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犬養政友会総裁期の前田米蔵

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犬養政友会総裁期の前田米蔵
犬養政友会総裁期の前田米蔵
古
川
隆
久
る。前田は一八八二年和歌山県に生れ、東京法学院︵中央大学︶卒業
た政友会は、一九二八年七月に民政党を脱党し、事実上の与党となっ
一九二九︵昭和四︶年七月二日に退陣した田中義一内閣の与党だっ
ては法制局長官となった。
は総務に昇進し、一九二七年四月の田中義一政友会内閣成立にあたっ
一九二五年四月には党史上最年少で幹事長となり、一九二六年四月に
一 九 二 四 年 の 政 友 会 分 裂 時 に は 政 友 会 に 残 留 し︵ 旧 政 友 系 ︶、
後弁護士となり、一九一七︵大正六︶年政友会から代議士に初当選、
ていた床次竹二郎派︵新党倶楽部︶を合わせて辛うじて衆議院の過半
人々︶に色分けが進み、後者が優勢となりつつあった。そこへ、七月
した人々及び一九二八年の総選挙で鈴木の支援によって当選した
会に残留した人々︶と鈴木喜三郎派︵政友本党から一九二六年に復帰
されていた鳩山一郎とほぼ互角の政治活動を展開した結果、犬養内閣
ながら田中総裁期に党内有力派閥となった鈴木派に属して将来を嘱望
人で、自己の派閥を持たない中、政友会分裂時には政友本党にはしり
前田に注目する理由は、田中総裁期に凋落が始まった旧政友系の一
月一二日犬養毅が後任総裁に就任、一九三一年一二月一五日の犬養毅
友会批判が高まる中、九月二九日、田中総裁が狭心症で急死し、一〇
その直後、田中内閣時代の汚職疑惑︵鉄道疑獄︶が発覚し、世の政
代表する政治家になるからである。
翼賛会議会局長、翼賛政治会総務会長を歴任するなど、衆議院勢力を
年以後総裁代行委員の一人となり、一九四〇年の政党解消後は、大政
で初入閣を果たし、以後も数度にわたって入閣し、党内でも一九三七
犬養総裁期の政友会については、派閥関係や若手中堅議員層の活動
についての研究はあるものの、前者はこの時期の政友会が取り組んだ
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間、政友会は犬養総裁の時代となる。
本論文では、この時期の政友会の政治家の中でも前田米蔵に注目す
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はじめに
数を得ていたが、党内は旧政友系︵一九二四年一月の党分裂時に政友
六日、床次派が復党し、党内は三派鼎立状態となった。
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内閣成立を経て、一九三二年五月一五日の犬養暗殺まで約二年七か月
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政策問題は扱っておらず、後者は当時の党内の権力構造についての考
し、以後は事実上引退状態だった。しかし、二度の護憲運動における
の 旗 頭 の 一 人 で あ っ た が、 二 大 政 党 対 立 の 情 勢 を 見 て 政 友 会 に 合 流
犬養政友会総裁期の前田米蔵
察がなされていない。鳩山についても研究はあるが、この時期の具体
活躍で﹁憲政の神様﹂とも呼ばれ、世間での人気が高かった犬養は、
党立て直しの顔としてだけでなく、党内対立の緩和にも好適だったの
的な政治活動については十分な検討はなされておらず、前田にいたっ
裁であった時期の前田の政治活動の実態とその背景を検討することを
こうした先行研究の状況をふまえ、本論文では、犬養毅が政友会総
は、党所属代議士の選挙違反事件に関して法律の専門家として二回出
を決める幹部の一人として報道に登場したが、以後、幹部会への出席
の間、前田はもっぱら旧政友系あるいは中立系などの分類で、方向性
である。犬養は、一〇月一二日の臨時党大会で総裁に選出された。こ
席したにとどまっている。
人は否定し、その後警察に召喚されることもなかった。前田は弁護士
に収容される事態に発展した。のちに前田の関与も報じられたが、本
買収に関わる汚職事件︵私鉄疑獄︶が発覚し、小川平吉前鉄相が警察
上党幹部扱いとなっていた。その後、九月に入り田中内閣時代の私鉄
なったものの、他の前閣僚とともに党の幹部会に出席するなど、事実
田 中 義 一 内 閣 の 退 陣 に 伴 い、 法 制 局 長 官 を 辞 任 し た 前 田 は 無 役 と
と と 運 動 員 に 選 挙 違 反 者 を 出 し た こ と か ら、 前 田 の 苦 戦 ぶ り が わ か
前回より順位を二つ下げながらも当選した。前回より順位を下げたこ
わったが、前田は前回同様東京六区で立候補し、定員五人中第四位と、
散前の二三七議席から一七四議席と三割以上の議席減という敗北に終
て二七三議席と過半数を優に超える大勝をしたのに対し、政友会は解
一九三〇年二月の総選挙では、民政党が解散前から一〇〇議席増加し
浜口雄幸民政党内閣が衆議院における過半数獲得のために行った
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る。
一 ロンドン海軍条約問題と前田
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通して、前田がなぜ議会有力者となっていったのかを考察し、ひいて
てはこの時期についての研究は皆無である。
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は政党内閣期後半の政友会についての理解を深めたい。
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九月二九日、田中総裁が狭心症で急死した。床次派の復党以前は鈴
度改革について田中内閣期には小選挙区制案を議会に提出していたの
いて、選挙制度を比例代表制とすることを主張した。政友会は選挙制
総選挙直後の三月中旬、前田は政友会の地方幹部向けの機関紙にお
木喜三郎を中心とする鈴木派が旧政友系に対しやや優勢だったが、床
同時に、選挙行為の精神としての﹃代表﹄の意義が本然的に生きて来
で﹂、﹁比例代表制を採用すれば現在の如き種々の弊害が除去されると
すなわち、前田は、﹁私一個の意見では比例代表制の採用に大賛成
で、前田は党の方針と異なる見解を明らかにしたことになる。
かはない。
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次派が復党すると、旧政友系は床次支持にまわり、数的には鈴木派は
劣勢となった。しかし、床次も復党直後ということで自重した。そこ
犬養は、立憲国民党、革新倶楽部の指導者としてかつては反政友会
で、後任総裁として、鈴木派が推す犬養に白羽の矢が立った。
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業務などによる蓄財がある上、金銭関係に潔癖だったためと考えるほ
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わち、選挙による不正防止と選挙費用低減の観点から名簿式による比
ずることになる、名簿式にはこの弊害は生じない﹂と主張した。すな
になほ猛烈なる運動をなすべき充分の余地あり、選挙費用の競争も生
る﹂とし、その場合も、単記移譲式では﹁区制如何に拘らず候補者間
は、憲法第一二条﹁天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム﹂は政府の
明 言 し て い た こ と を 根 拠 に 倒 閣 路 線 に 転 じ た。 こ れ に 対 し 浜 口 首 相
軍縮に賛成していたが、鈴木派の主導により、全権が対米七割固守を
政友会は、犬養総裁が元来軍縮論者でもあり、会議開始前は補助艦
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濃部達吉の著書の主張とかなり似ており、その影響を強く受けた主張
例代表制度を提唱している。以上の主張は、この直前に公刊された美
面白くないし、陸軍の関係もあることであらうから、たゞ軍部の意見
﹁さう露骨に博士のやうに言ひきつてはかへつて感情上からもあまり
権 限 と す る 憲 法 学 者 美 濃 部 達 吉 の 憲 法 解 釈 に 賛 同 し て い た も の の、
い﹂としていた。統帥権の範囲について確定させることは陸軍の反発
四月二五日、衆議院本会議において、犬養総裁と鳩山一郎がこの問
前田は、浜口内閣が四月に設置した選挙革正審議会の委員に任命さ
題で浜口首相を追及した。犬養は、﹁国務大臣ハ軍事専門家ノ意見ヲ
も引き起す可能性があるとみた浜口は憲法問題を曖昧にするつもり
格とする︶の範囲縮小などを主張した。一二月三日付で出された審議
十分ニ斟酌シタト申サレテ居ル﹂が、﹁軍令部ハ絶対ニ反対致スト声
だったのである。
会の答申では、比例代表制は採用されなかったものの、連座制の範囲
明ヲ出シテ居ルノデアリマス、是デハ国民ハ安心出来ナイ﹂と、政府
れ、そこでも比例代表制の実施を主張したほか、選挙違反について、
二つの民政党内閣は、答申に基づく法令改正に手を付けないうちに退
これに海軍軍令部が反発して政府が大日本帝国憲法第一一条にある天
て、日本は対米七割を主張したが、結局それをやや下回る比率で妥結、
た。周知のように、主要国海軍の補助艦の軍縮を定めた同条約につい
の四月二二日に調印されたロンドン海軍軍縮条約が大きな争点となっ
総選挙に伴う特別会として開かれた第五八回帝国議会は、開会前日
疑 い ま で 提 起 し て 浜 口 首 相 の 責 任 を 追 及 し た。 浜 口 は 前 述 の 方 針 に
之ヲ無視シテ国防計画ニ変更ヲ加ヘタ﹂のは﹁洵ニ大胆﹂と、違憲の
は﹁今日迄ハ異論ガナ﹂い以上、﹁政府ガ軍令部長ノ意見ニ反シ、或ハ
した上で、憲法第一一条の統帥権条項の趣旨が﹁兵政分離主義﹂なの
フコトガ当然﹂と、国防は軍の専権事項であると踏み込んだ認識を示
ニ付テモ亦軍事専門家ニ信頼ヲシテ、其完全ナル自由ニ一任スルト云
の判断の根拠の確かさを論点として政府を批判した。鳩山は、﹁国防
皇大権としての統帥権を犯したと主張、紛糾する事態となった。この
陣した。
縮小は採用された。しかし、浜口内閣、第二次若槻礼次郎内閣という
選挙経験者の立場から連座制︵運動員が違反した場合、当選しても失
ていたことがわかる。
を 斟 酌 し た と い ふ 風 に 言 つ て、 雰 囲 気 を 硬 化 さ せ な い や う に 努 め た
であることは明らかである。いずれにしろ、選挙の現状に問題を感じ
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沿った答弁をするにとどまった。
犬養政友会総裁期の前田米蔵
不足によって紛糾を引き起したのである。
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翌日の﹃東京朝日新聞﹄朝刊の社説は、
﹁ロンドン軍縮会議について、
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調印自体は諸般の事情から適切であったが、浜口の軍令部への根回し
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ために政府与党が﹁楽観的﹂になっているとも報じられたが、その一
を厳しく批判した。また、犬養や鳩山の質問が﹁案外に急所を外れた﹂
主張すべき立場にある政党としては、不可解﹂と、犬養と鳩山の発言
る責任と権能とを否定せんとするが如きは﹂、﹁政党政治と責任内閣を
政友会が軍令部のゐあく上奏の優越を是認し、責任内閣の国防に関す
である。
﹃東京朝日新聞﹄社説の政友会批判を意識した発言であることは明白
確認するという立場からの質問であると断っている。これが二六日の
議論を政争の具とする意図ではなく、あくまで条約締結の法的根拠を
なわち、軍縮反対を主張したり、軍の政府に対する優越を求めたり、
知ッテ置カネバナラヌ点ニ関シマシテ御尋ヲ致ス﹂と断っている。す
犬養政友会総裁期の前田米蔵
因として、憲法上の問題点は第一二条の方にあるのに、二人ともこれ
蔵氏を起たしめること﹂
、
﹁特に軍縮条約に関連する憲法問題について
に肉薄することとし発言の先陣は本会議において質問をしない前田米
連合協議会で、
﹁予算総会においては冒頭まづ軍縮問題をもつて政府
政友会は、二九日の院内外総務と党所属の衆議院予算委員会委員の
当然ノ国務大臣トシテノ責任﹂と追及した。しかし浜口はやはり答弁
題についての質疑が行われてきたことを根拠に、﹁御答下サルコトガ
ル限リデナイ﹂と答弁を回避したが、前田は、従来の議会でもこの問
口は既定の方針により、﹁只今ノ如キ抽象的ナ問題ニ付テハ御答ヲス
編制事項﹂は﹁憲法上国務大臣輔弼ノ範囲ニ属スルカ﹂を質した。浜
その上で、大日本帝国憲法第一一条、第一二条の﹁所謂統帥事項、
は島田︹俊雄︺
、鳩山、前田の諸氏がこれに当る﹂方針を決めた。前田
を回避したため、﹁斯ク如キ重大ナル問題ニ答弁ヲ回避セラルヽト云
に言及していないことが指摘できる。
は 予 算 委 員 会 で の 政 友 会 の 一 番 手 と な っ た の で あ る。 連 合 協 議 会 で
フコトハ、実ニ立憲政治将来ノ為ニ悲シムベキコト﹂で、﹁議会否認
前田は、さらに決定手続きの実態やその根拠となる法令などについ
ノ端ヲ発スルモノ﹂と批判した。
ても質問したが、浜口はやはり答弁を回避した。そこで前田は、
﹁今
は、さらに、
﹁この問題を論究してゆく結果世間をして往々政友会の
はしむる恐れがあるからこの点に関してはもつとも論点を鮮明にせね
現ニ具体的ノ問題ガ起ッテ居ル今日ニ於テ御答ヲセナイ、何タル無責
立場を誤解せしめあたかも軍閥の地位と立場を擁護するものの如く思
聞﹄の社説を意識した動きである。その結果は、翌四月三〇日の予算
ばならぬ﹂として﹁特に慎重に対策を練﹂った。明らかに﹃東京朝日新
任﹂と批判し、改めて憲法第一二条の解釈を浜口首相のみならず陸海
軍事務当局にも質したが、浜口、杉山元陸軍省軍務局長、堀悌吉海軍
題ニ依ッテ政府ヲ苛メルトカ揚足ヲ取ル﹂のでもなく、﹁憲法並ニ軍
いて、今回浜口は美濃部説に従ったが、従来の政府見解︵帝国議会で
条に言及したことである。憲法第一二条の軍隊の編制大権の管轄につ
この前田の議論で特徴的なのは、政友会側として初めて憲法第一二
省軍務局長のいずれも答弁を回避した。
部ニ関スル現行制度ノ運用ニ付﹂いて、﹁吾々議員トシテ当然︹中略︺
ヲ認メルト云フヤウナ考カラ私ハ質問ヲ致スノデモ﹂なく、﹁又此問
ウナ考ヲ以テ質問ヲ致ス者デハ毛頭﹂なく、﹁軍ノ内閣以上ノ優越権
前田は冒頭、
﹁軍縮ニ反対デアル、軍備縮小ニ反対デアルト云フヤ
委員会における前田の浜口首相に対する質問ぶりからうかがえる。
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陸海軍もこの解釈をとっていた。この解釈をとれば、政府が軍部の反
の答弁︶は、国務ではあるが統帥大権の作用も受けるというもので、
発言ではないとみなすことで答弁を回避した。
は、﹁軍令部ガサウ云フコトヲ公然申シマセヌ﹂と、加藤発言を公式
部 長 の 新 聞 記 者 談 話 を 念 頭 に 置 い て い る こ と が わ か る。 し か し 浜 口
一一条を持ち出しただけでは批判の論拠として不十分であることをふ
まえ、憲法第一二条に関する政府と軍部、あるいは従来の政府見解と
人々ガ﹂、対米七割が﹁国防ノ最小限度﹂と発言しており、﹁或ル点マ
したという点から浜口を追及することが可能な論理構成となってい
軍部の解釈︵にして従来の政府見解︶との不一致を放置したまま決定
とっていることを明言しても、そのこと自体を批判するのではなく、
の政府見解に固執する必要はなかった。もしここで浜口が美濃部説を
官制検討のため陸軍の事務当局と折衝した経験があった。当然、従来
ら軍部大臣文官制や統帥権に関する改憲に肯定的であり、軍部大臣文
を要する。前田は田中内閣の法制局長官時代、政党政治拡大の立場か
ただし、前田が従来の政府見解を基準に論を進めていない点は注意
ズヤ民政党ノ諸君ハ苦イ経験ヲ嘗メラレルコトデアラウ﹂と与党にも
タ﹂と改めて浜口の不答弁主義を批判した上で、﹁斯ノ如キ悪例ハ必
イ﹂、﹁斯ノ如キ無責任ナル総理大臣ハ、内閣成立以来未ダ曾テ無カッ
理大臣トシテ答弁セラレナケレバナラヌ事項ニ付テモ答弁ヲナサラナ
心﹂、﹁国防ハ絶対的ノモノデナケレバナラヌ﹂と満足せず、﹁当然総
途ガアルニ依ッテ、国防ハ安全﹂と譲らなかった。前田は﹁頗ル不安
ハ大分譲歩﹂したことは認めたが、﹁他ニ必要ナラバ之ヲ補充スベキ
である。さすがに今度は浜口も、﹁潜水艦ニ関シテハ最初ノ主張ヨリ
ホ安全﹂とする理由を質した。今度は全権の発言を根拠に追及したの
デ譲歩シテ条約ガ成立シタ﹂ことは﹁事実﹂として、浜口が国防を﹁尚
た。この点からも、前田の論理構成が﹃東京朝日新聞﹄社説の政友会
警告を発して質疑を終了した。
シタ時ニ帰ッテ来テ軍令部ノ名ニ於テ全国ノ新聞記者ヲ集メテ天下ニ
ウテ居ル﹂という点について、前田は﹁軍令部ノ部長ガ帷握上奏ヲ為
た。憲法論争から国防論争に話題を変えたのである。﹁軍務当局ハ言
ホ何ニ根拠ヲ置イテ国防ノ安全ヲ期シ得ラレル﹂と言うのかと質問し
務当局ハ言ウテ居ルト云フコトハ事実﹂とした上で、﹁総理大臣ハ尚
そこで前田は、
﹁今回ノ取極ニ於テハ国防ノ安全ヲ期シ難イ﹂と﹁軍
は行政監督の機能を有してゐる﹂のに﹁浜口首相および現内閣はこゝ
その要なしとして答へざるが如きは非立憲極まる態度﹂とし、﹁議会
海軍条約に関連して条約に調印したる憲法上の根拠を質したるに対し
この日の質疑について、さっそく、前田、鳩山、内田が、
﹁ロンドン
そのものを非立憲と批判したが浜口は取り合わなかった。政友会は、
て浜口に質したものの、浜口は不答弁主義を続け、鳩山が不答弁主義
このあと内田信也が、対米七割弱でも国防は安全とする根拠につい
批判を意識したものだったことがわかる。しかし、浜口も軍の事務当
浜口首相の解釈のずれを論点としたのである。
これに対し前田は、﹁政府ノ全権タル資格ヲ持ッタ若槻全権其他ノ
対を押し切って決定するのは違憲ということになる。前田は、憲法第
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に議会の権能を無視し﹂たのは﹁国民の参政権をべつ視し専制政治を
局も答弁を回避したため、この論争は不発に終わった。
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声明セラレタコト﹂と言い換えているので、四月二日の加藤寛治軍令
犬養政友会総裁期の前田米蔵
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犬養政友会総裁期の前田米蔵
宣言して国民にてう戦するもの﹂と批判する声明を発した。前田の議
論内容とそれに対する浜口の不答弁主義は政府批判の格好の材料と
運営が行われていたことがわかる。
さ ら に 前 田 は、 九 月 一 六 日 の 臨 時 党 大 会 に お け る 犬 養 総 裁 の 演 説
ンドン会議決定の内容たる軍縮比率の取極めは、憲法第十一条の運用
戦は成功したのである。しかし、この社説は、前田の質問の論旨を﹁ロ
図の一つである、浜口首相や政府与党の非立憲性を浮き彫りとする作
答弁を回避したことを﹁明かに非立憲﹂と批判した。前田の質問の意
翌日の﹃東京朝日新聞﹄朝刊の社説は、前田の質問に対して浜口が
の演説が行われ、翌一七日に審査委員会で批准可となり、政友会が新
には可決の方針を固めたが、政友会側がそれを知らないまま犬養総裁
院審査委員会の委員長伊東巳代治が一夜にして態度を豹変し、一六日
にもならないと全面的に否定する内容となっていた。ところが、枢密
おり、犬養の演説は、ロンドン条約について、統帥権干犯で経費節減
でロンドン海軍軍縮条約の批准諮詢が否決の形勢にあると報じられて
を、森幹事長や鳩山総務とともに作成した。当時、枢密院審査委員会
によるのか、将た第十二条の運用であるか﹂と誤解しているため、
﹁政
聞で揶揄される事態となった。
一三日︶後の﹃読売新聞﹄は、前田が、軍縮反対や軍の政府に対する
た だ し、 前 田 の 真 意 を 理 解 し た 論 調 も 見 ら れ た。 議 会 終 了︵ 五 月
日前に開かれるはずであつたのを枢密院の二上書記官長と政友会の前
説を爺さん︹犬養︺にやらせた﹂とされているが、﹁元来大会は四、
五
連絡しとる。そしてその言ふ事を真に受けてモウ大丈夫と、あんな演
一郎、枢密院副議長︺や二上︹兵治、同書記官長︺などと色んな事で
演説案の作成事情について、
﹁あの連中︹森、鳩山、前田︺は平沼︹騏
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優越権を認めたり政府をいじめる意図はない旨を述べたことを﹁公明
の自殺といふの外ない﹂と、政友会批判自体はそのままである。
主張を裏切つて軍部増長の勢ひを助成せんとする傾向あるは政党主義
友会がこの事件を政争の具とせんとするに急なるの余り、却て年来の
なったのである。
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な態度を採つ﹂たと評価した。
それでも、議会終了をうけて五月一六日に行われた政友会幹部改選
田米蔵氏が風月の二階で、枢密院と政友会と相呼応出来るやうに日取
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会長に就任する中で、前田は、他の無役の前閣僚とともに実権のない
島田俊雄が総務に留任、森恪が幹事長に留任、山本条太郎が政務調査
を合わせていた。さらに、一九三一年一二月一五日に犬養毅内閣が成
交換公文問題、不戦条約批准問題など︶こともあり、職務上頻繁に顔
に枢密院関係で懸案が多かった︵治安維持法改正緊急勅令、済南事件
そもそも前田と二上は、前田が田中義一内閣の法制局長官だった際
とっていたのは前田であった。
り を 変 へ た の だ と い ふ 話 が あ る ﹂ と い わ れ た よ う に、 二 上 と 連 絡 を
ないが、八月以後、定例幹部会に顧問が頻繁に出席するようになり、
顧問に棚上げされた。鈴木派の党内影響力拡大によると考えるほかは
その中には前田も含まれている。定例幹部会に毎回のように多数の顧
し、二上が、﹁自分︵二上︶ハ風月堂ニテ午餐ヲ喫スル例ナルカ前田米
立し、前田が商相として初入閣した直後、倉富勇三郎枢密院議長に対
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では、山本悌二郎、鳩山一郎、秋田清らが総務に返り咲き、秦豊助や
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問が出席するのは前例がなく、実際には鈴木派の独走を防ぐような党
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と二上はこれ以前から同じレストランで昼食をとる習慣があり、顔を
新大臣はここで毎日午餐を済ませることにしてゐる﹂とあって、前田
ビュー記事にも、
﹁新商相と記者とは肩を並べて風月︹堂︺の表へ来た、
蔵 モ 同 処 ニ 来 リ 居 リ ﹂ と 話 し て い る が、 同 じ こ ろ の 前 田 へ の イ ン タ
責務である﹂とし、﹁議会政治の改善は政党の改善であり、其の信用
上の欠陥を補完し政党の弊害を除去すべく講究と努力をなすことが、
ので、﹁我々としては、此の議会政治を円滑に運用するために、制度
如何なる制度をも是認することが出来ない﹂のは﹁殆ど今日常識﹂な
いであらう。大臣にさせても申分のない人﹂と報じられているので、
恐らく時代は何時までも前田君の如き人材を永く今日の閑地におかな
さらに、三一年に入っても、
﹁犬養総裁の親任も厚いといはれるし、
への危機感を募らせ、政党勢力自身の自覚の必要性を認識していたこ
党はお互ひに深く省察せねばならぬ﹂と論じた。世論の議会政治批判
国民の眼に映じて之がために其の信用が失はれつゝある。︹中略︺政
といふことよりも、利害関係の打算に重点を置くものであるかの如く
の向上である。︹中略︺現在の政党は、其の理想及び主義政策の実現
前田は党内人事では重用されていないものの、犬養総裁の個人的信任
とがわかる。
合わせる機会が多かったのである。
は得ていたと考えられる。その要素としては、﹁前田氏は智慧者で通
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と云はれてゐる﹂とあるような前田の立案の才能と、枢密院や貴族院
つてゐる。死んだ横田千之助の智慧も大部分は前田氏が提供する所だ
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との関係の強さと考えられる。
この時期の前田は非幹部派︵鈴木派以外︶中堅有力者の一人とされ
ていたものの、鈴木派︵幹部派︶が優勢の中、非幹部派の勢力回復を
狙って﹁裏でコソ〳〵やる﹂ため、代議士会で鈴木派の議員から﹁裏
で策動などやめて、自分で正面に出て来たらどうだ﹂といわれ、議会
終了後の党幹部改選︵三月二九日︶直前には、前田の政治資金の出所
一九三〇年一二月二六日に開会した第五九議会では、浜口内閣の重
部改選でも前田は顧問に留任となったが、依然、他の顧問とともに定
に関する怪文書が党員全体に届いた。そのためかどうか不明だが、幹
首相臨時代理のロンドン海軍軍縮条約に関する失言問題以後議会が紛
例幹部会に頻繁に出席していた。
二 犬養内閣への入閣
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要政策の一つであった減税に関する諸法案の委員会審議において、前
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置された﹁国政一新を基調とする制度法規及び行政機構の全般的改革
そうした中、一九三一年五月三日、前田は、政友会政務調査会に設
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界往来﹄誌に論文﹁議会政治に関する批判﹂を寄せた。﹁デモクラシー
議会批判が激化した。前田は、この情勢をふまえ、議会終了直後に﹃政
幣原発言をきっかけとした議会の紛糾は乱闘にまで発展し、世論の
で、﹁明治以来六十年間の因襲的宿弊を打破し政治を民衆の利便のた
得 て い た こ と が こ こ か ら も う か が え る。 前 田 は 一 六 日 の 特 別 委 員 会
意味のある党の役職についたのである。前田が党内から一定の支持を
に関する特別委員会﹂の委員長となった。前田は久しぶりに実質的な
糾したため機会を失った。
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の体現の政治の公明を期する上に於いて此の制度︹議会制度︺以外の
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犬養政友会総裁期の前田米蔵
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田は質問者となる予定だったが、二月三日の予算委員会における幣原
56
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めに簡易化するといふ精神に立脚して新たに国政一新の実を挙ぐる﹂
る。
よる経済発展を主張していたことに対応した内容となっているといえ
犬養政友会総裁期の前田米蔵
という調査方針を示した。
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いことや、官庁事務能率化のため官吏の自由任用の拡大などを主張し
は、かつて政友会が公約にしていた知事公選が財政削減には効果がな
る調査を担当したことと関係があると考えられる。座談会の中で前田
造、久原房之助が参加した。これも党の政務調査会で行政改革に関す
学界から計一六名で、政友会からは前田のほか、山本条太郎、三土忠
た﹁行財政整理座談会﹂に参加した。出席者は政民両党、官界、財界、
前田は五月中旬から六月初旬にかけて﹃東京朝日新聞﹄に連載され
得て動き出した。協力内閣運動である。
一〇月二八日に若槻首相に政友会との連立内閣構想を提示し、同意を
立内閣を樹立することで政党内閣の軍に対する統制回復をねらって、
若槻礼次郎民政党内閣の安達謙蔵内相は、南陸相との連携下に政民連
に民政党との連立内閣を主張しはじめていた。こうした中で、第二次
が起きた。犬養政友会総裁は周囲に対し、政党政治の危機打開のため
を見せており、一〇月中旬には陸軍のクーデター未遂事件︵十月事件︶
さて、この直前の九月一八日に満州事変が勃発、その後拡大の様相
の建直し﹂を目標とし、改革の対象は﹁枢密院及貴族院の改廃や、統
略︺整理にあらずして、国政一新を基調としての根本的なる組織機構
の機関紙に前田自身が報告している。
﹁単に歳計上の赤字を埋める︹中
党顧問と協力内閣樹立を約する覚書を交わしたが、若槻首相が反対に
に態度を変えた。それでも一二月九日に久原幹事長は富田幸次郎民政
︵ここでは彼らを単独内閣派とする︶
、犬養も一二月初旬には連立否定
本 悌 二 郎 ら、 こ の 状 況 を 単 独 政 権 実 現 の 好 機 と み る 動 き が あ ら わ れ
特別委員会の検討結果については、一〇月上旬に一部有力党員向け
帥権問題の如くその内容如何に依つては憲法の改正を先決条件とする
転じたため安達は閣内で孤立、閣内不一致で若槻内閣が倒れ、一二月
割拠の弊を打破する﹂
、
﹁従来の執務法を改めしむる﹂、﹁法科万能主義
﹁中央及地方官庁の機構改善﹂であり、改革の前提条件として、﹁各省
の排除﹂を指摘した上で、
﹁認可許可主義の改廃と所謂警察政治の改
田の到底入閣できない連中が、なんとかかんとか言つて、あゝいふ運
原田熊雄︵元老西園寺公望秘書︶に、﹁連立なんかといふのは秋田や前
前田は協力内閣派だった。それは、一一月四日に森政友会幹事長が
一三日、政友会単独の犬養毅内閣の成立となった。
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ものもあ﹂るが、
﹁最も手近にして而かも効果的なる改革の目標﹂は、
しかし、政友会内では鈴木、鳩山、森ら主流派︵鈴木派︶に加え山
たほか、恩給削減の法的意味について美濃部達吉と論争している。
60
うもので、
﹁行財政整理座談会﹂での前田の発言と重なる部分が多い。
縮小も視野に入れつつ、当面は官僚制度の軽量化による財政削減とい
すなわち、特別委員会の結論は、枢密院の廃止、貴族院と軍の権限
閣期の政治評論にも、﹁三土、前田なんちう協力運動ぢや久原より先
級と数次に亘り直接間接に意見の交換が行はれ﹂と報じられ、犬養内
して﹁長老岡崎邦輔氏を始め床次、望月、秋田、前田、山崎の各幹部
動をしてゐる﹂と述べていること、一一月下旬に、政友会側の動きと
善﹂
、
﹁政府事業の整理﹂を具体的課題として指摘した。
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− −
8
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当時政友会の政策立案の中心的存在であった山本条太郎が民間活力に
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63
参加したのはいずれも旧政友系や久原派など党内の非主流派であり、
に手をつけた連中﹂とあることからわかる。政友会で協力内閣運動に
うことになった。
なる。閣僚と首相側近の人事は、単独内閣派と協力内閣派が半々とい
少ない議員が多い鈴木派だけでは組閣できない可能性が高いからであ
単独政権の方が入閣の機会が多い上、単独政権組閣の際に、議員歴の
していたという森の観測はそのままにはうけとれない。連立政権より
なお、前田が単独内閣では入閣できないと見て協力内閣運動を推進
いう意図をうかがうことができる。実際、民政党の場合、安達、富田、
ら公平なる選出をなさうとした﹂と報じられたように、党分裂回避と
流派を無視できないという事情とともに、﹁党内的にも各ブロツクか
たいとすれば、適格者︵閣僚、首相側近、党幹部経験者︶が多い非主
て、﹁時局重大﹂のため﹁閲歴声望において欠くる所なき人物﹂を選び
前 田 は 協 力 内 閣 運 動 派 で 唯 一 の 初 入 閣 者 と な っ た。 そ の 理 由 と し
る。しかも、前田が議会政治批判への強い危機感と、自分たち政党勢
前田もその一人だったのである。
72
内での協力内閣運動参加者の意図は、党内の権力闘争という面は否定
力の自覚の必要性を論じて半年もたっていない。したがって、政友会
見られていた。
前の一三日未明に安達、富田、中野が脱党し、さらに脱党者が出ると
中野正剛、松田源治の除名が検討され、天皇が犬養に組閣を命じる直
と い う、 安 達 内 相 の 問 題 意 識 に 共 鳴 し た 面 も あ る と 考 え ざ る を 得 な
できないものの、単独政権でなくてもよいから政党内閣を維持しよう
73
初入閣は鳩山、秦、前田の三人であるが、鳩山と前田については、
﹁鳩
山は田中内閣の書記官長、前田は同じく法制局長官だつたから形から
の均衡を図るため単独内閣派あるいは主流派からもう一人ということ
いへば尤も﹂とされた。秦の入閣は﹁抜擢﹂とも評されたが、人事上
た。島田は弁護士出身の政友会代議士で、政友会単独政権では三回と
木派︶の森が入ったが、法制局長官には協力内閣派の島田俊雄が入っ
中橋徳五郎が入った。首相側近については、書記官長は単独内閣派︵鈴
次が鉄相、三土が逓相、前田が商相となった。内相には中間的立場の
とどまり、協力内閣派からは、高橋が蔵相という重職についた他、床
に奔走し、伊東︹巳代治枢密顧問官︺にすつかりその頭のよさを見込
インザネームの問題﹂で前田が﹁全知全能をしぼつて之が切り抜け策
のも偶然ではない﹂と報じられたり、
﹁不戦条約︹批准問題︺における
閣を背負つてその智嚢をしぼつたもので、一躍商工の要職をかち得た
摘されていた。すなわち、﹁田中内閣の鬼門枢密院に対しては全く内
犬養政友会総裁期の前田米蔵
まれ﹂、伊東が犬養に前田を推薦し、犬養が﹁枢府関係を円滑ならし
前田独自の要因としては、法制局長官という経歴の他にも要因が指
とになる。
になると、党幹事長と総務を経験した秦の入閣はむしろ順当というこ
さて、政友会として結局単独政権という方針を採用した以上、協力
﹁立場上責任を痛感﹂するとして、組閣と同時に入閣拒絶と幹事長辞
内閣派は閣僚人事で冷遇されても不思議ではなかった。実際、久原は
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い。
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も連続して法曹資格を持つ与党代議士が法制局長官に就任したことに
派からは鈴木法相、鳩山文相、山本悌二郎農相、秦豊助拓相の四人に
任を明言した︵結局は留任︶。しかし、閣僚人事を見ると、単独内閣
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− −
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犬養政友会総裁期の前田米蔵
ら、前田が田中内閣の法制局長官だった際、枢密院対策、特に不戦条
は犬養に留任を求め、結局九日の閣議で留任が決定された。これに対
未遂事件が起きた。犬養内閣は直ちに総辞職を決定したが、昭和天皇
一九三二年一月八日、観兵式から皇居に帰る途中の昭和天皇の暗殺
外の政治活動である。
約批准問題︵一九二九年六月︶における活躍、すなわち、違憲の疑い
める手段として伊東の要求に応﹂じたともいわれた。こうした情報か
がある条文の解釈をめぐり、政府の失点と認めることなく枢密院の審
し、民政党などから﹁袞龍の袖に隠れて責任政治の本義を忘れ臣節を
完ふしない措置﹂と、天皇の権威で責任逃れをしたという批判が出た
査を通過させ︵審査委員長が伊東であった︶、批准に成功したことが
今回の入閣の一大要因だったことがわかる。
が、前田は、一〇日に、﹁此点に関して枢府並に貴族院の有力方面を
止撤回、産業保護主義の明示とともに関税政策の再検討や産業合理化
商相としての前田は、民政党色の強い商工次官の更迭、貿易局の廃
相も大いに意を強ふして委細これを首相に報告し﹂、
﹁世上一部の非難
問官︺の如きも法理上現内閣の取つた態度を是認してゐる﹂ので、﹁商
するのが至当であるとの意見に一致し殊に富井︹政章︺博士︹枢密顧
歴訪し法理、実際の両方面よりその見解を徴し﹂
、﹁何れも優諚を拝受
政 策 の 継 続、 政 友 会 が 在 野 時 代 に 主 張 し て い た 産 業 五 ヶ 年 計 画 の 実
並に議会における民政党の攻撃に備ふるため種々懇談﹂した。
三 閣僚としての前田
行、在野時代に自分が中心となって検討していた行政改革の一環とし
月末には﹁財政難で財源関係で到底大規模な実行は期待し難い﹂ため、
こうした方向性の主張が強まっていたのである。もっとも、三二年三
護政策は在野時代の政友会の政策とは若干異なるが、党内では次第に
の許認可事項の削減の決定など、さまざまな施策を行なった。産業保
ての政府の許認可事項の削減の検討が開始されたことに伴う、商工省
などによる民政党の資金難のほか﹁背後の権力は時に資金以上の威力
策への国民の不満、安達謙蔵の脱党や井上準之助の暗殺︵二月九日︶
得て当選した。政友会の勝因については、民政党の協調外交や緊縮政
三〇一議席獲得という大勝となり、前田も東京六区で全国最高得票を
犬 養 内 閣 が 行 っ た 三 二 年 二 月 二 〇 日 の 総 選 挙 で は、 与 党 政 友 会 は
83
なった。しかし、前田は、四月中旬に犬養に不況打開のため金融緩和
﹁商工大臣の商工政策は無策の一語に尽きる﹂と言われる状況と
﹁産業五ヶ年計画の将来は極めて心細い﹂ことになり、四月上旬には
里の和歌山県に赴いた際、和歌山一区の政友会候補三人を全員当選さ
人事異動を行った。前田に即してみても、総選挙後の四月に前田が郷
あった。実際のところ、犬養内閣は政権獲得直後に大規模な地方官の
を 発 揮 す る ﹂ と い わ れ た。 つ ま り 政 府 与 党 で あ る が ゆ え の 有 利 さ が
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が必要とする観点から対策を進言するなど、所管事項について精力的
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に活動していたといえる。
ただし、商相時代の前田の活動として注目すべきは、党内問題の調
停や枢密院と政府の連絡役、元老側近との関係形成など、商工政策以
どぎつい選挙干渉をやったが、シッポを出さんだけえらかったな﹂と
せた和歌山県警察部長に対し、前田は、﹁君はなかなかえらい、大分
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労をねぎらっている。
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近の中で、原田の宴席に主賓として招かれたのは前田だけである。宴
竹越与三郎とともに前田を招き、懇談した。犬養内閣の閣僚や首相側
商相就任祝いという名目で、岡田啓介元海相、岡崎邦輔、望月圭介、
その直後の二月二三日、元老西園寺公望の秘書原田熊雄が、前田の
先した判断と考えられる。
入閣者がないため内閣の維持もできることを考えれば、政権維持を優
と、久原派を切り捨てても衆議院の過半数は維持でき、久原派からの
捨て、鈴木派に同調した。党分裂回避という論理を持ち出しているこ
べた。元老西園寺が牧野伸顕内大臣の意見をいれて協力内閣運動に肯
に 連 絡 を と つ て、 対 策 を 考 へ て お く 必 要 が あ る ﹂ と い う 意 見 を 述
でしやうのない話であるから、寧ろお互が寄つて事実を研究し、相当
岡崎とともに、
﹁やたらに、蔭であゝかう言つて心配してゐたところ
席では﹁軍部のクーデター﹂の可能性が主な話題となったが、前田は
考えられる。
二上と個人的に連絡できる状況にあり、犬養にその点を評価されたと
ついて枢密院と政府との非公式折衝を求めた。前田は、前述のように
養首相の﹁意ヲ承ケ﹂て枢密顧問官補充問題と無任所大臣設置問題に
三一年一二月一六日、前田は風月堂で二上枢密院書記官長と会い、犬
一 方、 前 田 は 枢 密 院 対 策 で も 目 立 つ 活 動 を し た。 内 閣 成 立 直 後 の
穏健派は、前田を政友会の次世代の有力者中で最も信頼に値する人物
前田は、顧問官補充については原嘉道、小松謙次郎、岡田啓介をあ
定的だったことや、岡田や原田の立場を考えると、元老を中心とする
はこれに鈴木派が猛反発、結局三月二五日に予定どおりの人事が行わ
竹治を予定したが、これに久原幹事長が反発、人事が中断した。今度
事が紛糾した。犬養は、鈴木法相を内相とし、法相には鈴木派の川村
その直後の三月一六日、中橋内相が病気で辞意を表明、その後任人
立案作成次第枢密院に御諮詢を仰ぎ可及的速に実現を期する﹂と報じ
は﹁法制上種々の疑点がある﹂ため、﹁新たに官制を制定する事になり
山 本 条 太 郎 に 内 諾 を 得 た が、
﹁無任所大臣設置には現行内閣官制﹂で
を発揮せしむる﹂よう、
﹁平常の持論たる無任所大臣を設置﹂を決意し、
のため、﹁従来の行政機構上兎角陥り易き欠陥を抑制し統一的に機能
無任所大臣設置については、一二月一四日に、犬養は、党の公約実現
げ、無任所大臣については山本条太郎の就任を予定していると告げた。
れた。この間、前田は、一八日夜には、望月が企てた、久原を含む非
と考えていたことがわかる。
主流派有力者の会合に参加したものの、二四日に三土忠造逓相、山本
られていた。
森は留任した。ちょうど党幹部改選の時期であったが、後任の党幹事
山本とともに鈴木法相を訪問、さらに他の閣僚とともに森を慰留し、
に辞意を示していた森内閣書記官長の辞意撤回に向け、やはり三土、
態の収拾を犬養に申入れた。ついで、前田は、閣僚人事の混乱を理由
の無任所大臣就任を断念し、前田が二上にこれを伝えた。ただし、顧
い方針を二上に指示した。結局、枢密院の意向を知った政府側は山本
については、官職に在任中の人物以外の例はないとして折衝に応じな
ては、原と有馬良橘についての非公式折衝は承認したが、無任所大臣
二上から報告を受けた倉富勇三郎枢密院議長は、顧問官補充につい
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長には鈴木派の山口義一が就任した。結局、非主流派は久原派を切り
犬養政友会総裁期の前田米蔵
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悌二郎農相とともに﹁党本位﹂
、すなわち党分裂回避を基調とした事
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会を設置し、会長を国務大臣待遇とし、それには山本条太郎を充てる
一四日にも、前田は犬養の意向を受けた形で、産業政策のための委員
富に無任所大臣の新官制を認めるよう依頼しており、総選挙後の三月
大臣カ予算分取ヲ為ス弊アルニ付之ヲ防ク為﹂という理由で、再度倉
すなわち、三二年一月五日、宮中の新年宴会の際に前田は、﹁各省
だったが、それでもなお犬養は前田に別件で交渉役を依頼していく。
よ う に、 鈴 木 派 は 前 田 が 枢 密 院 と の 交 渉 役 を 独 占 す る こ と に 否 定 的
与しない。顧問官補充交渉を森が前田からとりあげたことからわかる
し、行違いもあるので以後は森が交渉すると告げ、実際以後前田は関
問 官 補 充 に つ い て は、 一 二 月 二 五 日 に 森 内 閣 書 記 官 長 が 倉 富 を 訪 問
︵第五位︶となったことに不満で、長老顧問官の宮中席次を上げるこ
であった鳩山や前田が、国務大臣となって自分たちより宮中席次が上
三十九位、内閣書記官長や法制局長官の時でも高等官一等で第十九位
分たちより宮中席次が下位であった、すなわち衆議院議員としては第
云ヒ居リタ﹂ることを倉富に話した。つまり、平沼は、先頃までは自
田︵米蔵︶等カ大臣トシテ其下位ニ就クハツマラヌモノナリト不平ヲ
ばよいと考えた。その会話の中で、二上は、﹁平沼ハ鳩山︵一郎︶ヤ前
位︶の扱いが問題となった。倉富は朝鮮総督と同等︵第六位︶とすれ
富にこの意見を伝えた。すると倉富と二上の間で枢密院副議長︵第九
務大臣前官礼遇者と同等︵第八位︶にすべきであると話し、二上は倉
平沼が二上に対し、伊東巳代治、金子堅太郎両顧問官の宮中席次を国
犬養政友会総裁期の前田米蔵
つもりであるとして枢密院の内諾を得たいと二上に持ちかけた。しか
し、会長の国務大臣待遇には倉富議長も平沼騏一郎副議長も﹁人ノ為
ニ制度ヲ設クル﹂ものであり、会長は国務大臣が兼任すればよいとし
103
貴衆両院議員や関係大臣から親任待遇の委員を数人入れる方向である
本が満鉄総裁に就任する場合︵結局は就任せず︶には副会長をやめて
会長を山本条太郎とする方向で国策審議会の設置を検討しており、山
前田はその後も犬養の依頼により、四月中旬に会長を犬養首相、副
るのは受け入れられないという考えを二上に示した。
げたい、枢密院副議長が総理大臣前官礼遇者︵第七位︶より上位とな
席︵第十九位の中でも前の方の意味か︶とし、両院議員も一ランク上
十一位︶とし、両院副議長︵第二十位︶を高等官一等︵第十九位︶の上
な い が、 そ の 代 わ り 貴 衆 両 院 議 長︵ 第 十 二 位 ︶ を 親 任 官 と 同 等︵ 第
と、前田は、私見として、功労ある一部顧問官の宮中席次優遇は問題
三二年一月中旬、二上が前田に枢密院側の宮中席次改定案を伝える
とによって、少しでも自分の席次も上げようと考えたのである。
102
のである。この一連の構想が犬養の発案か前田など非主流派の発案か
その後、総選挙や内閣改造が一段落した三月末、倉富は改めて二上
しても即答は期待できないので、前田か島田俊雄法制局長官と協議す
一方、枢密院側からも前田を通して政府に交渉を試みた問題があっ
るよう二上に指示した。二上は、枢密院副議長については朝鮮総督と
派優遇策の模索であることはまちがいない。
に対し、枢密顧問官と副議長の宮中席次について、犬養首相に直接話
104
総理大臣前官礼遇者との間に﹁特別席﹂を設けるという、若干譲歩し
105
た。枢密顧問官の宮中席次︵第十位︶の改定問題である。一九三一年末、
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と報じられた。枢密院の意向をふまえた妥協案を前田が立案していた
て反対し、二上は前田にこれを伝えた。
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どうかわからないが、いずれにしろ、犬養の同意を得た上での非主流
100
の結果として一月中旬とほぼ同じ返答をした。すなわち、枢密院副議
た案でさっそく前田と折衝した。これに対し、前田は、犬養との相談
る。
宮中席次については議会政治家としての立場を崩さなかったのであ
を条件とするなど、かなり強い態度で交渉に臨んだ。前田と犬養は、
密院副議長が顧問官より下位になる場合︵同じ第八位の中での任命順
は鈴木喜三郎を推し、非主流派は高橋蔵相を推したが高橋が固辞した
も政友会に来るという前提のもとに後継総裁の銓衡を急いだ。鈴木派
五・一五事件で犬養が暗殺されたことに伴い、政友会では次期政権
長については、他はすべて一段上がるだけなのに枢密院副議長だけ二
などで前後することを指しているとみられる︶が発生するとして政府
ため床次を推す形勢となった。ここで政友会では一六日午後、全閣僚、
段上がることは認められないとした。しかし、枢密院側はそれでは枢
の意見には反対であった。
に試案の作成を依頼したが、その浄書が終わらないうちに五・一五事
るべきだと主張、枢密院はこれに反対した。前田は五月に入り枢密院
どうしても枢密院副議長を二段階あげるならば両院議員も二段階上げ
その後四月中旬にも二上と前田の間で折衝が持たれたが、前田は、
岡崎と望月に一任、二人は床次に辞退を説得し、翌一七日の議員総会
務、前田商相、秦鉄相、岡崎邦輔、望月圭介で、小委員会では調整を
の小委員会が設置された。委員は山口幹事長、久原総務、浜田国松総
前閣僚、党幹部︵総務と幹事長︶の協議の結果、総裁候補人選のため
前田は犬養の意を受けて枢密院との交渉役を務め、枢密顧問官補充
だった。それでも前田があえて鈴木でまとまるように動いたのは、政
閣 し た 場 合 は、 前 田 は 他 の 非 主 流 派 と と も に 閣 外 に 去 る 見 通 し
崎と望月に一任されたのは前田と秋田清の画策によったが、鈴木が組
で鈴木が後任総裁に選出された。一六日の小委員会で候補一本化が岡
問題では森内閣書記官長に役割を奪われたが、無任所大臣や宮中席次
件となり、この問題は自然消滅となった。
問題では依然犬養の代理として交渉役を務めた。先行研究では犬養を
権維持・党分裂防止のためと考えるほかはない。
110
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鈴木派のロボットとみなしているが、満州国承認問題については既に
108
にしたように対枢密院工作についても非主流派の前田を重用したこと
知られているように犬養は森の意向を受け入れておらず、今回明らか
継続を断念、五月二三日に斎藤実を首班として天皇に推薦、二六日に
結局のところ、元老西園寺は宮中や軍部の意向をふまえて政党内閣
の二段階昇格については大義名分がないとして拒絶し、その他の要求
拒絶する中、犬養の意をうけた前田は、枢密院の要求の中でも副議長
また、宮中席次問題では、無任所大臣問題で枢密院が政府の要望を
政 友 会 は こ れ を 受 け 入 れ、 鳩 山 が 文 相 に 留 任、 三 土 は 鉄 相 に 転 任
けた斎藤は、政友会に対し、高橋のほか、鳩山と三土の入閣を要望、
裁あるいは長老格から二名の入閣を要望した。結局、高橋の助言を受
犬養政友会総裁期の前田米蔵
した。鳩山は主流派︵鈴木派︶
、三土は非主流派を代表した人選であ
は、斎藤は当初政友会に対し、高橋を蔵相に留任させるほか、鈴木総
112
についても、貴衆両院議員や両院正副議長の席次上昇との抱き合わせ
ながら主導権掌握を試みていたのである。
斎藤実を首班とするいわゆる挙国一致内閣が成立した。組閣の過程で
111
からわかるように、犬養は実は鈴木派偏重ではなく、バランスを取り
109
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106
ところである。野党時代において、しばしば党幹部会には顧問、ある
犬養政友会総裁期の前田米蔵
るから、党内情勢を知る高橋が、政友会を内閣につなぎとめるため、
いは前閣僚︵前首相側近︶という資格で非主流派の有力者︵党幹部、
にも人材的にも党を二分する存在感を持っていたからこそ、犬養は組
閣において非主流派を排除することはできなかった。非主流派が数的
の大半が参加したにもかかわらず、鈴木派は党内人事や犬養内閣の組
閣僚や首相側近の経験者︶が参加しており、協力内閣運動に非主流派
対立する両派から一人ずつ入閣させるよう斎藤に助言したのである。
その結果、前田の内閣残留は実現しなかった。
おわりに
犬養総裁期の政友会において、前田米蔵は、子分︵派閥︶を持たず、
し か も 党 内 で は 劣 勢 の 非 主 流 派 に 属 し て い た に も か か わ ら ず、
に参画したが、同年末の政友会の政権獲得時に初入閣を果たし、枢密
ような失態を犯し、一九三一年秋には党の方針に反する協力内閣運動
任された。その後、一九三〇年九月の党大会における総裁演説問題の
められていたこと、スキャンダルがなかったことなどが指摘できる。
力を発揮したこと、そうした際の方策の立案者としての才能を広く認
局長官となり、しかも同内閣の難局打開︵特に不戦条約批准問題︶に
ほど党内での存在感を強められた要因としては、田中義一内閣で法制
そうした背景の中で、非主流派の中でも前田が唯一初入閣を果たす
閣人事や内閣の施政において一定の権力を行使できたのである。
院工作に関して犬養首相から特別な信頼を受け、五・一五事件後の後
しかも一九三二年二月に元老西園寺公望の秘書原田熊雄の宴席に主
一九三〇年春の議会ではロンドン海軍条約問題の質疑で重要な役割を
任総裁問題でも、党分裂回避の方針で事態収拾に重要な役割を果たし
年齢も議員歴も前田とほぼ同じで前田のライバルとも目されていた
的上昇が期待できるほぼ唯一の政治家だったことと、軍部に関する考
て注目されつつあった。その要因として、前田が非主流派で以後政治
賓として招かれるなど、前田は元老周辺からも信頼できる政治家とし
鳩 山 一 郎 が、 田 中 義 一 内 閣 の 内 閣 書 記 官 長 と し て の 職 務 に 不 熱 心
ある。従来の研究では、犬養総裁期における鈴木派の勢力拡大が指摘
も活動の余地を見出すことができた要因としては、第一に党内情勢が
以上のように不利な条件の中で前田が閣僚の地位を獲得し、党内で
では軍部に対する考え方が最も元老側と近かった。結果的に、前田は
田は、ロンドン海軍軍縮条約問題の際に示されたように、政友会の中
裁や重要閣僚あるいは首相の座を望むことは難しかった。しかも、前
が、旧政友系有力者の望月圭介、岡崎邦輔などは年齢的にもはや党総
られたように、政友会の中では政策上の穏健性で最も元老に近かった
されてきた。党執行部人事を見る限りそれは事実であるが、非主流派
政友会の穏健派を代表する有力者になるという期待を元老側から抱か
実現したのとは対照的である。
すなわち、非主流派の中でも旧政友系の多くは、協力内閣運動で見
え方が比較的元老側に近かったことが指摘できる。
た。
120
もまたかなりの存在感を発揮していたことは本論文で明らかになった
118
− −
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119
114
だったにもかかわらず、将来の総裁・首相候補と目され、鈴木派の有
117
115
力者の一人として、党総務に返り咲き、さらに前田と同時に初入閣を
116
べきことといわなければならない。
犬養政友会総裁期の事績をふまえ、以後の前田が、どのようにして
︵
︵
︵
︵
︵
︵
6
5 4 3
2
1
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
治﹂
︵
﹃本郷法政紀要﹄一一、二〇〇二年︶
。
︶前田の唯一の伝記として、有竹修二﹃前田米蔵伝﹄
︵前田米蔵伝記刊行
会 一九六一年︶があるが、関係者の戦後の回想談が主な材料である
ため、具体性、信頼性が不十分である。前田の生涯については拙著﹃政
治家の生き方﹄
︵文芸春秋 二〇〇四年︶第六章で扱っているが、田中
内閣期の具体的活動はほとんどふれていない。なお、前田の個人史料
は、太平洋戦争末期の空襲で自宅が焼失したためほとんどない︵拙稿
﹁大正期の前田米蔵﹂一頁︶
。
︶たとえば、九月二日、五日、九日、一二日の党幹部会に出席している
︵
﹁政友会々報﹂
︹
﹃政友﹄三四七号、一九二九年一〇月︺四一∼四四頁。
︶
﹁伊勢電鉄 バラ撒いた 四十万円﹂
︵
﹃読売新聞﹄同年一一月二七日付
朝刊一一面︶
。
︶﹁徹底的に究明せよ 政友代議士会決議﹂
︵﹃東京朝日新聞﹄同年一一月
二一日付朝刊二面︶によると、一一月二〇日の政友会代議士会で、前
田は﹁同事件に関する自己の立場を明かにし当時政友会は買収には極
力反対したものであるから政友会はもちろん個人としても何等関係な
き旨を声明し﹂た。
︶松本真一﹃紀伊偉材第一線に立てる人々﹄
︵青年日本社・宮井平安堂 一九二六年︶五三一頁に﹁今日前田氏が巨万の富を積み、一流大会社
の 重 役 或 は 法 律 顧 問 た り ﹂、 荒 木 武 行﹃ 新 政 治 家 列 伝 ﹄︵ 内 外 社 一九三二年︶二〇〇頁に﹁前田は矢鱈に散じない。その代りに他から
寄付も仰がない﹂などとある。
︶前掲奥書六七∼六八頁。
︶前掲伊藤之雄書二五七頁。
︶山本四郎校訂﹃立憲政友会史﹄第七巻︵日本図書センター 一九九〇
年、原著一九三三年刊︶三頁。
︶たとえば、
﹁外様大名策動に 生抜き幹部反感 一応諒解を求めよと﹂
︵
﹃読売新聞﹄一九二九年一〇月二日付朝刊二面︶
、
﹁犬養氏推戴に 久
9
れることになったのである。しかも前田は議会政治以上の政治形態は
ないと考え、議会政治の信用回復のために政党の自覚を必要と認識し
ていた。これらのことは、前田が一九三〇年代半ばから政民両党を基
盤とした近衛新党計画の推進者となっていく背景として注意していく
121
政界での地位を上昇させていったのかについては別稿で検討したい。
︵
犬養政友会総裁期の前田米蔵
− −
15
注
︵
7
10
11
12
13
16 15 14
17
122
︶ 奥 健 太 郎﹃ 昭 和 戦 前 期 立 憲 政 友 会 の 研 究 ﹄
︵ 慶 應 義 塾 大 学 出 版 会 二〇〇四年︶第一章。
︶拙稿﹁大正期の前田米蔵﹂
︵﹃研究紀要﹄
︹日本大学文理学部人文科学研
究所︺七五、二〇〇八年︶、﹁田中義一内閣期の前田米蔵﹂
︵
﹃史叢﹄八八
号、二〇一三年三月︶参照。
︶拙著﹃政治家の生き方﹄
︵文芸春秋社 二〇〇五年︶第六章。
︶前掲奥書。
︶政党政治の崩壊という観点から犬養総裁時の政友会の政策や党内情勢
の概要にふれた研究に伊藤之雄﹃大正デモクラシーと政党政治﹄
︵山川
出版社 一九八七年︶第六章がある。
︶千代田典士﹁政友会中堅少壮議員の意識と行動︱満州事変前を中心に
︱﹂
︵﹃一橋研究﹄三︱一、一九七八年︶
。
︶時任英人﹃犬養毅﹄
︵論創社 一九九一年︶は研究者によるものとして
は唯一の評伝であるが、政友会総裁時についてはごくわずかしか触れ
ていない。
︶伊藤隆﹁﹁自由主義者﹂鳩山一郎︱その戦前、戦中、戦後﹂
︵同﹃昭和期
の政治・続﹄、山川出版社 一九九三年︶
、小宮京﹁鳩山一郎と政党政
8
犬養政友会総裁期の前田米蔵
原氏の新運動﹂︵﹃東京朝日新聞﹄同年一〇月四日付朝刊二面︶
、
﹁けふ
領 袖 連 の 帰 京 と 共 に 総 裁 問 題 進 展 せ ん ﹂
︵同右一〇月六日付朝刊二
面︶など。
︵ ︶
﹁立憲政友会 々 報 ﹂
︵﹃政友﹄三五〇号、一九三〇年一月︶四一∼四二頁。
︵ ︶衆議院・参議院編﹃議会制度百年史﹄帝国議会史下巻︵大蔵省印刷局
一九九〇年︶二四八頁。
︵ ︶衆 議 院 事 務 局 編 刊 ﹃ 衆 議 院 議 員 総 選 挙 一 覧 第 一 六 至 一 八 回 ﹄
︵一九二八年∼一九三二年︶。
︵ ︶﹁買収の嫌疑で 十四名収容 諸江、浅賀、前田、真鍋、瀬川 各派
の違反事件﹂
︵﹃東京朝日新聞﹄一九三〇年二月二四日付朝刊七面︶
。
︵ ︶前内閣法制局長官前田米蔵氏談﹁比例代表制を実施するなら 名簿式
を採用すべし﹂︵﹃政友特報﹄一二五七号、一九三〇年三月一七日付、
西垣晴次・丑木幸男・富澤一弘解説﹃政友特報﹄第一巻 芙蓉書房出
版 一九九七年、二三三頁︶。
︵ ︶美濃部達吉﹃現代憲政評論﹄
︵岩波書店 一九三〇年二月、復刻、ゆま
に書房 二〇〇三年︹小路田泰直監修・小関素明解説﹃史料集公と私
の構造﹄第二巻︺︶所収の﹁選挙革正論﹂
。
︵ ︶﹁比例代表小委員会速記録﹂︵一九三〇年一一月一三日、アジア歴史資
料センター Ref.A05021124900
︶
、
﹁衆議院議員選挙革正審議会第一特
別委員会議事録﹂第一〇回︵一九三〇年一〇月三日︶
、一四回︵同二八
日 ︶、 一 七 回︵ 一 一 月 二 〇 日 ︶
︵ ア ジ ア 歴 史 資 料 セ ン タ ー Ref.
︶。いずれも、国立公文書館﹁各種調査会委員会文書・
A05021190200
衆議院議員選挙革正審議会書類﹂所収。答申は杣正夫﹃日本選挙制度
史﹄
︵九州大学出版会 一九八六年︶一二二∼一二四頁参照。なお、同
審議会における比例代表に関する前田の発言は、小関素明﹁日本政党
政 治 史 論 の 再 構 成 ﹂︵﹃ 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 研 究 報 告 ﹄ 第 三 六 集、
一九九一年︶一五四∼一五五、一六八頁ですでに紹介されている。
︵ ︶関静雄﹃ロンドン海軍条約成立史﹄
︵ミネルヴァ書房 二〇〇七年︶第
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
六、
七章。
︶同右、七八、
一一二∼一一三、
二一六、
二三五頁。
︶同右二三六頁。条文引用は伊藤博文﹃憲法義解﹄
︵岩波書店 一九四〇
年︶三九頁。
︶原田熊雄述﹃西園寺公と政局﹄第一巻︵岩波書店 一九五〇年︶四二頁。
︶以下、帝国議会議事録は、すべて﹁帝国議会会議録検索システム﹂
︵国
立国会図書館ホームページ︶による。
なお、井上寿一氏は、鳩山が本文に引用した発言のあと、﹁統帥権
問題ニ付テ其作用デアル所ノ重要ナル国務デアル国防ノ計画ニ付テ、
輔 弼 ノ 機 関 デ ア ル 所 ノ 海 軍 軍 令 部 長 ノ 意 見 ト、 内 閣 ノ 意 見 ト ガ 違 ッ
テ、二ツノ異ナル意見ヲ 陛下ニ進言申上ゲテ、 陛下ノ宸襟ヲ悩シ
奉ッテモ、尚ホ総理大臣ニ責任ナシト云フコトハ、私ハ断ジテ容認ス
ルコトハ出来ナイ﹂と述べたことを、
﹁内閣が意志を統一すべきであ
る﹂と﹁示唆﹂していると解釈し、鳩山の立場を、民政党の主張する﹁天
皇統治下の議会中心政治﹂に﹁限りなく近い﹂と評価している︵井上寿
一﹃政友会と民政党﹄中央公論新社 二〇一二年、九三∼九四頁︶
。し
かし、この鳩山の発言は、国防問題は軍部の専権事項であり、その軍
部の意見を無視して国防に関する意思決定をしたという理由で浜口首
相の政治責任を追及するという趣旨の発言の中で出て来たものであ
り、軍部に対する内閣の優位を認める意図による発言ではなく、井上
氏の解釈は当該史料の文脈上は無理があると言わざるを得ない。
︶
﹁内閣と軍令部の関係﹂
︵﹃東京朝日新聞﹄一九三〇年四月二六日付朝刊
三面︶
。なお、犬養は軍令部優位を主張したわけではないので、同紙
の批判は不正確である。
︶﹁ 本 会 議 の 質 問 に 政 府 は 楽 観 今 後 は 予 算 総 会 を 警 戒 ﹂
︵同右四月
二七日付朝刊二面︶
。
︶﹁予算総会に臨む 政友会の作戦成る 軍縮問題は特に戒心﹂
︵同右四
月三〇日付朝刊二面︶
。
− −
16
27 26
29 28
30
31
32
19 18
20
21
22
23
24
25
︵京都大学学術出版会 ︵ ︶伊藤孝夫﹃大正デモクラシー期の法と政治﹄
二〇〇〇年︶二八六∼二八七頁。
︵ ︶同右、二八一 ∼ 二 八 二 頁 。
︵ ︶拙稿﹁田中義一内閣期の前田米蔵﹂一七頁。
︵ ︶加 藤 軍 令 部 長 の 談 話 の 内 容 と 談 話 発 出 の 経 緯 は 前 掲 関 書、 二 一 三 ∼
二一五頁。
︵ ︶﹁首相、外相の答弁は 官僚の典型 政友会声明を発す﹂
︵
﹃東京朝日
新聞﹄一九三〇年五月一日付夕刊一面︹四月三〇日発行︺
︶
。
︵ ︶
﹁答弁回避と は 何 事 ぞ や ﹂
︵同右同年五月二日付朝刊三面︶
。
︵ ︶
﹁問題の統帥 権 ﹂
︻一︼
︵﹃読売新聞﹄同年五月一八日付朝刊二面︶
。
︵ ︶
﹃政友﹄三五七号︵一九三〇年六月︶の﹁立憲政友会々報﹂欄六一頁︵
﹁な
ほ前閣僚、前々閣僚は顧問と同様たること﹂とあるが、同三六〇号︵同
年九月︶の同欄六九頁に前田が他の前大臣とともに顧問として記載さ
れていることから、﹁閣僚﹂とは大臣のみならず内閣の構成員全部を
含むとみなされること、前掲﹃立憲政友会史﹄第七巻、三五六頁にも
この役員改選で前田が顧問に就任したと記されていることから判断し
た。
︵ ︶前掲奥書六二∼六六頁。
︵ ︶当該期の﹃政友﹄各号の﹁立憲政友会々報﹂欄参照。
︵ ︶城南隠士﹃政界夜話﹄︵東治書院 一九三三年︶三一頁︵一九三〇年
一〇月五日執筆︶。
︵ ︶前掲関書四〇 五 頁 。
︵ ︶前掲﹃政界夜話﹄三一頁。
︵ ︶馬場恒吾﹃政界人物風景﹄
︵中央公論社 一九三一年︶一一〇頁。
︵ ︶前掲拙稿﹁田中義一内閣期の前田米蔵﹂二一頁。
︵ ︶国 立 国 会 図 書 館 憲 政 資 料 室 蔵 ﹁ 倉 富 勇 三 郎 日 記 ﹂ 一 九 三 一 年 一 二 月
一六日条。
︵ ︶﹁万事理攻めの 前田商工相 初大臣を訪ねて︻二︼
﹂
︵
﹃東京朝日新聞﹄
犬養政友会総裁期の前田米蔵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
一九三一年一二月一五日付朝刊一一面︶。
︶国民新聞政治部﹃明日を待つ彼﹄
︵千倉書房 一九三一年︶二一二頁。
︶馬場恒吾﹁既成政党と中立の陣営より﹂︵
﹃読売新聞﹄一九三〇年一月
二六日付朝刊四面︶
。
︶貴族院との関係については、前掲﹃明日を待つ彼﹄に、﹁政友会として
は 対 貴 族 院 策 の 如 き、 前 田 君 の 弾 力 あ る 手 腕 に 待 つ と こ ろ 少 な く な
い﹂とある︵二一二∼二一三頁︶
。
︶
﹁減税案に 主力を 今後の政友会﹂
︵
﹃東京朝日新聞﹄一九三一年二月
一九日付朝刊二面︶
、
﹁質問打切で また一騒ぎか こぢれて来た減税
案﹂
︵同右二月二五日付朝刊二面︶
。
︶古屋哲夫﹁金解禁・ロンドン条約・満州事変﹂
︵内田健三ほか編﹃日本
議会史録﹄三、第一法規出版 一九九〇年︶九〇∼九五頁。
︶
﹃政界往来﹄一九三一年五月号、三六∼三七頁。
︶前掲﹃政界夜話﹄一三一∼一三四頁︵一九三一年四月七日執筆︶
。
︶前掲﹃立憲政友会史﹄第七巻、六二一∼六二三頁。
︶当該期の﹃政友﹄各号の﹁立憲政友会々報﹂欄を参照。
︶
﹁政友政調役員﹂
︵
﹃東京朝日新聞﹄一九三一年五月三日付朝刊二面︶
。
︶﹁政治の簡易化が 国政一新の要諦 政友会の行政調査方針﹂
︵﹃読売
新聞﹄同年五月一七日付朝刊二面︶
。
︶
﹁各方面の権威を集め 本社主催 行財政整理座談会︻一︼
﹂︵
﹃東京朝
日新聞﹄一九三一年五月一六日付朝刊二面︶。
︶﹁本社主催 行財政整理座談会︹五︺ 連隊区司令部と 憲兵は無用の
長物 有吉氏の長講一席﹂︵同右同年五月二〇日朝刊二面︶
、﹁本社主
催 行財政整理座談会︹六︺ 少くも勅任官を 自由任用に改めよ 前田米蔵氏の能率化提唱﹂︵同五月二一日朝刊二面︶
、
﹁本社主催 行
財政整理座談会︹九︺ 保険制度を採用し 既得恩給も減らせ 志立
氏徹底的改革を説く﹂
︵同五月二四日朝刊二面︶
。
︶前法制局長官前田米蔵﹁政友会十大政綱解説︵三一︶ 行政機構の全般
− −
17
51 50
52
53
54
60 59 58 57 56 55
61
62
63
33
36 35 34
37
40 39 38
43 42 41
48 47 46 45 44
49
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
犬養政友会総裁期の前田米蔵
的改革﹂
︵﹃政友特報﹄一七二五号、一九三一年一〇月三日付︹前掲﹃政
友特報﹄第七巻、二八三頁︺︶。
︶同 右﹁ 政 友 会 十 大 政 綱 解 説︵ 三 二 ︶ 行 政 機 構 の 全 般 的 改 革 ﹂
︵同右
一七二六号、同年一〇月五日付︹前掲﹃政友特報﹄第七巻、二八八∼
二九〇頁︺︶。
なお、同特別委員会の検討結果は従来不明とされていた︵土川信男
﹁政党内閣と 産 業 政 策 ﹂
︵三︶
︹﹃国家学会雑誌﹄第一〇八巻一一・一二号、
一九九五年︺三八頁︶が、
﹃政友特報﹄の発見、刊行により明らかになっ
たものである 。
︶前掲土川論文 、 二 三 ∼ 三 九 頁 。
︶小 林 道 彦﹃ 政 党 内 閣 の 崩 壊 と 満 州 事 変 ﹄
︵ ミ ネ ル ヴ ァ 書 房 二 〇 一 〇
年︶第三章5。なお、協力内閣運動についての最新の研究として小山
俊樹﹃憲政常道と政党政治﹄
︵思文閣出版 二〇一二年︶第六章がある
が、西園寺の動向に焦点があてられている。
︶原田熊雄述﹃西園寺公と政局﹄第二巻︵岩波書店 一九五〇年︶一一七
頁︵一九三一年一一月四日条︶。
︶﹁一度呼びかくれば 政友一部直に呼応せん﹂
︵
﹃読売新聞﹄一九三一年
一一月二三日付夕刊︹二二日発行︺一面︶
。
︶前掲﹃政界夜話﹄二一九頁︵一九三二年四月三日執筆︶
。
︶﹁幹事長をも 辞任を言明﹂
︵﹃東京朝日新聞﹄一九三一年一二月一三日
付朝刊二面︶。
︶前掲﹃明日を待つ彼﹄一三八頁。
︶この時点における各人物の色分けについては、以下の史料によった。
﹁財政と外交に 特別の配慮を 閣員選考事情﹂
︵同右、鈴木派が鈴木、
鳩山、森、秦、床次系あるいは旧政友系が床次、前田、三土、山本悌
二郎、中間派が中橋︶、﹁協力派内外相策応し 総裁を牽制して破る 犬養総裁断乎一蹴す﹂︵﹃読売新聞﹄同日付朝刊二面、協力内閣運動参
加者、久原、秋田、内田、島田、山崎達之輔、山本条太郎、望月圭介、
岡崎邦輔︶
、
﹁総裁に閣員銓衡を一任﹂
︵同、単独内閣論者に鈴木喜三
郎と山本悌二郎︶
。
︵ ︶前掲﹁財政と外交に 特別の配慮を 閣員選考事情﹂
。
︵ ︶
﹁安達内相等の除名 最後的決定はまだ﹂
︵﹃東京朝日新聞﹄一九三一年
一二月一三日付夕刊︹一二日発行︺一面︶、
﹁民政党果然分裂! 安達
氏一派脱党す﹂
︵同右同日付朝刊二面︶
。
︵ ︶以上、
﹁床次と鈴木 閣僚色わけ 犬養内閣物語︵完︶﹂
︵
﹃東京日日新
聞﹄一九三一年一二月一六日付朝刊二面︶。
︵ ︶同右。
︵ ︶浅尾勝弥﹃政界人は乱れ飛ぶ﹄
︵勝美閣 一九三二年︶七九∼八〇頁。
︵ ︶前掲拙稿﹁田中義一内閣期の前田米蔵﹂二三∼二五頁。
︵ ︶
﹁商工次官 更迭 吉野信次氏﹂︵
﹃東京朝日新聞﹄一九三一年一二月
二二日付夕刊一面︹二一日発行︺
︶、
﹁貿易局は 復活か 商相力説せ
ん﹂
︵同右一二月二二日朝付刊二面︶
、﹁産業五ヶ年計画 遂行の決意
を 国 民 に 納 得 さ せ よ 与 党、 政 府 に 要 望 ﹂
︵同右一九三二年一月
一三日付朝刊二面︶
、
﹁朗らかに各大臣は説く﹂︵
﹃読売新聞﹄同年一月
一六日付朝刊三面︶
、
﹁産業確立を基調に 広範囲の関税改正 収入主
義を排する商相の意向﹂
︵﹃東京朝日新聞﹄同年二月二日付朝刊四面︶
、
﹁時論 我産業界の現状と産業合理化 商工大臣 前田米蔵﹂︵日本商
工会議所発行﹃産業合理化﹄第五編 一九三二年四月、
﹁事務次官会議﹂
︵
﹃東京朝日新聞﹄一九三二年四月二日付朝刊二面︶
、
﹁許可認可事項 整 理 案 決 定 す 商 工 省 は 六 十 二 件 ﹂
︵同右同年四月二二日付朝刊二
面︶
︶
。
︵ ︶前掲土川論文、特に﹁結び﹂を参照。
︵ ︶
﹁五ヶ年計画全滅 手も足も出ぬ商、農両省 早くも政策の行詰りを
暴露す﹂
︵同右同年三月三一日朝刊二面︶
。
︵ ︶
﹁財界特急﹂
︵
﹃読売新聞﹄同年四月六日朝刊三面︶
。
︵ ︶﹁法理的にも実際的にも 優諚拝受は当然 商相、首相に各方面に意
− −
18
74 73
75
79 78 77 76
81 80
83 82
64
66 65
67
68
70 69
72 71
見報告﹂
︵﹃東京朝日新聞﹄同年一月一一日付夕刊二面︹一〇日発行︺
︶
。
︵ ︶﹁時めく商相 全国最高点 五万七十九票﹂
︵
﹃読売新聞﹄同年二月二二
日付朝刊七面︶。
︵ ︶
﹁ 金 力・ 権 力 ・ 精 神 力 野 党 に 搔 け た 三 拍 子 政 友 の 勝 因 = 民 政 の 敗
因 選挙結果を顧みて︻上︼﹂
︵﹃東京朝日新聞﹄同年二月二三日付朝刊
三面︶。
︵ ︶拙著﹃昭和戦中期の議会と行政﹄
︵吉川弘文館 二〇〇五年︶二一六頁。
︵ ︶和歌山県史編さん委員会編﹃和歌山県史﹄近現代史料六︵和歌山県
一九八二年︶一二七頁。増田胞代︵当時高野口町長︶の回想。増田は﹁前
田会﹂という前田の後援会に加入していた︵一二二頁︶
。前田は選挙後
の 四 月 上 旬 に 帰 省 し て い る︵﹁ 前 田 商 相 帰 省 ﹂
︹
﹃東京朝日新聞﹄
一九三二年四月三日付夕刊一面︵二日発行︶
︺
︶
。
右の回想で増田は、高野口町︵前田の郷里︶で河川改修に伴う小学
校移転費用をめぐって商相時代の前田に陳情したところ、即座に解決
し た と も 述 べ て い る︵ 一 二 三 頁 ︶
。 前 田 は 選 挙 区 と 全 く 地 縁 の な い、
いわゆる落下傘候補の典型であるが、そうした人物の郷里との関係を
うかがわせる 話 と し て 興 味 深 い 。
︵ ︶前掲﹃西園寺公と政局﹄第二巻、二二三頁︵一九三二年二月二三日条︶
。
︵ ︶前掲奥書六九 頁 。
︵ ︶同右七〇∼七 一 頁 。
︵ ︶﹁鈴木系に対抗して 床次、久原系を糾合﹂
︵
﹃読売新聞﹄一九三二年三
月一九日付朝刊二面︶、﹁中間派の三相 首相に進言 改造は党本位た
れ﹂
︵﹃東京朝日新聞﹄同年三月二五日付夕刊一面︹二四日発行︺
︶
、
﹁中
間派の各相 法相に依頼 森翰長の慰留につき﹂
︵
﹃読売新聞﹄同年三
月 二 五 日 付 夕 刊 一 面︹ 二 四 日 発 行 ︺
︶
、
﹁森書記官長 留任せん 辞職
問題は自然消 滅 ﹂
︵﹃東京朝日新聞﹄同年三月三〇日付朝刊二面︶
。
︵ ︶山口が鈴木派であることは、前掲奥書五九頁。
︵ ︶この問題について、政府と枢密院の関係からみた先行研究として、伊
犬養政友会総裁期の前田米蔵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
藤之雄﹃昭和天皇と立憲君主制の崩壊﹄
︵名古屋大学出版会 二〇〇五
年︶がある。本論文では、政府・与党内における前田の立場を確認す
る観点からこの問題を検討する。
︶以上、
﹁倉富日記﹂一九三一年一二月一六日条。
︶
﹁無任所大臣に 山本︵条︶氏を任命 新官制作成次第に手続﹂
︵
﹃読売
新聞﹄一九三一年一二月一四日付朝刊二面︶。
︶帝国議会の議員は公職者であるが官吏ではないということである。
︶
﹁倉富日記﹂一九三一年一二月二四日条。
︶同右同年一二月一六日、二五日条。
︶同右一九三二年一月五日、三月一四日条。
︶
﹁ 満 鉄 総 裁 の 決 定 次 第 国 策 審 議 会 を 設 置 親 任 委 員 七 名 で 組 織 ﹂
︵
﹃東京朝日新聞﹄一九三二年四月一三日付朝刊二面︶
。
︶以下、宮中席次については、百瀬孝︵伊藤隆監修︶
﹃事典昭和戦前期の
日本﹄
︵吉川弘文館 一九九〇年︶二四九頁。
︶首相経験者すべてに与えられる資格ではなく、国務大臣と総理大臣を
通算四年以上務めた者、あるいは二回以上国務大臣礼遇を受けた首相
経験者に限られた︵前掲百瀬書一四頁︶
。
︶
﹁倉富日記﹂
︵一九三一年一二月二八日条︶の原文は﹁大臣待遇﹂となっ
ているが、前後の文脈から判断して、これは﹁大臣礼遇﹂のことを意
味していると判断できる。
︶
﹁倉富日記﹂一九三二年一月一三日条。
︶同右同年三月三〇日条。
︶同右同年三月三一日条。
︶同右同年四月一一、
一三日条。
︶同右同年五月四日、六日条。
︶時任英人﹃犬養毅﹄
︵論創社 一九九一年︶二五〇頁。
︶
﹁後継政友総裁決す 鈴木氏推挙を受諾﹂
﹁岡崎、望月両長老 調停役
に起つ﹂
﹁ 極 力 投 票 を 避 け 挙 党 推 薦 の 方 策 け ふ 小 委 員 会 持 寄 り ﹂
− −
19
95 94
100 99 98 97 96
101
102
103
110 109 108 107 106 105 104
84
85
87 86
91 90 89 88
93 92
犬養政友会総裁期の前田米蔵
︵同右五月一七日付朝刊二面︶。
︵ ︶﹁ 前 田 秋 田 両 氏 を 黒 幕 に 望 月 長 老 の 大 芝 居 鈴 木 氏 に 決 定 の 楽 屋 ﹂
︵同右五月一八日付夕刊一面︹一七日発行︺
︶
、
﹁内閣は大改造断行 高
橋、床次、芳澤、三土、前田諸氏閣外へ﹂
︵
﹃読売新聞﹄同年五月一七
日付朝刊二面︶。
︵ ︶田中時彦﹁斎藤内閣﹂
︵林茂・辻清明編﹃日本内閣史録﹄三 第一法規
出版 一九八一年︶二八九∼二九六頁。
︵ ︶﹁斎藤子政友へも 入閣援助を懇望す﹂
﹁斎藤子が胸に描く 閣僚の割
当て 蔵相の留任は決定的﹂︵﹃東京朝日新聞﹄一九三二年五月二四日
付朝刊二面︶、﹁政友の入閣者 三名か四名﹂
︵同右五月二五日付夕刊
︹二四日発行︺一面︶、﹁新内閣の根幹成る 山本︵内務︶高橋︵大蔵︶
を 代 表 に 政 民 入 閣 全 部 決 定 本 日 中 に 選 考 を 終 り 親 任 式 は 明 日
か﹂﹁政友首脳 対策協議 鳩山三土両氏決定まで﹂
︵同右同日付朝刊
二面︶。
︵ ︶斎藤の組閣時の対政友会戦略がこうしたものだったことについては、
佐々木隆﹁挙国一致内閣期の政党﹂
︵
﹃史学雑誌﹄八六︱九、
一九七七年︶
五三頁ですで に 指 摘 さ れ て い る 。
︵ ︶前掲﹁大正期の前田米蔵﹂一七頁。
︵ ︶岩渕辰雄﹁犬養内閣を語る⑨﹂︵﹃大阪毎日新聞﹄一九三二年一月一九
日付夕刊︹一八日発行︺一面︶に﹁鳩山は︹中略︺田中内閣の書記官長
でもゴルフばかりやつてゐて、実際の仕事は法制局長官の前田がやつ
た﹂とある。
︵ ︶たとえば、﹁人気の鳩山︱努力の秋田 将来与党の中心となる 大臣
級の二人男﹂
︵﹃読売新聞﹄一九二九年四月四日付朝刊二面︶参照。
︵ ︶主な例として、前掲奥書第二章、前掲小山書第七章。
︵ ︶三二年一月、森内閣書記官長が原田熊雄に﹁自分は大失敗をした。犬
養を見損つた。彼には案外弱いところがある。今議会が解散にならな
ければならんことは最初から判つてゐる。内務大臣に鈴木を持つて行
︵
︵
︵
けばよかつたのだ。
﹃鈴木でなければ床次、︱︱ともかくも内務行政
に相当経験のあるものでなければ、解散はできやせん﹄と俺は言つた
のに、中橋を持つて行つた。これが非常な失敗だつた。中橋始め閣僚
の中にも、今まで犬養に反逆的であつた前田とか三土、政務次官に内
田、こんな連中を持つて行つたつて、本当にぴつたり犬養を援けて行
かうとする筈はないぢやないか﹂と語っている︵
﹃西園寺公と政局﹄第
二巻一八〇頁。一九三二年一月一五日条︶が、本文で見たように前田
と犬養の関係が特に悪くなかったことを考えると、犬養が意のままに
ならぬことへの森のいら立ちが示されていると考えるべきである。
︶
﹁智慧ばかり勝つて勇気がない﹂
︵前掲﹃政界夜話﹄一三四頁︶
、﹁前田
君は政友会切つての智慧者であるといはれてゐる﹂
︵前掲﹃明日を待つ
彼﹄二一〇頁︶
、
﹁前田の智慧﹂
︵前掲﹁犬養内閣を語る⑨﹂
︶。
︶拙著﹃政治家の生き方﹄第六章。
︶また、
﹁国政一新を基調とする制度法規及び行政機構の全般的改革に
関する特別委員会﹂の活動の中で、前田が新人議員中島知久平と知り
合ったことも、これ以後の前田の活動を考える上では見落とせない。
中島は一九三〇年二月の総選挙において無所属で当選、中島飛行機創
業者としての豊富な資金力を評価されて政友会に入党した。中島は政
策研究に熱心で、一九三一年六月に日本初のシンクタンクといわれる
国政研究会を設立した。前田は中島の勉強ぶりを高く評価し、犬養内
閣の商相となった際、中島を商工政務次官とした︵手島仁﹃中島知久
平 と 国 政 研 究 会 ﹄ 上︵ み や ま 文 庫、 二 〇 〇 五 年 ︶ 一 七 三 ∼
一七四、二〇六、二五〇∼二五五頁︶
。その後前田は、一九三五年ごろ
から中島とともに近衛新党計画の推進者となり、日中戦争期になると
中島を政友会の総裁候補として支援することになる︵前掲拙著﹃政治
家の生き方﹄第六章︶
。
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