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505 - フランスの切手
ノォル-パドカレ 図版博物館 vol.32 V 人の記憶 16 Musée imaginaire philatélique Région Nord-Pas de Calais au travers des timbres français 4e éd. 2013 次に、広く国政の場で余人の為し得ない仲介・調整の役割を果たした人物を見てみよう。 【5-5-1フィリプ・ド・コミーヌ】 Philippe de Commynes YT-767 1447-1511 フィリプ・ド・コミーヌは、ノォル県コミヌCominesの小領主の 子として生まれたが幼くして両親を亡くし資産も失った。 父方の従兄夫婦に育てられ武道優 先の偏った教育しか受けられなか ったにかかわらす聡明な若き貴族 としてブルゴーニュ公(ル・テメレール)に仕 え、対英折衝など外交面で顕著な 功績が認められた。1468年、歴史上有名 なブルゴーニュ公とフランス国王ルイ11世のペロンヌ の会見でコミーヌは国王に心情を寄せ、1472 年8月、対立する国王側へ帰順し、同国王 の死後もルイ12世まで3代にわたって国王 に仕えた。その間領地を増やし経済的に多くの利潤を得たが、外交 面での働きはそれに十分に応えるものであったという。つまり、国 王家の大番頭で不可欠の人材であった。もっとも、ルイ11世の死によ って即位したシャルル8世とは確執が絶えず、逮捕、拘禁、資産没収な どの憂き目を経験している。のちに国王12世となるオルレアン公との関係があって不審の目でみ られたのであろう。さまざまな裁判沙汰が続く中で、コミーヌは自分の所領に隠棲し、死後の ために膨大なメモワールを遺した。1946年にフランス郵政がジャンヌ・ダルクやヴィニョンと同列の「15世紀の 著名人」の1人としてコミーヌを加えたのは、政治家・外交官としての彼の側面でなく、メモワール の筆者としてフランス史を構成する詳細な事実関係を客観的な筆致で描き出した記述者として の側面を評価してのことであった。5-5-1 【5-5-2 ジャン・バ-ル】 Jean Bart 1650-1702 YT-1167 ダンケルク生まれの私掠船長のちにフランス 海軍司令官。この人物も時代(17 世紀後半)も町も、今に比べれば「国際的」である。良港 ©bibliotheca philatelica inamoto 1 の町ダンケルクは、16 世紀中葉以降スペインの支配下にあった。1646 年、コンデ公が 17 日間の攻囲戦で奪取したが 52 年には奪い返さ れる。だが、既に[パドカレ 1]で触れたように、58 年の「ダンケルク の戦い」でチュレンヌ率いる英仏軍が見 事に奪還、気前のよいルイ 14 世はそ の日の内にイギリスにこの町を与えた。 蛇足を省みず記せば、この「6 月 25 日」は今でもダンケルク市民の間で「空 前絶後の日」Folle journée と語り継 がれる日である。 「何しろ 1 日の内にスペインからフランス、フランスからイギ リスとなった町は世界中でここしかない」からだ。5 年後にフランスが イギリスから買い戻したことは既述の通り。その後はフランスが堅守し て今日に至っているが、17 世紀後半のいまだ波風が荒かったころ、 大きな功績をあげたのはジャン・バ-ルであった。彼はこの町でイギリス人として生まれた。12 歳 (この年からフランス人)で密輸船の水夫となり、16 歳のときイギリス艦によるオランダ攻撃で父親 を失った。バールは、フランスがオランダ(北部)7 州連合と同盟関係にあったことからフランス船《Cochon Gras》の下士官となって対英戦にデビュー、オランダの海軍提督ミヒール・デ・ロイテル麾下の軍艦「7州」 に乗ってテームズ河を遡りロンドン攻囲に参戦した。イギリス・オランダの Breda 和平条約で目的を達し たロイテルはこの少年下士官を小型帆船《Canard Doré》の船長に取り上げた。 ところが、(話が長くなったがここでようやく本題に入る) 1672 年、今度はかつての盟友 オランダとの戦争(オランダ戦争)に踏み切ったルイ 14 世はジャン・バールに私掠船勅許状 Lettre de marque(バールに与えたものではないが参考資料として写真を掲載)を付与した。バールは晴 れて公認の海賊となり、大暴れをして敵船を震え上がらせた。 しかし、それこそ長くなるので話は 1 つだけとしよう。それは 1678 年の Texel 島(北海)沖の海戦であ る。バールは 4 隻の小船をもってオランダ 海軍戦艦《Shiedam》を襲撃した。彼 自身手と顔に手榴弾で重傷を負った 上砲弾によって脚の肉を吹き飛ばさ れたがひるまず、戦艦を捕獲してダン ケルクまで曳航して帰ったという大変な 武勇伝である。フランスとオランダはニメーグ Nimègue 条約を締結して和平に至った。バールはほどなくフランス海軍 に大尉として迎え入れられた。.....1694 年には貴族に列せられ、96 年には海軍司令官と なる。バールは 2 メートルを超す強壮・快活な男であったそうだが、1702 年胸膜炎で死去。ダンケ ルク市民は毎年復活祭にダンケルク王宮前の銅像(写真 ©bibliotheca philatelica inamoto この像も[ペイドラ・ロワール 4]で取り上げた 2 ダヴィドの作品である。)の前に跪いてバール・カンタータ Cantate à Bart を歌う。最後に、このよう な談義には関心の薄い切手愛好家向きの話題をひとつ。バールは 1650 年 10 月 21 日生まれだ が切手の作者は間違えて 1651-1702 としている。5-5-2 【5-5-3 ジョゼフ・デュプレクス】 Joseph François, marquis Duplex 1697-1763 YT-857 フランスのインド植民地総督。ノォル県ランドルシー Landrecies の出身で 1721 年にフラン ス東インド会社の士官としてインドに赴き、1731 年に Chandannagar の総督となり財をなしたという。 1742 年に Pondichéry 総督となってフランス領インド の総指揮を執ることとなった。オーストリア継承戦争 でイギリスとインド植民地支配を争ったが、マドラスを 占拠し Pondichéry を防衛するなど戦功は大であ った。しかし、1748 年のウエストファリア条約で従前へ の復帰が決定された。デュプレクスは、インドの地方 政治に介入し策謀や軍事行動にも関与してインド におけるフランスの優位を確保することに専念、カルナク地方とゴラン高 原の大半を支配下に置いたが、イギリスが反撃に出るや、仏政府は、デュプレクスの壮大な計画を よく知らぬまま英仏間の戦争を懸念してデュプレクスを 1754 年に召喚してしまった。インドに対 するフランス帝国の夢もまたこれで消えた。デュプレクス自身も無視と貧困の内にその生涯を閉じ たという。フランスはその後もインド半島に若干の権益を残しカルカッタ近くのシャンダンナガルは最後まで 残ったが、1950 年にインド連邦に併合された。デュプレクスとラブゥルドネの確執については、【ブル ターニュ 6】で触れた。 5-5-3 【5-5-4 マキシミリアン・ド・ロベスピエール】 Maximilien Marie Isidore de Robespierre 1758-94 YT-871 アラスに生まれた弁護士出身の政治家で、 国民公会 Convention Nationale の山岳党 Montagnards の代表的人物である。ロベス ピエールの評価は今日でも一致をみないが、 最も強力なフランス革命の推進者であった ことは否定されず、フランス郵政は「18 世紀 の著名人」として ロベスピエールを取り上げ ている。次頁の 2 点は、切手とその原画 となったと思われる絵画の写真である。 アルトワの上級裁判所付き弁護士の長男として生まれ、サン・ヴァァスト修道院の奨学金年 50 リヴル を得てパリのリセ・ルイ・ルグランでまなび、パリ大学法学部を 1781 年に卒業して弁護士登録を行った。 1789 年 4 月に憲法制定国民議会に第 3 身分代表として当選、同年 10 月憲法友の会 Société des ©bibliotheca philatelica inamoto 3 Amis de la Constitution 通称ジャコバン・クラブ(サントノレ街のジャコバン派修道院の近くであったため) に参加し、やがてそのリーダーの 1 人となった。1791 年の国王逃亡事件に際しては、ルイ 16 世を 裁判にかけることは主張せず、その退位を要求した。 《Incorruptible》(清廉の士), この 形容詞を大文字で記す場合にはロベス ピエールを指す。民主的で礼儀正しく廉 潔・温厚で死刑廃止を主張し侵略的 戦争に反対する立場を取る一方、国 民公会からジロンド派を追放し、ジャコ バン派内部でも左派(Hebert など) と右派(Danton など)をギロチン(死 刑)にかけて排除する恐怖政治 Terreur を展開し、それを「徳なき恐 怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」として肯定した。反対派からは、当然に恐怖 政治批判がなされ、 「ルソーの血ぬられた手」 「血の独裁者」 「暴君」であるとされた。ダントンが 処刑場に引き立てられていく途中でロベスピエールの家の前を通ったとき「ロベスピエール!次は君 の番だ。」と言ったという。ルソォを崇拝した理想主義者で、革命の最高揚期(1794 年)には Etre suprême(至高の存在)への帰依を国民に説き、そのための祭典を挙行するなど自らの精神も 高揚の極みにあって、広く革命勢力の再結集を図るための多数派工作とは無縁であった。 ダントンの最後の予言は 1794 年 7 月 26 日、国民公会での演説の中で氏名を挙げずに「(諸君 の中に)粛清されなければならない議員がいる」と言った一言が少なからぬ数の議員を震え 上がらせたようだ。 翌 27 日、議場の空気は一変してロベスピエール、 その弟、サンジュスト、クートン等の逮捕が議決された。ロベスヒエールはパリ 市庁舎に逃げ込んだが抗戦叶わ ず重傷を負って(ピストル逮捕自殺 未遂説あり)逮捕され、28 日、 国民公会での死刑判決に従って 即日(他の 20 人とともに。翌日 以降の被処刑者を合わせれば 117 人) 市庁舎で撃たれるロベスピエール ギロチン台(現コンコルド広場) 執行された。それらの光景を描いた絵画を左右に掲げておく。 5-5-4 【5-5-5 シャルル・ドレストラン】 Charles Delestraint, général 1879-1945 YT-1689 パドカレ県ビアシ ュ・サ・ヴァアスト生まれの生粋の軍人、両大戦を経験し、第 1 次では 4 年間の捕虜生活を経験し、 第 2 次大戦では 1 年 10 カ月の拘禁ののちドイツのダッハウ強制収容所で連合軍による解放の数 日前処刑された。ドゴールのもとで組織された抵抗運動武装部隊《Armé Secret》の司令官で ©bibliotheca philatelica inamoto 4 ある。 1897 年サンシル陸軍士官学校入学、第 1 次大戦ではベルギーに展開していたフランスの軍団間の共 同作戦に奏功したが自らは捕虜となった。両大戦間は 順調に昇進し、メス第 3 戦車旅団長であったときには配 下にドゴール大尉がいた。ドレストランとドゴールはともにエチ エンヌ Estienne 将軍から受けた装甲車部隊の活用という 教えに忠実であった。 ドレストラン将軍は 1939 年 3 月に 60 歳で予備役となっ たが開戦によって同年 9 月現役に復帰し第 7 軍団で戦 車戦を指揮した。1942 年対独休戦を拒否し、アンリ・フルネイ(ヴィシー政府軍の高官として正規に辞 表を提出して抵抗運動に入った稀有の経歴を持つレジスタンスの英雄、1988 年没)の命で、また ジャン・ムゥラン、ドゴールの勧めで南部の武装抵抗運動をまとめる秘密軍事組織を指揮する任務に ついた。 「ヴィダル」という名の頭目は彼のことであった。1943 年 6 月パリでゲシュタポに逮捕さ れ、 「夜と霧」のシュトルートホフ(アルザス)収容所に、次いでダッハウに移されて銃殺された。戦後、レジ スタンス闘士として最高の「解放同志」Compagnon de la Libération 称号を追贈され、フランス国民 の感謝を表してパンテオンの壁にその名を掲げられた。上に掲げた切手には「われわれにとっ てはもはや、フランスの再生と解放なくして幸せはあり得ない。アルメ・スクレト」 «Il ne peut plus y avoir de bonheur pour nous sans la résurrection et la libération de la France - Armée Secrète» と記されている。5-5-5 【5-5-6 アンリ・アレクサンドル・ワロン】 Henri Alexandre Wallon 1812-1904 YT-3729 初めに 50 年 前のことから。留学時代にアンリ・ワロンが死ん だ。著名な心理学者で、ドイツ占領下に社 会党から共産党に移って抵抗運動に従事 し、解放直後のドゴール臨時政府で国民教 育相官房長を短期間務め、ドゴールが辞め てしまった後に共産党から立候補して国 民議会に当選、1 期だけだが高等教育委員 会で戦後の制度改革路線を方向付けた。 改めて調べて見ると死去したのが 83 歳であったからすでに過去 の人ではあったが、筋金入りのマルキシストだと言われていた。当時の 新聞には顔写真も出たことであろうが、記憶にない。それから 40 年余が過ぎて 2004 年に フランス郵政の切手速報を見ていたら近くアンリ・ワロンの記念切手が発行されるとあったので、迂闊 にも「なんで今頃」と考えてしまったが、これは迂闊以上に粗忽な話、切手面には《HENRI WALLON》とあるが、その両サイドに 1812-1904 と小さく記されているではないか。つまり アンリ・ワロンという人が死んで 100 年目と言うだけのことだが、少し調べて判ったのは、アンリ・ワ ©bibliotheca philatelica inamoto 5 ロンはアンリ・ワロンのお爺さんであると言うことだった。孫と混同しないようにするには、アンリ・アレ クサンドル・ワロンと呼ぶべきだが、誰もそのようには呼ばないので、ここでも単に「アンリ・ワロン」 とする。切手になったお爺さんは、ノォル・パドカレ地方の都市ヴァレンシエンヌの生まれで、職業分類 では、歴史家で政治家である。しかし、政治家として後世に名がのこる仕事は 1 つしかな い。それをここで紹介してこの項を終える。 アンリ・ワロンは高等師範学校教授からギゾの後任としてソルボンヌの歴史学の教授になった人だ。 専門はフランスの奴隷制度史で 1848 年の 2 月革命下で奴隷制廃止が決定されたことから、グアド ループ選出の議員となった。一旦は政治の場から引退したが、1871 年にノール・パドカレ県から国 民議会に選出された。彼は、第 3 共和制の憲法的法律 lois constitutionelles の 1 つである 1875 年 2 月 25 日の法律の審議過程(1 月 30 日)で 1 カ条の修正案を出した。「共和国大統領は、 元老院および代議院が合同した国民議会で、投票の多数によって選出される。大統領は、7 年を予定して任命される。大統領は、再選されること ができる。」この提案についてはかなりの戸惑いがあ ったが、可決されて、2 月 25 日の法律第 2 条と なった。これによって、 なぜ彼の名が残ったか。 彼自身が語ったところ から推測されたし。 「私 の提案は、共和国を宣 言したのではない。そ れは、共和国を創った のだ。」 第三共和国 が共和国であることの 法律文面上の根拠はここである。独自の憲法典をもつ ことなく出発したこの政治体制は、この修正提案によ って「共和国」となったというのだが、本来が王党派を自認して いたアンリ・ワロンが共和国生みの親とは、また訳が判らなくなる話で、 人間はさほど賢くもなく、周到でもないことが端なくも明らかに なった憲法史上の珍事であった。5-5-6 最後の一枚をとり出す気持ちは、沈鬱である。話は、第 1 次大 戦の最中のことだ。 【5-5-7 レオン・トリュラン】 Léon Trulin 1897-1915 YT-420 レオン・トリュ ランは、1897 年にベルギーのアト Ath で鉛管工の 7 番目の子として生ま れた。貧しい家計を助けるため 13 歳で毛皮加工業の仕事に就いた ©bibliotheca philatelica inamoto 6 が負傷し、療養中に読書で学習をした。大戦勃発(1914.7.31)の 1 年後 18 歳でイギリスに渡り ベルギー軍への編入を申し出たが顔色が悪いとして認め られず、代わりに諜報の任務を与えられて 承諾した。それ以後イギリスとフランスを往復し、 《Noël Lurtin》 ア ナ ク ゙ ラ ム (Trulin の組換え)または《Léon 143》という組織をつくっ てオランダ、ベルギーで情報収集にあたった。しかし、密告 によりドイツ警察に知られるところとなり、1915 年 10 月 3 日に逮捕された。11 月 5 日、7 人の少年について簡易軍 法会議が開かれ、トリュランを含む 3 人に死刑、3 人に 15 年 の懲役、1 人を釈放とした。2 日後、在リール独軍司令官 von Heinrich が終審として、トリュランを死刑、2 人を終身懲役、 3 人を 15 年の懲役、1 人を釈放と決した。同日午後刑の 確定がそれぞれに伝えられた。トリュランは、それを聞き、 「僕 は僕の祖国のためにそうした」と言ってから小さい手帳に 処刑公告 1915.11.8 「1915 年 11 月 7 日フランス時間 4 時 10 分。3 時 15 分に死刑判決を受ける。」と記入し、その 下に「僕は祖国のために後悔することなく死ぬ。ただ僕は罪なくしてこの運命を受ける僕 の大事な母さん、僕の兄弟と妹のことを考えてとても悲しい。」と書いた。そして、明朝ド イツ兵によって銃殺されることを知って最後の短い手紙を母親に書いた。 Je pardonne à tout le monde amis et ennemis, je fais grâce parce que l'on ne me la fait pas.Courage, chère mère courage, mes frères et vivez tous en paix et sans haine. Je meurs en bon chrétien. Léon (僕は味方も敵もみんな許す。僕は、誰も僕にそうしてくれなかったから、赦し を与える。愛する母よ勇気を持って。兄弟よ勇気を持って。そしてみんな、平和 に憎しむことなしに生きよ。僕は、よきキリスト者として死ぬ。レオン) レオン・トリュランは、11 月 8 日、城塞の掘割で銃殺された。リールの弁護士会長 Philippe Kah はそ の書物の中で彼を「(神の)栄光を担った青年」と呼んだ。5-5-7 城塞北壁の碑 ©bibliotheca philatelica inamoto リール市内の彫像 7 【5-5-8 ジャン・バティスト・ルバ】 Jean Baptiste Lebas 1875-1944 YT-1104 ルバは、ルゥベーの社 会党市長、国会議員、人民戦線内閣に入閣した政治家。ヴィシィ政府の役職に嫌気がさして、 1940 年 Le socialisme continue ! と題する宣言を発表して抵抗運動に入った。300 人の社会 党員が一気にこれに加わる。「社会党の 再建は問題ではない。社会党は解散した のではないから。」と同紙で書いている。 運動組織〈自由人〉を結成、同名の機関 紙《Homme Libre》を発刊した。同紙 はリール、ドゥエで紙数を伸ばした。1941 年、 抵抗運動に加わった社会党員を糾合す るため、社会主義者活動家委員会を設立、 これに占領地域の委員会も合流した。ル バは第 1 次大戦下でも地下活動の経験が あり、その指導のもとでノォル県の抵抗運動は全国の頂点に立った。しかし、ルバはゲシュタポに よって 1941 年 5 月 21 日に娘や姪とともに逮捕された。1941-42 年フランスやベルリンの監獄を引 き回されたのち、42 年 4 月 21 日に 4 時間にわたる尋問の末、強制労働 3 年の刑を言い渡 された。製紐工場で 11 時間半の労働を強いられ、病気と疲労によって死亡した。《自由人》 は《北の朝》、《社会民主主義新聞》などと名を変えて続けられた。遺体は 1951 年 8 月にフラ ンスに戻された。エピソードをひとつ。ルゥベーの町には「ジャン・ルバ通り」がある。1936 年に人民戦 線内閣に入るときに、 その名の 2 番目をとるように要請された。2 番目の「Baptiste」(原義 洗 礼)はあまりに教会風だから、という理由である。よって、その後はずっと"Jean Lebas"で通 したので、通りの名前からも教会色は拭いとられたのである。本人の選択によったという わけだが、それなら切手のほうはどうか。5-5-8 【5-5-9 ルネ・ボンパン】 René Bonpain 1908-43 YT-1252 ボンパンは、見て御覧のよう にカトリクの僧侶である。父親は有名な建築家で第 1 次大戦の英雄 であった。18 歳でサン・シュルピスの神学校に入り、24 歳で司祭とな り、同年ダンケルク市の隣町(現在では市に合併) のローゼンデール Rosendaël の教会で助任司祭となる。信徒に慕われ住民の間で非常に評判の良 ©bibliotheca philatelica inamoto 8 い聖職者であった。 1939 年の開戦とともに応召してエヌ県 Aisne の Seboncourt に配置されたがフランス軍の敗走によって除隊し、ダンケルクに帰 った。そして抵抗運動に参加した。ボンパンの役割は占領区 域である北仏から自由地域の中・南仏へ人と手紙を送るこ と(敵の情報を抵抗運動グループに知らせること)であった が、彼は、これをダンケルクからトゥルーズ、ラロシェル行きの石炭運搬 車両を二重底にして行った。1942 年 6 月にはイギリス諜報部 につながる最重要の情報網「アリアンス」に入った。 1942 年 11 月に地方組織の幹部が野戦秘密警察(ドイツ警 察)に逮捕されたとき、ボンパンは逃亡を拒否し無実の人た ちが人質にされることを恐れて助任司祭の館で逮捕され、 1943 年 3 月 19 日、リール市で開かれたドイツ軍法会議で死刑を 宣告された。彼は、3 月 30 日 17 時に同僚とともにボンデユーの砦 Fort Lobau de Bondues で銃 殺された。同所では 3 月 17 日以降翌年 5 月 1 日までの間に 68 人が処刑されている。ボンパ ン師の処刑はダンケルク市民に衝撃をもって伝わり、4 月 13 日に市内のサン・マルタン教会で葬儀が行 われ、ダンケルク墓地に埋葬された。ドイツ軍は、ボンパン師が助任司祭を務めたローゼンデール教会で の葬儀を禁止した。上はボンデユーの処刑場 1965 年に記念碑が設けられ、1997 年にレジスタンス 博物館が開設された。中央は、解放後追贈されたロゼット絞り付きの「レジスタンス褒章」。右は 1960.3.28 消印の初日カバー。5-5-9 【5-5-10ウジェヌ・トマ】 Eugène Thomas 1903-69 YT-1827 20世紀 にいっきょに飛ぶ。ウジェヌ・トマは、ノォル県ヴィュー・コンデVieux-Condéの 税官吏の子として生まれ、成人後は教師をしながらフランス教員組合 支部の仕事をしてきたが、1936年の選挙でSFIO(社会主義インター・フラ ンス支部)から出て当選した。開戦によって動員され、「ソムの会戦」 bataille de Sommeで捕虜となった。脱走して抵抗運動に加わり、社 会主義行動委員会を中心として抵抗組織「戦うフランス」の組織作り に従事した。1943年4月ゲシュタポによって逮捕され、フレーヌ監獄から ドイツの強制収容所Buchenwaldに送られたが、1944年4月アメリカ軍によ って解放された。戦後はしばしば入閣したが任所はほとんどが郵 政大臣ないし郵政担当国務大臣であって、フランスでは異例に属する。地方レベルではルケノワの市 長と県会議員を多年にわたって務めた。既に見たルケノワの城郭を買い取り、観光の主要な資 源としたことでも知られている。切手の初日発売は出身地Vieux-CondéとLe Quenoyの2局 で行われた。5-5-10 ©bibliotheca philatelica inamoto 9 【5-5-11 ピエール・フリムラン】 Pierre Pflimlin 1907-2000 YT-4078 ピエール・フリムランは、キリスト 教民主主義を標榜する人民共和派の政治家である。1947年の農務大臣を皮切りとして1962 年まで経済、通商、農務分野の閣僚を歴任し、第4共和制最後の首相となり、1984-87年は ヨーロッパ議会議長を務め、1959-83年の24年間ストラスブ ール市長であった、という経歴の持ち主である。フラン スでは左右勢力の間で政権の交代や組替えを繰り 返してきたが、人民共和派は多くの場合中間勢力 であって相対的には安定的方向で働く緩衝材ない し接着剤の役割を果たした。フリムランはいわばその中 枢的位置にあった政治家で、第4共和制の崩壊は阻 止できなかったが、ア ルジェ問題で軍の蜂 起・内戦状態を引き起 こさずドゴールへの政 権移譲(第5共和制へ の移行)を実現した役 割は余人をもっては代えられないところであった。政治家とし ての晩年、反ヨーロッパ的な体質のドゴールとは不則不離の位置取り でヨーロッパ諸国とフランスを繋ぐ役割を果たしたことも重要であっ て、ヨーロッパ議会議長は彼にとっては名誉職的地位でありながら もそれまで果たしてきた役割を顕彰するにふさわしいものであった。ストラスブールとは地縁的 に最も深いつながりがある政治家だが、ここでは生地がノォル県ルゥベーRoubaixであることから、 ノォルーパドカレ人としてここに掲げることとした。5-4-9 ©bibliotheca philatelica inamoto 10