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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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中国古代王権と祭祀( Abstract_要旨 )
岡村, 秀典
Kyoto University (京都大学)
2005-11-24
http://hdl.handle.net/2433/144363
Right
Type
Textversion
Thesis or Dissertation
none
Kyoto University
【735】
おか
氏
名
むら
ひで
のり
岡 村 秀 典
学位(専攻分野)
博 士(文 学)
学位記番号
論文博第 495 号
学位授与の日付
平成17年11月 24 日
学位授与の要件
学位規則第 4 条第 2 項該当
学位論文題目
中国古代王権と祭祀
(主 査)
論文調査委員 教 授 上原 真 人 教 授 吉 本道 雅 助教授 吉 井秀夫
論 文 内 容 の 要 旨
国家形成を主題とする現在の中国考古学には2つの潮流がある。一つは古史研究としての文化史考古学で,地域ごとに文
化編年を組み立て,古典籍にみる夏・股・周をはじめとする王朝や民族に当てはめて,王朝交替などの事件史を復元する伝
統的手法である。もう一つは,欧米流の社会理論を適用する手法で,1970年代まではマルクス主義の発展段階論が基本法則
とされ,1980年代以降は,人類学の新進化論が用いられるようになった。後者は,前者が奴隷制社会とみなしていた股周時
代(紀元前2∼前1千年紀)を初期国家ととらえなおし,龍山時代(前3千年紀)の箇邦(首長制)社会からの発展に着目
する。
本論文は,その社会理論を参考としつつ,国家形成期の王権と祭示巳について考察する。とくに,近年のめざましい動物考
古学の成果をもとに,古典籍と出土文字資料を援用して,新しい考古学の地平を開く。すなわち,従来の古史研究は「い
つ」「どこで」という問題関心から史書をおもに用いたが,本論文では,儒教経典の『周礼』『礼記』『儀礼』などの礼書を
おもに用いる。いずれも,戦国時代から前漠代に編纂され,儒教の国教化とともに2000年以上にわたり,為政者たちが国家
の典範とみなしてきた「礼」の経典である。あえて為政者の国家観に立つことにより,考古資料には現われにくい権力構造
を読みとり,甲骨・金文などの出土文字資料を含めた考古資料によって,それを時空間の座標に正しく位置づけようとする
試みである。
*
新中国の考古学は,久しく文化編年に偏っていたため,動物考古学の研究はきわめて低調であった。1980年代に始ったそ
の研究も,ほとんどが新石器時代に偏っていた。しだいにブタの比重が高まり,前3千年紀には社会の複雑さをうかがわせ
るブタ下顎骨の副葬が認められるものの,肉消費における集落間の格差は小さく,農耕文化の一面を明らかにするにとどま
った。社会進化をめぐる動物考古学の議論は,国家以前の段階で足踏みしていたのである。しかも,出土動物骨から消費の
実態が明らかにできても,考古学で飼養の場が遺構として発見しにくいため,畜産について検討されることもほとんどなか
った。
ところが股周時代に目を向けると,ブタ優位型でほぼ斉一化していた新石器時代の消費パターンが,大きく変容している
ことに気づく。
第1に,前2千年紀に,地域ごとの多様性が顕著になる。黄河中下流域の農耕集落では,新石器時代からのブタ優位型が
そのまま継続するが,黄河上流域の黄土高原地帯では,気候の寒冷化による草原環境の変化にともなって,ヒツジ優位型の
牧畜が成立する。前2千年紀前半までは,雑穀農耕も並行して行なわれていたが,前2千年紀後半には農耕とブタの飼養を
放棄し,ほぼ完全に牧畜経済に移行した。一方,ブタの飼料は人の食料と重なるため,集約的な水稲農業の長江流域では,
畜産の負担を軽減し,恵まれた森林や河川の自然資源に依存するシカ優位型の肉消費に転換した。このような動物利用の地
域性は『周礼』職方氏の記述からも裏付けられる。
第2に,黄河中下流域では,都市と農村との分化が顕著になる。ゴミ坑や文化層から出土した動物骨の比率を遣址ごとに
−1736−
みると,前2∼前1千年紀の河南省畠角樹遺址,北京市鎮江営・塔照遺址,山東省平家城遺址,同西呉寺遺址の4遣址は近
似した動物骨構成比を示し,ブタは30%あまり,シカを主とする野生動物は40%前後を占める。ブタとシカとが括抗する状
況は,新石器時代の農耕村落と同じであり,なお狩猟に大きく依存していたのである。ヒツジがほとんど用いられていない
ことも特徴のひとつにあげられる。これに対して股の王都では,家畜の比率がきわめて高い。股前期の王都である河南省二
里同道址と段後期の王都である河南省股墟甫固北地道址の動物骨構成比をみると,ウシは57∼65%,ブタは15∼17%,ヒツ
ジはともに9%,シカは5∼6%と近似する。しかも,両道址とも1500点を超える骨の破片が出土し,新石器時代や同時代
の村落とは比べものにならないほどウシを主とする多数の家畜が消費されていた。ブタの飼養とシカの狩猟とで,主たる食
肉をまかなっていた農耕社会が,新石器時代より普遍的に広がっているなかで,股代にウシをおもに消費するウシ優位型の
王都が出現したのである。
股代に大きな変革があったことは,神意を占うト骨や祭祀儀礼の犠牲骨からも裏付けられる。神と人とを媒介するト骨に
は,もっとも価値の高し1動物の肩肝骨がとくに選別された。新石器時代から前2千年紀前半の二里頭時代まではヒツジヤプ
タが多かったのに,股前期には一転してウシがおもに用いられるようになる。それと同時に,ト骨の数が桁違いに激増する。
股前期の二里同道址では,1952∼53年の2年間に787点のト骨が出土し,そのうちウシは88%を占めている。さらに股後期
になると,1991年までの42年間に股墟から出土したト骨は,11,579点におよび,そのほとんどがウシであったという。股墟
の宮殿区にある花園荘南地道址では,ト骨用の肩肝骨を採取した後に,不用の骨を廃棄したと考えられる坑が発見され,30
万点近い骨の98%以上がウシであった。肩肝骨は1頭の動物につき左右の2点しか採取できないから,じつに膨大な数のウ
シが王朝儀礼のために殺されたのである。また,坑に犠牲を埋める祭祀は,新石器時代にはじまるが,二里頭時代以前に優
位であったブタやイヌは,股代とそれ以後の大規模な王朝祭示巳の遺址きわめて少なくなり,かわってウシ・ヒツジ・ウマと
人が多く用いられるようになる。
雑食性のブタとイヌは,年2回の出産が可能で,1回に数頭から10頭近い子を産むのに対して,草食性のウシ・ヒツジ・
ウマは年1回の単胎が普通である。もし資本財としての利用がなく,ただ屠殺して消費するのであれば,ブタは経済効率が
もっとも高く,これに比べて大家畜のウシとウマは経済効率が著しく劣る。しかも,ブタとイヌは食性が広いので飼いやす
く,農耕の副業として集落内で小規模な畜産が可能である。新石器時代から股周時代の農村において,ブタが優位にあり,
今日までブタが中華料理の中心的な食材になっているのは,中国の農耕社会に自給自足的なブタの畜産がもっとも適応して
いたからである。反対に,草食動物のウシ・ヒツジ・ウマの飼養には,越冬用の飼料を大量に確保する必要があり,広い牧
草地をかかえた専業的な牧畜経営のほうが適応している。股周時代の王や諸侯が,経済効率の悪いウシやウマをとくに選ん
で惜しげもなく消費したのは,それを可能にする大規模な牧場経営が始まっていたからにほかならない。
*
礼書にみえる礼の基本理念の一つに,圭一諸侯一卿・大夫一士という身分秩序がある。また,祭祀儀礼の犠牲には,牛・
羊・家がおもに用いられ,その三種を併用した「大牢」,羊・家の二種を併用した「少牢」,家だけを用いた「饅食」または
「特家(特牲)」という階梯が設けられた。王と諸侯は大牢,大夫は少牢,士は特家を用いたというから,犠牲は社会身分に
相応して牛一羊一家の序列があったことになる。このような礼書にみえる社会身分や犠牲の序列は,はたして実在したのだ
ろうか。
股後期から西周時代にかけて,ウシ・ヒツジ・ブタの前肢を墓に副葬する風習がある。股後期の貴族墓地である河南省股
墟西区を例に,獣種と墓坑面積との対応関係を分析すると,ウシーヒツジーブタの順番で,すでに格づけられていたことが
わかる。
春秋後期の山西省侯馬盟誓遺址は,晋の有力貴族である趨散らが,盟約を玉石板に書き,犠牲をささげて神に誓った遺址
である。判読できた与盟者だけで300人あまり,晋公の先君が祭祀対象であった。同時期の盟書は,河南省温県武徳鎮から
も出土している。それは韓氏による盟約の遺址で,盟書の形や内容は侯馬盟書とよく似ている。とりわけ,誓いの対象とな
る神が晋公の先君で共通していることは重要である。盟主のちがう侯馬盟書と温県盟善が,ともに晋公の先君を神とあがめ
ており,分裂の危機に直面していた晋においても,なお晋公を頂点とする祭示巳共同体としての秩序を保っていたからである。
侯馬周辺では,類似の遺址がほかに8カ所あり,発掘された犠牲坑の総計は3,500基あまりに達している。犠牲の種類はピ
ー1737−
ツジがもっとも多く,全体の58%を占める。ついでウシ・ウマの順で,ブタとイヌの比率はそれぞれ1%に満たない。ヒツ
ジが多く用いられているのは,下位の貴族を主とする与盟者の身分を反映しているのであろう。しかし,同時代の山西省天
馬・曲村道址の動物骨構成比をみると,晋の都市民たちはブタを多く食べていたから,神にささげる犠牲と人々の食肉とは
明確に区別されていたことがわかる。
つぎに戦国中期の湖北省包山2号塞から出土した「ト笠祭暗記録」竹筒をみる。墓主は楚の郡王の子孫で,前316年に埋
葬された左ヂ(上大夫相当の身分)の郡力宅。竹筒の内容は,墓主が死にいたる3年間に,仕進や病気などを占い,吉凶の
判定をもとに神々に祈宿した記録であり,その祭躊に供犠をともなっている。祭祀村象と犠牲の種類との関係をみると,楚
の先王と祭主の祖父・父には牛と家,楚の先王と郡民の分かれた郡王および祭主の祖父と父には牛,楚の遠祖には羊,その
ほかの祖先と近親者には家が,それぞれ用いられた。祖先神のなかにも祭主の地位にかかわる宗族内の序列があり,それに
応じて犠牲の牛,羊,家を使い分けたのである。一方,自然神の祭躊には羊と家だけで,牛は用し1ていない。そして羊は上
位の自然神に,家は下位の自然神にささげられた。このように楚の祭躊では,まつられたさまざまな祖先神や自然神が明確
な階層秩序をもち,犠牲の牛一半一家という序列と整合的に相関している。神々の階層化は,世俗社会の身分秩序が確立し
ていることの反映である。春秋時代の盟誓においては,晋の先公を唯一の共通神としてまつる祭示巳共同体の秩序が維持され
ていたが,社会変動によって王や諸侯を中核とする共同体秩序が崩壊し,戦国時代には楚の祭宿のような宗族共同体にもと
づく個別の祭儀に分解していったのであろう。礼書にみるような,整然とした身分制や犠牲の序列は,このような戦国時代
の社会を背景に構想されたものにちがいない。
*
前3千年紀の龍山時代には,集落間の格差や集落内の階層化が明確になったとは言え,農業の副業として自給自足的なブ
タの畜産とシカの狩猟をおこなう農耕社会が広がっていた。これが首長制(箇邦)社会の段階である。
そうした農耕社会のなかで,段代にウシの消費を優位とする異質な社会が中原に誕生した。王・諸侯などの支配者は,食
用を含めた犠牲の大量消費を可能にする大がかりな畜産に着手し,とりわけ群居性をもつ草食性のウマ・ウシ・ヒツジは,
大規模な牧場経営のほうが合理的であることから,「牧」という専業的な牧畜組織を編成し,貢納と再分配にもとづく家産
機構の中心にそれを位置づけたのである。牧場は山林薮沢開発の一環として設置され,直接支配のおよぶ領域内の農民から
は飼料となる牧草を貢納させた。
股・西周王朝において,祭祀は王権の正統性を確かめる儀礼であった。王や諸侯は,犠牲の飼養を直接管理し,祭祀にあ
たり自らが祭主となって倶犠をおこなった。また,王・諸侯と臣下との君臣関係は,祭儀をめぐる贈与交換によって秩序づ
けられた。そのような贈与交換の結節点となった祭儀の場が,王都であり王墓であった。王都には素材を主とする頁納物が
各地から集められ,それをもとに王室の工房でさまざまな儀礼用品が作られた。王墓の祭示巳では,多数の族集団が参加する
盛大な供犠がおこなわれたのである。こうした一連の経済・社会・政治・宗教を統括するシステムが国家であり,祭儀によ
って秩序づけられていることから,それはまさに祭儀国家と呼ぶにふさわしい。
前5世紀の晋に爆発的にひろがった盟誓の儀礼は,その最後の姿である。趨氏や韓氏を祭主とする盟誓は,晋公の先君を
まつる祭祀共同体の枠組みを共有しながら,庶民までを包摂する新たな社会秩序を個別に模索する儀礼であった。君主を中
核とする祭祀共同体の枠組みが,小さな宗族(家族)共同体に分解していく動きのなかで,前4世紀には新たな身分秩序に
もとづく制度化した成熟国家が形成されていった。身分制の確立にともなって,ウシーヒツジーブタの格付けが確立し,祖
先や自然の神々も階層的に序列化されていった。前4世紀の包山楚簡にみえる祭躊は,そうした新しい体制を反映する儀礼
である。
秦漠時代になると,家産制と貢納制にもとづく股周時代以来の祭祀儀礼を目的とした畜産組織が継承される一方,それと
は別に,郡県制と租(袈藁)税制にもとづいた軍事目的の馬・牛・羊の畜産組織が編成される。要するに,祭儀国家の礼制
を残しながら,中央集権的な体制を重層化させていったのが秦漠時代の専制国家であった。
論 文 審 査 の 結 果 の 要 旨
古代史研究における大きな課題として,古代国家がいかなるプロセスで形成されたのか,また古代国家の本質がどこにあ
1738−
るのかという問題がある。文献史学,考古学,文化人類学など各分野ごとに,それぞれ独自の資料をもとに,さまざまな仮
説を構築し,社会進化と国家形成という課題に答えてきた。しかし,そこでは,つねに農業の発達が,国家形成の前提にな
っていた。狩猟採集社会が農業社会に移行することで富が蓄積され,階級が生まれ,戦争などを通じて地域統合が進み,国
家が形成されたという理屈である。
論者は,これとはまったく異なる資料と新しい分析視角から,中国の新石器時代から初期国家が成立した前2千年紀,そ
して秦漠時代の中央集権国家へのプロセスを,国家祭祀の成立と変容過程として描き出すことに成功した。その中心となる
考古資料は,動物供犠・犠牲・殉葬を示す動物骨が出土した祭祀土坑,埋葬坑,王墓や貴族墓などである。中国考古学にお
いて蓄積された出土動物骨に関する膨大なデータは,新石器時代の生業形態を分析する資料として活用されることはあって
も,社会進化を分析する歴史資料として活用されることはほとんどなかった。たとえば,股墟における人間を含む膨大量の
動物僕犠や埋葬・殉葬は,股という初期国家の特殊現象とみなされて,新石器時代から秦漠帝国にいたる動向のなかで,こ
れを位置づける試みを欠いていた。
論者は,『周礼』『礼記』『儀礼』などの礼書において,圭一諸侯】卿・大夫一士という身分秩序が,牛一半一家という祭
示巳儀礼に用いる犠牲獣の階梯とその組合せによって序列化している事実に注目し,このような身分と犠牲の序列化が実現・
展開した過程を,考古資料によってあとづける。前3千年紀の新石器時代においては,飼養されたブタと狩猟されたシカが
主要な動物タンパク源であったが,前2千年紀には,黄河中下流域のブタ優位型雑穀農耕,長江中下流域のシカ優位塑稲作
農耕,黄土高原地帯のヒツジ優位型牧畜という3つの生業形態が確立する。とくに中原では,ブタ優位型の農村が広がるな
かで,股王朝の誕生にともない,ウシ優位型の王都が出現し,都市と農村の格差が明確になる。
この段代の変革は,神意を占うト骨や祭祀の犠牲獣骨からも裏付けられる。ト骨に使用する肩肝骨は,新石器時代から前
2千年紀前半の二里頭時代まではヒツジヤプタが主流であったが,股前期には一転してウシが主流となり,しかも出土卜骨
数は桁違いに増加する。肩肝骨は1頭につき二枚しか獲得できず,股の王都で消費されたウシの頭数が膨大量におよんだこ
とは確実である。
動物供犠は農耕初期段階から穀物貯蔵穴などを利用して始っており,前3千年紀の黄河中流域では,ブタを主体としてイ
ヌなどを用いた。しかし,ウシとヒツジの飼養が拡大した前2千年紀を経て,股後期には主都の股墟を中心に,ウマの埋葬
坑が出現し,ウシやヒツジの供犠が増加する。ブタやイヌは雑食性で飼いやすく,農家の副業的飼育が可能であるが,草食
動物のウシ・ヒツジ・ウマの飼育には越冬用飼料の確保など広い牧草地をかかえた専業的牧畜経営が適している。段周時代
の王や諸侯がウシやウマを惜しげもなく消費できたのは,大規模な牧場経営に着手していたからである。王や諸侯は自ら祭
主となって,供犠を行ない,祭儀をめぐる贈与交換を通じて,臣下との君臣関係を秩序づけたことが,股周青銅器の銘文か
ら読み取れる。その祭儀の場が主都であり王墓であった。王都には各地から貢納品が集まり,王室の工房で各種の儀礼用品
が作られた。このように祭儀によって秩序づけられた経済・社会・政治・宗教システムを,論者は祭儀国家と呼ぶ。
股後期から西周時代の墓に副葬された前肢骨の獣種と墓坑面積との相関関係から,礼書に記されたようなウシーヒツジー
ブタの格付けが,すで段代後期には成立していたことがわかる。酒器を主とする股周青銅礼器は,西周中期以降,炊器や盛
食器(鼎や豊)の銅礼器に転換し,西周後期には同形の器で構成された列鼎や列島が出現する。春秋・戦国塞から出土する
銅礼器と,それに入った動物骨を分析することで,春秋中期以降の「華夏」地域で,礼書の理念に合致する身分秩序に対応
する用鼎,用牲の規範が整ってし1たと論者は指摘する。一方,同じ頃,長城地帯の「夷秋」地域では,獣頭骨の副葬習俗が
牧畜民独自の儀礼として集約していた。
前5世紀頃の春秋後期の晋では,盟約を玉石板に記し,犠牲をささげて晋公の先君を唯一の神として誓った盟誓遺址が発
見されており,分裂の危機に直面していた晋においても,晋公を頂点とする祭祀共同体の秩序を守ろうとしていた。しかし,
戦国中期の湖北省包山2号墓出土の「ト笠祭躊記録」竹筒では,複数の楚の祖先神や自然神が階層的に序列化しており,か
っての王や諸侯を中核とする祭儀共同体の秩序が崩壊し,宗族共同体にもとづく個別の祭儀に分解している。礼書にみる整
然とした身分制や犠牲の序列は,こうした戦国時代の社会を背景に構想されたと論者は考える。
秦漠時代には,家産制と貢納制による股周以来の祭儀を目的とした畜産組織を継承しつつ,それとは別に,郡県制と租税
制による軍事目的の馬・牛・羊の畜産組織が編成される。秦漠時代の専制国家は,祭儀国家の礼制を残しながら,中央集権
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体制を重層化させていったと論者は主張する。
以上,礼書や甲骨文・金文などの文字資料と,膨大量の出土動物骨や,それを出土した遺址の性格分析を通じて,祭儀国
家の成立過程,中央集権国家への移行過程を追究した論者の研究は,その分析視角の斬新さ,考古学資料による実証の手堅
さにおいて他者の追従を許さない。ただし,文献史料の扱いになお不十分な点があり,また術語についても文献史学におけ
る従来の用法と若干のずれを示すものが見受けられた。さらに農業技術の発展と初期国家の成立を結びつけた従前の国家形
成史論と,動物僕犠分析を通じて礼制の成立過程を解明した論者の国家形成史論が,どのように整合するのか十分に配慮さ
れていない。また,膨大量の遺址と出土動物骨を縦横に駆使しているので,語句索引がないと,その参照,対照に苦労する。
中国の遺址名にふりがながないことも含めて,今後,他分野の研究者と対話する上での配慮が必要と考える。しかし,これ
らは本論文がもたらした成果の価値を,大きく損なうものではない。
以上,審査したところにより,本論文は博士(文学)の学位論文として価値あるものと認められる。なお,2005年7月28
日,調査委員3名が論文内容とそれに関連した事柄について口頭試問を行なった結果,合格と認めた。
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