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【右近とその家族の国外追放のあらまし】

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【右近とその家族の国外追放のあらまし】
 宣教師の記録を詳細調べる前に、右近の国外追放処分からマニラでの臨終までの経過のあらましを、ラウレス神父
の資料をもとに、概括的にまとめました (右近研究の基本書、ラウレス神父著「高山右近の生涯」を参考)
時間が無い方は、これを読むだけで、右近の最終章のことは大体分かります
【右近とその家族の国外追放のあらまし】
(1612年幕府直轄領禁教令時の前田家と右近)
・岡本大八事件後、家康はキリシタン家臣に棄教を強制し、信仰を棄教しない14名の武士を追放し、全大名に彼らへ
の援助・迎え入れを厳禁した その影響は各大名にも及び、大名は配下の家臣にキリシタン信仰の棄教を強制し
始め、維持する者は追放された 右近がいた前田家でも前田利長は右近や内藤ジョアンに 棄教を勧めた
利長は右近の娘婿の父横山長知を通じ、形だけの棄教を勧めることを書いた手紙を右近に 渡そうとするも、横山は
棄教は全く見込みがなく、「右近は老い、非常に弱っており、全然昇進の見込みは もっておらぬ」ので止めるよう
進言したので、利長は思い止まったそうです
(1614年、金沢に右近等の追放令が届く)
・家康はかねてよりキリシタン武士達を客遇している前田家には不愉快で、利長の後継者利常に孫娘を娶らせる等
姻戚関係により味方につけようとした 以前キリシタンに理解を示し受洗を望んだ利長も、家康の不興を買うことは国
を失う事に繋がると恐れるも、右近等に信仰放棄させる勇気はなく、小康状態が継続されていた
・1614年2月の初め、金沢に家康の追放令が出たという報せがひろがり、パアデレを長崎に送る命令が来た 司祭達
は2月11日に出発し、22日には京都から追われたパアデレ達と大坂で逢った
[右近は神父(ファン・デ・バエサ)を隠そうとしたが出来なかった 右近は大坂まで2人の家臣に神父の供をさせた
前田家から2人の家臣が長崎まで同行し送り届けた 京阪地区であまり知られていなかった神父3人が京(フェレ
イラ、フェルナンデス)・大坂(トレス)に残った (チースリク 右近史話)] ・パアデレ出発の三日後の2月14日、駿府から、高山と内藤は、妻子、重臣共々、京都に護送し、所司代板倉勝重に
委ねよとの命令が届き、前田利長は命令を伝え、24時間の猶予が与えられた 翌2月15日金沢を右近等(右近・
妻ジュスタ・娘と5人の孫、内藤・妻・4人の子供・長男トーマスの4人の子供)は大急ぎで旅支度をし出立した ・友人たちが家族の事を考えて表向き信仰を否定するよう説得したが、問題にしなかった
・右近は利長に長年の好意に対する記念及び感謝のしるしとして高価な茶器を送ったが、心苦しい利長は多く
の贈り物と共に返してきた 主君利常にはまだ使用していないその年の俸禄(金の延べ棒)を差し出した
・右近等の抵抗を恐れ、城内で戦いの備えがされていると聞いた右近は直ちに主君に使いを出し安心させた (坂本までの道中)
・極寒のなか、全く人家もない地方を通って、極めて荒れた道を、武装された者に警護されて進んだ 馬は用立てられ
たが、1mの積雪の中険しい高地等を進んだので度々下馬し、右近は案内役となり道を開くため先頭を進んだ
不自由な生活に不慣れな婦女子にとって格別辛いものであった
・最初の夕刻虐殺の報せが入り、励まし合い祈りの内に殉教の覚悟をしたが、これは表向きだけでも棄教させようとした
数人の異教徒達の計略であった 10日後坂本に着いた
(坂本で30日待機し、長崎へ20日後に到着)
・右近が京に入ればキリシタンが勇気づけられ暴動を起こすかもしれないと心配した京都所司代板倉は、家康に
報告を送り返答が到着するまで坂本に留め置くことにした(このとき京では禁教令による迫害が行われていた)
・この不確かな間に、二人の警護の者たちは妻子等は夫・両親から切り離されたら棄教せざる得なくなるので、
表向きだけでも服従するように勧めた 右近は、現場での殺害か、駿府か江戸で死ぬまで苦しめられるか、分けら
れて事なった国々に追放されるという三つの場合を想定し、分けられて追放された場合のことを最も心配して、 自分の両親が棄教したという噂を聞いてもそれに心を動かされてはならないと意見を合せた
・右近の追放に伴った家臣達はあらゆる手段で棄教を強制されたが4~5名を除いて信仰に踏みとどまった
・都の板倉は、禁教令を出す前から、家康からキリシタンの名簿を作成するよう命じられていた 2月26日(右近が
坂本到着直後)、家康から都のキリシタン弾圧を命じられた小田原城主大久保が300名の武士を率いて都に入り、
教会を破壊し、棄教しなければ火刑に処すと脅迫したが、如何なる手段で以てしても効果はなく、大多数の者は
信仰を維持したので、更に俵詰めにし市中引き回しのうえ火刑に処すと脅した 修道院的生活をしていた内藤
ジュリアと18名の婦人達が標的にされ、年長の9人は米俵に入れられ 手足をくくられ、首だけ出され、吊り下げら
れて市中を引き回され、雪深い刑場に一昼夜放置されたが棄教しなかった(家康は血を流す事を禁じていた)
内藤ジュリアとその仲間は長崎に送られた
・30日を経て、家康から、男子は長崎に連行すること、婦女子は希望なら都に留まってよいこと、召使の引率禁止の
報せが届いた 婦人達は如何なる代償を払うとも別れることを望まず、長崎に追放されるという殉教の道を選んだ
・彼等は坂本から大坂に到り大坂から一同は船で20日かけて長崎に運ばれた 召使がいなかったので自ら料理
せざるをえなかったので、水夫たちは哀れみ必要な援助を引き受けた ・長崎には各地から追放された宣教師が集まっており、右近達は歓迎され、尊敬を以て迎えられた
(長崎での祈りの日々)4中旬~11月初旬まで滞在 約7ヶ月 約200日
・右近が長崎に到着した時には処分について確かな事は判らなかったので、万一の場合に備え準備をしようと思い、
トドス・オス・サントス学院で1588年の追放の時と同じように黙想を行い生涯の告白を行った 黙想が終わって後、
大抵の時を祈りと徳操に費やした
・多くの親しい大名が彼を訪ねさせて家康への執り成しを申し出たが、望まなかった 細川忠興は「この不当な追放を
辛抱強く甘んじて受けることにより、今や右近はその英雄的行為に満ちた生涯に冠を頂く事になった」と大声で叫ん
だ(この時忠興は既にキリシタンの敵に変わっていたが右近に感嘆せざるを得なかったのであろう)
・夏に来航するマカオ船を考慮して家康は追放の執行を10月まで延期したので、一抹の希望を以て左兵衛の執り成し
により家康に司祭を派遣したが効果は無かった パアデレ達は宣教師の残留を祈願し、各地の教会で40時間の
祈祷・特別な説教が行われ、諸聖人の教会から町の各所の聖堂への大祈祷行列が人目を引いた 同じような行列は
主の御昇天の祝日から聖体節まで三週間に渡って行われ、大聖体行列の終りに聖祭が行われた
この宗教的示威は敵方に、暴動につなるのではと疑惑を抱かせたが程なく解けた
・6月にマカオ船が来航し、家康は非常な満足を示したので、パアデレ達は新たな希望を抱き、家康がパアデレを
追放してもマカオ船はくるかと尋ねた意味を知りたく、また、数名の宣教師の残留を認めてもらうため、マカオ船の
船長を駿府に派遣したが、家康はひどく怒り拒絶した
・マカオ船は積み荷の大部分を売り払っていなかったので、多数の支那ジャンク船が宣教師達を海外に運ぶことに
なった これらのジャンクは装備が悪く、多くの人々を収容するには不適当であったが、ただ一人のパアデレも
マカオ船の出航まで留めようとはしなかった 10月27日、パアデレ達は、住院から追われ、船の出航まで海辺の
藁小屋で住んだ (40年近く日本に滞在したメスキタ神父はこのこの藁小屋で亡くなった)同時に町の聖堂は叩き
潰された これにより日本中にただ一つの教会も存在しないことになった
・追放された人々を全てマカオで収容できないので、マニラでも収容する事になった 8名のヨーロッパ人司祭、
15名の日本人イルマン、15名の同宿をマニラに送る事に決心した メスキタ神父が亡くなった
(11月8日、長崎を出航)
・11月7、8日両日三隻はマカオに、2隻はマニラに出航した
・マカオに向かったのは、62名のイエズス会士(内パアデレ33名)がいた そして18名のパアデレと9名のイルマンは
日本に隠れて踏みとどまった マカオに赴いた管区長カルヴァリヨは途中上陸(日本に隠れようと)を試みたができ
なかった けれどもニ三のパアデレは他の一艘で行く事が出来た ・マニラに向かった2隻は、キリシタンの奉行村山等安とポルトガル人エステバン・ダコスタに属するものであった
村山の船には村山自身の息子フランシスコ、若干のフランシスコ会士及びドミニコ会士を含めた7名の在俗司祭
の大部分が乗っていた ダコスタの船には同宿のイエズス会士、フランシスコ会士及びドミニコ会士、
アウグスチノ会士の残りがいた
マカオ、マニラに向かった船には多数の追放された日本人キリシタンが乗っていた
・右近達が乗船した船は、ポルトガル人エステバン・ダコスタに属する船であった(日本殉教録)
・在俗司祭並びに各2人のドミニコ会、フランシスコ会士は村山の船から上陸する事に成功し、長崎に帰った
少なくとも37名のパアデレ(5人の在俗司祭、7人のドミニコ会士、6人のフランシスコ会士、1人のアウグスチノ会士
及び18から21人のイエズス会士)が日本に残った
・右近達はマニラに行くことになった それは右近の霊的指導司祭モレホン神父と右近は別れたくなかったことや
右近が日本を嫌う支那人と結びつくのではないかという疑念を家康に抱かせないためであった
内藤ジュリアと14名の伴侶はマニラへ、残りはマカオへ行った ・右近が乗船する少し前、彼をその家族全員と共に殺そうとしているとの噂があった
右近は、金沢を去ってからマニラ船の出帆まで、彼の生命をねらう陰謀の前に、いくらか安全を感じたのは実は
ただ2日に過ぎないと、一人のパアデレに自認した
・マニラ船が出航して3日後に豊臣秀吉の使者が、目前に迫った戦いの総大将にしようと長崎に来た
この事は家康が秀頼との決戦を控え、右近が豊臣側につくことを家康は恐れていたのではと想像させる
家康は右近を国外追放することによって、このリスクを失くそうとしたのではないだろうか
(航海中 33日 11/8~12/10)
・1614年11月8日、右近達が乗船した船は長崎の港を出た 悪天候の季節と、危険・・、小船でしかも信じられぬ程
詰め込まれていたことは・・例えようのない苦痛と過労であった 同船には、23名のイエズス会士、15名の同宿、約
17名のイスパニア修道士、右近及び7名の従者、内藤と10~15名の親族、ジュリアと14人の伴侶がいた ・・
旅客及び乗組員の総数は350人以上であった 如何に悲惨な状況であったかが察せられる
・多数のイエズス会士を日本に残留させえると考えたので、8人分の船室しか確保していなかったが、38名以上が
乗り込むことになったので、30名は甲板か廊下等に配置された その結果多くは病気になり、少なくとも4人の
死者がでた 一人は航海中に、3人はマニラ到着後すぐに亡くなった
・オランダ船による襲撃は断念されたが、オランダ人海賊に襲われる危険があった それは回避できた
・航海は一カ月以上続いた 右近はその間、修道士のような隠遁的生活を送った
毎日、連祷及びサルヴェ・レジナを行った 大抵の時右近は祈祷、霊的読書、パアデレ達との談話により過ごした
・右近は霊的書物を多数持参していたが、ある時大波をくらい海水が船室に侵入し、書物・衣類などが全て水浸し
になったが、右近は一言も不平を言わず、孫とともに書物を乾かすことに専念した
・一人のポルトガル人の奴隷と日本人との喧嘩がポルトガル人と日本人全体の争いのまで発展してきた事件を、
右近は鎮めた
(マニラに到着 大歓迎 -12月11日-)
(マニラ港) ・マニラ港に近づいた時、クリタ-ナ神父が亡くなったので、モレホン、ヴィエラ神父は遺骸を艀船に乗せて手前のある
村に立ち寄り、その後マニラ港に向かい総督ファン・デ・シルバに右近の到着を知らせた
・総督には既に右近の情報はよく伝わっていたので、 盛大な歓迎をしようと考え、逆風のため、入港できない沖の乗船
を曳かせるため、マニラの港からガリオン船を出迎えに行かせ、マニラ港に案内した ガリオン船にはマニラの貴人達が
右近達に茶菓を贈り挨拶をし、歓迎の一書を送った
・有名な日本のキリシタンが到着したという知らせが入ると感動が湧きおこった ガリオン船と乗船が近づくと市民は港に
走り、総督は右近を迎え、官邸に案内するために、全貴族、及び聖職者に伴わせて衛兵を差し向けた
・ガリオン船は一発の砲弾を発射した 全要塞砲は返砲をとどろかせた
・上陸後、総督官邸に向かい、右近が市の入口に姿を見せると、整列していた歩兵が礼砲を放った 右近は、そのイス
パニア兵士の巧みな武器の操作に接し、喜んだ
(官邸)
・総督官邸で総督を始め全植民会議議員、マニラ市首脳の歓迎の挨拶 総督は右近を抱擁 涙した
総督は右近に手厚いもてなしと優遇を申し出でたが、右近は感謝し、そのような名誉に値しないと強調した
(イエズス会の学院へ)
・総督官邸→主聖堂→聖アウグスティン教会→イエズス会の学院→学院近くの右近に与えられた住居へと移動した
・総督の馬車でイエズス会の学院に、行例(衛兵が先行し、馬上の貴人と武将が同伴した)で向い、群衆が押し寄せた
・途中、主聖堂に近ずくと全部の鐘が鳴り渡り、偉大なキリストの英雄をオルガンと他の楽器で演奏するなか、入口では 美しい祭服をまとった聖職者たちが、右近達を聖堂に導くために待ち受けた 右近は車を降り、教会で祈りをささげた
同じことが、アウグスティノ教会の入り口でも繰り返された
(イエズス会の学院、学院近くの住居)
・全ての聖職者は学生と共に集まった 右近達を音楽吹奏裡に教会に導いた
・学院の聖堂で荘厳な感謝の讃美歌(テ・デウム)が唱えられ、食堂で祝宴が催された
・住居として学院の近くに幾つかの立派な家が与えられた。
(多くの人が右近を訪問し、歓迎した)
・総督、大司教、修道会が右近達に愛と尊敬を示した 総督は豊富な贈物をし、個人的に交わるため訪問してきた 確信した フランシスコ会士・ドミニコ会士の歓迎・挨拶 多くに人の訪問・招待が引き続いた
・特に総督は、度々右近を訪問し、様々のことを語り合い、特に日本人の礼儀、習慣、行政 戦争と平和について多くの 質問をした総督の右近の評価は高まった 日本感が変わった
(総督の意図)
・万が一右近が日本に変えるチャンスが生じたときの関係(日本・スペインの友好に寄与)
・マニラの日本人の統制((倭寇)の暴動の鎮圧)
・総督は右近に年俸支給を考えたが、 右近は、スペイン国王へ義務が生じうることを考慮し、断った (臨終)
・40日後、ひどい熱病に倒れ、帰天した これは長い旅、航海、 激変した気候・食事等によるものであった
・右近が病に倒れた事を知った市民は驚き 総督、最良の医師を派遣し、入念な看護をさせた
・右近は病に倒れると死を覚悟し、モレホン神父に心境を語り、死の準備を始める 病状が悪化し終油の秘跡 最後の
整理をした 孫に対する遺書を残した
・最後まで、しっかりした意識を持ち、「主に対する感謝と残される家族の保護を神に祈り」、イエズス、マリアと唱えて、
2/3~2/4の真夜中に息を引き取った 大勢の市民が悲しみ、イエズス会の学院と右近の住居に押し寄せた
(盛大な葬儀)
・総督は深く悲しみ、死者への尊敬の念を表すため盛大な葬儀を行う事とした
・総督、大司教、国会の諸候、植民省の役人、貴族、軍人、在俗司祭、修道会士、市長 が葬儀に参列 公式の喪服
・遺骸を宮殿の広間に、高価な棺架に載せた 死者は華麗な侍の装いで、頭上には日本で隠退した人がかぶるような
小頭巾をかぶり顔は覆われなかった 殉教者の足に接吻しようと多くの人が押し寄せた 多数の修道会士の死者の祈 が行われた この光景は、マニラ在留の日本人を喜ばせ、幾人かの洗礼の動機となった 貴賎、老若を問わず多くの
人が敬意を払った
・遺骸を安息所に運ぶ名誉を争ったので、総督は干渉せざるを得なくなり、順番を決めた 総督・国会議員(広間~
街路)、市会議員・ミゼルコルジャの全員(街路~教会入口)、 諸修道会長・大聖堂の主任司祭(教会入口~ 埋葬場所) (埋葬)
・遺骸は、イエズス会管区長たちが葬られることとなっている学院の聖アンナ教会の主祭壇の近くに埋葬され、9日間
引き続いて歌ミサが捧げられた その間、アウグスティノ会のパアデレ達は、高価な銀の器と蝋燭をもっていとも華麗
に 聖祭に従ったので、現職の王侯の葬儀のようであった 葬儀の最後として、また、最高頂として盛大なミサが捧げ
られた
・教会の壁は、黒い絹布で覆われ、それらは、あらゆる右近の勇敢さ心の気高さ、敬虔 、信仰堅固なことどもを賛美
する詩、及び格言などが、イスパニア語、ラテン語、日本語 、中国語で掲げられた
・右近の遺骸を埋葬した聖アンナ教会の屋根が崩壊した
・1620~1632年の間に、聖イグナチヨのために新教会が設けられ、右近以外の遺骸はそこに移された しかし殉教者
右近はそこから切り離され、イエズス会のサンホセ学院の聖堂に移された キリシタン武士右近の絵が描かれた美しい
石棺の中に安置された 1767年マニラのイエズス会解散 イエズス会のものはマニラ大司教下に置かれた
・サン・ホセ学院は、今も市の郊外にあるが、しかし、右近の遺骸はない
・イグナティウス教会は、その後の地震で損傷し、米国の領有後取り壊された
・地所と旧学院の建築の残りは、米国の植民省所有となり、植民省はそれを兵舎に変えた
・旧イグナチオ教会の場所には、今日兵営の体操場がある
(右近の埋葬場所などについて、ラウレス神父が書かれた時期から相当経過しているので、現在のマニラの状況とは
相当違っている 私も以前マニラへの公式巡礼に参加させて頂き、縁の地を見学し、亡き溝部司教様にも問いただし
たが、本当のところは全く分かっていないのが実情ではないだろうか サン・ホセ学院の聖堂の石棺が発見されることを
お祈りしたい)
・(右近の伝記)
・学院長パアデレ・ファン・リベイラは、一時間の追悼の弁の中に右近の犠牲に満ちた生活を短くまとめたが、聴衆は満足
しなかったので、マニラ市民はパアデレ達に詳細な伝記を起草することを求めた そこで、モレホン神父が担当すること
となった しかし、彼は、多くの用務のため完全にはたすことは出来なかった ・(右近の家族)
・総督は5人の右近孫を養子にしたいと申し出た その言葉を変えなかったし、追放された全ての人に寛大な態度で尽力
した オランダとの戦いで貿易、収入の面で多大の損害を被っていたが、国会と相談して追放者への多額の年報を受け
とることが出来るようにした ・右近の家族のその後の運命は定かではない
右近はどのようなことがあっても3年間はマニラに留まるように決めていた
日本での迫害が続いていたし、右近は、孫達に異教徒的な生活を厳しくいさめていたから、恐らく、良きキリシタンとして
マニラに留まったのではないかと思われるが、しかし、コリンは、右近及び内藤の家族の幾人かは帰国したと報じている ・日本側資料では、加賀の高山家の伝承、豊後の高山家の伝承がある
加賀国の古年代記には、右近の孫長房は右近の死後マニラから帰り、信仰のため殺されたとされているそうです
、ラウレス神父
心させた いて多くの 
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