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<随想>小川旧家の出来事 小川

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<随想>小川旧家の出来事 小川
<随想>小川旧家の出来事
小川 武
旧 小 川 家 (現神田博氏別荘)
この家がいつ頃建てられたか確かな記録はないが、今から160年前の文化13年(1
816)の資料によると、当時既に建てられていたようである。母屋は入母屋造りの藁
葺屋根で、60坪の面積である。間取りは、奥の間10畳、中の間8畳、奥納戸10畳、
前納戸8畳、座敷20畳の田の字式の間取りとなっている。上り框(かまち)の下には、
広い土間があり、土間は板壁で仕切られていてその隣りには馬屋があった。
また母屋の東側には藁葺屋根の物置があり、その物置と母屋との間には木戸があっ
て、夜は閂(かんぬき)で門を閉めていた。そのため、外から母屋の裏側へは回れな
いようになっていた。母屋の裏には、黒壁の文庫蔵と白壁の小さな味噌蔵があり、文
庫蔵には廂(ひさし)が出ていてそこが下男部屋になっていた。
母屋の前の西側に穀蔵があり、蔵の建物とカギの手に下屋(げや)があり、続いて長
屋が並んでいた。ちょうど母屋と相対の配置になっていたようである。
現在この建物の面影を知ることのできる唯一の資料としては、昭和初期に撮影した写
真がある。また、この家が関東大震災により使用不能となったため、大正13年に元
男爵の松岡欣平氏に売却したが、それを松岡氏は静岡県御殿場市二の岡に別荘と
して再現しており、現在は、参議院議員の神田博氏の所有となっている。その事実を
最近になって発見し、間違いではなかったことを確認してきたばかりである。この建物
は、百姓屋としては通常のもので、変わりのないものであるが、この建物には非常に
興味深い歴史的事実があるので、紹介する。
1 強盗と大黒柱の刀痕
明治18年9月10日の夜、この家に2人組の強盗が押し入った。当時の戸主は小川
正人(幼名定吉。55才)で、家族の構成は妻たけ(43才)、長男永太(28才)、嫁つる
(29才)、孫正雄(7才)と作男、小僧、下女の8人であった。
当夜、強盗はどこから入ったのかはっきりしないが、多分馬屋の前の戸をこじ開けて
侵入したと思われる.。
作男をはじめ、家族全員を縛りあげた。ちょうどその晩は、親戚から老婆が泊りに来
ていた。戸主の正人は、剣道は天然理心流の免許皆伝の腕前であったが、へたに刺
激しないほうがいいと思ったのか、おとなしく強盗に縛られた。しかし、万一のときには
手が抜けられるような技法を心得ていたのである。正人は強盗に向かって、「奥の間
に親戚の老婆が寝ているが、その老婆だけはおどかさないでほしい。そうすればいう
とおりにする」と言った。ところが、その強盗は奥の間に入り込み、抜身の刀を老婆の
顔に押しつけたので、吃驚仰天(びっくりぎょうてん)して「キャッ」と叫んだ。
あれほど頼んだのにと、激怒した正人は縛られた手を自分でほどくと、すばやく枕元
にあった仕込杖を抜いて強盗に立ち向かった。この刀は、長さ約73センチメートルで、
生ぶ無銘、細身のほとんど無反りに近い姿である。新刀であるが、専門家に見せても
良い刀であると言う。
なにしろ相手は2人組だから、後ろに回られたのでは不利になる。もちろん家の中は
暗い。日頃正人は、浅間様を信仰していたのでその御加護のおかげか、相手が非常
によく見えたと後日話していた。
正人は土間と座敷の境にある1尺5寸角の大黒柱を背にして強盗に対した。一人の
強盗が打ちおろす一刀を棟でガツンと受け止めた。続いてもう一人の強盗の太刀が
はしる。すばやく身をかわしたとたん、切先が鈍い音を立てて大黒柱に喰い込んだ。
身を翻した正人は、強盗の手元に飛び込むと一太刀浴びせた。手ごたえがあり、強
盗の右腕から鮮血がほとばしる。すると、二人の強盗はこれはかなわないと思ったの
か、家の外へ逃げ出したのである。
手傷を負った強盗は、道に血をたらしながら白根の池(現在の横浜市緑区)まで逃れ、
その池で傷口を洗ったというが、たちまち警察につかまったと聞いている。
正人も右ひじを負傷し、筋が切れたため、一生右手が不自由だったといわれているが、
字を書くにはさしつかえはなかったようである。正人が残した数冊のメモ帳からそれが
判明する。また、現存の大黒柱にもその刀痕が明瞭に残っている。
2 久邇宮邦彦王殿下との関係
大正3年(1914)11月初旬のある日、久邇宮邦彦王殿下(現皇后陛下の父君)が、
近衛第一旅団長として機動演習のみぎり、この家に休憩し、昼食をとられたとのこと
である(当時の戸主は永太である)。
当日、家族の者達は、稲刈りに出かけており、年寄夫婦が留守番をしていた。
突然、その日の午前11時頃久邇宮様お立寄りの報に、永太は紋付袴に着替え、た
だ一人で伺候する。久邇宮様は、奥の縁に腰かけられたが、体が小さいため足がブ
ラブラするので、蜜柑箱を踏み台にされたようである。また馬に乗られるとき、兵隊が
側で押し上げて乗馬されたと聞き及んでいる。
その後この家が御殿場に再現された後も久邇宮様は、同家に2日間もご宿泊になり、
その際、庭に記念樹を植えられた。そのうちの1本は現存している。また再現された
家の2階には、宮様御宿泊の室が当時のまま残されている。
このように、この家が久邇宮様と深い関係があるということで、代々所有者は保存管
理に気を配っているようである。
なお、御殿場における調査にあたっては、井上国道氏のご協力とご教示を得たことを
感謝申しあげる次第である。
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