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豳風鴟鴞の詩考 - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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豳風鴟鴞の詩考 - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
豳風鴟
の詩考
Author(s)
井上, 源吾
Citation
人文科学研究報告, 11, pp.13-22; 1961
Issue Date
1961-07-01
URL
http://hdl.handle.net/10069/32014
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
幽風鴟鴞の詩考
一、序
たいと思ふ。
二、詩序について
朱子は鴉鴉の篇を注するに、詩序によった。即ち、詩経集伝によ
れば、
武王崩、成王立、周公相之、而二叔以武庚叛、且流言於国、
を信じたのは、尚書金縢篇に鴉鴉の詩に関する記述があった為めに
と、尚書金縢篇を借って注解してみる。周知の如く、朱子は序に対
しては、多くは懐疑して採らず、また採ってみるものも、詩の全体
人斯得、干諸公乃為詩、以賄王、名悪日鴉鴉
その序に
鴉鴉、周公救乱也、成王未知周公之志、公乃為詩以遺託、名之
日野鴉焉、
とあることは、周知のところである。かくて、詩書相侯って、周公
成王を中心とする周初の大事を伝へるもの、やうである。か∼る理
由からでもあらうか、古来書を釈するには、おほむね詩の鴫鴉の篇
を借り、嶋鴉を注するには、金匠篇に依ってみる。詩を解するには
た∫本文を味読して、その意を知らねばならぬとする朱子の如き人
を伝へるものと解してみる。
ですら、この鴉鴉の篇だけは、序を信じて、殿潜航初の回田の史実
ω
果して、さうであらうか。私はこれらは、後世、恐らく春秋戦国
になって、周覧景仰思想の発生と発展につれて、附加されたもので
あらうと考へる。このことを証するには、詩書両面から眺めてみる
容有常、以斉其民、則民徳帰帆﹂は、公孫尼子に見える文で、これ
壊﹂は、国語にもとづき、小事都人士の﹁古者長民、衣服不弐、従
遺王﹂は、金縢の丈により、商頗那の﹁微子至干戴冠、其問礼楽廃
之﹂・は、楽記の文により、楽風鴫鴉の﹁成王未知周公之志、公領為詩
と言ひ、更に、大序の﹁情動壷中、而形憾言、言之不足、故嵯歎
決者、有委曲宛転、附経以成其義者、
今観序、有専一諸書之文回数句者、一一取諸家一説、而辞不堅
とを明言したものと解される。また鄭樵は
所であると論じてみる。これは、詩序が孔子や子夏の所作でないこ
ω
唱導以前の経師の所伝とし、続申の詞を両三以下の弟子の附加した
は前人の諸説を列挙して、次いでこれらを参考して、序首の二月を
た記述をしてみるのは四庫全書総目提要中の詩序二巻である。提要
詩序の作者については、諸説がある。これに就いて、最も要を得
それでは、鴫鴇の詩序はどう見るべきものであらうか。
と言ふ一節があり、これに応ふる如く、詩の幽風に亡婦の篇が見え
武王業喪、管叔及其群弟、乃流言肇国、日公営不利於儒子、周
吾
外ならないと思はれる。しかし、尚書の此の条は、潤益の疑が濃厚
㈲
であり、その時代も春秋以降の如くであることは、前に指摘した。
尚書金縢篇に
源
から見れば、極めて僅かである。然るに、鴫鴉篇に当て例外的に之
上
公乃告二公日、我之弗辟、我無念告我先王、周公居東二年、則罪
井
必要があらうが、書については既に﹁尚書金縢篇と嶋鴉の詩﹂に於
②
て考察した。そこで、こ、では主として詩の立場から之を論じてみ
一
13
一
言
論じてみる。
らを見れば、詩序の作は、この数書が既に世に行はれた後にあると
⑤
それでは所謂毛公の作ではあるまいか。これについては薫蒸中が
放斉詩説において、召南黒羊の﹁蕉羊之皮﹂、同じ鵠巣の﹁維鵠有
巣﹂、徳風煮子馬老しの島伝と序の相違を指摘して、
与伝意先後顛倒尖、序若出於毛、亦安得自相違戻如此、要知毛
伝初行暫時、猶未有序也、
益、
と言って、序は衛宏一人の手にのみ成るわけではなく、毛公以来の
って、
伝承に衛宏が潤益を加へたものと為してみる。崔述もこの立場であ
蓋自毛公以後、伝其説者逓相増益、早計附会、宏聞之於師、遂
取肴著之序言、
⑧
と論じてみる。近時、鄭振鐸は、儒林伝には重爆が毛詩序を作った
依るべきものがあるであらうと言ひ、且つもし宏の作でないにして
㈹
も、其の作者は、毛公衛宏以前ではないと論じてみる。
明言してみる。萢蔚宗は、衛宏を去ること遠からず、その言は必ず
以上の論を見れば、もはや詩序が孔子や子夏の作でないことは明
と言ふことで毛公の作でないことが知られる。ところが、程頴、程
⑥
願らは、詩序は采詩の官の手に成ったものであらうとした。しかし
其の丈また三代の文に類しないこと、また変法は多く春秋の世にあ
三、詩形と詩層
α9
ではないのである。
平静に解すべきであるといふ朱子の主張は、嶋鴉の場合でも例外
い。詩を見るには、一応、詩序を葉て、本文に語られてみることを
かように見てくれば、鴫鴇の序は、これを信ずるわけには行かな
されたものであると言へよう。
威とされるものを喜び迎へた当時の三六の尚古の思潮によって醸成
なものとしようとした衛宏らの力による。と同時に、またか、る権
と、序によって詩の解釈を統一して、儒家聖典としての権威を不朽
られてきた所以は、毛詩を三家詩の上に置かうとした賢哲らの努力
らかである。然るに、長年月に亘って詩序が孔子や子夏の作と考へ
崔述は読風雲識に於て、詩序が詩の原意を失ふものが甚だ多いこと
るが、当時の王室は微弱で太史が国汝を巡歴して、詩を採取するこ
ω
とは不可能であったことを列挙して、これを反論してみる。また崔
述が沈重を駁して言ふやうに、史記にはまだ差押の名は見えず、漢
書になって始めて毛詩を称する。しかし、序を作ったといふことは
⑧
見えないし、一一のなかでも序に言及しない。かく見てくれば、詩
序の作者は、後漢書儒林伝に言ふ旧臣が最も有力になってくる。萢
嘩は
一州字敬仲、東海人、少与遅退倶好古学、初国江謝曼一斗毛
詩、乃為張出、塞雪明卿受学、因作毛詩序、善沼風雅之旨、干今
伝於世、
と述べてみる。これは、詩序の作者を決定する有力な資料であるこ
るものであらうか。
嶋鴉の詩序が拠るに足らずとすれば、この詩は何を述べ、何を語
とに間違ひない。しかし、階書経籍志では
漢二又有趙人毛蔓、善詩、自丁子夏所伝、作詰皆伝、是為毛詩
先づ、その形式について見れば、周知の如く、型置の詩は、四章
古学、而未得立、後漢有九江謝曼卿善毛詩、又為之訓、東海衛敬
仲受書於曼卿、先前相承二毛詩序子夏鳶創、毛里馬敬三又加潤
[
14
[
れを基礎とする詩形が最も多く、その大多数はこれに属する。即ち
⑫
章五句、不定型である。青木青児博士によれば国風は畳詠体及びこ
畳詠体は、国風一百六十篇の中、一百三十三。小乱七十二篇中、四
十二。大雅三十一篇中、五。頸四十篇中、二を数へることができ
る。この平射と非配転とを百分比によって眺めてみると、国風八三
小雅五八、大雅一六、頬五といふ数字がでる。これを見ると、詩が
風から雅、雅から頗へと展開するにつれて畳詠体は著しく減少する
が、非畳詠の詩形は、逆に急増するといふ大勢が窺はれるのであ
る。
さて、この見地から塾風について考へると、伐桐、狼践、破斧、
九裁、東山は、所謂畳詠体であるが、七月・鴉鴇の二篇は、非畳詠
葛生
女日鶏鳴
車隣・馴購.、小戎
楊三水・焦装
・鄭
唐
魏
秦
株林
たとへば、 召次・何彼禮 は、経文に﹁斉侯の子、平王の孫﹂の
陳
句がある。 毛伝は天下を平芝にした王云汝とするが、これは二南を
丈武の詩とみ
て 強 含 し た も の で 、 この詩は東周平王を言ふ
よ
う
と
し 恐らくか∼る
た 詩 で あ ら う 。 更に三家詩説では、平王の
際
に
生
ま
れ ものである。 左伝荘公元年及び十一年に三姫が斉に嫁ぐことがあり
⑬
孫が斉に嫁し 、 その生んだ子が嫁にゆく時、逆なる王姫が昔斉国に
嫁して来た時の車で送ること∼してみる。
廓風・載馳は、古来伝へて許穆夫人の作とする。直ちに許の穆夫
人の作であるとするのは、若干疑がもたれるが、詩の一章に﹁載馳
載馳、帰嗜衛侯、馳馬悠汝、言詞干漕、大夫践渉、我獄則憂﹂とあ
い関係があるやうである。集注は、宣姜の女が許の穆公の夫人とな
り﹁一行大邦﹂の語も見えるから、左伝影回二年の一国の滅亡と深
り衛の亡国を間み、馳せ帰って漕邑を嗜はうとしたが、途中許の大
夫が追って来て夫人を差止めたので、遂に帰ることを果さず、この
詩を作って己が心を述べたと言ふ。
以上の他、衛風碩人は、左伝隠公三年に見える斉の荘公の女、衛
一
15
一
体である。詩経の詩に於ては、畳三体が原初的様式を保持してをり
その中でも単純な様式がより原初的であり、複雑な様式を有する詩
は、比較的に後起の詩と考へ得るならば、畳詠体を逸脱した詩が、
最も新しい層に属することは明らかであらう。これらの詩に包含さ
れる思想は、原初的な詩形では表現し得ない内的な苦悶が見られ、
これは自ら自由な表白となって、畳詠の固い壁を打破したであら
う。しかし、単に形式的な詩形だけを根拠として、このやうな断定
を下さうとするものではない。国風の中で、鴫鴉と同じく、非畳詠
思はれるものがあり、しかも其の時期はいつれも春秋時代と考へら
体の詩は次の如くであるが、これらの中には有名な史実を歌ったと
れる。
荘公の夫人となった人を歌ったものであり、郡風守鼓は、左伝隠公
⑳
四年の衛の州肝の自立に関係があるやうであり旧風泉水は前に見た
飼
載馳や、定之方中とも係はる詩の如くである。また、陳風脚林は陳
㈲
の霊公の史実を歌った詩と考へられる。
野有死腰・何彼穰 さて、これまで見たやうに、国風の中で非定型には、春秋時代の
三三
定之方中・載馳
郡
碩人・眠・竹竿・伯分
柏舟・撃鼓・雨風・雄維 ・駒有旧習・七分・静女
衛 廓
ものと思はれる詩がかなり多く見られる。詩の性質上、史実よりも
へるであらう。
この推定は、鴫鴉の詩の内容を見ることによって、 更に確実性を加
ある。而して、形式の類似が、単に呼びかけと制止といふ点に共通
⑲
これから考へて見ると胡承罎も論じてみるやうに、鴉鴉も全然同
じ形式をとるからして、鴫野に対する呼びかけと制止と見るべきで
とある。この詩は明らかに碩鼠に対する呼びかけと制止である。
土、楽土楽土、塁得我所、
碩論旨鼠、無食我黍、三歳貫女、莫我肯顧、逝将去女、適彼楽
構成をもつ魏風碩鼠の篇に
け、且つ制止するのを見れば、毛革のやうに、呼びかけるものは小
⑱
鳥、三門は大鳥と見るのが当ってみると思はれる。一一の篇と同じ
は見えないが、﹁鴫鴉鴫鴉、図取一子、無鍛我室﹂と鴫鴉に呼びか
鴫鴇の詩は、鴉鴉の暴威におの、く小鳥を描く。詩中に小鳥の語
四、鴉鴉の興について
相当後れて歌はれたであらうから、詩としては最も新しい層に属す
るであらうと思はれる。尤も、新しい層に属する詩は、すべてその
形式が自由であると言ふのではない。秦風黄鳥の詩は、秦の穆公が
卒した時、大夫の三子がこれに殉じたので、国人がこれを哀んで賦
したと言はれてるて左伝にも見える著名な事件であるが、この詩は
㈲
三章畳詠式である。しかし、定型の詩は、概ね単調で、そこに歌は
れる事柄も単純である。複雑な思想を盛るには、どうしても新しい
型に把はれない、自由な詩型が要請されるであらう。この意味で詩
の原初形態は、単調な定型のものが多く、新しい層に属する詩は、
型を離れて自由に歌はれる傾向が強くなると思はれるのである。
民謡であったこと、而してそれは多くは人汝の信仰の中心であった
このほか、定型から非定型への展開の契機は、詩の原初的成立が
神汝の祭杞に当って、多数の人によって歌はれた神事的な歌謡であ
ること等を考慮に入れなければならない。この神事的な歌謡から、
好ましからぬもの、凶悪なものとして興せられてるることである。
点を見出すだけでなく、内容的にも呼びかけられ制止されるものは
漸次人汝の注意が社会生活に注がれ、このことはまた生活を見つめ
る歌を生み出したであらう。このやうに非定型の詩は、人皇の生活
碩鼠は、貯へてるる黍や麦を亙り食ふ大勢を以て為政者になぞらへ
と深い繋がりがあると思ふ。そこで、非定型の詩の背景をなしてみ
るこの時代の社会環境を一応考へてみたい。
刺重敏也、国人刺其君重勲、蚕食戸車、不修弊政、貧而畏人、
きであらう。ところが、鴉鴉を可憐な小鳥とする説がある。しかも
この説は鄭箋以来の伝統をもつ、かなり有力なもので、面一の如き
と言ふ。鄭箋も薄鼠の黍を食ふを以て君の聚敏の政に比したものと
或は征役への徴発となったのである。これらの客観状勢は、詩人を
して型にはまった詩にあき足らず、定型詩を急速に離脱させる大き
暴虐な為政者を象徴してをり、生活の苦しみに泣く人汝の歌とすべ
見てをり、集伝も静黙同じである。かくて、鴫鴇も碩鼠と同様に、
てみる。美星の毛序は
ことは、 一般民衆にとっては、重税となり、果しない倍役となり、
周知の如く、周初にうちたてられた封建制は、西周末から漸く混
乱に陥り、春秋時代に至って愈汝その腐敗を強めたのである。この
若大槽也、
な力となったであらう。非定型の詩は、かような諸因によって生ま
い層、即ち春秋時代に属するものであらうと推定されるのである。
れたと考へられる。このやうに見てくれば、早旦の詩は、この新し
16
[
【
は、四家齢すべて鴫鴉を小鳥としてみることを証として、小鳥即ち
⑳、
周公の櫛比で、この詩は小鳥の自謂であると論じてみる。これは、
・怨思︶に見える﹁果鴉﹂は、鴫鴉←鴫果←臭墨といふ転用過程に
が、章懐太子の注には三聖すなはち鴉果であると言ふ。楚辞︵怨世
のであらう。
生じた混乱であらうと考へられるが、その意はやはり鴉鴨を斥すも
ところで、漢書朱浮羽に﹁同一令之嘉名、造夷下之逆謀﹂とある
この詩が、周囲救乱の詩とされるに至ってから、強ひて詩の語旬内
容を周公伝説に結びつけようとした膨めに生じた説であらうが、そ
詰林所改︶と言ふ。
銭治の妻壁には﹁爾疋此字︵嶋︶即製也、史記楚人名鴉為服﹂ ︵据
いては、佳部に於て﹁国難也、夙住氏声、鴎簡丈三塁鳥﹂とあるが
に同じ、説丈では﹁鴉・鴉鴉・平潟也﹂といふ。説交のこの解は、
単言すれば鴉、重言すれば鴫鴫とするものであらう。また、鴫につ
あるかを見るに、爾雅釈鳥は﹁鴫鴉・鶉鳩﹂とし、詩の毛伝もこれ
さて、これまで見てきた鴫鴉・鴉・鴉は、それぞれ如何なる鳥で
の説の当否は、鴉鴉が如何なる鳥であるかを吟味してみる必要があ
らう。
五、鴉鴉の象微してみるもの
鴫鴉は普通、ブクロフ・ミミズク・ヨタカの類と言はれてるるが
まつ絵解が先秦から無代にかけての典籍にどのやうに表現されてみ
るかを見たい。
ところで爾謹選鳥の鴫號鵯鳩の条下に、郭瑛は﹁獣類﹂と注して
みる。しかるに陸磯は毛無草木鳥獣下魚疏のなかで
鴫鴉は、幽風嶋鴇の篇のほかに、鞍替に﹁並屋集於木蘭﹂ ︵憂
苦︶、漢書に﹁鴫鴇翔翔﹂ ︵責誼伝︶等に見える。
鴫受理黄雀而小、其啄尖如錐、取茅驚嘆巣、仮屋拳拳、如刺鞭
謂之鶉鳩、自関而西謂書類飛、
桑飛、自関而東謂襟章爵、或謂之過臨、神髄之女鵬、自関而東
と言ひ、鴉鴉の忌違に於ける方言を鵯鳩とし、黄雀に類する小鳥と
考へてるる。方言︵巻八︶は
然、県著樹枝、或一房置旧房、幽州人当之鵯鳩、
鴉は詩墓門に﹁有鴉葦止﹂、薪水に﹁融忽焉鴉﹂とあり、楚辞に
﹁今其集孚惟鴉﹂ ︵守志︶、荘子に﹁見弾而求鴉爽﹂ ︵斉物︶、山
鴉は、詩謄印に﹁為泉為嶋﹂と見えるが、これ以外にも、荘子に
海経に﹁白於之山回下多鴉﹂ ︵西山経︶とある。
﹁鴫得腐鼠﹂ ︵秋水︶、また﹁鴉目有所適﹂ ︵徐無鬼︶、呂氏春秋
に﹁市有舞鴫﹂ ︵季夏紀・明理︶、潅南子に﹁鴫夜撮隠事、察分毫
末﹂ ︵主脳︶とある。
の集伝は、鴫鴉鵤鵠と注してみる。説文佳部には﹁旧・鴉旧・旧鵬
として、鵯編は桑飛であると言ふが、これが零墨と煮物か、或は陸
曖の言ふやうに、黄雀に似て小なるものか否か明らかでない。朱子
也﹂とある。三巴と旧鵠とは、音相近く、通用したかと思はれるが
て、詩甲乙の﹁結集為鴫﹂、漢書の﹁要素集﹂ ︵司馬相如伝上︶
﹁用一果破鏡﹂ ︵郊杞身上︶ ﹁昌邑多集﹂ ︵武五子伝︶等の桑は、
さて、説文通訓定声によれば、思慮は同音通用の字である。従っ
すなはち鴉のことであらう。なほ、今も見た如く、鴉集は通仮する
の注に﹁嶋・鵤鵬与委集同﹂とあり、また山海経海外南経の﹁秋山
説文の意は、鴉鴨とは別種とするものであらう。しかし、荘子秋水
愛有鴫久﹂注に﹁鴫久嶋鶴撃墜﹂、また大荒門経の﹁有丁台之山愛有
からして、鴉鴉は鴫臭とも書かれるわけで、その例は、楚辞に﹁近
習鴫集﹂ ︵初放︶、漢書に﹁鴉集群翔﹂︵郊杞志上︶の如く見える。
一
17
一
鴫久しの注に﹁承久即鵬鵬也﹂と見える。鵤久・嶋鵬・三日は音相
近く、また鴫旧・薬理も恐らく鴫鴇の通仮であらう。
に合致しない。三三も一三を大鳥と解してみるし、且つ本文に﹁鴫
陸磯は鴫焼を黄雀に似た小鳥と解するが、これは鴫鴉の詩の弓丈
鴉鴫鴇、一考同一﹂と言ふのは、明らかに小鳥が大鳥即ち嶋鴉に呼
びかけ、制止してみるものと解せねばならぬ。一図は鵬鴇を鴉類と
注したが、悲話にはこの下文に鴉類と思はれるe狂茅鴫、◎怪鴉、
日一骨を掲げてみる。これに就いて、郭注はeには﹁今茎菜也、似
鷹而白しとし、口には﹁即鴫詠懐、見広雅、今江東通呼此属為怪
鳥﹂と言ひ、日には﹁土果﹂と注する。なほ日の臭鴉について、疏
では﹁果一名鴉﹂と解してみるが、朱駿声は、爾雅のこの条は﹁狂
即茅鴉、怪鴉即日嶋﹂の意に解すべきで、三鳥ではなく、二鳥の名
⑳
とすべきであると論じてみるが、従ひ難い。
郭瑛は、eの鴉鴫の形状をば、鷹に似て白いと言ふことから考へ
ると今日の﹁シロフクロフ﹂が、これに近いかと思はれる。
﹁シロブクロブ﹂は、臭鴫科に属する鳥で、普通は高緯度の地に棲
息する。そのため全身に厚い羽毛を被り、色彩も雪白の装をもつ。
極く大形で、翼長四二〇粍内外に達する。アジアでは、冬期には蒙
⑳
古・満州・中国北部・樺太・千島・北海道等に見られると言ふ。似
ると言ふのは、形状だけを言ふのでなく、習性をも含むものであら
う。一般に、集鴫科の鳥は食肉性で、小形の哺乳類・昆轟類・爬轟
さて、詩・楚辞・漢書等の注には、鴉鴇・鴉等を﹁悪声の鳥﹂と
の鳴き声に特徴があり、とくに﹁フクロフ﹂の鳴き声には一種の怪
規定し、特微づけるものがかなりある。集鴫科の鳥類は、概してそ
異昧を感ずることは、周知のところである。 ﹁ヨタカ﹂も夏鳥で、
くこれらの鳥を航すものであらう。
夕方から活動して特異な声を発するが、悪声の鳥と言ふのは、恐ら
荘子秋水篇に﹁鴉嶋夜撮蚤、察毫末、昼出瞑目謬見見丘山﹂とあり
﹁夜鳴人屋上呂、夜則目明合聚人野比著其更中、昼則無所見﹂と言
潅南瓦回訓にも略汝同様な文が見え、注にその習性を説明して、
ふ。荘子の本文は﹁撮蚤﹂とあるが、涯南子では﹁撮蚤蚊﹂に作
む
る。人の爪を集めて、巣中に著けるといふのは、蚤字に把はれた強
解である。荘子の丈は恐らく飛翔してみる蚊などの舌早類を捕食す
ることを言ったものであらう。 ﹁ヨタカ﹂や﹁ブクロフ﹂は、とも
に夜行性の鳥類で、夜間に餌動物を捕食することは前に見た。然ら
ば、荘子に見える鴫鵤は、 ﹁ヨタカ﹂ ﹁フク耳フ﹂の類に相違な
い。
ところで、集は古くから母を食ふ不孝の鳥とされてみる。説丈に
﹁巣・不孝鳥也、日至捕礫之﹂とあり、毛詩草木疏︵一切経音義
引︶には﹁一関而西、謂冷肉流離、其子適大工食其母﹂と見え、後
漢書朱浮伝の注にも約略同意の文がある。漢書に、桑は悪鳥︵司馬
相如母上注引張揖︶とか、悪逆之鳥︵郊杞挙上、用一果破鏡注引張
に﹁鴉臭悪鳥﹂と言ふのは、恐らく臭が母を食ふとされる所から
婁︶とか、不祥の鳥︵同上、鴉桑群馬注︶と見え、更に書呂刑釈文
であらう。漢書質誼伝に見える服も、不祥の鳥と言はれて居ること
から考へれば、集と同類の如く思はれる。注は晋灼の﹁異物志日、
類・蠕轟類等を捕食する。これは鷲回覧の鳥も略汝同じである。た
ご帆影科の鳥は、すべて夜行性であるのに、鷲鷹科の鳥は﹁ヨタ
囲
力﹂の類を除く外は昼間に行動する。郭瑛の言ふ身構は、科学的な
有鳥如小鶏、体有文色、土俗因西名之下篇、不能遠飛行、不出域
也。﹂といふ説を引いて居る。
記述でないから詳らかでない点も多いが、一応上述の﹁シロフクロ
フ﹂に比定しておきたい。
18
【
一
鴉は、詩陳風墓門に﹁墓門有梅、有鴉葦止、夫也不良、歌以訊
三章︶
○予手拮据、置所採奈、予所総則、予口無瘡、日予実有室家、 ︵第
二章︶
○予羽誰汝、予尾騒々、予州翅綱、風雨所漂揺、予維音暁汝、 ︵第
我好音﹂と見える。
巣鴫は、大雅請印に﹁秘蕨哲婦、為事為鴫﹂とある。
詩は小鳥に託しつ、作者の深い悲しみが導べられる。詩、全体から
四章︶
之﹂とあり、また直壁洋水に﹁翻彼飛鴉、集計条令、食至宝題、懐
もわが恵みに浴して良好となると言ふのである。
墓門の鴇は不良なものの興として、また浮水のそれは、不吉な鴉
いものになってみる。この詩と同じく、為政者を解った碩鼠では、
現実の苦という点では嶋鴉と同様であるが、しかし﹁彼の楽土に往
受ける感じは、陰影が深く暗くかげり、希望も理想も全く見出し難
原の注は、 ﹁顕要下記、反響為鳳皇也﹂として、鴉彙を善に対する
かん、楽土楽土、こ、に我が所を得ん﹂と歌って、暗い中にもかす
を侯たない。聖子賦篇に﹁蜻竜為堰艇、門柳心学皇﹂とあるが、楊
悪と見てみる。また、呂氏春秋の﹁市有舞鴉﹂は、凶災の前兆とさ
かな光明が認められる。これに比べると鴫鴉の詩は、どん底の叫び
次に、実印の集鴉は、凶悪な讐喩に用ひられてるることは、言ふ
れてみる。楚辞の﹁鴫鴉集於木蘭﹂ ︵憂苦︶も注によれば、小人進
、く姿がうき彫りされて居るのを見る。
詩の第一章で、心室・我子・黒子と言ひ、第二章で巣の入口を編
といふ感じである。とくに終末になるにつれて、恐怖のためにおの
戸、三章では階を口と表現して居る。また、二章の﹁女下民﹂、三
れらを見れば、鴫鴉・棄・黒具等は、不吉・不良・凶悪・貧乏或は
小人に喩へられてるることは明らかで、陸磯・魏源らが言ふ如く、
んで顕位にあり、貧俵肥りて公卿となることを言ふものである。こ
小鳥で且つ善なる響愉に挙げられてみる例は、全く見出し難い。こ
も寧ろ人間世界の描写を試みたものである。 ﹁いま汝下民、あへて
章末の﹁予未有室家﹂といふやうな個所は、小鳥の生活といふより
予を侮ることあらんや﹂の如きは、明らかに政治的な意図が窺はれ
のやうに見てくれば、鴫鴇の詩に於る﹁鴫鴉﹂は、兇悪・貧按等の
量る﹁興﹂は、もともと庶民の生活感動の上に生まれたものであ
諸悪を象徴するものとして語られて居ると断じて差支へない。詩に
に解して居ることについては、嘗って論じたが、孟子の引用は、他
にも見られるやうに、多分に断章取義のつもりであらう。しかし、
ると思ふ。孟子は、公孫丑篇︵上︶で、この箇所を引いて、政治的
もともとこの詩は、詩そのものに政治的な意図を内在して居るので
る。それがこの場合、最も素朴に捉へられたのが、不祥の鳥とか、
る。この事は、詩の内容を見ることによって、更に明確になるであ
悪鳥とか、母を食ふと言はれる鴉鴉であったと考へられるのであ
らう。
○鴉鴉鴉鴉、図取我子、昇殿我室、思斯勤斯、出子之閲斯、 ︵第一
子についても、毛伝が﹁寧亡二子、不可整除我周室﹂と注して以来
鴫鴉を殿の武庚とするもの、或は周公とするもの、また、我事・鴛
ところで、この詩が﹁墨筆救乱﹂と言はれるやうになってから、
して居ることは明.瞭である。
ある。碩鼠が重敏の君に喩へられる如く、鴫鴇が冷酷な暴君を象徴
章︶
六、詩の内容
○璋天之未陰雨、徹彼桑土、綱膠編戸、今渡下民、或敢受授、 ︵第
19
一
[
⑳
或は管叔察叔とし、或は成王とするものなど様汝である。このやう
に毛無以来の伝統的解釈は、すべてこの詩は郭公救乱のことを歌っ
たものとする。しかし、これまで種汝の方面から考へて見ても、周
公との関係は全く見出し得なかった。近時の詩学者でこの詩が周公
と関はると考へる人は、殆んど見られないが、作者が誰であるかに
ついては微妙な齪酷がある。鄭振鐸は﹁誕を憂へ、識を畏れる老成
㈱
人の作る所﹂と言ひ、張西堂は鴫鴉を﹁統治階級のわるもの﹂に比
㈱
喩したと論ずる。目加田誠氏は、厳藥の周公が王室経営に尽捧せる
こと、鳥の巣を営んで甚だ苦しむが如し云汝といふ批評に、一応賛
れて、この組織は崩壊に頻してみた。そして、其の展開は、具体的
には古い氏族に代る新しい実力者の拾頭となって現はれたのであ
る。この新しい支配者は、更にその支配力を強めようとして、敵に
対しては武力で’農民からは物的人的の資源を謙湿したであらう。
思はれる。詩のはじめに言ふ﹁我が子を取る﹂とは、恐らく樒役・
鴉鴉の詩は、恐らくか、る搾取にあへぐ人汝の声を代表してみると
外征等の噛めに、其の子を徴発されたことを言ふものに違ひない。
七、結
.つ。
以上述べて来たことをまとめると、次の如き結論となるであら
三三の詩に歌はれて居ることは、詩序とは関係がない。そこで詩
の如く為政者と見るべきであらう。
た如くであるから、世間などといふ漠然たるものではなく、張西堂
以は、製図のためで、それが兇悪で、権力者であることは、上に見
関係を全く認めず、﹁零落した人が世間から脅かされ、侮られるの
㈱
を悲しんだ詩﹂とされる。しかし、この詩の悲しみの因って来る所
小鳥は暴政に苦しむ人六である。
ものとして興せられて居る。かくて、夕鴉は暴虐な為政者であり、
の暴威におの、く小鳥の自謂である。而して、鴉鴉は凶悪・貧按な
代に入って居るであらう。またその内容から見れば、この詩は鴫鴇
も最も新しい層に属する詩である。そこで、この詩の作は、春秋時
意を表しながらも、孟子の引用などから考へて、この詩を周公の作
⑳
とすることに疑をもたれてみる。松本雅明氏に至っては、周公との
この詩に見える為政者への強い怨嵯は、人汝の生活がいかに苦し
ない。氏族封建の基盤に立ってみた周の国家が動揺して、宗法の同
このやうな詩の生れる時代は、春秋時代をほかにしては考へられ
ある。即ち鴫鴇の詩は、その形式から見れば、非定型で詩経の中で
いか∫窺はれる。而して、か∼る詩の生れる社会的背景を考へると
序を捨て∼詩の内容を考へると、それは為政者の暴政を怨する詩で
上代の支那にあっては所謂春秋の時より他には求め難いであらう。
れるが、これから世は春秋となる。この春秋時代が国家混乱、民衆
族組織が崩壊のきぎしを見せたことは、平王の東遷によって象徴さ
が塗炭の苦をなめたことは、周知のところである。これらの人汝の
周の平準の東方洛中への遷都は、普通犬戒の侵略に耐え得なかっ
抗し得えなかった∫けでなく、内部的にも大きな社会的変動があっ
と周公とは何の関係もないものである。ところが、久しい以前から
詩が鴉鴉の詩であらうと思はれる。旦夕の詩は、このやうにもとも
た為めであると説明されてみる。しかし、単にか、る外的な侵略に
たからであらう。周知のやうに、周の国家は氏族封建の基礎の上に
この詩は、周公の作と言はれてるるが、それはこれが幽風の中に入
立ってみた。周初に整備された氏族社会は、同族の結合組織である
宗法を中心として成立してみた。ところが、春秋時代に近づくにつ
一
20
一
語
れられ、幽風は周の故国の歌を集めたと考へられるやうになったか
らであらう。而して、更に大きい力となったのは、岩国に湧灘とし
て起った周公景仰の思想であらう。
註
@朱子、詩経集伝
㈲ 拙稿、尚書全縢篇と鴉鴉の詩・長大史学三号
㈲ 同上
ω 四庫全書総目提要、巻十五、経国、詩今一
﹁今参考諸説、定心首二語為毛馬以前経師所伝、以下続申之詞、為
⑤鄭樵、石亀妄
毛蔓以下弟子所附云々、﹂
㈲ 程氏遺書、第二四︵伊川先生語、十︶
○ 詩大序孔子所為、其文似繋辞、其義非子連男能言也、小序国史所
為、非後世禽鳥知也
○ 明道日、詩前序品是当時人所伝、国史明乎得失之述者是也⋮⋮大
常則是仲御所作、其余則未必然
ω 崔述は
﹁夫論語所載孔子論議之卸町 、若関臨章・思無邪臨調詩三百以及
興観群怨阿南召南等章、莫不言簡仁寿、義深詞潔、而詩序独平術浅
弱、錐有精粋早言、亦多支蔓之語、絶与論語之言不乙、貴得強属之
於孔子、至言各号之序、失詩意劇甚多、其文七殊不類三代之文、況
秋経伝概可見也、以為太史所題謳 、﹂
変風多在春秋之世、当時王室微弱、太史何嘗有益列国而採風者、春
と論じてみる。
⑧ 獣帯、読風評識、日はく﹁沈重云、案鄭詩譜意、大序是子夏作、小
序是子夏毛公合作、ト商意有不尽、毛更足成之、下説非也、何者史
記作時、毛詩未出、漢書始称毛詩、然無作序之文﹂と。
公述、前掲書、
朱子語類︵巻八十︶詩一、綱領
書振鐸、読毛詩序、小説月報、第十四巻第一号
朱子は﹁学者当興於詩、須先去ア小序只将本文、熟読玩味、傍不可
﹁読詩之法、只是熟読瀬泳、自然和気従胸中流出、其妙処不可得而
先看諸家注解、看得久之、自然認得此詩是説箇甚事、﹂とか、或は
言、﹂と論じてみる。
青木青児博士、詩経章法独是、八九頁以下︵支那文学芸術考所収︶
こ\には、其の要旨をとる。詩経を見るのに、その形式だけに重点
を置いて考へることは危険であるが、しかし詩のスタイルが新古の
識別に重要な役割を果すことは否定し得ない。
目加田誠氏、詩経訳注篇第一、九三頁以下、
序集伝は、衛の州肝の乱に関係ありと見てみるが、崔述は州呼の時
てみた訳でなく、むしろ陳宋を誘って鄭を伐って己れの人気を獲よ
とすると鄭を伐つた事件であるべきだが、その折は陳と宋とが争っ
うとしてみたので、この詩の情景に合はないと論じてみる。しかし
大鼓の響、踊躍用兵などの白兵戦の描写、国に土語、漕に城といふ
戦の様子は、西周の詩とは思はれず、春秋時代のものであることは
確かである。
功勲泉水は、序によれば、蓬々帰るを思ふ。古は諸侯に嫁して、父
て志を示したと言ふ。毛鄭と朱子の説は、細部では合致しない点も
母亡きあとは帰寧したくても出来なかった。そこで、この詩を作っ
あるが、衛女帰寧を思ふの詩とするは同じである。しかし、 ﹁衛に
懐あり﹂、 ﹁すみやかに衛に至らむ﹂、 ﹁諸姫と謀る﹂等の言から
この詩を衛が狭人に逐はれ、宋の桓公に迎へられて楚丘に遷る事件
考へると、何か衛国に大事があったものと見るべきである。何楷は
て、衛から他国に嫁してみた女が、故国を憂ふる歌と見ることは正
と結んで考へた。この説は魏源に継承された。泉水を衛の難に際し
しいと思はれる。
劉
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⑳ ⑨
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⑫
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⑱ 陳風株林は、序によれば、霊公を亘る詩とし、集伝も霊公の淫乱を刺
るとする。左伝宣公論・十年及び昭公二十八年遅よれば、陳の大夫
夏御叔の死後、正嘉は夏鳶に通じたが、後に霊公は夏姫の子、徴静
に殺された。徴鉦は自立して陳侯となったが、翌年楚の荘王は之を
伐って徴辞を殺し、霊公の子を立てた。これが成公である。詩を見
るに、 ﹁株林に向ふは、見せかけで云々﹂と言ふのは、恐らく左伝
働 秦風黄鳥の詩は、その中に﹁誰従藩士﹂と誰を以って歌ってみるの
の如き史実を歌ったものであらう。
で、後の人が彼等の痛ましい最後を伝聞して、哀悼した詩であら
う。その詩は次の如くで所謂三章畳詠式と言はれるものである。
○ 交交黄鳥、止干棘、誰従穆公、子車奄息、霜露奄息、百夫之特、
臨其穴、端4其傑、彼蒼者天、繊我良入、如可腰分、入百其身、
︵第一章︶
○ 交交黄鳥、止干桑、誰従穆公、子車仲行、維此仲行、百夫之防、
︵第二章︶
臨其穴喘々其標、彼蒼者天、繊我良入、如可晒分、人百其身、
⑱ 鴉鴉は大鳥、これに呼びかけ且つ制止するは小鳥とするものに、毛
伝、胡承瑛の毛詩後箋︵続経解七六上︶、李輔平の毛詩紬義︵経解
・一三三九︶がある。胡氏は﹁後儒靱謂毛鄭皆以鵬鴉小鳥、而不知
毛義実与鄭不同、三章伝云、手病ロ病、故能免乎大鳥之難、経中蚊
是呼而告之、⋮⋮箋云、重言鵬鵜者、将述其意之所欲言丁寧之也、
無大鳥字、則所謂大鳥即指鵬號、難即指取子殿室、可見鴉鴇々々確
直以既取我子以下為鴉鴉之言、非毛意也、埠雅謂詩章首三句似戒鵬
と論じてみる。
鴇之詞、即鴉鴇自道、﹂
⑲ 鵬鴇を小鳥、既取我子以下をその自謂とするものに、ω鄭箋、回陳
奥・詩毛氏伝疏︵十五︶ ︵続径解=四︶09魏源・詩古微︵十七︶
幽風三家詩発微︵続径解二七二︶がある。
⑳ 上掲書及び趙岐の孟子注の説。
朱駿声、説文通訓定声、履部雅字の条
内田清之助博士、新編日本鳥類図説、一〇〇頁、この書は、日本鳥
上掲書
類図説とあるが、アジヤ全般の鳥類に亘ってみる。
血筋を股の武庚とするものに、華甲瑛︵毛詩後箋︶反影、集伝、亀
疏︶魏源︵詩古微︶などがある。
井昭陽︵毛詩考︶などがあり、続演とするものに、陳奥︵詩毛氏伝
鄭振鐸、中国文学史︵三九−四一頁︶ ︵挿図本︶
目加田杜氏、詩経訳注篇、五五〇頁
張西堂、詩経曲論、六〇頁以下
松本雅明氏、詩経諸篇の成立に関する研究、四六頁
1︵昭三六・一・十五︶一
一
22
一
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