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「アルノルフィーニ夫妻の肖像」
● 世 界 史 そ の ま ん ま 美 術 館 世界史のしおり 2012年度1学期号付録 「アルノルフィーニ夫妻の肖像」 解説 神聖な結婚式とその証人、 アルノルフィーニ夫妻の像 ヤン=ファン=アイク 縦82.2×横60cm ロンドン ナショナル・ギャラリー蔵 い鏡は、イエスの母である聖母マリアの純潔を意 味しているといわれる。果物、鏡、蝋燭、ロザリ *表面は作品を部分的に原寸大で示した写真です。ただし、寸法は一般に公 開されている全体の寸法をもとに弊社で算出したものであり、実物を計測し たものではありません。若干の誤差がございますことをお含みおきください。 授業 活用例 神は細部に宿り給う ―北方ルネサンスの傑作― オもまた特別な意味をもっている。このように夫 フランス国立社会科学高等研究院(EHESS)博士課程 土山陽子 福岡県立東筑高校 妻の結婚式は15世紀の様式で執り行われ、神に祝 今林常美 福された聖なる儀式として描かれた。 ヤン=ファン=アイク(1390年頃〜1441年没)は ○ここに注目 作者のヤン=ファン=アイクについては、多くの 初期フランドルの画家であり、フーベルト=ファ 原寸大図版で見られるように、鏡の上にあるサ 教科書が「ファン=アイク兄弟」の名の下に「油 ン=アイクの弟である。彼の絵画は画面の効果と自 インには、 「ヤン=ファン=アイクはそこにいた」 彩技法の確立」を説き、なかには「精緻な写実を 然な光の表現による精緻な油彩画の先駆となって という内容がラテン語で記されている。1434年の 特徴とするフランドル画派の基礎を築いた」と記 いる。初期の活動についてはほとんど知られてい 年号と画家のサインは、絵のなかでも鑑賞者の目 述しているところもあった。世界史の文脈のなか ないが、マーストリヒト近郊が兄弟の出生の場所 につく位置に描かれた。美術史家のアーヴィン= で扱う絵画として、教室では、作品を通してヤン であるといわれている。また、1422年にハーグで パノフスキーによればこの文章は、画家自身が夫 らフランドル画派がなぜ油彩技法を確立できたの 仕事をした後、1425年以降はブリュージュとリー 妻の婚礼の場に立ち会った証人であり、この絵画 か、それがなぜ「精緻な写実」につながるのか、 ルで画家として活動したことが記録に残っている。 はそれを記憶に残すために描かれたことを示して 生徒とともに考えていきたい。また、描かれた夫 現在ロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵 いる。シャンデリア、サイン、鏡は正確に画面中 妻がなぜイタリア出身なのか、とくに夫のアルノ されているこの肖像画は1434年に描かれた。中央 央に位置づけられ、見えない遠近法の消失点を定 ルフィーニは遠く離れたフランドルの地でどのよ の手を取り合う男女は、一般にジョヴァンニ=ア めている。鏡は奥の壁の存在を示し、絵画空間を うな経済活動をどのような背景のもとに行ってい ルノルフィーニとその妻ジョヴァンナ=チェナー 形成している。この構図によって鑑賞者の視線は たのか、生徒たちにすでに学んだはずの中世後期 ミであるといわれている。アルノルフィーニは、 鏡のなかに誘導される。 ヨーロッパの商業に関する歴史知識を活用するよ 写のすごさがそれ自体光沢のある油絵具を塗り重 イタリアの商人であり、1420年からブリュージュ 夫妻の背景の壁にかけられた丸い鏡の縁には、 う促しながら、追跡させたい。 ねることで可能になることも生徒に認識させるこ に暮らしていた。絵のなかの部屋は彼らの住まい 10の小さなメダルがはめられており、そこには新 まずは本絵画の印象を聞いたうえで、全体をじ とができるだろう。 であると考えられている。 約聖書からイエスの受難の物語が描かれている。 っくり観察させ、この絵が一体どういう場面を描 では、なぜ、かくまでしてヤン=ファン=アイク 人物の側に置かれたオブジェは夫妻の富を示し 下から時計回りに、ゲッセマネの祈り、裏切り者 いたものなのかを考えさせたい。その際の手がか は細密な写実表現にこだわったのか。研究者の小 ており、彼らのまとう衣装は上等な布で仕立てら による逮捕、ピラトの前のイエス、鞭打ち、十字 りとして、男女のしぐさ、衣服の状態、部屋のよ 林典子氏によれば、ヤンにとって画家の技法は神 れていることがわかる。夫のジョヴァンニはヴェ 架の道行き、カルヴァリ山での磔刑が頂点に描か うすなどへの注目を指示しておくのがよいだろう。 への奉仕の延長線上にあり、絵具の輝度や明澄性 ルヴェットの上着をまとい、右手を上げて、妻を れている。また右上から十字架降下、埋葬、黄泉 多くの生徒はやがて、この二人が夫婦で、そのこ は神性の宿りの証と解されたという。北方フラン 慎み深く迎えている。女性はゆったりした明るい への下降、キリストの復活といった福音の物語が とを確認する何か儀式らしきことを行っているの ドル画家たちの驚くべき細密表現は神の輝かしさ 緑色のドレスを持ち上げながら、それに応えてい 読み取れる。 ではないか、ということに気づき始める。そこま を描くもの(ゴシック=リアリズム)であったと る。このようすから、彼女は彼の申し出を完全に 鏡のなかには、夫妻の後ろ姿と彼らを訪問する で達したときに、教員側はその根拠らしきものが いうことを生徒にも理解させたい。同時にヤンの 受け入れていることがわかる。女性の首にはパー 客人の姿が映り込んでいる。このうち、青色の衣 絵のなかにあることを示唆し、絵の後方の凸面鏡 この作品には15世紀前半、ブルゴーニュ公国の宮 ルのネックレスが二重にかけられ、左手には指輪 装をまとった人物は画家のファン=アイク自身で に注目させる。そこで、本資料表面の原寸大絵画 廷所在地の一つとして最後の繁栄を示した、ブリ がはめられている。彼女の足元には精密に描かれ あるとする説が一般的である。傍らには婚礼の証 を示すのだ。男女二人の後ろ姿とその二人を見定 ュージュの豊かな市民生活を反映したグッズが巧 た犬の姿が見える。天井には六つに枝分かれした 人として必要なもう一人の人物の存在が見られる。 めているらしい青服でターバンらしきものを被っ みに描き込まれていることにも注目させたい。例 シャンデリアがかけられ、蝋燭の一つには灯が点 美術史家ダニエル=アラスによれば、言葉による た男と赤服の男の存在に気づき、彼らが儀式の立 えば、貿易によって得られたと思われる毛皮や絹 されている。窓の下にはいくつかのオレンジが置 記述と視覚的な再現の双方が組み合わされること ち会いをしているらしいことが確認できるだろう。 織物などが見える。生徒も興味深く見るに違いな かれており、そのうちのひとつは窓際にあるのが によって、できごとの真実らしさが裏づけされて なぜ、立会人とわかるのか。鏡の上方、壁に書き いものばかりである。しかも、これらのグッズの 見える。画面右には深紅色のカバーとカーテンの いる。また、絵の作者である画家自身の像を画中 込まれた装飾文字の言葉“ヤン=ファン=アイク、 多くが左記の解説にもあるように西洋絵画特有の かかったベッドが描かれている。 に描き込む手法によって、夫妻の神聖な結婚式と ここにありき”を読ませたい。ここで、当時のフ 「メタファー」を含んでいる。時間が許せば、こ 室内の細部に描かれたオブジェは、キリスト教 いうできごとの語り手が誰なのかが明らかにされ ランドルにおける婚姻の手続きも説明できるし、 のようなメタファーの面白さもクイズ形式などに の神学的な真理を象徴している。例えば、傷のな ている。 ヤン自身が立会人の一人であること、その細密描 して生徒とともに楽しみたいものである。