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『啓蒙主義の経済制度』 口
翻 訳 アンリ・ブランスヴィク ﹃啓蒙主義の経済制度﹄ I 信 岡 資 生 訳 三 伝統的社会 プロイセンの社会は三つの互いに大きく分離した階級から成り立っている。それぞれの風習は大いに異なって いて混ざり合う機会も殆どない。それら階級は並存し、偏見を育み、独自の服装・飲食・言語習慣を持ってい る 。 一 七 八 八 年 ク⑩ ニッゲはこう記している。﹁ヨーロッパで我が祖国ドイツほど、あらゆる階級、地方、身分の人 間との交際において皆に気に入られ、これらのどの集団の中にいても気楽に感じ、無理なく偽わらず怪しげに思 われずまた独り悩むこともなく、君主にも貴族にも市民にも、商人にも僧侶にも気侭に働きかけることが難しい ところは恐らくあるまい。なぜなら、時代を同じくしながら会話や教養や宗教その他の意見のかくも多種多様、 各地方の各国民階層が注目を寄せる事柄のかくも大きな相違が到るところで見られる国は恐らく他にないからで ある。これが因ってきたる所以のものは、ドイツ諸国家相互の利害関係、また外国に対する利害関係の多様であ −55− り、諸々の外国の民族との関係の相違であり、ドイッ内部における階級相互間の極めて著しい対立である。階級 の間には古びた偏見、教育、部分的にはまた国家体制が他の国々におけるよりもはるかに明確な境界線を引いて 融い る 。 ド イ ッ 以 上 に 貴 族 の 代 数 ⑩の観念が思考様式と教養に大きな道徳的、政治的影響を持つところがあるだろう か? 我が国ほど一般に商人が他の階級の生活に介入することのないところがあるだろうか?︵帝国直属都市は 除外すべきだろうか?︶この国以上に宮廷族が独特の種属を成していて、彼らの仲間入りをするのは、大方の領 邦君主人と同様或る種の素性と或る種の身分の人々にのみできるところがあるだろうか?﹂ そ の 十 五 年 後 に マ ダ ム ・ ド ・ ス タ ー ル も 0次のように記している。﹁異なる階級相互間の関係はまた、フランス では洞察力、節度、社交精神のマナーを養うのにたいへん適していた。この国では身分が公然と幅をきかせるこ とはなく、だれもかれも自分が成功するか敗れるか確信が持てない状況に置かれていたから、絶えず一生懸命気 を配って生きた。第三階級の権利も、議会のまた貴族の権利も、それどころか国王の権力さえも、何一つ不変で 固定したものはなかった。 ドイッでは各人がその職場に就いているようにその身分に就いていて、自分の生まれや肩書に基づいて享けて いる隣人にない特権を、巧妙な言い回しや余談や仄めかしを使って表す必要がない。ドイッでは宮廷は一段高い 社会であった。フランスでは皆がこの社会に入れたし、宮廷と肩を並べることができた。皆にその可能性がある 反面、また皆がこの目標に決して到達できないことも覚悟できた。皆、がこうして宮廷社会の行儀作法を身に付け ようとしていた。ドイッでは宮廷への出入りを得るには肩書だけで足りた。フランスではひとつへまをするだけ で 放 り 出 さ れ た 。 こ こ で は 宮 廷 社 会 の 中 に い て 才 能 で 目 立 つ よ り も 順 応 す る こ と の ほ う に 躍 起 に な っ ︵た 召。﹂ −56− この考察はプロイセンにも他のドイツ諸国家にも当てはまる。啓蒙主義はこの地に個人の氏素性ではなく才能 に基づく新たな社会を築こうと努力するのであるが。﹁予はここで貴族のために二、三付言することを忘れるも のにあらず。﹂とフリードリヒニ世は一七六八年に書いている。﹁貴族は軍の将校を占め、またすべての重要官職 のメンバーは貴族出身者であるがゆえに、予は常に貴族に高い敬意を払うものである。予が貴族の土地所有のた めに尽力し、貴族にあらざる者の貴族領地購入を阻んできたのも以下の理由による。即ち貴族にあらざる者が領 地を所有することになれ、ば、彼らはすべての官職にも就けることになる。彼らの大部分は考え卑しく、将校に適 さ ず 、 彼 ら を 仕 向 げ る と こ ろ 見 ︵当 2た 3ら ︶ず。﹂一七九四年に公布された法律は貴族に、貴族領地保有の独占権、最高 地方裁判所のみによる裁判、土地への課税とアクチーゼと兵士の宿営割り当ての免除など全ての特権を保証して いる。工場主や商人になって身分に悖ることも、また身分の低い者と結婚することもできない貴族は、領地を自 ら経営するか、国王に仕えるのである。 彼らは相当な所領を所有している。土地のおよそ四分の一を自ら経営し、残りの三分の二は農民の定期小作地 である。自己の﹁世襲封土﹂では彼らは領主である。彼らはそこで裁判を行い、公課を取り立て、学校と教会に 対する保護権を行使する。国家は、軍の兵士補充に支障、が生ずる住民数の減少の阻止を別にすれば、彼らの所領 には滅多に干渉しない。 残念ながらT八世紀の貴族と封建制度についての詳細な調査が不足しているので、この政策の結果を正しく評 価することができない。しかし制度の特色を明確にすることでそれが可能になる。ライン沿岸地方及び南ドイ ツ、西ドイツでは貴族の状況はフランスと同様である。直接経営農場の質の低下、小作料の固定化、一般的な人 −57− 口増加が貴族の貧困化を招く。貴族は世紀の初めから田舎の領地を手放し、領邦君主の宮廷あるいはプロイセン 国王、ドイツ皇帝、ロシア皇帝に仕えて出世しようとする。しかしエルベ何の東では貴族はその名声を維持し、 その伝統的地位を堅持する。 ここでは貴族は大農場主である。クーアマルクでは土地の半分が貴族のものであるし、そのうえ貴族は所有地 の 七 分 の 一 に 対 す る 公 課 を 現 金 、 現 物 も し く は 賦 役 の 形 で︵ も2 ら4 う︶ 。一七九九年まで貴族は完全に免税の恩恵を受 けているが、その後政府は貴族に奢侈品・砂糖・コーヒーの輸入と、所有地から収穫した穀物の輸出に対する少 額 の 税 金 の 支 払 い の 義 務 を 負 わ せ る 。 農 場 経 営 の 改 善 の た め に 創 設 さ れ た 抵 当 証 券 組⑩ 合で、貴族は四パーセント と い う 極 め て 低 い 利 子 プ ラ ス 諸 経 費 の 四 分 の で ハ ー セ⑩ ントで金を借りることができる。貴族は農村では領主であ る。というのもプロイセン国家はラントラート︵郡長︶が末端であるからである。国王の支配は実際のところはク dejustice)の下には、農村では国家の代表機関としては郡長がいるだけである。この郡長は常に貴 ライスー州の下位区分−まで組織され中央集権化されているに過ぎない。州の軍事・王領地財務庁とレギー ⑩ ルング︵9ur 族 出 身 者 で あ る 。 郡 長 は 、 ク ラ イ⑩ ス身分−殆ど貴族から構成されているーが推薦する三名の候補者の中から 国王に任命される。郡長はその身分に完全に隷属している。彼の任務は抵当記帳の監視と、堤防監督官、社会福 祉 部 長 、 火 災 組⑩ 合 幹 部 ︱ こ れ ら も 全 部 貴︵ 族2 −5 と︶ いった無数の地元の顕職者の監督である。 肩書がもはや実際的な役目に殆ど対応しなくなった貴族の無能に対する啓蒙主義の批判は、都市に比べて農村 ではそれほど激しくない。また貴族の諸特権もここでははるかに割りがよい。民事・刑事の下級裁判権、教区の 保護権及び学校の監督は貴族の収入と勢力を増大させていく。莫大な金額をもたらす教会の役禄とコメンデ︵空 −58− 位 聖 職 ⑩禄︶はいわば貴族のために残されている。クーアマルクでは司教座教会の教会禄は、半額は国王から、他 の半額は参事会から与えられるのであるが、毎年二千ターラー、つまり高官あるいは大臣の俸給に匹敵する収入 をもたらす。司教座教会参事会の最下級職でも更にそれに加えて七百ターラーの収入になる。 これらは馬鹿にならない収入で、名家のかなりの数の末裔を養うに足りる。それゆえ当時フランスで専ら取り 沙汰されたような貴族の危機は考えられない。あらゆる社会的身分の中で貴族は最大の安定と伝統墨守を見せて いる。貴族はしかし道徳的また社会的原因からくるある種の危機を感じている。啓蒙の合理主義と普遍主義の趨 勢の中で騎士は次第に所領を奪われて都市への移住を促され、そこで大部分の特権を失っていく。都市では出費 が 嵩 み 権 能 は 弱 ま り 、 こ う し て 貴 族 は 特 権 の 喪 失 を 惜 し み 、 名 誉 を 楯 に と っ て 官 職 を ー 優 先 権 と し て l 要 ⑩求 するが、教養知識が欠けているためこれを全く遂行できない。これに加えて、疫病や戦争による死亡がなくな り、人口の増加のため田舎暮らしは大家族にとってますます苦しくなる。長子相続権は農村では存在しないが、 古 く か ら の 家 族 の 連 帯 ⑩は維持され続けた。先祖を同じくする一族は皆一つの領地で生活する。これは彼らの生活 を充分賄うほど大きい。彼らは領地を用益権者として経営し、遠国で、軍隊で、官庁で、外国で成功することが できず、家族の懐に戻って来た二族の者を収容する。この封土連盟という共同体の中では全ての構成員は厳しい 規則に従う。男系親族全員の同意がなければ抵当権を設定することも領地を売却することもできないし、借入は 封主の監督の下に騎士登録簿という特別の記録簿に記入されなければならない。 負債はしかしながら人口増加のため深刻なものになっていく。農場で生活せず、あまりにも小さくなった領地 −59− で暮らしが立だなくなった者や、結婚する娘が遺産を現金で要求するようになる。こうして、殊に当時の封主が そ の 管 理 権 を も 放 棄 す る の で 、 土 地 所 有 者 は み る み る 負 債 を 背 負 い 込 む 。 一 七 七 七 年 以 ⑩後国王は、家臣を少額の 公 課 ﹁ 采 邑 騎 ⑩馬 ︵金 2﹂ 6の ︶徴収によって忠誠義務の大半を免除することを提案する。他の封建領主もこの例に倣い、 封土連盟は解体する。騎士領は非封土︵私有地︶に変わり、ますます急速に負債を抱えこんでいく。しかし継承 の伝統は存続する。家臣に長手相統制を導入させ、領地を一人の男子のみが相続して残りの子供は少額の一時金 を受け取ることを認めさせようとしたフリードリヒニ世の努力も、深く根づいた平等の原則に逢って失敗する。 領地はますます細かく分割され、負債はいよいよ増えていく。一方債権者たちは不安になる。あらゆる予防措置 が構じられ、非封土化か国王の認可を必要としなくなり、男系親族の合意が書類で済まされるようになったとは いっても、だれか一人が意地悪く、あるいは自分が忘れられていたからという理由で、異議を申し立て保証契約 を撤回することが起こりかねない。そこで一七二三年の勅令は、負債が領地の改善に繋がるのであれば男系親族 の同意は不要と定める。しかしそれでも未だ苦情が出る。 七 九 元 年 同 時 代 の 人 フ ィ ン ケ ン シ ュ タ イ ン は ⑩、騎士領はその価値の半分が抵当に入ったと見積もっている。 一 債権者らはクレディットの解消を希望するし、また地価の上昇と都市生活の魅力は土地所有主にとってたまらな い誘惑となる。しかし騎士領の市民への売却を禁ずる文言は実に厳しい。ところが良い値を付けるのは他ならぬ 市民なのである。一七五〇年の勅令は国王の認可を必要と定めている。一七六二年の勅令は騎士領の所有主と なった市民に、他の市民への再譲渡を禁じている。一七七五年の布告は市民に、貴族の相続人がなお存命の場 合、非貴族の所有する騎士領の遺産を相続することを禁じ、おまけに市民から騎士領と結び付いている狩猟権、 −60− 顕 職 、 ク ラ イ ス 身 分 の ポ ス ト ま で 取 り 上 げ て い る⑩ ! しかしフリードリヒ・ヴィルヘルムニ世とフリードリヒ・ ヴ ィ ル ヘ ル ム 三⑥ 世は売却をあっさり認める。彼らが認めなければ法の裏を掻くまでのこと。長期﹁賃貸し﹂にし て賃貸料一時払いと決めればよい。あるいは表向きの名義人を貴族にして売ればよい。こうしたわけで一八○○ 年 の ク ー ア マ ル ク で は 騎 士 領 の 十 三 パ ー セ ン ト が 市 民 の 手 に 渡 っ て い る の も 頷 け る︵ 。27︶ 領地に居住しない貴族は官職に就こうと望む。一八○○年頃クーアマルクで軍隊または官吏の道を歩まなかっ た地主は二十七パーセントに過ぎない。しかしますます貴族は二時的にだけでなくできるだけ長く官職に居座り 続けたいと願うようになる。貴族は称号に物を言わせる。もはや称号を放棄せず、失ったとしてもそれは例外で あって、先祖が商売を営むために放棄したのであれば復活させる。貴族は一般にいくばくかの蓄えを隠し持って いるから、激務ではなく、また利得の少ないごくささやかな官職にも甘んじることが多い。﹁住所録﹂には下級行 政官貴族の氏名が目白押しに並ぶ。働いて生活したいという要求を掲げれば、ポlランド貴族、あるいはフラン ス人亡命者、あるいは彼らより教養のある市民と衝突する。そこで貴族の教養を考えてみる。 名門家庭ではよく子弟に優れた家庭教師が付いて、彼らの知性を啓発し、ドイツ国内外へ長期旅行のお供をす ⑩ 硲 ⑩ 侈 る。例えばシュライエルマッヒャーはドーナ伯爵家の家庭教師を勤める。シェーン伯爵は、イエーナで若いロマ ン 主 義 者 ら に 大 き な 影 響 を 与 え た 有 名 な 教 育 学 者 ベ ル ガ ー励 を 教 師 に す る 。 シ ェ ー ン の 父 は カ ン ト に 息參 子の勉学の 相 談 を す る 。 息 子 は ケ ー ニ ヒ ス ベ ル ク で 偉 大 な 哲 学 者 で 経 済 学 者 の ク ラ ウ ス⑩ の講義を聴く。十六歳の学生だった 彼 は 後 年 牧 師 に な っ た ヴ ェ イ シ ュ や フ ィ ヒ⑩ テのような著名人と親しく交わる。一七六六年二十三歳の彼に行政官 の 道 を 開 く こ と に な る 試⑤ 験を済ませると、彼はプロイセン諸州を旅行し、イギリスに長く滞在する。こうして三 −61− 年半を過ごした後、彼はビヤィストックの軍事︰御料地財務庁での役職に備える知識や、またTハ○七年以後 シ ュ タ イ ン H ハ ル デ ン ベ ル ク の 改 ⑩革 を 支 え る た め の 素 地 を た っ ぷ り 身 に 付 け る の で あ る ︵。 28︶ しかしこうした成功例は稀であり、富裕な財産や縁故があってはじめてできることである。マールヴィッツ。 シ ェ ー ン 、 あ る い は フ ン ボ ル ⑩トのような人物と並んで、無数の貴族が人生を軍隊、宮廷、あるいは行政学院の中 で、業績も思想も何の痕跡も残さぬまま無為に過ごしている。彼らのことも、また田舎で暮らす彼らの兄弟のこ とも殆ど何もわからない。宮廷に残る人達は君侯の知遇を受け、年金や閑職や大使を当てにできる。しかしベル リンの宮廷での人生はとてもヴァイマルやドレースデンほど輝かしく華やかで策謀に満ちたものではない。しば しば退屈きわまりなく、大都会の雰囲気は、行儀作法や人前での威厳の取り繕いにうんざりする貴人を、啓蒙さ れた市民との隔ての垣根を越えて娯楽に耽りたい気分にならせる。軍務に就く貴族は最高の勲章を得る確実性が ある、というのも貴族でない者は言わばこの栄誉から閉め出されているからである。官庁あるいは参事会入りを 決心すればー採用試験の難関突破を前提としてー同様に最高の役職に到達するであろう。そうした役職の数 はたいてい有能な貴族の候補者を上回るだけある。貴族の経歴はそこで終わる。退職して工揚主や大商人になる 権 利 は 貴 族 に は な い の だ ︵か 2ら 9。 ︶ 貴族は自己の優越をよく意識し、常に特別待遇を念頭に置いている。指導者の地位を占め、肩書を大事にし ー チ ェ ス タ ー フ ィ ー ル ド 卿 ⑩が引用する一通の手紙の例がある。その手紙は宛名に、ドイツ人の文通相手が持つ 二十の肩書の一つを書き忘れたために未開封のまま送り返されてきたという!l市民と食卓を共にしたり同じ サ ロ ン に 出 入 り す る の は 沽 券 に か か わ る こ と と 思 う ⑩。 −62− 貴族は王国内では依然として第一身分である。ここではフランスのように教会と競わない。旧態依然としてい る、というのもプロイセンでは行為が人の身分を高めるのではないからである。フリードリヒニ世はこの恩恵を 滅 多 に 与 え な い 。 も っ と も 彼 の 後 継⑤ 者は爵位記を四百タ土フープラス経費五十三ターラーで売り、叔父の五倍も 与えるのだが、この肩書は社会では殆ど評価されない。大地主でもあった旧貴族はごく簡単に伯爵とか男爵とか 望 み の 肩 書 を︵ 得3 る0 。︶ 身分差はプロイセンでは他の西欧諸国に比べてはるかに厳しく存続している。 市民階級はしかし、プロイセンにはポーランド征服後約一千万の居住民のいる九千の貴族領が未だ残っている ことを知っている。都市の中の暮らしは閉鎖的である。そこではいくつかの社会が互いに混じり合うことなく出 会い、貴族と市民が離れているのと殆ど同じくらいお互い離れた生活を営んでいる。家庭の中で細々とその日暮 らしを続ける労働者、ツンフトの堅苦しい規約に縛られる職人、苦労して儲けを弾き出しながら王国のアクチー ゼと都市の関税の重圧に喘いで常に破滅寸前の状態にある小売商人、余りにも多過ぎる同僚間の競争に苦しむ知 識人、自己の紋章を誇る豪商やマギストラート︵高級官僚︶、序列制の、いずれにしても給与のよい官僚−︱彼ら は皆、アクチーゼに身分を囲み入れられた窮屈な場所で動き回っている。 皆の中で一番不幸な者は穀物を生産し軍隊に最良の新兵を送り込む農民である。農民の社会的境遇は地域によ り 様 々 で あ る 。 そ れ ゆ え 一 七 九 四 年 の 農 業 法 ⑩は 、 領 主 と ⑩農民の関係を規制するため州別の特別法を起草すること を 目 論 で い る 。 東 プ ロ イ セ ン に 適 用 さ れ る 一 般 ラ ン ト 法 典⑩ はニハ○二年に公布される。他の法典の採択にとって は イ エ ー ナ の 敗 北㈱ 前で時間がない。しかし軍事H御料地財務庁は実に詳細な情報を提供している。地域差が多様 なため東部地方と、エルベ河西部及びシュレージエン諸州という二つの複合体に分けて考慮しなくてはならな −63− い。シュレージエンでは領主は、西欧全域と同様、小資本の金利生活者である。彼らは自分で農場を経営せず、 裁判権も警察権も行使しない。彼らの農民は一般に自由である。彼らは耕地の下位所有者あるいは領主の小作人 と し て 賦 役 に 従 事 し 、 年 貢 を 納 め 、 自 身 は 完 全 に 自 由 で あ る 。 少 数 の ﹁ 土 地 保 有 農 ︵ ア イ ゲ ン ベ ヘ ー リ ゲ ン ︶⑩ ﹂は 農場を手に入れ、これを半分妻や子供に遺贈することができる。領主は残りの半分で満足する。子供には、領地 を離れて定住しようとする場合にも買い戻し権がある。エルベ河流域では農民はやや苦しい生活環境の中に置か れている。マクデブルクやハルバーシュタット地方では農民が死亡すると領主が雌牛あるいは馬を取る権利があ る。アルトマルクでは農民は結婚しようとする場合領主の許可が要る。 東 部 の 農 場 領 主 は ⑩自 己 の 農 場 で は 絶 対 君 主 で あ る 。 彼 は 裁 判 と 警 察 を 掌 握 し て い る 。 自 由 な 農 民 參はごく少数で ある。領主の被護農民︵アインリーガ−もしくはシュッツウンタータン︶として彼らは賦役の義務があるが逃亡す る こ と も で き る 。 隷励 農 は こ れ に 対 し 耕 地 に 緊 縛 さ れ て い る 。 土 地 保 有 農 は 地命 主に永代小作料︵エーアプパハト︶を 払 う が 、 相 続 人 を 自 分 で 指 定 で き る 。 非 保 有⑩ 農はこれに対し小作料に加えて永代年貢︵エーアプツィンス︶を払 い 、 亡 く な る と そ の 子 供 た ち の 間 で の 相 続 人 の 選 定 は 農 場 領 主 が 行 う 。 ュ ン カ ー⑩ は彼らの生計を保証する義務は あるが、いつでも彼らを移し変えできるし、働きぶりが気に入らなければ追放もできる。日雇い農︵インストロイ ⑩ テ︶は、自由農と隷農との間に位置する中間階層であるが、とりわけ貧しい。彼らに仕事と金と与えるのは貴族で あ る 。 彼 ら は 照 星 と 数 モ ル ゲ⑩ ソの土地を与えられるが、いつ没収されるか分からない。彼らは自由意志で奉公を 辞めることもできる。世紀末には東プロイセソの住民の相当部分を彼らが占める。彼らの増加は農村における最 も重要な社会現象であることは確かである。ポソメルソの農村の調査では二七九五年の住民数は三十五万六千七 −64− 百六十五人、一七九七年では三十六万一千六百十六人、それぞれの年のインストロイテの数は二万七千百九十一 人とコカ八千三百九十二人で、これに対し農民は一万六千二百五十七人と一万六千三百三人、また羊飼または牧 童は四千六百九十一人と四千七百四十七人である。このようにインストロイテはますます重要性を増し、彼らの 数はこの二年間に七パーセント以上増加しているが、一方自由農の数は殆ど上昇していない。ポンメルンは従っ て 純 粋 な 農 業 地 帯 で は な い 。 こ こ で は 職 人 と 並 ん で 農 村 に 十 五 万 人 以 上 の ガ ラ ス エ 業 と 冶 企 業 の 労 働 者 が い る︵ 。召 労働力が払底しているわけでもないのに、このようないつでも自由に働かせることのできる集団が、厳しい立 法 で 耕 地 に 緊 縛 さ れ て い る 定 住 永 代 隷⑩ 民と並び暮らしているのを見るのはすこぶる奇妙である。農場の集約的経 営を封土民の労働力だけに頼ろうとする農場領主はこうした矛盾にこだわらない。一八世紀初頭以来彼らは賦役 を 増 や し 、 権 利 を 存 分 に 利 用 し よ う と 努︵ め3 る3 。︶ 永 代 隷 民 は⑩ 許可なく土地を立ち去ってはならず、農場領主は彼ら を合法的に追跡でき、彼らを匿う隣人はその罪を問われる。彼らは許可なく結婚できない。彼らの子供は領主の 同意ある場合のみ職業を習得または勉学できる。二十四歳の年齢に達した男子は、農場領主が農場に割り当てる 宿舎に入らなければならない。土地不足のためどこか他の地に定住しようとすると領主の許可が必要であり、そ の場合も領主は彼らを手元に置きたいと思えば意のままである。両親の許にとどまることを許される男児・女児 は例外として、子供は家事奉公に従事しなければならない。この奉公は東プロイセンでは五年間続き、慣行の賃 金率に従って給金が払われる。ニーダー・シュレージエソではその期間は無限であり、最初の三年間召使は殆ど 無給である。男子は自己の住居を持てば、また女子は結婚すれば、家事奉公は終わる。 公 は 実 に 種 々 様 々 で あ る 。 フ リ ー ド リ ヒ ニ 世 は 賦 役 の 期 間 を 固 定 し よ う と す る が う ま く い か な い 。 賦 ⑩役は東 奉 −65− 部 と シ ュ レ ー ジ エ ン で は 週 に 六 日 、 西 部 で は 二 乃 至 四 日 で あ る︵ 。3 と4 い︶ うことは農民が間断なく領主のために働く わけではないのだが、しかしいつでも召しに応じなければならない。農民は農地を耕作し、森林を管理し、必要 な建物を建てる。領主に対し畜耕役を果たし、収獲物を運び、領主の急使を勤める。 新 し く 領 土 と な っ た ポ ー ラ ン ド 諸 州 で は 永 代 隷 民 は ⑩文字通りの奴隷である。彼らの賦役には定めがない。農民 はまた契約に縛られているのでもない。領主は土地を付けずに彼らを売却できる。 シュレージエンでは農民の境遇はいくらかましである。国王にとってはこの新たに獲得した地方で人気を得る ことがとても重要なのである。ここでは貴族身分︵シュテンデ︶が決して結束しないから、国王は大方の反対を 恐れる必要がなく好きなように振る舞える。ここの農民はとりわけまた他の何処よりも聡明で、自己の権利をよ く弁えているようである。 国 王 は そ れ ゆ え 一 七 八 四 年 に 双 方 の 権 利 と 義 務 を 固 定 す る こ と を 定 め る 。 ⑩各騎士領ごとに最終的な協定が、即 ち審理に終止符を打ち双方の秩序の存続を認める土地台帳が作成されることになる。しかし一七九九年と一八○ 五年の間に六千六百の騎士領の内、規約ができたのは僅か三百四十二である。これは二つには、ブレスラウとグ ローガウの本委員会から委任を受けている地区の下部委員会が、反対派の貴族の影響下にあるという事情によ る。今一つは、フリードリヒニ世の死後、ベルリン中央政府はこの企画の仕上げをしようとするフォソ・ホイム 長⑩ 官の努力をもはや支援しないためである。一七七九年以後フォン・ゴルトベック首相は、規約は農民からの訴 えがある場合にのみ作成されることを認めてしまう。 委員会が集めた諸記録には当時の農業についての数多くの情報が記されている。一七世紀以来固定されている −66− 年貢が物価の上昇のため著しく価値が下がって不利益を彼ることになった農場領主は、農民に賦役と畜耕役を課 し、その行動の自由を制限しようと努める。土地台帳は農民に三∼四目の週役を義務づける。同様に僕婢奉公も 農民は勤めなければならない。 耕 作 は 古 来 の 伝 統 に 則 っ て 集 約 的 に 行 わ れ る 。 農 民 に は 休 耕 地 が 励義務づけられ、週一回領主所有の牧草地使用 並びに森の枯れ木採取の権利がある。 村の創設は村長︵シュトルツ︶の管理の下に行われる。村長はたいてい農場領主が任命する。村長職は世襲の ことが多く、常に有給である。どの村にもすべて教会、学校、牧舎、救貧院がある。一般に村長の他に陪審員二 人、代書人、学校長、守衛、使者が各二人いる。伝来の集団的圧政がつまり到るところで保たれている。西欧の よ う な 農 業 革 命 の 起 こ り そ う な 気 配 は こ こ に は 全 く 見 ら れ な い ︵。 35︶ 農 場 領 主 に 対 す る 貢 納 の 他 に も 農 民 は 教 会 と 国 王 に 十 分 の 一 税 を ⑩納める義務がある。この地租は最も重要な直 接 税 で あ っ て 、 政 府 に 年 二 百 万 タ ー ラ ー 以 上 を も た ら す ︵。 3そ 6の ︶上農民は兵役にも就かねばならない︵兵役の間は 隷農身分は中断される︶。こうして貢納は農民の収入の半分以上に達することもしばしばである。 国王が農民の状態に関心を持つのは、ただ彼らが貢納を果たし、新兵を供給するからである。国王は軍隊の最 良の源泉が枯渇することだけは避けたい。しかし国王は将校と官吏の供給源である貴族の御機嫌も取り結ばなけ ればならない。フリードリヒニ世は農業労働者と農場領主の間の伝統的関係をうまく作り出す。国王は封土の大 きさを保つために、農場領主に新しい農民をある農場に移住させることを許さない。彼は領主が封土を自分の相 続 財 産 に 加 え る こ と を 禁 じ 、 各 郡 に 割 り 当 て ら れ た ︵連 3隊 7が ︶必 要 と す る 兵 隊 の 数 が 減 る こ ⑩とのないよう﹁農民の租 −67− 税 を 買 う ﹂ こ と を⑩ 禁 じ る 。 賦 役 の 期 間 を 制 限 し よ う と す る 彼 の 努 力 は 王 領 地 に お い て の み 成 功 し穆 た。 フリードリヒニ世の後継者たちは彼の立法を変更しない。農場領主たちの横暴はとりわけポ土フンドの諸州で 頻発する反乱をもたらす。南プロイセンで施行された一七九四年三月二十八日の勅令は、一七九七年四月三十日 に改められて東プロイセンにも適用され、農民に貴族の逸脱行為に対して国王の裁判に訴えることができること を知らしめはするが、勅令の単なる形式、暴行の一覧表l貢納の恣意的な引き上げ、臣下に負う役務の第三者 へ の 賃 貸 し 、 体 罰 − は こ れ ら の 行 為 が 依 然 と し て 普 通 に 行 わ れ て い た こ と の 証 拠 で あ︵ る3 。8︶ 農民解放は偉大な理念である。しかし農民に自由な行動を許すならば、同時に軍隊の新兵供給を損ない、主人 から奉公人を取り上げ、安価な奉仕労務を廃止することになる。極めて緩慢に、一七九九年から一八○五年の間 に フ リ ー ド リ ヒ 三 世 は 内 閣 顧 問 官 バ稿 イ︶ メの提案に応じ、心を決めて王領地の臣民を解放する。この処置で約五万 人の小地主が誕生する。国王はしかしながら家臣にもこの改革を敢えて強いる気にならないし、また彼らに地租 を 課 す こ と も し な い 。 彼 ら が 受 け 入 れ た 唯 一 の こ と は 彼 ら の 関 税 特 権 の︵ 廃3 止9 で︶ ある。これら伝統主義者たちは怠 惰に溺れて、自己の頭の硬直のもたらす結果を全く自覚していないようである。フリードリヒニ世の政令は希薄 な人口を前提としたものであって、農村離脱を阻むものであった。しかし今や農村に人口が溢れる。出生率の上 昇は結果として労働力の提供過剰をもたらす。彼らを就役させることのできない農場領主は、定住農民の子供に 何処か他の地に移住することを許すようになる。日雇い労務者の数が増大し、彼らを必要とする者たちを喜ば す。彼らは頻繁に居住地を変え、冬季に生計維持を保証する手職を習得し、放浪する。休耕地を廃止する農業革 @ 命ならあるいは彼らの暮らしを保証することが出来たかも知れない。しかしプロイセンでは二九世紀の開始以前 −68− にそのようなことを考える者はだれ一人いない。 政府はこの問題に殆ど介入しない。フリードリヒニ世は、確かに沼沢地の干拓や森林の開墾は支援するが、﹁休 耕地という汚点﹂の除去には充分積極的に取り組まない。一七七〇年枝は農民に飼料用植物の栽培を義務づける が、しかし彼は何よりも先ず畜産物は輸入せずという重商主義的目標の認識を全く欠いている。飼料の栽培は直 ちに休耕地の廃止には繋がらないし、またこれについての積極的なキヤンペーンが行われたわけでもないようで あ る 。 後 日 に な っ て 新 た な 方 法 を 広 め る テ ー⑩ アは、一八○九年﹃合理的農業の原則﹄の公刊後ようやく実際に影 響 力 を 持 つ に い た る 。 ジ ャ ガ イ モ が 家 庭 菜 園 か ら 畑 に 移 る に は 、 先 ず 一 七 七 〇 年 の 飢 饉 が 必 要 で侈 あ︵ る4 。0 甜︶ 菜は一 七 九 九 年 に は 未 だ 珍 し佃 い 。 ア シ ャ ー︵ ルm が︶ 甜菜から砂糖を取る実験を試みた後、フリードリヒ三世はクラップロ﹂l ⑩ ト教授にも実験をしてみるよう依頼する。彼が成功すると、人々は重商主義的また人道的見地から大きな期待を 抱 く 。 将 来 は も う 蔗 糖 を 輸 入 し な く て も よ く な る し 、 ま た ア メ リ カ の 奴 隷 は 解 放 さ れ る だ ろ う⑩ と。とは言うもの の住民はこの新たな産物に疑いの目を向ける。吸湿性があるし、空気に溶けるというわけだ。それに何と言って も未だ珍しいし高価である。ベルリンで野次馬が面白半分に角砂糖を街頭で買ったりする。甜菜の選別が進み、 製 造 工 程 が 改 良 さ れ 、 大 陸 封⑩ 鎖 の 危 機 が 去 っ た 後 よ う や く 成 功 が 実 際 に 保 証 さ れ︵ る4 。1︶ 農民も耕地整理の話は受け付けようとしない。ましてや農場領主は殆ど耳を貸そうとしない。穀物の売れ行き は好調なのにどうしてそんなに改革を? 農業革命について言えば、プロイセンがドイッで運動の先端に立っていないことは確かである。他所では多数 の領邦君主が農民の飼料植物やジャガイモの植えつけに対して賞金を与えている。ホルシュタインでは、分散し −69− だ 農 場 の 耕 地 整 理 に 一 層 積 極 的 に 着 手 し て い ︵る 4。 2︶ このように重商主義国家プロイセンが建設したマンションの各階には様々な社会層の人々が分かれて住んでい る。ほぼ五十年の間人々はその中でどうにかこうにか暮らしている。生き抜かなければ建物が崩壊するのだ。し かし人々は、その建物がわざわざ彼らのために建てられたのだという誤った思い込みをしている。原理は、国民 あっての国家であって、国家あっての国民ではない。またある身分が他の犠牲にされていると言えば嘘になる。 しかし身分は国家に奉仕する限りにおいてのみ保護されるのである。何処でもそうであるように、プロイセンで も 特 権 階 層 で あ る 貴 族 は 、 こ こ で は 英 国 の よ う に 、 土 地 を 柵 囲 い し て ⑩人口減少を引き起こす自由は持だない。そ して農民は国家予算と軍隊が彼らを必要とする限りにおいてのみ保護されるのであるが、その一方で、王領地で 実現された改革は、どこかで農奴解放の努力がなされていることの証拠でもある。しかし農民解放は資本主義国 家の諸制度には直接には何の利益にもならないから、国家は貴族にそうすることを強制しない。強制すると国家 は貴族を傷つけることになろうからなおさらである。あらゆる階級に共通して言える唯一のことは、国家がすべ ての戸口の前に立って各個人の利益を奪い取るから、誰も急に金持ちになれないという事実である。 このような税制が国の調和的発展を害することにならないだろうかという考えにフリードリヒ大王はちょっと 囚われたことがあったらしい。﹁ここにおいてもまた﹂と彼は二七六八年に言っている。﹁重要な問題が生ずる。 税に関して国家の安寧を個人のそれに優先させるべきか、はたまたいずれの側に組みすべきか?﹂しかし彼はす ぐに良心の疾しさを税の天引きが少額であるという偽善的主張で宥めてしまう。﹁予は答える。国家は個人より 成り立ち、支配者にとりてもその臣民にとりても二言なし。羊飼は羊毛を刈るも羊を傷つけることなし。各人国 −70− 家の歳出の負担に寄与するは正なり。されどその年収の半額を統治者と分かち合うは断じて正にあらず。農民。 市 民 、 貴 族 は 良 く 統 治 さ れ た 国 家 に あ っ て は 年 収 の 大 半 を 享 受 し 、 そ の ご く 一 部 を 国 家 に 差 し 出 せ ば 済 む 。 ︵﹂ 43︶ 国家はかくして栄え、自分の打ち立てた政権について苦情を言う輩はいない。これも均衡が保たれ続けること が前提となる。製品の総量と消費者の数の間の配分は、このマンションが耐久性を維持できるよう練り上げられ た間違いのないものでなくてはならない。 −71− −72− −73− −74− −75− −76− −77− −78− −79− −80− −81− −82− −83− −84− −85− −86− −87− −88− −89− −90− −91−