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ポンバル政策下のアマゾン地方に於ける原住民問題
<発表要旨> ポンバル政策下のアマゾン地方に於ける原住民問題 住田育法 Iはじめに 18世紀後半ポルトガルの宰相ポンバル侯セバスティアン・ジョゼ・カルヴァ リョ・イ・メーロ(1699~1782年)は,ジョゼ1世拾世(1750~1777年)の初期, アマゾン地方に注目し,1751年にグラン・バラ・イ・マラニョン管轄区,1755年 にサン・ジョゼ・ド・リオ・ネグロ・カピタニア(今日のアマゾンリト|)を創設し た。同地方に注目した理由は,第1に,1750年マドリッド条約締結後のアマゾン 河流域地域開発の必要性から,第2は,重商主義政策を押し進める-手段として 同地方の熱帯産品を重視したからである。 報告では,1750年から1759年までの約9年間をjhl象として,特に1755年6月6日 のグラン・バラ・イ・マラニョン管轄区に於ける原住民解放に至るまでの趨勢に 焦点を合わせ,具体的には,ポンバル侯と彼の異父兄弟メンドンサ・フルタード (グラン・パラ・イ・マラニョン管轄区総督,1751~1759年)との間に交された 書簡に基づいて,原住民に対・するiiIij者の考え方や政策を見る。 Ⅱブラジルの原住民とイエズス会士の活動 イエズス会士の原住民教化活動は初代総督トメ・デ・ソウザ(1549~1553年) の時に始められ,これ以後ポンバル侯によるイエズス会士追放の1759年まで展開 した。この教化活動はポルトガルの植民地政策に組み込まれ,17世紀から18世紀 にかけては,王室の財政的保護によって,イエズス会の学校が増設された。アマ ゾン地方に於いては原住民教化村の発展が著しかったが,その第1の理由は,他 の地方に比べて原住民の人「I密度が高かったこと,第2には,大小の111J川が錯綜 しまた熱帯であるという特異な自然的地理的条件によって原住民狩りを生業とし ていた奥地探検隊員の攻撃を回避できたためである。アマゾン地方での教化活動 が活発であったことから,同地方の開発に着目したポンバル侯との間に対立が生 じ,ついに原住民をイエズス会土から充全に引き離すことを目的としてポンバル 侯は原住民解放令を公布したのである。 21 m総督メンドンサ・フルタードの書簡に見る原住民問題 総督メンドンサ・フルタードは,1751年から1757年まで186通の書簡をポンバル 侯に対して書き送り,この内,原住民に触れているのは約34通である。 書簡では,1755年4月4日の原住民・白人「結婚法」と同年6月6日の「原住 民解放令」公布に至るまでの原住民の実態が繰り返し報告されており,ポンバル 侯の同法令公布の根拠が総督の書簡に基づいていたことが分かる。ポンバル侯か らの返信は,1753年に1通,1755年に6通と僅少であるが,法令の公布が返答で あったと解釈される。 総督は度々,原住民がイエズス会士の指図のみに従順であると報告しており, ポンパル侯が原住民を解放してこれをポルトガルの植民地政策に直接編入しよう としたことは当然の成行きであった。すなわち,マドリッド条約以後のアマゾン 開発の必要性によって教化村を含めたアマゾン地方奥地の調査を行った結果,イ エズス会士との共同体制下では原住民が従順であるのにポルトガル政府の命令に は反抗的であり,労働の要求に対してはしばしば逃亡を行い,入植者の農場では 労働力不足を来していることが徐徐に判明した。この結果,法令の公布によって, 教化村の解放を目的とした原住民解放,原住民女との結婚・同化の奨励に至った ものである。 注 本報告で扱った書簡はすべて全3巻1270ページに及ぶMarcosCameirode MendonGa編の以下の文献に基づいた。AAmaz6nianaEraPombalina:COT‐ respondenciain6ditadoGovemadoreCapitao-GeneraldoEstadodoGr恩n ParfieMaranh2ioFranciscoXavierdeMendonQaFurtado,1751-1759.Institu- toHist6ricoeGeograficoBrasileiro,3tomosBrasil,1963. Ⅳおわりに 同化政策が原住民と入植者の文化融合や人種混血に貢献したという点で,白人 入植者・原住民相互の結婚奨励は一応評価できる。人種混血によって人種の平等 化が進み,これに文化融合が相俟って,国民の中に人種的,文化的少数者を作ら ず,社会的な摩擦を緩和させる土壌を形成したと見なされるからである。 しかし,アマゾン地方に於いては原住民解放以後も依然として経済的な停滞状 態が続き,ポンパル侯の重商主義政策は同地方では笑を結ばなかったといえる。 22