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平野謙 転向の意味

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平野謙 転向の意味
と本多との違いを一応断わったうえで、その分析をほぼ是認して
池田純人ハ
− ﹁田心細心と会式生滋伯払網島T﹂ を申−心にして ー
平野謙 転向の意味
︵序︶
いる。周知の通りコップに対する大弾圧が行われたのが、昭和七
平野誹は ﹁敗戦までの私﹂ ①の中で、亀井秀雄氏の ﹁平野諏の
年三月であり、平野が ﹁プティ・ブルジョア・インテリゲンツィ
も執筆したのが、昭和七年十二月であったことを思えば、亀井氏
昭和十年代﹂②と ﹁﹃プティ・ブルジョア・インテリゲンツィアlb アの道﹂ という﹁少々季節外れな論文﹂ ︵同②︶ を遅蒔きながら
の道﹂③という二つの論文を、かなりの紙数を幾やして要約・紹
の指摘を認めざるをえない平野の気持ちも理解できるのである。
傾化を加速した一要因だったことは否定し難い事実であり、さら
この ﹁おくれて参加したもののコンプレックス﹂が、平野の左
介しているが、その中で、﹁平野や本多には ︵プロレタリア文学
連動にー引用者証︶おくれて参加したものの持つ一種のコンプレ
ックスがあるようだ﹂ という亀井氏の指摘︵同②︶ に触れ、
によって、平野の左傾化がより一層ラジカルなものになったこと
にまた、昭和八年二月二十日に起こった<小林多喜二虐殺事件V
おくれて参加したもののコンプレックスという分析など、う
﹁作家に関するノート 感想 有島武郎﹂ ︵昭和八年七月噴執筆︶
は、﹁新刊紹介﹃蔵原惟人書簡集﹄﹂ ︵昭和八年六月頃執筆︶・
に妥当していて、本多秋五にはそのままあてはまらない、と
・﹁自己批判について﹂ ︵昭和八年十月二十五日執筆︶等を見れ
まいものだと感心したが、厳密にいうと、この分折は私だけ
もいえるのである。
ば明らかである。このように、平野証の左傾化の経緯は、昭和初
三十五二見
とはできないが、平野の場合、その連動に ﹁おくれて参加した﹂
年代のプロレタリア文学運動の具体的動向を抜きにして考えるこ
すすまねばならなかった。
すます尖鋭な文学理論の建設や革命的な世界観の鳩得につき
通するものであったが、平野の左傾化はその最も典型的な様相を
うな傾向は、平野のみならず、当時のマルキスト達一般に広く共
ロレタリア文芸理論の忠実な実践者たることを疑わないというよ
のが、非常に<観念的Vにならざるを得なかった。蔵原惟人のプ
なものにしたため、プロレタリア文芸理論についての埋解そのも
が埋解されるのである。このことは、平野のマルクス主義文学運
な左傾体験に対する自己反省Vという形で導き出されていること
ような平野証独自のプロレタリア文学史観が、平野自身の<性急
った﹂ という指摘を行っていることと考え合わせてみると、この
ディカルなインテリゲンツィアの自己変革の過程にはかならなか
同じ論文の中で、﹁ナップ結成後のマルクス主義文学運動は、ラ
という﹁一種のコンプレックス﹂が、彼の左傾化を一層∧性急>
呈しているように思われる。﹁プロレタリア文学序説﹂④の中に
動からの転向を考える際、非常に重要な意味を有している。
平野証の転向問題について、﹃平野評論1−文学における宿命
香かれている次のような指摘は、おそらく平野自身が体験してき
た<性急な左傾化Vに対する<自己批判Vとして導き出されてき
と革命﹄⑥の中で、平野の転向を﹁リンチ共産党︵スパイ査問︶
はなくして、文化戦線を担当するもののコンプレックスと労
さだまったといえよう。爾来、彼らは政治闘争や組合連動で
手中ににぎ、られ、ここにわがプロレタリア文学運動の命運は
たとき、文学連動の指令機は急進的なインテリゲンツィアの
私見を以てすれば、福本イズムを背景に﹁プロ芸﹂が分裂し
的な感情の軌跡にそって考える場合、中山氏の指摘は強い説得力
Vに対する絶望の視点から平野計の転向を見ている。平野の個人
<目的のためには手段を選ばぬVという、∧政治の持つ非人間性
平野の転向と結び付けて考え、ハウスキーパー制度にみられる、
ーパーとして利用したスパイ、小畑達夫に対する個人的怨念を、
根本松枝−引用着誼︶ を奪ったばかりか、その女性をハウスキ
た、プロレタリア文学史観だと言えよう。
働者出身ならぬみずからの肉体に対するコンプレックスとの
を有してはいる。しかし、それだけでは、平野の転向を論理的に
事件﹂との関わりにおいて捉えた中山和子氏は、かつての恋人︵
二重のコンプレックスを無意識的に打開する方向として、ま
三十六東
説明し尽くすことはできない筈である。
その結果生じた様々な葛藤、− 以上の三つをあげている。そし
再結集されたこと。三、昭和九年兼の泉充の妹田鶴子との結婚と
ぼ重なる人脈で同人誌﹁批評﹂ が創刊され文学的サークルとして
囲をかたちづくつていた政治的=文学的サークルの崩壊と後にほ
に拘泥し続けたこと。二、プロレタリ文学連動敗退期に平野の周
プティ・ブルジョア・インテリゲンツィアであるという自己限定
一、平野が、知によって社会的階梯を上昇していく存在としての
らの離脱として意識された﹂ のではないかとし、その要因として、
換︶へ求めた道の挫折﹂ であり、それは ﹁︵小林多喜二の線︶か
かという生涯の問いかけの解答をプロレタリア文学連動への︵転
いて、平野の転向を ﹁文学的インテリゲンツィアいかに生くべき
点として小林秀雄の ﹁社会化された私﹂ というテーゼは受け
動の弱きに結びつく。その両者を一つに重ねて批判しうる観
ただろう。連動の弱さは自己の討さに通じ、自己の弱きは連
って、この疑問と自己反省の二つは切り離せないものであっ
対する疑問や自己反省によるものである。当時の平野証にと
いるが、その転向に自発性が含まれていたとすれば、連動に
ンチ事件から衝激を受けたことを平野証は繰り返し回想して
強制力に屈服した ﹁心ならぬ﹂ 範向ではなかった。共産党リ
野許の転向はけっして本多秋五の言う第一段階の転向、外的
のが、それ以後の平野誹の文章の中に見られるのである。平
は、あるいは極論かもしれない。だが、そう受け取り得るも
との論争が平野証の転向を決定的なものにしたと断定するの
昭和十年の小林秀雄の ﹁私小説論﹂、翌十一年の正宗白鳥
て﹁︵なしくずしの転向︶を︵小林多喜二の線︶からの離脱とし
取られたごとくであった。少くとも小林秀雄の言葉は、平野
また石本太郎氏は、﹁平野証の転向についてのノート﹂⑥にお
て主体的に対象化した時、その惨めな敗北を日本のインテリゲン
評に一つの眼を開かせたはずである。
亀井氏は、平野の転向を ﹁外的強制力に屈服した﹃心ならぬ﹄転
ツィアの宿命的な惨めさとしてそのまま歌いあげる自己認識を適
して︵宿命の時機化︶理論が創出された﹂と論じている。
しかし、平野蔀の転向について考える場合、亀井秀雄氏が、先
疑問や自己反省﹂ という ﹁自発性が含まれていたし ことを示唆し
に記した﹁平野誹の昭和十年代﹂ ︵同⑳︶ の中で述べている、次 向ではなかった﹂ と指摘しっつも、平野の転向に ﹁連動に対する
のような指摘に眼を向ける必要があるだろう。
三十七貰
ている。また昭和十一年の一月から六月にかけて、小林秀雄と正
この回想の中で平野誰は、﹁リンチ事件﹂ によって明らかになっ
たなる段階のために﹄一巻だった、といっていい。
及び転向後の平野の歩みを考えるにあたって非常に重要な意味を
た ﹁政治の優位性し理論に対する疑問が﹁転向﹂ のきっかけにな
宗白鳥とによって行われた﹁思想と実生活論争﹂ が、平野の転向、
持っているのではないか、という指摘も行っている。このことは、
ったということ、そして、小林秀雄と正宗白鳥の ﹁思想と実生活
論争﹂ の影響による ﹁処世と文学の切断﹂ にこそ、平野自身にと
﹁人民戦線のことし①の中に書かれている次のような平野自身の
回想と比べ合わせてみるとより一層明らかになってくる。
ってのひそかな ﹁転向﹂があった、ということを確認しているが、
あった、という事実に思いあたったからである。そういう私
いた処世と文学の切断にこそ、私自身のひそかな ﹁転向﹂が
志向から切りはなすことによって自己を守りたい、と希って
の百八十度旋回にもかかわらず、それをできるだけ文学上の
ではなくて、もっと陰微ななしくずしのものであり、外形上
は外形上は浅野晃の転向にも比すべき鮮やかなトンボがえり
に ﹁思想と実生活論争﹂が平野誹の転向とその後の歩みにどのよ
のために﹄ ︵同年十一月七日執筆︶ との関係において考察し、次
月、国際書院から発行された鹿地豆の﹃文学連動の新たなる段階
れた ﹁野上弥生子 − それの序論として ー ﹂ と、昭和八年十二
ように形成されてきたのかを、昭和九年一月、﹃麺麹rbに発表さ
一に ﹁政治の優位性﹂ 埋論に対する疑問が、平野自身の中でどの
場合、極めて重要な意味を持ってくる。それ故本稿では、先ず第
もし私にも ﹁転向﹂ というべきものがあったとすれば、それ この二つの問題は転向から戦時下へと至る平野誹の歩みを考える
の切断の者欲については、たしかに小林秀雄と正宗白鳥との
鹿地亘の﹃文学連動の新たなる段階のために﹄を初めて読んだ
八一︶
論争が影響している。しかし、そのまえに、私自身の ﹁転向﹂ うな影響を及ぼしたかについて考えてみたい。
のきっかけとなったものは、宮本療治を責任者とするリンチ
事件であり、宮本顕治が最後まで園持した ﹁政治の優位性﹂
理論の現実的な破綻にはかならなかった。その現実的破綻を
最も鋭く衝いたのが、最初に書いた盛地亘の﹃文学連動の新
三十八東
ときの感想について、平野許は﹁人民戦線のこと﹂ ︵同①︶ の中
の論文全体のただしさを瀬くようになってきたは これがわが
日本プロレタリア作家同盟が昭和九年三月の解散声明書を発
一九三一年に国際革命作家同盟が開いたバリコフ会議での決議以
昭和八年当時、葉山や平林といった﹃文芸戦線﹄系の作家達は、
﹁転向﹂ のきざしだった。
表するまえ、昭和八年十二月に鹿地亘が﹃文学運動の新たな
来、﹃戦旗﹄を中心とする日本プロレタリア作家同盟側からは、
で次のように回想している。
る段階のために﹄というパンフレットを出版した。百ページ
ではない。日本のプロレタリア文学連動の歴史を分析しなが
私がおどろいたのは、鹿地亘が唐突に同志呼ばわりしたから
大胆な戦術転換に、実はピッタリ仰天したのである。︵中嶋︶
きたのだが、葉山嘉樹や平林たい子を同志と呼びかけたその
いたため、盛地のパンフレットも出版と同時に読むことがで
だった。私は当時プロレタリア文化連動の末席につらなって
びかけていたのである。その呼びかけが私にはひとつの衝撃
葉山嘉樹、平林たい子、岩藤雪夫などをあえて同志として呼
きた平野証に大きな ﹁衝撃﹂ を与えると同時に、﹁政治の優位性﹂
しい。だが、﹁政治の優位性﹂ 埋論をそれまでの絶対綱領として
いわゆる ﹁人民戦線﹂ 戦術の一環として構想されたものであるら
術転換﹂ そのものは、プロレタリア文学運動を立て直すための、
かける ﹁大胆な戦術転換﹂ に出たのであった。この鹿地亘の ﹁戦
といった﹃文芸戦線﹄系の作家達に対し、敢えて ﹁同志﹂と呼び
分析しながら、ひとつのぬきさしならぬ結論として﹂ 葉山や平林
た状況の中で、鹿地亘は ﹁日本のプロレタリア文学遊動の歴史を
みなされていた。しかし、プロレタリア文学運動解体期の逼迫し
﹁階級戦線におけるいちばん感質な裏切り者の一味﹂ ︵同⑦︶ と
ら、ひとつのぬきさしならぬ結論として鹿地互がそこに到達
理論そのものに対する疑問を抱懐させる論文ともなったわけであ
ほどの伏字だらけの小者にすぎないけれど、そこで鹿地亘は
したその大胆な戦術転換に、私は衝撃を受けたのである。そ
る。
めに﹄を読んで大きな ﹁衝撃﹂ を受け、次第に ﹁鹿地亘の論文全
しかし、このように平野証が、﹃文学遊動の新たなる段階のた
れからまもなく、新聞紙上にいわゆるリンチ共産党事件なる
ものが発表された。昭和九年一月のことである。︵中略︶ リ
ンチ事件の報道などを経過することによって、次第に鹿地亘
三十九亘
つつあった事実を忘れてはならないであろうは その萌芽は、昭和
タリア文学運動のあり方に対する平野自身の疑問が徐々に芽生え
体のただしさ﹂を認識するようになった内的必然として、プロレ
危険を革んでゐる。
たい一線を画することによって、前の規定はひとつの深刻な
あらう。観想的なるものと実践的なるもの、その間に越えが
八年十一月十五日に執筆され、翌九年一月﹃越廼﹄に発表された
起こった ﹁リンチ共産党事件﹂が初めて新聞報道されたのは、翌
諭しとする︶ の中に見られるのである。昭和八年十二月十三日に
厳しく批判した平野誹が、その井上を否定するところから﹁野上
ティ・プルヂョア・インテリゲンツィア﹂唐木順三の後退ぶりを
⑨において、井上良雄の批評的営為を高く評価する一方で、﹁プ
﹁ 野 上 弥 生 子 − そ れ の 序 論 と し て ー ﹂ ︵ 以 下 、 ﹁ 野 上 弥 生 子 わずか一年前、﹁プティ・ブルヂmア・インテリゲンツィアの道﹂
九年一月十六日のことであった。平野自身この新開報道によって、
﹁リンチ共産党事件﹂ のことを初めて知ったと回想している ︵﹃ 弥生子論﹂ の筆を起こしているのである。野上弥生子に対する平
リンチ共虔党事件の思い出﹄⑧︶ のは周知の通りである。従って、 野の関心は、﹁ブルヂョア・レアリズムの伝統にそだち、そのや
もかかわらず、野上が ﹁プルヂョア・レアリスト=感想的知性の
平野の ﹁野上弥生子諭し は、リンチ共産党事件を知る二ケ月帝に うな雰囲気のなかに自己の芸術を完成させていつた人である﹂ に
書かれていたことになる。
その ﹁野上弥生子諭しは、井上良雄の﹁梶井基次郎追悼号﹂ に 枠に自己をとぢこめて扇くにたえず、いかにかしてそこからのが
用しっつ、井上の観想的知性にみられるいかんともしがたいプチ
ア・レアリストにまで弛生してはゐない﹂。しかし、野上の志向
点に向けられている。現在の野上は、﹁全き実践人=プロレタリ
寄せた ﹁梶井基次郎を継ぐもの﹂ ︵﹃作品﹄昭和七年五月︶を引 れいでようと、くるしい文学的実践を実践しっつある﹂ という一
ブル性を次のように批判することから書き始められている。
が ﹁漸次プロレタリア的なるものへにぢりよってきてゐる﹂ のは
にたぢろがず、ただしく真正面からぶっからうとしてゐるほとん
井上良雄にあってはつねにプロレタリアートの ﹁実践﹂ な 確かであり、﹁彼女こそ作家の転換といふ無比に困難なことがら
るものが自己に対廉するものとして、絶望的・観念的にしか
ど唯一の人L である、という呼野の最大級の評価は、野上弥生子
ノうて
とらへられてゐないことは、ぜひ指摘してをく必要があるで
四十恵
とも典型的な人である﹂という共感に基づいているといってよか
して、懸命に生きようとしている ﹁同伴者作家にあたひするもつ
が、自己の内なるプチブル性の克服というストイシズムを己に課
わせていたに違いない。しかし、その左傾化の極みにおいて、﹁
き記したとき、平野はおそらく野上の姿に自分自身の姿を重ね合
くはだてた﹂、野上弥生子の文学的営為をこのように感動的に書
のをひきさいてしまふだらうことをただしくみぬいてゐた﹂ 野上
公式的なとびあがりや観念的な背のびがつひに芸術的機構そのも
︵同⑨︶ に続く第二の作家として、野上弥生子の存在に注目した
弥生子の ﹁同伴者作家﹂ としての着実な歩みに注目したところに、
ろう。平野は、﹁プロレタリア・インテリゲンツィア﹂中野垂治
のである。この当時の平野証にとって、﹁同伴著作家﹂ 野上弥生
て意識されていた事実は注目されてよい。そういう﹁同伴者作家﹂
己批判について﹂ ︵﹃麺麹﹄昭和八年十一月︶ で﹁ブルヂョア文
生拘り続けた平野の特異性が指摘できるのではなかろうか。﹁自
﹁プティ・ブルジョア・インテリゲンツィア﹂ としての宿命に終
としての野上に対する平野の共感は、次のような野上評に現れて
学イヂオローゲン﹂ としての小林秀雄を否定し、今また ﹁野上弥
子の存在が、己の夢を託しっつ批評するに足る数少ない作家とし
いる。
生子諭﹂ の冒頭で井上良雄の観想的姿勢を批判したばかりの平野
をひきさいてしまふだらうことをただしくみぬいてゐた。し
なとびあがりや観念的な背のびがつひに芸術的機構そのもの
は、自らこのような矛盾を露呈しているにもかかわらず、そのこ
学連動からの明らかな後退をも意味している筈である。埋論的に
を語るのは、自己矛盾をきたしているばかりか、プロレタリア文
証が、同じ論文の中で、﹁同伴者作家﹂ 野上弥生子に対する共感
かもそのやうな危機・困苦の予想の前に自己の階級的限界性
とには気付かず、プロレタリア文学連動に関わっていく中で、自
野上弥生子の三〇年にちかい文学的背景はもちろん公式的
を固執せずかへってそれをギリギリのところまで迫ひつめる
らが直面している問題に誠実に対処していくところに、平野詐特
現象追随密とも言うべき平野の思考形態は、プロレタリア文学運
取り巻く小状況下の現実に密着しっつ、自己の実感を重視する、
有の思考形態が指摘できるのではなかろうか。このように自分を
ことによって、自己の階級的血液への反逆をくはだてたのだ。
﹁自己の階級的限界性を固執せずかへってそれをギリギリのと
ころまで迫ひつめることによって、自己の階級的血液への反逆を
四十一寅
一つの手がかりを与えてくれるように思われる。
れている次のような回想は、そういう平野の特異性を考える際、
豊しているのである。﹁昭和文学のふたつの論争﹂⑩の中に書か
動に参加した多くの知識人の中にあって、きわめて特異な様相を
わる着としていかに生きるべきかにつながる、倫理的問題として
ることのできない切実な問題であった。それはまさに、文学に携
許にとって、﹁実行と芸術﹂ という問題は、どうしても避けて過
インテリゲンツィア﹂ 中野真治の存在があったからである。平野
しれぬ。おそらく荒正人とは異なって、私はマルクス主義文
たら、私はマルクス主義文学に近づこうとはしなかったかも
﹃いはゆる芸術の大衆化の誤りについて﹄を番いていなかっ
中野蒐治こそ自己の階級的基礎の洞察がよくプロレタリア・
最初の栄誉は、中野重治に与えられねばならぬと私は梧ずる。
た﹃実行と芸術﹄の問題を真実の意味においてつきぬけ得た
田山花袋が﹃近代小説﹄のなかでもっとも素朴唆味に提起し
意識されていたのである。
学に純粋無垢な状態でひきよせられたものではない。あんな
インテリゲンツィアにまで憩生し得た最初の文学イデオロー
もし中野︵豊治−引用者註︶が﹃春さきの風﹄を書かず、
ものが自分のめざしてきた文学であってたまるかという気持
グであった ︵固⑨︶の
と考えていた平野が、<政治と文学統一の見果てぬ夢Vをマルク
と、だが文学インテリゲンツィアとしての自己を窮極に救っ
てくれるものはここにしかないとする気持がながく私の身う
ちでせめぎあった。
ス主義文学に求めようとしたのは、 ﹁政治と文学﹂ の問題が、近
こにしかない﹂ という自己矛盾を内包したまま、平野がマルクス
インテリゲンツィアとしての自己を究極に救ってくれるものはこ
してきた文学であってたまるかし と﹁ガでは思いつつも、﹁文学
芸術﹂・﹁政治と文学﹂ の問題をどうしても一元的にしか考えら
的な人﹂ ︵﹁野上弥生子論﹂︶として否定したごとく、﹁実行と
二元的に考える小林秀塊をrブルヂョア文学イデオローグの典型
に位竃づけられる問題だったからである。﹁思想と実生活﹂とを
﹁あんなもの ︵マルクス主義文学− 引用者註︶が自分のめざ 代日本文学固有の発想ともいうべき ﹁実行と芸術﹂ 問題の延長上
主義文学運動に近づいていったのは、敬愛する ﹁プロレタリア・
四十二 重
時期を誠実に生きようとした、平野静の不幸と特異性が息づいて
れなかったところに、コミュニズム全盛の時代に多感な青春の一
きた。プロレタリア文学の固定化、公式化の原因のひとつと
的に追求してかへって真実をみうしなひやすい偏向が生れて
し同時に、このことの一面的理解からして、真埋をのみ観念
のやうな事実をただ ﹁客観的現実のただしい芸術的反映の度
いるというべきである。それは、芥川龍之介の自殺によって象徴
だが、この時期、平野誹が中野重治に代わる作家として、 ﹁同
合﹂ で蔽ったり、文学的真実と客観的真理とは統一されてゐ
して、このやうな事実が現在指摘されうると私は思ふ。他の
伴者作家﹂ 野上弥生子の存在に注目したことは、マルクス主義文
るべきだといふやうな埋論的要請のみで片づけようとするこ
された自我解体の危機の中から、コミュニズムに活路を兄いだそ
学運動理論に対する平野の意識が微妙に変化しっつあったことを
とは、現在にあっては許されないであらう。この間題は実践
科学的領域と異なって芸術・文学の分野において、このやう
間接的に物語っているのではあるまいか。﹁公式的なとびあがり
的にも埋諭的にも深化させられねばならぬ。そしてこの問題
うとした近代日本のインテリゲンツィアの多くが背負い込まねば
や観念的な背のび﹂を伴わない、野上の着実な左傾に対する共感
解明のためのひとつの角度として、いかなるXをえらび、そ
な偏向が特に顕著であったのは1.一面当然であらう。そしてこ
が、平野自らの<性急かつ観念的な左傾化に対する自己反省Vの
れをどの程度にまで迫ひつめていつたかがもつとも明瞭であ
ならぬ問題でもあった。
結果として導き出されてきたように思われてならないからである。
る同伴者文学がとりあげうると私は信ずる。しかし以上のこ
補注は、平野が<性急な左傾化Vの極みにおいて、マルクス主義
とを考慮にいれても、なは私は信じてゐる。小林多喜二の ﹁
■.一t
﹁野上弥生子諭し の末尾につけられた、異例ともいうべき長さの
文学運動に内在している問題点に対して、ひとつの疑問を抱きつ
右の補注の中で、平野証が、﹁マルクス主義芸術埋論はその客
は、現在においてもっとも核心的な、現実中の現実である。
転換時代﹂ は ﹁春琴抄﹂ や ﹁万磨赤絵﹂ などとは比覇を絶し
44
たたかい価値を持ってゐることを。小林多喜二のえらんだ×
つあったことを示しているのであるlユ
マルクス主義芸術理論はその客観的真埋性の面を前面にお
しだすことによって、かがやかしい功績をもたらした。しか
四十三東
もっとも、このような平野の疑問が、昭和八年六月の佐野学・銅
内在している誤謬を鋭く見抜いていたと言えるのではなかろうか。
いうとき、平野の直観は、プロレタリア文学連動そのものの中に
とつとして、このやうな事実が現在指摘されうると私は思ふ﹂ と
向が生れてきた。プロレタリア文学の固定化、公式化の原因のひ
真理をのみ観念的に追求してかへって真実をみうしなひやすい偏
絹をもたらした。しかし同時に、このことの一面的理解からして、
観的真理性の面を前面におしだすことによって、かがやかしい功
明していたことは、注目すべきことであろう。
に﹂ を執筆していたほぼ同じ時期に、平野がこのような疑問を表
人民戦線﹂戦術の一環として、﹁文学運動の新たなる段階のため
を過してつかみ得た、偽らざる思いだったのである。鹿地亘が ﹁
況密着型思考の平野証が、自らの<性急かつ観念的な左傾体験V
かろうか。それは、論理的・抽象的思考にはきわめて不向きな状
遅蒔きながらも平野自身の内部で実感されつつあったからではな
きた﹂、﹁プロレタリア文学の固定化・公式化﹂ に対する疑問が、
観念的に追求してかへって真実をみうしないやすい偏向が生れて
昭和八年の十二月に、平野証が﹃文学連動の新たなる段階のた
山貞親による突然の転向声明や、林房雄・徳永直らによって、既
に昭和七年頃から主張されていた、政治に対する文学・芸術の独
る疑問をはじめて自らの肉声によって表明したことは確かである。
る。しかしながら、この補注において、平野誹が鵜原理論に対す
相対的な発想に終始する平野の限界がここでも指摘できるのであ
れたことはほぼ確実であり、自分を取り巻く小状況下において、
ス主義文学連動立て直しのための軌道修正路線の延長上に発せら
いて、その疑問が明確に意識されていたとは思われない。このよ
することによって自己矛盾をきたしているごとく、この時点にお
絵﹄などとは比較を絶したたかい価値を持ってゐる﹂ ことを強謝
で、﹁小林多喜二の﹃転換時代﹄﹂が、﹁﹃春琴抄﹄や﹃万磨赤
の内部で徐々に芽生えつつあったからである。しかし、その一方
見てきたようなプロレタリア文学連動に対する疑問が、平野自身
自性の主張、及び ﹁政治の優位性﹂ 埋論への批判という、マルク めに﹄というパンフレットを杭んで大きな衝撃を受けたのは、今
プロレタリア文学運動の観点から見れば、その後退ぶりを批判さ
うな論理的矛盾をいくつか内抱していたところに、 ﹁野上弥生子
うのであるが、戦後の ﹁政治と文学論争﹂ においてみせた、平野
論﹂が﹃平野諏全集﹄に収録されなかった最大の理由があると思
れても仕方ないと思われるような自己矛盾をあらわにしながら、
﹁公式的なとびあがりや観念的な背のび﹂を伴わない、﹁同伴者
作家﹂ 野上弥生子への共感が敢えて語られたのは、﹁真理をのみ
四十四蔑
徐々に意識されつつあった事実をどうしても忘れるわけにはいか
化﹂ に対する疑問が、∧性急かつ観念的な左傾体験Vを適して、
考える場合、このような ﹁プロレタリア文学連動の固定化・公式
時期に胚胎し始めていたことだけは確実である。平野訃の転向を
諏独自のプロレタリア文学連動に対する批判の眼が、すでにこの
る。
を考える際、看過できない大きな意味を有していると思うのであ
への共感と結び付けて考えることは、平野許の転向の主体的伽面
る疑問の萌芽を、鹿地亘の ﹁文学連動の新たなる段階のために﹂
に表明されている ﹁プロレタリア文学の固定化・公式化﹂に対す
ない。しかし、今まで見てきたごとく、﹁野上弥生子論﹂ の補注
八二︶
ないのである。しかし、またその一方で、青春の一時期にプロレ
タリア文学運動に誠実に関わっていったという偽らざる思いが、
転向後も平野自身の内部で生き続けていたということも忘れては
なるまい。戦後、平野灘が終始忘執してプロレタリア文学連動の
き記してから、わずか一月足らずのうちに﹁リンチ其虐党事件﹂
ある。昭和八年の十一月中旬に、平野がこのような危快の念を書
学史家平野諏の独自性が指摘されるのは、まさにここにおいてで
献としての価憎を失っていないことを見ても明らかなように、文
のである。平野の﹃昭和文学史﹄⑪が今なお文学史研究の基本文
されるなかで、平野のプロレタリア文学史観が形成されていった
左傾体験Vを踏まえつつ、<自己批判∨すべきものとして対象化
レタリア文学運動のあり方に対する疑問が、平野自身の<性急な
合、昭和十一年一月に始まった﹁思想と実生活﹂論争、及びその
十四年二月︶ へと至る、転向後の平野誹の歩みについて考える場
諭し とする︶ を経てr伊藤盤論はしがき﹂ ︵﹃早稲田文学﹄昭和
戒﹄を繰る問題−﹂ ︵﹃学芸﹄昭和十三年十一月、以下﹁破戒
昭和十三年十二月︶、さらには ﹁明治文学評論史の一駒11 ﹃破
﹃文芸首都﹄昭和十三年五月︶・﹁真船豊私論﹂ ︵﹃テアトロ﹄
高見順論IL ︵以下﹁高見臓論﹂とする︶や﹁北條民雄論﹂ ︵
庫﹄九・十月号に発表された ﹁文学の現代的性格とその典型 −
いて﹂ ︵以下﹁断層論﹂ とする︶ を始め、昭和十二年の﹃人民文
昭和十一年七月、﹃批評﹄に発表された ﹁﹃断層﹄の性格につ
が起こるわけで、翌昭和九年三月十二日のナップ解散声明を経て
影響のもとに書かれた平野の ﹁自然主義的人間観﹂ ︵﹃批評﹄昭
功罪に拘り続けねばならなかった所以である。このように、プロ
平野の転向意識が決定的なものになっていったことは想像に難く
四十五二見
和十二年九月︶ という一文は、看過できない。
﹁人を強く動かすものは、やはり現実の力である﹂ ︵﹁抽象的煩
.いわゆる ﹁思想と実生活論争﹂ とは、正宗白鳥が﹃トルストイ 悶﹂︶ という言葉によく尽くされているように思われる。思想は
ら月並なる人閲の顔を見付けて喜ぶ趣味﹂ に腹を立て、その根深
あるが、それに対して小林は、そういう正宗の ﹁偉人英雄にわれ
もあり、人生の真相を鏡に掛けて見る如くである﹂ と語ったので
イ夫人のヒステリイであり、それを思うと﹁悲壮でもあり滑稽で
ストイに家出を決行させたものは、その思想ではなくてトルスト
という批判を発表したことからはじまった。正宗は、晩年のトル
作家の顔﹂ ︵﹃読完新聞﹄昭和十一年一月二十四日二一十五日︶
一日十二日︶という感想文を掲載したのに対して、小林秀雄が ﹁
げて、﹁トルストイについて﹂ ︵﹃読売新聞﹄昭和十一年一月十
生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想といふものに何
らゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った恩悪が遂に実
の文学者像を描き出す仕事にとりかかっていた小林秀雄は、 ﹁あ
わよく実生活のつじっまを合わせながら生きていけなかった一人
ちょうどこの時期﹃ドストエフスキイの生活﹄⑬において、手ぎ
月︶ によって、わが国の私小説作家たちの実生活膠着を批判し、
けである。一方、﹁私小説論﹂ ︵﹃経済往来﹄昭和十年五月∼八
に帰ってきたときの現実的な不幸な形を見失うまいとしていたわ
形をとって現はれてゐた﹂ のであるとする正宗は、思想が実生活
も、﹃抽象的頗悶﹄が夫人︵のビスチリイー引用者証︶といふ
未 発 表 日 記 二 九 一 〇 年 ﹄ ︵ ナ ウ カ 祉 昭 和 十 年 十 二 月 ︶ を 取 り 上 それ自体としてはなんの力もないのであり、﹁トルストイにして
い<自然主義小説家気質の批判Vを企てたのである。正宗は ﹁文
芸時評 抽象的煩悶﹂ ︵﹃中央公論﹄昭和十一年三月︶ を書いて
のカがあるか﹂ ︵﹁作家の顔﹂ l﹃﹄昭和年月︶という言葉によく
反論し、小林は ﹁思想と実生活﹂ ︵﹃文芸春秋﹄昭和十一年四月︶集約されているように、思想は実生活を超えてゆくものであり、
ができるのだとして、﹁思想﹂ と ﹁実生活﹂ とを明確に分離する
を書いて再批判した。さらに正宗は ﹁文芸時評 思想と新生活﹂ その故にその飛翔力によってわれわれの日常生活をよく撃つこと
︵﹃中央公論﹄昭和十一年五月︶ によって再反論し、小林が再々
は、<政治の優位性埋論Vにかわる<文学︵思想︶自立Vの立場
この ﹁思想と実生活論争﹂ から平野証が学んだもの、1それ
批判の ﹁文学者の思想と実生活﹂ ︵﹃改造﹄昭和十一年六月︶ を
二元論的立場に立った新たな文学観を表明したのであった。
発表して昭和十一年の六月に終わった。
約半年に渡って行われたこの論争における正宗白鳥の立場は、
四十六蔑
の砲認てあったと言える ﹁あらゆる望紬Uは美生成から軋れる
耕し生れて育った璧舶Uか遂に実生膚に訣別する時か来なかったな
課題として平野に首識されるようになるのてある
私生店に於いて更生するのはその時た 或る作東の夢みた作家の
きあけたか 書いてみて私自身日傘主義的人間観からほとん
との望ひて作家論︵高見脾論のこと−引用費芭 をひとつ晋
日が主義的人間観は克服されねはならぬ− 私は先頃やつ
膠か とれはと卿列なものてあらうとも 披かよ生鯖て私用に振
とぬけてていないことを痛感し その人間観のゆゑに批評し
らは 几そ曽智といふものに何んの力かあるか 大作家か現実の
舞ふ保証とはならない﹂ ︵﹁作家の浄﹂︶という小林秀雄の小説
た作家の像を私流に誉めてしまったことに気ついたのてある
︵中略︶ いま私は肉体的なノルレノとしての日争工義的人間
観か 実生店の止揚された新たな仮構の世界 すなわち ﹁竹品こ
そかすへてたし という緒論にまて導かれたとき <習聖と実生活
> ∧ 文 学 政 冶 理 論 と 政 治 実 践 ∨ さ ら に は < 文 学 と 処 世 V と 観は見服されねはならぬと あそまきなから庚心してゐる
へ﹁自冬草義的人間観﹂︶
の 切 断 か 車 野 談 の 内 部 て 斬 付 さ れ た の て あ る そ れ は 如 来 の 夫婦喧嘩のしかたて人間全体か評価されてたまるものかI
日傘エ⇒洩リアリスム文学の伝観の士にVつ払小誹か 扶日豪の長生
偶に膠着するあまり ﹁習登貧血放﹂ に陥っていたとするならは
振り回されていたという苦々しい自己反省を促すものてもあった
問題− 引用名証︶をてきるたけ文学上の書画から切りはなすこ
という幸野の高菜は ﹁それ ︵なしくすしの転向という処世Lの
﹁夫婦喧嘩のしかたて人間全体か評価されてたまるものか−﹂
このように 日華享義リアリスム文学もマルクス土義文学も共に
とによって自己を守りたい と希っていた﹂ ︵H鼎︶ 下野かかろ
マルクス壬義文車は ﹁曽智過多﹂ という∧政府の優位性神話Vに
作盛と作品を一つに皇ね それを人間的尺度から計ろうとする日
本の伝統的価値選密ともいうへき ﹁日華且義的人間観﹂ に支えら う し て 見 つ け 得 た 大 義 名 分 て も あ っ た ﹁ ト ル ス ト イ の 家 出 ﹂ と
れ て そ の リ ア リ テ ィ ー を 保 持 し て き た こ と に 習 い 争 っ た 時 実 いう壕点者トルストイの実生膚か問題なのてはなく 作家トルス
生店に対する文学︵思想︶ の自立を図り その優位性を保持する トイの作品こそかすへててあるという小林秀好の小説観か 作家
ための ﹁日華主義的人間観﹂ の ﹁克服﹂ こそか 緊膏の文V
と予
竹的
品を一つに盛れ それを人間的尺度から眺めることによって
四十七亘
層諭し のこと− 引用着註︶は、戦争前にナントカいう筆名
︵﹁プティ・ブルジョア・インテリゲンツィアの道﹂と ﹁断
なわち ﹁自然主義的人間観﹂ の克服へと平野を向かわせた最大の
で書いたおきない習作にすぎないが、ひとつは私がマルクス
作品のリアリティーを保持しようとする日本の伝統的価値基準す
要因であった。転向後、自らの∧性急かつ観念的な左傾化Vを<
に共通する問題であることに気付いたとき、マルクス主義文学連
ならずマルクス主義文学運動に身を投じていた多くの知識人たち
た自分を発見したと言ってよかろう。しかも、それが、自分のみ
とによって、∧政治と文学Vをあまりにも一元的に考えすぎてい
確に分離する二元論的立場に立った小林秀雄の文学観に出合うこ
隙にいわば生涯のテーマともいうべきものが早くもあらわれ
ことより、今日読みかえしてみると、このふたつの文章の間
の転向現象がうかんでいるといえなくもない。しかし、その
ここに用いるのは大袈裟にすぎるが、ここにはやはり私なり
時期に書いた文章である。転向というような鋭角的な言葉を
輩であり、他のひとつははやくもその立場から退こうとした
自己反省VLっつあった平野証は、 ﹁思想﹂ と ﹁実生活﹂ とを明 主 義 の 立 場 に た と う と 努 め た 時 期 に 書 い た ほ と ん ど 唯 一 の 文
動に内在していた欠陥に対する批判拠点を、<自然主義的人間観
ていることを知って、われながら一驚した。︵﹃戦後文芸評
論﹄ ﹁あとがき﹂青木書店昭和三十一年十月︶
の克服Vというところに猪持したのである。
転向後の第一論文とされる ﹁断層論﹂ は、平野自身回想してい
るごとく、﹁党資金局に属していた主人公のインテリ的な弱きを
曽根博義氏は ﹁高見順と平野諏 − 転向の表と轟 − ﹂⑭にお
いて、 ﹁断層論﹂ や ﹁高見順論﹂ などに見られる平野の転向を、
指摘し、その弱きを個人的なものとみるだけでなく、組織そのも
のの欠陥とみるべきことを、ためらいながら指摘した﹂ ︵同母︶
﹁女の問題とからめて眺める視点﹂ から捉え、﹁︵マルクス主義
文学− 引用者証︶ 遊動といういわば男性的原理を内部から批判し
ものであった。平野証の転向が、この ﹁断層論﹂ 及び、昭和十一
年九月執筆の短縮小説﹁なすなし﹂⑬の中にほぼ明らかなことは、
する ﹁下からの批判的拠点﹂ の発見に平野の特異性を指摘してい
るに当たり、私が注目したいのは、次に示す三つの部分である。
るが、平野誹の転向問題との関わりにおいて ﹁断層諭し を分析す
次に示す平野自身の回想が如実に物語っている。
付録のようなかたちで、おしまいに収録したふたつの文輩
四十八東
まて考へ及ほさせる 汀ハ処からたとへはいはゆるハウス キ
に プロレタリア文与者としての 〇年間をふりかへり目分
の文壇を発表しているか ︵﹁テアトロ﹂ 八月尋し そのなか
力占か置かれてゐたら もつと幅のある はるかに感銘ふか
の通勤全体のプラスとマイナスとを虐ひあからせるところに
噂し もしこの件品かこのやうな男女の占協をとほして当時
ーパーといふやうな事実を追随的に描いてゐる作者に不備を
はその時々の段階の連動方針に忠実てあらうと努めて應たか
い作品となり特たたらうにと惜しまれるのてある
A 久板氏は﹃断層hを一に書きあけた時 什頚の覚え澄ふう
結局それは遺功にも芸紬にもLj己にも曽克てなかった一一一−つ
うな普選て語る久板氏の面貌には 中に滅失とか率血とをい
き菜かある 自己の生命をかけた一〇年に︷臼一る店動をこのや
ろに今日の文デのひとつの亭味かあると信するが
の眼を曇らすものてあり そこから抜けてようと努めるとこ
C 私の呼んて小泉的放心とするものは畢 事物の夕月の把握
てみれはたた公式にたけ忠夫てあつたにすきぬといふ意味の
ふミ鸞てはあらはしきれない もつとニカニカしいものかあ
る駕てある 暗澹たる廃車のなかから フtU分のl♭いてき
ひに嘩動全体に対する抱帳にみちたあるニカニカしき﹂ について
た 今 日 ま て の 道 程 を ふ り か へ り あ あ 〇 乍 間 の 身 を 削 るA に お い て 平 野 か 久 板 東 二 郎 の 言 態 を 借 り つ つ ﹁ 自 己 な ら
努力は軍 公式に対する忠実さにすきなかったかと聖ふ時
九冊ったとき 先の ﹁野と弥生子諭﹂ にあいて見てきたことく ﹁
︵マルクスヒ義文与1−引用者謡︶ 遥動に対する従間や自己反省﹂
その感配は おのつから自己ならひに避動全体に対する痛恨
にみちたあるこカニカしきに夏してゆく彗てある
を埼まえた平野自身の転回曹識は侠定的てあると言ってもよいの
といふヤうな︶女にさへともかく階級的な再事としたいと闇
ハウス キーパー問題﹂ についての幸野独自の論究か現れている
九年四月︶を読んた時の印象か語られている部分には 早くも﹁
てはないか また Bにあいて 鍾川稲子の﹃独り立ち﹄ ︵昭和
はせ そして現実にその一員として包括することを許容する
というへきてある そしてCの ﹁事物の真実の把膵の眼を曇らす﹂
B ︵何処へ出してもとても一人別の仕ふなと出来さうもない
さういふプラスとマイナスとをはらんた当時の連動の伸回に
四﹁九要
﹁小乗的良心﹂ とは、今まで見てきた ﹁自然主義的人間観﹂ の異
のことについては、中山和子氏が、﹁平野諏1人と作品1﹂
﹁﹃断層﹄の性格について﹂ ︵﹃批評﹄昭11・7︶には、
な指摘を行っている。
名に他ならない。このように、昭和十一年六月の ﹁断層諭し にお ⑯において﹁断層論﹂ と ﹁高見順諭し とを比較しっつ、次のよう
いて、平野がマルクス主義文学連動に内在した欠陥に対する批判
る程度対象化し得たのは、﹁いかなる人間の思想や観念をもすべ
まだ革命連動全体への批判と告発の意図がみえていたが、知
拠点を発見することによって、自らの ﹁なしくずしの砿向Lをあ
て私生活上の事実に還元してそこにのみ人間の真実の姿を眺めよ
た平野証は、﹁思想と実生活論争﹂ の小林秀雄を適して、<思想
読んで衝撃を受けると共に、次第にその正しさを認識しっつあっ
問を感じっつ、威地亘の ﹁文学連動の新たなる段階のために﹂ を
状況の中で、﹁プロレタリア文学の国定化・公式化﹂ に対する疑
在があったからである。マルクス主義文学運動解体期の逼迫した
敢然と轟いを跳んでいった﹁思想と実生活論争﹂ の小林秀雄の存
− 引用者証l︶ にすでに明境に芽ぶいている。
新生﹂論の︵宿命の特権化︶の発想は、ここ ︵﹁北条民雄諭し
の宿命とを平野誹はふたつに重ねているのである。戦後の ﹁
れる。︵中嶋︶ ハンセン氏病患者という特異な宿命と知識人
条民雄論﹂ ︵﹃文芸首都﹄昭13・5︶がこの延長上に書か
誹の転向現象は課化した、ということができるだろう。﹁北
のうちに、再生への道を求める ﹁高見順論﹂ において、平野
うとする﹂ ︵同⑯︶、正宗白鳥の ﹁自然主義的人間観﹂ に対して、 識人としての自己の宿命と﹁錯乱﹂ の実体とを凝視すること
と実生活の分離二一元化Vという、自らの転向を克服するための
終わった自らの転向を主体的に克接するための足がかりをつかん
う新たな文学的課題を模索することによって、﹁なしくずし﹂ に
の実体とを凝視することのうちに、再生への道を求める﹃高見順
発の意図がみえていたが、知識人としての自己の宿命と﹃錯乱﹄
﹁﹃断層﹄の性格についてには、まだ革命連動全体への批判と告
﹁免罪符Lを堆持し、さらには<自然主義的人間観の克服Vとい
だと言ってよかろう。﹁断層論﹂ によって自らの転向を表明した
摘は非常に的確である。﹁断層論﹂ において語られている﹁自己
平野は、以後﹁高見順諭しと ﹁北條民雄論﹂ を書くことによって、論﹄において、平野瀞の転向現象は深化した﹂ という中山氏の指
﹁知識人の宿命の特権化﹂ の自覚へと進んでいくことになる。こ
五十虎
や自己反省﹂ を踏まえつつ、いかに主体的に克服するかが、転向
砿向した着の後ろめたさでもあるが、それを ﹁連動に対する疑問
る ︵同③︶。
の執筆に向かったかについて、中山和子氏は次のように述べてい
な発言に終始してきた平野証が、この時期、なぜ急に ﹁破戒論﹂
ならびに運動全体に対する痛恨にみちたあるニガニガしさ﹂ とは、 月、﹁破戒論﹂ の執筆へと向かう。それまで、ほとんど同時代的
後の平野に課された最大の問題であった。﹁知識人としての自己
一体のものとして二つながら批判し得る批評基盤であった。﹁高
伝統の上に立つ私小説とマルクス主義文学双方の問題点を、義盛
である。<自然主義的人間観の克服V、それは、自然主義文学の
然主義的人間観﹂ にとらわれていたかを悟らざるを得なかったの
プロレタリア文学連動その′ものが、自分自身を含めていかに﹁自
した精神﹂ が、自立できないでいる文学昔年を鼓舞するにあ
うと ﹁破戒﹂ の稿を抱いて山を下り ﹁刻苦﹂ した、 ﹁鬱勃と
十三歳の藤村が教師を辞め、独力で文学者の連命をきり開こ
ら、平野諏はまだ半ば親がかりの身の上であった。かつて三
で当時竹村書房の校正を手伝い、′すでに三十一歳になりなが
平野計はこの時期になぜ ﹁破戒﹂論であったか。月給二十円
の宿命﹂を凝祝しっつ、﹁高見腰論﹂を書き上げた噂、かつての
見順論﹂ 執筆直後の昭和十二年八月十二日に執筆された ﹁自然主
るいは充分であったかもしれないひ ︵中嶋︶
その ﹁主情的な賦性と時代性に絡みつかれて、其処に小プル
攻のなかに額を埋めて許しを乞うた主人公のなかに、藤村は
理由は、主人公丑松の血統の宿命にあっただろう。板数の盛
しかし、平野証が何より﹁破戒﹂ でなければならなかった
義的人間観﹂ は、この意味において、平野自身を含めたプロレタ
リア文学運動のあり方に対する批判としての<自然主義的人間観
の克服表明∨だったのである。
<三>
ヂョア・インテリゲンツィアとしての自己のエレギーを潜ま
べている。ここに丑松は藤村であり、藤村はまた平野灘であ
せずにはゐられなかった﹂ と、平野誹はその独特な解釈をの
レタリア文学連動の問題点に対する批判拠点を兄いだす一方で、
ることがおのずから明境であろう。
このように、﹁思想と実生活論争﹂ の小林秀雄を適して、プロ
知識人としての宿命を凝祝しっつあった平野蔀は、昭和十三年十
五十一恵
∧社会性の萌芽Vに活路を求めようとする気持ちが強かったので
ある。これまで、同時代的発言に終始してきた平野を、島崎藤村
このように、中山氏は、藤村の ﹁鬱勃とした精神﹂ と ﹁主人公丑
この平野の ﹁破戒諭し が、戦後、中村光夫の ﹁風俗小説論﹂ ⑲
たのである。
松の血統の宿命﹂ に対する平野の共感に、﹁破戒論﹂ 執筆の最大 の ﹁破戒﹂研究へと向かわせた内的必然性は、まさにここにあっ
の動機を見ているわけであるが、果してそうであろうか。﹁破戒
論J において、平野は、﹁破戒﹂執筆の二大モチーフと考えられ
る ﹁社会的偏見に対する抗議と自意識上の相克﹂ という二つの問 に取り上げられたことは、周知の通りである。中村は、平野の諭
題を、統一的にとらえることに失敗してきた従来の ﹁﹃破戒﹄評﹂ を補足する形で、﹁破戒﹂ の丑松ではなく田山花袋の ﹁蒲団﹂ の
会対個人の矛楢相克を適して捉えた﹁社会的偏見に対する抗議﹂
な問題点を発見するに至る。そして、島崎藤村の ﹁破戒﹂を、社
みをとらえてきた、日本自然主義文学全体の進路にかかわる重大
示唆したのであった。﹁破戒論﹂ において、平野が指摘しようと
えた私小説を批判すると共に、﹁破戒﹂が提示していた可能性を
題点があったとして、﹁告白的事実﹂ を ﹁文学的真実﹂ と取り違
に、﹁思想貧血症﹂ とも言うべき私小説の氾濫を招いた最大の問
を克明に調べあげ、﹁破戒﹂ に丑松個人の ﹁自意識上の葛藤﹂ の
主人公の切実な告白に文学的リアリティーを見てしまったところ
であると同時に、﹁明治三十年代の市民的自由への裔望﹂を描い
にかけた平野の苦労と意図に反し、発表直後の反響はあまりなく、
たものであるとし、専ら丑松個人の ﹁自意識上の葛藤﹂ にのみ文 した真の意図も実はここにあったと思われる。だが、﹁破戒論﹂
学的なリアリティーを兄いだしてきた、従来の自然主義文壇主流
してみると、この当時、平野がなぜ ﹁破戒諭しを沓かねばならな
かし、∧自然主義的人間観の克服Vという命題が、平野を﹁破戒
という、平野にとってはなんとも皮肉な論文だったのである。し
の ﹁﹃破戒﹄評﹂ に対して、強い不満を表明しているのである。 戦後、﹁風俗小説論﹂ に取り上げられることによって見直される
かったかは、もはや明らかであろう。近代日本文学の伝統たる ﹁
中に、小林秀雄の言う﹁社会化された私﹂ へと昇華される可能性
自然主義的人間観﹂ は、﹁破戒﹂ を ln三紙に評価できなかったとこ
論﹂ へと向かわせた最大の要因であり、﹁破戒﹂ の主人公丑松の
ろから生じてきたのであり、今なお根強い ﹁自然主義的人間観﹂
を克服する一つの試みとして、平野は ﹁破戒﹂ に秘められていた を、平野が夢みていたことはほぼまちがいない。
五十二要
観の克服Vによる文学自立の方途を模索しようとしていたのであ
した文学的自我の構築をよりどころにしつつ、<自然主義的人間
﹁社会化された私﹂という小林秀雄の文学理念を、<自然主義的
く耐へてゐる﹂作品として、伊藤の短編小説﹁磋秩﹂ を取り上げ、
おろしてゐない観念小説の実験﹂という﹁困難な操作にかなりよ
転向後の平野誹は、小林秀雄の ﹁社会化された私﹂ という成熟 F伊藤撃論はしがき﹂⑪において、﹁まだこの国には伝統の根を
る。平野自身の回想によると、﹁破戒論﹂を書いた昭和十三年末
じているのである。同じ ﹁伊藤整論はしがき﹂ の中で、﹁自然主
から﹁人間修業と文学修業﹂ を書いた昭和十五年始めにかけては、 人間観の克服Vによる私小説の自己変革の必要性と結び付けて論
﹁私の生涯で異例といっていいほど、ドストエフスキイばかり読
﹃文学界﹄昭和五十一年四月二ハ月、﹃リンチ共産党事件の思い
根源的な場に於る一切の建直しが強要されてゐる﹂ ところに、﹁
的に自己を立てくれた地盤がすべて空しく眺められ、いはば点も
んで暮していた時期﹂ ︵﹁文学作品に反映したスパイリンチ事件﹂ 義的人間観﹂ と ﹁マルクス主義的世界観﹂という﹁これまで対抗
出﹄三一書房昭和五十一年六月所収︶だというが、これが小林秀
あるということを、昭和初年代の文学史的課題として自ら指摘し
雄の ﹁ドストエフスキイの生活﹂ の強い影響のもとになされたこ 現代小説の負はねばならぬ基本的な性格﹂と ﹁危機の深刻さ﹂が
とは舌うまでもなかろう。中山和子氏も指摘している過り、﹁小
論争の中で宣言した、実生活に対する思想・芸術の優位性論に寄
である ︵同⑦︶。しかし、その平野が、小林秀雄が正宗白鳥との
られた平野誹の思考の輪は、再び閉じられようとしていたのであ
離テーゼ∨は早くも忘れ去られ、∧自然主義的人間観Vに絡め取
小説﹂ への可能性を兄いだした時、小林秀雄の∧思想と実生活分
林秀雄﹂ が ﹁平野証の転向のひそかな免罪符﹂だったことは確か つつも、伊藤磐の実験的観念小説﹁磋歌﹂ に ﹁新しいタイプの私
りかかりつつも、その優位性を保証するためには、﹁社会化され
る。
が戦後文学史﹄講談社昭和四十四年七月所収による︶。
蘭︶ 平野離﹁敗戦までの私﹂ ︵﹃群像﹄昭和四十一年五月。﹃わ
証
た私﹂ という成熟した文学的自我の構築が不可欠だ、という小林
の真意をどこまで深く理解していたかについては、やはり疑問が
残るのである。
なぜなら、昭和十三年十月﹁破戒論﹂ によって、日本の自然主
義文学の問題点を検証した平野蔀は、同年十二月三十一日執筆の
五十三度
えて、一種の ﹁転向小説﹂ とも言えるものであるけ
ってふと書いてみた習作﹂ という記述があり、その内容から考
めとおわり﹄ の一﹁あとがき﹂ の中に、 ﹁結婚して十カ月ほどた
⑬ 昭和十一年九月執筆の小説﹁なすなし﹂ については、﹃はじ
一月から同十二年三月︶。
⑬ 小林秀雄rドストエフスキイの生活し ︵﹃文学界﹄昭和十年
② 亀井秀雄﹁平野謙の昭和十年代﹂ ︵﹃序説﹄昭和三十七年七 ⑪ 平野諏﹃昭和文学史﹄ ︵筑摩書房昭和三十八年十二月︶。
月。﹃中野東治諭﹄三一書房昭和四十五年一月所収による︶。
③ 亀井秀雄﹁﹃プティ・ブルジョア・インテリゲンツィア﹄の
道﹂ ︵﹃位置﹄昭和三十八年六月。.1中野垂治論﹄三一書房昭
和四十五年一月所収による︶。
㊥ 平野諏﹁プロレタリア文学序説﹂ ︵﹃日本文学講座Ⅵ﹄河出
書房昭和二十五年十二月︶。
野辞﹃評言と構想﹄第十二朝昭和五十三年二月所収︶。
⑤ 中山和子﹃平野諏論−文学における宿命と革命﹄ ︵筑摩書 ⑭ 曽 根 博 義 ﹁ 高 見 順 と 平 野 諏 − 転 向 の 豪 と 義 − ﹂ ︵ 特 集 平
房昭和五十九隼十一月︶。
研究﹄明治書院昭和六十二年十一月所収︶。
⑥ 石本太郎﹁平野課の転向についてのノート﹂ ︵論究の会腐﹃ ⑮ 中 山 和 子 ﹁ 平 野 諏 − 人 と 伸 品 − ﹂ ︵ 論 究 の 会 縮 ﹃ 平 野 諏
平野諏研究﹄明治書院昭和六十二年十一月所収︶。
きよう。
はこの ﹁破戒論﹂ と﹁伊藤整論はしがき﹂ にまで遡ることがで
リティーが存在しているように思われるのであるが、その原形
築と不可分に結び付いていったところに、平野文学史観のリア
月︶。自己の文学的課題追究の足取りそのものが、文学史の構
㊥ 平野諏﹁伊藤整論はしがき﹂ ︵﹃早稲田文学﹄昭和十四年二
⑦ 平野謙﹁人民戦線のこと﹂ ︵﹃文学界﹄昭和三十六年六月。 ⑯ 中村光夫﹃風俗小説論﹄ ︵河出書房昭和二十五年六月︶。
﹃文学・昭和十年前後﹄文芸春秋社昭和四十七年四月所収によ
卦。
⑧ 平野諏﹃リンチ共産党事件の思い出﹄ ︵三一書房昭和五十一
年六月︶。
⑨ 平野諏﹁プティ・ブルジョア・インテリゲンツィアの遺し ︵
﹃クオタリイ・日本文学﹄昭和八年一月︶。
⑩ 平野諏﹁昭和文学のふたつの論争﹂ ︵﹃人間﹄昭和二十二年
十月︶。
五十四東
Fly UP