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上川アイヌの研究 40 年間の軌跡 講師 本間 愛之

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上川アイヌの研究 40 年間の軌跡 講師 本間 愛之
「上川アイヌの研究 40 年の軌跡」本間愛之
上川アイヌの研究 40 年間の軌跡
∼アイヌの人々と生徒の心の交流∼
7 月 26 日(水)15:10∼16:40 東京会場
8 月 1 日(火)13:00∼14:30 札幌会場
よ し ゆ き
講師
本間 愛之
旭川竜谷高等学校教諭
ただいま紹介いただきました旭川竜谷高校教諭の本間愛
之と申します。旭川竜谷高校では郷土部の顧問もしており
ます。
今日は
「上川アイヌの研究 40 年間の軌跡」
ということで、
昭和 42 年から活動を始めた旭川竜谷高等学校郷土部の活
動を通して、アイヌの方々と生徒との心の触れ合いという
か交流のお話をしていきたいと思います。
このクラブの顧問は昭和 42 年度から平成2年度まで福
岡イト子先生が務められ、その後を受けて、平成3年度か
ら私が引き継いでいます。クラブの特徴として、あくまで
も体験する、実感する、五感で感じるということをメーン
に、そして、これはアイヌの方々もよく口にする言葉なの
ですが「自分の頭で考え、自分の足で歩き、自分の手でつ
くる」という3つのことをモットーに活動しています。
まず、上川アイヌの研究の始まりについてですが、これ
は、昭和 42 年当時、北海道が開かれて 100 年を迎えるとい
うことを目の前にして、北海道開拓の記録を残していかな
ければいけないという話で盛り上がっていたそうです。
その時、ふと疑問に残ることがあったそうです。北海道
が開かれて 100 年というけれど、それ以前の北海道には何
もなかったのかということです。そう考えた時に、私たち
の身近なところに 100 年以上前から、この厳しい北海道の
自然と闘いながら暮らしてきたアイヌの方々がいることに
気づいたのです。そして、そのアイヌの方々と私たち北海
道で暮らす者とは、切っても切れない関係にあるはずだと
考え、身近にいるアイヌの方々との交流を通して、それま
で知らなかった文化に触れていこうということで活動が始
まったそうです。
調査の方法は、まず、問題提起ということで疑問に思っ
たこと、知りたいこと、興味を持ったことを出し合って、
その中からテーマを一つに絞ります。
そして、
アイヌの方々
から聞き取り調査をしたり、文献による調査を行います。
その後で、実際に体験してみて、実証をして、それを記録
に残すというプロセスをとっています。
中でも、40 年にわたってメーンに置いているのは、この
体験学習です。博物館や資料館などへ行くと、展示された
資料でアイヌの方々の生活の一端を知ること、知るという
か見ることができます。例えば、サパウンペという男の人
が正装をする時に頭にかぶるものが博物館には置いてあり
ますが、それがどのようにできているのか、それを実際に
頭にかぶるとどのような感じなのかということは、置いて
ある資料を見るだけでは、感じることはできません。そこ
で、一番多感な時期にある生徒たちに実際に体験してもら
い、そうしたことを感じてもらいたいという思いを込めて
スタートしました。
最初に取組んだ研究は「近文アイヌ墓地の墓標とその形
態」というものでした。この調査の時に、事件がありまし
た。顧問の福岡先生を先頭に郷土部のメンバーが墓標の形
を調べるため近文アイヌ墓地に行ったところ、そこには雑
草が生えていて墓標も倒れていたそうです。そこで、雑草
を刈り取り、倒れていた墓標を立ててしまったのです。こ
のことがなぜ事件なのかというと、和人の感覚としてはお
墓の周りはきれいになっていて、墓標は立っているものと
考えられていますが、アイヌの人たちの感覚としては、墓
標は倒れたら倒れたまま、朽ちていくものだと考えられて
いるのです。そのためアイヌの方々から「何てことをして
くれたんだ」と言われたのです。こうしたこともありまし
たが、熱心だったのだと思います。その後も研究はさらに
続くことになります。
話は一挙に飛びますが、私は高校2年生の時に初めてこ
の郷土部と関係を持ちました。この時の研究題材は「生活
と植物−狩猟具 アマック amaku 置く弓を作る−」という
ものでした。アマックとはイタチとかテンなどの小動物を
捕獲するための罠のことです。23 年くらい前の話なので記
憶が大分薄らいでいますが、この時のことで強烈な印象に
残っていることがあります。福岡先生から「今日動物の罠
を作るから、物を作ることが好きだという人は来なさい」
と言われたので、自転車に乗って近文生活館というところ
に行ったのです。しかし、そこには生徒と福岡先生がいる
だけで誰もいないのです。これから何をするのかと思って
いたら、自転車に乗った1人のおじいさんが、颯爽とやっ
て来ました。そして「これからアマックを作るから、その
材料をとるのに山へ行く」と言って、山へ向かいました。
山へ行くと、おじいさんから、この木は弓になる木で、こ
れは矢になる木だと説明されましたが、さっぱり分かりま
せんでした。それでも、おじいさんは、そういう説明をし
ながら、次から次へと必要な材料をとっていきました。そ
の時、おじいさんは何かを呟きながらとっていたので、福
岡先生に「何かつぶやいて取っているのだけれども」とい
うふうに聞くと、
「今日はこの木を、
竜谷の仕掛け弓を作る
ための材料としていただきます。
」
と一言お祈りをしてから
取っているということを聞きました。
山から戻り作業場へ行ったのですが、山から持ってきた
のは何本かの木の枝だけだったので、どのようにして罠を
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「上川アイヌの研究 40 年の軌跡」本間愛之
作っていくのかと見ていました。すると、次から次へと加
工されて、形ができあがりました。特殊な材料も道具も使
わずに本当に罠ができあがったのです。生徒みんなで、わ
あ、すごいと感動した記憶があります。この時、仕掛け弓
のつくり方を教えてくださったのが杉村満さんという方で
す。その後も満さんには、いろいろなことを教わるのです
が、この時の記憶が強く残っています。
この研究が終わり家に帰った時に、私は興奮していて父
や母に「今日、近文に行って、アイヌの人の使っていた道
具を作ったんだけど、
すごいんだ」
というような話をして、
「自分は初めてアイヌの人に会ったのかな」
と言いました。
すると父は「お前、いつも会っているじゃなか」と言うの
です。その時にはもうやっていなかったのですが、実家は
旭川市内で喫茶店をやっていて、そこに砂澤ビッキさんが
よく来ていたのです。
「お前覚えてないかい、
あの体格のい
い人、よく喫茶店のカウンターのところに座って、おい、
おいってお前のことを呼んで、ひざの上に乗っけていたじ
ゃないか、あの人もアイヌの人だよ」と言うのです。そし
て店のマッチ箱を出して、このマッチ箱のデザインをして
くれたのもビッキさんだと言うのです。それを聞いて、あ
あ、アイヌの方は、やはり何もないところから物をつくり
上げていく人なんだと思った記憶が残っています。
次の年、私は書道部の部長と郷土部の副部長になってい
たのですが、ちょうど大会等が重なってしまい、残念なが
ら郷土部の方での活動はできませんでした。大学卒業後、
縁があって竜谷高校に教員として戻ることになりました。
在学中に書道部の部長だったということもあり、2年間、
書道部の副顧問をやっていました。ところが、平成3年に
福岡先生が体調を崩され入院することになりました。その
年は、郷土部の当番校に当たっていて、うちの学校で郷土
部のことを少なからず知っていて顧問をできるのは、あな
たしかいないでしょうと、ある日突然教頭先生から言われ
顧問になることになりました。
その時、私はすごいプレッシャーを感じました。そのこ
ろ既に、上川アイヌの研究は「その 25」を数えており、25
年間という長い間、一年も途絶えることなく続いているの
です。そのクラブを続けていくことができるのかと、いろ
いろ悩んだのですけれど、私が郷土部の部員だった時に感
じたあの感動をもう一度、大人になった自分も感じたい、
できれば、そのことを生徒にも感じてもらいたいという気
持ちが膨らんできたのです。それで、顧問として生徒と一
緒に活動するのですが、
生徒の上に立つというのではなく、
生徒と同じ目線で私もいろいろ経験して、勉強していこう
ということでスタートすることを決めました。
それでは、アイヌの方々の民具というか生活用具に流れ
ているものを肌で感じたい、生徒たちも感受性が高いのだ
から何かを感じられるだろうということで、私が顧問とし
て活動をはじめた「その 26」からのお話をしていきたいと
思います。
まず、平成3年その 26「イナウル inawru・サパウンペ
sapaunpe、アイヌの男たちが被る冠」についてです。これ
は、イナウキケという削りかけを束ねて作ってあります。
先ほどもお話ししましたが、これは男の人が正装をする時
に頭にかぶるものです。これがどのように作られるのか、
私は疑問に思っていました。生徒たちは、前の年に木の皮
の舟を作っていて、その時に舟の先に飾ってあるイナウを
見ていたのですが、
やはり同じ疑問を持っていたようです。
そこで、満さんに、何かイナウで作れるものないかと聞い
たところ、部員は全員男の子だから、サパウンペをつくっ
てみようということになりました。このサパウンペは一人
前の男と認められた者でなければかぶることはできないと
言われ、また、イナウをまともに削れない男は一人前の男
ではないとハッパを掛けられたので、生徒たちは必死にな
って作り始めました。朝 10 時くらいから始めて、3時なっ
ても4時になってもやめないのです。それでも一向に終わ
らないので、さすがに満さんもしびれをきらして、略式の
サパウンペをつくってくれました。それが、実は1本の木
を削っていったものを後ろで束ねて縛ったものであること
を知って、生徒たちも「すごい。離れわざだ」と言って感
動していました。
この時、満さんはご自身のサパウンペを持ってきていま
した。それを生徒たちは、引っ張ったり、がさがさやった
り、頭にかぶったり、彫刻を見たりしていました。そして
何気なく「これは、古いものように見えるけれども、いつ
ごろのもの?」という質問をしました。そうすると「大体
今から 100 年くらい前のものだ」と言うのです。私のお父
さんのお父さんのお父さんの頃に作られたもので、傷んだ
ら、削りかけをつけて補修をして代々伝えられてきたもの
だと言うのです。
それを聞いて生徒たちは驚いていました。
そして、そんな貴重なものを持ってきてさわらせてくれた
ことに感動していました。
平成4年に、生徒に「これまでの竜谷高校の研究題材の
中で何か気になるものはないかい?」
と聞いたところ、
「非
常に疑問に思うことがある」と言うのです。それは、クラ
ブの研究報告の中にシャケの皮で作った靴とあるけれど、
写っている写真は明らかにシャケの靴ではないものがある
と言うのです。私も、初めてじっくり見ました。確かに違
っていました。ずっとページをめくっていくと、それが鹿
の皮でつくった冬の靴であることがわかりました。それを
見て、シャケの皮でつくった靴というのは過去に研究をし
ているので、今度は鹿の皮で靴を作ってみようということ
になりました。それで早速、満さんのところへ行って「今
度は、
鹿の皮で靴を作ってみたいと思う」
と言ったところ、
満さんは、鹿の皮の靴が写った1枚の写真を出して、実は
これを作って名寄の博物館に納めたばかりだとう言うので
す。だから、作り方も分かるからすぐに教えられると言う
のです。
そこで、鹿の皮の値段を聞くと 10 何万円ということで、
生徒たちはがっかりしてしまいました。みんなでアルバイ
トをしても 10 何万は無理だと思ったのです。
それでどうし
ようかと悩んでいたのですが、
部員の中の女の子が
「じゃ、
ぬいぐるみを作る時に使うボアではどう?」と言ってボア
を持ってきてくれました。じゃ、これでつくろうというこ
とになりなりました。鹿の皮にはほど遠いもので、なぜか
鹿なのにヒョウ柄の靴もできあがりました。
満さんはこの靴の作り方を、鹿の皮を使ったと同じよう
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「上川アイヌの研究 40 年の軌跡」本間愛之
な形で教えてくれました。この時生徒がすごくびっくりし
たというか感動したのが、毛並みが大事でつま先からかか
とに向けて毛並みが向いていなければだめだという話を聞
いた時です。こういう向きにしておくと、雪の積もった坂
道を上る時は、毛が逆立って雪をかんで滑らないし、逆に
雪の斜面を下るときには、順目になるので、雪の上をすっ
と滑って下ることができるというのです。
冬になって雪が積もった時、
「先生、怒らないでね、実は
降った雪の上ではいちゃった」
と生徒が言うのです。
「1個
しかない大事なものなのに」と言うと、
「でも、はいてみた
かった」
、それで「で、どうだった?」と聞くと、
「言われ
たとおり、上る時は何か引っかかるような気がした、下る
ときは、すっとおりたような気がした、やっぱりすごいね」
と目を輝やせながら話をしていました。
平成5年には、シケレペの調理について研究しました。
シケレペとはキハダの木の実のことです。キハダの木は秋
口になると実をつけます。
この実がまだ青いうちに取って、
軒下などの日の当たらないところで干しておくと乾燥して
黒くなるのですが、これがアイヌの方々の料理の中に頻繁
に使われる木の実です。生徒たちの体験学習会は夏休みま
でに実施するので、残念ながら木の実の採取をすることは
できませんでした。そのため、料理を作る時には前の年に
採ったものを貰って使いました。
シケレペを料理に使う時には、乾燥しているシケレペを
水で戻してから使います。杉村フサさんの指導を受けなが
ら料理をした時は、カボチャ、トラマメをまず煮て、そこ
にシケレペの実を入れました。このシケレペの甘みだけで
もいいのですが、そのままではみんなが食べられないから
と言って、ザラメを入れてくれました。最後に、トゥレプ
というオオウバユリの根のでん粉を入れとろみとコクを出
して、でき上がりという形になりました。
この時、事件が一つありました。生徒は炉で何かを煮る
なんていうことは初めてなのですが、煮立っている鍋の中
にシケレペの実を入れようとした時に、炉からパチッと火
の粉が飛んで手に当たってしまったのです。
「熱い」
と言っ
て持っていたシケレペの実を炉の中にひっくり返してしま
いました。周りの女の子から「ああ、やっちゃった、何や
ってるの、もったいない」と責められていました。そこで、
フサさんが「いやいや、そんな心配することないんだよ、
今ね、このひっくり返してしまった子は、すごく心の優し
い子なの。
なぜかというとね、
火の神様だとか炉の神様が、
欲しい欲しいと思っていても自分たちにくれないで鍋に入
れちゃう。でも、この子は優しいから、ひっくり返して火
の神様だとか炉の神様にシケレペをあげたんだ、神様たち
も喜んでいるから、決してむだになっていない」と一言と
言うと、その落ち込んでいた子も、にたっと笑って、
「でし
ょう?でしょう?」という顔をしていました。その頃から
生徒がフサさんを見る目ががらっと変わってきました。
後に、このことを全道の発表会で発表しました。生徒は
この時、この炉の周りで感じた感動を会場にいる皆さんに
も感じてもらいたいということで、ガスコンロから鍋から
何から全部持っていきまして、その場でシケレペの木の実
を使った煮物を作って、会場の皆様に食べていただきまし
た。作る方はうまくいったのですが残念ながら発表の方は
失敗して、賞は取れませんでした。この時から、会場の皆
さんを引き込んだ形の発表ということが始まりました。
平成6年には「アマック、amaku 置く弓を作る」の研究
をしました。これは私が作りたくてしようがなかったので
す。それで、生徒に作りたいと言わせるために博物館へ連
れて行って、
「これ、何かおもしろそうじゃない、つくって
みたいと思わない?」
と言って、
「見るだけでは分からない
し、作ってみないとどんなものか分からないからやってみ
よう」と言いました。すると「先生が言うのだから、これ
をつくりましょう」ということでアマックを作ることにな
りました。
博物館では、仕掛け弓がどんな動きをするのかというと
ころまでは見ることができないと思います。自分たちで作
ってみることによって、どのような仕掛けになっていて、
どういうふうに矢が飛ぶのかということを知ることができ
るのです。
実際に作って、それを仕掛けてみると、そこでまたいろ
いろなことを知ることができます。例えば、アマックは熊
などが歩くけもの道に仕掛けるのですが、引くと矢が飛び
出す仕掛けになっている延べ糸は、ぴっちりと張ってはい
けないということなどです。ぴっちり張ってしまうと、人
間が通った時に足に矢が刺さってしまうのです。少し緩ま
せておくと人間の足が通り過ぎた後、後ろ側を矢が通るよ
うになるのです。また、緩ませておくとちょうど熊の心臓
部分に当たるようになるのだという話も満さんに聞きまし
た。矢じりにはトリカブトの毒を塗っておくのですが、こ
れは秘伝だということで絶対に教えてくれませんでした。
生徒も、作り始めた時には何が何だか分からなかったよ
うなのですが、仕掛けの部分ができて、矢が飛ぶのを見た
時には、もう真剣になっていました。
「わあ、すごい」
、
「ど
んな仕掛けになっているの」
、
「これは知恵の塊だ」という
ような話をしていました。
そして出来上がったアマックで、
2、3回ではなく、10 数回も同じように矢を飛ばして、飛
んだ飛んだ、すごい勢いだと感動していました。
平成7年は狩猟具の続きということで、マレクという鮭
を獲る道具を作りました。これは一種の銛です。銛のよう
に突き刺して漁をします。生徒はこれを見て返しがないの
で、刺さっても抜けてしまうじゃないかと疑問に思いまし
た。ところが、このマレクが自在もりという由来でもある
のですが、銛の部分が魚に刺さると外れるのです。そして
魚の動きに合わせることができるのです。そのため返しが
なくても外れることはないのです。満さんは枕を持ってき
て、枕に刺して外れないだろうとやって見せてくれたので
すが、生徒たちは重さだねと言って半信半疑で信用しませ
ん。
後で本物の魚でやろうと言い出す生徒もいたのですが、
簡単には手に入らないので、手の器用な子が、発泡スチロ
ールを何枚か重ねて中に粘土を入れ大体鮭の重さぐらいに
したものにマレクを刺して、銛の部分が固定したままの状
態だとすぐ抜けるけれど、刺した後、銛の部分が外れて自
由に動くようにすると抜けないということを実証しました。
先の部分が外れて流れてしまったらどうするのかという
質問があったのですが、それには家紋がついていて、その
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「上川アイヌの研究 40 年の軌跡」本間愛之
ようということでエムシウポポ(剣の舞)とウコウク(座
家紋の持ち主にちゃんと返すようになっていると話すと
「ねこばばしないの?」という声がありました。それに対
し「アイヌはそんなことしない」と満さんは言っていまし
た。最後に満さんは作ったマレクに旭川竜谷高校の校章を
彫ってくれました。これで、あなたたちのものですよとい
うことでいただきました。
平成8年にはチセを作りました。さすがに、本物を建て
るのは間違いなくできないので、10 分の1の尺度のチセを
作ろうということになりました。その前の年に、旭川の嵐
山に何棟か建っているチセの屋根の一つが古くなって傷ん
でしまったことから、
この屋根の葺き替えがあったのです。
その葺き替えが終わった時にチセチョッチャという儀式に
郷土部が呼ばれました。その儀式の中で、屋根の魔物を払
うという意味で、天井に向って弓で矢を射る儀式があるの
ですが、当時の部長が「お前が、一番にやりなさい」と言
われて矢を射ることになりました。弓をぐっと引いている
時に、
「いいか、
お前、
これがもし屋根に刺さらなかったら、
お前は絶対結婚できないぞ、一人前の男じゃないからな」
と言われて矢を射たのですが、さっと刺さって大喜びしま
した。それを見ていた女の子の部員が「格好いいね」と言
っていたのですが、それから 10 年後、その2人は結婚しま
した。
「あの時が原因か?」
と聞いたら
「そんなことはない」
と言っていましたけれど本当に結婚しました。私もやらせ
てもらいましたが、
矢は刺さらないではね返ってきました。
それが原因かどうか分かりませんが、今だに結婚できてい
ません。でも、刺さらなければ刺さらないで、それだけき
っちりと笹で編まれた、すごくいい天井というか屋根にな
っているのだからそれはそれでいいということです。そう
したことがあって、翌年、矢を刺した部長がやってみたい
ということで、チセを作ることになりました。
アイヌのチセはケトゥンニ構造、三脚構造と言って、大
黒柱がなくても家が潰れない構造になっています。三脚の
部分を屋根に2カ所作って、雪の重さに耐えられるように
しているのです。上川独特の笹で、壁とか屋根を葺いてい
くということをやりました。
この時も。
アイヌの方々の知恵というのを実感しました。
よく、
チセの中で、
いろいろな勉強会を開くのですけれど、
炉の火は夏でも冬でも一年中焚きっぱなしなのです。それ
がなぜなのかなということを聞くと、夏場に焚いても涼し
いし、冬場は焚いたら暖かいと言われると、何となく分か
るのですが、よく分かりませんでした。後で科学的にアイ
ヌの住宅を調べた研究報告を見て分かりました。一年中、
炉の火を絶やさないことによって、地熱のサイクルを逆転
させるのです。
冬場の冷たい冷気が夏場になると出てきて、
夏場の暖かさ、太陽光熱、太陽の熱ですとか炉をたいた熱
が冬場に出てくるというように地熱のサイクルがずれてく
るのです。
そのため、
冬でも暖かいのだという報告を見て、
アイヌの方々は知らず知らずのうちにそういうことを知っ
ていたのだということを知り、生徒と一緒にびっくりしま
した。
次は平成9年と 10 年で、古式舞踊について調べました。
平成9年は文献調査を中心にして、アイヌの方々の踊りに
ついて調べました。そして平成 10 年には、実際に踊ってみ
り歌)をやりました。
エムシウポポは、男の人がエムシと呼ばれる刀を肩から
提げて、魔物を打ち払うため、刀の鍔の部分を鳴らしなが
ら踊ります。もちろん、これは舞踊なのでバックでは女の
人が歌い、男の人は勇ましい掛け声をかけています。この
舞踊を教わる前に私たちが知りたいと思っていたのは、皆
さんも見たことがあると思いますが、2人組の男の人が勇
ましく、カシャーン、カシャーンと刀を合わせながら踊る
ものでした。でも、杉村満さんから「それは見せ物として、
お客さんがいるところで踊るものだ」と言われました。そ
して「あなたたちには、ずっと上川に伝わっている伝統的
なものを教えるから、それを練習してほしい」と言われ、
昭和 31 年頃を最後に踊られたことがないという、
上川地方
の伝統的な踊りを教わりました。見た目の勇ましさはない
のですけれど、本来のアイヌの方々の気持ちというものが
伝わってくるものでした。
この踊りは男の子が1人で踊るものなので、女の子には
歌ということで、ウコウクという、次から次へと音を受け
て歌っていく歌をフサさんから教えてもらいました。
(ウコウクのテープを流す)
最初の人が歌った後、次の人が受けていくのです。誰か
が「オタ」と歌うと、次の人は「オタニシテオマ」と歌っ
ていくのです。このテープを聞いて、今までにない音と美
しさから、女の子は一生懸命歌いました。男の子も「僕も
入れてほしい」ということで、それに加わって、みんなで
歌いました。
平成 11 年には、子供の遊びということで、古式舞踊の一
つにも数えられているエルムウポポ、ネズミの踊りをやり
ました。この踊りは、まず、2人の人が紐の両はじを持っ
て、その紐の真ん中辺りで輪を作って罠に見立てて、その
前に食べ物を置いて、そこにネズミ役の人が、歌にあわせ
てあっちチョロチョロ、こっちチョロチョロしながら罠の
前まで来ます。そして、罠を構えている2人のすきを見計
らって、輪の中に手を入れて食べ物をとるという子供の遊
びでもあります。
この他、ホーチップという舟漕ぎ遊びもやりました。こ
れは2人が向かい合って座り、両手を持って、お互いにバ
ランスを崩し合うという遊びです。倒れてしまったらだめ
なのです。ホーチップ、ホーチップと掛け声を掛けながら、
どちらかがひっくり返るまで、ずっとやり続けるのです。
この時、楽しい遊びだねで終わっていたらそれまでなの
ですが、こうした遊びは大人になるための訓練でもあると
いうことを聞きました。エルムウポポは、瞬敏性を養う訓
練となります。ホーチップはバランスをとる訓練になりま
す。重要な交通手段の一つである丸木舟に乗るための訓練
なのです。博物館で展示されている丸木舟を見ると分かる
と思いますが、これは公園などにあるようなボートと違っ
て、バランスをとって乗る必要があるということが実感で
きると思います。
平成 12 年には古式舞踊、男の踏舞=タプカラをやりまし
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た。この年ははじめ、弓の踊りをやりたいということで、
満さんのところへ行って、弓の踊りを教えて欲しいと言っ
たのですが、エムシウポポと同じように、弓の踊りはお客
さんに見せるように脚色したもので、アイヌ伝統のもので
はないから、
あなた方にはだめというふうに言われました。
そして、アイヌの中でも本当に大事な踊りを教えるという
ことで踏舞を教えてもらうことになりました。
自分たちは、見栄えがいいと格好のいい弓の踊りをやり
たいと思っていたので、はじめは納得しないような顔の生
徒もいたのですが、アイヌの踊りは、楽しいとかうれしい
とかというものだけではなくて、自然に対して真剣勝負の
訴えでもあるという話を満さんから聞いて納得してはじめ
ることになりました。
このタプカラというのは、非常に大事な踊りであるとい
うことでプレッシャーがかかり、なかなか上手くいきませ
んでした。部員の中にひ弱な子というか、俗に今で言うオ
タクっぽい子がいたのですが、その子の足の踏み方が何か
おかしいので、私が「もっと、こう」と言って注意してい
ると、横から満さんが「いや、いい、形だけじゃない、心
さえあればそれでいい」という一言があったのです。それ
からこの男の子はがらりと変わって、本当に真剣な顔をし
てできるようになりました。これも全道大会で発表して、
いい評価をいただき全道1位になることができました。
平成 13 年は、
満さんが体調を崩されたため男子の研究は
できないということになったのですが、満さんの自宅に伺
った時に、子供をおんぶした女性が写った古い写真があり
ました。それを見た女の子が「これ何?」といったところ
からパッカイ・イフンケ、子守歌の研究が始まりました。
この時、フサさんが歌って聞かせてくれた時のテープがあ
りますのでお聞きください。
ざと汚い名前を付けて悪い神に奪われないようにしたので
す。そして、大体5、6歳くらいになって、その子の個性
が出てきた時に名前を付けていたとのことです。
フサさんのお母さんは杉村キナラブックさんと言うので
すが、キナラブックさんは子供の時にガマ、アイヌ語でキ
ナというのですが、それを握りしめて放さなかったのでキ
ナラブックという名前になったと言っていました。もう一
人、ベラモンコロさんという人もいたのですが、ベラモン
コロさんはアットゥシ織りに使うヘラをおもちゃ代わりに
していたので、ベラモンコロと名前を付けたということで
す。後に、杉村キナラブックさんはガマで作るチタラペ織
りで有名になりましたし、ベラモンコロさんはアットゥシ
織りの名手になったというふうに伝えられています。
平成 14 年はエペレアイ、花矢の研究をしました。残念な
ことに前の年、長い間お世話になっていた杉村満さんがお
亡くなりになったのです。生前、大会に出るというと満さ
んはお守りだと言って生徒たちに花矢やイナウキケを作っ
て持たせてくれました。そんなこともあって花矢の研究を
することになりました。
今回も、フサさんに札幌と東京であるセミナーで話をす
るのだと話したら、父さんの作ったナウキケが残っている
からといって、私に持たせてくれました。
花矢は非常にきれいで矢には見えません。そこで生徒た
ちは、その花矢というものは何なのか、花矢を通してイオ
マンテという大事な儀式について調べてみよういうことで
花矢の研究がはじまりました。
花矢は神に持たせる土産物ということで大事なものとさ
れています。イオマンテの儀式の中で、花矢を射て仔熊を
遊ばせます。最後には仔熊を両親のいる神の国へ送り返す
ということで、
殺すというと語弊があるかも知れませんが、
殺してしまいます。生徒が初めにそのことを聞いた時には
「えっ、そんなことするの?自分がずっと大事に御飯とか
あげていたのに、何でそんなことできるの?」と話してい
ましたが、イオマンテの儀式の中に込められているアイヌ
の人たちの心、気持ちというものを調べ、話を聞いていく
中で、生徒の気持ちは変わっていきました。逆に、自分た
ちが今の生活の中で、食べ物だとか恵みをくれているもの
に対して感謝の気持ちを持っているのだろうかという思い
を強く持つようになっていきました。
生徒たちは全道大会で、仔熊を遊ばせたあと、下に敷い
た木の棒の上に熊の首を乗せて、その上から別な木の棒を
圧し付けて圧死させるところまで発表しました。誤解され
るのは嫌ですし、
自分たちも最初は残酷だと思ったけれど、
普段、スーパーで切り身になって売っているものを買って
きて、何も感謝しないで食べている。また、まずいと言っ
て残したり捨ててしまっていることを考えると、そっちの
方が罪だという話で研究発表を終えました。
平成 15 年は、
「mukkur=ムックル、口琴を作る」というこ
とで研究しました。この時から、川村カ子トアイヌ記念館
館長の川村兼一さんとフサさんに指導をお願いすることに
なりました。
杉村満さんの通夜の席で、フサさんも悲しみに浸ってと
いうか疲れている最中なのに、私と生徒の手を引っ張って
(杉村フサさんの歌が流れる)
このような歌を聞かせてもらい、女の子は一生懸命歌っ
ていました。
この時、
フサさんが言っていた笑い話で、
最近イフンケ、
子守歌を歌わなくなったと言うのです。
今は、
「ねんねんこ
ろり」とも歌わなくなっていて、イフンケを聞けるのは舞
台の上だけだと言うのです。子守歌を舞台で歌っているけ
れど、あんなのは赤ちゃんをあやすための歌じゃない、あ
んな大きい声で歌われたら子供は寝られないよと笑って言
っていました。
この子守歌に取組んでいる時に、女の子が「赤ちゃんの
名前はどういうふうにつけるの?」と質問したのですが、
これに対しフサさんは「赤ちゃんが小さいうちには名前は
付けないで、ある程度大きくなって、その子の個性、特徴
が出てきてから名前をつけるんだよ。
」と答えていました。
そうすると「じゃ、小さいとき何て呼ぶの?」とまた質問
され、
「うちではシウシペって言っていたよ」と言っていま
した。このシウシペというのはお尻にうんことかしっこが
ついたものという意味です。なぜ、このような名前を付け
るかというと、かわいい子供にきれいな名前が付いている
と、悪い神がその子を奪い取ろうと思ってしまうから、わ
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「上川アイヌの研究 40 年の軌跡」本間愛之
部屋の外れのところに行って、
川村兼一さんも呼んで、
「父
さん死んだけれども、父さんの遺志は私と兼ちゃんで継ぐ
から、郷土部の研究はこのままずっと続けていこうね、安
心しなさい」と言われました。生徒も私もそのような言葉
をいただき、涙が止まりませんでした。その言葉に勇気づ
けられて、研究を続けていこうと強く思いました。
その言葉をうのみにして、ムックルを作るための指導を
川村兼一さんにお願いしました。そして、材料取りから勉
強したいので、そこから教えてほしいと言った時、兼一さ
んは「えっ、材料取りから?」と一瞬、嫌な顔というか、
困った顔をしました。後で分かることなのですが、ムック
ルの材料として使えるようなネマガリダケが今はもうない
のです。タケノコ採りというか山菜ブームで、大きくなる
前に全部採られてしまって、ムックルを作れるようなもの
は残っていないのです。そのため、本州の竹を使って作り
ました。
生徒と、今は材料ひとつとっても大事なもので、採って
くるのも大変なことだという話をしました。ムックルを彫
る時に、兼一さんから「昔は、男は山に猟に行くと何日間
も戻らない。その時、残された奥さんは寂しい、そういう
時に鳴らして心を静める、慰めるためのものだから心を込
めて彫りなさい」と言われ一生懸命作っていました。そし
て、自分の手で作ったムックルが鳴るようになった時、非
常に感動していました。
平成 16 年は、また子供の遊びを研究しました。弓の遊び
と、先の方が二股に分かれている木の棒でブドウヅルで作
った輪を受けるという遊びをやりました。この時の子供た
ちは、以前に行なった子供の遊びの研究のことは知らない
ので、単なる遊びだと思って喜んでいたのですが、その材
料取りの段階から、その遊びの意味を教えてもらうと、た
だの遊びではないということで生徒たちは遊びながらもそ
の意味を実感していました。
平成 17 年です。
この年アイヌの方々の儀式に参加させて
いただいた時に、白いものが入ったお椀が回ってきて、何
だろうと舐めたら、ちょっと酸っぱいような甘いような味
がしました。そこで、それが何なのかという疑問を生徒た
ちが持ちました。また、白いものが入ったお椀を持って厳
粛な雰囲気の中で同じような動作を繰り返しているのを見
て、あれは何なのだろうと思ったのです。そこで、生徒た
ちは、自分たちで儀式で使用するお酒をつくりたいと言っ
て「トノト カラ=酒・造り」ということで濁り酒を実際に
作りました。
文献を調べていくと、ヒエ、アワでつくられていたこと
が分かりました。そこで、ヒエで最初につくったのです。
ところが、フサさんに話を聞くと、旭川も上川も、早いう
ちからお米が入ってきているから、お米でしか造った記憶
ないと言うのです。上川は盆地なのですが、大雪山の麓で
もあり、自然の宝庫だったのです。熊の毛皮1枚でお米1
俵買えたそうです。石狩川を通っての交易があったので、
高価だった麹も同じように手に入れることができたそうで
す。
それで、再度、お米で濁り酒をつくりました。
フサさんに聞いた話の中で、濁り酒は儀式で使う大事な
ものであるけれども、儀式だけではなくて、普段の生活の
中に飲み物や薬として浸透していたという話がありました。
盛大に行われるイオマンテだけではなくて、どの家でも熊
がとれた時には、小さいながらもイオマンテが行われてい
たというのです。
その時には、
お酒を特別に造ったけれど、
普段の飲み物としても、造っていたそうです。取り締まり
のために誰かがきた時には、「エムシが来た、エムシが来
た」と言って、その濁り酒をカムフラージュして隠してい
たという話もしてくれました。冬場の寒い時には外に出し
てシャーベット状にして子供に薬として飲ませたとか、お
やつとして食べさせたとういう話をしてくれました。
それと儀式の中で、イナウにお酒をつけるのですが、そ
れは、私たちは人間の言葉でお祈りをしますが、お酒をイ
ナウに垂らすことで、その言葉が神様の言葉にかえられて
神様のところに届くのだという話もしてくれました。
こういう形で旭川竜谷の郷土部は 40 年間に、40 の研究
をしてきました。
これまでのことを振り返って私が感じたのは、確かに博
物館に行って勉強する、本を見て勉強するということも大
事なのですが、北海道にいるということは、すぐそばにア
イヌの方々がいるということなので、そのアイヌの方々に
お話を聞くということが大事なのではないかということで
す。生徒たちには、文献とか博物館に行って知ったつもり
になるのではなく、きちんと経験する、体験する、そこで
味わう感情、それを大事にしてほしいと思います。
そこには、私にも感じることができない、生徒たちだけ
が感じられる感情というのがいっぱいありました。先ほど
お話したシケレペの実をひっくり返してしまった生徒も、
タプカラの踊りがうまくできなかった生徒も、それぞれ、
「あなたは優しい子、火の神様、炉の神様にあげたのだか
ら、
あなたは決して悪くない。
」
というフサさんの一言、
「形
じゃない、心だ。心さえあればいい。
」という満さんの一言
で、生徒は変わるのです。その変わった生徒の感情が、郷
土部の研究発表会の全道大会、全国大会の中で如何なく発
揮されるのです。生徒のそういう感情を会場の皆様に伝え
られて、同じような感動を味わってもらえているという結
果が、賞歴に出ているのではないかと思います。
長い間研究を続けてきましたが、やはり一番大きかった
のは、杉村満さん、フサさん、このお二方との出会いと交
流です。やはり直接会って話しをしてみるということが、
一番大事なことではないかなと思います。
今後の郷土部の活動ですけれど、フサさんと兼一さんに
いろいろな形でお世話になりながら、多くの感動を味わっ
ていきたいと思っています。
今日はこれでお話を終わらせていただきます。ご清聴あ
りがとうございました。
(拍手)
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