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第78号 - 瀬戸神社

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第78号 - 瀬戸神社
第 78号
み た ま の ふ ゆ
(1)平 成27年 5月 15日 発行
瀬 戸神 社 と 東 照 宮
﹁
みたま のふゆ﹂とは、私共が常 に蒙り いただ いてゐる
平成 二十七年度祭事 暦
◎ 一月 一日 歳 旦祭
鶏鳴神事
大神様 の恩徳、加護、御神威を尊称した言葉 です。人間は
つねに ﹁
みたま
自分 ひとり の力 で生きてゐるのではなく、
大 祓 人形 納 め ・茅 の輪 神 事
◎ 四月 二九 日 昭和祭
◎ 占
ハ月 二0日 大祓式
神社本靡献幣使参向
琵琶島 弁 天社 へ神輿 渡御
◎ 五月 一五日 例大祭
祈年祭 。合 祀神例祭
◎ 一
二月 二 一日 春季大祭
金 沢 に 滞 在 し そ の風 光 を 愛 でら
れ ま し た 。 です か ら 江 戸 城 の本
も 、 江 戸 城 に 往 復 す る途 次 に は
のふゆ﹂をいただ いて、生かされてゐるのです。
目 にあ
た りま
す。
丸 御 殿 は じ め 二 の丸 御 殿 、 西 の
丸 御 殿 の襖 に は金 澤 八景 の図 が
今 年 は徳 川家 康 公御 神 忌 四百年
応 仁 の乱 以来 永 ら く 続 いた 戦
国 乱 世 を 平 定 し、 わ が 国 に平 穏
奥 絵 師 狩 野 養 信 の筆 に よ り 描 か
徳 川 家 康 公 は駿 府 ︵
静 岡︶ で
と 繁 栄 の 日常 を 復 活 さ せ た 家 康
本社 神 輿 御 霊 人 。宮 出渡御
◎ 七月 五日 天王祭出御祭
◎ 七月 一二日 天王祭 巡幸祭
れ ても ゐ ま し た 。 そ の金 澤 の景
そ の管 理 を 任 さ れ た のが 円 通 寺
で、 円 通 寺 客 殿 は市 の認 定 歴 史
◎ 七月 一九 日 手子神社 例祭
◎ 九月 一日 浅間神社例祭
公 の御 神 徳 は ま さ に神 様 、 権 現
元和 三年 ︵一六 一六 ︶ 四 月 十 七
日 に 生 涯 を 終 へら れ ま し た 。 遺
言 に よ り直 ち に久 能 山 に 紳 葬 さ
れ 、 翌 年 に は 日光 に移 さ れ 、 東
的 建 造 物 と し て現存 し てゐます 。
つ目神楽
◎ 七月 七 日 一
一
一
無 形文化財 湯立 て神楽
瀬戸神社
にも東照宮
策 に よ り 、 東 照 宮 は瀬 戸 神 社 に
勝 の眺 望 でき る 権 現 山 ︵
金沢八
景 駅 西 側 ︶に東 照宮 が造 営 さ れ 、
︵徳 川 家 康
公︶が お祀
合 祀さ れ ま し た 。 以来 、家 康 公
様 と 仰 ぐ べき も の で、 現 在 の世
界 平 和 を 念 ず る祈 り に 通 ず る 心
りさ れ てを
の御 神 像 は本 殿 の奥 に奉 安 さ れ
が あ りま せう。
りま す 。
た ま ま で し た が 、 先 年 の瀬 戸 神
社 御 修 造 に際 し て調 査 を いた し
ま し た 。 そ れ に よ り 寛 永 十 五年
照 大 権 現 と し て祀 ら れ ま し た 。
の直 前 に 鎌
家康公は
関 ヶ原 合 戦
政 長 の寄 進 で あ る こと が 判 明 し
今 年 は そ れ よ りち ょう ど 四 百 年
倉 を経由 し
金 澤 に来 訪 、
ま し た 。 金 澤 の東 照 宮 の御 造 営
は こ の ころと推 察 でき ま す 。
︵一六 三 八 ︶ 大 和 郡 山 藩 主 本 多
写 真 は 瀬 戸 神 社 所 蔵 の東 照 宮
︵
◎ 毎 月 一日 月次祭
◎〓一
月 壬 二日 天長祭
◎ 一二月 三 一日 大祓式
大 祓 人形納 め ・古 札 焼 納 式
◎ 一二月 八日 歳 の市
開運熊 手授与
新嘗 祭
◎ 一一月 二三日 秋季大祭
◎ 九 月 一七 日 熊 野神社 例祭
無形文化財湯立 て神楽
◎ 一〇月 一人 日 手子神社 秋祭
無形文化財 湯立 て神楽
天王神輿 町内 巡幸
そ の後 、 大
御所とな つ
徳 川家 康 公御 神 像 ︶
明 治 維 新 に な り 神 仏 分 離 の政
て駿 府 に引
退 し てから
(2)
第 78号
み た ま の ふ ゆ
平成27年 5月 15日 発行
江戸時代と大正時代 の記録 にみる
午 後 四 時 三 十 人 分 の列 車 で静
岡 を 発 ち 、 午 後 九 時 五 十 分 に熱
田駅 着 、 駅 前 の冨 田 屋 旅 館 に投
宿 し ま した 。 名 古 屋 では前 日よ
り当 日朝 ま で降 雪 が あ り 、 翌 朝
は雪 景 色 の熱 田参 拝 で した。
ゐ ま す 。 路 用 は 三 十 七 円 五 十銭
であ った と 記 さ れ てを り ま す 。
鉄 道 に よ る汽 車 の旅 が 一般 化
の発 着 が 分 単 位 で記 録 さ れ てを
し て、 そ れ に よ り お 伊 勢 参 り も
行 は れ た 時 代 の記 録 です 。 列 車
り 、 日本 の鉄 道 が 正 確 に 運 行 さ
れ て ゐた のだ と感 じら れ ます。
てき ま した。
ま た は 二泊 二 日 の行 程 で実 施 し
な ってを り ま す 。 高 速 道 路 を 利
一泊 二 日
用 し て のバ ス旅 行 で、
先 代 宮 司 の頃 から の継 続 行 事 に
参拝 し てゐます。
一行 は 下 駄 履
駅 の当 時 の名 称 ︶ で 下 車 し 、 三
な ど と 歌 を 詠 み つ つ、 列 車 は 富
る本0のみ路 のいとものどけさ
術に富士うにろに朝01にのぼ
三 〇 分 に 氏 神 の瀬 戸 神 社 に 詣 で
て出 発 。 午 前 六 時 五 分 に 逗 子 か
れ内宮 参拝 。
つい で電 車 に て 二
見 ヶ浦 へ行 き 、 午 前 十 一時 発 の
そ し て奈 良 ・大 阪 ・京 都
翌 七 日、 早 朝 よ り 晴 天 に恵 ま
大 正 六 年 正 月 五 日、 午 前 四 時
う な 行 程 です 。
し た 。 記 録 を た ど る と 以 下 のや
瀬 戸神 社 と お 伊 勢 参 り の今 昔
瀬 戸 神 社 で は 氏 子 の皆 さ ん と
毎 年 正月 に ﹁
伊 勢 初詣 旅 行 ﹂ を
さ て、 こ の伊 勢 詣 で の旅 行 の
歴 史 を 遡 つて み ま す と 、 大 正 六
き で あ った や う で、 千 段 の階 段
を登 ると ﹁
社 頭 に は下駄履 き の
江 戸時 代 の
年 に先 々代 の宮 司、 佐 野 庄 二 郎
の旅行 記録 が あ ります。 ﹁
神都 京
者 一人 も いな い。 階 段 下 で 草 履
湊 町 行 き の列 車 に て奈 良 へ向 か
つて ゐ ま す 。 さ ら に こ の のち 、
士 川を越え、 江尻 ︵
現在 は清 水
保 の松 原 を 経 て 久 能 山 東 照 宮 に
を す す む る を 聞 かず こ こ に 至 り
着 で直 ち に 外 官 を 参 拝 。 こ の日
は内 宮 前 の五 十 鈴 館 に 投 宿 し 二
の膳 付 き の祝 いを し て ゐ ま す 。
内 宮 参 拝 と 二見浦
大 阪 、 京 都 を 見 物 、 十 日 に帰 路
に つき大 津 を午 後 五時 三 十 分 発 、
大 垣 乗 換 で午 前 二時 五 十 分 発 に
︶
行 程 が 判 りま す。
き の経 費 の メ モ で、 精 し い旅 日
記 で はあ り ま せ ん が 、 お よ そ の
覚 ﹂と いふ 文 書 が 残 って いま す。
伊 勢 を は じ め上 方 を 旅 行 した と
佐 野斎 宮 が 記 し た ﹁
道 中 入用
す。
明 治 維 新 の 二十 四年 前 に な り ま
ま す か ら 西 暦 で は 一人 四 四 年 、
天 保 十 五 年 と 記 載 さ れ てを り
佐 野 家 の先 祖 が お伊 勢 参 り を し
た記 録 が あ りま す。
東 海道 を 歩 いて旅 す る時 代 に も、
さ て、 鉄 道 以前 の江 戸 時 代 、
参 宮旅 行
阪 ひざ く りげ ﹂ と 題 し た 手 書 き
の小 冊 子 が 残 さ れ てゐ ま す 。 当
何 とな く 目を とが む る心 お こり
そ の のち 、 長 須 観 音 、 名 古 屋
城 を 廻 り 、 午 前 十 一時 十 人 分 に
名 古 屋 駅 発 、山 田を 目指 します 。
﹁
乗 換 駅 の亀 山 か ら は参 宮 者 益
時 二十六才 で瀬 戸神社 の社 司 ︵
当
時 は宮 司 と は いはず 、 社 司 の名
称 でした。︶ を勤 め るや う にな り
共 々 に 下 駄 を 脱 ぎ 捨 て て社 前 に
乗 り、 午 前 六時 四 十 五分 沼津 着
実 施 し てき てを り 、 今 年 の正 月
で連 続 三 十 八 回 の参 宮 旅 行 で、
間 も な い頃 、 瀬 戸 町内 の氏 子 の
ぬ かづ く﹂ と記 し てゐます。 ま
た ﹁下 山 の途 中 、 同 郷 の 川 、 三
佐 野斎 官 の出 発 は 一月 七 日 で
す 。 松 の内 を 済 ま せ て の出 発 だ
った のでせう。
第 一日 は鎌 倉 で休 み、 大 磯 で
の旅 行 が こ の頃 は 多 か った こ と
が 知 ら れ ます 。
々多 く な る ﹂ と の記 述 も あ り ま
す 。 山 田 に は午 後 四 時 四 十 人 分
有 志 数 人 を 誘 って企 画 し た 参 宮
旅行 の企 画 であ りま した。
と あ り ま す の で、 帰 路 は 夜 汽 車
で し た 。 三 島 大 社 に 参 拝 の のち
ら 列 車 に 乗 って ゐ ま す 。
早朝 の 四時 半 出発 し、
艘 の方 々 に 逢 ふ ﹂ と も あ る 。 鉄
道 を 利 用 し て 、 町 内 ま と ま って
宿 泊 し てゐま す 。二 日目 ︵
八 日︶
は箱 根 の葦 の湯 泊 、 九 日 は 原 の
逗 子駅 ま で歩 いて乗 車
三 島 駅 よ り 乗 車 し 、 十 一日午 後
一時 五 十 五 分 に 逗 子 に 帰 着 し て
同 行 し た のは青 木 友 次 郎 、 内
田千 太 郎 、 岡 本 鉄 五郎 の三 名 で
︶
第 78号
み た ま の ふ ゆ
(3)平 成27年 5月 15日 発行
若 狭 屋 泊 と いふや う に東 海 道 を
進 みます が、 途 中 、 五十 二次 の
朝比奈 町鎮座
︶
社伝によれば、鎌倉 に一
量肘を開 い
手 子 神 社
釜利谷町鎮座
釜利谷町総鎮守 の手子神社 は、も
た源頼朝が、そ の東北 の守りとして
熊 野 神 社
五年 ︵一四七三︶瀬戸神社 の御分霊
と この地 の領主伊丹左京一
元が、文明
宿 場 か ら 離 れ て秋 葉 山 や 鳳 来 寺
山 に寄 って ゐ ま す 。 伊 勢 に は 二
十 一日 の到着 で十 四 日掛 か った
こと にな り ま す 。 伊 勢 で は ﹁
本
熊野三社を ここに勧請 したも のと い
、鎌
ひます。仁治 二年 ︵´二四 一︶
寺 の智楽院忠蓮僧正が、現在地に遷
祀して以来、釜利谷 一郷 の総鎮守と
も総銅板葺きに改修 し、
一段と御神
御祭神は瀬戸神社と同じく大山祗
命、例祭 日は七月十七日 ︵
現在 はそ
の後 の日曜 日︶ ですが、十月十五日
企馴後 の日曜 日︶ の秋祭りには、古
式豊 かな湯立神楽が昔ながら の伝統
を守 つて行はれまt
境内 の洞窟 にお祀する竹生島弁才
天は、金沢八景 のひと つ ﹁
小泉 の夜
雨﹂ の中心地にあ つたも ので、厄除
け、開運 の福神として信仰され てゐ
ます。
谷 津 町鎮 座
浅 間 神 社
谷津 の町 の鎮守として古来崇敬さ
れ てきました。伝説 では御堂関白太
政大臣藤原道長が当地に来遊し、能
見堂から金沢 の景勝を鑑賞 したとき
に、正面 の目 の下にあるこんもりと
した山を塗桶山と名付け、そ こに浅
間大神を勧請 したと いはれます。道
長 の来訪 は史実 ではあ りま せん の
で、
創建 の詳細な時期は不明 ですが、
富士山信仰が関東 一円に広ま った中
■
で当地にも勧妻
fcれたも のでせ,
ご祭神は富士山 の浅間神社と同じ木
花之佐久夜毘賣命 です。特に安産 の
御利益があり婦人 の崇敬が篤か つた
と伝 へます。御祭神が天孫瑣瑣杵尊
の御后となり、御子神等を出産され
た ことによるも のでせう。
祭礼は六月 一日の開山祭と九月 一
日の例祭。例祭 ︵
近く の土日曜︶ に
は谷津 ・東谷津 ・泥亀 の各町内 で神
輿 の巡幸そ の他 のにぎやかな行事が
の古式 にの つと つた湯立神楽が今も
例祭 日は九月十七 日で、昔ながら
と いふことです。
お下がりは崇敬者婦人が分けあ つた
西山松 眠と いふ医師 が神餞 田を奉
納、以来、例祭 には赤飯をお供 へし、
営まれます。寛正四年 ︵一四六三︶
続けられてゐます。
伊邪那美命 の二柱 です。
御祭神は速 玉男命、伊邪那岐命、
竣功 して今 日に至 つてゐます。
典記念事業として新たな拝殿を建築
き の本殿を完成 し、さらに平成御大
、 入母屋造、総檜、銅板葺
結集 し′
昭和五十三年、氏子 一同 の熱電息を
年村社に列しました。
には一豊度の修築も行 はれ て、明治六
され てきました。安永及び士
ユ
で水年間
相模国鎌倉郡峠村 の鎮守として崇敬
再建 してから、里人 の崇敬を集め、
地頭加藤太郎左衛門尉良勝が神殿を
■
建立も この頃行 はれた ことでせ,
、
そ の後、 元禄 八年 ︵一六九 五︶
臨んで工事を指揮 しました。社殿 の
倉幕府は朝比奈 切通し の開量 に全力
を挙げ、執権北條泰時 は自ら現場に
を宮ケ谷 の地におま つりしたも ので
す。
、伊丹氏 の
延宝 七年 ︵一六人○︶
御 供 ﹂ に金 壱 分 を を 支 出 し てゐ
ま す。 今 日 の御 神 楽 料 で せ う 。
讃 岐 の金 比羅 さ ん
お伊 勢 参 り の後 は、 奈 良 、 吉
野 、 高 野 山 を 回 り 大 阪 へ、 さ ら
して信仰をあ つめて来ました。
明治六年村社に列格、大正十 二年
子孫、 三河守昌家 の子で、江戸浅草
に讃 岐 の金 比羅 山 ま でお詣 り し、
播 磨 か ら 京 都 に 入 り 、 吉 田神 社
年再建 し、昭和四十五年には御屋根
善 光寺 や 日光 も
ほか 石清水 や 北 野 天神 にも参 詣 、
比叡 山 や 清 水 の仏 閣 も お 詣 り し
威を加 へました。
の大震災 で倒壊しましたが、同十五
ま し た。 さ ら に帰 路 は信 濃 善 光
寺 から 妙義 山、伊 香 保 を経 て 日
光 に二月 四 日に到着 し てゐます 。
末 尾 の記 述 が 欠 損 し て ゐ て、
帰 着 の 日付 は 不 明 です が 、 二 月
の十 日ち かく と 思 は れ ま す 。 丸
二 ヶ月 間 の大 旅 行 であ った よ う
です 。 天 保 元 年 の お陰 参 り は 四
百 万人を越 え る人数 とさ れ ま す 。
﹁
東 海 道 中 膝 栗 毛 ﹂ のや う な 小
説 も 出 版 さ れ 、 当 時 は庶 民 も 伊
勢 や 上 方 に旅 行 す る こと が 盛 ん
であ り ま し た が 、 さ う し た 時 期
の旅 行 の記録 でも あ り ます。
瀬 戸神 社略緑 起
大昔、今 の泥亀 町、大川 町、釜利谷町小泉 のあたりま で海が入り こみ、柳
町や六浦町 の塩場、南六浦、内川町内もす べて海 でした。 そして洲崎と瀬戸
の間は、潮 の干満時には急流が渦を巻き、容易 に渡れぬ難所 でした。古代 人
古
が ここに海神を祀 つた のが瀬 戸神社 の起原 で、今 から千 五百年以上も前 ︵
墳時代︶ のことです。
治承四年 ︵一一人○︶鎌倉 に入 った源頼朝が、 日頃崇敬す る伊豆三島明神
を この霊域 に遷祀してからは、六浦港 の守 り神 ﹁
瀬 戸三島大明神﹂として鎌
倉幕府をはじめ上下 の尊信をあ つめ、そ の後、足利氏、小 田原北条氏 の崇敬
戦後七十年を経過tマ
昭 和 二十 年 に先 の大 戦 が 終 結
し て か ら 、 今 年 は 七 十 年 にな り
先 代 宮 司 の大 学 卒 業 生 名 簿 に
は或 いは陸 軍 、 ま た は航 空 兵 と
し て戦 死 さ れ た 方 が 多 数 あ り ま
はみな 戦 死さ れ た や う です。
う ち 、 沖 縄 方 面 へ出 撃 し た 方 々
ま す 。 現 官 司 は戦 後 の生 ま れ で
す が 、 先 代 宮 司 は全 く の戦 中 派
にな りま す。
さ ん と と も に 、 P基 地 に ほ ど 近
r︵
﹂﹁
超起く。
3一
こ“
二P●﹃
ξミ、
︵ F AX ︶〇 四 五︱ 七 〇 一 ︱ 九 九九 四
︵ 電 話 ︶〇 四 五 ︱ 七 〇 一 ︱ 九 九九 二
瀬 一
F 神 社 ︵〓 ≡ ハ
︲c2 七
横浜市金沢区瀬戸十八︱十四
大 き な 平 和 を 求 め ら れ てを ら れ
ま す。
も 平 和 の希 求 であ り ま し た が 、
靖 國 の英 霊 は そ れ に も ま し て、
た いも のです 。
一面 に 記 載 し た 家 康 公 の思 ひ
多 く の方 々 の生 命 が 献 げ ら れ て
ゐ た こと を 、 今 も 認 識 し て置 き
平 和 の基 礎 の部 分 に 、 か う し た
お蔭 で生 活 し て を り ま す 。 そ の
和 に よ つて も た ら さ れ た 繁 栄 の
した ﹁
鳴 呼 特 殊 潜 航 艇 ﹂ の碑 で
あ りま す。
現 在 私 た ち は 七 十 年 続 いた 平
い波 多 見 八 幡 神 社 の境 内 に建 立
す 。 写 真 は先 代 宮 司 が 戦 友 の皆
大 学 を卒 業 す る と 海 軍 予備 学
生 と な り、 少 尉任 官 し て配 属 さ
小
豆
島
の
基
地
に
島
の
現
在
の
阿
南
も篤く、江戸時代 には名勝金沢人景 の中心にあ って、百石 の社領を有す る大
れ た のが 倉 橋 島 の大 浦 崎 に あ る
P基 地 でした。
本
土
決
戦
に
備
へ
社として、江戸の町民の間にまで信仰者がひろがりました。
明治六年郷社 に列格、戦後は宗教法人となり神奈川県神社廃献幣使参向神
を
受
け
た
戦
友
の
社 に指定。現在 の社殿は寛政十 二年 の建造 で、昭和四年 の屋根を銅葺きに改
め、平成 二十四年には御屋根替 へと修増築 の御修営事業が行はれました。
戦
局
が
厳
P基 地 と いふ の は 暗 号 名 で 甲
標的 と も 呼ば れ た 特 殊 潜 航 艇 含 一
人 乗 り で魚 雷 二本 を 装 着 ︶ の訓
の
ち`
市 移 し
練
に り く そ 基
`
あ
な こ 地
る さ る で で
戦
を
向
か
へ
ま
し
御 祭 神
お ほ や ま つみ ︶ の命
大山祗 ︵
伊豆国三島大社、伊予国大三島 の大山祗神社 の御祭神と同じ海上交通 の神
であると同時 に、水源地を司る山 の神 であ り、金属、岩 石、木材など の建築
資材や、森林、鳥獣に至るま で、
一切 の生活資 源は、 この大神 の恩徳 による
も のです。
天孫瑣瑣杵尊 の御后となられた木花咲耶姫 の御父神 にあられます。
須佐之男 ︵
す さ のを ︶ の 命
配祀 の神 の須佐 之男命 は、 天照大神 の御弟神 で、人俣 の大蛇を退治された
神話 は有名 です。自然界、 人間界 の罪けがれや悪者を追 ひ祓 ひ、 人 々の苦 し
みを除 いてお守りくださ る神様 で、別名を ﹁
天王さま﹂と仰がれ てゐます。
七月 の天王祭りには大神輿 で氏子町内をくまなく御巡りになります。
菅 原朝 臣道 真 公
天満大自在 天神とも尊称 し、
一般 には ﹁
天神さま﹂と親 しまれて呼ばれま
す。書道、学問、詩文、和歌 に秀 でてをられただけ でなく、至誠、 尽忠、孝
道、正義、国家鎮護 の神さまでも いら つしやいます。
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第 78号
み た ま の ふ ゆ
平成27年 5月 15日 発行
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