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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅

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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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[書評] 中里見敬「中國小說の物語論的硏究」
金, 文京
中國文學報 (1998), 56: 147-157
1998-04
https://doi.org/10.14989/177811
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
書
評
一九 九 六年九 月
中里見敬 ﹃
中囲小説 の物語論的研究﹄
汲古 書院
本文 二 二三頁 索 引 二六頁
中文提要 八頁
た こと への不満 があ ったと推察 され る。膏 際'中囲 語は表
現形態 の幅 のき わめ て廉 い、したが って多様 な文髄的試 み
を許容 でき る言語 であ- '中囲文学 史と は'言語表 現あ る
いは文健 の愛 遷史 のこと であ ると い っても過 言 ではな いの
であ る。 これま で特 に日本 の学 界が この鮎 に十分な配慮を
はら ってこなか ったと考え る評者 にと って'著者 の問題意
には朕 や史侍 など 一部 の古典文筆をも 分析 の封象と し てお
基本 原理」' そ の理論 によ って小説 および版 や白棒 など の
全書は'物語論 の歴史と 理論を要約した序章 「
物語論 の
識は全 面的 に共感 でき るも のであり '本書 の斬新さは'西
- '物語論的な方法 の導 入 によ って'中歯文学全髄 に新た
中囲 小説 の物語論的研 究」'
古典文学 作 品を 分析 したⅠ 「
本書 は、ジ エラール ∴ンユネ ッI に代表 され る フラ ンス
な視野を 開 こうと いう のが著者 の最終的な意園 であ ろう 。
Ⅰ で封象 とな った作品 の 一部 であ る 「六十家小説」 に つい
欧 理論 の摩 用よ-も 'むし ろこ の鮎 にこそあ ると さえ 思え
著者 が数あ る現代欧米 の文筆 理論 の中 で特 に物語論を選
て考謹 したⅡ 「六十家 小説 の成 立 に関す る研究」'中園 で
の物語論的 テキ スト分析を 中国文学 に全 面的 に鷹 用した野
拝 した のは' この理論がす でに欧 米 にお いて'さまざ まな
の物語論的研究 に封す る批評 であ るⅢ 「
中国 におけ る物語
る のであ る。
最新 の議論 の前 提ともな る古典的 地位を獲得 し て いる のに
論研究」 から成 る。本書 に ついては'す でに大木康氏 の書
心的な試み であ る。題には 「
中国小説 の」とあ るが'賓 際
加え て'従来 の中囲 小説 ' いや中囲文学全健 の研究が、 や
評 (
﹃
東方﹄ l九 1壊
l九九 七年 二月 東方書店)および そ の
やもす れば作品 の内容 や作者 の思想へ経歴 のみに偏り'言
一部 に ついて初出段階 で書かれた鈴木 陽 一氏 の批評 「
小説
評
語あ る いは贋 い意味 での文髄 への考察を お ろそか にし てき
書
1
4
7
中国 文筆 報
第 五十 六冊
す なわ ち過去 の出来 事 を 語-手 が明示 されな いかたち で客
西洋 の言語 にお いては ' こ の両者 の間 に時制 や指 示 子など
研 究 の方 法 を も と め て- 中 里見 論 文 を 許 す 」 (
r
中隊古典小
まず 序章 では '物 語論 の代表者 であ るジ ュネ ッー の理論
明 確な 使 いわけ が見 ら れ る。 これ に射 し てジ ュネ ット のイ
観 的 に叙 述す る のがイ スト ワー ルであり '語-手 が聞き 手
が' それ以前 の言語学者 ' ソシ ュールと バ ンヴ ェニスI の
スト ワー ルは '物語 の封象 とな る出来事 、 つま-物 語内容
l九九三年)があ る. 以 下そ れ ら を ふま
研 究を ふまえ て生 れた こと が述 べられ る。す な わち 言語 の
のこと であ - 'それ が語 ら れ る こと (
物語行為)によ って、
説研究動態﹄ 六鍍
二面性 にかかわ る 二 つの理論 ' ソシ ュー ル のシ ニフィア ン
物 語言説す な わち テキ スト にな ると さ れ る。 した が ってジ
に語 るよう な かたち で述 べられ る のが デイ スク ー ルであ る。
(
記競表現)/ シ ニフ ィ エ (
記競内容)と ' バ ンヴ ェニスI
え たう え で'評者 なり の紹介 と 批評を 行 な いた い。
によ るイ スト ワー ル/ デイ スク ー ルを掛 け合 わ せたと ころ
讃 者 に誤解を あ たえ る可能性 があ る。特 に問題な のは 、イ
とす る のであ る。 しかし こ の要 約 は'あ まり に簡略すぎ て
シ)/ 物 語 行為 (
ナラシオン)と いう 三分法 の概 念 が 生 れた
と す る鮎 にあ った 。 そ のこと は'本書 でも たびた び引 用さ
は語-手 が お- 、廉 い意 味 で のデイ スク ールに他な らな い
は ' バ ンヴ ェニスト がイ スト ワー ルと 見な したも のにも賓
評者 の理解 によれば 'そも そも ジ ュネ ッI の理論 の特徴
し
ュネ ット の いう イ ス- ワ- ルは テキ スト の表 現形式 ではな
ヽ0
スト ワー ルと いう 言葉が ' バ ンヴ ェニスーと ジ ュネ ット で
o
u
r
s
れ るジ ュネ ット の主 著 が ﹃
物 語 のデイ スク ー ル﹄ (
Dwc
レ
に'ジ ュネ ット の物 語内 容 (
イス-ワ-ル)/ 物 語 言 説 (
は 別 の意 味 に用 いら れ て いる こと に野 す る言 及がな いこと
ュネ ットは バ ンヴ ェニスト のイ スト ワー ル/ デイ ス
d
ur
e
'C2t)と いう 題 であ る こと に端 的 に示 され てお- 、 そ の
ジ
ク ー ル に ふれ て' 「
イ ス- ワ- ルは何 ら か のデイ スク ー ル
中で
であ る。
バ ンヴ ェニスI にと って'イ スト ワー ル/ デイ スク ール
と は' いわば テキ スト におけ る言語表 現 の相違 であ った 。
1
48
の部分を含まざ るをえな い」 (
花輪光 ・和泉涼謬 ﹃
物語のデイ
われるもの)の二 つの作品を例 に'地 の文と セリ フで の時
日本 語詩 でも バ ンヴ ェニスI の 「
イ スー ワ- ル/ デイ ス
ここで述 べられ て いることは要す るに'セリ フでは 「
昨
ワールは、言うま でもな- バンヴ ェニスト の概念 であ る。
間指示子が分析される。 この場合 のデイ スクール/イ スト
クール」 は'「
歴史/話」と詳 され てお-'ジ ュネ ッー の
日/今 日/明日」となるのが'地 の文 では 「
前 日/昔 日/
一九 八五 二四九頁)と述 べて いる。
物語内容」 であ るのと明確 に遍別されて
イ スト ワールが 「
次 日」となること'そしてセリ フはデイ スクールで'地 の
スクール﹄書韓風の蓄蔵
いるのであ る。
が地 の文 で 「
そ の日」となる (
その日'「
今日はよい天気だ」
文はイ スト ワールだと いう こと であ る。セリ フの 「
今 日」
賓 際 にはバンヴ ェニスト の理論をも用 いて いる。にもかか
と彼は言 った)
'これは いわば昔-前 のこと であ る。問題は
ッIを物語論 の代表者とし つつも 、
わらず両者 のこの重要な相違 に ついての説明がな いため'
それを デイ スクール/イ スト ワールとあえ て言 い換え るこ
本書 で著者は'ジ ュネ
讃者 に混乱をあたえ ている のであ る。本書 の讃者は'評者
と によ ってど んな新し い馨兄がある のか であ ろう。
問題 の焦鮎は、セリ フの 「
今 日」が地 の文 で 「
そ の日」
をも含めこのような西欧 の文筆 理論 にはうと い者が大部分
であることは線想されたはず であ る。この鮎 にはよ-行き
イ ス- ワ-ルを見分ける指標となるのは'時間などを示す
動詞の時制愛化 のな い中国語 にお いて'デイ スクール/
「
き のう」 であ ると同時 に 「
前 の日」 であ-'「
明 日」 は
セリ フと地 の文 の双方 に現われる のであ って、「
昨 日」 は
な いと いうと ころにあ る。 つま- 「
昨 日」と 「
明 日」は'
となると いう昔-前 のことが'中囲語 では章 は昔-薪 では
中国小説 の物語論的研究」
指示子 のみであ る。そこでⅠ 「
「
あした」 であると同時に 「
翌 日」 にもなると いう'西洋
届 いた解説が望まれたであ ろう。
第 一章 「
中国 語 テキ スト におけ るデイ スクール/イ スー
の言語 ではあ-えな い現象が中囲語 には見られるのである。
評
六十家小説」 (
ふつう 「
清平山堂話本」と言
ワ-ル」 では'「
書
1
49
中 国 文筆 報
第 五十 六 冊
た)に意味が髪化 し てお-'白話小説 には両者 の性質が反
ル (
翌日)であ った のが'現代語 では デイ スクール (
あし
まず 「
明 日」 に ついては、 ﹃
史記﹄ など ではイ スト ワー
由来す る」、と述 べられる。しかし自分 の理論 に合わな い
(
前の日)になる のは'「
白話小説 の書面語としての未熟 に
し てデイ スクール (
きのう)であり、それがイ スト ワール
次に 「
昨 日」 に ついては、﹃
史記﹄ から現代語ま で 一貫
をわざわざイ スト ワール/ デイ スクールと言 い換えた のな
映し て いる、と説明され る。しかしこれ では'「
明 日」 に
からと い って、相手を未熟と決め付ける のはどう であ ろう
著者は '物語論 の中国小説 への運用が'西洋 の文学 理論 の
二 つの意味があ るのは歴史的 に二 つの意味があ ったからだ
か。およそ理論と いうも のは'たとえ封象が未熟 であ って
ら'それを手がか- に'ジ ュネ ッ- のいうイ ス- ワ-ルに
と言 って いる にすぎず'答 にな って いな い。「
明 日」 以外
も、そこに潜在する構造を分析し てみせ てこそはじめ て理
たんなる皮相な移入 ではな-、 一般理論 へのフィードバ ッ
にも 「
旦 日」 「
来 日」など、中国語 には適時的、共時的 に
論と いえよう。成熟した野象は分析 でき るが'未熟なも の
潜む デイ スクール的なも の、あ る いは時制賛化 のな い中国
この二 つの意味を兼ね る場合 が少な-な い。「
旦 日」 に つ
は できな いと いう ことは'理論が未熟だと いう こと に他な
クになるよう心がけたと冒頭で述 べているが'このような
いて'著者は 「
イ スト ワール/ デイ スクールに非開輿的」
らな い。まして著者は'後 の章 で'魯迅 の作品 「
社戯」 の
語 での両者 の直別 の暖昧さなど'分析を深めることは可能
と述 べるが'これも説明したこと にはならな いであ ろう。
中で 「
昨夜」がイ スト ワールにお いて用 いられた例を挙げ
中囲語に特殊な例 の分析 こそはそ の絶好 のチ ャンスであ ろ
ここでは 「
明 日」など にはたして二 つの意味がある のか'
て'「
作中人物が物語内容 の世界から直接語-かけ て いる
であ ったと思え る。
それとも 一つの語 で二 つの状況 に野歴 でき るのかが'まず
ような効果がみられる」と分析して いるのであ る (
七二頁)
。
う 。著者 の答は こう であ る。
吟味されねばならな い。地 の文/ セリ フと いう自明 の言葉
1
5
0
ある のだ ろうか。 では白話小説よ-さら に早 い次 の例など
魯迅 の小説 では 「
効果」 であ-'白話小説 では 「
未熟」 で
種とす べき であ ろう。「
前 置的」とは'ジ ュネ ット の定義
て 「
前置的」と言 い換え ているが'むしろ 「
先説法」 の l
の提示」 がそれに普 たる。著者はこれをジ ュネ ッー によ っ
にて)のよう な場合' 「
這」と いう指 示子 によ って'物語
次 に後者 に ついて'「
去逮 東京汗 梁城」 (
この東京汚染城
ら である。
し てお-'たんに結末が先回りし て語られるにすぎな いか
るが'この場合へ結末は明らかに語- の時鮎 より過去 に属
では'語- の時鮎から見 て未来 のことが語られること であ
はどう であ ろう。敦燈 の 「
王昭君壁文」に以下 の個所があ る。
〇 四頁)
- 一
従相磯 巳来、明妃漸困'麿為 異物'多 不成人。
- 中略昭君略磯 子時亡 '突飲倒酬馨使忙。
I 中略丁
里子戴 釧親臨突 、寓 里飛書奏漠王。
(
﹃
敦塩撃文集﹄ 一〇 三
家小説」を 例 に' 「
物語内 容 に関連す るデイ スクール」と
第 二章 「
話本小説における物語行為」 では'まず 「
六十
時間軸 の樽換と'少な-とも表面的 には似 て いるであ ろう。
い換えられる状況は'魯迅 の小説 に ついて著者が指摘す る
ルに用 いられる例 であるが'そ の 「
今朝」が 「
是 日」 に言
著者がこれらを直示的用法 であると断定する最大 の理由は'
るうえ'用例が少な い」 (一七頁)とし て答を留保して いる。
「
這 に文販指 示的 用法 (
そこ)と直 示的 用法 (
ここ)があ
批判があ る。しかし著者はこの批判 に言及はし ているが'
事案 を物語行為 の空間に提示するだけ の機能 であ る」と の
薯 はこの鮎 に ついては鈴木陽 一氏 の 「
這は単 に歴史化した
内容 の地鮎と物語行為 の地熱が l致す ることが指摘される。
「
物語行為 に関連す るデイ スクール」が検討される。前者
これら の地名がみな物語 の冒頭にあ って'文脈指示的用法
「
昨夜 ・今朝」 は'著者 のいう封比的用法がイ スー ワ-
は いわゆる語-手 の介入 であり、たとえば主人公が 「こう
とは見なせな いと いう鮎 にある。しかしこの場合 の 「
這」
評
したばかり に'しかじか の結果をむかえた」と いう 「
端緒
書
- 1
51-
第 五十六冊
請-手と聞き手がテキ スI の内部 に設定され ていることは'
中国 文筆 報
を 「(
あのみながよ-知 っている)東京汗梁城」と いう ような
周知 の事賓 であ ろう。そ のような場合、 これを'
テキ スト外 の語-辛 (
作者)が ︻テキ スト内 の語-辛
非明示的な文脆指示と取ることは'なお可能 であ ろう。白
話小説 ではな いが'F
董西府﹄ の物語開始部分は'「
此本話
と園式化することが可能 であ ろう。 この鮎はジ ュネ ット
(
説話人)が ︻物語内容 ∪ を テキ スト内 の聞き手 に語
これに つづ-部分へ特 に ﹃
豆棚閑話﹄ の枠物語的構造 に
の理論をどう 理解す るか にもよるが、 いずれ にせよ話本 の
説'唐時通園書生」とな ってお-、この場合 の 「
這箇」 は
ついての分析は'鈴木氏もす でに認めたよう にきわめ て精
本質 にかかわる問題 であ ると思え る。もし評者 のような理
る︼を語る
彩 に富み'示唆的 である。 ここでは 一つだけ問題を提起 し
解が可能 であれば'それは ﹃
豆棚閑話﹄など の枠物語だけ
鈴木氏 のよう に解碍するしかな いよう に思え る。
ておきた い。著者は、話本 や擬話本など説話人 の口吻 で語
でな-'語-手'聞き手がテキ スト内部 に いる賦などとも
第三章 「
魯迅 F
傷逝﹄ に至る回想形式 の軌跡」は'これ
論 の廉ま-が期待 でき る のではな いだ ろうか。
にせよ魯迅など の近代小説とも 一服通じること にな-'議
共通鮎 が見出され、また異質物語t等質物語 の違 いはある
られた物語は'
語-手が ︻物語内容︼を語る
と いう圏式 であ る のに射 し て、﹃
豆棚閑話﹄など の枠物
-、
事 ]ま
壬]
ロ・
・
・
・
・
-
第 一次 語-手 が ︻第 二次 語-手 が ︻物語内 容︼を 語
と ころに特色があ るtとす る。 つま-著者 によれば'説
って新たな見方を示したも ので、著者 の本領が尊揮された
の小説 に'物語論 による語-手 の硯鮎を導入す ること によ
ま で内容 や作者 の思想、経歴などから解稗されてき た魯迅
話人は物語 の外部 に いる のであ る。しかし話本 や擬話本 で
部分と言えよう。しかしここでも 一つ気 になる鮎がある。
る︼を語る
は'しば しば 「
説話的」云 々など の語-手 の介入によ って、
I
5
_
'
)
由 間接話法」 に ついては ウ ェイ ルズ の説を引用す る。「
作
では 「
作中人物が語り手を代行す る」としたうえ で、「
自
右 のジ ュネ
ッI の説明 にはま った-言及せず、魯迅 の作品
的言説」 (
内的濁白)は別 のも のであるOと ころが著者は'
すなわち ジ ュネ ット によれば'「
自由 間接話法」と 「
直接
。
請-手 に取 って代わる」と述 べている (
二o二-二〇三頁)
け る」 のに野 し て'「
直接的言説」 では 「
作中人物 の方が
「
自由間接話法」 では 「
語-手が作中人物 の言説を引き受
よばれるが'ジ ュネ ッ-は適切でな いとする)と 比較 し て'
れを ジ ョイ スなど の 「
直接的言説」 (
通常は 「
内的猫白」と
ついてジ ュネ ットは'﹃
物語 のデイ スクール﹄ の中 で'そ
と いう概念を 用 いて いること であ る。「
自由 間接話法」 に
れがジ ュネ ット の理論 の精髄 であ るにせよ'やは-分析を
しかし著者 のよう に 「
態」 の部分 のみに執着する のは'そ
-'ばらばらな分析 に終始する」と注意を喚起 して いる。
にすると'個 々の概念 の物語全健 に占める位置が不明 にな
のを 不満と Lt「
ジ ュネ ット理論 の基本 の把握を お ろそか
績'頻度)と 「
叙 法」 のみをあ っか い 「
態」 に言及しな い
時間」 (
順序、持
した個所 で'著者は陳氏がジ ュネ ット の 「
中国小説叙事模式的韓撃﹄を批判
い。そしてⅢの陳平原 F
「
態」 の部分に集中し てお-、他 の章 への言及は 一つもな
語 論 研 究」 を 除 いて' 「
序」 と 語 り 手 の問 題を あ つかう
この書 に ついての著者 の引用は'賓 はⅢ 「
中国 における物
「
順序」 「
持績」 「
頻度」「
叙法」「
態」 の各章からなるが'
ジ ュネ ット の ﹃
物語 のデイ スクール﹄ は、 「
序」 および
及し て いな いのか'不可解 であ る。
中 人物が語-手 を代行す る」 のは'ジ ュネ ッI によ れば
偏 ったも のにし て いな いか危倶され る のであ る。「
時間」
それは著者 が分析 に際し て'「
濁自」と 「
自由 間接話法」
「
直接的言説」 であ るから'著者 の説明はジ ュネ ッー の説
や 「
叙法」 の概念をも導入して いれば'本書 の分析はより
なお著者がここで 「
自由間接話法」と いう言葉を用 いる
豊かなも のとな った であ ろう。
と異な る こと にな るが'著者 はさら にシ ュタ ン ツ エル の
「
語り手 の作中人物化」を紹介し ており'議論が混乱 して
評
いる。 いずれにせよここで著者がなぜジ ュネ ッI の説 に言
書
1
5
3
中国文筆報 第 五十六筋
こと にも 問題がな いではな い。著者が 「
自由間接話法」と
よ ぶ のは、
であ る。
第 四章 「
中国文筆 におけ る物語行為 の諸相」 は'鹿と自
よう な場合 であ る。 しか し これは、 (
私は そ のとき --と
る。また 「
史侍」 の博続と 「
詩騒」 の俸 続と いう巨 視的な
川合康 三氏 の ﹃
中国 の自博文撃﹄を 補 いう る議論が見られ
博 に ついて物語論を療 用したも ので'魯迅 の小説 の場合と
思 った) のよう に間接話法とも考え られ るが'また (
私は
捉え方 は'著者 の問題意識が中囲文学史全般 におよ んで い
「
人力車 がひ っ--返 った のではな いだ ろう か。電車
そ のとき 「
--」 と思 った) のよう に直接話法とも 解しう
る ことを 示すも のであ ろう 。ただ ここでも著者 は'語-辛
同じ-'従来 の方法 では見えなか った側面をあらた に開示
る。 つま - 時 制愛 化 のな い中図 譜 では (
この場合は日本語
の問題 のみ に議論を 限定 し て いるため'親 におけ る韻文と
にひかれた のではな いだ ろう か」と いう作中人物 の想念
ち)
'主 語 が 1人稀 の時 は'も と の文 が間 接 話 法な のか直
散文など表 現形式 の相違 にま で論 がおよんで いな いのは残
した鮎 で貴重 であ る。朕 に ついて'語-手 の審級を手 がか
接話法 な のかを 決 め ること は でき な いのであ って' 「
自由
念 であ る。唯 1'自 撰墓誌銘 の誌と銘 の性格 の違 いを論じ
が' 「
私 は そ のとき --と 思 った」 のよう な博 達 部 (
先
間接話法」と いう 用語は適 切 ではな いであ ろう 。時制愛化
た部分は、表現形式 に関連 し て いる。将来 こ のよう な方法
- にあ らたな分類 に成功した鮎 は大きな貢献 であ- 、自博
のは っき- し て いる西洋 の言語 では このよう な唆昧さは起
は'たとえば詩 におけ る語-手 の問題 や説唱文学 におけ る
行詞)に導 か れる ことな-' つまり 語-手 によ る媒介 を
こ-え な い。 この鮎を無税 し て 「
自由間接話法」と いう概
韻文と散文 の関係など'さまざまな分野 に鷹 用されること
に ついての著者 の分析 には'本書 の約半 年前 に利行された
念を無批判 に導 入した のは、 これが中歯 語から 一般理論 へ
が望ま れる であ ろう 。
経 ること な-' いき な- 現れ て いる (
七七頁)
の フィード バ ック の好材料 であ ったと 思え るだけ に'残念
1
5
4
す-な-とも原刊本 に 「
六十家小説」が見えな いことは'
またこれに関連す る 「
六家小説」 の語は'願修 ﹃
嚢刻書
Ⅱ 「六十家小説 の成立に関す る研究」 で述 べられ ている
本類は'従来 一部 の研究者が主張したような宋元請本日憶
目初編﹄ に見え るが'今度は 「六十家小説」とは逆 にへそ
標鮎本とそ の校記を見ればすぐ分か ったはず であ ろう。
ではな-'明代 に清平山堂が利行したも のであること'第
の原刊本 には見え'後 の増補本 ではかえ って消え て いる。
のはへまず第 1に'明代 の F
賓文堂書目﹄ に収められた話
二に、清平山堂が刊行した のは いわゆる 「
六十家小説」 で
しかも 「六十家小説」 に ついての著者 の言 い分を認める
この鮎 は'事賓 のみ注記され ているが'もう少し詳し い言
第 一の鮎 に ついてはおそら-異論はな いであ ろう 。第 二
とし ても'それは 「六十家小説」が明代 のも のだと いう こ
あ って' そ れは ﹃
賓 文堂書 目﹄ や熊 龍峯利 の小説 四種'
の鮎は'仮説とし ては成立す ると思え るが'そ の考譜 の過
と であ-'宋 元代 に話本がなか ったと いう こと (
それ自慢
及が必要 であ ったろう。 いずれにせよ 「
六十家小説」が明
程 にはなお不備が目立 つ。まず 「
六十家小説」と いう名稀
を否定しているのではない)とは'少な-とも論 理的 には別
﹃二三口
﹄さら に ﹃
也是園書目﹄などからほぼ完全 に復元で
は'﹃
西湖遊覧 志﹄ にのみ見え る のだ が、賓 は明代嘉靖年
の問題 である。 にもかかわらず第三 の鮎 では、それが 一般
代 の資料 に見えな い以上'この名稀は留保を つけ て用 いる
間 のそ の原刊本 にはこの言葉はな いのであり'晴代 の光緒
化され いきなり前撞とな ってお-'論理の飛躍を感じさせ
き ること'第 三に'話本小説と白話文が成立した のは宋代
刊本 ではじめて現れる。そしてそ のもとづ-と ころは'お
る。著者も述 べるよう に'清平山堂刊行とされる小説 の中
のが現段階 では適昔 であ る。
そら-康 興年 間 の槍補本 の序文 にみえ る 「
西 湖 六十家 小
には'明らかに版式 の異なるも の'それ以前 の版本 の存在
ではありえな いと いう こと である。
説」 であ った (
この鮎は大塚秀高氏のご教示による)
。と ころ
を務想させるも のがあ-、また形式的言語的 にも白話小説
評
が著者はこの重大な事賓 にま った- ふれ ていな いのであ る。
書
J
J
J
は'本書とは別途 に詳 し-議論 し てほしか ったと いう感想
第 五十 六 冊
だけ ではな-文 言 や説唱系統 のも のも含まれ多様な形態を
は'おそら-評者だ け のも のではな いであ ろう 。
中国文筆 報
しめし て いる (
白亜仁 「
新見 ︽六十家小説︾侠文」﹃
文献﹄七十
学 的研究」と稀す るのは適 切 でな い。目録撃 は書物 の分類
なお第 一'第 二の鮎 におけ る 一連 の考葦を著者 が 「
目録
書 の研究 が'中国小説 の分析を通じ て 一般 理論 へのフィー
はそ の趣旨 が理解 でき な いよう にな って いる。著者 は'本
き 作品 の引用 の講 がな いため、中国語 の分からな い讃者 に
最後 にもう ひと つだけ 不満を述 べた い。本書 では'呂叔
と そ の背 景 にあ る文化 の健系を研究す る筆 問 であ- '著者
ド バ ックをも はか るも のだと述 べて いる以上'本書が ヨー
五期に紹介されているのも文言である)
。同じ結論 にたど- つ
の方法は書誌的研究と でも呼 ぶ べきも のであ る。たとえば
ロ ッパ文学 の研究者 をも含むよ-廉 い盾 の謹者 によ って検
湘 の論文 の引用など 一部 の例外を のぞ いて'中囲語 の原文
﹃
賓文堂書 目﹄ で話本が著録 された 「
子雑類」とは いかな
討 されることを望 ん で いるはず であ るが' これ ではそ の目
- にし ても ' これら の鮎を視野 に入れたうえ で' こ の間題
る概念か'と いう のが目録撃的研究 であ ろう 。 この黙あえ
的は達 せられな いであ ろう 。 こ の書評は首 初'評者と文学
に部課 がほと んど ついて いな い。特 に議論 の根擦と なる べ
て苦言を呈す る のは'中国撃 の基礎とも いう べき 目録撃 '
理論 の専 門家が共同 でお こなう計量 であ ったが、それが賓
はもう少 しじ っ--と論じ てほしか った。
書誌学 に封す る関心と知識が若 い世代 の研究者 の間 で急速
現しなか った のは'おも にこ の鮎 に原因があ る。著者だけ
でな-'今後 このような研究を めざす者 は'是非他 分野 の
に衰え て いると感ず るから に他ならな い。
そも そも この 「
六十家小説」 に関す る研究は'本書 の主
以上、批判ば かり に終始した感もあ るが'膏 のと ころ評
謹者 にも 理解されるよう 配慮 し てほし い。
中国小説 の物語論的研究」 が本書 の題名 そ のも ので
はⅠ 「
者 は'本書 によ って物語論 の理論 に鯛 れ得た ことを著者 に
題 であ る物語論と は直接 の関係がな いのであ-'そ のこと
あ る鮎 に端的 にあ らわ れ て いる。「六十家 小説」 に ついて
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感謝 し て いる。物 語論 の導 入 は'中囲 文学 のあ ら ゆる分 野
にお いて間違 いな-あ ら たな地平を 切り 開-契機と な る で
あ ろう 。 そ のこと は著 者自 身 がも っとも 深- 理解 し て いる
はず であ る。本書 は若 い著者 にと っては研究 の出費鮎 であ
る。著者 が今後 た ゆまず 研鐙 の歩 みを進 め る こと によ って'
(
京都大学
金
文京)
やが て来 る べき あ らた な る地平 への最初 の到達者 と な る こ
評
とを 念 願 し てやま な い。
書
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