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意拳界の新星 高臣氏

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意拳界の新星 高臣氏
意拳界の新星
高臣氏
人々は彼を「意拳新星」と呼ぶ。その意拳は、現在为流の「北京意拳」
「韓氏意拳」とも異なり「天津意拳」
「保定意拳」
と呼ばれる。王薌齋先生の早期と晩期に伝承されたものであり、王先生の意拳を研究する上で貴重な存在である。
<プロフィール>
1971年生まれ、38歳。中国遼寧省本渓出身。
1986年より意拳を始め、王選傑氏、楊鴻晨氏に学び基礎を固める。
その後、天津の李洪喜氏(王薌齋→趙宴生→李)より意拳の真髄を得つつ、
更に張恩貴氏(王薌齋→張)の指導により拳学を一層向上させた。
2005年11月 王薌齋先生生誕120周年記念大会において健舞を
演武。
2006年4月 香港意拳学会の招待で講習会を開催。
その他、中国各地での指導、メディアでの文章発表をし、生徒は中国全土
から集まるほどである。
現在、故郷の本渓を拠点に意拳の研究と普及活動で多忙な毎日を送って
いる。
現在、中国、香港、台湾において注目を集めている「意拳新星」こと高臣氏を訪ねるため、意拳調査隊は飛行機で遼寧
省瀋陽に向かった。空港からは瀋陽経由でバスを乗り継ぎ、約3時間後にようやく本渓へ到着。その後、高氏本人に連絡
をとり迎えに来ていただいた。
高臣氏とは、2005年北京で開催された「王薌齋先生生誕120周年記念大会」において面識を持ち、当時は時間の
関係で殆ど話はできなかったが、大会での高氏の演武を拝見した当初より印象が深く、いつか再会をと待ち望んでいた。
その時と比べると単に名が広まっただけでなく、貫禄も充分ついたようだ。写真も含め、傍から見た印象では細身の体
に見えたが、間近で見ると腰周りが太く、ドッシリと安定した体格であった。
高臣氏の意拳は、あくまでも形意拳の要素が非常に強く、ボクシングの要素を取り入れたと言われる、所謂「北京意拳」
のスタイルとは異なる。
高氏は、王先生の本来の意拳は 8 割が形意拳、2 割が現在普及している意拳で、それは「意拳」と呼ぶより「王薌齋風
の形意拳」の方が相応しいと言う。
王薌齋先生の意拳を目指すには、王先生が辿った過程を知るべきで、最終的に出来上がった結果のみを学んでも理解で
きない。例えて言うなら、小学生が大学の授業に参加するようなものである。
王先生はいきなり意拳を創始したのではなく、郭雲深先生より形意拳の真髄を学び、更に各門派(心意拳、鶴拳等)と
の交流において最終的に意拳に辿り着いたのである。
では、一般の形意拳と王先生の意拳の違いは何であろうか?
一般の形意拳は重厚、沈着、単一、剛的である。王先生の意拳はそれに軽快、変化、充実、均衡、柔的要素を融合し、
更に芸術性までも追加した。これは当時の形意拳界にとっての一大改革とも言えよう。当然、
周囲の意見は厳しかったが、
王先生はそれを実力でアピールしたのである。その様子は、招法を謳わない無形の技で、触れた瞬間に勝敗がついたと言
われている。
高氏が意拳の研究を重ねる中で、特に啓発された老師を2名紹介しよう。
一人目は李洪喜先生。1949年天津生まれ。幼尐より武術を好み、17歳で岳侠林先生の下で形意拳、龍形八卦掌、
孫氏太極拳を学び、その後も名師を求めて研究に励む。
1976年に保定の趙宴生先生、呉振法先生(共に王先生の晩期の弟子)に意拳を学び、1985年には天津の張恩貴
先生(王先生の早期の弟子)の指導を受ける。
武術以外にも佛学、医学、儒学等の研究も重ねる。
高氏は、2000年に縁あって李先生と面識を持ち、李先生が亡くなるまでの期間、指導を受けたことにより、大きな
影響を受けた。
李先生の内勁(本人は内渾圓と呼ぶ)は真なるもので、接触した時に重厚さを、そして発力した時には驚異的な力を感
じ、何をするにも「子供扱い」され、成す術なしといった状態であったと高氏は当時を振り返って語る。
2002年、李先生は53歳という若さでこの世を去る。
二人目は張恩貴先生。1907年天津出身。幼尐より叔父から攔手拳、秘宗拳を学び、18歳で李存義の弟子である張
鴻慶先生の下で形意拳、八卦拳法を学ぶ。
1935年、上海で開催された全国運動会の搏撃対抗賽(組手大会)に天津代表(7人)として参加し3位獲得。
その大会後に王薌齋先生と知り合い、指導を受けることになる。
1935年深県で行われた訓練のメンバーに選ばれたものの、家庭の事情で参加できなかったが、この訓練に参加し後
に義理の兄弟関係を結んだ張恩桐氏との研究で大躍進を遂げた。
晩年は後継者の育成に励み、李洪喜先生は得意弟子とも言える。
高氏は、2000年に張先生と面識を持ち、その後の指導で真伝を得る。
当時、94歳という高齢にも関わらず、その動きは生き生きとし、尐しも年齢を感じさせないばかりか、王薌齋先生の
動きを彷彿させるほどであった。2005年、惜しまれつつ他界。
張恩貴先生
李洪喜先生
<調査内容>
一旦動き出すと、身体全体を使って凄まじい速さ、迫力で攻撃され、しかも一発一発が重い。あたかも機関銃の速さで
大砲を撃たれた感じである。その動きは千変万化。常に相手の意表をつき、一瞬パニック状態にさせる。そうする事で相
手の反応を遅らせたり、恐怖感を与えたりすると言う。
あっという間に間合いを詰められ、気が付いたら上・中・下段を同時または時間差で攻撃されている。こちらが何らか
の反応をすれば、すぐさま意表をついた攻撃が次々と繰り広げられる。その変化の速さは見事で、こちらはただただ急所
を守るか、逃げるのみの選択となる。
攻撃には七拳(頭、肩、肘、手、股間節、膝、足)を用い、全身が武器となっている。相手を制御するには、まず精神
を制御するとのこと。そうする事で相手はまな板の鯉状態。こうなれば、もう「打」も「放」も自由自在である。
站樁
站樁は構え、ファイティングポーズではない。相対的な静の状態で不動之動、整合(全体の纏まり)、繋がり、調節を
求める。静と言っても、固定し固まったもの(死)でなく、生きた変化のあるものである。
量より質が大事で、時間が長ければ良い訳でない。疲れたら休むべきで、無理して度を越せば功夫が身に付かないばか
りか、逆に体を壊すことにもなる。站樁をしていて、感覚的に最も良い状態の時に休憩するのが最も理想的だと高氏は語
る。
また外形、姿勢だけに拘らず、内容が重要である。生理的改造をし、肉体、精神を整え、合理的な姿勢、状態で力を求
める。要求が整えば力となり、全てに応用することができる。
〈
要点 〉
頭頂部を持ち上げ、顎を引く。体は真っ直ぐにし、臀部を収めることで、脊柱を上下に引っ張る。視線は遠い前方のや
や上方へ送る。
五首(首、手首、足首)は力を充実させる。
三円を守る。「三」とは背、腰、襠部。「円」とは充実、飽満状態を指す。丹田は前だけでなく全体的に丸く膨張する。
高氏の丹田は見事に真ん丸であった。
背部、肋骨を開くことで、肩、肘、指先へと力が充実する。肩は先ず左右に開き、次に包み込む。股関節においても同
様である。含胸抜背はしない。
意拳では「肩撑肘横」と言われ、肩、肘を外に張り出すことを強調するが、高氏は「沈肩垂肘」との併用の重要さを説
く。站樁においては上腕を外に張り、前腕で内に包み込む。両手は肩と同じ幅で、手首は曲げず大きな球をつかむように
し、指先は遠い前方で交差する。
円襠により、股関節、膝が外に張り出し、同時に内に包み込む。
足は、地に根が生えたように足の指で地を掴み、足心を窪ませ引き上げる。更に膝を引き上げ、股間節を引き上げる。
これと気沈丹田とを合わせて腰腹部で圧縮する。
「意念」については、誰しも強調したがるが、意念のみでは「妄想」になりがちであるため、それを発揮する担体(つ
まり形体)が必要である。初期段階において意識は先ず身体の要求に置く。何事も考えるだけでなく、実行する事や実際
の感覚が大事であり、知行合一の重要性を説く。
丁八歩では、足の左右幅を開け、前後左右の安定性を保つ。
呼吸に関して原則的には自然に行い、意識しないのだが、途中段階では体腔を鍛え、内気を養う為に腹式呼吸等も必要
である。それにより体腔の充実感が増し、打たれ強くなる。基本要求は、細く、長く、緩やか、均一である。
自然というのは、自由という事ではなく、自然に(勝手に)そうなるのでもなく、修練により不自然の状態から真の自
然に移り変わるもので、自然の法則、運動規則に符合し、最終的に意のままとなる。これは最高級の境地と言える。
従来の三体樁(三体式)では前後が中心であったが、高氏の言う王先生の三体樁では肘を外へ張り、両足の左右幅を広
げことで均衡、飽満な状態となった。
練習はいきなり渾圓樁を始め、そのまま終了するのでなく、提插樁→提抱樁→扶按樁→渾圓樁の順で始め、そして渾圓
樁→扶按樁→提抱樁→提插樁の順で練習を収める。
更に下插樁から技撃樁の低式となれば、これが所謂「伏虎樁」。提抱樁から技撃樁への変化が「托嬰樁」
。扶按樁から技
撃樁への変化が「三体樁」
。渾圓樁から技撃樁への変化が「抱樹対欲憾樁」となる。
また、三体樁から両手を上げて手の平を内向きにしたのが「挽弓射壁樁」となり、全て繋がりがある。
ちなみに抱樹対欲憾樁では合力を求め、挽弓射壁樁では争力を求める。つまり圧縮、膨張により飽満感を得る。
見よ!この肉体美を!
試力
試力は、静から動に移り変わる重要な訓練部分である。動中に静(站樁の状態)を求め、站樁の状態を常に維持する。
この時、動きは途切れてはならず、もし途切れても「意」は途切れない。
一動全動、つまり一か所が動けば全てが動く。動きは体全体で行い、これを整体と言う。
王先生曰く「なぜこの動きが存在するのか」。つまり闇雲に動いてはならず、ましてや見栄えを求めるものでもない。
練習において「空中遊泳」と表現され、抵抗感を感じるように言われるが、単なる意念のみの空虚の抵抗とならず、真
の抵抗を求める。その抵抗とはつまりに相手のことである。
鈎銼試力(北京では、勾挂試力とも呼ぶ)では、基本となる前後の動きであるが、単純な押し引きではなく、押しの中
に引きがあり、引きの中に押しがある。つまり陰陽のバランスが重要と言える。また前後と言っても、直線上の運動でな
く、螺旋状に行い、更には前後の中には上下、左右の要素が含まれている。
高氏には鈎銼試力の他、波浪試力、蛇纏手試力、金亀出水試力などを実演していただいた。
試声
発声法は各流派にそれぞれ存在し、心意六合拳やの形意拳等では「雷声」と呼ぶ。
試声では、口腔、胸腔、腹腔の共鳴と発力とを合わせることによって神経器官を激発し、更には内部の力を呼び起こし、
発力の補足をする。
発声をすることで相手を驚かすのが目的ではなく、自己の感情や気分と形体との一致を図るものである。
発力の際は、腹部が弛緩するのでなく、瞬間的に鼓蕩(膨張や揺れ)状態となる。
腹部について王先生は、站樁時は「松圓(円く緩める。含蓄)
」、試力時は「常圓(含蓄の状態を維持)」
、発力時は「実
圓(圧縮した円)
」と述べている。
基本段階では、
「イ」
「ヨ」と発声するが、最終的には発声をせず、息も外部へ出さない。気は浮かすことなく沈め、胸
腔、腹腔まで圧縮することで、末端にまで力が広がる。ちょうど井戸に石が落ち、波紋が広がるように。またその圧縮に
より横隔膜の弾力性も養われる。
歩法
意拳の歩法と言えば、「摩擦歩」と呼ばれる。站樁、試力の意や力を維持しながら歩行移動するわけだが、単なる歩法
ではない。八卦掌では「暗腿」と呼ばれるように歩法には腿法(蹴り、足技)が含まれている。意拳でも単独の歩法、腿
法などはない。また、歩法、手法、身法との協調一致も大事である。
練習では、高式、中式、低式の三式に分かれ、高式では低式のような安定感、力感を求め、低式では高式のような軽快
さ、変化を求める。
前進時、丹田、股間節を含む全身で後足を導き、引き上げる。この時、膝下が地面に埋まっているかのような抵抗力を
感じつつ移動する。これは単なる意念だけではない。調査隊員が実際に足首を押さえていてもズルズルと前後に引きずら
れてしまうほどであった。
この時、足と全身の間や両足間には、合と争(開合)の関係が常に成り立ち、部分的な動きをしない。
歩法の基礎として、先ずは「独立樁」で片足での支持力、バランス力を養うと良い。
実戦の際は歩法を意識することなく自由に動くこと。
「打人如走路」(人を打つこと道を歩くがごとし)
発力
高氏の言う発力とは「爆発力」ではなく、
「爆炸力」である。つまり「爆発力」とは一点集中の力で、
「爆炸力」とは均
等に放射する力である。
意拳では「神気」という言葉が多用されるが、高氏は「神」とは精神であり、スイッチにあたり、
「気」が爆薬である
と解釈した。意念において、虎が木製の檻を壊したり、龍が体に巻きついた鉄製の鎖を引きちぎったりし、全身の力を一
瞬にして爆発させる感じである。
節節有力、無処不弾簧(節節に力があり、全身がバネである)。全ての箇所を使用し、また全ての方向に打つ。
「縮骨而発」
「筋伸骨縮」の「縮」とは、束、合、蓄の事を表し、
「骨」とは関節を表し、全身が大きなバネの状態となり
力を発する。しかし動きは小さく、傍からは動きが見えない。
高氏は、発力を为に以下の 2 種類と語る。
崩弾:弾性、柔的なもので、筋を使用。
惊抖:硬さ、剛的なもので、骨格を使用。
この 2 つの力は同時に存在し、単独の力は存在しない。つまり剛柔相済である。
王先生との勝負で多くの人が「一瞬電気に触れたかの如く…」という表現をしているが、それは速度、力、キレ、タイ
ミング等の様々な要素が揃わないと達成できない。
動作は小さく、力は強く、瞬間的に行う。それにより相手の重心や力、そして思考を崩す。
推手
一般的に意拳を始め、太極拳やその他の流派での推手では、片手または両手を合わせて回しつつ攻防をするが、高氏の
推手(接手、打手とも呼ぶ)では接触した状態から直接攻防をし、無駄に回さない。つまり推手のための推手はしない。
站樁では各関節が曲折した状態であるが、その曲折が面を作り、面で攻撃する。点ではない。
人を打つ(打人)よりも人を飛ばす(放人)方が難しく、人を飛ばすより、人を制する(制人)が更に難しいと言われ
る。よって、闇雲に打ったり飛ばしたりせず、神経を敏感にして相手の力や重心を知り、それを制御する能力が必要とな
る。
散手(断手、実作)
「不招不架、就是一下」相手の攻撃に構わず、単なる一手で勝敗をつける。
意拳では「打実不打虚」と言って、相手の虚(隙、弱点)を探してそこを攻撃するのでなく、あえて実を攻撃し、身体
まるごと潰したり、吹っ飛ばしたりする。場合によっては、直接中心または根節(肩等)を打ったりして、相手の攻撃を
止める。
高氏の動きは変化が速い上に一打一打が重い。しかも不測の動きや突然の変化で一瞬反応が遅れたり、反応を誤ったり
する。常に相手の思考を超えた変化をする。変化は無限で測ることができない。高氏は、速度、力、角度、そして変化が
重要と語る。
物質的向上が心理的に偉大とさせる。中国では「芸高胆大」と言って、芸が高ければ、肝っ玉が大きいと言う。相手を
意識せず、天、人、地全てを自分の空間として動く。正に意の如くである。
先に実践があり、後に理論が存在する。理論に束縛されてはいけない。
陰陽の変化が重要。手が陰、体が陽。相手が陰、自分が陽といった具合に同時に存在し、絶えず変化をする。王先生は
自らを「矛盾老人」と呼び、この矛盾(陰陽)の対立、統一を強調した。
相手に対して油断することなく、常に巨大な強敵と見なして対戦する。
武器
形意拳は槍術から創設されたと言われ、単なる武器術としてのみでなく、身法、手法、歩法の強調、功力培養の補助的
功法として「抖槍」という基本練習を行う。これは槍術の基本で一般的に「攔」
「拿」
「扎」と呼ばれ、外・内方向へ弾い
て、前方へ突き刺す動作である。
この他、「五行槍」や歩法と合わせての練習、対人練習等がある。
ちなみに「北京意拳」では「棍法」として紹介されており、前手は「半握り」として相手の攻撃を受けぬよう棍を握り
しめないが、高氏はあえて握りしめると为張する。
健舞
王先生が各地を訪問していた時、安徽省で交流した黄慕樵(画家)から健舞を学んだと言われている。黄氏は画家とし
て敦煌の古代壁画に描かれている舞踊等を研究しており、心意拳にも精通していた。
その動きは内心、感情を意のままに表現し、悠然と漂い舞っているかのようであると描写されている。無形かつ優美な
芸術性の中に武術的要素が失われることなく内包されている。
一般的に健舞は、揮浪、遊龍、白鶴(戯)、驚蛇の四種として紹介されているが、これはあくまでも健舞の中での表現
例にすぎず、ましてや套路(型)として演武するものでもない。
高氏の演武は、一見とても気持ち良さそうで優雅にみえるが、次の瞬間、動きの質が一変する。剛柔、強弱、大小、緩
急のリズムが入り混じった様は、まるで「即興のダンス」を見ているかのようだった。
中国では、本来持っている力を「本力」と呼ぶが、この本力を否定するのでなく、これを改めて生きた力に変えること
が重要で、その力を「功力」と呼ぶ。
高氏との会話の中で、各流派をボールに例えた話があったが、太極拳は皮のボール、形意拳は鉄のボール、八卦掌は鉄
線で編んだボール、そして意拳はサボテンボールだそうだ。なかなか面白い例えである。
調査を終えて
今回の訪中は、4泊5日と短い期間でありながらも、高氏のアパートに住込みでお世話になり、到着した晩から睡眠以
外は殆ど実技を交えた武術談義といった非常に濃い内容の交流ができた。しかも今までの固定概念が大きく崩され、正に
「目から鱗」といった毎日で、今後の意拳研究において非常に良い刺激となった。恐らく高臣氏は、今後益々中国内外か
ら広く注目を集めることであろう。
高臣氏を始め、高貴氏、王海鵬氏、孫承山氏
その他皆様に感謝致します。
左から大浦、高臣氏、王海鵬氏(高氏の弟子)
、西松
弟 高貴氏
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