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「南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記」 百七十六頁~百九十五頁

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「南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記」 百七十六頁~百九十五頁
慶
一里
一里 慶 一七七
如きも各種の罷業を企てるには企てたが、慄期したやうな勝利を得なかった。二三年前に排日の
を拵らへたりして大いに勢力扶植に努めたが。併し四川のやうな土地柄では容易でない。エ會の
領石青陽の逃亡とたった。茲に於てか共産減は各地同様、軍除に政洽部を置いたり、各種の工會
の争ひは頂鮎に達し、結局國民黛四川省黛部は左傾減の占握する所となり。十一月には右派の首
重慶に於て左傾派の色彩が梢鮮明になった0は昨年九月頃からであったが、十月には左右削減
産減の宣傅の波は何時の間にか三峡の瞼を突破し、彼等の脚下を洗ふに至った。
二月に就任した。勿論之等は純粋0軍閥である、軍長就任は看板を塗換へたに過ぎない。然し共
軍長、劉文輝の二十三軍長就任が本年一月。二十八軍長部錫候、二十九軍長田頌尭が一番遅れて
して宜昌に於て青天白日旗を掲げたのが昨年十月二十三日。劉湘の二十一軍長、帽心輝の二十二
を打ち、他の軍閥ひ亘頭も相次ひで革命軍を標榜することになった。揚森が革命軍第二十軍長と
三萬の四川軍を湖北省に入れた揚森︵六大軍閥の一人︶が、革命軍勢力の噌大に諧されて寝返り
近では劉湘以下六大軍閥があって互ひに相牽制し均衡を保ってゐたが。最初災佩孚擁護の篤めに
面に於ても寧ろ一猫立國の観をたし、大小幾多の勢力が四川一省内を舞盛に帽を筝ふてゐる。最
所は、地理的に隔絶せられてゐる開係上。中部支那との凡ての交渉が鈍いやうに、政治軍事等方
之は一見不思議に考へられる。然し其れには四川は四川としての事情がある。一膿四川と云ふ
在四川邦人大會
昭和二年四月二十六日引揚二際シ
右決議uヨリ敢テ常局者こ愁望シ、併セテ同胞二宣明ス。
ンコトヲO
國家ノ政策n信頼スル壬ノアルガ埓メカリ。庶幾クハE︰人ノ引揚ゲヲシテ無意義ナラシメザラ
政府ノ命令二服従シ犠牲ヲ顧ミザル所以ノ七ノハ、賓二此機會二於テ對支ノ9 根ヲー衿スベ午
四川現下ノ状9 ハ吾人ガ多年刻苦節瞥セル地盤ヲ放擲シテ1 去スルノ必要ヲ認メズト雖べ
於て居留民大分を開き左0如き決議を竟表した。
重慶今回0邦人引揚は他と頗る趣きを異にしてゐる。四月二十六日市慶出帆後、雲陽丸船中に
雲陽丸上の決議
重
座
一七八
重 慶 一七九
地の蔭で銃殺され。具僑埋められたXめ今でも行方不明なのが多数ある。共中で面白い話がある
常日の幹部、即ち共産派の場内で段されたも0が数名。城外に逃延びた者で軍政に捕へられ墓
多数に上ったと云ふ。
場を現出した。常目踏殺されたも0は百六十能名、中でも小學生徒が多く、負傷者は五六百名O
す。通路は一つしかたい、踏っぶされる者、殴り殺される者。悲鳴、叫喚、忽ちにして一大修1 担捧を揮って手営り次第に會衆0向脛をかっぱらう、不意を打たれた群衆は先きを争ふて逃げ出
やがて開皆といふ間際にの々たる爆竹の音七合圖に群衆0間から一斉に起っだ例の平服除は。
出席したのであるから。總数七千と拐せられ流石0重慶第一の廣場も人を以て埋められた。
をいやがる者も成績昌に影響すると云ふので無理にも出て来る。職工愕働者は全部仕事を休んで
なったが、會衆の大部分は學生と努働者で學生は學校からの命令で校長歌員が引率し末り、出店
られ一方は領事街の大厦高屋に隣接し、残っだ一方だけが唯一の通路になってゐる。借で常目と
営日の大會々場は重慶城内の一物高い所で。打1 撥と拐し昔0練武場である。二方は按壁に限
せて目じるしとした。
を學ぐるの手筈を定めた。而して其二三百名の平服隊は群衆と匝別する鴉めに素足に草牡を履か
て城外の要所々ご
一網打貪を企て、大會の警備はわざと一百名の商團兵だけに止め、駐防軍政の大牛を出動せしめ
捕獲するといふのであった。之を探知した六大軍閥では其前夜深更に軍官會議を開き、共彦派O
那側交渉使署︵之は對外的に無能だと云ふのだ︶英國人居留地等を襲0 、同時に團防0首領株な
共炭黛富日の計書は一大示威運動を行ひ。一隊は城内、一隊は對岸を遊行し。英國領事館。支
盛んに排英、反帝國主義を叫びコ二月三十一日には排英市民大會を開くことになった。
防あるが故だと考へた。折柄南京事件が勃登した。共産派に於ては英米軍艦の南京砲撃を題材に、
る。此国防が反共産の態度を持してゐる。共産派では勢力普及が面白く行かないのは一つは此團
る鴉め。共土地々々で拵らへた自衛團である。之は支那各地にあるが四川の團防は最も有力であ
共内に共産派印ち左派と團防との衝突が持上った。團防と云ふ0は軍隊又は土匪0横暴に備ふ
印刷屋など一時騒いだ連中も間もたく瓦解した。
産物として出来た洗毛布と稀する豚毛を整理する職人の團頭などが多少活躍しだぐらひで。靴屋
重
−
−
I
I
・
―
w
―
︱−− −i・
一八〇
1 慶 第三インターナショナル側0幹部で揚闇公たる者がゐた。之は日本留1 生で明大か法政出身であ
るが、常ロは首尾よ/へ城壁より飛降り軍隊の警戒線をくドりぬけ。江岸に落延び二三目を隠れて
ゐたが或日女装して妻君と共に亜東琥恚いふ汽船に乗込んだ。之を9 ぎっけた密偵は二三同も
内を訓べたが分らぬ。然し必らす居る筈だと云ふのでI人々々注意して見ると、髪0様子が
にも怪しいのが居る。引張り出して見ると果して揚だったので。螢内に引致し二三日がXり
調べたが、押牧した書類で漢口より第三イソターナツヨナルの金七萬五千弗を受取ったことは
かであるに拘はらす。残金五萬弗の所在は何うしても白状しないのでとう/y銃殺され
領事の引揚命令
此事件は四川としては近来稀れたる惨事である。而かも年少學生の多欲が殺されてゐるので、
普通たらば市民の物議を醸す所だが、大會に參加さしたと云ふ弱味も1 るので泣寝入とたった。
支那官憲では此二三日の後に。共雪
擁護し。北ハ産派を排除するとの意味を、六軍閥の名義を以て節電した。同時に信州、叙
等各地とも共産澱狩りを強行せる埓め。四川だけは共産涙も何事も成すなくして屏息してしまっ
た。授黛も夫々上海なり漢口なりに逃去った。
其後四月三日の漢口事件が傅はっだ際には。支那官憲は之が鼓表を抑へて新聞にも掲載せしめ
ず。努めて謡言を取締っだXめ何事も起らなかった。在留邦人に於ても成るべく其れに屑れない
ことにして極めて平稔裡に9 常通り仕事に就いてゐた。
然るに四月十一日に至り。領事は外務大臣の命令なりと拐し・在留民引揚げの準備を命じた。
此引揚命令O電報は、四月四日に鼓やられた者であるが、陸上電信であったXめに八九日頃に重
慶領事館に到着、共れと前後して日清汽船O雲陽丸が軍艦鳥刺と共に引揚邦人倫途の篤め圓江の
途に就いたとの情報もあったが、皆何の篤に引揚げねばならぬか分らないでゐた。
若し皐に生命の安全を欲すると云ふことならば四川の現在ほど安全の處は無い。叉鋸に引揚を
宣行する意志なら何故海軍の無線電信を利用しないかなど考へられた。然し所謂國策の鼓動か又
は命令とあれば拒むことは出来ない、國策の犠牲となると云ふことは斯んな際かとも考へた。其
内に下流方面から詳しい情報が来る。南京では掠奪凌辱、第二の尼港事件さながらであったこ
た。
船
如何
で取
明
州、成福
重 慶 一八一
慶
重 慶 一八三
一八二
泊の﹁保津﹂に電信で来援を請ふた。﹁保津﹂は早速上航して来たが其時には重慶衛皮司令から手兵
せ来り。何時如何なる事靉を起さぬとも限れぬ形勢となったので、碇泊中の軍艦比良より萬謁碇
が夜牛を選むで朝天門、大平門の二ヶ所より身を以て逃げ出た。其後暴民は居留地境0 まで押寄
毀す。掠奪はする、惨惚たる災害を受けた。常時城内在留0邦人は全部對岸の居留地に避難した
名は僅か0同違より暴徒の埓めに袋叩きにされ、同時に日本族館久来館は暴徒が侵入して家具は
の引上げ。食糧封鎖計書はもとより。後には邦人の生命にも迫るに至った。軍艦﹁比良﹂乗組員二
なり、在留同胞も可なり0迫害を受けた。支那人0近来に於ての慣用手段である邦人使用支那人
三十日、上海での英國巡査登砲事件が起った際0如き、直に重慶にも波及して盛んな排外運動と
それに前に述べたやうな政信であるから。何時動接しないとも限れない。現に大正十四年五月
ぬらねぱならぬ。賓に厄介な處である。
い。民船で下るとすれば危瞼此上も無いのみならす。排日の際でχもあれば其れさへ不可能に9 が減水期間であれば、在留民は何うすることも出来ない。下流方面から救助しやうにも方法がな
定通り言へぼ動けない期間が多い。斯様な状態であるから、恨に萬一心事かあるとして若し共れ
不能である。以上は商船であるが軍艦に至っては﹁勢多﹂﹁比良﹂﹁保津﹂等の如き小さなものでも、規
末より十一月末までとなってゐる。三沢内外のC級船でも一月末より三月末迄の二ヶ月間は航行
梢々専門的に言へば、吃水六吠以上のA級船は四月末より十月末まで、六吸以下のB級船は三月
しい鴉めに、現在までの處では日本汽船0航行可能期間は三月末から十一月末迄とされてゐる。
百
`
浬
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1
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1
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−
あ
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が
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、
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路
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界
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路
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、
且
つ
江
水
増
I減
0
差
︱が
甚
︱だ
I
至っては河幅頓みに窄まり、山壁両岸を堕して峙っ。即ち三峡の瞼である。重慶は之より更に四
孤帆遠影碧空憲。惟見長江天際流。洋々大海0やうな揚子江も。上海を距る約一千浬。宜昌に
航路難と排外暴動
登表した0であった。
り在留民の意向なりは十分明らかにして置く必要があると云ふので、惜こそ前1 0やうな決議を
後の決心を定めたも0だと信じ、何は兎もあれ引揚を決行することにしたが。然し現在の賓状な
口も空前0暴行が演ぜられたと云ふ様な事柄が傅へられる。其處で邦人一同は日本政府が愈々最
重
重 慶 y 一八四
を派遣して鎮撫に努めたので事無きを得た。それでも約二ヶ月は不安に脅かされてゐた。
斯様の次第なるが故に、若し一朝國交上に支障を来たすとか又は漢口。上海等に重大事幌が起
るとかした場合には、國策を断行し叉は在留邦人救出を必要とする上に於て、急濾引揚げを命せ
らるXOは営然であらう。之等を考慮した同胞は愈々引揚の準備を整へ船の到るのを待った。
四月二十二日、雲陽丸は日清汽船のマークを打消し、御用船0姿で入港したが、仮令容積の訟
裕があっても貨物は一切積ませぬと云ふ0で、中には長く放って置けば腐敗する品物もあったが
全部其慢残し手廻品だけを携へ。八十九名の同胞は二十三、四の雨日に乗込を了し、中一日を成
都方面からの引揚者を待ち十二名を併せ、二十六日朝重慶出登、途中で萬麻の引揚邦人十七名を
牧容、二十七日に宜昌着、二十九日同地を駿し、漢口に着いたのは三十日であった。翌五月一日
はメーデーで小蒸汽もジャンクも動かない、已むなく二日に上陸。暴動の跡など覗察した。所が
領事の話では上流地方在留者0引揚地は漢ロになってゐるから。此處で第二〇命令を待たねばな
らぬが、漢口も皆引揚げる形勢にあるので皆下江するのも宜しかるべし、其れには一人四十弗の
旅費を貸出してもいXとの事であった。長い間の山奥生活から泣はれて来だ連中であ・る。矢張り
此處まで来た以上は内地迄と云ふことになって一議もなく領事の勧告に添ふことXした。五月三
日漢ロの第四同引揚者と共に鳳陽丸、武陵丸と共に雲陽丸にて下江、六日上海着、同地の商業會
議所。民團等の慰問を受け、大部分は翌日0船で内地に節還したのであったが、今だに引揚者同
士の間に話題になってゐるのは、一行が漢口に着いたら共處0人々から一日千秋の思ひで待って
居たと言はれるし、上海では或海軍将校から君等は日本0寵兄だと言はれるし。何が何やら不得
要領で挨拶を返へして来たが、今日でもやはり不得要領だと云ふことである。聞かされた編者も
やはり不得要領だ。
半年たヽぬに此始末
迄上に撒かれてゐる傅華や貼紙には頗る振った文句がある。曰く﹁鍵除流峨的工會﹂﹁鉾除提
漢口では七月に入って共産派駆逐浬動が捺頭し、武漢清寞同志會など云ふものが出来たが、
てるのは﹁捉拿鮑羅庭、徐謙、鄙演逢!﹂だ。鮑羅庭即ちボロデンが此二一月に武漢に案込ん
唱獣慾新法頁淫的婦女協會﹂曰く﹁鉾除挽編農工的共産黛≒鎮除屠殺良民的共産黛﹂更に振っ
だ時には、革命の紳様、支那の救世主として狂熱的款迎を受けた。其れが何うだ、歌の文句
ぢやないが牛年たt
お互に深入りは禁物なSS\。
重 慶 T八五
I争II.ゝ t!.1’
船舶の被害
日清汽船の蒙りたる迪害は之を左0四項目に大別することが出来る。
一。航行中の射撃
二、強制停船臨桧
l’41111
三、暴兵暴民の無賃乗船
四、汽船の徴変又は物品掠奪
西
北
南
省
省
省
四 川 省
合 計
慶
一〇’八
一
二
一二
七七
一六
彼 害 地 方 別
方別、月次別、軍政所属別、被害種類別O四つに百分して見た。左の如し。
湖
安 徽 省
湖
乖
一八︷
一 八七
`
年三月二十日に至る約九ヶ月間内の被害件数百○八件の多数に上つてゐる。編者は試みに之を地
日清汽船會吐O変表した以上四項目に亙る被害統計によれば。大正十五年六月二十七日より本
︱
欲するのである。 四 ・ ゆ
吐の損害を散ふるにあらす。賓に日に能る支那人の横暴惨虐と此間に處する1 の蒜苦を傅へんと
であるI1は頗る激烈なるものがある。本書編纂に際し之が解説を試みんとするのは、7 に一會
度毎に蒙った被害は別として。最近の動既による被害︲︱と云ふよりも寧ろ迫害と云ふ方が適常
徳間の航路に亙り、大小二十能隻の汽船を配備し貨客の輸辺に従事してゐるが、十数年来排日の
日清汽船株式會吐は。揚子江本流に於て上海重慶間の一千四百浬、支流に於て漢口湘潭並に常
辿 害 の 解 剖
重
江
FF’
4
八 月
5
7
8
8
三 月
4
4
合 計
83
3
重 溢 ブ八八
右によれば湖北省が三分0二以上を占め.其次が湖南、江西の順序になるが.之は今回0動厄
3
十一月
2
2
十二月
3
2 5
lOS
二 月
九 月
26
5
31
十 月
16
6
22
二二
三
一〇八
”
一
一
軍 隊 所 属 別
南 軍 ︵國民革命軍︶
慶
北 軍 ︵矣佩孚軍其E
四川軍
計
八
一八九
の如く振舞ふてゐる。之は次の軍除所属別の数字を見ても思ひ牛ぱに過ぐるものがあらう。
日暴動團の加へた被害位いのものであった。然るに官軍となっては、如何にも営然の掻利なるか
掠奪を試みたりしたことはあるが、共他では此種の暴行は除り聞かなかった。偶々有りとすれば排
迫害は殆んどなかった。四川軍、と云ふよりも四川の土匪が上流航路に於て屡々只乗を強0 たり
を示せるのは。如何に南軍の行動の事毎に傍苦無人なるかO一路である。蓋し北軍時代には如斯
を動かしてゐた前後である。而かも九月の三十一件の内、北軍の五件に對し南軍二十六件0多数
22
13
七 刀
1
1
7
が湖北を中心に行はれたのと.従って南軍即ち國民革命軍の跳梁の最も甚しかったのを示すもの
である.
15
15
一 月
1
六 月
合 計
川軍
北軍
南軍
刀 次
之では九月と十月が最も多い。之は恰かも官軍が漢ロを占領し。湖北。江西に亙りて頻りに兵
彼 害 月 次 別
合
重
慶
軍
北 軍 共 他 合 計
一
二
三二
三 一〇八
一 一 | 一
被 害 種 目 別
三六
一八
二七
二
八三
九
被 害 種 n
航行巾の41 撃
強制停船臨検
暴兵暴民の無賃乗船
汽船強制徴良又は掠奪
合 計
一
宿
一九〇
j t
蓋 慶 一九一ヽ
︵大利丸船長報告︶
報告書を左に引用する。
最後に之等暴兵横暴0蜜例を紹介する埓め。日清汽船大利丸、大貞丸用船長の日清汽聯曾政宛
逍難船長の報告
道的な、無恥な全面を遺憾なくさらけ出したものである。
となりすました南軍の圖々しさを如宜に示すも0である。國民革命の美名に塗り隠くされた非人
次に強制臨検と無賃乗船が殆んど南軍に限られてゐるに至っては、一躍して世界革命の急先鋒
かす事柄な0だ。惧重の考察が肝要であらう。
事と悪るいことがある。以上0やうな事件0如きは洒落や戯談ではない。直ちに國威と民生を脅
排外と云ふょりも寧ろ侮外0現はれでなくて何であらう。相手の腹を割引して考へてやっていX
言ふ迄もなく之は。決して文字を知らない又は國旗の種別を知らない篤めではなかった0だ。
りしたも0だ。然し依然として射撃する。否却って益々盛んになったやうであった。
た。其埓に汽船の船腹に﹁日本商船﹂とか﹁日本兵船﹂とか大書したり日章旗を大きく書込んだ
別を知らたい恪だとか或は國旗の種別を辨ぜない悋だとか。兎角に非常に割引して解膠されてゐ
などでは。田舎から出て床だ南軍兵が珍らしさに鍼砲を打放すOだとか、無1 な篤に外國船の匝
れた。時には外國軍艦さへも銃弾を浴びせられたことがあった。之に對し日本人側、殊に海軍側
南軍の湖南。湖北に侵入して以来こ
二一五
五九八六
最後に被害種目別を見れば。南軍の横暴惨虐の意外に甚だしきに驚くであらう。
重
匯
すれば、
軍 服 者
平 服 者
上下各航別数
一九こ
計
六五〇
一、〇〇〇
五五〇
三〇〇
七〇〇
︵以下略す︶
巡器 て八〇〇
四五○
合
三〇〇
一五〇
二五 二四
〇五 五〇
〇〇 ○○
航
八六六
大部分軍人にして1 通客は二
割内外なり
三八 −
○○ 七〇
○O oo
慶
一九三
面より怒脈を挙げて一等蓮将士を殴打せる兵士あり。之に雷同せる周回0軍人は喊聾を揚げつ
9 及び其の部下苦力に整理を命じ、。倚足らざれば二等買辨を呼び寄せよと命じたるに。突然側
一時牛頃、本船一等温轄士は上暦遊歩甲板上﹁メスルーム﹂外側に於て、営時同所に居りし買
船員の行動並に一般乗客の通行妨害する事甚しく、篤めに之れを整理すべく三月十七日午前十
は革命軍座下0無賃乗船兵士約五十名乗船し、軍人並に一部乗客は上暦遊歩甲板上に占居して
より乗客は船室及び室外に溢れ、更に上航蕪湖港に到達しては乗客愈々増加し。特に同地より
本船第八四六次上航、昭和二年三月4 五日午前十時三十分上海港解攬。途中南京港出帆の頃
五二 こ
○○ 八〇
○○ ○○
八五七
八六八
下上 下上 下上
航航 航航 航航
心
︵大貞丸船長報告︶
八七〇
八
六
九
下上 下上
航航航航次
͡。一一/
る所となり、一昔不法乗船者の増加を招来せり。最近五航海に於ける之等不法乗船1 款を表示
忽ち9 1 0學に出づるを以て係員の動作意の如くなら9 、此間に乗じて不法を働く徒輩の乗字
路の閉塞は乗船切符の鮎桧に甚しく困難を来し。誤って軍人の手足を踏むが如きことあらんか
人の外は皆平服旅客なるもこ
並に其上流各停船地より0乗客数約一千名中八百訟名は不法無賃乗船者にして。二百訟名の軍
原入し士官居室0窓硝子を破壊して闘入せんとするあり、其0混雑名状すべからす。而も九江
端艇上より更に﹁オー11 ^グデツ4 ﹂に溢れ、船首桃又立錐の余地なく、士官食堂には窓より
七〇次︶ の如きは乗船者異常の多数に上り、九江上流に於ては上甲板各等宗内は素より各甲板
漢口九江雨地間往復軍兵0横暴なる不法乗治に開しては既に御報1 中上候處にて、本船︵第八
重
尨
重 1 一九叫
つ一等這㈱士を包圖脅迫せるも。非営直職員一同其喊聾に気付きm付け、漸く一等這㈱士を﹁メ
スルーム﹂に避難させ事臍み候。此の間一等蓬轄士は経始反抗的態度なきに拘らず斯の如き暴
行に逢ふを見ては。我等船員の地位愈々不安と相成候。営時﹁メスルーム﹂外側近くに職員室
有之幸にも難を免れ候へ共。若し直に職員一同の来援を得ざる程距りたる個所ならんか、一等
運轄士の危難は想像するだに肌に粟するも0有之候。︵下略︶
此外前記百〇八件の被害の内0最も甚だしいのを畢ぐれば。本年三月十二日、鳳陽丸は漢口に
於て北軍解散兵約一千名0不法乗船の埓め一日遅れて出帆するを能義なくされた。昨年十一月三
日湘江丸は湖南省琴棋閲に於て射撃せられ。武装せる南兵二千徐名押寄せ来り掠奪を逞しくした
上。松本船長を拉致し数日後に至り漸く謬放した。本年三月ナ八日大貞丸は蕪湖上流にて南兵及
無頼の徒約一千五百名無賃来船し備品を掠奪し邦人船員を殴打した。同二十日大吉丸も同場所に
於て無賃乗船の南兵の横暴0埓め、特別客及邦人船員は安慶、漢口間約二十能時間絶食の借で航
行を能義なくされた。
乗組員並に乗客の被害は、日本船員一名負傷、支那人船員並に乗客0印死二名、負傷者は十首
名0多数である。此外。不言課税共他による金銭上0被害も可なりの亘額に上つてゐるやうであ
武昌紡織職工 一、〇〇〇人
︵二︶ 革命軍末漢後
合 計 五八、〇〇〇
遊 民 一〇、〇〇〇
馬頭苦力、租界局工人 三〇、〇〇〇
以上職工の家族 一二、〇〇〇
染織職工 二、〇〇〇
漢恰萍交通題翰職工 てOOO
漢陽鋼磁廠職工 三、〇〇〇人
︵一︶ 革命軍末漢前
賓に十六萬。共内原左の如し。
六月初句の調査によれば漢口武昌の支那人失業者
武漢央業螢借者
以上︵一︶︵二︶總 計
合 計
日英人使用人
口本人工場工人
泰安紡績職工 ︵日︶
英米煙草職工
各業店員
質業店員
銭業店員
煉瓦製造苦力
小車苦力
竹木窓搬苦力
聡頭苦力
建築職工
染織職工
一五八、九〇〇
一〇〇、九〇〇
三、〇〇〇
四〇〇
三、〇〇〇
三、〇〇〇
一、〇〇〇
三〇〇
七〇〇
一〇、〇〇〇
三、〇〇〇
七、〇〇〇
三五、OOO
三〇、〇〇〇
一、〇〇〇
るが。詳細の数字が得られたいから茲には略することにした。
揚子機器廠職工 七〇〇
一九五
漢陽小機械工場職工 一、八〇〇
重 慶
レLL
Fly UP