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未知なる幻想郷を夢に求めて
未知なる 未知なる幻想郷 なる幻想郷を 幻想郷を夢に求めて The Dream-Quest of Unknown Gensokyo ―― 新しい経済 しい経済シ 経済システムの探求 ―― research into the new economic system 石崎信吾: 石崎信吾:著 境書店 目 次 《はじめに》 はじめに》………………………………………………………… 《数式とのつきあい 数式とのつきあい方 とのつきあい方》 ………………………………………… 《第1章 経済的成長とは 経済的成長とは何 とは何か》 序文……………………………………………………………………… 序文 一問一答』 第1節 『一問一答 』………………………………………………… 第2節 『新たな尺度 たな尺度を 尺度を求めて』 めて』…………………………………… エントロピー貨幣論 貨幣論』 第3節 『エントロピー 貨幣論』…………………………………… 成長の 限界?』 ?』…………………………………………… 第4節 『成長 の限界 ?』 第5節 『結論』 結論』……………………………………………………… 《第2章 生命と 生命と邪悪》 邪悪》 序文……………………………………………………………………… 序文 集団・ 組織の 邪悪性の 共通点』 第1節 『集団 ・組織 の邪悪性 の共通点 』………………………… 第2節 『邪悪性の 邪悪性の起源を 起源を探る科学的手法は 科学的手法は有り得るか?』 るか?』…… ?』 ゲーム理論 理論はどこまで 第3節 『ゲーム 理論はどこまで役 はどこまで役に立つか?』 つか?』………………… ?』 人間における における機械的 機械的な 行動原理とゲーム とゲーム理論 理論の 有効性』 第4節 『人間 における 機械的 な行動原理 とゲーム 理論 の有効性 』 ………………………… 第5節 『ゲーム理論 ゲーム理論による 統合と教育制度改革』 教育制度改革』 理論による社会科学 による社会科学の 社会科学の統合と ………………………… 第6節 『邪悪性は 邪悪性は治療可能か 治療可能か?』 ………………………………… 《終章に 終章に代えて―― えて――楽園 ――楽園の 楽園の素描》 素描》 序文……………………………………………………………………… 序文 ○○……………………………………………………………………… …………………………………………………………………………… …………………………………………………………………………… …………………………………………………………………………… …………………………………………………………………………… …………………………………………………………………………… 《付録》 付録》 付録1 付録1:エントロピーと情報量 エントロピーと情報量の 情報量の等価性 ………………………… 付録2 筆者の 持論に せられた反論 反論・ 再反論など 付録 2:筆者 の持論 に寄せられた 反論 ・再反論 など …………… 付録3 付録3:指数・ 指数・対数に 対数に御用心 ……………………………………… 付録4 付録 4:技術的特異点 ……………………………………………… 付録5 付録5:数学の 数学の広がり ――ゲーム ゲーム理論 理論、 経済学、 そして現実世界 現実世界とのつながり ―― ゲーム 理論 、経済学 、そして 現実世界 とのつながり …………………………………………………………… 付録6 付録6:ゲーム理論 ゲーム理論のもう 理論のもう少 のもう少し詳しい説明 しい説明………………………… 説明 付録7 疑似科学に 御用心…………………………………………… 付録 7:疑似科学 に御用心 付録8 付録8:魂と原子論…………………………………………………… 原子論 《参考資料一覧》 参考資料一覧》…………………………………………………… ※暫定的な但し書き:この作品は東方 Project の3次創作です。現実 の事物を参考にした部分も有りますがあくまでもフィクションです。 目次中の薄い灰色で塗られた項目はまだ未執筆で、目次中の薄い紫 色で塗られた項目は PDF 化に合わせた校正がまだ済んでいないため、 未収録です。 《数式とのつきあい 数式とのつきあい方 とのつきあい方》 経済学に関する啓蒙書としての本書の企画を境書店の方から持ちか けられ、科学文庫編集部の人達との出版会議に臨んだ際、本書に数式を どの程度載せるかを巡って、会議はかなり難航した。 編集部の人は、物理学者のホーキングが『ホーキング 宇宙を語る』 を著す際に出版社の人から受けた忠告の事を引き合いに出して、本書に 僅かなりとも数式を載せる事に対し大いに難色を示した。 出版業界で昔からささやかれるジンクス――『数式を一つ入れるたび に本の売れ行きは半減する』――を危惧していたわけだ。 編集部の人の言い分ももっともではあるが、私はこのジンクスに逆ら わない事が常に良い事だとは思っていない。 例えば、数学や物理学に親しんでいない人にも比較的有名な、質量と エネルギーの等価性を表す法則を、数式を一切使わずに徹頭徹尾日常の 言葉のみで表現しなければならないとしたらどうだろうか。 数式ならば“ いちいち、 ݉ = ܧc ଶ ”とだけ記せば済む所を、 『エネルギーの値は質量に光速度の2乗を掛けた値に等しい』 と書かなければならない。 本の中で何らかの法則について1回しか触れないのであれば日常の 言葉のみで表現しても良いかもしれないが、重要な法則というのは往々 にして何回も参照されるものである。参照する度に日常の言葉のみで法 則を述べるというのは、『会話をする時に略語を一切使うな』と言われ ているのと似ている。 日常でよく使っている略語を一切使わずに会話をする場面を想像し てみると良い。 例えば、 「タブレット」を「タブレット式 PC」と言い直し、 「タブレット式 PC」をさらに 「タブレット式パーソナルコンピューター」と言い直し、 「タブレット式パーソナルコンピューター」をさらに 「石版の様な形をした、個人が使う為の、通信機能付き小型電子計算機」 と言い直し…… 万事その調子だと、会話はひどく回りくどく、もどかしいものになる。 物理学者のファインマンは 「数学者の仕事の多くは、数学におけるアイデアをできるだけシンプル に表現できる記号を発明する事」 という意味の事を『ファインマン物理学』の中で語っているが、 数式というのは「数量や論理の正誤が絡む事柄を可能な限り簡潔に表現 する為の略記法」とも言える。 あるいは、漢字のように一種の「表意文字」と言えるかもしれない。 学問の世界に限らず、色々な業界で使われている略語や隠語も初めて 聞いた時はとまどうものだし、知らない漢字を初めて見た時は意味が分 かるまで困惑するものだ。 しかし、誰かに教えてもらったり、あるいは誰かがしゃべっているの をはたから聞いていて、既に知っている事柄との関連をパズルのように 組み合わせる事ができれば、いずれは意味が分かるようになる。 数式を理解するという作業は、虫食い穴がある文書を読み解いたり パズルのピースを埋めたりする作業に似ている。 そして、穴が多かったりはめ込むべき位置が分かっているピースが 少なかったりしても、一体何の文書・何の絵なのか、見当がつく場合も 少なくない。 だから、数式が出てきたとしてもどうか尻込みしないでいただきたい。 「初めて聞く略語や隠語だな」とか「初めて見る漢字だな」ぐらいに 考え、とりあえず「何となく分かったような気がする」「分かったふり をする」でもいいので、先に進んでいただきたい。 そしてある程度読み進んだ段階で、気が向いたら前のページに戻って みて、思いついた言葉や記号を虫食い穴の部分へ仮に入れてみたり、 はめ込む位置が分かったピースと分からないピースを組み合わせたり して、何か新しい発見がないかどうか試していただければ幸いだ。 仮に新しい発見が無くても気にせず、時々このページを読み返しつつ、 先に進んでいただきたい。 付録5 付録5 数学の 数学の広がり―― がり―― 経済学、 経済学、ゲーム理論 ゲーム理論、 理論、そして現実世界 そして現実世界とのつながり 現実世界とのつながり この付録は、第2章第3節で言及したゲーム理論を支える数学がいか に広大で強力な学問体系であるかを述べるものである。 この付録は、内容を 25 個の節に分け、 『*(アスタリスク)』の記号で 節の始まりを示し、最終節の1つ前の節をこの付録の『結びの言葉』と し、最終節で数学記号やいくつかの基礎的な数式の早見表を列挙する構 成になっている。 また、本文(特に第2章第3節)や他の付録(特に付録6)と交互に 照らし合わせながら読む事で、理解が深まる事を意図した構成になって いる。 この本の本文では注釈が入る場所に「※」の記号及び番号を入れ、各 節の末尾に注釈の内容をまとめて記載するという方法を採っているが、 本付録では注釈が入る場所に「※」の記号のみを入れ、その記号を入れ た場所からあまり離れていない後の箇所で注釈の内容を随時記載する 方法を採っている(ちょうど、下記の「トリビアル」の語意を説明する ための注釈の様なやり方で)。 大学レベル以上の数学に触れた事のある人にとっては「くどい」 「トリビアル(※)」と感じるような内容であっても、私が必要を感じた ものについては随時注釈を入れた。 また、私が英語表記併記の必要を感じた語句についても随時英語表記 を併記した。 (※注:トリビアル(trivial) ;「自明」「当たり前過ぎて面白味が無い」という 意味。「トリビア(雑多で有用度が低い豆知識) 」と語源を同じくする。 数学者がよく使うこの言い回しを不快に感じる人もいるかもしれないが、 「こういう言い回しが有る」と知る事自体は損にはならない) この付録の表題とした「数学の広がり」には真に驚嘆させられる。 ある数学的手法・概念について説明しようとすると別の数学的手法・ 概念についても触れざるを得ない事が多々有るが、全てを詳しく説明し ようとすると、どう少なく見積もっても、総計数千ページ・全十数巻も ある様な数学の教科書集を1人で書くはめになるだろう。 そこで、この付録における説明は、この付録で私が述べたい事柄の 理解を助けるために必要最小限と思われる説明に留めた。 本付録の文中で「この本では深入りしない」と書かれた箇所では 「より詳しく知るには巻末参考資料一覧内の該当資料を参照して頂き たい」という文言が省略されているものとする。 「この本では深入りしない」と書かれた箇所が、この付録のこの文 より後の領域に 24 箇所有る。 これらの箇所は、私の「正確さを損なわずに数学を分かりやすく語る 能力」の乏しさゆえに、こうせざるを得なかった箇所である。 もしもあなたがこの付録に書かれている内容をよく理解できないと したら、「深入りしない」と書かれた箇所に関する参考資料を読むと、 まるでパズルのピースを埋めるがごとく理解に至るかもしれない。 私のつたない説明が「数学の広がり」「数学と現実世界とのつながり の強さ」 「数学という名の魔法の強力さ」を読者に伝える事ができれば、 幸いである。 *1:集合とその 集合とその要素 とその要素( 要素(元) 数学者、あるいは自らの分野で数学を駆使する必要に迫られる あらゆる種類の学者は 「論理展開や数量的処理を行うに当たって当面支障ない程度に充分 明確な、指定された性質を持つものの集まり」を 『集合(set)』と呼ぶ。 そして、集合を形作るこれらの「指定された性質を持つもの」の 事を『集合の要素』あるいは単に『要素』 『元』 (いずれも英語では “element” )と呼ぶ。 *2:論理体系の 論理体系の明確さ・ 明確さ・厳密 さ・厳密さをどこまで 厳密さをどこまで確保 さをどこまで確保すべきか 確保すべきか 「指定された性質を持つもの(要素)の集まり」の指定の仕方や要素 の定義・前提条件・論理展開や数量的処理を明確かつ厳密にする事は、 矛盾を排除するために可能な限り最大限行うべきである。 矛盾を含む論理体系は、どのような支離滅裂な結論でも正しい事に してしまえるので、何ら建設的な事柄を導く役に立たない。 しかしながら、厳密さに固執するだけだと、たちまち思考の泥沼や蟻 地獄に陥る事も多々ある。 例えば、算数の授業で習う加算(足し算) ・減算(引き算) ・乗算(掛 け算) ・除算(割り算)の四則演算(※)について論じる時、普通は暗黙 のうちに「1+1=2」を「明確な正しい前提」として扱うが、 「1+1=2」は数学の全領域において必ずしも自明な命題ではない。 (※注:「加・減・乗・除」の結果を、それぞれ順番に 「和・差・積・商」と呼ぶ) 実際、「1+1=2」でないような数学的体系を矛盾無く構築する事 も可能であり、「1+1=1」「1×1=1」「1+0=1」 「1×0=0」 「0+0=0」 「0×0=0」となるブール代数の体系などが有名な例で ある(ブール代数はコンピューターの論理回路設計や通信においてノイ ズによる誤情報を訂正する仕組みなどに欠かせない数学的体系である)。 「1+1=2」でない体系よりも「1+1=2」である体系の方が 多彩な性質を持っており実用に供される機会も多いため、いくつかの 無矛盾な数学的体系のうち「1+1=2」である体系が多用される。 それゆえ人間が今まで直面してきた数量的問題においては 「1+1=2」を暗黙の正しい前提とする場合の方が圧倒的に多いが、 ブール代数の例を見ても分かるように、「1+1=2」が暗黙の正しい 前提で無い場合も有る。 とは言え、算数を論じる前に何が何でも「1+1=2」が成立する事 を確認する(証明する)所から始めなければいけないとしたら、万事に おいて、何か有意義な事を見出すまでに法外な回り道を強いられるだろ う。――「1+1=2」が成立する体系の正当性・無矛盾性を証明する には少なくとも大学の数学科の1~2年生が知る範囲の数学を要し、そ のレベルの数学を修めるには相当な時間を要する。(※) (※注: 「1+1=2」が成立する体系の事を「ペアノの公理に基づく算術体系」 あるいは「ペアノ算術」と呼び、ペアノ算術の正当性・無矛盾性を証明するに は「ZFC 公理系(ZFC Axiomatic system) 」と呼ばれる公理(根源的な規則)の 集まりを用いる。 ZFC 公理系は2人の数学者の名を冠する「ツェルメロ・フレンケルの公理系 (ZF 公理系)」に「選択公理(Axiom of Choice) 」を加えたものである。 ZFC 公理系についてこの本では深入りしない) 無限の思考速度や時間が有れば、いつ何時でも「1+1=2」が成り 立つ事を確認する所から始めてもよいかもしれないが、我々の思考速度 も思考に費やせる時間も決して無限では無い。 そこで、 「当面支障無い程度」の明確さと厳密さを持つ指定の仕方・ 要素の定義・前提条件で一旦出発して、可能な限り論理展開と数量的処 理を進め、それ以上進めなくなったり堂々巡りになったりしたら改めて 指定の仕方・要素の定義・前提条件・論理展開・数量的処理について問 い直す、というやり方で思索を行う事になる。 これは結局、「はめ込むべき位置が分かっているパズルのピースから 先にはめ込む」という事だ。数学に限らず、人間が営むあらゆる科学は そうやって発展してきた。 *3:集合と 集合と写像 とにかく、「当面支障無い程度に充分明確な」集合であれば、それは 科学的研究の対象となる。 数学者であれば、 「ゼロより大きい全ての整数(=自然数)の集まり」 や「全ての実数」 「全ての虚数」 「全ての実数と虚数を合わせた全ての複 素数」などの『数』と呼ばれる集合を主な研究対象とする。数だけでは なく、例えば「全ての三角形」といった図形の集合や「全ての2次方程 式」といった数式の集合なども数学者の研究対象となる。 物理学者や化学者であれば、「容器の中のヘリウム原子全て」や「原 子から放出される光子」など、何らかの物体や物理的・化学的現象の集 合が主な研究対象となる。 経済学者であれば、 「地球人の全て(地球上の全人口)」や「地球上で 流通している貨幣の全て」といった集合を研究対象とする事が多い。 古語の研究者であれば、その研究対象は「人類の歴史において書かれ た全ての古文書(未発見の物や偽書も含めて)」といった集合である。 それらの集合に対して何らかの働きかけ・操作を行う事が科学的研究 である、と言う事もできるが、数学においては集合に対して行う何らか の働きかけ・操作の事を、通常、『写像(map あるいは mapping)』と 呼ぶ。 この「何らかの働きかけ・操作」に対してもう少し詳しく述べると、 「ある集合 X ともう一つの集合 Y との間で、X の一要素である x と Y の一要素である y とを、ある法則に基づいて結び付ける」 という事である。 そして「ある法則」というのは、 「指定された集合を扱う限りにおい て無矛盾である事が証明されている法則」を意味する。 慣例として、集合 X から集合 Y への写像を「 f : X →Y 」と表記する。 X と Y の要素に注目する時は「 = f 」と表記したり、 x → y 」や「 x → f 」などのように表記する。 「 = f 」の表記は高校までの数学で習う『関数(function)』の あるいは「 表記と同じであり、『写像』と『関数』は、ほぼ同義語である。 通常、扱う集合が『数』である時に、写像を関数と呼ぶ場合が多い。 *4:関数と 関数と現実世界 現実世界を観察すると、至る所に、あるものと別のものの間に成り立 つ数量的関係を見出す事ができる。 現実世界から数量的関係を見出す時の心情を有名な漫画の登場人物 の心情に例えるなら、『ジョジョの奇妙な冒険』第7部『スティール・ ボール・ラン』にて、ジャイロ・ツェペリのレッスンを受けたジョニィ・ ジョースターが自然界から黄金比を見出す時の心情が、最もイメージし 易いだろうか。 数量的関係を表す数式を『「あるもの」と「別のもの」の関数』と 呼ぶ。 「あるもの」の箇所と「別のもの」の箇所には色々なもの(の数量的 情報)が入る。 例えば、天体や人工衛星などの軌道を計算する運動方程式は大まかに 2つの項(※)に分けられ、任意の位置における重力の強さを表す項と 運動エネルギーを表す項の2つから成る、位置及び運動量と時間の関数 である。 気体を使う熱機関が外部に与える仕事量を計算するのに使われる気 体の状態方程式は、圧力と気体の体積を表す左辺と温度と気体分子の数 を表す右辺から成る、エネルギーと温度の関数である。 波としての性質を持つもの全般の計算に使われる波動方程式(波動関 数)は、波の形を表す単一あるいは多数の関数を合成したものであり、 位置(位相)と時間の関数である。 (※注:『項(term) 』とは、独立した数式と見なす事もできる、数式の一部分 である。通常、定数と未知変数が乗算あるいは除算で結合されたものや、括弧 で一括りにされた数式を、単一の項(単項あるいは単項式)と見做す) 現実世界の中から「あるものと別のものの間に成り立つ数量的関係」 を見つけ出して、それを「関数」という形式で抜き書き(抽象化)し、 さらにその関数が正しく適用できる範囲を具体的に検証する。――科学 的探究の多くは、この一連の過程の繰り返しを基礎としている。 *5:ゲーム理論 ゲーム理論と 理論と関数 既に本文第2章第3節を読んで頂いた読者には分かると思うが、ゲー ム理論で「関数」について言う場合、それはたいてい「利得関数」につ いて言っている。 利得関数は「各プレイヤーが選んだ戦略の番号」と「それぞれのプレ イヤーの利得」の関数である。 それぞれのプレイヤーの戦略番号は多くの場合自然数(ゼロを含む場 合も有る)であり、それぞれのプレイヤーの利得は、純戦略のみを考え る場合の多くで自然数もしくは整数(正負の整数及びゼロ)であるが、 実数の場合もある。 混合戦略まで考える場合、単なる個別の場合の利得よりも「期待利得」 の方が重要視される。 混合拡大された利得関数は、「各プレイヤーが自らの戦略番号ごとに 割り振る確率」と「それぞれのプレイヤーの期待利得」の関数である。 それぞれのプレイヤーが自らの戦略番号ごとに割り振る確率は 0以上1以下の正の実数、期待利得は実数である。 (付録6の*4参照) 期待利得関数(即ち、混合拡大された利得関数)は、数学の諸分野で 現れる様々な関数と同じく、「連続で滑らかな関数」(※)と呼ばれる種 類の関数である。 「連続で滑らかな関数」とは、非常に大雑把に言うと、「ある法則」 によって結び付けられる要素同士の双方が実数もしくは複素数の値を 取り得るような関数であり、 『一方の実数もしくは複素数の要素の値をどれだけ細かく変えても、 関数に内在する「ある法則」によって結びつけられるもう一方の実数 もしくは複素数の要素が、細かく変えた度合いに見合う大きさで、 必ず存在する』ような関数である。 (※注:数学者が関数について「滑らかな」という形容詞を使う時は「連続」 という意味も含んでいるので、単に「滑らかな関数」と呼んでも同じ意味だが、 しばらくの間「連続で滑らかな関数」と呼ぶ) *6:関数とベクトル 関数とベクトル 期待利得関数には「ベクトル」の概念が導入されているので、この節 では関数についての補足事項と共にベクトルについて概要を述べる。 また、引き続く*7ではベクトルについてもう少し掘り下げた説明を 行い、関連する話題として複素数についても説明を行う。 今までの所、関数によって結び付けられる要素同士のうち片方を特別 扱いするような事をしていなかったが、ここで改めてある種の順序関係 について述べておく。 「y は x の関数である」即ち「 y =f x 」と表記する時、 y を「従属変数」、x を「独立変数」と呼ぶ。 この場合、関数が正しく適用できる範囲において、x の値を自由に (独立して)指定しているが、y の値は関数自身が持つ規則によって x の値から自動的に導かれている(従属している)。 「何の操作が実行されるか分からない箱に x を入れたら y が出てきた」 かんすう かんすう と解釈しても良い。実際、日本語において「関数」は「函数」とも書き、 「函」という漢字は「はこ」とも読み、「箱」という意味も有る。 「x を指定したら y に導かれる」 「x を入れたら y が出てくる」と いう関数を考える時、この関数と全く逆の操作を行う関数、即ち 「y を指定したら x に導かれる」「y を入れたら x が出てくる」という 関数についても、考える必要に迫られる事がしばしば有る。 この、ある関数と全く逆の操作を行う関数を、 「逆関数」と呼ぶ。 ある関数の逆関数は必ずしも存在するとは限らないが、 y =f x 」の逆関数が存在する場合、 「x は y の逆関数である」「 x = f -1 y 」と表記する。 「 さて、高校までの数学で見かける関数では、従属変数と独立変数の 双方に自然数・ゼロと正負の整数・有理数・有理数以外の実数などの 「普通の数」が入る場合が多い。 これら「普通の数」は『スカラー量(scalar quantity)』または略して 『スカラー(scalar) 』と呼ばれる。 「スカラー量」の対義語(異義語)である『ベクトル量(vector quantity)』 という語句で呼ばれているものも有り、この語句を省略して単に 『ベクトル(vector)』と呼ぶ事も多い。 素朴な言い方(定義)をすれば、 「ベクトルとは「普通の数を何らかの規則の下に順番を付けて一列に 並べた組」であり、その数の組によって「大きさ」と「向き」を決定 できるもの」 と言う事になる。これに対して、 「普通の数」即ち「スカラー量」とは、「大きさ」だけを決定できる数 である。 大学以降の数学では、従属変数と独立変数の片方もしくは双方が ベクトル量である関数も多く出てくる。 従属変数が単一のスカラー量で独立変数が複数のスカラー量である 場合、この関数を「多変数関数」と呼ぶ。多変数関数の独立変数を 一まとめにして「ベクトル量」と見なす事もできる。 独立変数がスカラー量(単一変数)もしくはベクトル量(多変数)で 従属変数が2個以上有る場合は「多価関数」と呼ぶが、多価関数の値を ベクトル量と見なせる場合、この関数を「ベクトル値関数」とも呼ぶ。 また、通常は「普通の数」のみに対して使っている関数を複素数に 対しても使えるように拡張したものを「複素関数」と呼んでいる。 *7:複素数とベクトル 複素数とベクトル 前の節で「スカラー量」と呼んだ「普通の数」の集合を便宜上 {自然数, ゼロと負の整数, 有理数, 有理数以外の実数}と定義して、 複素数を含めなかった。それは複素数がそれまでの「普通の数」とは 一風変わった性質を持つためであるが、ベクトルについてもう少し掘り 下げて説明する前に、ここで複素数の定義を簡潔に述べる。 『複素数(complex number)』とは、実数2つと虚数単位1つから 成る数であり、次の〔式5-1〕の様な形に表記される数の事である。 a は複素数 c の「実数部」と呼ばれ、a がゼロの時、複素数 c は 「純虚数」とも呼ばれる。また、項「ib」の中の「b」は複素数 c の 「虚数部」と呼ばれる。 虚数単位 i は「+(プラス)」や「-(マイナス)」の「符号」のよう なものであり、実数に掛ける事によって、それをプラスともマイナスと も違う方向に向ける(「その方向とはどっちか?」という疑問には少し 後で答える)。 複素数の四則演算は次の〔表5-1〕の様に行われる。 また、次の〔図5-1〕の通りに、単一の複素数は実数軸1本と 虚数軸1本から成る2次元の「複素数平面」(※)の上に表す事ができ、 ベクトルの一種として扱う事ができる。 (※注:早期にこの平面と関わった数学者1~3名の名を冠して「ガウス平面」 「ガウス・アルガン・ウェッセル平面」等と呼ばれる事も有る。また、 「複素数 平面」という語句を縮めて単に「複素平面」と呼ばれる事も有るが、文脈に よっては後述の「実数軸2本と虚数軸2本から成る空間」を「複素平面」と 呼ぶ事もあるので、注意する必要が有る) この複素数平面において「ある数に虚数単位 i を掛ける」という操作 は、実数・純虚数・複素数のいずれであってもその数を表すベクトルを (反時計回りの方向をプラス方向として)+90°回転させる事を意味し、 「ある数にマイナス1(マイナス符号)を掛ける」という操作は同様に +180°回転させる事を意味する。 ——つまり、i を2回続けて掛ける事(自乗する事)は-1を1回 掛ける事に等しく、『 = − 』である。 複素数平面上に記される単一の複素数を「(1次元の)複素ベクトル」 と呼ぶ事もある。 互いの実数軸と虚数軸が全て直交する2つの複素数から作られる 複素ベクトルは「2次元の」複素ベクトルと呼び、実数軸2本と 虚数軸2本から成る空間の中に表現される。(4次元空間上の図形 として表される) 3次元以上の複素ベクトルの場合も同様である。 複素数についての話が一区切り付いたので、ここでベクトルの話に 戻る。次ページの〔表5-2〕は、ベクトルに対して行える基礎的な 演算を示す。 見ての通り、ベクトル同士では掛け算・割り算が通常のスカラー量の 場合と同様には行えず、単一の複素数同士の掛け算・割り算とも異なる 扱いをする。 また、ベクトル同士で演算を行う際は次元(成分の数)が同じでなけ ればならない。 足し算と引き算については2つのベクトルの同じ順番の成分同士で スカラー量の場合と同じ演算をすれば良いが、スカラー量同士の掛け 算・割り算と全く同じ意味合いでベクトル同士の「掛け算」 「割り算」 を行う方法は無い。 単純にベクトルの各成分に同一の実数を掛ける演算である 「スカラー乗法(実数倍)」の他に、スカラー量同士の掛け算・ 割り算と似ている「ベクトル同士の演算」は2種類有り、 『内積(inner product)』と『外積(exterior product)』が有る。 まず「内積」について説明する。ベクトル同士の2種類の「積」の うち、内積は感覚的に理解しやすい。――単純に 「2つのベクトルの同じ順番の成分同士を掛け合わせてできた積を、 全部足し合わせたもの」が内積である。 基本的な意味を述べるだけなら「内積」の説明はこれで済んでしまう が、実際の演算法(特にベクトルの成分に複素数が含まれる場合)を 理解するには少々込み入った説明が必要なので、ここから 10 ページ余り を「内積」の説明に割く。既に理解している人はその箇所を飛ばして先 に進んで頂いて構わない。 初見で理解できない場合は、本書冒頭「数式とのつきあい方」の記述 を思い返し、とりあえず「分かったふり」をして先に進んで頂いて構わ ない。 「高校で習った内積の説明と何か違う」と感じる読者もいらっしゃる と思うが、これから述べる内積の説明の末尾に、高校で習った内積の式 と本付録で説明する内積の式が等価である事を述べる。 さて、内積を求める演算を筆算で行う際、2つのベクトルの成分を 並べて書く方法として、2通りの方法が定められている。縦に並べて 書く方法と、横に並べて書く方法だ。 縦に並べて書かれたベクトルは『縦ベクトル』と呼び、横に並べて書 かれたベクトルは『横ベクトル』と呼ぶ。 表の対角線上の数など、斜めに並べられた数の組を『ベクトル』と 見なす場合もあるが、その様に縦横以外の方向に並べられた数の組も、 〔表5-2〕のベクトルの演算規則に沿って演算する際には、 縦ベクトルもしくは横ベクトルのどちらかに書き直して、演算する。 内積を求める際に、どの成分とどの成分を掛ければ良いのか 分かりやすくして誤認を減らすため、通常、 「1つ目のベクトルを横ベクトルとして書き、 2つ目のベクトルを1つ目の右側に縦ベクトルとして書く」 という表記法を用いる事が多い。 成分表記を省略し個々のベクトルを識別する事だけを意図して、1つ のベクトルを少数の文字と記号のみで表記する時、そのベクトルを表す 文字の左側に縦棒「|」 ・右側に角括弧の右側「 〉 」を置いて挟み込む 事で、縦ベクトルを表す表記法も有る。 この表記法を編み出したのは、20 世紀有数のイギリス人物理学者 ポール・ディラックである。 英語では普通の丸括弧の事を“bracket” (ブラケット)と呼び、角括弧 の事を“angle bracket” (アングルブラケット)と呼ぶが、ディラックは 「 〈 」を略して“bra”と呼び「 〉 」を略して“ket”と呼んだ。 また、彼は縦ベクトルを「ケットベクトル」と呼び、縦ベクトルの 複素共役(※)を取って横ベクトルに転換したものを「ブラベクトル」 と呼んだ。 ……冗談の様にも思えるが、史実である。 (※注:「複素共役」については少し後で説明する) 後で述べるが、ディラックの「ブラ-ケット記法」は量子力学で数式 を表記する時に便利なので、量子力学を学んだ者なら誰もが使っている。 「ブラ-ケット記法」を使うと、ある複素ベクトルとの複素共役を 取ったものとそれとは別の複素ベクトルとの内積は「 〈 」「|」 「 〉 」 を使って表記される。 の複素共役を取ったもの」と 」の内積は「 〈 x | y 〉 」と表記される。 例えば「複素ベクトル 「複素ベクトル と の全成分の虚数部がゼロである場合、この内積は2つの 実数ベクトル(縮めて「実ベクトル」とも呼ぶ)の内積を表す。 と の内積を(特に実ベクトルである場合) 2つのベクトル 「点乗積」あるいは「ドット積」(英語ではいずれも“dot product”) とも呼び、 「 ・ 」と表記する。 「 〈 」もしくは「 〉 」と「|」を組み合わせて実数ベクトル もしくは複素ベクトルを表記する時、ベクトルである事を示す右向き 矢印の記号「→」を文字の真上に書く流儀を使っていたとしても、 「→」を省略する場合が多い。ベクトルを表す文字を太字にする流儀を 使っていたとしても、太字にするのを省略する場合が有る。 (省略しても、ブラとケットと縦棒のお陰で縦ベクトルか横ベクトルの どちらかである事は分かるので) ここで1つ重要な注意事項が有る。 あるベクトルを表す文字の左側に「 〈 」 ・右側に「|」を置いて 挟み込む事は、そのベクトルを単に横ベクトル表記にする事を意味 するのだろうか? ベクトルの成分が実数のみである実数ベクトルの場合はその通りだ が、成分に複素数を含む複素ベクトルの場合は違う。 複素ベクトルの場合、そのベクトルを表す文字の左側に「 〈 」 ・右側 に「|」を置いて挟み込む事は「単に成分を縦から横に並び換えるだけ ではなく、各成分の虚数部に係っている正負の符号を反転させる」事を 意味する。 複素数の虚数部に係っている正負の符号を反転させる操作を 「複素共役を取る」または単に「共役を取る」と言い、 複素共役を取った結果できた新たな複素数を、元々の複素数に対する 『共役複素数(conjugate complex number)』と呼ぶ。 きょうやく きょうやく 『 共 役 』は『 共 軛 』とも書き、元来は「共軛」が正しい漢字表記で あるが、画数が少なく済み意味としても全くの間違いとは言えない事 から、「共役」という漢字表記を使う場合が多い(英語ではどちらも “conjugate”) 。 当然ながら、ある複素数とその共役複素数とは「共役」の関係に在る。 また、ある複素ベクトルの全成分の複素共役を取る操作を 「ベクトルの複素共役を取る」と言う。 次ページの〔図5-2〕の通り、任意の複素数1つにそれの 共役複素数1つを掛けると必ずゼロ以上の実数になる。 (それの平方根は正または負の実数になる事に注意) この実数、即ち「ある複素数とその共役複素数の内積の、正の平方根」 が、複素ベクトルの「絶対値」(長さ)であり、 『ノルム(norm)』とも 呼ぶ。 ベクトル 「 || || = のノルムは「 || | || 」と表記され、 」である。 以降の説明を分かりやすくするために、ここである n 次元複素 の成分を「 rk +i sk 」(添字 k はゼロ以上の整数)と 自身の内積を求める事は、 の成分 改めて置き直すが、 * 「 xk = rk+i sk 」それぞれに共役複素数「 x k = rk -i sk 」を掛け、 ベクトル それらの積を全て合計したものに等しい。 と の各成分 ――単純に2つの異なる複素ベクトル 「 xk = rk +i sk 」と「 yk = vk +i wk 」を掛け合わせただけだと、 掛け合わせた後の成分 xk・yk の虚数部「 i rk・wk +sk・vk 」の 括弧内がゼロでない場合も有り、従って成分毎の積の総和(※) ∙ に虚数単位が含まれる可能性が有る。 その場合に対して、虚数部の総和Σ i rk・wk +sk・vk ならば、Σ xk・yk は必ず実数になる。 がゼロ (※注:総和の記号Σ(シグマ)は先程の〔表5-2〕にも登場しているが、 記号の意味を確認したい場合は本付録末尾の早見表も併せて参照して頂きたい。 Σの上下に記される「何番から何番までの項の総和を求めるか?」という事を 指定するための添字は、文脈を見て明らかであれば省略される場合も有る) と ! の場合は各成分の積 の合計Σrk・pk によって必ず実数を得る事ができ、Σrk・pk を内積と と の場合は同様の演算 呼んでいるが、2つの複素ベクトル * 「Σ xk・yk 」「Σ x k・yk 」「Σ yk・xk 」「Σ y*k・xk 」等の結果が 適当に選んだ2つの異なる実数ベクトル 必ずしも実数であるとは限らない。 と がもともと複素共役の関係にある時のみ、即ち、 少し後で説明する「転置記号」「共役記号」「随伴記号」を用いて 「 = → 「 ∗ 」、「 = ∗ 」、「 ∗ = | = ∗ | = t ∗ = † = |% 」 と書ける時のみ、演算 Σ yk・xk =Σ ∗ | |∗ 」、「 = | 」 = | x*k・xk の結果である内積 はゼロ以上の実数となる。 ここで「転置記号」 「共役記号」 「随伴記号」の定義について説明する。 これらの記号を予め定義しておけば、任意のベクトルを縦または横ベ と クトルに転換でき、 しても問題無く扱える。 のどちらを縦または横ベクトルとして表記 転置記号は「それを添えられたベクトルを単純に縦あるいは横に並べ 直す」即ち「転置(transpose)」の操作を表す記号である。 共役記号は「それを添えられたベクトルの複素共役を取る」操作を 表す記号である。 随伴記号は「それを添えられたベクトルの複素共役を取ってから、 転置する」即ち「随伴を取る」操作(=複素共役転置の操作)を表す 記号である。 「随伴(adjoint) 」の事を「エルミート共役(Hermitian conjugate) 」と も呼ぶ。この呼称は複素数の線形代数の研究で業績を上げたフランスの 数学者シャルル・エルミートに因んでいる。 通常、転置記号は文字の右肩あるいは左肩に小さく書かれるアルファ ベット小文字の「t」もしくは大文字の「T」で表される。右肩だと累 乗と紛らわしいので左肩に書く事が多く、また、どちらかと言うと「t」 が使われる事が多い。 通常、共役記号は文字の真上に文字の幅と同じ長さで書かれる横棒 「―」で表される。次に説明する随伴記号にアスタリスク「*」を割り 当てない場合は混同されるおそれが少ないため、横棒の代わりに文字の 右肩に小さく書かれるアスタリスク「*」を共役記号とする場合も有る。 通常、随伴記号は文字の右肩に小さく書かれる短剣記号(ダガー記号) 「†」で表される。 とそれ自身の内積を求めようとする前に、2つの 両方とも縦ベクトル「 = | 」として表記していた場合、 ベクトル 「 「 | = † = |% 」であるので、 | 」と表記すれば、自分自身との内積(=Σ 求める事になる。 x*k・xk )を を また、「 t| = ∗ | ∗ | 」とした場合は、 | の各成分を自乗したものの合計 Σ xk・xk を求める事になる。 」であるので、「 これは「自分自身との内積」とは微妙違うもの(※)なので、 注意が必要である。 (※注:念のため繰り返すが、 が実数ベクトルの場合はΣxk・xk が 「自分自身との内積(=自分自身との点乗積)」を意味するのに対し、 が複素ベクトルの場合、Σxk・xk は自分自身との内積を意味しない。 次ページからの〔図5-3〕〔図5-4〕〔図5-4´ 〕を比較すれば分かる だろうが、 が複素ベクトルの場合、 「自分自身との内積はΣ x*k・xk =†・| = | の方である」 として複素ベクトルの場合にまで拡張された『内積』の意味を定義する事で、 〔図5-4´〕の様な2本の複素ベクトルが形作る三角形を〔図5-3〕の 2本の実ベクトルが形作る三角形と同様に処理できる) かつての私の様に「複素ベクトルの内積の定義は単に歴史的経緯だけ でそうなっているに過ぎないのではないか?」という疑念を抱いた人も 多いかもしれないが、〔図5-3〕~〔図5-4´ 〕を見て頂けば、 単に歴史的経緯だけでそうなっていると言うよりはむしろ実ベクトル の内積の定義を自然に拡張したものであると分かるだろう。 (この場合の「自然に」とは 「最も単純に尚且つ矛盾無く処理できるやり方で」 という意味合いである) この類の定義にまつわる疑念が「既存の定義を自然に拡張した事に よる帰結であり、歴史的経緯だけに依存するものではない」という 解答によって解消する状況は、後に述べる軸性ベクトルの定義や行列の 演算規則などにも当てはまる。 ベクトルが複素ベクトルだと自由度が増えるために内積を考えるの が途端に難しくなる様に感じるが、そんな時はまず実数ベクトルの場合 の内積を思い浮かべると良い。 それから、「各成分が複素数だったらどうなる?」と考え、共役複素 数の存在に注意し、同じ順番の成分毎に複素数の四則演算を実行すれば 良い。 ベクトルを表す文字をブラやケットや縦棒で挟まない時、 「特に縦横の指定が無いベクトルは太字にするだけで真上に右向き 矢印を書かず、また、特に断りが無い限りは暗黙に縦ベクトルと見なす」 「横ベクトルである事を最初から明記するには、必ずそのベクトルの 真上に右向き矢印を書く」 とでもしておけば、混乱を減らせるかもしれない。 ともかく、実数ベクトルの場合と複素ベクトルの場合それぞれの 「内積」の定義を思い返し、手順を踏んで処理していけば、難しさは 減るはずだ。 『外積』の説明に移る前に、2つの実数ベクトル と ! の点乗積 ・! =Σrk・pk が高校の数学や物理学で習う「2つの実数ベクトルの 内積」と等価である事を、改めて説明する。 と ! の大きさ(絶対値)をそれぞれ「| |」「| ! |」 の成す角をθとする時「 ・! =| |・| ! | cosθ」 と書く事、 と ! 高校では、 という関係が成り立つ事、そしてこれが「2つの実数ベクトルの内積」 である事を習うが、先述の〔図5-3〕で示す通り、 =| 「 ・! |・| ! | cosθ=Σrk・pk 」である。 この等式は、同じく高校で習う「第2余弦定理」によって証明される。 〔図5-3〕では2次元空間(※)の場合を説明したが、3次元以上の 場合も同様である。 と ! が3次元以上の空間内に存在するとしても、結局のところ と ! が形作る三角形は2次元図形であるので。 ―― (※注:より細かく言うと、 「2次元実数ユークリッド空間」 。 「ユークリッド平面」とも言う) 複素ベクトルの場合も同様で、たとえ ∗ と ∗ が n 次元複素空間 と が形作る三角形は2次元図形 内に存在するとしても、やはり であるので、〔図5-4〕 〔図5-4´ 〕の様にして処理できる。 (図中の「半角の公式」も、高校の数学で習う) 本文の第2章第3節で「レーダーや計器類を頼りに飛行機を飛ばす 操縦者同様、数学者は数式を頼りに高次元空間を探訪する」と書いたが、 〔図5-4〕 〔図5-4´ 〕で示した様な手法や過程では肉眼で見えない 3次元を超える空間をまさしく数式によって探訪している。 ここで『内積』についての説明が一通り済んだので、続いて、 『外積』についての説明をする。 「内積」について説明した箇所と同様に、既に理解している人は 「外積」について説明する箇所を飛ばし先に進んで頂いて構わない。 初見で理解できない場合は、本書冒頭「数式とのつきあい方」の 記述を再び思い返し、とりあえず「分かったふり」をして先に進んで 頂いて構わない。 元来、「外積」の概念は、2本の3次元ベクトルが作る平行四辺形 の面積や、それと密接な数量的関係を持つ3次元空間内の 『力のモーメント(回転能率)』『トルク』 『角運動量』などを考える 過程で形成されてきた。 その由来に沿った素朴な定義では、外積とは 「2本の3次元ベクトルで指定できる平行四辺形の面積に正比例する 大きさを持ち、その平行四辺形に垂直で、2本の3次元ベクトルの始点 を重ねた点から伸びた、3本目のベクトルのようなもの」 を指すと同時に 「その様な定義に沿った3本目のベクトルを求める演算」 を指す。 今、「ベクトルのようなもの」と言ったが、広い意味では「外積」も ベクトルの一種である。但し、外積はそれを作る元となった2本の3次 元ベクトルとは少し性質が異なるベクトルである。 次の〔図5-5〕で示す通り、外積の元となる2本の3次元ベクトル の大きさはベクトル自身の方向に沿った「何か」の大きさを表すが、 外積の大きさは外積自身の方向に沿ったものの大きさを直接表すので はなく、『外積の方向を軸とした回転に沿った「何か」の大きさ』を 表す。 外積のような性質を持ったベクトルの事を 『軸性ベクトル(axial vector)』と呼び、それの元となるベクトル (ベクトルの方向に沿っているものの大きさを直接表す様なベクトル) の事を『極性ベクトル(polar vector)』と呼ぶ。 極性ベクトルの方を単に「ベクトル」と呼びたい場合、軸性ベクトル の方を「擬ベクトル」と呼ぶ事も有る。 「極性ベクトルは一目見れば何となく受け入れられるけど、 軸性ベクトルは目で見ても分かりづらく、直観的に受け入れ難い」と 感じる読者もいらっしゃるかと思う。少なくとも私自身はそうだった。 しかし、よくよく考えてみると、極性ベクトル自体かなり抽象的な 概念であり、ゼロや負の数や虚数と同じ様に、「これが○○です」と 言って具体的な「見えるもの」として直接提示できるわけではない。 「ゼロ個のリンゴ」や「マイナス1個のリンゴ」を直接見て持てる人が いるだろうか? 具体的な「五感で捉えられるもの(特に視覚で捉えら れるもの) 」を通じて「状態」 「状況」 「関係」といったもの(抽象概念) を間接的に提示できるに過ぎないのである。 位置を表す極性ベクトル(先程の〔図5-5〕では位置ベクトル と がそれに当たる)はまだしも視覚で捉えやすいが、力や運動 量を表す極性ベクトルは視覚で捉える事が少し難しくなる。 ――「触覚」に分類される感覚で力や運動量を感じる事はできるが、 それを矢印(ベクトル)のような視覚的イメージに変換する事は、通常 は意識しないとできない。「何かを触った途端、無意識に矢印が脳裏に 浮かぶ」などという人はおそらく稀であろう。 胡散臭い宗教団体が勧誘の際に「目に見えない力を信じますか?」等 というフレーズを時々使うが、それに対して私はこんな風に答えたい。 「信じるとか信じないとか言う以前に、私は五感と観測機器を通じて 目に見えない力の存在を日常茶飯事に把握しております。 肌で風の力を感じたり誰かと握手した時に手の力を感じたりします。物を持っ た時の重みで重力を日常的に感じています。方位磁針で地球の磁力を把握 する事も有れば、ライデン瓶で静電気力の存在を把握する事もあります。 ガイガーカウンターで放射線の力を把握する事もあります。 ひとしきり答えたところで今度は私がお尋ねしたいのですが、あなたはこう いった日常茶飯事に把握できる『目に見えない力』を「信じない」のですか? そもそも、特定の波長域の電磁波以外の『直接目に見えない力』をあなたは 直接目で見る事ができるのですか?」 現実世界の何らかの関係を矛盾無く記述できる概念であれば、その 概念は空虚な妄想では無く、少なくとも、現実世界に実在する具体的な ものや現象を反映する有用な概念である。 ――だいぶ昔に私はこう考えて、軸性ベクトルが極性ベクトルと同じく らい有用な概念である事をようやく納得した。 て こ ともかく、先述の〔図5-5〕に描かれた梃子の例の他、次ページの 〔図5-6〕に描かれた車輪と歯車と動力源の例や引き続く〔図5-7〕 に描かれた円運動をする質点(※)の例も、外積という軸性ベクトルの 概念を使って仕組みを数量的に説明できる。 もし外積の概念が無ければ、回転運動を利用する機械の仕組みを数量 的に説明できず、誰かに仕組みを伝えようとしてもあやふやな内容しか 伝えられないだろう。 (※注:質量を持ち内部が均質で決して変形しないものと見做せる固い物体の 事を『剛体(rigid body)』と呼び、実質上半径ゼロと見做せる極めて小さな剛体 の小球を『質点(point mass)』と呼ぶ。無数の質点が密集し尚且つ互いの相対 位置が全く変わらない場合、質点の集合体を剛体と見做す事もできる) 質点が円運動する時、その円の中心を始点にして質点まで引いた位置 ベクトルと、質点から円の接線方向に引いたベクトルは、外積を成す。 円の接線方向に引いたベクトルが「力(force) 」を表す時の外積を 『力のモーメント(moment of force)』と呼び、円の接線方向に引いた ベクトルが「運動量(momentum)」を表す時の外積を 『角運動量(angular momentum)』と呼ぶ。 ――英語の“moment”は多くの意味を持つ単語で、 「ちょっとの時間」 「瞬間」「ちょうど今」 「時機」「重要性」 「重み(重み付け) 」「能率」 などの意味が有り、ラテン語の“momentum”(「(物体や時間の)動き」 あるいは「勢い」 )と同じ起源を持つ。 日本語の漢字の中にしっくりくるものがないので、日本の物理学会で は“moment of force”を「力のモーメント」と訳する事が多いが、強い て漢字で訳するとしたら「力の(回転)能率」となる。 確かに「力のモーメント」は「梃子や車輪などに力を加えて回転させ る時の能率」に強く関係する量ではある。 運動する質点から円の接線方向に引いた力のベクトルと質点の運動 量ベクトルは、互いに同じ向きの場合と反対向きの場合の2通りを取り 得る。 位置ベクトルの向きを変えずに力や運動量などのベクトルの向きを 逆転した場合、力のモーメントや角運動量の向きも逆になる。 位置ベクトルの向きを逆転して力や運動量などのベクトルの向きを 変えない場合も、力のモーメントや角運動量の向きは逆になる。 そして位置ベクトルと力や運動量などのベクトルの向きを同時に逆 転した場合は、力のモーメントや角運動量の向きは元のままである。 次ページの〔図5-8〕の様に、右手の親指・人差し指・中指を互い に垂直を成すように立て、位置ベクトルを親指・力のベクトルを人差し 指・力のモーメントを中指に見立てると、上記の関係が常に成り立って いる事を確かめられるだろう。角運動量についても、位置ベクトルを右 手の親指に見立てた時、全く同じ関係が成り立っている。 力のモーメントや角運動量などの軸性ベクトルとその元となる2つ の極性ベクトルが満たしているこの様な関係を『右手系』の関係と言う。 これらの軸性ベクトル1本と極性ベクトル2本の内どれか1本の正 負を逆にした関係は『左手系』の関係と言う。 どちらの関係を基準にしても外積の演算法則は成立するが、通常は 右手系の関係や座標系を暗黙に基準とする場合が多い。 右手系の軸性ベクトルでは 「親指を1番目の極性ベクトル(右辺の左側)、人差し指を2番目の 極性ベクトル(右辺の右側)、中指を軸性ベクトル(左辺)に対応付け、 中指を回転軸として親指を人差し指の向きに向けようとするような 回転方向が、正の向き」 と定義される。 ね じ これは右に回すと締まる右螺子を締める時の回転方向と全く同じ である。 右手系・左手系のどちらを基準にして外積を考えるにしても、極性 ベクトルの1番目と2番目を明確に区別しており、順番を入れ替えて 外積を求めた場合は軸性ベクトルの向きが逆になる。つまり、外積を 求める演算では2本の極性ベクトルの内どちらを『1番目』とするか 常に注意する必要が有る。 回転軸を固定させた時の力のモーメントの事を特に『トルク(torque)』 と呼ぶ。 自転車や自動車などの車輪が動き出す時には低速で大きな回転力 (トルク)を必要とするが、高速走行時の車輪はそれほど大きな回転力 (トルク)を必要としない代わりに高速回転する必要が有る。 その必要に応える仕掛けが「変速機構」であり、トルクを生み出す 動力源(エンジン)の回転軸に予め大きさの異なる歯車(変速ギア)を 複数接続しておき、動力を伝達する歯車と噛み合わせる変速ギアを必要 に応じて変える事で、必要とする車輪のトルクと回転速度を得る事が できる。 (先述の〔図5-6〕の変速機構(ギアボックス)の図はかなり簡略化 した模式図であり、本物の自動車のギアボックスはもっと複雑であるが、 原理としては同一である) 〔図5-5〕~〔図5-8〕で示した様な、1つの軸性ベクトルと その元となる2つの極性ベクトルの関係を表現するための直交実数 座標系(右手系とする)を設定すると、 「2つの極性ベクトルが作る平行四辺形の面積」を表す外積は次ページ の〔図5-9〕の様に描かれ、その大きさは2つの極性ベクトルの成分 を用いて次ページの〔式5-2〕の様に記述できる。 〔図5-9〕では2つの極性ベクトルの位置関係について3つの場合 を描いたが、引き続く〔図5-10〕で描く様に、これらの成分の一部 または全部の正負を入れ換えたとしても、あるいはこれらの成分を対応 する座標平面のどの象限(quadrant)に配置しても、 〔式5-2〕は成り 立つ。 1番目の3次元極性ベクトルの3つの成分のうち連続する2成分 ( xy, yz, zx のいずれか)から成る2次元ベクトルを対応する座標 平面に配置する方法は無数に有るが、第1から第4までのどの象限 に置くかによって大別でき、4通りに分かれる。 2番目の3次元極性ベクトルの配置も同様で、連続する2成分から 成る2次元ベクトルをどの象限に置くかのみに注目すれば4通りに 大別できる。 象限のみに注目したこれら2本の2次元ベクトルの配置は 16 通り となるが、2本とも同じ象限にある場合もしくはそれぞれが隣接しない 象限に配置される場合、双方の成す角やどちらが1番目の座標軸 (例えば x 軸)に近いかによってこれら2本のベクトルによる外積 (=元の3次元極性ベクトル2本からなる外積の、3成分の内1つ) の正負が変わるので、この条件まで考慮に入れれば8通り増えて 24 通り となる。よって、座標平面1つ毎に配置が 24 通り、3次元座標系全体で は 72 通りの配置が考えられる。 〔図5-9〕〔図5-10〕では 72 通りのうちの9通りのみしか 描いていないが、残りの 63 通りでも〔式5-2〕は成立している。 〔式5-2〕が常に成立している事を確かめたいと欲するのであれば、 紙と鉛筆、あるいは数式処理・視覚化ソフト(Mathematica, Maple, 等) を持ち出して、残りの 63 通りについて読者の皆さん自らの手で数式や 図をいじりまわして頂くのが一番良い方法である。 本文第2章第3節でもおすすめした様に、手と眼と脳の連携が数式・ 図・表の理解を深める助けになるはずだ。 この節のここまでに述べたような狭い意味での「外積」は3次元 実ベクトルの範囲で定義され、『クロス積(cross product』)あるいは 『ベクトル積(vector product) 』とも呼ばれる。 物理学(量子力学)では左にケットベクトル・右にブラベクトル (どちらも複素ベクトル)を配置して行う演算及びその結果を「外積」 あるいは「外部積」 「直積」 (英語ではどちらも“outer product”)(※)と 呼び、基底ベクトル(ある種の基準となるベクトル) 対する直積「 |'( '( | 」を「射影演算子」と呼ぶ。 '( の自分自身に 射影演算子はある種の行列(後述する「2階のテンソル」)となって いる。 (※注:本文第2章第3節に出てきた集合の「直積(direct product) 」と似た概 念だが、若干意味合いが異なる。また、量子力学での「外積」は後述の「楔積」 の一種であるが、一般的な「楔積」とも若干意味合いが異なるので、区別する ため「外積」に「部」という漢字を付け加えて「外部積」とも呼ぶ) また、数学の基礎論に近い分野では、「外積」の概念はより一般的か つ抽象的に定義されており、より一般化された広い意味で使えるように 拡張された外積の概念は「楔積(くさびせき)」あるいは「ウェッジ積」 (英語ではどちらも“wedge product”)とも呼ばれる。 「射影演算子」と「楔積」について、この本では深入りしない。 ベクトル自体についても(極性・軸性の種別を問わず)、数学の基礎 論に近い分野ではより一般的かつ抽象的な定義がなされているが、やは りこの本では深入りしない。次の事を述べるに留める。 『ベクトルの素朴な定義は「普通の数を順番に沿って一列に並べた組」 であるが、逆に、 「ベクトルとは、ある種の演算規則(先述のベクトル の演算規則)を満たすものである」とする、より抽象化・一般化された 定義も成り立つ』 次の節に移る前に、複素数平面上の『距離』について補足する。 単一の複素数が2次元ベクトルの1種として扱える事を〔図5-1〕 の直前で述べたが、その扱いには少々気を付ける必要が有る。 例えば、3辺の長さが{a, b, d }で一番長い辺が d である様な直角 三角形を、 辺 a が実数軸にぴったり重なり尚且つ辺 a と辺 d の交点が 原点にぴったり重なるよう複素数平面上に置き、辺 b を「純虚数」と 見做して三平方の定理をあてはめてみると、次の〔図5-11〕の通り、 「一番長かった辺」d の2乗が負になってしまう場合が有る。 この場合、d の2乗に対して改めて平方根を求め、その平方根(これ 自体1次元複素ベクトルの一種とみなせる)の絶対値を『距離』と定義 する事もできる。 距離をこの様に定義した場合は、アインシュタインの特殊相対論にお いて空間軸1本・時間軸1本にした場合の2次元時空上の『距離』に似 た量となるが、あくまでも「似た量」であり、厳密な意味合いは違う。 実際には、アインシュタインの2次元時空の性質はミンコフスキー 平面の性質と等価である。 通常の複素数を図形化したものが高校までの幾何学でおなじみの ユークリッド平面の性質と結び付けられるのに対して、 ミンコフスキー平面の性質は、虚数単位の符号の扱いとノルムの扱い が通常の複素数とは違う『分解型複素数(split-complex number)』を 図形化したものと結び付けられる。 分解型複素数平面(ミンコフスキー平面)において、 ある数に虚数単位を掛ける事は、 「ユークリッド平面における+90°回転」ではなく、単純にその 逆回転である「ユークリッド平面における-90°回転」でもなく、 これらの回転のミンコフスキー平面における相当概念である 「双曲的回転」を意味する。 分解型複素数の虚数単位を通常の複素数の虚数単位と区別する為に 「 i 」以外の文字――例えば「 j 」や「 k 」等――を割り当てる場合 が多いが、 「 j 」の文字は電磁気学や電気工学で通常の複素数の虚数 単位に割り当てる場合も多く、「 k 」は他の単位や値に割り当てる場合 も多い。そこで、ここでは分解型複素数の虚数単位を仮に「η(イータ)」 とする。 「1」にη を掛けると「η 」に移るが、 η にη を掛ける(自乗する)と「1」に移る。 同様に、 「-1」にη を掛けると「-η 」に移るが、 -η にη を掛けると「-1」に移る。 また、ある複素数「) = * + ,-」のノルム「 ‖)‖ = )|) = √*0 + - 0 」 に対して分解型複素数「1 = * + 2-」には「 |1| = 1|1 = |*0 − - 0 | 」 が相当物(ミンコフスキーノルム)として定義され、(※) 「 ‖1‖ = *0 − - 0 = ±|1|0 」は「モジュラス(modulus)」と呼ばれる。 (※注:ミンコフスキーノルムとモジュラスの定義においては、文字を挟む 縦棒「|」が、通常の複素数のノルムにおける意味と比べて微妙に変えて 用いられる。 ミンコフスキーノルムをユークリッド平面上の『距離』と混同しないよう 気を付ける事。 また、この本では深入りしないが、整数論においては「モジュラス」という 単語を違う意味で用いる) 任意の分解型複素数に{ 0 ≦ b/a <1, |1| = 1 }を満たす分解型 複素数を掛けると、次ページの〔図5-12〕の様に変形された座標系 ( x´η t´ ;紫色で図示)に移る事になり、これは特殊相対論における 「静止しているものと見なす基準座標系( x η t )から見て光速の b/a 倍 の相対速度で等速直線運動を行う座標系( (ローレンツ変換)そのものとなる。 x´η t´ )への座標変換」 もちろん、通常の複素数平面においては、単純に 「複素ベクトルの絶対値」(ノルム)を『距離』と定義し、 普通はこの『距離』の定義が使われる。 『距離』の定義1つ取っても面食らう事柄が出てくるので、複素数の 概念を理解するのに苦しむ人も多いと思う(私自身、そうだった) 。 複素数の概念が数学の中で確固たる地位を築くまでには紆余曲折が 有ったが、 「全ての2次方程式を解けるようにするためにはどうすれば良いか?」 という問題に答えを出すための方法として、 「虚数単位」即ち「自乗すると-1になる数」が人間に見出されたのが、 その発端である。 負の数が発見される事であらゆる引き算が答え(解)を持つように なったのと同様に、虚数単位が発見される事であらゆる2次方程式(※) が解を持つようになった。 (※注:実は3次以上の1変数 n 次方程式は必ず1個以上 n 個以下の複素数解 を持つ( m 重解(1≦m≦n )は1個扱いとする)事が証明されており、その 事実は『代数学の基本定理』と呼ばれているのだが、この本では深入りしない) 負の数の発見自体は紀元前1世紀頃の古代中国にまで遡ると言われ ているが、職種や階層を問わずほとんどの人間の頭の中で負の数の概念 が確固たる地位を築く様になったのは 18 世紀以降と言われている。 実に約 2000 年近くの間、ほとんどの人間から「負の数は計算を都合良 く行うためのごまかしに過ぎない」と思われていた。 虚数単位は負の数の符号よりも受け入れ難いものと見なされ、現代で も「負の数の符号よりもひどいごまかし」と思われる事がしばしばだが、 虚数単位を導入する事によって定義される複素数は、後で言及する様に、 量子力学の波動関数を記述するのにどうしても必要な数である。 もしも虚数単位を「現実世界と何の関係も無い、ひどいごまかし」と 見做すのであれば、原子や電子など極めて小さいもののふるまいを上手 く説明できている量子力学の波動関数も「ひどいごまかし」という事に なり、量子力学を拠り所とする既存の電子工学を一切合財捨て去らなけ ればいけなくなる。 そうすると、あなたが今この本を電子書籍アプリで読む事自体有り 得なくなる。 負の数も複素数も(もちろん分解型複素数も) 、擬ベクトルを含む ベクトルも、何らかの形で現実世界とつながりを持つ確固たる数学的 概念なのである。 *8:行列、行列式、 行列式、テンソル この節では、内積や外積の概念と深い関わりを持つ『行列』と 『行列式』について述べる。 また、この説の末尾で、「スカラー」「ベクトル」「行列」の概念を まとめた更に一般的な概念である『テンソル』についてもほんの少し だけ触れる。 例によって、既に理解できている読者はこの節を飛ばし、 初見で理解できない読者は「数式とのつきあい方」を思い返して、 先に進んで構わない。 前の節で説明した通り、内積や外積を求めるには、少々込み入った 計算を行う必要がある。 内積の場合、それは「2つのベクトルの同じ順番の成分同士を掛け 合わせ、全部合計する」計算であるが、見方を変えると、これは連立 方程式を作る方法でもある。 分かりやすいように、本文第2章第5節で引き合いに出した2元1次 連立方程式を再び引き合いに出す。 未知変数(未知の元)が複数有る場合、少なくとも元の個数と同じ 個数の方程式を連立させる(複数の方程式を立て、連ねる)必要が有る。 2元1次連立方程式の場合、2個の方程式を連立させる必要が有る。 次ページの〔式5-3〕の通り、2元連立1次方程式を構成する個々 の方程式は、ベクトルの内積を利用した書き方に変形できる。 この式に示された見方を少しだけ発展させ、次の〔式5-4〕のよう な書き方をする事と、2つの方程式をまとめて連立させる事ができる。 この式で見られるような、「紙面(2次元平面)に数を縦横に並べて 大きく引き伸ばした括弧で一括りにした、表のようなもの」の事を、 数学では『行列(matrix) 』と呼ぶ。 成分表記を省略して単一の行列を1文字で表す時、通常はアルファ ベット大文字1つの斜体を使って表す。また、行列の行数と列数を明記 したい場合は、行列を表す大文字の右下に添字を2個並べ、左側の添字 で行数を、右側の添字で列数を表す。 定数係数が〔式5-4〕の行列A (係数行列)で与えられ尚且つ 別の未知変数2つを含むもう1組の連立方程式を解く必要に迫られる としたら、次の〔式5-5〕のように、未知変数も行列X という形に まとめてしまえる。 行列とは「複数の横ベクトルを上下に並べたもの、または 複数の縦ベクトルを左右に並べたもの」と解釈する事もできる。 実際、横ベクトルは「1行 m 列の行列」、 縦ベクトルは「n 行1列の行列」と見なす事ができ、 一般的な「n 行 m 列の行列」の特殊な例であると言える。 そして、〔式5-5〕のように定数係数を並べた横ベクトルを集めて 作った行列の右に未知変数を並べた縦ベクトルを集めて作った行列を 置く事で、複数の連立方程式を一挙にまとめて立てる事ができる。 ――元来、行列は多数の連立方程式をまとめて処理する方法として導入 されたという歴史が有る。 2行2列の行列で表せる〔式5-4〕や〔式5-5〕の様な2元連立 1次方程式の場合は行列という概念の有用さについてなかなかピンと 来ないかも知れないが、たくさんの元を持つ連立方程式をたくさん解か なければいけないとしたらどうだろう? 例えば、10 元連立方程式を 10 組とか。統計学や工学に携わる人なら、そんな状況に直面する事は ざらに有る。 10 元連立方程式を解くには 10 個の未知変数を含む方程式を 10 個1組 にして連立させなければならない。10 組ともなれば、連立方程式は全部 で 100 個にもなる。1個1個全部書こうとすると、それだけで大変な 手間を要する。 しかし、行列の概念を利用できるならば、「定数を並べた 10 行 10 列 の行列を左・変数を並べた 10 行 10 列の行列を右」という順番で置いた もの左辺とし、右辺に左辺と対応する 10 行 10 列の行列を置くだけで、 100 個の連立方程式がどんなものであるかを記述できる。 行列内部の要素に規則性があるなら、その規則を明記すれば、同じ 行列をもっと簡単に書ける。 言い換えると、行(横ベクトル)や列(縦ベクトル)あるいは行列の 対角線上の要素(対角成分)を『数列』(※)と見做せるならば、同じ 行列をもっと簡単に書ける。 ――「第 n 行の第 m 項は○○になる」といった規則を表す数式を、 行列の第 n 行第 m 列におおよそ該当する位置に書き、行列の四隅を 該当する値や単項で埋め、残りの部分は省略を示す「…」で埋めれば 良い。 (※注:『数列(numerical sequence) 』とは、項を順番に並べたものであり、 「項の順番を表す文字(m や n など)の具体的な値を決めればその項の値が 決まる」という性質を持つ単項の、集合である。 数列の最も単純な例は「小さい方から順番に列記した n 個の自然数の集合」 である) 行列が「単に連立方程式を簡単にまとめ書きするための道具」でしか ないなら、まだまだ有用な概念とは思えないかもしれない。 しかし、「行列同士の演算規則」というものを矛盾無く定義する事が 可能であり、未知変数を特定するのに充分な定数の集合が得られれば、 行列の演算規則に沿って行列を処理する事でたくさんの連立方程式を 一挙に解いてしまえる。 ――これこそが、行列の有用さのより大きな部分である。 行列同士の演算規則は、ベクトルの演算規則を拡張したものになって いる。元々、横ベクトルと縦ベクトルを掛け合わせる筆算の規則を利用 して連立方程式を作るという発想が行列の概念につながっているので、 言われてみれば当然ではあるが。 次ページの〔表5-3〕に行列の表記法を、 その次ページの〔表5-4〕に行列の演算規則を示す。 見ての通り、行列同士の演算では、スカラー量の場合には無い制約や ベクトルの場合と同様な規則がいくつか有る。 2つの行列それぞれの行の数同士・列の数同士が両方とも一致する 場合にのみ、足し算と引き算をスカラー量の場合と同様に行える。 また、〔表5-4〕には書かなかったが、ある行列に任意のスカラー 量 d を掛ける事は、ベクトルのスカラー乗法と同じく、その行列の全 成分を d 倍する事と全く同じである。 さらに、掛け算については「演算の順序を入れ換えると演算結果が 一致しない場合が多い」という性質(※)が有り、その性質に伴う 「掛け算の順番を変えた行列の積は、原則として変える前とは別物と して扱う」という制約を常に意識する必要がある。 (※注:この性質の事を「非可換」と呼ぶ。スカラー量の加算と乗算の様に、 演算の順序を入れ換えても演算結果が必ず一致するならば「可換」である) スカラー量における「ゼロ」や「1」や「逆数」に相当するものが、 行列にも有る。 足したり引いたりしても足されたりひかれたりする元々の行列が 変化せず、尚且つ(左右問わず)掛ける事で掛けられる元々の行列の ゼロぎょうれつ 全成分をゼロにする行列は『零 行 列 』と呼ばれる。 零行列は全成分がゼロで、成分表記を省略する場合は数字のゼロを 大き目の太字(斜体にする場合もある)で表す。 零行列は、演算によって結び付けられる行列と同じ行数と列数を持つ ものとする。 ただ1つの成分のみが1でそれ以外がゼロである行列は『行列単位 (matrix unit)』と呼び、行の数と列の数が等しく対角成分のみが1で それ以外がゼロである行列は『単位行列(identity matrix)』と呼ぶ。 (日本語では、『行列単位』と『単位行列』がそれぞれ別の概念を指す 事を語順の違いで区別しているので、混同しないよう注意する事) 単位行列の成分表記を省略する場合、アルファベット大文字斜体の IかE で記す。 行列A の列数と等しい行数の単位行列を右から掛けても、行列A の 行数と等しい列数の単位行列を左から掛けても、結果は元々の行列A と等しくなる。 行の数と列の数が等しい『正方行列(square matrix)』の場合に限り、 ある正方行列A に右からもしくは左から掛ける事で、A を単位行列I に変える事ができる正方行列が存在し得る。 その様な正方行列を『逆行列(inverse matrix) 』と呼び、「 表記する。 456 」と 行の数と列の数が共に n である n 次正方行列A に対して 逆行列 456 が存在する時、 456 を『正則行列』(regular matrix) あるいは『可逆行列(invertible matrix)』と呼ぶ。 456 はスカラー量における「逆数」に相当するものである。 *7で「スカラー量同士の掛け算・割り算と全く同じ意味合いで ベクトル同士の「掛け算」「割り算」を行う方法は無い」と言ったが、 ベクトルを拡張した概念である行列の場合は「掛け算」に相当する 演算だけでなく「割り算」に相当する演算が存在する。 但し、掛ける順番には注意しないといけないし、正則行列でなければ 逆行列が存在せず、割り算に相当する演算を実行できなくなる。 ――これは「スカラー量同士の割り算とは、ある数に別の数の逆数を 掛ける事であり、逆数を一意に定義できなければ実行不能(※)である」 事と同様である。 (※注: 「一意に」と言うのは、定義や演算や関数などによってある要素に結び 付けられる要素が1個あるいはごく狭い範囲に絞り込まれる様子を指す。 ある数 x に掛けると「1」になる数が x の逆数であるが、ゼロにどんな数を 掛けても「1」にはならない。従って「ゼロの逆数」は定義できない。 矛盾無く定義できない限り、ゼロ除算(ある数をゼロで割る割り算)は実行 不能である) 5ページほど前に「行列の演算規則に沿って行列を処理する事で たくさんの連立方程式を一挙に解いてしまえる」と書いたが、実は、 次ページの〔式5-6〕の様に、逆行列を利用して解くのである。 行列の演算法則に沿って連立方程式の左辺を行列A(係数行列)と 行列X(未知変数行列)の積に変換し、その演算結果である右辺を 行列 S とする。 A が正則行列であるならば、式の両辺に左側からA の逆行列 456 を掛けると、X を 456 と S の積として表す事ができる。 〔式5-6〕の演算が実際に実行可能であるためにはA が正方行列 でなければならないが、X と S については行の数がA の列の数と一致 していれば、正方行列でなくても構わない。 つまりX と S は、次の〔式5-6´〕の様に、成分の数がA の列の 数と一致する縦ベクトルでも良い。 〔式5-6´〕の様な形に書ける多元連立一次方程式は、逆行列 が存在するならば、容易に解ける可能性が大きい。 実際に解けるかどうかは 56 4 456 456 の成分に因るが、各成分を確定させて を求めるには、 『行列式(determinant)』と呼ばれるものを使う。 行列式を記すには、もととなる行列での縦に引き延ばした括弧を長い 縦棒に置き換えて記したり、行列を表すアルファベット大文字斜体1文 字の両側を縦棒で挟んで記したり、あるいは「det()」と記して括弧の 中に行列を代入したりする。 全成分が実数もしくは複素数となっている任意の正則行列の行列式 は、もととなる正則行列自身とは違い、少し後で述べる定義式に基づい て計算した実数もしくは複素数になる。従って、日本語だと紛らわしく なるのだが、「行列式」は「行列そのもの」ではない。 (英語で行列式を指す単語は“determinant”であり、これは「決定する もの」「決定因子」という意味合いがある。 確かに行列式は「逆行列の中身を決定するもの」であるので、これに ついては英語の方が分かりやすい) n 次正方行列の行列式は「n 次の行列式」と呼ばれる。行列式の定義 の背後にある群論の知識についてこの本では深入りしないが、結論だけ 書くと、次ページの〔式5-7〕のような定義式となる。 4次以上の行列式を定義式に基づいて導き出そうとすると、 『ゼロ以上の整数 n の階乗( n!=1×2×3×……×n )』に 等しい個数の、非常に大きな数になり得る個数の項を計算しなければ ならず、かなり複雑な手順を踏まなければならないが、 2次より小さい(1次の)「正方行列」の場合はそれ自身が行列式でも あるので自明であり、 2次と3次の正方行列の場合は、2ページ後の〔式5-7´〕に基づく 計算結果が〔式5-7〕に基づく計算結果と合致し、行列式の値を比較 的簡単に求める事ができる。 〔式5-7´〕の計算方法を「サラスの方法」あるいは 「たすきがけ法」と呼ぶが、〔式5-7〕と計算結果が一致するのは 2次か3次の行列式を求める時に限られる(4次以上ではたすきがけ 法で全ての項を網羅できない)事に注意する必要が有る。 行列式を用いると、n 次正方行列A の逆行列 〔式5-8〕のように書ける。 456 は次ページの この時〔式5-6〕を行列の演算規則を利用して解く事ができ、 〔式5-6´〕の解を引き続く〔式5-9〕のような形にも書ける。 〔式5-9〕を『クラメルの公式』と呼ぶ。 〔式5-8〕〔式5-9〕の導出方法やこれらの式を用いた多元連立 方程式の解法、そしてその解法に基づき複雑な多元連立方程式を計算機 に解かせようとして計算量が膨れ上がる場合の対策についても、この本 では深入りしないが、 「行列式| |A|がゼロでないかどうかが、多元連立方程式が解けるか どうかを判別する有力な指標の一つとなる」事はこの2つの式から容易 に読み取れる。 ところで、 〔式5-7〕 〔式5-7´〕を見て〔式5-2〕との類似に 気付いた方もいらっしゃるかも知れない。 この本では深入りしないが、実のところ、 3次元空間で平面の面積や立体の体積や3次元実ベクトルの外積を 論じようとして行列式を求める必要が生じた時には〔式5-7´〕が 用いられ、 多次元空間で多次元図形が占める『領域の大きさ』(※)や多次元実 ベクトルの外積を論じようとして行列式を求める必要が生じた時には 〔式5-7´〕より広範囲に適用できる〔式5-7〕が用いられる。 (※注:この「多次元図形が占める領域の大きさ」の事を『測度(measure)』 とも呼ぶ。 「測度」とは、3次元以下の空間での「点」 「点の個数」 「長さ」 「面積」 「体積」等の概念を多次元空間やその他の抽象的な「空間」でも使える ように拡張し、一般化したものである) 次の節に進む前に、予告通り『テンソル』について少しだけ触れる。 素朴な言い方で無理やり一言にまとめると、 「『テンソル(tensor)』とは、数や項などをある種の構造に沿って空間に 並べたもの(多次元配列)」と言う事になる。 もう少し具体的に言うと、 「スカラー量はゼロ階のテンソル」 「ベクト ルは1階のテンソル」「行列は2階のテンソル」と言う事になる。 あるいは、ベクトルが『「大きさ」と「向き」を決定できるもの』で あるのに対して、テンソルは『あるものの「大きさ」と「向き」に呼応 して決まる「大きさ」や「向き」などを表すもの』とも言える。 「n 階のテンソル」がどんなものか想像するのは難しいかもしれない が、本文第2章第3節に出てきたプレイヤーが n 個体の時の『戦略直積 集合』が、n 階のテンソルによく似た数学的構造物であると言える。 ただ、n 次元配列なら何でも「n 階のテンソル」と呼ぶのかと言うと、 そうでは無い。 多次元配列のうち、テンソルの演算規則に沿って少ない階数の テンソルに分解できたり、階数の少ないテンソルから合成できたり する構造になっているものを、「テンソル」と呼んでいる。 “tensor”という単語は、「緊張」 「張力」 「目に見えない圧力」等の意 味を持つ“tension”という単語と同じ語源を持ち、その語源通り、物体 に加わった外力に呼応して生じる「張力」「圧力」あるいは変形を表す 数学的概念を指す。 応用寄りの物理学や工学では物体に生じる張力や圧力や変形などを 解析するのにテンソルは欠かせないし、理論物理学でも一般相対性理論 に基づいて重力(=空間の歪み)を解析するのにテンソルが用いられる。 本書の本文をおおまかに把握するだけならテンソルについての本格 的知識は必要無いので、テンソルの演算規則についてこの本では深入り しないが、それでも、テンソルの概念が理論的にも実用的にも重要視さ れている事を把握して頂けたら幸いだ。できるだけ多くの読者がおぼろ げながらでも把握できる事を祈りつつ、次の節に進む。 *9:ゲーム理論 ゲーム理論の 理論の期待利得関数と 期待利得関数と量子力学の 量子力学の波動関数 付録6の〔式6-10〕は、ゲーム理論の期待利得関数が「数列の項 を足し合わせたもの」である事を意味している。 それぞれの項は戦略ベクトル μ に対して (μ がある状態になる確率)・(μ がある状態になる場合の利得) という形になっており、全体は 「μ の有り得る状態毎の利得にその確率を掛けた」それぞれの項を全て 足し合わせた形になっている。 実は量子力学の波動関数も、ゲーム理論の期待利得関数とよく似た形 をしている。 波動関数に含まれる全ての項は系(=何らかの物体や物理的・化学的 現象の集合)が取り得る全ての状態を表す状態ベクトル |8 が取り得る状態の うち1つになる確率に 対応する係数 ・ |8 に対して |8 が取り得る状態の うち1つ という形になっており、全体はこれらの項全てを足し合わせたもので、 |8 それ自身に等しくなる。即ち、 |8 は系全体の波動関数であり、 状態ベクトルと波動関数は同一のもの( |8 )の別表現である。 つい先程、『 |8 が取り得る状態のうち1つになる確率に対応する 係数』といういささか長い語句を使ったが、この係数は「展開係数」 あるいは「重ね合わせ係数」と呼ばれ、複素数の値を取る。 「展開係数(重ね合わせ係数)の絶対値を求めて自乗したもの」が 「『|8が取り得る状態のうち1つ』になる確率」である。 これらの波動関数に関する文言と同じ意味の事を数式でまとめて 書くと、次の〔式5-10〕の通りとなる。 「状態ベクトルと波動関数は同一のもの( |8 )の別表現」 と言われて、即座に納得できない人も多いだろう。 「何だか物理学の授業で聴いた波動関数の話と違うような気がする」 「波動関数は波の形を表す関数に係数を掛けて足し合わせた波動方程 式の形をしているのに、いったいなぜそれがベクトルと同じだと言うの か?」――私も、かつてそういう疑問をいだいた。 それらの疑問を解消する一助とするため、この節の次から引き続く 10節余りを、波動関数及び関連する題材(特に単振動とそれを記述 する数学的手法)の大まかな説明に費やす。 例によって、既に熟知している読者はこれらの節を飛ばして*21の 末尾数行から先を読み進んで頂いても差し支え無い。 これらの題材について理解できない事が多い間は、やはり例によって 「数式とのつきあい方」を思い返し、「ゲーム理論と量子力学の間には 意外なつながりがある」という事だけを頭に留めて、一旦*21の末尾 数行まで読み飛ばして頂いても構わない。 いずれにせよ、*21~*24でもう少し詳しく述べる通り、ゲーム 理論と量子力学には単なる偶然に留まらない類似性が有る。 ゲーム理論を理解するのに量子力学を記述する数学的手法の知識が 役立ち、逆に量子力学を理解するのにゲーム理論を記述する数学的手法 の知識が役立つ。 *10: 10:単振動 ―― 波動を 波動を数式で 数式で表現するための 表現するための基礎 するための基礎となる 基礎となる要素 となる要素 まず、「波」「波動」の定義を改めて簡潔に述べておく。 「波」もしくは「波動」とは、直接あるいは間接的に観測可能な「何か」 が変形する有り様(変形パターン)であり、変形の有り様が元の形を 保ちつつ座標軸(空間軸や時間軸など)に沿って移動する(伝わって いく)物理現象である。 変形の有り様が繰り返されない単独の山もしくは谷から成る波を 「孤立波」と呼び、同じ変形の有り様を繰り返す波は「連続波」と呼ぶ。 また、連続波が同じ変形の有り様を繰り返す間隔を「周期」と呼ぶ。 見た目及び数式での表現が最も単純な形をした波は、「単振動」と 呼ばれる現象が形作る波である。 単振動とは、物体の重心が最初に在った位置から離れる時の距離に 比例する力が重心に働くような環境で見られる現象であり、その力が 重心を最初の位置に戻そうとする事による物体の運動である。 その様な環境の具体的な一例として、次ページの〔図5-13〕の おもり ば ね 様に 錘 を発条で吊るしたような環境を挙げる事ができる。 この錘を最初の位置(原点)から r だけ真下に引いてから手を放すと、 で 発条はフックの法則に従って錘を原点からの距離に比例する力 9 引っ張るため、その力で加速されて原点まで戻る(①)。 原点では発条が錘を引っ張る力がゼロになる(※)が、錘は加速され がゼロになるわけではない。錘はそのまま ているので、いきなり速度 : 真上に向かって動こうとする。 すると今度は発条が、先程とは向きが逆で同じ大きさの、距離に比例 する力で錘を押し戻そうとし、原点から真上に r だけ離れた位置で一瞬 だけ速度がゼロになる。 (②) さらに発条が錘を原点に向かって押し戻し続けると真下に向かって 錘が加速され、原点に戻る。(③) しかし加速されて原点を過ぎ去ろうとする錘をまた発条が引っ張っ て減速し(④)、原点から真下に r だけ離れた位置まで動いて速度ゼロ になった後、また発条が錘を原点に引っ張ろうとし……以下同文となる。 (※注:原点では発条が錘を引っ張る力と重力が錘を引っ張る力が釣り合って いる。この場合、 「ゼロになる」と言うのは「差し引きゼロになる」という意味 である。なお、上記の単振動を考えるにあたって、重力の影響は常に発条に よって相殺されているので、差し当たり重力の影響は計算しなくても済む) 発条と錘の秩序正しい運動は、通常は、空気抵抗によって勢いが失わ れたり、発条と錘を構成する原子の無秩序な振動へと徐々に転化して勢 いが失われたり(機械的損失)する。 しかし空気抵抗や機械的損失などの影響を無視できる理想的な条件 の下では、発条と錘の秩序正しい単振動は永久に繰り返される。 この単振動の様子を数式で表すと、先程の〔図5-13〕の下に記し た〔式5-11〕の様になる。 この式は「単振動の運動方程式」と呼ばれ、これを解くと錘の重心の 位置 x と時間 t の関係を表す関数の具体的な中身が明らかになる。 xがt の関数である事を「 = f ; 」と書く方式は*3で述べた が、数式の分かりやすさよりも数式の煩雑さを減らす事を優先して、 この〔式5-11〕の様に「 = ; 」と書く方式もよく使われる。 (数式の煩雑さを減らす事は必ずしも初心者にとっての分かりやすさ を意味しないが、数多くの数式を駆使するのが常となっている研究者は、 意味を取り違えるおそれさえなければ、少しでも煩雑さを減らす表記法 を好む傾向が有る) 「位置の変化(動いた距離)を時間で割ると速度になる」というのは 中学までに習い、 「速度をさらに時間で割ると加速度になる」 「加速度に 質量を掛けると力になる」というのは高校に入って間もなく習うが、 単振動する錘の場合は速度も加速度も一定ではなく、時間経過に伴って 少しずつ変わる。 速度も加速度も刻一刻と変わる錘の単振動について、ある時刻におけ る速度と加速度を求めるには、時間 t の関数である位置 x について細か く分析しなければならず、その分析を行うには、次の節で述べる数学的 手法をどうしても使わなければならない。 *11: 11:単振動の 単振動の運動方程式を 運動方程式を解くために必要 くために必要な 必要な道具 ―― 微分積分法 単振動の運動方程式は位置と時間の関数を分析してある時刻におけ る速度と加速度を求める様な形になっており、「微分方程式」と呼ばれ るものの一種である。従って、これを解くにはどうしても微分積分法の 知識が必要になる。 「微分積分と聞いただけで気が遠くなる」という人も少なく無い だろうが、その様な「数学恐怖症」のほとんどは、本文第2章第5節 第5小節で書いた様に、不適切な数学教育に起因するものである。 ――私も、かつては数学恐怖症だった。 微分積分の基本的な考え方を身に付けるだけなら、それほど難しい 事ではない。 これから微分積分の基本的な考え方について書き、続いて、 「微分積分と聞いただけで気が遠くなる」数学恐怖症の人が多いのは 何故なのかについて、もう少し詳しく書く。 写像――特に関数を考える時、その関数によって結び付けられる要素 (変数)のうち独立変数の値を細かく変えると、従属変数の値も細かく 変わる。 位置と時間の変化からある時刻における速度と加速度を求めたい 目下の状況に限らず、関数の変化を細かく分析したくなる様な状況は 無数に有る。 値を変える幅の細かさについて制限が無い関数――即ち、本付録の *5で述べた様な「連続で滑らかな関数」について考えると、 「値を変える幅を際限無く細かくした場合、独立変数の変え幅と 従属変数の変え幅の比率は究極的にどうなるのか?」 という疑問が出る。 独立変数の変え幅をゼロに近づけると従属変数の変え幅もゼロに 近づく。ゼロで割る演算は矛盾無く定義できないので実行不能である という事実は*8で述べた通り(※)だが、ゼロでさえなければ、 どんな小さな数同士でも矛盾無く割り算ができる。 (※注:ゼロ除算が矛盾無く定義・実行できる数少ない例として、数学者 ベルンハルト・リーマンに因んで名付けられたリーマン球面の例が知られて いる。しかしゼロ除算を数学全体を通して矛盾無く定義できるかどうかは 未だ詳らかでは無いので、それについてこの本では深入りしない) ゼロに限りなく近い数字をゼロに限りなく近い数字で割ったら、 比率はゼロになるのか? そんなわけは無い。1兆分の1を1兆分の2で割ると1/2になる 様に、必ず何らかの答えが出る。 微分とは、上記の考え方の様に、 『変え幅を際限無く細かくした場合の、独立変数の変え幅と 従属変数の変え幅の比率』を求める操作 に他ならない。これと同じ意味の事を数式で書くと、 次の〔式5-12〕の様になる。 〔式5-12〕の通りの操作を行って得た『差分商の極限値』の事を 『微分商(differential quotient)』あるいは『導関数(derivative)』 (※)と 呼ぶ。 ――『微分(differentiation)』という計算法についての最も基礎的な (そして最も重要な)概念は、これである。 (※注: “derivative”という単語にはもともと「派生したもの」 「誘導体(母体 となる有機化合物に小さな変化を加えた物) 」等という意味が有り、導関数は 確かに「もとの関数から派生したもの」である。 また、「デリバティブ(金融派生商品)」という単語も語源は同じである。 ) ある関数の導関数を求める事が可能である時、もとの関数とその 導関数双方で共通する独立変数が取り得る数値の内、ある数値 a を 導関数に代入して得られる値を『微分係数(differential coefficient)』 と呼び、『 < * 』等の様に記す。 関数によっては1回だけでなく2回以上微分可能である。 次ページの〔式5-12´〕は、2階以上の高階微分(n 階導関数) の定義式である。 さて、数式をいじっていると、 「ある関数の全体の形は分からないが、 差分を表す数式と、独立変数が特定の値を取る時の従属変数の値は、 分かっている」という状況が多々有る。この時、次ページの 〔式5-13〕と引き続く〔図5-14〕 〔図5-15〕の様に 「独立変数が特定の値を取る時の従属変数の値」を足掛かりにして、 独立変数が取り得る値全体(※)に渡って差分を積み重ねる事で、形が 分からない「ある関数」の全体像を描き出す事ができる。 (※注: 「独立変数が取り得る値全体」の事を『定義域』と呼ぶ。これに対して 「従属変数が取り得る値全体」の事を『値域』と呼ぶ) 一般に、 〔式5-13〕の前提に基づいて積み重ねた差分の全体は 次ページの〔図5-15〕(b)の様に個々の差分を表す項を多数足し 合わせた形になっており、その様子を表す数式を整理したものが更に 次のページの〔式5-14〕である。 ∆>( ≈ ∆( を表す項の集合は数列になっている。 また、積み重ねた ∆>( の全体(総和)は、数列の最初(初項)から 最後(第 n 項)までを足し合わせたものである『級数(series)』と呼ば 個々の れるものの性質を持っている。 ここで、差分を際限無く細かく取れるとしたら、どうなるだろうか? 差分を際限無く細かく取るという事は、級数に対して「極限値(究極的 に行き着く値)を求める」即ち「極限操作を行う」事と同義となり、 ∆>( の総和は〔式5-14〕赤枠内の定義式と等価になる。 この赤枠内の式は、定義域内の指定された区間に存在する各点での 微分商の値(即ち、差分商を表す既知関数の、各点での極限値)を 区間全体に渡って隙間無く積み重ねる(足し合わせる)という事を 意味する。 この『微分商を指定区間全体に渡って隙間無く積み重ねる』操作が 積分に他ならない。 ――『積分』という計算法についての最も基礎的な(そして最も重要な) 概念はこれである。 本節冒頭からここまでの話で察しがついた事だろうと思うが、微分の 逆演算が積分であり、積分の逆演算が微分である。(※) 「微分積分の基本的な考え方」を述べるだけなら、ここまでの話だけで 済んでしまう。 (※注:この表裏一体的な関係が確かに成り立っている事を示すものが 『微積分学の基本定理』である。その証明についてこの本では深入りしないが、 要は〔図5-14〕〔図5-15〕 〔式5-13〕〔式5-14〕で示した 基本的な考え方を厳密にしたものである。 厳密にする際、 〔図5-15〕 (b)の中に記載した『リーマン和(の特殊な例) 』 はもう少し一般的に定式化される(小区間の幅が等間隔でなくても良い)が、 基本的な考え方は同じである) 然るべき手順を踏んで考えれば、微分積分の基本的な考え方を理解 する事はそれほど難しいものではない。 義務教育で学んだ事をしっかり会得している高校生以上の人なら、 おそらく独学でも理解できるだろうし、真に優れた教師に出会えたなら、 ごく普通の中学生でも理解できるだろう。 では、微分積分は多くの高校生にとって何故あんなにも難しく感じら れ、数学恐怖症を量産する大きな要因の1つになっているのだろうか? ―― 一言で答えるなら、本文第2章第5節で述べた『ふるい落とすため だけの問題』を作るのが容易だから、と言う事に尽きる。 実は、どんな関数も簡単に微分積分法を適用できるというわけでは なく、関数の中には微分・積分の過程が恐ろしく複雑であったり、原理 的には適用できるにも関わらずまだ一般的解法が発見されてなかった りするものも多い。「連続で滑らか」ではない関数は微分積分法を適用 できない場合も多い。 「原理的には適用できる」関数の場合、比較的簡単に微分積分できる 関数を組み合わせて元の関数と等価な式に変形したり、あるいは完全な 変形が不可能なら近似解を求めたり、といった手法が取られるが、 「比較的簡単に微分積分できる関数」を組み合わせて難しい微分積分の 問題を作るのは簡単でも、それを解くのは、出題者以外にとって非常に 難しい。 これは、素数を組み合わせて非常に大きい桁の合成数を作るのは簡単 でも、その合成数を元の素数の組に素因数分解するのは非常に難しい (初めから答えを知っているのでなければ)という事柄に若干似ている。 微分積分は、『ふるい落とすためだけの問題』を作るのにちょうどよ い課目なのである。 不運にして出題者がとても意地悪で、不運にしてあなたがその問題を 解けなかったとしても、あまり悲観する必要は無い(全く気にしないの も問題だが)。 その意地悪な問題が解けたとしても数学全体から見て枝葉末節で しかない場合も多々有り、数学の本質を理解したり数学を発展させたり するのに役立つ事はあまり無い。 意地悪な問題を解くのに固執する事は、連立方程式無しで鶴亀算を解 くのに固執するのと同レベルでしか無い事が、多々有る。 シンプル 重ねて言うが、微分積分は、その基本的な考え方そのものは実に単純 であり、義務教育をしっかり修めた者にとっては決して難しいものでは ない。 難解な微分積分の問題にぶつかったら、何度でも「基本的な考え方」 に立ち返ってみる事をおすすめする。そうしているうちに、何かの拍子 で解法を思いつくかもしれない。 *12: 12:単振動の 単振動の運動方程式の 運動方程式の特殊解 ―― 三角関数とのつながり 三角関数とのつながり 既に述べた通り、単振動を表す〔式5-11〕は微分方程式の一種で ある。 微分積分を習う前に出てくる代数方程式は未知の変数を仮の文字で 表した数式であり、式の中で既に分かっている数を手がかりにして未知 の変数が何なのかを求めるパズルのようなものだ。そして、未知の変数 が何なのか分かった時に「解けた」と言う。 微分方程式もパズルのようなものだと言える。この場合、未知なもの は「関数」であり、既に形を知っている関数(既知関数)との関係式が 分かっている導関数を手がかりにして、未知の関数が何なのかを求める。 「ある関数を微分したらこういう導関数が得られるのは分かっている。 じゃあ、それを積分したら元々の関数が何なのか分かるよね?」 ――そういう事である。 ただ、微分積分においては、前節で述べた通りに「ある導関数をさら に微分する」「ある導関数を積分して得られた関数をさらに積分する」 という操作が可能な場合も少なく無い。 @ は位置座標 に対する ; についての2階導関数であり、これは元々の関数(位置座標 )を ; について2回微分して得た導関数である事を意味する。 〔式5-11〕をよく見ると、加速度 つまり、この式において何なのか知りたい未知関数 は 「2回微分したら、元々の関数に決まった係数が掛かって負の符号が 付いたものと、同じになる」という性質を持っている。 この未知関数と似た性質を持つ関数として、高校で習った三角関数を 連想する読者も多い事だろう。 三角関数についてよく知らない読者の為にここで三角関数について 改めて説明するが、よく知っている読者は4ページほど先の「三角関数 を微分する」くだりまで流し読みして頂いても構わない。 三角関数とは、「直角三角形の一番長い辺と、残りの2辺の、長さの 比率」の関係を表す関数である。 三角関数は比率を表す関数であるので、最初の方こそ辺の長さを問う 場合は有っても、最終的には「長さ」でなく「長さの比率」を問う事に なる。 従って、ある直角三角形の各辺の比率さえ分かれば、それと相似な 全ての直角三角形についても、各辺の比率は分かってしまう。 そこで、一番長い辺が「1」であるような直角三角形について比率を 求める手順さえ作ってしまえば、それと相似な直角三角形全てについて、 各辺の比率を問う問題を一挙に片づけてしまえる。 三角関数で扱う三角形が主に「直角三角形」である事には相応の理由 が有る。と言うのは、どんな三角形でも一番大きい角度を持つ角の頂点 から対向する辺まで垂線を引くと2つの直角三角形に分割でき、直角三 角形の問題に帰着できてしまうからだ。 それに加えて、「一番長い辺」の片方の端を2次元平面座標系の原点 に固定してしまえば、後はその辺を原点の周りに任意の角度で回転させ、 固定されてない方の端から2本の座標軸のいずれかに向かって垂線を 引くだけで、任意に直角三角形を作図できるという理由も有る。 この、『一番長い辺が「1」であるような直角三角形について比率を 求める手順』を図式化したものが、次ページの〔図5-16〕である。 つい先程の説明文と併せて読めば、 「全ての直角三角形の各辺の比率についての問題が、半径1の円の内部 での作図だけで、けりが付いてしまう」 という事が理解できるはずだ。 三角関数とは、 「半径1の円の内部での作図」という手順に基づいて、 直角三角形の辺の比率を求める関数に他ならない。 三角関数の値を求めるために利用される「半径1の円」の事を 「単位円」と呼ぶ。 また、単位円の中心に片方の端を固定された長さ1の直線の事を 「動径」と呼ぶ。 動径の固定されていない方の端を「動点」と呼ぶ。動点は常に単位円 の円周上に在る。 動径をどれほど細かい角度 Δθ で動かしても、動径を最も長い辺と する直角三角形の各辺の比率を求める事が可能なので、三角関数は 「連続で滑らかな関数」である。 三角関数は複数存在し、それらの中でも特に重要なものが『正弦関数』 (sinθ )と『余弦関数』(cosθ )である。この2つに準じて重要なもの が『正接関数』(tanθ )である。 これら3つの三角関数を表す文字式はそれぞれ「正弦(sine(サイン))」 「余弦(cosine(コサイン))」 「正接(tangent(タンジェント))」の略語 に由来する。 また、角度を表す部分にはギリシャ文字の「シータ(θ)」を用いる 慣例が有るが、別の文字を使ったり、あるいはこの部分も文字式として 「sin (α +β )」の様に書く場合も有る。 動径を任意の角度にした時の三角関数の値は、単純な幾何学の問題と して既に知られている値(例えば sin 30° = 1⁄2 , cos 45° = 1⁄√2 等) を手掛かりにして、高校で習う三角関数に関するいくつかの定理や公式 (加法定理、倍角の公式、半角の公式、等)を駆使する事で、芋づる式 に求める事ができる(これ以外の方法も有るが、それは後で述べる)。 また、角度を扱うに当たって角度以外の他の変数と同じ形式で扱える ようにするため、角度を、『度』で表す「度数法」ではなく、 「動径の動点が円周上を動いた距離(弧の長さ)」と「動径の長さ」の 比率で表す「弧度法」が、通常用いられる。 慣れ親しんだ度数法を弧度数に変換するのは容易であり、円とドルを 金本位制時代の固定相場で変換するようなものだ。 弧度法においては角度を「ラジアン(radian, 単位記号: [rad])」という 単位で表すが、 「動径が 180°動いた時の角度」=「πラジアン」と定義されている だけの事だ。 直角は「π/2ラジアン」、45°は「π/4ラジアン」、そして 360° は「2πラジアン」(ちょうど1回転)である。 「1ラジアン」は動径の動点を円周に沿って動径自身の長さに等しい 距離を動かした時の角度であり、 「180/π」度(≒180÷3.14=約 57.3°) である。 コンピューター(関数電卓を含む)を使えるなら、上記の手順を予め 組み込んだ『プログラム』として三角関数を利用できるが、紙と鉛筆し か使えないなら、予め計算した結果を表として保管する必要が有る。 高校の教科書や理科年表に『三角関数表』が載っているのはそういう 理由からである。 コンピューターが無い時代、人類は三角関数表を用いて、広大な 土地・大きな物体の精密な測量、銃火器類で射撃を行う際の標的まで の距離、天文現象の分析など、三角関数が絡む問題を解いてきた。 山の高さや天体までの距離等はまさか定規で測るわけにはいかない。 山あるいは天体サイズの定規など、作れたとしても扱える生物が存在 しない。 射撃の標的までの距離を測るために数十メートル以上の定規を作っ ても扱える人間は存在しないし、巻尺で測るために近づこうとしたら、 その前に敵に撃たれてしまう。 ――三角関数がいかに重要か、実感できるだろう。 因みに、多くの国の警察や軍隊では、 「1km先の標的の足元と高さ1mに置いた標的中心と自分の足元」の 3点を結ぶ直角三角形が成す、一番小さい角(鋭角)の角度(1ミリ ラジアン)(※)を基準にすると標的までの距離を測るのに都合が良い ので、1ミリラジアンあるいはその近似値(「360°÷6400」など)を 『1ミル』と呼んで、実用に供している。 (※注:次の〔図5-17〕の通り、ちょうど1ミリラジアンになるのは 「自分の足元から標的の中心までを単位円の動径とした時の、動点が描く弧の 長さが1m」(1kmを「長さ1」として扱っている)とした場合だが、 「自分の足元から標的の足元までが1km」とした場合でも一番長い辺との差 がごくわずかになる為、鋭角の角度は1ミリラジアンの近似値になる) さて、三角関数を微分するには〔式5-12〕の考え方を適用すれば 良いわけだが、その考え方に基づく微分の公式を、次のページから 4ページに渡って続く〔表5-5〕の一部( として記す。 a, b, c, d の内の『 d 』) これらの表はよく使われる関数の微分公式を集めたものである。 これらの表で取り上げた公式と比べると目にする頻度は少ないもの の、重要な微分の公式は他にも有る(例えば、『 常に r=x である場合の実数の実数乗『 は深入りしない。 = c 』で触れなかった、 U 』等)が、この本で 三角関数に限らず、〔表5-5〕内の微分の公式が成り立つ事を 厳密に証明するには、 イプシロン-デルタろんぽう 『ε - δ 論 法』( 英語では“( ε, δ )-definition of limit” )という 数学的手法、あるいはそれとは別の『超準解析(Nonstandard analysis)』 という数学的手法を使う。 ε-δ論法と超準解析は、それぞれ別の発想に基づく、微分と積分に 厳密な基礎を与える手法である。 ε-δ論法の方が古い歴史を持ち、170 年ほど前に確立された。一方、 超準解析はそれよりも新しい手法であり、70 年ほど前に確立された。 超準解析は微積分に厳密な基礎を与えるだけに留まらず、数学全体を 支える数学基礎論とも深く関わっている。 超準解析について説明するには、相当深いレベル(少なくとも数学専 攻の大学2~3年生レベル)で数学基礎論に立ち入らなければならない ため、この本では深入りしない。 超準解析よりは理解しやすいε-δ論法も数学やその学際領域を専攻 する大学生が初年度で学ぶ程度には難しく、大学生にとってつまづきの 石になりやすい(私自身がそうだった)。 ここで6~7ページほどを割いて、ε-δ論法の要点だけを述べる。 ε-δ論法とは、関数の極限値を厳密に論じる際に「無限(infinite)」 とか「限り無く(infinitely)」とかいう言葉あるいは「∞」の記号を 無節操に使う事によって生じる誤謬を避けるために編み出された論法 である。 数列や級数の極限値を厳密に論じる際も同じ論法が使われ、その際は 実数δを自然数(アルファベットの m や n や N 等で記す)に置き換え て「ε- m 論法」「ε- n 論法」「ε- N 論法」等と呼ばれる。 *2で 『「当面支障無い程度」の明確さと厳密さを持つ指定の仕方・要素の定 義・前提条件で一旦出発して、可能な限り論理展開と数量的処理を進め、 それ以上進めなくなったり堂々巡りになったりしたら改めて指定の仕 方・要素の定義・前提条件・論理展開・数量的処理について問い直す』 と書いたが、微積分法の研究が進むにつれて現れた諸々の支障を解消す るために『指定の仕方・要素の定義・前提条件・論理展開・数量的処理』 を問い直した結果編み出された手法が、まさしくε-δ論法である。 高校までの数学では、あまり細かい所まで突き詰めずに「無限」とか 「限り無く」とかいう言葉や「∞」の記号を使って、関数や数列や級数 の極限値を論じる。 例えば、 = f = 0 という関数を考え、 続いて、 = f + ℎ となる点と = f となる点の差を表す関数 f + ℎ − f + ℎ0 − 0 0 + 2ℎ + ℎ0 − 0 = = = 2 + ℎ ℎ ℎ ℎ を考える。 g = この場合、あまり細かい所まで突き詰めずとも、h を限り無くゼロに 近づけると g の極限値が 2x になる事は直観的に分かる。 (〔式5-12〕を読み返して頂ければ分かると思うが、h を x の増分 Δx と見なせば g の極限値は f の導関数そのものであり、 1 = f < = lim g である) Z→ 1 〔表5-5〕(d)の sin と cos の微分では先ず三角関数の加法定理を 利用して式を変形し、続いて「挟み撃ちの定理(はさみうちの原理)」 sin \ = 1 である事を利用し、導関数を求めている。 [→ \ によって lim 三角関数の加法定理も挟み撃ちの定理も現代日本の高校数学で習う ものの、加法定理は証明付きで導入されるのに対して、挟み撃ちの定理 は証明抜きで天下り的に導入される(※)。 (※注:難点はそれだけではない。単位円の動径によって描かれる扇形の面積 とそれを挟み込む直角三角形の面積を利用して三角関数の導関数を求めようと している場合が多く、面積を厳密に求めるには今から求めようとする三角関数 の導関数が必要になり、循環論法に陥ってしまっているという難点が有る。 循環論法を避ける手っ取り早い方法の1つは『動径が描く扇形の面積』では なく『動径が描く弧の長さ』を利用して導関数を求めるという方法である。 弧の長さ自体は高校数学までの予備知識で求める事ができるが、それを利用 して導関数を求める過程はかなり込み入ったものなので、この本では深入りし ない) 挟み撃ちの定理は 『3つの関数 f , g , h について 常に「 f ≤ g ≤ h 」が成り立ち、 尚且つ x が限り無くある実数 a に近づく (あるいは限り無く大きく・限り無く小さくなる)につれて f 及び h が限り無く実数 b に近づくならば、 f も限り無く実数 b(極限値)に近づく』 という定理であり、文意を数式で記すと次ページの〔式5-15〕の様 になる。 ここで、 「が限り無くある実数*に近づく `lim b 」 U→a 「が限り無く大きくなる ` lim b 」 U→cd 「が限り無く小さくなる ` lim b 」 U→5d という表現が曲者である事に気を付けて頂きたい。 「実数 a 」の場合はどれほど大きかろうと小さかろうと 「ある1つの実数」を表しているのであり、ゼロ除算に直面した時 以外は矛盾無く四則演算を適用できる。 ところが「+∞」「-∞」の場合は「限り無く大きくなる(正の方向 に無限大)」「限り無く小さくなる(負の方向に無限大)」という状態を 表しているのであって、「ある1つの実数が存在する」という状態だけ を表しているのではない。 『数』に対する四則演算を拡張してベクトルや行列などに対する 四則演算を整合的に定義できる事は*8で既に述べたが、『無限』と 呼ばれる『状態』に対する四則演算を同じくらい整合的に定義する 事は難しい。 (集合論では無限集合に対する演算もいくつか定義されているが、 それらの演算では数の四則演算における常識が通用しない) 「∞+∞」や「∞×∞」はいくらになるだろうか? 「∞-∞」や「∞÷∞」はいくらになるだろうか? これら4つの数式(?)について 「∞+∞=∞」「∞×∞=∞」「∞-∞=0」「∞÷∞=1」と 答えたくなるかもしれない。 しかしそれならば「(∞+∞)-∞=∞-∞=0」だろうか? 「(∞×∞)÷∞=∞÷∞=1」だろうか? ――『数』に対する四則演算を『無限』に対して安直に適用すると 整合性が無くなり、矛盾を招く。 「∞」に対して四則演算を適用しようとする場合とは違い、 「0(ゼロ)」に対して四則演算を適用しようとする場合はゼロ除算と いう例外を別にすると整合性が保たれる。 ゼロ除算の時のみ、「∞」に対する四則演算と同様の問題が起こって いると言えるが、よく考えてみると「0」には「ゼロという特定の数が 1つ存在する」という状態を表すだけでなく「何も無い」という状態を 表すという二面性が有り、そういう意味で「0」はかなり異質な『数』 である。 一般に、関数の具体的な中身は四則演算によって数や項が結合された ものである場合がほとんどであるので、もしも関数の中に「∞」を持ち 込んでしまうと四則演算を整合的に行えず、関数の大小関係を論じる事 ができなくなる。 従って、『無限』に対して通常の『数』に対する四則演算を行えない という事は、3つの関数 f , g , h の独立変数 大きくなる事を示すつもりで「 x x x が限り無く に+∞を代入する」という演算や、 が限り無く小さくなる事を示すつもりで「 という演算や、 x x に-∞を代入する」 の逆数が限り無くゼロに近づく事を示すつもりで 「1/ x =1÷(±∞)=0」という演算を、行ってはいけないという 事を意味する。 また、関数の中にゼロを持ち込んだ結果、ゼロ除算が発生してしまう ようであれば、関数の中身を元の形と等価な式に変形するなどしてゼロ 除算を回避しなければならない。 関数の中に「∞」を持ち込まず尚且つゼロ除算を発生させないという 論理的要請の下に〔式5-15〕の挟み撃ちの定理を証明しろと言われ たら、大学レベルの数学の講義を初めて受ける人のほとんどが途方に 暮れるのではなかろうか? 少なくとも、大学1年生の時の私はそう だった。 〔式5-15〕において、関数の中に「∞」を持ち込んだりゼロ除算 を発生させたりせずに関数 f ,h の極限値が b になる事を表現 し、関数 g の極限値も b になる事を証明するには、極限(limit)を 表す記号「lim」を使った式の意味を次ページのように定義し直す必要が 有る。 ( 1 )「 x が限り無くある実数 a に近づく時、 f は限り無く実数-に近づく。 `lim e = -b 」 U→a ↓ ( 1´)「任意の正の実数εに対応して正の実数δが存在する時、 | − *| < g となる全ての実数 x について |f − -| < h が成り立つ」 ( 2 )「 x が限り無く大きくなる時、 f は限り無く実数-に近づく。 ` lim e = -b 」 U→cd ↓ ( 2´)「任意の正の実数εに対応して実数δが存在する時、 > g となる全ての実数 x について |f − -| < h が成り立つ」 ( 3 )「 x が限り無く小さくなる時、 f は限り無く実数-に近づく。 ` lim e = -b 」 U→5d ↓ ( 3´)「任意の正の実数εに対応して実数δが存在する時、 < g となる全ての実数 x について |f − -| < h が成り立つ」 例えば、 f = sin である場合(角度は弧度法で測るものとする) 、 ( 1´)において a が1ラジアンである時、 f * = - は 0.8414 に近い数 であるが、任意の正の実数εとして「ε=0.0055」を選んだとすると、 x と a の大きさの差 | − *| = | − 1| が 0.01 未満になるようδ=0.01 としてやれば、| − 1| < g となる全ての実数 x(0.99 < x <1.01) について、次の〔図5-18〕のように f の値を b±εの範囲に 収める事ができる。 εは「任意の正の実数」(※)であるので、任意に小さい値を選ぶ 事ができる。「ε=0.0001」でも良いし、「ε=0.0000001」でも良いし、 小数点以下にゼロが何兆桁か続いた後の桁にやっと1が現れる様な 小さな値でも良い。 εがどんな小さな値だろうと、正の実数である限り、それに対応した δの値を選べば、f の値を b±εの範囲に必ず収める事ができる。 ――つまり、f は極限値 b に収束する。 (※注:「大きい」「小さい」という主観的な認識は相対的なものであり、何か 基準が無ければ大小を論じる事はできない。 数学者が「任意」という単語を使って独特な言い回しで「任意の正の実数」 と言う時、暗黙のうちに「いくらでも小さい正の実数を選べる」 「いくらでも大 きい正の実数を選べる」という意味を含んでいる事に注意して頂きたい) 先述の( 1 )~( 3 )の定義を同じ意味の( 1´)~( 3´)の様な形に書き 換える論法こそが ε – δ 論法であり、これによって関数の中に「∞」 を持ち込んだりゼロ除算を発生させたりせずに関数の極限値を 論じる事が可能となる。 ε – δ 論法において「lim」の下に記される「∞」は( 2´)及び( 3´) の定義を略記するために使われる記号の役割しか果たしておらず、 関数の中身に直接干渉して矛盾を招くおそれは無い。 「lim」の場合と同様に、積分記号「∫ 」の右上や左下に記される「∞」 も、原則として「積分する変数の定義域を略記するためだけの記号」と 解釈すべきであり、数に対する四則演算を「∞」に対して直接適用して いると解釈しない方が無難である。 ε – δ 論法を挟み撃ちの定理に適用すると、 「 f 及び h が限り無く実数 b に近づく」と言う事は、 「どんなに小さな ε を選んでも、それに対応する δ によって指定された 範囲に在る全ての実数 x ( −g < < +g あるいは > +g あるいは < −g )によって、 f と h の値を - ± h の範囲に収める事が できる」と言う事と同値である。 従って、最初の前提「 f ≤ g ≤ h 」が満たされる限り、 g の値を - ± h の範囲に収める事ができる δ の存在を示せば、 挟み撃ちの定理を証明できる。 そのためには、先ず f の値を - ± h の範囲に収める事ができる x の範囲を g6 によって指定し、 続いて h の値を - ± h の範囲に収める事ができる によって指定する。 x の範囲を g0 (「 f と h の値を - ± h の範囲に収める事ができる」という 2つ目の前提により、少なくとも g6 と g0 は存在する) 最後に、 g6 と g0 によって指定される よって指定し直せば良い。 x の範囲の共通部分を、δ に ε – δ 論法についてはこれ以上この本では深入りしないが、とにかく、 先述の〔表5-5〕内の公式の厳密な正しさは ε – δ 論法によって裏付 ける事ができる。 〔表5-5〕(c)内の公式の通りに sinθを微分すると cosθとなり、 cosθを微分すると-sinθとなる。 sinθと cosθの微分は何回でも繰り返す事ができ、逆に sinθと cosθ の積分を何回でも繰り返す事ができる。 また、tanθの微分と積分は sinθと cosθの微分と積分を組み合わせる 事で求める事ができる。 2回微分ができる関数が何なのか分かれば単振動の運動方程式 〔式5-11〕を解けるが、少々困った事に、この式の右辺には発条 係数kを錘の質量mで割った値が、係数として掛かっている。 つまり求めたい関数は、少なくとも何の変哲も無い正弦関数そのまま ではない。 この係数を数式変形のルールに違反せずにどうにか処理して、何の 変哲も無い正弦関数と同じように2回微分できる関数を求めれば良い わけだ。 「何の変哲も無い正弦関数」が〔式5-11〕の微分方程式を満たさ ないのであれば、 「少し変形してみた」正弦関数はどうだろうか? 例えば、次ページの〔式5-16〕の様に。 今、何の脈絡も無く(あてずっぽうで) = ; = sin n; = sin o の場合を考えてみたが、見ての通り、 x は t の関数であると同時に、 正弦関数の中に入っている従属変数 u 自体が t の1次関数になって いる。 つまり x は o = n; というもう一つの関数が入れ子状になった 「合成関数」であるので、〔表5-5〕(a)内の公式を利用して、 x を t で2回微分した結果が << = −n0 ∙ sin n; である事が分かる。 ついでに余弦関数を少し変形した場合も確かめて見ると、 = ; = cos n; = cos o を t で2回微分した結果が << = −n0 ∙ cos n; である事が分かる。 〔式5-11〕と〔式5-16〕を良く見比べると、ω には任意の 実数を当てはめられる事が分かるので、 n = k⁄m と解釈してしま えば、〔式5-11〕の微分方程式を満たす事が分かる。 こうやって見つけた x の式2つは確かに〔式5-11〕の解であるの だが、何の脈絡も無い前提を置いて試行錯誤した結果たまたま見つけた ものであり、これで全てかどうかはまだ分からない。 この様に、他に解が有るかどうか分からない時にたまたま見つかった 解の事を「特殊解」と言う。 これに対して、他に有り得る解の全てを数式で明確に証明できる時の解 を「一般解」と言う。 何の脈絡も無く何らかの前提・仮定を置いて特殊解を求めるやり方を、 お上からのお達しを詮索せずに遂行する様子になぞらえて、 「天下り的」 と揶揄する事もある。 言うまでも無く、「天下り的」なやり方を乱用すると全体の脈絡が 分かりづらくなるので、「天下り的」なやり方を使わないに越した事は 無い。しかしながら、試行錯誤の段階では暫定的に天下り的なやり方を 認めないと、一歩も先に進めない場合もある。 「なぜその前提・仮定を置くと上手くいくのか分からないがとりあえず それでやってみる」やり方は、実は量子力学の構築に関わった数学者達 や物理学者達も、熟慮の上で時折利用していた。 (例:プランク、ボーア、アインシュタイン、ワイル、 シュレディンガー、ヨルダン、ボルン、ハイゼンベルク、ヒルベルト、 ノイマン、ディラック、ファインマン……等々。他多数) 天下り的なやり方は問題を解いたり理論を構築したりする際の「作業 用の仮の足場」みたいなものであり、もっとすっきりした説明ができる ようになった時は、片づけた方が望ましい。完成した建築物の周りに いつまでも作業用の仮の足場を放置しないのと同じ事だ。 *13: 13:単振動の 単振動の運動方程式の 運動方程式の一般解 指数関数・ 対数関数・ 演算子法とのつながり ―― 指数関数 ・対数関数 ・演算子法 とのつながり さて、天下り的なやり方で〔式5-11〕の微分方程式の特殊解を 2つ見つけたが、これ以外に解が有るのか無いのか、即ち一般解を示す 数式が有るのかどうか、それを確かめないといけない。 はんちゅう それを確かめるには、最も簡単な 範 疇 (カテゴリー)の微分方程式 に立ち返って見る必要が有る。 最も簡単な範疇の微分方程式は、次の〔式5-17〕の様に記述 される。 この形の微分方程式を、『1階斉次線形微分方程式』と言う。この式 の右辺がゼロでない場合、 せい じ 『1階非斉次線形微分方程式』と言う。 (「斉次」を「同次」と呼ぶ流儀 も有る) 「斉次」というのは「ゼロでない項の次数がどの項も同じである」と いう意味であり、未知関数もしくはその導関数の次数(自分自身を含め た変数を乗じた回数)が同じであれば「斉次」である。 「1階」と言うのは「式の中に1回微分した導関数までしか含まない」 と言う意味である。 項の「次数」と導関数の「階数」は違うものなので、気を付ける必要が有る。 ゼロでない定数は「零次」と見なすため、右辺がゼロでない定数の 場合は「零次の項」と見なされ、左辺と右辺で次数が違うという事に なり、「非斉次」となる。斉次な式よりも非斉次な式を解く方が少々 難しい。 「線形(線型) 」と言うのは、「左辺の各項が未知関数もしくはその 導関数と係数の積(係数に未知関数とその導関数自身は含まれない)で ある」という意味であり、尚且つ「各項が単純な足し算と引き算だけで 結合されている(線形結合である) 」と言う意味である。 係数に未知関数とその導関数自身が含まれる場合は「非線形」であり、 線形の場合に比べてひどく難しい。本職の数学者や物理学者が頭を抱え る非線形の微分方程式も多々有る。 より複雑なあるいはより一般的な問題を解くには、それに先立って より簡単なあるいは(適用範囲が限定されているという意味で)より 特殊な問題の解き方をはっきり理解する事が定石だ。微分方程式も例外 では無い。まずは〔式5-17〕の中の既知関数 r = r ; の特殊な例 として、 r が定数の場合を考える。未知関数自身やその導関数で無けれ ば任意の実数を選べるので、 r = −1 として、〔式5-18〕を作る。 r = −1 とした理由は、未知関数 x を右辺に移項した場合に正になる ようにした方が都合良いからであり、それより深い意味は無い。 (すぐ後で述べる様に、r = 1 としても解を容易に求める事が出来る) 見ての通り、〔式5-18〕の解はネイピア数を底とする指数関数 (とその定数倍)以外に有り得ない。 〔式5-18〕を少し変形して r = s ( s :実定数)とすると、次の 〔式5-19〕における指数関数の指数部が“ −s; ”となるだけで、 ほとんど同じ形の式となる。特に r = s = 1 とすると、これは 〔式5-18〕の中の最初の式において左辺の x に掛けられた定数 『 −1 』の符号を逆転させただけであり、次ページに示す〔図5-19〕 の様に、〔式5-18〕の解のグラフを左右反転させたものが、 tu tU = − ; の解のグラフである。 次に r が定数でなく変数(既知関数)である場合について 〔式5-17〕を解いてみると、次の〔式5-20〕の結果を得る。 更に〔式5-17〕の右辺をゼロでない数にして、非斉次の式にして 解いてみると、次の〔式5-21〕の結果を得る。 この結果が一般の『1階線形微分方程式』の一般解であり、 1階線形微分方程式であればどんなものであれ、これで「解けた」 。 単振動の運動方程式は『(係数が定数の)2階線形斉次微分方程式』 であり、この式の一般解が有るかどうかを確かめるには、1階線形微分 方程式の解法を土台にしつつ、さらにある方法を導入して確かめる。 『2階線形斉次微分方程式』の一般的な形(一般形)を書くと次の 〔式5-22〕の様になる。 ここでも、既知関数 r = r ; と ℎ = ℎ ; が定数である場合を 考えるが、 r と ℎ を定数として作った次の〔式5-22´〕で、 先程述べた『ある方法』をまたもや天下り的に導入して式を変形 している。 〔式5-22´〕で の1階導関数 < と2階導関数 << を それぞれ微分商である事を明記した形である 「 tU tv 」と「 twU tv w 」で書き表している所まではまだ分かるが、 その直後に微分商から 「 t tv 」と「 tw tv w を抜いた妙な代物 」をあたかも一つの変数であるかのように表し、 あまつさえ2次式の因数分解を適用している! こんな事をして矛盾を生じないのだろうか? ――結論を先に言うと、矛盾無く実行できる事が知られている。 ここで導入した方法は『演算子法(operational calculus)』と呼ばれ、 妙な代物「 (この場合は として扱う。 t tv 」や「 tw tv w 」の様に微分商から微分される従属変数 )を抜いて表記したものを『演算子(作用素)』の一種 数学では、色々な種類の「演算子(作用素)」(英語ではいずれも “operator”)を変数のごとく代数的に扱う事例が多々有る。 演算子法とは、演算子を代数的に扱う様々な手法の総称である。 演算子法の歴史自体は少なくともライプニッツにまで遡るが、数多の 数学者の手を経て正当な手法として確立されるきっかけは極めて実用 的な分野から得られた。 主に 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて活躍した電気技師にして物理 学者のヘヴィサイドは、回路方程式(電気回路に関する微分方程式)を 解くに当たって、微分記号を演算子の一種と見做して代数的に扱うと 回路方程式を解くのが容易になる事に気づき、独自の演算子法(ヘヴィ サイドの演算子法)を編み出した。 初期のヘヴィサイドの演算子法は厳密な数学的裏付けを欠いていた ため、〔式5-22´〕を見た時にあなたが感じたであろう疑念と同様 のものを当時の数学者達もいだき、大いに物議を醸した。 最終的には、次節で述べる「ラプラス変換」と呼ばれる手法とヘヴィ サイドの演算子法が酷似している事を示した数学者ブロムウィッチの 研究により、ヘヴィサイドの演算子法の正当性が証明された。 その後、カーソン、ウィーナー、ミクシンスキー等による研究を経て、 演算子法は今日の様により扱いやすく洗練されるに至る。 余談だが、ヘヴィサイドは諸事情によって正規の学校教育を 16 歳の時 に断念せざるを得なくなった後、18 歳まで独学し、電信会社の通信士の 職を得て働く傍ら研究を続け、独自の演算子法を編み出すに至った。 存命中は現代の様に高い評価を受けなかったが、彼もまた本文第2章 第5節第9小節で引き合いに出した本田宗一郎やエジソンと同様に、何 らかの理由で学問の世界から遠ざかったり正規の学校教育を完了でき なかったりしたものの、後に改めて学問を修め、大きな業績を築いた者 の一人である。 本題に戻るが、〔式5-22´〕の様に、演算子法では演算子をアル ファベット大文字で表す慣例に倣う事が多い。特に大文字小文字の区別 を意識しない場合はその代わりにその文字の真上に記号『^』を書く。 この、上に向かって折れ曲がった小さい横棒の記号『^』を 「キャレット」「ハット」 「サーカムフレックス」等と呼ぶ。 演算子は斜体にしたりしなかったりする。また、演算子の記法には別 の流儀も有る。いずれにせよ、ただの変数(被演算子)と区別したい場 合は前もってその旨を記し、記法について注意を促すのが慣例である。 多くの演算子(特に微積分学で使われる演算子のほとんど)は必ず演算子 自身の右側に書かれた被演算子に対して作用し、左側に書かれたものに対 しては作用しない。 その種の演算子の右側に作用を受ける対象が無い時は、加減乗除の 演算子単体(算術演算子;+, -, ×, ÷, 等)だけでは演算が実行 されないのと同じく、演算は実行されない。 z 0 + rD z + ℎ{ ”のごとく複数の演算 〔式5-22´〕の途中の式“ xD 子と係数を算術演算子で結合したものを『演算子値関数』と呼び、 z { ”, “ |xD z { ” , “ x z { ”等の様に表記する。 “ oxD 演算子値関数自体が単一の演算子と見做され、単一の演算子と同様に 被演算子に作用する。特に多用される演算子値関数には、後述する“ ∇ ” (ナブラ)など、特別な記号が割り当てられている。 さて、演算子法の規則に沿って〔式5-22´〕の通りに微分方程式 z + ℎ{ = xD z − ~{xD z − { = 0 ”という z 0 + rD を変形していくと、“ xD 式を得る。 z { = xD z + ℎ{ の中身を単なる文字式と見做し z 0 + rD 演算子値関数 oxD x がゼロの時に〔式5-22´〕は成り立つので、 x の 値がゼロになる様な特殊な t の場合( x の具体的な中身が分かった後 ならば x をゼロにする様な t の値を求める事は容易である)を除けば、 たものあるいは z { の中身を単なる文字式と見做してゼロと置いた場合について考え oxD れば良い事になる。 この「演算子値関数の中身を単なる文字式と見做してゼロと置いた等式」 を『(微分方程式の)特性方程式』と呼ぶ。 (係数が定数である)2階線形斉次微分方程式の特性方程式の解法に は2次方程式の解法をそのまま応用できる。 定数係数 n 階線形斉次微分方程式の場合も、特性方程式を因数分解 できれば、 n 次方程式の解法をそのまま応用できる。 〔式5-22´〕について、先ずは特性方程式が重解ではない実数解 z − ~ = 0 もしくは D z − = 0 となる を持つ場合を考える。すると、 D ので、因数分解した特性方程式の解に基づいて作った2つの1階線形 z − ~{ = 0 ”と“ xD z − { = 0 ”の解が両方と 斉次微分方程式“ xD も〔式5-22´〕の解となる。 これら2つの解は任意の定数 C6 , C0 を係数として持つ。 C6 , C0 を 実数の中から任意に選んでも、確かに〔式5-22´〕の解となる。 また、次の〔式5-23〕のようにこれら2つの解の和を改めて2回 微分すると、関数の和の微分公式から、この和もまた〔式5-22´〕 の解となる事が分かる。 特性方程式が重解ではない実数解を持つ場合、〔式5-23〕の緑枠 内の式が〔式5-22´〕の(より一般化された)解となる。 特性方程式が重解を持つ場合(α=β)は、少々気を付けないといけ z − ~{ = 0 の解だけが〔式5-22´〕の解である ない。一見して xD かのように見えるが、実はもう1つ有る。 z の逆数( 次の節で述べる通り、演算子法において D 「 6 5 = s − ~56 6 z z 56 )や =D 」という式を、微分に対する逆演算を行う 「逆演算子」として矛盾無く扱える。 その事実に基づいて〔式5-22´〕を変形してみると、次ページの 〔式5-24〕の様に、 ある事が分かる。 = c0 ; ∙ v もまた〔式5-22´〕の解で 実際、この解やもう1つの解との線形結合を2回微分してみると、 確かに〔式5-22´〕を満たす。 また、〔式5-22´〕の様な斉次の場合だけでなく、2ページ後の 〔式5-25〕の様に非斉次の場合の解も求める事ができ、特性方程式 が相異なる2つの実数解を持つ場合と実数の2重解を持つ場合の両方 を〔式5-25〕の中にまとめて書く事ができる。 実は、特性方程式が複素数解を持つ場合でも、 〔式5-22´〕の 解を求める事ができる。結論を先に書くと、3ページ後の〔式5-26〕 の様になる。 本節の冒頭からここまでの箇所で述べた事柄を踏まえると、 〔式5-23〕~〔式5-25〕は〔式5-26〕の形にまとめられ、 結局の所、これが(係数が定数の)2階線形微分方程式の全ての場合に おける『一般解』である。 これでようやく、定数係数2階線形微分方程式が「解けた」。 さしあたり、〔式5-11〕を厳密に解くには〔式5-26〕を 導き出せば充分なので、係数が定数ではない2階線形微分方程式や、 2階非線形微分方程式について、この本では深入りしない。 〔式5-11〕の特殊解2つ( = sin n; , = cos n; )と 〔式5-26〕の一般解は一見して似ても似つかないものの様に思える が、係数 C6 , C0 を任意の複素数から選び、特性方程式の解が ±,n と なる場合を考えると、次の〔式5-27〕の様に〔式5-11〕の特殊 解2つが〔式5-26〕の一般解に含まれる事を確認できる。 〔式5-27〕について縦軸に錘の位置を取り横軸に時間を取ると、 次ページの〔図5-20〕の様に、高校の物理の教科書にもよく出てく る正弦波のグラフを描くことができる。 高校の物理の授業では、本付録の*10からこの節(*13)までに 述べた事の大部分を端折って、いきなり〔式5-11〕の特殊解を 「単振動の式」として提示している場合が多い。 学習指導要領との折り合いをつけるにはそれも致し方無いが、 単振動の式が三角関数(の線形結合)であるという事実の正しさが あたかも経験則のみによって支えられているかのような印象を与えて いる感は否めない。実際は、単振動の式が三角関数(の線形結合)である という事実の正しさは経験則のみではなく、本付録の*10~*13で述べた 様な数学的裏付けによっても、支えられているのである。 未知の物理現象を観測して得られた膨大な経験則の中から数量的 関係を見つけ、それに数学的裏付けを与える事ができれば、単振動の 事例と同様に、膨大な経験則を整理して「数式」という形にまとめ、 より扱いやすい形に体系化してしまえる。 数学的裏付けが無ければ、物理学は経験則の雑多な集合物に過ぎなく なり、出来の悪い占いの様に「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という 程度のものに成り下がるだろう。別の言い方をするなら、 「占星術から天文学と物理学が生まれるに当たって、数学的裏付けが 助産師の役割を果たした」とも言える。 *14:演算子法とラプラス 演算子法とラプラス変換 とラプラス変換 前の節で定数係数2階線形微分方程式の(複素数解を含めた)一般解 を導くため、演算子法と『オイラーの公式( (v = cos ; + , sin ; )』 をいきなり持ち込んだが、演算子法の数学的正当性を支える方法の一つ であるラプラス変換の概説にこの節をほぼ丸々費やし、オイラーの公式 を証明する方法の概説に次の節を丸々1節費やす。例によって、既に 理解できている読者はこの節を飛ばし、初見で理解できない読者は 「数式とのつきあい方」を思い返して、先に進んで構わない。 先程、〔式5-25〕の緑枠内の説明文で “※非斉次の場合も、 積分『 v 5 e 1 』の実行が容易であれば、解ける。”と書いた が、難解な微分方程式を解くに当たってこの形の積分を含む様に微分 方程式を変形できれば比較的容易に解ける事は、史上最強の数学能力 の持ち主と謳われるオイラーが発見していた。 18 世紀も3/4ほど過ぎ、オイラーが晩年を迎えていた頃、フランス の傑出した数学者ラプラスが、オイラーとは独立に同じ事を発見した。 ラプラスはその発見に基づいて独自の数学的手法を編み出し、1780 年 の自らの著作に記した。それが『ラプラス変換』である。 未だその業績の全貌が明らかではないオイラーも同じ数学的手法を ラプラスに先んじて編み出していた可能性が大きいが、通常、この数学 的手法はラプラスの名を冠して呼ばれる。 オイラーやラプラスの他にも微積分法の発展に貢献した数学者は数 多く、微積分法の基礎は、オイラーより前の世代の偉大な数学者である ニュートンとライプニッツがそれぞれ独立に築いたものであるが、歴史 に名を残す数学者達が同時代あるいは前後する時代にそれぞれ独立し て同じ発見や理論体系構築をする事は、数学史上よくある事である。 さて、ラプラス変換とは、次の〔式5-28〕の様な計算(ラプラス 積分)を通じて微積分の問題を解く数学的手法である。 見ての通り、ラプラス変換の式は有限ラプラス積分 『 v 5 e 1 』に少々手を加えた式であるが、次の3つの事柄 に注意する必要が有る。 1つ目は、計算の都合上、係数や変数を表す文字を少々変えてある事。 指数関数の指数部に掛かっている係数 α を新たな独立変数 s に置き換 えてあるし、次に述べる点が理由となって、独立変数 τ を独立変数 ; に 戻してある。 2つ目は、積分の範囲が「ゼロ以上の実数」であり、有限でない事。 積分範囲が実数全体であったり、あるいは数直線上の任意の点から 正の方向にある実数全体であったりするものを、 『広義積分』と呼ぶ。 広義積分は、定積分の起点を固定して終点を任意に大きい実数としたり、 あるいは起点を任意に小さい実数・終点を任意に大きい実数としたり、起点 と終点を何らかの実数に収束させたりする際の、定積分の極限値である。 (極限値を厳密に扱うためのε-δ論法について述べた時と同じく、 積分記号の上端にある無限大の記号は単に積分範囲を表すものであり、 「+∞を代入している」と解釈しない方が無難である) 起点を固定して終点を固定しない積分の結果は結局のところ終点の 文字によって表される独立変数を持つ原始関数となり、積分される関数 (被積分関数)の不定積分となるが、終点を起点から限り無く離した場 合、定積分の極限値は正もしくは負の無限大に発散するか値が周期的に 変動して定まらないか有限の値に収束するかのいずれかになる。 広義積分の結果が発散する場合は意味を成す計算をそれ以上行えず、 振動する場合は結果を一意に確定できない。——従って、意味を成す計算 が実行可能な像関数を一意的に得るためには、定積分の極限値であるとこ ろのラプラス積分が有限の値に収束しなければならない。 幸いな事に、原関数に掛けられる『 5v 』の値(絶対値)が収束 する速度は、多くの関数の中でも格段に速い部類に入る。 『 5v = 1 v 』であるので、言い換えると、 「多くの関数の中でも値が増加する速度が格段に速い指数関数で原関数を 割っている」とも言え、 「ラプラス変換において原関数が『 5v 』の項によって圧縮されるおかげ で有限の値に収束し、多くの場合、像関数について意味を成す計算が実行 可能である」とも言える。 3つ目の事柄は、ラプラス変換後の像関数が、原関数の独立変数とは 別の独立変数についての関数となる、という事。 ラプラス変換は定積分の極限値であるので、その極限値が有限の値に 収束するなら、『 5v 』の指数部に掛かっている s を定数係数と見な せる時、像関数もまた定数値をとる。 見方を変えると、 s をさまざまに変化させる事ができる時、ラプラス 変換によって独立変数の種類が ; から s に変更される、と言える。 少し後で述べるが、一般に、原関数についての微分方程式を直接操作 するよりも、一旦像関数に変換してから操作する方が、容易に解ける場 合が多い。 また、ラプラス変換において次ページの〔表5-6〕の法則が成立し、 複雑な関数の像関数を、比較的単純な関数(初等関数)の像関数の組み 合わせに変形できる。 初等関数のラプラス変換は、三角関数表の値と同じく、あらかじめ 計算しておくのが常である。 数学者・物理学者・工学者等によって頻繁に使われる関数のラプラス 変換公式は数十個ほど有るが、この本では深入りしない。 4つの初等関数のラプラス変換を、引き続く〔表5-7〕で示すに 留める。 見ての通り、ラプラス変換が可能な場合、その逆演算であるラプラス 逆変換も必ず存在する。 〔表5-6〕の基本法則と〔表5-7〕の公式はラプラス変換の定義 といくつかの関数の既知の性質から芋づる式に求めたものであるが、 詳しい証明の過程について、この本では深入りしない。表内に証明の ヒントを記すに留める。 〔表5-7〕で取り上げた関数以外にも、ラプラス変換可能な関数 一般に対して、次の〔式5-29〕の様に『ブロムウィッチ積分』を 適用し、ラプラス逆変換を求める事ができる。 ラプラス逆変換を求める際にブロムウィッチ積分を用いた方が最も 簡単であるような関数も有るが、多くの実用的な問題においては、 〔表5-6〕と〔表5-7〕の様に予め芋づる式に計算しておいた ラプラス変換←→ラプラス逆変換の表を用いて求める方が簡単である ので、ブロムウィッチ積分でラプラス逆変換を導出可能である事の 証明についても、この本では深入りしない。 ともかく、〔表5-6〕と〔表5-7〕を用いて、次ページの 〔式5-30〕の様に、定数係数2階線形微分方程式の一般解を 導出できる。 〔式5-30〕は冒頭の定数係数2階線形微分方程式の両辺に任意 かつ同一の定数係数を掛けても成り立つ。非斉次の場合も解けるが、 〔式5-26〕と同様に深入りせず、説明は〔式5-11〕を解くの に充分な程度で留めてある。 見ての通り、原関数を直接操作して解を求める事が難しい微分方程式 であっても、一旦両辺にラプラス変換を施し、続いて代数的操作を施して 未知関数の像関数と既知関数の像関数との等式を作り、その等式の両辺に ラプラス逆変換を施すと、未知関数が何なのか分かってしまう。 これこそが、ラプラス変換とラプラス逆変換の真価である。 ラプラス変換とラプラス逆変換の表を用いると微分方程式が像関数 の代数方程式に変わって容易に解ける事は、対数表を用いると桁が大き い数同士の掛け算が対数の足し算に変わって容易に解ける事(付録3 参照)に似ている。 どちらも、元々の数式を表に従って変換した後、元々行う予定の操作 よりも容易に行える操作を施して、最後にもう一度表に従って逆変換を 施す事で、解を得ている。 ラプラス変換とラプラス逆変換は、演算子法と全く同じ一般解を導く が、単に答えが合致すると言うだけに留まらない。 2ページ後に示す演算子法の基本的な定義と法則をラプラス変換・逆 変換の基本法則や公式と比較してみると、酷似する数式変形のパターン が現れている事が分かる。 ラプラス変換において『合成積(畳み込み)』 (英語では“convolution”) と呼ばれる演算が重要な役割を果たしているが、演算子法ではより重要 性を増し、演算子法の根幹を成している。 合成積がどんな演算を指すかという話は〔表5-8〕(a) の (1) の 記述だけで済んでしまうのだが、初めの内は演算の実際に対する鮮明 なイメージを思い浮かべる事が難しいかもしれない。 大雑把に言うと、合成積とは「2つの関数の片方を平行移動させながら、 重なり合った部分の面積を連続的に求める演算」である。 電気回路の中の電圧や電流の変化をオシロスコープ等で分析する時、 定常的な電流の波形を保っている回路に別の波形を持つ電流を合流さ せた時の変化を調べる、という局面がよくあるが、その様な電気回路の 電圧や電流の変化を数式で記述する為に、合成積は不可欠な演算である。 ( 〔表5-8〕(a) を見ての通り、合成積は『*』 (アスタリスク)で表現され る事が多いが、多くのプログラミング言語では『*』が「普通の掛け算を意味 する記号」として使われている。 とは言え、 『*』を「普通の掛け算」に割り当てているプログラミング言語で は、 「合成積」を「関数ライブラリーから呼び出して使う関数」として扱う場合 が多いので、混乱の元になる事はあまり無い) 演算子法は合成積を根幹として組み立てられた数学的手法であり、 ラプラス変換の他、前の節で述べた通り、 「カーソン、ウィーナー、 ミクシンスキー等による別方向からの研究」によって確立された幾つ かの数学的概念によっても、その正当性が支えられている。 (申し訳無いが、それらの「別方向からの研究」やそれによって確立 された数学的概念について、この本では深入りしない) とにかく、ラプラス変換を用いる方法も演算子法も、微分方程式の 解法として、数学的に盤石な基礎の上に成立している。 ラプラス変換を用いる方法が元々の微分方程式の像関数(像方程式) に対して代数的操作を施しているのに対して、演算子法では元々の微分 方程式にそのまま代数的操作を施しているという違いはあるものの、 どちらも『特性方程式』を手掛かりにして一般解を求める方法であり、 本質的に同じものだと言える。 また、ラプラス変換を利用して解ける微分方程式は必ず演算子法でも 同じ特性方程式に基づいて解く事ができる。 定数係数の線形微分方程式を解くに当たって、ヘヴィサイドが独自の 演算子法を編み出して以後、第2次世界大戦以前まではラプラス変換よ りも演算子法が用いられる事が多かったが、今日では、どちらかという と演算子法よりもラプラス変換が用いられる事が多い。 その辺りの歴史的経緯を紐解いてみると、どうやら 「ラプラス変換の方が、数学的基礎の盤石さを実感し易いから」 というのが大きな理由の一つらしい。物理学者や工学者の中でも特に 数学的厳密さを掘り下げる傾向のある人達にとっては 「だったら最初からラプラス変換を使えばいいじゃないか」 という発想になるのだろう。 その他の大きな理由としては 「物理学や工学などの分野で必須の数学的手法であるフーリエ変換と 式の形が良く似ており、フーリエ変換に習熟するとラプラス変換に習熟 するのが容易であり、その逆もまた容易だから」 というのも有るようだ。 (フーリエ変換については*21で述べる) しかし、この節で述べた通り、ラプラス変換を行うにはそれなりに 複雑な手順を踏む必要が有る。それに比べて、演算子法は手順がより 簡単である。また、ラプラス変換では解けない微分方程式が演算子法 では解けるという場合が、たまに有る。 後で述べる様に、演算子法は量子力学でも重要な役割を果たしている ので、演算子法とラプラス変換、両方知っておいて損は無い。 *15:オイラーの公式 オイラーの公式 ―― 数学の 数学の諸概念を 諸概念を統合する 統合する魔法 する魔法の 魔法の王笏 いよいよ、『数学で最も美しい数式』と評される『オイラーの公式』 の概説に入る。この節を読み終わった時、あなたはおそらくオイラーの 公式が先人達の叡智の結晶である事を実感するだろう。 オイラーの公式には、底が 虚数単位 , (ネイピア数)である指数関数、 、2種類の三角関数、そして指数関数と三角関数に共通 して代入される独立変数(ここでは仮に とする)が含まれている。 まずは三角関数の話を糸口として、説明する。 *12で三角関数の独立変数に任意の角度を入れた時の値を求める 方法について触れたが、この「芋づる的な」方法とは違った別の方法も 有る。それは、『級数展開』を使う方法である。 *11で積分法の基本的な考え方について説明した時、「ある関数を 積分した結果得られる関数」が数列の和である「級数」の極限値として 表される事を述べたが、見方を変えると、これは 「差し障り無く微分や積分ができる滑らかな関数であれば、級数の一種として 扱う事ができる」という事を意味する。 関数を級数の形に変換する事を、 『級数展開』と呼ぶ。 級数展開の方法は複数有るが、指数関数や三角関数を級数展開する際 は『テイラー展開』と呼ばれる方法がよく使われる。 べききゅうすう テイラー展開は複数回微分できる関数を冪 級 数 に変換する方法であ り、『冪級数展開』とも呼ばれる。 冪級数とは、級数を形作る数列の各項が 「何らかの規則で定まる定数係数」×「独立変数の冪(独立変数の n 乗)」 の形になっている級数であり、独立変数の n 次式になっている多項式で ある。 テイラー展開を実行可能な関数には、テイラー展開によって見かけを 「ただの四則演算の連なり」に変換してしまえるという性質が有るが、 少し後で述べる様に、この性質が大きな威力を発揮する。 テイラー展開が正しい方法である事は『テイラーの定理』によって 裏付けられている。 テイラーの定理は高校の微積分で習う『平均値の定理』を一般化した ものであり、平均値の定理は同じく高校で習う『ロルの定理』を一般化 したものである。 ここで、ロルの定理と平均値の定理についておさらいしておこう。 まず、ロルの定理とは、次ページの〔図5-21〕の様に、 「滑らかな関数 e = e がその定義域の閉区間 { * ≤ ≤ - } で e * = e -となるならば、その区間に e < ) = 0 となる点 少なくとも1つ以上必ず持つ { ) ∈ *, - } 」という定理である。 ) を 続いて、平均値の定理とは、更に次のページの〔図5-22〕の様に、 「滑らかな関数 e = e に対して定義域の閉区間 { * ≤ ≤ - } で点 * , e * と点 - , e - を結ぶ直線を引けるならば、その区間 で傾きが e < ) { ) ∈ *, - } である接線を少なくとも1本以上引ける」 という定理である。 〔図5-21〕と〔図5-22〕を見比べると、平均値の定理はロル の定理を利用して証明され、確かにロルの定理を自然な形で拡張(一般 化)したものである事が分かる。 “ 5 a 5a = e < ) ”の形に定式化される平均値の定理は 『ラグランジュの平均値の定理』とも呼ばれ、関数 e の定義域で ある閉区間 *, - = { | * ≤ ≤ - }において、e を近似する1次関 数を与える。 ラグランジュの平均値の定理をもう少し一般化したものが『コーシー の平均値の定理』であり、“ 5 a 5 a = U U ”の形で与えられる。 また、コーシーの平均値の定理から『ロピタルの定理』 (※)を得る事 もできる。 (※注: 『ロピタルの定理』と呼ばれている定理を、ロピタル本人は「欧州最初 の微積分学の教科書」とされる自らの出版物で世に広めただけであり、師匠で あるヨハン・ベルヌーイの助力を得た旨を記している。 ロピタルの定理は実際にはヨハン・ベルヌーイが発見したと見られており、 『(微積分学の)ベルヌーイの定理』あるいは『ベルヌーイ・ロピタルの定理』 とも呼ばれる。因みに、ヨハン・ベルヌーイはオイラーの師匠でもある。 ロピタルの定理は「関数の商の極限値が存在する事だけは分かるがそれを 元々の関数から直接求める事は難しい」という場合に1階導関数の商あるいは 2階以降の導関数の商から間接的に求めるために用いられる。 高校数学の範囲外の定理であるため大学受験で出てくる事はあまり無く、 いわゆる「名門大学」ほどロピタルの定理無しでは解けない問題を出さない 傾向が有るが、ごくまれに、一連の問題の解答が最終的にロピタルの定理を 導き出すという類の出題や、 「付記欄のロピタルの定理が証明済であるとして、 この問題を解け」という類の出題がなされる事は有る。 それらの場合、ロピタルの定理を丸暗記していても解答にはたどり着けず、 「問題内で与えられた条件からどう導き出すか」あるいは「解答までの過程の どこで定理が有効なのか」を見極め得るかどうかが、解答にたどり着くための 鍵となる) さて、平均値の定理が e の近似式を1次関数の形で与える事 は先ほど述べた通りだが、当然ながら、その近似式の起点となる点 * , e * から左右に離れるにつれ、誤差は大きくなる。 より精度の高い近似式を求めるには、どうすれば良いだろうか? そのためには、次ページの〔図5-23〕の様に、改めて点 * , e * に接線を引いて方程式を求め、その方程式に誤差を補正する剰余項を付 け加え、新たな近似式を作る。 〔図5-23〕を見ての通り、新たな近似式を作るに当たって、誤差 を補正する『剰余項』をどう決めるかが鍵となる。 点 * , e * に引いた接線の式が、直線の式(1次関数)の中では既 に最も良い近似式となっているので、適当にもう一本の直線の式を足し ても上手く行かない。そこで、剰余項は曲線の式であり尚且つできるだ け単純な式であるものが適切だと考えられる。 仮に、『できるだけ単純な曲線の式』の中から2次関数を選ぶとする と、〔図5-23〕の様に2階導関数に基づいてその係数を決めれば、 最も誤差を少なくできる。 e が 回微分可能ならば、精度を高める操作を 回繰り返す事 ができ、次ページの〔式5-31〕で示したテイラーの公式が成り立つ。 本節冒頭で述べた『テイラー展開』は、テイラーの公式もしくは マクローリンの公式を用いて実行される。 (* = 0である特殊な場合は『マクローリン展開』と呼ぶ) 指数関数や三角関数の様に微分回数に制限が無い関数はテイラーの 公式やマクローリンの公式を際限無く適用でき、項数が有限ではない テイラー級数やマクローリン級数に変換できる。 これらの級数は『無限級数』の一種である。 無限級数化したテイラー級数やマクローリン級数の値が元々の関数 の値と等しいか否か、即ち、元々の関数をそのテイラー級数やマクロー リン級数と同一視できるか否かは、元々の関数の定義域から任意の独立 変数をこれらの級数に代入しても独立変数に対応する元々の関数の値 に収束するか否かに係っている。 言い換えると、を任意に大きくした場合の剰余項の極限値がゼロに収 束するなら近似式の誤差もゼロに収束し、元々の関数をそのテイラー級数や マクローリン級数と同一視できる事になる。 ここで剰余項を見てみると、次の〔式5-32〕の様に、ゼロに収束 する事が分かる。 よって、元々の関数とそのテイラー級数もしくはマクローリン級数 を同一視できる。 この同一視は、 『1』と「小数点以下の桁が全て9である無限小数 『0.99999……』」の同一視と、同じ厳密さを持つ。(※) 1 = 0.99999 ⋯ ⋯ ”でなければ、この両辺を3で割る時、 「 “ 1⁄3 = 0.33333 ⋯ ⋯ ”ではない!」というトンデモ理論を主張する (※注:もしも“ はめになる。小数点以下の桁が全て3である無限小数『0.33333……』が『1/3』 の別表記であるのと同様、『0.99999……』は『1』の別表記である) 〔式5-32〕の事実により、三角関数のうちよく使われるsin , cos ,そして指数関数 U をマクローリン展開すると、次の 〔式5-33〕の様に関数の辺と無限級数の辺を同一視できる。 これらの様に級数展開を行える関数であれば、任意の項数まで級数 展開を行う事で任意の有効桁数の値を得る事ができる。 例えば、sin に対して = ⁄3 = 60°を代入し、マクローリン 展開の最初から3項(± sin 0 = 0が掛かっている項は数えないものと する)を足し合わせ、有効桁数5桁の値を求めると、 sin ⁄3 ≒ ⁄3 − ⁄3 ⁄3! + ⁄3 ⁄5! = 1.0471 − 0.1913 + 0.0104 = 0.8662 となり、真の値(=0.8660……)と比べて誤差 0.02%程度の良い近似値 が得られる。 一見難しそうな関数であっても、級数展開の方法が分かっている関数 であれば、必要な精度に応じた回数の四則演算を繰り返すだけで独立変数 がある値の時に従属変数が取る値を求める事ができる。 ――これこそが級数展開の威力である。 級数展開の使い方を覚えたなら、三角関数の諸公式から芋づる式に求 める方法と比べて、三角関数表を作る作業はもっと楽になる。 1°刻みに0°から 90°まで(ゼロから⁄2ラジアンまで)の sin と cos の表を有効桁数5桁の精度で作るには、マクローリン展開を利用し てsin ⁄3の値を求めた時と同様な操作を多くとも 181 回繰り返せば 良い。 (そのうち何回かは値が自明な場合も有るだろう。90°より大きい角度 や単位円板上の動径を何回転もさせた時のような場合は、単位円板上で 点対称あるいは線対象な作図をすれば、0°から 90°までの場合を利用 して値を求める事ができる) 筆算に慣れた人であれば、検算の時間まで含めて1回 30 分掛かったと しても、1日当たり8時間の作業で2週間もかからずに三角関数表を筆 算のみで作り終えるだろう。 コンピューターが無い時代の事を考えても、これは決して法外な労働 では無い。1度作った三角関数表は大切に保管しておけば何回でも使い 回しができるのだから。 同じ事は対数表にも言える。 コンピューターを使えるなら、三角関数表・対数表を作るのはもっと 簡単で、もっと精度を高める事ができる。 ――どんなに複雑で高度な計算を行っているように見えても、現在 多く使われているノイマン型コンピューターが原理的に実行できる事 は『四則演算と演算結果の記憶、そしてある演算結果に基づいて次に 何の四則演算を行うかの条件分岐だけ』である。 しかし級数展開を行えば三角関数であろうと指数関数であろうと 『ただの四則演算の連なり』に変換してしまえるのだから、後は莫大な ちからわざ 四則演算の 力 業 で値を求める事ができる。 ノイマン型コンピューターが何でも計算できるように見えるのは、 級数展開の様に、難解に見える数式を『ただの四則演算の連なり』に 変換する方法があってこそ、である。 余談だが、円周率 π をコンピューターに計算させる時、三角関数の 一種である逆正接関数(arctan)を何個か組み合わせた数式にテイラー 展開を施したものを計算させる場合が多い。 時々、「何兆桁も π を計算する事に何の意義が有るのか?」という 発言を見聞きする事があるが、実用的な意義は色々有る。 まず、π の計算を行う際にはコンピューターの中央演算装置(CPU) の各部にまんべんなく負荷が掛かるため、コンピューターの計算能力を 測る一つの指標として役立つ。また、そのコンピューターの性能を最大 限に引き出して π の計算を行うにはそれに見合ったプログラミングや システムエンジニアリングの技術を要するので、それらの進歩にもつな がる。 そして、理由は不明だが、2030 年初頭時点の π 計算世界記録である約 5128 兆桁を 10 進数で記述した時、0から9までの 10 個の数字が極めて 偏り無く等確率で現れる事が知られている。 この為、π の計算結果は極めて質の良い乱数表として利用されており、 暗号作成及び解読にも利用されている。 ……私が大学に入ったばかりの頃、教養課程で応用数学とプログラミ ングの講座を履修した時、 「π を計算する事に何の意味が有るのか?」 と質問をして己の無知ぶりを露呈し、講師や他の聴講生の失笑を買った 事が有った。 どんな学問の分野でもそうだが、特に数学においては、「○○は何の 役に立つのか?」という類の質問をする前には熟慮し、恥をかくかもし れない事に対する心の準備をした方が良い。 ――「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」 本題に戻るが、 U , sin , cos のそれぞれをマクローリン展開 した際の全ての項において複素数の四則演算を矛盾無く行える。 そこで、 〔式5-33〕内の冪級数の辺について、実数の独立変数 を 複素数の独立変数 = ~ + , で置き換えた冪級数を、複素数を定義域 とする複素関数と見なし、次ページの〔式5-34〕の様にそれぞれ仮 に ¡ , ¢ , £ と表記する。 これらの複素関数は実数関数の場合と同じく発散せずに、任意の独立 変数 に対応して何らかの従属変数の値を一意的に示すだろうか? 尚且つ、元々の関数と同じく微積分を任意の回数行えるだろうか? この2つの疑問に答えるには、まず、冪級数の高次項の絶対値がゼロ に収束するかどうかを調べる。そのためには| | = | | である事を確か めなければならないが、2ページ後の〔図5-24〕で示す 『ド・モアブルの定理』と〔式5-32〕の事実により、 高次項の絶対値はいずれも、実数の場合と同様、ゼロに収束する。 続いて、それぞれの冪級数展開の各項に現れる“独立変数 の冪”に ついて導関数が定義可能であるかどうかを調べる。 独立変数 の冪の導関数は、ここから2ページ後の〔式5-35〕の 様に、〔表5-5〕 (c) の『単変数 次単項式』の微分公式を少し手直 しする事で、定義可能である事が分かる。 独立変数 の冪の線形結合と見なせる冪級数 ¡ , ¢ , £ を 微分すると、微分する毎に低次の項が次々と消えていくが、項数が無限 であるため、何回微分しても常に項が存在する。 ――つまり、微積分の回数に制限が無い。 さて、冪級数 ¡ , ¢ , £ のいずれも、各項の絶対値は単調 減少数列を成す。 単調減少数列であっても、∑ 6 の様に無限級数化すると発散して しまう例もあるので、 ¡ , ¢ , £ が発散しないか否かを確か める必要が有る。 単調減少数列が発散しないか否かを確かめる収束判定法は複数有る が、ここでは次ページの〔式5-36〕の様にダランベールの判定法を 用いる。 ここまでに挙げた事実により、冪級数 ¡ , ¢ , £ はいずれも 発散せずに任意の独立変数 に対応して何らかの従属変数の値を一意 的に示し、微積分を任意の回数行える(回数に制限が無い)ので、定義 域を複素数全体に拡張した複素関数――*6の末尾で少しだけ触れた、 複素関数――と見なして問題無い。 そこで、改めて“ ¥ = ¡ , sin = ¢ , cos = £ ” と置き直し、指数関数・正弦関数・余弦関数を晴れて複素関数として 扱う事ができる。 これらの複素関数が備えている性質を「正則である」と言う。 *8で「正則行列」について述べた時の「正則」という単語は「逆行 列が存在する」という意味であり、「数学的に扱いやすい性質を持つ」 という意味であるが、複素関数について「正則」という単語を用いる時 は、別の意味で「数学的に扱いやすい性質を持つ」という事を意味する。 複素関数について言う場合の「正則」とは 「定義域を複素数全体に拡張する前と同様に滑らかな関数として成立 し、微積分を回数制限無しで行える」という性質を指す。 英語では複素関数の「正則である」という性質を“holomorphic”と 形容し、正則関数の事を“holomorphic function”と呼ぶ。 ようやく、オイラーの公式を導く最後の手順にまでたどり着いた。 その最後の手順とは、次ページの〔式5-37〕の様に ¥ に対して = , (純虚数)を代入し、 sin , cos に 代入した式と辺々比較するだけである。 = (実数)を 〔式5-37〕の赤枠内の数式こそが『オイラーの公式』である。 円周率、自然対数の底 、負の数、虚数単位,、そして三角関数と 指数関数。オイラーの公式において、数学における重要な数や概念同士 のつながりが見事に記述されている。 (よく見ると、 (U の絶対値は1であり、 (U は複素数平面上で半径1 の単位円を描く) 人類史で上位3名に入るであろう超人的な大数学者オイラーの業績 は未だ全貌が明らかでなく、彼の名を冠する公式も数多有るが、単純に 「オイラーの公式」と言う時、たいていは〔式5-37〕の赤枠内の 数式を指して言う。 オイラーは彼の時代における数学の全分野に優れていたが、たとえ彼 でなくても、彼の様に数学の全分野に優れる者でなければ、この公式を 発見するのは不可能であったろう。 (オイラー以前に、ロジャー・コーツが極めて近い内容の数式を 30 年余り前に 発見しているが、コーツは 33 歳で夭折したため、現在知られているような形の オイラーの公式の発見には至らなかった。 コーツの共同研究者でもあったニュートンは 「もし彼が生きていれば我々は大切な何かを知り得ただろう」 と述べて、コーツの死を悼んだ) オイラーの公式を導き出すには、整数論、実数論、微積分法、複素 関数論、線形代数学、……等々、数学全般に対する広範な知識を要する。 逆に言えば、この公式を通じて数学の各分野を統一的な視点で認識し、 各分野の技法を組み合わせて目覚ましい解法を見出す事も可能である。 物理学者のファインマンはオイラーの公式を「我々の至宝(Our Jewel) 」 と呼んで賞賛した。 私がそれに類する賞賛を以てオイラーの公式について語る時、本節の おうしゃく 副題の通りに、オイラーの公式を「魔法の 王 笏 (The Magic Scepter)」 と呼ぶ事を、私は好む。 この魔法の王笏を使いこなすためには少なくとも大学初年度レベル の数学を知る必要が有る。 そこまで知るためには相当の意欲が必要であり、中学から高校までの 数学が不可欠な土台となるが、もしも貴方が 「そこまでたどり着くための数学を勉強し直したい!」 という意欲に燃えているのであれば、 巻末の参考資料一覧の中から、数理工学者・吉田武の著作 『虚数の情緒・中学生からの全方位独学法』もしくは『オイラーの贈物』 を、私は最初の1冊としておすすめする。 どちらも 500 ページ以上有り、『虚数の情緒』に至っては 1001 ページ も有るが、意欲に燃えている人なら苦にならないだろう。 「そこまでの意欲は無いが、もう少し数学に強くなりたい」という人 には、巻末の参考資料一覧における解説を読んで「この本だったら読み 通せそうだ」という本が見つかれば幸いだ。 まずは読み通せる本を熟読し、自信が付いたら少しだけ難しい本に挑 めば良い。その本に歯が立たなければ、読み通した本と歯が立たなかっ た本の中間に当たる難しさの本に挑めば良い。 第2章第5節で数学を学ぶ事を登山に例えたが、自分の力量に合った 山から一つ一つ登頂する事が登山の実力を養う確実な道であるのと同 じく、自分の力量に合った本から一つ一つ読み通す事が数学の実力を養 う確実な道だ。