知ル性,理性
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観念,理想
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呂町四﹄﹄町町宮陪﹄
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口出色。﹃柏町白口弘﹄口
山市
6田4
h刊
同
糊 時
警は明治八年まで-記入してあるが、これはつぎつぎの誉きくわえで、書風も途中で襲っているから断片類起稿の年代考誌にはあま
る。また﹁百祭、連環﹂が明治三年暮の開講であることも併せ考うべきことである。
二十五以下は二十一以前からかなり後のものらしい。奮いた場所も後のほうであり、さらに-吐舎の文字の使用もそれを裏書してい
四年頃、東京に時住嘗時ではなからうかと恩われる。二十四と二十五の問はかなり白紙があるから、執筆の時に前後があるであらう。
と一連のものであるから、この帳面の大部分は﹁生性後議﹂が脱稿した明、冶六年以前であることは疑なく、上限はまづ明、冶三年、
軒同築関係の断片は﹁骨組魂一元論﹂及び﹁二官論﹂、﹁大脳作用論﹂とそれに関連するものが多く、内容的に﹁霊魂一元弘担、﹁生性愛慈﹂
り役に立たない。
うに断片や覚書の類をあちこちに書き、込んだものであるから各断片類の執筆の時を推定することはかなりむづかしい。粉末の履歴
紙となって、最後部分には自己の履歴を書いてある。白紙をまぜると全部で九十八枚となるから白紙の部分がかなり多い。このよ
二十数枚白紙がつづいて、糊末の方にいたって議一語表、﹁原、法旭町綱﹂の断片等が嘗かれ、そのつぎに二十五│二十九があり、また白
一から二十こまでは墨付にして約二十八枚、そのつぎに法律関係のものが一枚宇あって二十三、二十四となっている。それから
ES宅﹄町民同町
話
番
初
制
来 返
事
副
首
襲
ミ 蔵
原文に句韻粘のあるものはこれをとり、無いものには附した。六、八と十七(霊魂弘明)、は駄があるが、十八(二官論)、二十一
大
9
8
5
9巻 4号
言
志
雑
止ら
法
寸ー
戸
神
西周稿本目録解題
9
9
脳作用論)の二つは無知で、これは新に附した。とくに十七、十八、二十一は資料として重要なので抹殺の部分も左側に傍線を附し
(全集一、三九│六三一頁)
てのこし、推敵の、過程を及ぶかぎり示した。二十四、二十五、二十七は犬小の文字をまじへた岡解であるので活字化がもづかしいが、
大久保目録二三
一四・一五合併号を参照されたい。
これも可及的に原本の形を再現した。このほか類似のものが若干あるが抹殺してあるので割愛した。
人﹁和帳面四十三再考﹂北東アジア研究
CC
日記(明治+七年同十八年同十九年) 甲ノ三O 西周文書二三
自六月二十七日
主十二月三十一日
自一月一日
至十二月三十一日
白一月一日
至十二月三十一日
自 月一日
至十二月三十一日
自一月一日
至十二月三十一日
か途中から書きだしてある。はじめには東京製士舎院閥係の雑記や元老院の議案題目などが書いてあるがこれは僅かであとは鈴白
として書いたものらしい。本文の用紙は十五行罫紙、雁皮紙、商常用の市販の帳面である。大部分は日記であるが、どういうわけ
表紙は柿色。この表紙には本文のはじめに印刻しておいた文字が書いてある。墨書、自筆らしいが、後になって整理のための控え
右の明治十五年から同十九年十一月までが一倒となっているので一括して解一読する。これは検本帳函へ﹄∞自国×﹄ N田町町田)に番かれ、
明治十九年日記
明治十八年日記
明治十七年日記
明治十六年日記
明治十五年日記
四
なお蓮沼啓介二
四
-L
五
、
ノ
J
¥ 七
九
1
0
0
5
9巻 4号
のままとなって、日記は第三十六枚目から書きだしてある。日記の墨附部分は一一五枚、細字で番かれ、字が小きいために往キ判
讃に苦しむところがある。措再審の持率で奮いたような西特有丹念の書きぶりである。この帳面は明治十九年十一月三十日で紙が議き
たので、十二月分だけは﹁源氏物語桐坪ノ巻・明治十九年十二月中日-一記・理ノ字ノ説﹂と表題のあるべつの帳面へ本金集第一巻解
説六七六│六七七ページ申告照)に書いてある。﹃商周傍﹄の凡例の日記丙巻とあるのはこの帳面の十二月の分の日記を指している。
この明治十五年以降の日記は記事は簡単であるが日キ丹念に番かれ西の身逸史料として貴重であるのみならず、元老院、東京曲学
士帝国院関係その他営時の築界の側面史料にもなるが、陸軍関係では肝心の﹁軍人勅議﹂の公布後であり、陸軍とは閥係が漸く稀薄
となって、やがて﹃切の公職から去る時期となるのであるから、十五年以前の、活動期のような史料的優値はない。この日記にはか
なり多種多様な人物が登場するからこれを利用するにはこの登場人物と西との閥係や身元を知る必要があるので、判明するかぎり
註記しておいた。登場人物を類別すると左のごとくなる。
奮津和野幕開係││亀井家、奮落士一、津和野人。
雑
信)
コ
(
(
一
)
家族、親戚関係。
同 門下生その他出入の者。
撃界その他交友関係ーーその他明六-吐、育英牛舎等。
公職関係││陸軍省、参謀本部、宮内省、元老院、東京築士舎院、東京師範拳校等。
学
誌
法
石見園津和野落、王、外機、大庭向、四高三千石
亀井家系圃
和野関係の註﹄記にほ同氏の教示によるところが多い。
買するために系園を掲げておく。高崎亀井家と別掲商家親戚聞係系園は沖本常士口氏から涜供を、つけたもので、このほか本日記の、律
以上のようになる。参考文献としてあぐべきはまず森鴎外の﹃商周侍﹄であろう。つぎに融合考のために亀井家と商家の周迭を一
同
戸
申
ネ
西周稿本目録解題
1
0
1
奮城壮一
石見図津和野
東京邸へ明治十年代)小石川直丸山町八番地
本所直向島須崎町
侍従、隠岐守、中将
Illit--
婚従二位
滋監
久留米落、玉、有
馬頼徳二男、幼
名格助、勤務と
続す。
侍従
夜明
亀磨、懐哲長三男
文久元年生、明治
九年十一月承、明
治二九年七月波
夫人養子、伊東枯
相六女
怒 令 中 1111----
明治十七年四月生
夫人久、上杉茂憲五女
生
天保六年、津和
野溶士亀井滋方
の養子となり、
天保十年封を嗣ぐ。
明治十七年七月
授子爵。
明治十八年三月
﹄がき二十三日病浪。
分家高崎亀井家
九
T
一Illi--Il--
E
時
日
欝よ
五
五
り
年
住吉沼賞陳三男
嘉永四年六月廿八日生
経誼
綾子
山口燃吉敷郡樋田村
安政五年一月六日生
士族益田孫槌妹
治重一川
六
へ家
~武
公職関係その他の人名の註記は西の交友名簿の﹁以呂波別人名鎌﹂﹁交際人名簿﹂﹁津和野人令官﹂ミ慨が多大の参考となった。こ
入賞
明一細
墓
地
矩
1
0
2
5
9巻 4号
誌
の三測については後に併設する。このほか陸軍省以下の公職闘係人名は﹁{呂田只鍬﹄の各年度を参照した。東京築士一舎院関係は日本
築士院の﹃日本撃士院八十年史﹄(昭和三十七年)同史料編ハ門、また元老院関係は﹁元老院舎議日誌﹄の賞該部分を融合照すべきであ
る。明六祉については本巻解説三十八 j三十九ページ参照。
以上は本巻日記の部に牧録したものである。このほか晩年数年の自勧業の日記が残っているので、これは除外したが、髄裁と内容
丁ノ
丁ノ 士己﹂が掲げられている。(蓮沼
(全集三、解説八一ーー八二頁)
の大要だけを解説しておく。すべて墨書、明治二十七年まで七倒ある。見出しは各瑚表紙の表題。
日本語範
西周文書のなかにはこの稿本は見当たらない。
(四五
西周に関する書類の控えには、﹁日本語範 丁 ノ 二 ﹂ と 並 ん で ﹁ 同 稿 本
定される。日本語範稿本の編目は次の通りである。
こうして見れば、日本語範は第二編までの部分の清書本であって、その清書は明治十二年中に行われたものと推
の箇所には﹁五月一日起草﹂とあって、明治十二年中に順調に日本語範の稿本の執筆が進んで行く有り様が窺える。
下に﹁明治十二年一月三十一日起草﹂と起草の時点が書き留められている。﹁日本語範稿本第三編言学﹂ の始まり
語範稿本の表紙には﹁語範稿本第一巻﹂﹁第一編発端﹂﹁第二編音皐﹂と記されているが、内題である日本語範の
二C C
八、九頁)日本語範稿本丁ノ(二)は草稿本であり、日本語範丁ノ二はそれを清書した稿本と推定される。日本
学
雑
1
去
戸
申
ネ
西周稿本目録解題
1
0
3
第二編
編
音学
込山-同
士
m
n
仮名の事
第 二 章 仮名遣ひの事
呼法の事
第 三 章 字音の事
第四章
八﹁西周稿本目録考証﹂神戸法学雑誌王 l四では (四五)を﹁活語軌典、官府履歴﹂と推測したが、日
CC
章
発
端
源氏物語桐坪巻
に書込みと訂正がある。
甲ノ一九
西周文書一三
大久保目録一三
u
w
n
s
- 表紙に甲、一九とあり、﹁源氏物語桐坪ノ巻、明治十九年
S
- × 巴-
七七頁)
右の明治十五年から同十九年十一月までが一切となっているので一括して解説する。これは横本帳面(﹄∞町田×﹄ NqnS)に書かれ、
(全集て歪
I
(
十二月日記、理ノ字ノ読﹂と列記してあるものに奮いてある。十五行罫紙、墨書、自筆、墨付は三枚と四行、ひら俄名、草稿で所キ
この論文には稿本が二種ある。第一は和製横本、大き﹄∞
四六
本語範の可能性の方が遥かに高いと推計して推測の内容を変更したことをここに付記しておく。
なお蓮沼二
第
第
1
0
4
EM--z=hw
5
9
巻 4号
学
雑
拍子は柿色。この表紙には本文のはじめに印刻しておいた文字が書いである。墨書、自筆らしいが、後になって整理のための控え
として奮いたものらしい。本文の用紙は十五行罫紙、雁皮紙、西常用の市販の帳函である。大部分は日記であるが、どういうわけ
か途中から書きだしてある。はじめには東京築士舎院関係の雑記や元老院の議案題固などが嘗いてあるがこれは僅かであとは飴白
のままとなって、日記は第三六枚目から書きだしてある。日記の墨附部分は一一五枚、細字で番かれ、字が小さいために往キ剣諮問
に苦しむところがある。異蓄の筆で奮いたような商特有丹念の書きぶりである。この帳面は明治十九年十一月三十日で紙が奉きた
ので、十二月分だけは﹁源氏物語桐坪ノ巻・明治十九年十二月中日記・理ノ字ノ読﹂と表題のあるべつの帳面へ本金集第 巻解説
酉周文書六五
大久保目録一 O七
(全集三、解説八二頁)
六七六六七七ページ参照)にかいである。﹃西周侍﹄の凡例の日記丙巻とあるのはこの帳簡の十二月の分の日記を指している。
活 話 文 集 ( 醗 語 ) 丁ノ六
横長の和帳面の表紙に墨で四七という漢数字の番号が付され翻語活話文集という題が記されている。漢文の翻訳
四七
が試みられ、和文の話言葉への翻訳が見られ、ほかに土佐日記の書き込みがある。漢文の翻訳は左忠毅公乃逸事と
と同じく明治十二年中の作品であると推算される。
便覧稿本や日本語範に用いられた用紙と同様に各頁あたり十五行からなる罫線紙を束ねた稿本である。日本語範
半には土佐日記が一行置きに綴られている。予め訂正に備えた書き振りである。
いう作者不明の和文の書法を改正した文章と謡内百番の一である鉢乃木を今暗に改めた文章が掲載されている。後
いう清の人である方望渓の原文と魯亮傍を書すという衰随園の原文を翻訳したものである。また日蓮聖人御法海と
戸
法
神
西周稿本目録解題
1
0
5
妻言便覧稿本
丁ノ五
西周文書六五
大久保目録一 O六
が、明了房秘記とは明了房五十音秘記のことである。秘記は平安時代における悉曇学の大家であった安然の伝記で
明了房信範は鎌倉時代に実在した僧侶であり悉曇字記明了房記という悉曇字記についての解説書を著わしている
られたことのない文字を新たに採用するという提案を行っているわけである。
西周は五十音の片仮名を発音符として用いることを企て、白井寛蔭が行った区別を引き継ぎ、かつて一度も用い
ア行の伊と衣とヤ行の以と江とワ行の井と慧とを区別し、またア行の有とワ行の宇とを区別している。
格のことであろう。白井寛蔭は平仮名については太田全斎の漢呉音図に倣い片仮名については明了房秘記に倣って
仮名が用いられている。この仮名は白井寛蔭の音韻仮字考に倣ったものであるという。音韻椴字考とは音韻偲字用
西周の五十音は特製である。五十種類の片仮名の字体が揃っていて、ア行の衣とヤ行の以とワ行の宇には特別な
順に表に掲げてある。異体の片仮名の例が注に取り上げられている。更に次の頁には五十連音図が掲げてある。
の順に表に掲げてあり、異体字とその原字を示す表が付されている。その次の頁には片仮名とその原字がイロハの
内容としてはまず言葉に関する学術の相互の関連を示す表が掲げてある。次の頁には平仮名とその原字がいろは
ある。日本語範と同様に明治十二年中の作品であろうと推計される。
成立年代であるが、日本語範には便覧を参照する箇所が散見し、葉言便覧が日本語範の別冊であることは明白で
業言便覧とされている。
半紙を二つ折りにした横長の和帳面である。表紙には四八と漢数字が書かれ、便覧稿本という題がある。内題は
四
J¥
1
0
6
5
9巻 4号
5
ち
雑
学
あるが、安然の五十音図を伝えると称する偽書である。
この秘記を偽作したのは黒川春村である疑いが濃い。黒川春村は安然に仮託して自家の学説を世間に発表してい
る疑いが強いということである。黒川春村は秘記の奥書には﹁翼偶未詳﹂と書いているが、弟子である白井寛蔭に
は﹁明了房秘記ハ偽書ナリ﹂と断定している。﹁但一一一密抄ヲ襲ヘルナレパ其説ハアシカラズ。ココニ云処モ必従ヒ
テ可ナリ﹂。偽書であるが学説としては正しいというのである。暗に太田全斎の偽作であることを灰めかした言い
方であるが、全斎の偽作が佐倉の城中に秘蔵されるのは不可解である。奥書に見える佐倉の城主から借りたという
記事そのものが偽造である公算が高い。知り合いの関根江山を巻き込んでの手の込んだ偽作の模様である。おそら
くは黒川春村は自家の悉曇学の水準が安然に比肩するに至ったという自負を抱き、安然に仮託して自家の学説を世
聞に問うたものであろう。
西周はその学識の水準をひとまず認めた上で、更に一歩を進め、発音符の開発に取り組んでいるのである。
安然の五十音図というものが後世の偽作である点については大矢透﹃音図及手習詞歌考﹂に掲げる第十八図の説
なおツの原字は川であると大矢は力説するが従いがたい。ツの原字は列であるはずである。トの原字が止であり
明を参照されたい (付録四五頁)。
中国古音を伝えるという大矢の説は正しいが、それは徐福とその一行の子々孫々が日本列島にもたらした秦漢時代
Hチであり、古くはオ韻であったことや、至が致であり、支が岐であることは良く分かるが、
に取り変えたのが事の真相なのではあるまいか。
り違えて、川の字を津の意味に当てていたところ、後に誤訳が発覚した段階において吉備真備あたりが、原字を列
川をツに当てるのはこれとは違い、津を川と誤解したために生じた椿事ではあるまいか。津々浦々の津を川と取
川を一周や穿にもつタ行の文字はない。
の古音である。止は祉
戸
法
神
西周稿本目録解題
1
0
7
因に西周はつの原字を門に求めている。
日本語範稿本、第三編言学
丁ノ三
西周文書六
大久保目録一 O 四
西周はほかにも濁音図を初めとする発音図を掲げ、また仮名遣いにも言い及んでいる。
四
第二巻﹂という内題の直ぐ下に﹁五月一日起草﹂と起草の時点が記されていて、明治十二年の五月
第三編
言の種類別ケの事
(中略)
(中略)
第一章
数言の事
体言の事
第七章
用言の事
代言の事
第十四章
第八章
第二章
一
吉
川
字
一日には第二巻の執筆に取り掛かっていることが判明する。第三編の編目の概要は次の通りである。
﹁日本語範
である。表紙には墨で漢数字の四九と書き﹁語範稿本﹂﹁第二巻第三篇言皐﹂という題が書いてある。
第﹂
二編
ノ込 ま れ た 和 帳 面 と 同 じ 大 き さ の 横 長 の 和 帳 面 に 記 さ れ た 稿 本
﹁日本語範稿第
本一
会編乙
の 書丁き
九
明らか
爽やか
地
第一章の言葉の草分けつまり品調分類の箇所を次に引用して置こう。
韓言又名言、
又字音で
形容謹言
人
字音も同じ。
其
彼那
等
等
此レ名言の代リに用いる者。
百
字音は此の類も直ちに前の種類に属すと為して此を観る。
物
十
字音では、
閏雲る
す一つ
渇する
等
昭
⋮
る
食する
く
右形容睦言以下三種は、謹言より、其の性質を、分解した・・者
等
数
代
用
行
第四
第五
等
稀
人 家
天 天
地
此
百
言
第
第
第
1
0
8
5
9巻 4号
誌
雑
学
法
戸
神
青し
し
し
強
等
此は、名言の位を定める者、
,
刀
の
ギ
﹂
品
と
も
等
此は、用言に属して、言句を接ぎ合せる者。
等
此一種は、奮くは、クシキの言と云へり。クシキと特化するを以て也。
百
も
アー
そ
こそ
等
等
るには非らず。
差ロい
等也
白
目
で
く 総
て
此は、名言用言質言より饗じ、位置に因て、其用を異に為る者で、本性から異に有
明かに
立た
明かな
立つ
況
兼言井に副言
右の位言以下三種は、助言を分解して、其性質に因て、名を附けた的で有る。
ノ
此定言の一種に、歎言あり。此は定言中の一部と為て、此を観る。
r
'
ー
,
第六
堅
字音は、欝陶しなど、帰化言の外には、無い。
質
位
接
疋
第七
し
此は、言句の此慮彼慮に入れて、語意を定める者。
と
オ
ヤ
第八
赤
若
十
第九
第
を
l
土
又
西周稿本目録解題
1
0
9
1
1
0
5
9巻 4号
雑 誌
戸ん
寸~
済まぬ
し
思し
此に附して、助用言の第一種第二種、助質言を論せねば成らぬ。
成らぬ
等也
可
一種の性質を受けた的で、本性からの異リに非らず。総て此第十の兼言副言助用言助
於
て
兼ねことばは独立の品調ではなくて用法の違いであるから、働きこと、はやさまことばの特別な用法として論ずれ
因に西周が働きことばという呼び名を避けてただ用言と呼んでいるのは、西周の政治的な立場が明治十一年を境
る。持つから以ってが、置くから於いてが派生したという風に分析しているわけである。
ならぬとすまぬが助用言の例である。べしとたしが助質言の例である。以てと於ては助用言の第二種の例であ
がある。これが西周の品詞分類論である。
きことばやさまことばから派生した言葉であるものの、用法が独自であるから別に独立の品調として取り扱う必要
ばよい。用言についてそれを助ける助語もまた用言のところで説明を行えばいい。尤も副へことばは名ことばや働
ことぼであろうか。
ばであるし、定言はきめことばである。歎きことぼや兼ねことばに副へことばがあり、形容睦言はありさまの体の
であるし、数言はかずことばである。質言はさまことばであるし、位言はくらいことばである。接言はつなぎこと
言はことばである。瞳言は体のことばであり、用言は用のことばである。代言はかわりことばないしはながわり
猶別に此を奉ぐ可し。
質言は、位置と用法とに因て、其用を異に為る者故に、各其本言の所に附して論ず可し。唯副言のみは、
此も亦用法に因て、
以
て
戸
法
神
西周稿本目録解題
I
I
I
に革命思想家から社会改良家へと転身した事実を微妙に反映するものと推察される。西周は明治十一年の十二月に
言学績キ
丁ノ四
西周文書六四
1
飛田良文博士古希記念│﹂ひつじ書房、二 ccz。所収)を参照されたい。
様 法 の 分 類 法 と そ の 変 遷 に つ い て は 服 部 隆 ﹁ 西 周 の 文 法 研 究 に お け る ﹁ 句 ( 官 民82)﹄﹂(﹃日本近代語研究四
名称の使い方は働きことばという呼び名を避けてただ用言と呼んでいるのと同じ理由によるものである。
る。補助動調と助動調に跨がる品調である。助用言という名称を助働言の意味に限定して用いているが、こうした
る。また助働言は第一種と第二種に分かれるが、有ると成るとその否定形であるあらぬとならぬがその第一種であ
記事によれば助質言と助働言に分かれる。助質言とはぺしゃたしの如き質言と似た変化を示す助動調のことであ
その外に、兼言と助用言の説明が行われている。兼言とは連体言と連用言のことであるし、助用言は文典稿本の
語形が言い切りの形である。
かまだ決まらない段階の語形とどう言い切るかようやく決まった段階の語形とに区別しているが、決まった段階の
様法という言い切りの形の分類が企てられている。西周は言葉の断続を未定法と確定法という風にどう言い切る
大久保目録一 O 五
宮中の御談会において﹁社曾黛論ノ説﹂を演じているが、これは社会主義思想の勃興に予め備えを用意して警戒す
日本語範
ることを呼びかける演説である。
五
四九と同様に横長の和帳面に記された稿本である。
O
Fly UP