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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅

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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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大理石ヒンドゥー像はヒンドゥー王朝のものか
桑山, 正進
東方學報 (1972), 43: 1-54
1972-03-30
https://doi.org/10.14989/66484
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
彫像 資 料
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー 王 朝 のも の か
彫 像 資 料- 様式 観 諸 説-細部表現の検討-冠巾の表現ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝の年代-突蕨期におけるヒンドゥー神像
桑
山
正
進
l九 三四年 に自 大 理石 ス1- ヤ神 像 が カーブ ル北 邦 の ハイ ル ・ハネ峠 近傍 で茸 見 され てから ' 一九 七 1年 〓 7
月現
在 に いた るま で' 二十教 鮎 に のぼ る白大 理石彫像 が しられ る。そ のう ち 二' 三 の例 を のぞ - と'それ ら は科学 的 な車 掘 によ っ
て出 土 したも のではな - '農 民 の採 集 したも のであ ったり、収 集 家 の所有 に蹄 したも のであ った- し てへ正確 な 出 土状 況 に関
す る記銀 を敏 し て いる。す なわ ち科学 的童 掘 以外 の手績 き で知見 に のぼ った例 は'遺 物 と遺 跡 と の関 係 が明瞭 でな - 、 こ の事
情 が自 大 理石像 に封 す るさ まざ ま の見解 を生 じ'神 像 の宗教 的 あ る いは社合 的 な背 景 を理解 す る場合 に難鮎 を興 え て いる。 ま
た 一方 ' これ ら の彫像 に関 す る様 式観 やそれ にとも なう年 代親 も像 日渡 を綿 密 に観 察 しな いで いたず ら に比較 の対 象 を求 め て
いる現状 であ る。 したが って' ここ では資 料 の再検 討 の意味 から ' まず 自大 理石像 個 々の詳 細 な観 察 を記述 す る こと から はじ
)。
ス1 - ヤ Sdr
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固2) l ・ア ッカ ソ J.Hac
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五頁の表参照
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h 遺 跡 を吏 掘 Lt 上層 期 の紳 両B及び紳 詞C
北 郊 一二 キ ロにあ る ワジ ラ ーバ ード W az
(
1)
の問 に堆積 した土中 より こ の神 像 を登 見 した。 こ の神 像 はBまた はC の いず れ か の神 南 にま つられ て いたも のと推定 され る。
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
東
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報
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り
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、髪
の下 方 にみ え る結 び 目 '両 脚 問 に たれ る連 珠 '像 背 面 にみえ る連 珠 の腰 帯 の上 下 にあ ら わ さ れ た衣 紋 な ど に よ って判 断 され る。
両 腕 に か かり ' 両 脚 間 にたれ る布 は衣 服 ではな - ' こ の像 の背 面 に南 端 が表 現 され る と ころ の 一俵 の布 であ る。 爾 肱 は倍 坐 し
た腿 の上 にあ てが い'物 を さ さげ も つよう に表 現 され 、 手 預 に環 状 お よび 連 珠 の二種 の腕 輪 を は め るが 、 手 は敏 落 し て いる。
脚 に は連 珠 装 飾 が あ り ' おそ ら - 長靴 の装 飾 と考 え ら れ る. 太 陽 神 の相好 は タ キ シラ出 土 のヴ ィ シ ュヌ Vi
等 u 神 像 に と- に
(
2)
近 似 Lt後 述 の シヴ ァ gi
va 両 頭 部 に眉 の表 現 が 顛 同 す る。脇 侍 のダ ンダ とピ ソガ ラは太 陽面 よ りも いち じ る し-小 さ - あ ら
わ され 、 両 者 とも 腰 を 折 って身 を か が め' 太 陽神 を仰 ぎ み る姿 勢 を と る。 両 者 とも ま た着 衣 は同 類 で、 両 肩 を お お い、 胸 も と
でと め た マソトを着 、 両 脚 間 に舌状 に垂 れ る連 珠綾 飾 のあ る衣 服 を つけ る。背 面 は ただ磨 研 され た だ け で頭髪 や衣 紋 な ど の表
現 は ま った- な い。特 色 が認 めら れ る のはダ ソダ のも つ槍 の表 現 で'槍 身 に常 る部 分 が木 葉 型 にあ ら わ され て いる こと であ る。
ま た馬 が裸 馬 でな い鮎 が 興味 ぶ か- ' ど ち ら にも 鞍 と手 綱 の表 現 が あ る。 鞍 の敷 物 の緑 飾 が ま たダ ソダ のも つ槍 身 と同 じく木
葉 状 装 飾 であ る。 下 段 は前述 のと おり丈 の低 い基 墓 とも稀 す べき 部 分 であ るが 、背 面 では太 陽 神 の のる 上 段 よ り 下 が基 墓 のよ
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王し て いる。 す な わ ち側 面 から み る と こ の像 の基底 が 水 平 でな - 、後 から 前 に かけ て斜 行 し て いる のであ る。 シヴ ァ
(
3)
ス- リ ヤ形 式 は地域 と時 代 と に より 決 定 され ' 早 期 の例 (
ボド ・ガヤー B.dh・gay抑)
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iによ
ラ マムー ルテ ィ C.
は 四頭 立 て の馬 車 、 時 代 が降 って の例 では 七頭 立 て であ - 、 ま た南 イ ンド(タンジ ョー ル
で は裸 足 、 ま たデ カ ン地方 でも 裸 足 であ る 一方 ' ビ ハ- ルな ど北 イ ンド の例 で は長靴 を は- 。 ま た北 イ ンド の ス1 - ヤ の表
yp' スヴ ア ルチ ャサー Su
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asa を ス1 - ヤが したがえ、 ア ル
現 では' ダ ソダ ' ピ ソガ ラ、 お よび そ の妻 チ ャー ヤ ー Cha
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' ベ ンガ ル Be
ngatに
ナが 七頭 立 て の馬 を駁 Lへ さ ら に暗 黒 を弓 射 し て追 い掃 う 二人 の女 射 手 を とも な う のが最 も 一般 的 で、 ウ ッタ ル ・プ ラデ シ ュ
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shP ラージ ャスタ ー ン RaJ
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an'グ ジ ャラ ー ト GuJ
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tオ リ ッサOr
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みら れ る とす る。 ダ ソダ ' ピ ソガ ラ の妻 たち は タ ミ ー ル地方 を のぞ - 全 イ ンド の地 であ ら わ れ て いる。 ま た ラ オ T.A.Go
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(
4)
ロ
athaRaoによ る と ' 彼も 南 イ ンド と北 イ ンド と の二 つのグ ループ を認 め'南 イ ンド では'手 を肩 の高 さ ま で畢げ '牛 関 の蓮
大理石ヒンドゥー像はヒンドゥー王朝 のも のか
東
光背 断 片
ら な い。
臼
方
畢
報
・三 セ ンチ'左 足 の長 さ 一 一 ・七
り され 'それ に爪 形 の刻 線 が表 現 され て いる鮎 が と- に注 目 に値 す る。 イ ンド におけ る ス- リ ヤがそ の南 北 を問 わず 光背 をも
(
8)
つと いう ラオ の記述 と ス- リ ヤ像 の柄 とを考 え あ わ せ てへ こ の光背 が ス- リ ヤ像 のも のであ った と推定 す る ことも でき るが '
(
7)
ハイ ル ・ハネ遺 跡 の神 岡A、BtC の前 方 に ひろが る廉 い空 間 で出 土 したが'大 き さ は不明 であ る 。巾 が浮 彫
シ ャー ナ族 に関 係 した彫像 や貨幣 にみられ t と- に パイ ク- ヴ ァ
出 土 の基董 浮 彫 の男 子像 にあ ら わ れ る鮎 、 地 理的
(
6)
に近 接 したも のと し て興味 深 い。 こ の日大 理石像 が ど の神格 をあ らわ したも のか は' こ のよう な残 映 だ け から はま った -わ か
P
a
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分 で示 され る膝 以 上 の部 分 には縦 の曲線 が刻 まれ 'ズ ボ ンが こ こ でふ- ら ん で いる ことを表 わ し て いる。 こ のよう な服割 は ク
′
も のと は異な った形式 であ る。 脚 は膝 以 下 を横 と縦 の刻線 でかざ り'長靴 を は- ことを 示す が '衣 の裾 と長靴 上端 と の狭 い部
た帯 も し て いる。左 手 は長剣 の把 頭 にお かれ て いる。頚 飾 は 二種 で' ひと つは ス- リ ヤと同 じ形 式 の連 珠 で'他 は ス- リ ヤ の
はな い。裾 に連 珠 の縁 ど- のあ る長 衣 は ス1 -ヤ像 一姫 と同 じ形 式 で、 腰帯 も つけ て いる。 これ と は別 に長剣 と刀子 とを つけ
いる。 頭部 は量感 があ -' 頭髪 は長 - 、中 央 を境 に左 右 に分 け られ 、生 え際 は小 さ い波状 をな し' 一本 の帯 を奄 -。帯 に装 飾
こ の武 人像 は左 腕 と右 脚 とを鉄 損 し、 右腕 は肱 から 先 が前 方 へさ し出 され た形 を示す よう にみら れ るが' そ の部 分 が鉄 損 し て
基童 の上 に今 はな い像 の両 足 と' そ のむ か って右 に園 柱状 のも のにより'中 心 の像 を みあげ て立 つ個 剣 の武 人像 を配す る。
セ ンチ。雨 足 の症 の間隔 三 二 ハセ ンチ。供 養 武 人像 の高 さ 二 一セ ンチであ る。
0 セ ンチ の長方 形 で'像 の右 足 の長 さ 二
き さ は、長 さ 三七 セ ンチ、幅 二 二セ ンチ、高 さ 1
た。前 者 は紳 両A の奥 壁 に設 けら れ た基 壇 西北 隅 のデ ブ リ中 で、後 者 は基 壇 に原 位置 を保 って'そ れ ぞ れ 出 土 した。基 童 の大
でに達 す る。脚 も 足も 裸 ではな い。 ま た両 地 に共通 す る特 徴 は' キ リ ー タ Ki
r
i
t
a とそ の背 後 の囲 光 の存 在 であ る。
(
5)
像 基董 (
固3上) ハイ ル ・ハネ遺 跡 上原 期 の紳 詞A で出 土 した。 供 養 武 人像 と足 だ け残 し た基 華 と は別 々の地鮎 で出 土 し
⇔
華 を両 手 にも ち、脚も 足も 裸 であ る。 北 イ ンド では' 手 は背 部 ま でたらす か'肱 ま で挙 げ る か で'全 開 の蓮 華 が肩 の レベ ルま
四
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
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○あ り, ?不明,/な し,高 :
彫 像資料一覧
表
五
東
方
学
報
ウ ー ルド ゥヴ ァ レー ク ス ・ガ ネ - シ ャ Or
d
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v
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as gaDeh 立像 (園6) ガ ルデ ィーズ Gardi
z付 近 で 一九 五 六年 頃 護 見
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Du・
ウ ー ルド ゥヴ ア レ - タ ス ・ガ ネ - シ ャ立像 (
固7) カ ーブ ル近 郊 の サカ ル ・ダ ルS
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ka
rDh
a
r(カIブルよ- l五キロ)で 一九
(ザ ー ル ShorBaz
ar にあ る ヒ ンド ゥー寺 院 で いまも 信 仰 され て いる。
五 六年 頃 尊 兄 され たも の で' カ ーブ ル市 内 の シ ョル ・'
(
n)
一九 六 八年 に アグ ラ ワ ラに よ って襲 表 され た資 料 だ が ' サ カ ル ・ダ ルに お け る正 確 な 出 土状 況 に つ いては何 も わ か って い な い 。
飼
に よ る銘 文 の陰 刻 が あ る こと で、 こ の像 を奉 献 し た 王名 と期 日 と が よ み とら れ る。 これ に つ いては後 述 す る (
二六貢参照 )0
の例 と は重 要 で
ガネ - シ ャのほ か に こ の種 の ウ ー ルド ゥヴ ア レー ク ス ・ガ ネ - シ ャの例 は時 代 の早 い例 に とぼ し- 、 そ の意 味 から こ の例 と次
1
.
)
(
o
る 。 こ のガ ネ - シ ャ像 に は さ ら に重 要 な こ と に は基 童 正 面 の磨 研 部 分 に 二行 にわ た る鋭 角 ブ ラー フ ミ-文 字
え て鼓 腹 の下 方 に は エレク ト ・リ ンガが みえ る。 ウダ ヤギ - Ud
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i(M adya Pra
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)石 窟 第 六洞 の門 口にあ ら わ さ れ た
dhar
mo
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a が とく に言 及 し て いる四管 のヴ ィナ- ヤ カ Vina
yakaの特 徴 によ- 合致 した表 現 と いわ ねば な ら な い。 これ に加
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a
gaa
j
a6pavi
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a であ る0 腰 の虎 皮 の表 現 と とも に ヴ ィ シ ュヌダ ル モー ツタ ラ
て いる聖 紐 は ナ- ガ' す な わ ち これ は n
が'いま は左 右 の前 腕 二暦 を残 す にす ぎ な い。し か し肱 から 先 が鉄 損 し て いる の で'持 物 は 不 明 であ る。左 肩 から 右 脇 へと か け
そ の上 に立 ち あ が った細 いも のが あ ら わ され て いる。 肩 のう しろ にあ る 一封 のも のは おそ ら -象 の耳 であ る。 腕 はも と 四背 だ
し 三面 立飾 の上部 を 大 き -鉄 損 し て平 頂 の観 を興 え る。 正 面 の幅 の贋 い牛 戟 楕 固 形 の立飾 に は' 細 いク レ ッセ ソーが み ら れ '
は床 上 に出 て いる部 分 の高 さ だ け と考 え ら れ る。 七 一セ ンチ で' 幅 は約 三 五 セ ンチ であ る。 ガネ - シ ャは賓 冠 を つけ る。 し か
董 は いま粗 彫 部 分 を こ の寺 院 の床 にう ず め こん で固 定 し てあ る の で正 確 な 線 高 は不 明 であ る。 し た が って アグ ラ ワ ラ の計 測 値
h Dar
gah に お いて信 仰 封 象 にな って いる。 G ・- タ ッチ G.T
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cciが l九 五八年 に簡 単 に報 告 し' 一
ルガ p-.
rRat
hanNat
(
9
)
九 六八年 にR ・C ・アグ ラ ワ ラ R.C.
Ag
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a
waL
a が 再 び と り あ げ た。像 は基 童 の上 に ガ ネ - シ ャを彫 り 出 し た丸 彫 の像 で' 基
され たも の で' 正確 な 出 土 地鮎 や 出 土状 態 に関 し ては ま った- 不 明 であ る。 現 在 カーブ ル市 内 のピ ー ル ・ラ タ ン ・ナ1 - ・ダ
輯
そ の場 合 の難 鮎 は ス- リ ヤ像 の巾 の表 現 と光 背 に みえ る巾 の表 現 とを どう 解 樺 しう る か と いう こと であ る。
六
全 鮭 に かな り磨 滅 の進 ん だ像 であ るが ' 頭 部 に は 三両 立飾 のあ る賛 冠 を おそ ら - つけ て いた と考 え ら れ る。 四層 が み と めら
れ 、右 前 層 は答 の蓮 垂 をも つ手 、左 前 管 は肱 から 先 を敏 損 Lt 爾 後 層 は ま っす ぐ 伸 し て ガ ネ - シ ャの両 脇 に立 つ丈 の低 い従 者
a
g
a
y
a
j
A
6pavita、鼓腹 の下方 には裳 を つき あげ た エレクト ・リ ン
の頭 上 に手 を お いて いる。 ナ- ガ ヤ ジ ュ ニ ョ- バ グ ィ- タn
ガ、 裳 は虎 皮 (
虎頭は左大腿上にみえる)な ど鱒 の ガ ルデ ィーズ 出 土 のガネ - シ ャ像 と ま った -圃 像 上 は等 し- 同 類 であ る。 従 者
は何 をあ ら わ し た か 不詳 だ が ' 頭髪 は大 き い巻 き 毛 から 成 り 、 童 子 形 であ る。 基 童 は正 面 上部 にご - 狭 い l帯 を残 す 他 は粗 彫
り のま ま であ る。 ラオ によれば 四膏 のガ ネ - シ ャはバ ー ラ ・ガ ナパ テ ィ Bat
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(ク テ ィ 。ヴ ィグ ネ - シ ュヴ ァラ
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虎 皮 と エ レク ト ・- ソガと ナ - ガ聖紐 の組 合 せ のあ る ガネ - シ ャの例 はな い. ま た
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r と であ る と いう が '
イ ンド 本 土 のガ ネ - シ ャと時 代 地域 を問 わず 比 較 した場 合 ' ガ ルデ ィーズ のガネ - シ ャのよう な鼻 が短 か- 内 へ巻 き こん だ 例
ド ウ ルガ- ・マヒ シ ャー スラ マルデ ィ ニー Dur
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はな - ' サ カ ル ・ダ ルの ガネ - シ ャのよう に鼻 先 に何 も 持 たず か つ短 い鼻 の例 にも と ぼ し い。
銅
ウ ルガ I が
マ
れ る像 で、 カ ーブ ル周連 で出 土 した と いわ れ るだ け で正 確 な 出 土 地す ら 不明 であ る。 長 さ 三 四 セ ンチ' 残 高 二 七 セ ンチ であ る。
(
13)
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r が l九 五 五年 に は じ め て襲 表 し た フ ェルナ ソド ・ス コレ ッテ ィ所 蔵 品 。 水 牛 の上 にド ウ
シ ュラ ン'
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(ルジ ェ D.S
ルガ-女神 が右 脚 を か け、 マヒ シ ャー スラ の 口元 に手 を か け ' マヒ シ ャー スラ の首 を 上 にむ か せ て いる像 で' ド
ヒ シ ャー スラを退 治 す る場面 であ る。 ド ウ ルガ Iは マヒ シ ャー スラ のむ こう 側 から ま たが った恰 好 で、 こ の像 の背 面 に ド ウ ル
ガ I の腎 部 と左 脚 があ ら わ され た丸彫 であ る。 マヒ シ ャー スラ の四脚 は ほ と ん ど敏 損 Lt 屈 し た右 前 脚 のみ蹄 が残 って いる が'
そ の鮭 躯 の表 現 は充寛 し て いる。 充寛 感 はド ウ ルガ I の肉 づ け にも みら れ る。 ド ウ ルガ -は マヒ シ ャー スラ の 口元 に か け た右
手 と腰 以 下 の部 分 を残 す が 、 左 足 お よび 膝 を屈 し た と考 え ら れ る右 脚 の大 部 分 は とも に散 伏 し て しま って いる。 マヒ シ ャー ス
ラ の腰 の手 前 上 には ド ウ ルガ I のさ し こん だ 三 又戟 が若 干残 り、 腰 のう しろ側 に は尾 毛 が弓 な り に浮 彫 り され て いる。 ド ウ ル
七
ガ - の右 手 首 に は連 珠 を ふ- め た幅 廉 い腕 輪 が み え 、 第 五指 に は指 輪 を は め て いる。 左 脚 に は裳 の槽 が陽 刻 され ' 背 部 や左 腰
大理石ヒンドゥー像はヒンドゥー王朝 のも のか
て いる。
東
方
軍
報
のう しろ側 から ド ウ ルガ Iが片 柳 を属 し てま たがり ' マヒ シ ャー スラ の腰 に三 叉観 を つき 立 てる と いう 形 式 であ る鮎 が 一致 し
たド ウ ルガ- の右 脚 の衣紋 は放物 線 を並 べた陰 刻 で形 式 的 に整 理 され て いる。 こ の像 も 銅 の像 も 前 脚 を屈 した マヒシ ャー スラ
腕 輪 のう ち ' マヒ シ ャー スラ の頭 を さ さえ る左 腕 と剣 を にぎ る右 腕 と は花 紋 のあ る幅廉 いも ので、 他 の腕 のも のと異な る。 ま
二叉観 の中 央 の身 は木 葉 型 であ る。 ド ウ ルガI の
か ん で いる。 そ の蹄 の つく り方 ' 三叉戟 ' ド ウ ルガI の腕 輪 に特 色 があ る。 一
髪 は かき あげ たよう な よ-整 理 され たも のだ が'耳 のう しろ側 で肩 ま でかか る垂髪 とな って いる。 マヒ シ ャー スラも 短 剣 を つ
像 の左 上 にま っす ぐ のび た右管 のひと つは マヒ シ ャー スラ の腰 に打 ち こんだ 三叉戟 を握 ったも のであ る。 マヒ シ ャー スラ の頭
う ち 一層 は何 も も たず ' 二膏 は持 つが '持物 は不明 であ る。右 層 のう ち尾 を つまむも の以外 は軟 損 し て いる。 しか しおそ ら -
手 に握 った剣 をそ の頭 にさ し 'ま さ に切 - とら ん と し て いる。 ま た右 管 のひと つは マヒ シ ャー スラ の尾 を つまむ。 他 の左 管 の
ー スラ の背 に右 足 を ふまえ ' 水牛 頭 を切 り落 され て上牛 身 をあ ら わ した マヒ シ ャー スラ の首 を左前 膚 で後 頭部 から お さえ '右
むこう側)から右 脚 を まげ て' マヒ シ ャ
マヒ シ ャー スラとを 一成 に丸彫 したも のであ る。 ド ウ ルガ -は マヒ シ ャー スラ の背 後 (
ズ 出 土 と いう が'そ の正 確 な出 土 地 は不明 であ る。残 高 六〇 セ ンチほ ど で'基 墓 の上 に八層 のド ウ ルガ Iとそ れ に退 治 され る
mad Al
iM o
t
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mediによれば ' ガ ルデ ィー
れ 以前 に護 見 され て いた こと は確 か であ る。 同博物 館 長A ・A ・モタ メデ ィ Ah
)
掴 ド ウ ルガ- ・マヒシ ャー スラ マルデ ィ ニー像 (
挿固1 こ の像 に つ いて欧 に婆 表 され た論者 をき かな いがへ 寓 異 はM ・タ
(
;)
デ イ M .Tadde
iが l九 七〇 年 に公表 し、筆 者 は 1九 六五年 に既 に ア フガ ニスタ ン閥 立博 物 館 で観 察 した ことがあ る ので'そ
識 のな さを示 し て いる。
r
at
au
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s の表 現 であ ると した のは'彼 の ヒ ンド ゥー固 像 撃 に関 す る常
ン世界 でみられ る ,
,
,ト ラ ・タ ウ ロクト ノ ス M i
t
h
の刻線 を複数 入れ て いる。 こ の像 の紹 介者 が係 数 像 でな いこと に気 づ き な がらも そ の国儀 上 の解 樺 に苦 しみ' グ レ コ ・ロー マ
に は腰 帯 (
?)の末 端 の表 現 があ る。 マヒ シ ャー スラ の蹄 は中 央 に 一本 の刻線 を 入れ る こと によ って二分 し、蹄 と脚 と の境 は縦
八
大 理 石 ヒ /ド クー像 は ヒ ンド ゥー王朝のも のか
挿 国 1 Dur
g云Mahi
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As
u
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ama
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ni像 (
彫像資料 7)
㈹
ド ウ ルガ- (
?)紳 頭部 (
閏5)
ラー グ マ ン地 方 の 村 カ ラ ・ア ミー ル ・モ
ハマド の遺 跡 にお いて 一九 六〇年 に表 面
(
15)
採 集 され た。高 さ 六 セ ンチであ る。も と
も と大き な像 の頭部 であ った こと は頭 が
や や右 むき に彫 られ た ことを 示す割戟 面
があ る ことよ り知 られ る。後 頭部 は粗彫
り のま ま で表現 され る ことがな -'像 が
丸彫 でな か った ことを示 し て いる。磨 滅
が みられ るが' 三眼 をも ち ' ≡面 立飾 の
あ る冠鞘 を つけ る。 正面 の立飾 は フォ ン
ド キ スタ ソ厳 寺 壁書 菩 薩 の天 冠 のそれ に
類 似 Lt中 心 に重 圏 があ り' そ こから植
物 の葉 のよう な装 飾 が でて いる形 であ る。
左右 の立節 は同 類 で'連 珠 を組 み合わ せ
た固 形 であ る。右 側 頭部 は' こ の頭部 が
や や右 むき であ るた め にそ こに花飾 ら し
い装 飾 をあ らわ し て いるが'磨 滅 し て明
確 でな い。 冠帯 の下 '耳 のう しろ では波
九
東
方
学
報
状 に髪 がなび - さ まをあ らわす 。 頭 頂 部 の髪 の表現 は細 い線 を多数 平 行 に刻 んだも ので入念 であ る。 こ のよう にあ ら わ され た
髪 が後 頭部 で束 ねら れ て いる こと は 一本 の隆起 線 によ ってあ き ら か に知 られ る。 こ の頭 部 が ド ウ ルガ - であ る かどう かは にわ
か に決定 しが た い。 第 三 の眼 をも ち 、牽 冠 の形式 が こ の日大 理石像 グ ループ のな か では女性 形 に層 す る ことな ど により へ シ ヴ
ァ神 の神 妃 であ る こと は考 え られ よう 。 し た が ってあ る いは ド ウ ルガ- であ るかも しれ な い。 こ の像 の登表 者K ・フ ィ ッシ ャ
s
c
h
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r は'関 のド ウ ルガ-像 の頭 部 ではな いか と考 え て いる。
ー K. Fi
囲
シヴ ァ gi
va紳 頭 部 (
圏4) シ ュラ ンベ ルジ ェに よ って 一九 五五年 には じ め て婆 表 され た資 料 であ るが' ガ ルデ ィーズ 出
(
16)
土 とだ け憶 え られ 'そ の他 の詳 細 は不明 であ る。高 さ 二八 セ ンチで、現 存 の自大 理 石像 の頭 部 と し てはも っとも 大 き い。 三面
立飾 の牽 冠 を つけ'第 三 の眼 をも ち '顔 は顎 が や や とが- '全 鰹 に細 い華 奪 な表現 であ る。 非 常 に磨 滅 が多 - t と- にそ れ は
む か って右 側面 にお いてはな はだ し- 、 こ の側 面 が長 - 土中 から 露 出 し て いた と考 え られ る。髪 は賓 冠 の下部 の前 額 部 で左 右
封 稀 に虞 理 され てお-、巻 き 毛 とな って いるが'そ の各 々に こま か い線 を 入れ て毛髪 を表 現 し て いる。寮 冠 の右 立節 は後 側 に
縁遠 の連 珠飾 が若 干残 って いるだ け だ が、 正面 立節 は牛 裁 楕固 形 を星 Lt縁遠 に連 珠装飾 を まわ し'中 央 下底 に ク レ ッセ ント
h
g
a を た て、 - ソガ上部 と ク レ ッセ ソト両端 とを紐 で連 絡 し飾 って いる。 冠帯 は方 形 と園 形 を交
を配 し' そ の上 に - ソガ Li
互 に配 し'そ の間 を 二列 の連 珠 帯 で つな いで いる。賛 冠 にか こまれ た頭髪 部 は'頭 頂 部 と とも に破 損 し て いるら し- ' ま た破
損 の のち磨 滅 し て いる。 こ の像 の相好 でと- に注意 を ひ- のは鼻 梁 から左右 に出 た眉 で'そ れ は囲 弧 の形 を とらず ' 限 尻 の上
方 ま ではほ とん ど直 線 をも ってあ らわ され ' そ こから や や弧 をな し て いる。 H の ス1 - ヤ像 の相 好 と とも に タキ シラ出 土 のヴ
ィシ ュヌ Vi
S
Du 像 に共 通鮎 を み る。
毎 ド - テ ィー Dhof
iを つけ た ト ルソ (
固10) 高 さ 六 五 セ ンチで' タガ- オ T a
gao 出 土 とされ ' シ ュラ ンベ ルジ ェによ って
(
Ⅳ)
l九 五 五年 に はじ め て登 表 され たも のであ る. 頭部 、腕 '脚 下部 を軟 損 Lt全 鰹 に磨 滅 がす す ん で いるが '背 面 にお いて腰 に
裳 を つけ たさ まが浅 -表 現 され て いる。 ま た頭部 と とも に後 肩 ま で剥 落 のあ とが みえ る のはおそ ら - 垂髪 か頭飾 かが そ の部 分
ま で表現 され て いた ことを示す のであ ろう。 腕 は つけ根 から 折損 し て いる が、も と は八背 であ った と考 え られ る。裳 の衣紋 は
(
18)
a
g
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n
sが l九 六四年 に聾表 した。 残 高 二〇 七ソ
像 基童 (
闘3下) タパ ・スカ ソダ ル出 土 と俸 えられ t B ・ダ ジ ャン B.D
Ⅴ字幕 を刻 ん で表 現 され て いる。
臼
チ'奥行 一八 七 ソチ'長 さ五〇 センチであ る。基底 部 は不整 形 で、 それ に つづ - 約 三分 の二 の部 分 は粗 彫 り のま ま であ るが'
上部 三分 の lは帯状 に若 干彫 - こみ、磨 研 し て いる。 こ の磨 研 部分 の中 央 に女性 形 上牛 身 が浮 彫 であ らわ され て いる。連 珠 頚
飾 を つけ '両腕 を さ さえ るよう に上方 へひろげ '衣 は左 上腕 にかか るも のと腹 部 を お おうも のとがあ る が' おそ ら - ひと つづ
き の衣 であ ろう。 衣紋 はや はりⅤ字 清 を刻 む ことを基 本 とす る。 右 上腕 に表現 され たも の の意 味 は不明 であ る。 こ の年 身像
る0
物 館戒 で出 土 地 不明 の
ブ ラ フ マI Br
a
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ma 立像
の ス ルタ ン ・マー ス- ド
Ghazni
ガ ズ ニー
一一
小 さ い蓮 坐 の上 に立ち'そ の足も と に左 右 各 三 の小 立像 ' ち ょう ど両腕 の両
Sul
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an Masdd 三世 の宮 殿 の贋 間 北隅 から 八断 片 にわ かれ て出 土 した'胴腔
(
21
)
を軟 損す る立像 であ る。総 高 九 八 セ ンチ。 中 央 には三顧 をも つブ ラ フ マtが
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I
比較 し て' これ を俳 教関係 の遺 物 にした いよう であ る。
基
ダ ジ ャンは ペ シ ャー ワ ルP
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war博物館 蔵 で サ ー - ・バ ー ロ ー ル
(
19)
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1
6
4出 土 の供養者像 (べシャーワル博物館 l四二七番)基童 や ラ ホー ル博
(
孤)
墓
ラ
( ホ ール
博物館七七七番)に浮 彫 され た像 (
挿固2)と
側 のも のは不明 であ るが'左 側 のも のは動物 の蹄 とも 衣 紋 の末 端 とも みられ
た ことがわ かる。 基董 上面 の両 端 にも彫 刻 のあ とが残 って いる。 む か って右
って いるが 、ち ょう どそ の雨掌 に普 たる位置 に基董 上 に立 つ主像 の足 があ っ
の頭部 だ け は基童 の上面 に丸彫 と し て表現 され て いた ので いま は軟 落 し てしま って いる。 両腕 は左右 に ひろげ て支 え る形 を と
大 理 石 ヒ ソド クー像 は ヒ ソド クー王朝 のも の か
S
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i
挿 固 2 坐俳 台座 浮彫 (
Lahor
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博物館,片岩)
東
方
学
報
側 に結伽 した像 各 1を配 し'左 右 の顔 前 に持 物 をも つ坐像 各 1があ る。全 鰹 は大 き い長方 形 の石板 から彫 り出 され て いる。 そ
の上部 は牛固 形 の光 背 を彫 る。 光 背 の経 過 は陰 刻 の花 紋 、中 心 はブ ラ フ マI の襲 撃 のう しろ に普 り、 そ こは復活 の蓮 華 を透 彫
に し て いる。 ブ ラ フ マI の襲 撃 は非 常 に丈 が高 -、顔 面 の二倍 以 上 の高 さ であ るが'中 央 の相 好 は磨 滅 し て いる。 左 右 の相 好
の牽 鷲 は組 み紐 のよう に高 -結 いあげ '左 右 封稀 に つ- る。各 々の編 紐 には さら に こま か-毛 髪 の表現 があ る。 ブ ラ フ マI の
頚飾 '腕飾 '脚 の左右 に残 る衣紋 の表現 、光 背 や量 産 の つ- り方 な ど以 上 に の.
,(た 一群 の大 理石像 と は はな はだ し い差 異 が認
S
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r
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o は次 の観 鮎 から考 え て ガズ ナ朝 のイ ンド征 略 の折、 ガズ ニーにイ ンド
められ る。 こ の像 の費 掘 者U ・セ ッラー I U.
a
rista に よれば ' ガズ ナ朝 の ス
からも たら され た像 であ ると み た。 セ ッラート の根 嬢 は次 のと おり であ る。‖ フ ァリ シ ュタF
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h の像 を破 壊 し ても ち締 り ' ア ルー ス ル・フ ァラ ク・モ スク
ルタ ン ・マ- ムード は ソ ムナ1 - So
biによれば ' マ- ムードが ソ ムナ1 -割 歴 紀念 に建 設 した前述 の モ スクに'戦 利 品
の入 口を造 る のに用 いた。⇔ ウ -ビ ー Ut
と し てイ ンド から運 ば れ た諸 像 から 金 を と って これ を用 いた。臼 こ の像 の磨 滅 は偶 像 忌 避 の結 果 ではな - ' こ の上を賓 際 に歩
ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ Uma
ma
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か
v
a
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a 並 坐像 (固1、挿固3)
た 。
基 童 の上 に ナ ソ
ハイ ル ・ ハネ 遺
- こと によ って徐 々にす -き れ たも のであ る。 こ の像 形 式 が ' アジ ュメー ルで出 土 し、 ラ ージ ュプ ク ー ナ博物 館 にあ る ス- リ
(
22)
ヤ像 と同 額 であ る と観 察 して'筆 者 も セ ッラ1 - の説 を安 菅 とす る。
3E
し
タパ ・スカ ソダ ル (
カーブル市北方約三〇キロ'
(
23)
跡の北方約 l八キロ)の下層期 の大 テ ラ ス上 に て出 土。 l九 七〇 年 秋 京 都 大挙 中 央 アジ ア学 術 調 査 除 が賛 掘
ーN
a
ndi牛 に牛蜘 して坐 す 単 面 ≡限 四層 の シヴ ァとそ の左 によ り そう 紳 妃 パー ルヴ ア テ ィと パー ルヴ アテ ィの裳 裾 にと
ディ
り ついた スカ ソダ Skandaを 一成 彫 出 した坐像 であ って、大 理石諸 像 のう ち軟 損 す る部分 も き わ め てす - な - 'も っとも 整 っ
〝
こ の銘 文 帯 より下 は粗彫 り のま まを残 し' 基
鋭角 ブ ラ フミ-文 字 ″ の刻銘 があ り' さら に こ の像 の重 要 性 を ま し て いる。 銘 文 には後述 のご と- マ へ- シ ュヴ アラ
た像 であ る。 基 董 正面 に幅 (
高さ)平 均 五 ・八 センチ' 長 さ 四 三 センチ の磨 研 部 があ -' そ こに三行 八四字 (
句読鮎をも含む)か
ら成 る
Ma
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a と し て シヴ ァの名 が みえ る ので'紳 妃 は ウ マI Uma の名 を と る。
底 は不整 形 。基底 から マ へ- シ ュヴ アラ の頭頂 ま で の高 さ'す なわ ち こ の像 の総 高 は八 一 ・五 セ ンチであ る。像全 鮭 は日 の ス
- リ ヤ像 や輯 ' 飼 のガネ - シ ャ像 と同様 と- に正面観 を重 ん じ、 も っとも厚 み のあ る部分 で' 奥 行 はわず か l八 センチであ
-、 全 鮭 に薄 い観 を輿 え る。 ナ ンデ ィー牛 の表 現 は' 正面観 にお いてはむ か って左 にみえ る頭部 と蹄 とが みえ るだ け であ る
が へ 背 面 では癌 を はじ め鰹 全鰹 が浅 い浮 彫 であ らわ され て いる。 蹄 は中 央 で二分 Lt 足首 に こま か い刻線 を 入れ て毛 を表現
しょう と し て いる。 ま た シヴ ァと同 じ- ナ ンデ ィー牛も 第 三 の眼 を眉間額中 央 に開 いて いる。 預 には花 の垂飾 を つけ る。 ナ
ンデ ィー牛 の上 に マ へ- シ ュグ アラは左 脚 を折 - ' 牛 伽 の姿 勢 で坐 す。 連 珠 頚飾 ' 聖紐 ya
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itat ド - テ ィー dho巾iの
他 は裸 で' ド - テ ィーに は腰帯 を まわ しへ そ の腰帯 の中 心 にド - テ ィー の槽 が集 約 し て' そ こに エレクト ・- ソガが ド - チ
ィー の下 から つき あげ た勢 を示 し て いる。 衣紋 は非常 に整 理 され 、形 式的 で、Ⅴ字 型 にき り こんだ韓 をも ってそ の表 現 の基 本
と し て いる。 マ へ- シ ュヴ アラ上牛身 の肉 づ け は充宜 し'廉 い肩 から 腰 に いた る重 厚 な モデ - ング により、 上牛 身 は見 事 な逆
三角 形 を み せて いる。右 の二層 のう ち前唇 は肱 を まげ て畢 手 のポ ーズ を とるが '手首 から先 が鉄 損 す る。後 背 はま っす ぐ のび
て指 を内 へ曲げ '右 膝 にあ て て いる 。 こ のよう な石膏 の表 現 に射 し て左層 は不自 然 であ る 。 そ れ はよりそう ウ マIによ って規
制 され て いる とも考 え られ る。 前腎 は極端 に短 - ' 肩 からす ぐ に手 首 にな り' 掌 を下 にむ け' ウ マ- の右 肩 にお-形 とな っ
て いる。指 は第 一指 と第 二指 を碗 す る。 後 背 は正面 から はみえず ' ウ マ- の頭 頂 のむ こう側 (
うしろ側)から 三叉戟 の身 が や っ
と のぞ いて'そ こに後 背 が あ ることが 知られ る のであ る。 しか し背 面 には明瞭 に腕 が あ らわ され て いる。 三叉観 の柄 はち ょう
ど ウ マI の背 後 にあ る と いう意味 で正面 から は見 えな いが '背 面 にも そ れ ら し い浮 彫 は見営 らな い。 三叉戟 の身 を マ へ- シ ュ
ヴ アラはそ の指 問 にはさ ん で いる のであ る。 こ のよう な 三叉戟 の表現 法 は こ の像 に特徴 的 であ り'自飴 の例 を筆 者 は寡 聞 に し
て知らな い。 ま た三叉戟 自 身 の形式 にも特 色が あ り' 三 つの身 のう ち中 央 の身 は木 葉型 をな し' 左右 の身 はそ の木葉 型 根 元 か
ら分 枝 したよう にあ らわ され る。 マ へ- シ ュヴ アラ頭部 は丈 の高 いほぼ 五角 形 を皇す る寒害 部 とそれ とほぼ 同 じ高 さ の顧 両 部
と にわ かれ る。 顔 面部 は楕囲 形 を牛 蔵 した形 で' 院 が ほ とん どな -丸 -' 頚 も ほ とん どな いと い ってよ いが 三遷 はあ る。 鼻
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
東
方
学
報
1
0
挿 囲 3 Ma
he
畠
va
r
a頭部糞測囲 (
彫像資料1
3
,部分)
一四
は短 小 で' そ の つけ根 あ たり から細 い隆起 線 によ る眉 が は じまり 、
ゆ る い囲 弧 をえが いて終 る。耳 は大 き - '顔 の側 面 の長 さ に ひと し
いほ ど であ る。耳 采 を楕 固 形 に長 -到 り ぬき '両 耳 とも 同 じ位 置 に
小 さ い耳飾 が 表現 され て いる。 おそ ら - こ の像 が ま つられ て いた段
階 では' こ のよう な 長 い空白 は金属 製 耳節 でかざ ら れ て いた と推定
す る。牽 肇 にまわ した冠 は革 面賓 冠 で' 正面 に立飾 が あ るだ け であ
る。 立飾 は銅 のガ ルデ ィーズ の シヴ ァ神 のそれ と同式 で'牛 固 形 で'
連 珠 の緑 かざ り を つけ、 そ の中 央 上端 から 頭 頂 に かけ て四珠 を つら
ね る。牢 固 の内側 は ク レ ッセ ソーと リ ンガ とを紐 で連 絡 した形 を と
る。 こ の立飾 の中 心線 と頭頂 へのぼ る四珠 を軸 と し て賓 客 は左 右封
稀 であ る。襲 撃 のむ か って左 側 面 に小 さ い ク レ ッセ ントが ひと つ彫
り 出 され て いる のは他 に例 を みな い顕 著 な特 色 であ る。 冠帯 より下
の髪 は かきあげ であ るが '耳 からう しろ では ただ 垂 下 さ せ るだ け で'
末 端 は両肩 を お お って いる。 しか し蒙 のう しろ側 は冠符 の側 頭部 か
ら 出 た巾 を鉢巻 き状 にむす び ' むす んだ あ ま り を 垂下す る。 垂 下 し
た巾 の大部 分 は袴 が爪 形 の横 縞 であ る。 鉢巻 き より 下 にたれ た髪 は
ループ を いく つも つな いだ よう な編 髪 で入念 な彫 成 であ る。 マ へ-
シ ュヴ アラ頭部背 面 の表現 は非常 に綿 密 で'神 経 質 とさえ みら れ る。
ウ マ-やそ の他 の像 の背 面表 現 は ほ とん どな -、 ま たあ っても お お
ま か であ る のに勤 し' マ へ- シ ュヴ アラ の後 頭部が鮭井 者 に と って不 可硯 であ る にも か かわらず いち じ る し- 入念 な のはt冒
の ス1- ヤ像 と規 を 一にし'主神 の頭部 が な んら か の理由 で重 要蔵 され て いた事情 を示 し て いる。紳 妃 ウ マIは マ へ- シ ュヴ
アラの左 膝 に右 肱 を休 ま せ'右 脚 を ふか- 曲げ て上鮭 を マ へ- シ ュヴ アラにあ づ け る姿 勢 を とり'左 手 は腰 に常 てて いる。 ウ
ハ1 - テ ィ
Panc
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k
a・
Har
i
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i像 (
挿固4)とま った-性格 をちが う
マIは こ のよう に し て マ へ- シ ュプ アラよりも 頭 ひと つ低 - '鮭 も 小 さ-'あ - ま で マ へ- シ ュヴ アラに従 属す るも のと し て
表現 され ており' こ の鮎 が ガ ンダ ー ラにみられ るパ ンチカ ・
も のにし て いる。 ウ マI の表現 でもう ひと つ注意す べき鮎 はそ の左 半 身t と- に左 腕 の表 現 であ って' こ こだ けが肉 づき のわ
る い平面 的 な彫 り であ りt と- に腰 に営 てた左手 は'蓮 華 をも つウ マIの右 手 や マ へ- シ ュヴ アラ の右手 や足な ど の表現 と こ
一五
ょ って天衣 三帯 が平 面的 に表現 され て いる。 裳 裾 は基董前 面 の上
から腹 へかけ てみられ '腹 部 では陰 刻 線 の間 隔 に差 を出す こと に
は足 ま で十分 におおう 長 い裳 と天衣 とを つけ ' 天衣 は右腕 と左 腕
上半 身 はY字 型 の乳房 鞘 と頚飾 と方 形 の胸あ てを つけ る。 下牛身
左 肩 から腕 の下方 へ及び ' こ の部分 では陰 刻 で表現 され て いる。
的 な装 飾 にな って いる。 冠帯 は 一段連 珠 であ る。髪 は非常 に長 -
右 の立飾 は大き - つ- り、 正面 から観 るとき こ の右 の立飾が 中 心
と って いる。 む か って左 の立師 は ウ マI の姿 勢 と関連 して小 さ-'
これ は 二面 と いう襲 別的 なも のであ る。 ま た各 々異な った形態 を
に注意 を ひ- のは賓 冠 で、普 通 は立飾 が 畢 面 か三面 であ る のに'
相好 のむ か って左牛 分 は右 牛分 はど の入念 さが認 められな い。特
とな って いる。 ウ マIは マ へ- シ ュヴ アラとちが って正面 をむ かず ' マ へ- シ ュヴ アラ の前 方 を み る姿 勢 を と って いる ので'
大 理 石 ヒ ソド ゥI像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
挿 国 4 Pa
nc
i
ka
Har
i
t
I
l像 (
Pes
hawar
博物館,片岩)
東
方
学
報
部 三分 の 1を お お い、 衣 紋 はⅤ字 型 の番 を多数 刻 ん であ らわ され 、そ の末端 はY字 型 を組 合 せ て整 え てあ る。 ま た ふ かく屈 し
た右 脚 の衣紋 は放 物 線 の組 合 せ であ -、形 式 的 であ る。 両 脚 の間 には他 の衣紋 とま った- ことな った蛇 行状 の浮 彫 が みられ る。
以 上 に のべた大 理 石像 の いず れ の紐 の表現 にも 類 を みな いこ と, ま
ga のよう でも あ -、裳 の紐 とも みられ るが ' 筆 者 は ナ- ガと考 え る。 衣 紋 の表 現 と こ の蛇 行状 の浮 彫 と の差 が大
チ-ガ Na
き く、裳 の紐 であ るな ら これ ほ ど蛇 行 さ せ る必要も な し
たイ ンド本土 におけ る ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 では マ へ- シ ュヴ ァラが 左 手 に ナ-ガを持 物 とす る例 (
アイホ- リA
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h
.
!
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)が あ
る ことな ど によ る。 ウ マ- の左 下 に とり つ-童 子 は ガネ - シ ャではな いから スカ ソダ に比定 でき よう 。 腰 に連 珠 帯 を つけ る以
マ
外 は ま った- の裸 形 で'耳 菜 に固 形 の耳 節 を つけ る。 頭髪 は猶 特 で'前 頭 から 頭 頂 へかけ て の頭 部 中 央 は毛髪 を表 現 せず '側
頭 部 だ け に波状 髪 が み と められ る。 相 好 は' 額 が 狭 いこ と' 眉 ' 眼な どす べ て二両 と規 を 一に し、 童 形 とは い いが た い。
へ- シ ュヴ アラや スカ ソダ の腕 節 は単 な る輪 であ るが 、 ウ マ- のも のだ け は環 と連 珠 環 と の組 合 せ であ る。 マ へ- シ ュヴ アラ
の三 叉観 をも つ手 の第 五指 に は賓 石 を童 に つけ た指輪 の表 現 が みられ る。 こ の像 では彩 色が よ-残 って いた鮎 が 他 の例 とこ と
な -'著 し い特 色 であ る。 朱 '育 、 窯 の三色 で、朱 は、髪 の生 えぎ わ ' 上酸 の上線 、 口唇 、顎 、耳 、 三遷 ' 冠 の 一部 '乳 首 '
、 ウ マI では マ へ- シ ュヴ ァラより残 りが よ- '寅
膳 '腰 帯 の上線 '右 腕 折 曲部 ' 三叉観 の木葉 型 の 1部 (
以上マへ-シュヴァラ)
冠 立飾 や衣紋 には と- にそ の状 態 が よ い。前 頭部 頭髪 の生 えぎ わ 、 限晩 の上線 、耳 、 三遷 に隅 ど- のよう に引 かれ ' 口唇 は ぬ
り っぷ され て いる。青 は マ へ- シ ュヴ アラ の裳 の色 であ るが 、 雨滴 の眼険 にも 若 干残 る。 窯 は頭髪 ' 上険 の下縁 ' 下酸 のふち
な ど に残 る。 基董 正面 に刻 まれ た鋭角 ブ ラー フ,
,
,-文 字 に よ る三行 八四字 の銘 文 が l行 目 二〇 字 、 二行 目 四 六字 ' 三行 目 l八
な
い
2
。
字 と不統 1であ る のは、 ウ マ- の裳 裾 が 銘 文帯 の右 上 を お お って いる た め であ る。 し か し銘 文 帯 のほぼ 下年分 が 刻字 されず '
(
4)
あ いたま ま にな っており T字 -ぼ り に封 す る配 慮 が みら れ
以 上 二 二鮎 のほ か に白 大 理 石像 は少 - とも 一
〇鮎 が 知ら れ て いたが 、 タパ ・スカ ソダ ルでは 一九 七〇年 に四断 片が 出 土 した
から それ ら はす べ て 一四鮎 に のぼ る。 そ のう ち 二鮎 が シヴ ァ神 像 、 二鮎 が リ ンガ ・スト ー ン' 四鮎 が ヴ ィ シ ュヌ神 像 であ る。
ま た他 の二鮎 は自大 理石 ヒンド ゥー像 と いう だ け で、何碑 に相常 す る かわ から な い。 タパ ・スカ ソダ ルの四断 片 は いず れも 長
〇 センチま で の小 片 で、 三鮎 ま でが蓮華 をも った手 、 一瓢 が連 珠環節 をあ らわ した腕 (宿?)であ る。
さ一
シヴ ァ紳 頭 部
e
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抑
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Ad 西 郊 のダ ルソタ Da
runt
a 出 土 と停 えら れ て いるも ので、 寓 県 資 料 とし て
ジ ェラー ラー''
'-ド l
掃 シヴ ァ神 像 タパ ・スカ ソダ ル北方教 百 メート ルにあ る小 丘 の遺 跡デ ー ・,
,
,ル De
h Mi
rから数 年 前 に農 民が採集 し、現
(
25)
在 カーブ ル市 の警 察学 校 長 の私蔵 品 で' ト リ ム- ルテ ィ Tr
i
mBrt
iと いわれ るが末 輩 表 の資 料 であ る。
3
E
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y 博 士 の教 示 によ るば かり で'寓
ア フガ ン考 古研 究所 に登錬 され て いるが 、所 長S ・B ・ムスク マンデ ィ S.B.M o
虞 す ら未 見 であ る。
閑
し た 。
エー カ ムカ
。- ソガ Ek
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a(圏 11 ) ペ シ ャー ワ ルの ア ル''
'
あ
一七
に表現 され て いるだ け であ る。 耳飾 は連 珠環 、頚 飾 も連 珠 で'そ の上 に
び 明 確 な彫 りだが '柔 味 を出す。 耳 よりう しろ は形式 的 な 波状 髪 が 入念
いる。 三眼 で鼻 を敏 損 Lt顎 は表現 され て いる。 相好 は全鮭 に囲味 を お
で粗 彫 のま ま残 し、基底 は平 ら であ る。 基底 にむ か ってや や細 -な って
あ たり の出 土 とみ るが 、妥 常 で
イ M. Ta
d d ei は フ ソド Hund、 ウダ''
'- ソダ ブ ラ Udah
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る 。 上牛 は磨 研 され ' 下 牛 は八面 ど -
-ブ 。ヒダ ヤ ト 。ウ ラ ー Ar
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atUEah 所蔵.吏 表者M ・タデ
掲
と のな い単 な る リ ンガ石 であ る。
いね いに磨 研 し てあ り' 上下 二石 より成 るが ' シヴ ァ頭部 を彫 出す る こ
- ソガ ・スト ー ン (
挿固5) A ・7- シ ェが ラ ーグ マン La
ghma
n 地方 を l九 二五年 l
〇 月 に踏 査 した とき ' タガ - オ に
(
26)
今 カーブ ルの ア フガ ニスタ ン国 立博 物館 蔵 。高 さ約 七五 セ ンチで砲弾 型 を星 し、 て
お いて原 位置 で立 って いる のを襲 見
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
挿 固 5 Li
血ga (彫像資料 1
6)
東
方
学
報
三 遷 が 刻 まれ て いる。 賓 馨 の表 現 は 以 上 の大 理 石 像 に 例 を み な いが 、
二訓頭 部 は菱 形 を 中 心 に L t そ こ か ら 左 右 封 稀 に ひ ろが っ
ヒ ンド ゥー神 像
一瓢 はU ・セ ッラー ー に よ - 報 じ ら れ た も の で' イ タ リ ア考 古 調 査 国 が ガズ ナ朝 宮 殿 跡 を 豪 掘 す る数
てゆ - 結 髪 ' そ の上 に のる啓 は 「⊥ 」 型 とそ の両 側 の怒 髪 よ - 成 る。
開局
年 前 に 、 同 宮 殿 北 隅 か ら 出 土 し、 現 在 ア フガ ニス タ ン国 王 モ ハマド
。
他 の 一鮎 は 、
・ザ ヒ ル ・シ ャー M o
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dZ
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h の所 蔵 にな っ
(
28
)
て いる。 セ ッラー ー と 同 様 に筆 者 も 賓 際 に観 察 し た こ と は な いが ' 彼 に よ れ ば これ は 確 賓 な 情 報 であ る と いう
ラグ マン地 方 カ ラ 。グ ル ・ア- マド Qa
t
a GutAhmad 東 方 の マサ ムー ド M assamud 附 近 で尊 兄 さ れ たも の でtK ・フ ィ ッ
(
29)
シ ャーが フ ラ ン ス考 古 調 査 圏 のM 。ルベ ー ル M ・Le B
e
r
r
e か ら 得 た情 報 であ る。 こ の 二像 に つ い て は ヒ ンド ゥー のど の神 格
を 表 現 し たも のか ま ったく 不明 であ る。
(
30)
ヴ ィシ ュヌ Vi
S
p
u神 像 二鮎 が ガ ルデ ィーズ 付 近 で出 土 し た こ とをK ・フ ィ ッシ ャーが 俸 え る。 ひ と つは高 さ 一〇
揖日日
C
aturmtirti像 の断 片 で現 在 カーブ ルの私蔵 晶 であ
セ ン チ' 長 さ 七 セ ン チ の猪 頭 で ヴ ィ シ ュ ヌ 。チ ャー ウ ル ムー ルテ ィ Vi
等u
る。 他 は高 さ 四〇 セ ン チ で、 や は - チ ャー ウ ル ムー ル テ ィ のヴ ィ シ ュヌ 四 層 像 断 片 であ る。 一瓢 は ガズ ニー の ア タ 。 ハキ ム
At
a Haki
m 蔵 のヴ・
イ シ ュヌ像 ト ル ソ であ る。
薗
ヴ ィ シ ュヌ 。チ ャト ウ ル ムー ル テ ィ像 (
囲8) D 。''
'1レ ッー D.Bar
r
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tが 拳 表 し た資 料 で、 イ ンダ ス渡 河 瓢 の要 衝 ア (
1
3
)
蔵 . ア ト ツ ク採 集 と いう か ら お そ ら - フ ソド 連 が 員 寅 であ ろ う 。
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ック At
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k で採 集 され p 現 在 英 国 博 物 館 Br
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光 背 と左 右 に猪 頭 、 光 背 の裏 に浅 浮 彫 の頭 部 を あ ら わ す 。 中 心 のヴ ィ シ ュヌ本 鰹 は 、 相 好 が 磨 滅 Lt ま た賓 冠 にも 磨 滅 が お よ
ん で いる。 賓 冠 は ≡ 面 の立 飾 を も つら し い。 編 髪 が 両 肩 に装 飾 的 に表 現 さ れ て いる。 耳 飾 は特 殊 で' 小 さ い耳 菜 に 二環 を つら
ね たも の であ - p 耳 采 に つ- 環 は索 漠 だ が 、 これ に つら な った 環 は連 珠 飾 が あ る。 三遷 は 十 分 隆 起 し' か つ頭 が 長 い。 窺 飾 は
三 本 の連 殊 と そ の間 に隆 起 線 を 入 れ る幅 廉 いも の で、 中 心 に は磨 滅 し て不 明 の装 飾 を お き ' ペ ンダ ン ト形 であ る。 光 背 は外 匠
が 唐 草 紋 で、 内 匠 が 蓮 梓 であ る。 いず れ も 浅 浮 彫 であ る。 光 背 裏 面 は鬼 面 のご とき も の で' 高 い髪 形 に連 珠 の冠 背 を つけ ' 唯
l残 存 す る正面 立飾 は冠帯 に比 し て極 端 に小 さ い二重 三角 形 であ る。 耳 飾 ・頚 飾 の型式 は ヴ ィ シ ュヌ本鰹 とほ とん ど同 じだ が、
こ の方 が 若 干簡 略 にな って いる。 高 さ は約 二八 セ ンチ。
以 上 二 二鮎 の自 大 理 石像 のう ち日日 の像 基 童 と臼 の光 背 を 除外 す れば す べ て ヒ ンド ゥー教 関 係 の彫 像 であ る。 し かも⇔ '目
は像 主膿 が 失 わ れ て いる のであ って'基 童 の形 式 から みれ ば 後 述 のよう に他 の ヒ ソド ゥ-数滴 像 のも のと l致 す る。 ま た臼 の
光 背 は前 述 のとお - 、 ヒ ンド ゥー教 神 像 に付 いて いたも のと解 樺 でき な いこ とも な い。 こ のよう に考 え る とp これ ら はみな ヒ
ンド ゥー教 関 係 のも の であ る。諸 像 を ま つ った寺 院 に関 し て現 在 ま でに既 に明 ら か にな って いる のは' ハイ ル ・ ハネ遺 跡 だ け
であ る。 ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 を出 土 した タパ 。スカ ソダ ル TapaS
k
a
n
d
a
r に つ いては' スカ ソダ ルⅠ の8匠 の紳 同 風
建 物 に こ の像 が直 接 ま つら れ て いた か どう か は 一九 七〇 年 度 の調 査 では明 ら か に され る こ とが な か った。 し か しL 。エーデ ル
br
g やJ 。E ・ファ ン ・ロウ へイ ゼ ソ =ド = レーダ J.E. van Lohuizen deLeeuw ら はジ ェラー ラーバ ー
ベ ル ク L.Edele
プ
ド北 東 の ク ナ- ル Kunar川 上流 にお いて ヒ ンド ゥー寺 院 が 存 在 した形 跡 を停 え て いる。 同 時 にK ・フ ィ ッシ ャーも これ と は
(
32)
る 。 フ ィ ッ シ ャーは' イ スラ ム
ー ルl
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ur の現 在 の村 にあ る木 造 の モ ス クに ヒ ンド ゥー寺 院 の自 大 理 石
別 に報 告 し て い
C h iga Sarai
製 建 築 細 部 断 片 が 再 利 用 され て いる と俸 え る。 デ ン マー ク の第 三次 中 央 アジ ア調 査 (一九四七-四九)と ハズ ル ソド =クリ ステ ソ
セ ソ紀 念 調査 (一九五三-五四 ) の両 調査 に際 し て撮 影 し た資 料 をも と に、 L ・エーデ ルベ ルクは、 チ ガ ・サ ライ
村 の北 方 丘陵 の麓 に現 代 イ スラ ム墓 地が あ り 、 そ の墓 石 に スト ゥ-パ s
t
t
i
paの細 部 が 再 利 用 され て いる と報 告 し た。 彼 は 丘陵
上 に スト クーパ跡 が あ る こ とお よび 再 利 用 され た建 築 神都 に コ- ソト系 壁 柱 浮 彫 が みら れ る こ と から ' これ ら の遺 物 を併 教 的
な も のと判 断 した のであ る。 材 質 が 白 大 理 石 であ - '装 飾 に用 いら れ た紋 様 が係 数 造 形 の範 噂 を こえ て いるな ど から ' む し ろ
一九
前 節 に よ って自 大 理 石像 が す べ て ヒ ンド ゥー教 神 像 であ る こ とが 判 明 した。 これ に封 す る年 代 観 は 一九 三 四年 に
こ の付 近 に ヒ ンド ゥー教 寺 院 が 存 在 し た謹 左 であ る と考 え る。
様 式観 諸 説
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ソド ゥ-王朝のも のか
東
方
畢
報
国
布
l
二
〇
・ア ッカ ソが ス1 - ヤ神 像 を護 見 し て から現 在 に いた る ま で諸 説 が 提 出 さ
れ た。 次 にそ れ ら を検 討 す る こ と に よ って白 大 理 石像 に関 す る様 式 論 や系 統
ハイ ル ・ ハネ遺 跡 の吏 掘 され た範 囲 内 で六群
論 のあ とを追 い、 問 題 の所 在 をあ き ら か にす る。
3
: ア ッカ ソ' マー シ ャ ル諌
の建 築 が 明 ら か に され ' そ の中 心 と目 され る建 物 の西 隅 に滞 立 し た同 プ ラ ン
の三宝 を南 北 に並 列 Lt 東 面 し た両 堂 群 が あ る. こ の両 堂 群 はそ れ よ れ前 の
時 期 に屠 す る 三宝 一棟 の建 物 を 石 と泥 煉 瓦 で埋 め た てた- え に築 かれ て いた。
し たが って岡 堂 群 は 上層 期 に属 し て いる。 両 堂 はそ れ ぞ れ 南 からA、 BtC
と名 づ け ら れ 、 基 壇 に営 る部 分 が 平 石積 ' 壁 が 錬 士麓 で、ABC共 通 の陸 屋
根 をも って いたら し い。 ス- リ ヤ像 な どが こ の建 物 に関 し て出 土 し た こ と ば
前 述 のと お り であ る。 こ のよう なプ ラ ンで三両 堂 が 並 ぶ形 は非 常 に特 殊 であ
る にも か かわ らず へ ア ッカ ソは これ をす ぐ さ ま中 央 イ ンド の小 規 模 な シヴ ァ
(
33)
た 。 ブ マラ寺 院 は石造 畢 室 で'
a と比 較 でき る と し
寺 院 であ るブ マラ Bhumar
い
る
(34 )
。
P ra d a k
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a監
ap a
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ン
ア ッカ ソは ハイ ル 。ハネも ブ マ
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思・
pah
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a
t マンダ パ M
r
b
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a等 at
低 い基 壇 の上 に エー カ ムカ ・リ ンガを 安 置 す る ガ ルバ グ リ ハ Ga
そ れ を めぐ るプ ラダ ク シ ナ- ・パ タ
及 び 基 壇 正面 左 右 の中 洞 堂 から 成 って
ラも とも に両 堂 自 身 のプ ラ ンや方 向 が 同 じ で、 プ ラダ ク シナ 1 ㌔ハタ'
ダ パ をも つ鮎 も 同 類 であ る と し たが 、 プ ラダ ク シ ナ- ・バ クや マンダ パな ど
が 比 較 の封 象 にな - え な いこ と は明 ら か であ り ' 三宝 並 列 の例 をも っては じ め て ハイ ル ・ハネ の比 較 の封 象 にな りう る。 ア ッ
分
跡
挿固6 遺
あ
カ ソは こ のよう な建 築 的 な面 のみな らず 、 ス1- ヤ形 式 にも 一致鮎 を み る。 そ の形 式 とはダ ソダ とピ ソガ ラと いう 二人 の脇 侍
(
35)
る 。 ア ッカ ソに よれば イ ンド に お け る ス- リ ヤ像 に は 二形 式 が あ り ' ひ と つは ス- リ ヤが 戦 車 に の
を したが え て いる こと で
るイ ンド式 で'そ の場合脇 侍 はな いか'あ れば 二人 の婦 人 の射 手 (
晴里甚 駆逐する)であ る. 他 は脇 侍 が有 賀 の書 記 ピ ソガ ラと無
i
髪 の戦 士ダ ソダ で、 こ の二像 は エデ ツサの太陽神 の脇 侍 であ る アジ ゾ ス Az
i
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s と モ(
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,モ ス Mo
mmo
s とに系統 を求 めう る
西方起 源 の性格 をも つ。 ハイ ル ・ハネ の ス1-ヤ像 やブ マラ のそれ は後 者 に従 う とす る。 か つ彼 は ス1 -ヤ自鮭 に ついてそ の
衣裳 と頭飾 とが サー サー ソ 朝 の シ ャープ ー ル Sha
p
u
r二世 、 ア ルダ シー ル Ard
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ir 二世 、 シ ャープ ー ル三世 な ど四世 紀 の
も のに近 いと し、R 。D ・バ ナジ ー R.D.Ban
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iのブ マラ寺 院 や クタ ラ Ku
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ra、 デ オグ ナ De
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a な ど のパー ルヴ ァ
r
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ati寺 院 な ど の年 代観 にしたが って ハイ ル ・ハネ遺 跡 を 五世 紀 とした。 し か しブ マラ寺 院 に ついては マー シ ャ ル譲 が
テ ィ Pa
い る 。
あ って六世紀 に常 て て いる。 ま た マー シ ャ ル J.M ar
s
hal
tは ア ッカ ソの ハイ ル ・ハネ車 掘 報告書 を書 許 したな か で' ス- リヤ
(
36)
に常 てる年 代 は ア ッカ ソ説 が 正雷 であ る とし'自 身 のブ マラ寺 院年 代観 と矛盾 し て
ア ッカ ソの年 代観 の根接 は、 イ ーラー ソの サー サー ソ王像 と中 央 イ ンド の シヴ ァ寺 院 と の爾資 料 であ る。 と ころが これ ら の
サ ー サ ー ソ王像 の衣裳 と ス-リ ヤ像 の衣裳 とは密 接 な関 連 の中 にあ る とは考 え難 い。 両者 を 一見す れば 明白 であ る。 冠巾 の表
現 は後 述 のご と- 七世 紀初 頭 の サ ー サ ー ソ王像 にま であ き ら か に鮭 承 され 、 と- に四世 紀 のも のに常 てる理由 はな - ' ス- リ
ヤ の衣裳 も サー サー ソ王像 に特 色 のあ るも のとは い いき れな い。 ま たピ ソガ ラとダ ソダ の表 現 が ブ マラにみられ る のは事茸 だ
が ' ス- リ ヤ像 全 鮭 と し て観 察 す るな らば 、 そ の間 に大 き な 差 異 こそ あ れ 、密 接 な関 係 は認 め難 い' ア ッカ ソの比 較 は革 に固
あ
る
。
像 撃 上 の 一致 にすぎ な い。 ブ マラ寺 院 の年 代 も あ る いは五世 紀 と い い'あ る いは 六世 紀 と い い、 一定 しな いのも 年 代考 定 の基
(
i
,:
)
準 と し ては無 意 味 であ る。 こ のよう な年 代観 とは別 に、ブ マラ寺 院 の建 築装 飾 に用 いられ た唐 草 紋 には注 意す る必要 が
Ba
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nt フ ォンド キ スタ ソ Fondu
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タ パ ・サ ル ダ ー ル
Ta
paSar
darな ど に こ の系統
の唐 草
そ れ は こ の唐 草 紋 が と- に垂 の存 在 を強 調 し て薬 が球状 に退 化 しよう とす る傾 向 にあ る こと で'後述 のご と-' ア フガ ニスタ
,
,ヤ ー ン
ンでは、バ 1 ,
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ソド クー王朝 のも のか
東
方
畢
報
紋 を 豊 富 に み る こ とが でき る。 こ の紋 様 は ク シ ャー ナ の マト ゥ ラー M at
hur
a 涯 彫 刻 と か 、 ア- ンド ラ And
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a 朝 の ア マラ
ー ヴ ア テ ィー Amqr
avat
-.や ナ- ガ ルジ ュナ コソダ Na
g
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n
a
ko監 a な ど では みら れず ' グ ブ タ朝 に お いても 筆 者 の知 見 の及
ぶ 限 り では 、 サー ル ナ- ト Sar
nat
h の初 韓 法 輪 像 の光 背 にそ の胸 芽 とも いう べき も のが み ら れ る にす ぎ ず 、 グ ブ タ美 術 に お
l九 五 五年 に フ ェル ナ ソド ・ス コレ ッテ ィ F.
S
c
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i蔵 自 大 理 石像 (固9)に つ いて更 表 し' そ
る
が
降。
38
)
説
いてもそれ は若 干 時代
(
シ ュラ ンベ ルジ ェ
臼
の際 、 ガ ルデ ィーズ の シヴ ァ頭 部 (
園4)
' タ ガ - オ の リ ンガ ・スト ー ン (
挿固5)
' タ ガ- オ の ト ルソ (固10)、 ハイ ル ・ ハネ の
ス1 - ヤ像 (
圏2)を あ わ せ て検 討 し た 。 ス コレ ッテ ィ の大 理 石像 と は前 述 し た関 のド ウ ルガ- ÷ ヒ シ ャー ス ラ マルデ ィ ニー
像 であ るが ' 彼 は ア フガ ニス タ ンに お いて尊 兄 さ れ た彫 刻 に大 理 石 を 材 料 と し たも のが き わ め てま れ であ - 、 か つこ の像 が 丸
彫 であ る こ と ' そ の表 現 さ れ た 主 題 に つ い ても これ に平 行 す るも のが な いこと を 指 摘 し ' 先 に記 し た と お り ' - ト ラ ・タ ウ ロ
ク ト ノ スに 比 定 Lt ガ ンダ ー ラ俳 教 彫 刻 と は 異 類 であ る と考 え た 。 ハイ ル ・ ハネ の ス- リ ヤ像 に興 え た ア ッカ ソ の年 代 観 に勤
し p 確 寛 な 編 年 の メ ル ク マー ルと し て同 遺 跡 のF室 で 尊 兄 さ れ た 二枚 の ナプ キー.
Napk.1貨 幣 を考 慮 す る 必 要 が あ る と し た。
し た 。
ア ッカ ソは こ の貨 幣 をⅤ ・A ・ス ,
"ス V.A.Smi
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h に よ って 五 世 紀 な いし 六 世 紀 の ク シ ャー ノ ・サー サー ソ王 手 行 のも のと
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し か しR ・ギ ル シ ュ マン R.
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n が 七世 紀 に比定 し た こ と を シ ュラ ンベ ルジ ェは愛 常 と み て' ス- リ ヤ神
解揮
像 の年 代 を 示 唆 し た。 タ ガ- オ の ト ル ソ' リ ンガ ・スト ー ン、 ガ ルデ ィーズ の シヴ ァ頭 部 に封 す る年 代 は 不 明 と み て いる 。 こ
れ ら 四 例 は ヒ ンド ゥー教 の遣 物 であ り 、 同 じ く 大 理 石 製 の - ト ラ 。タ ウ ロク ト ノ ス像 も 非 係 数 的 主 題 であ る。 ク シ ャー ナ' ク
シ ャー ノ ・サー サー ソ、 エフ タ ルな ど の時 代 ま で係 数 の造 像 に大 理 石 が つか わ れ て いな い事 寛 を 指 摘 し ' これ ら の造 像 が 係 数
造 像 活 動 の下 火 に な った 時 期 であ る エフ タ ル末 期 以 降 イ スラ ム侵 入 以 前 に相 普 す る と考 え た 。 す な わ ち 六 世 紀 中 頃 か ら 九 世 紀
後 年 以 前 であ る 。 シ ュラ ンベ ルジ ェは これ を ド ウ ルガ 1両 と認 め る こ とが でき な か った が ' 白 大 理 石 像 を と ら え て、 そ の主 題
が 非 悌 数 的 であ る こ と に気 づ き 、 同 時 に ク シ ャー ナ期 に相 薗 す る大 理 石 彫 刻 のな いこ と か ら エフ タ ル期 以 前 に さ か のぼ ら な い
あ る 。
と し た のは安 富 であ る。 ただ ナプ キ ー貨 幣 はF室 から 出 土 した と は いえ ' ス 1 - ヤ像 と年 代 決定 のう え で、関 連 性 に とぼ し い
(
41)
こ と は明 白 で
シ ュラ ンベ ルジ ェの ス コレ ッテ ィ 大 理 石像 の固 像 撃 的 解 樺 と そ れ に閲 適 し た 資 料 の 紹 介 は、 l九 五 七年 に H 。ゲ ツツ H.
ゲッ
ツ 説
ス コレ ッテ ィ大 理石 お よび そ の他 の大 理 石像 は ア フガ ニスタ ン考 古 学 のギ ャ ップ を 埋 め る と考 え p キ ダ ー ラ ・
G
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z とD 。.'
'1レ ット D.Bar
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e
tと によ ってそ れ ぞ れ 批 判 が 行 わ れ た。
(
42)
臼
ク シ ャー ナ Ki
dar
aKu
昔 a 以降 重 要 な 位 置 を こ の地 域 に占 め て いた シ ャイ ヴ ィズ ム5a
i
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m に これ ら の像 が属 す る と し た。
リ ンガ と シヴ ァ頭 部 と はあ き ら か に シ ャイ ヴ ィズ ムであ る。 明 白 シ ュラ ンベ ルジ ェが そ の性 格 を ま った く 不 明 と し た - ルソに
関 し ては、敏 落 部 分 を解 樺 した結 果 ' 六替 あ る いは 八背 の シヴ ァ像 とみ た。 シヴ ァ両 と同 じ-多 層 であ り う る ヴ ィ シ ュヌ神 は
一
〇 世 紀 以 降 にな って は じ め て若 干 の例 を み る にす ぎ ず '多 層 の シヴ ァ像 は 一〇 世 紀 はす で に非 常 に 一般 的 であ った と いう 。
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e のド ウ ルガ -寺 院 の轟 にみ と めら れ る。 こ の
西 北 イ ンド の シヴ ァ ・イ コンは' ク シ ャー ナ貨 、 後 期 グブ タ砕像 、 アヴ ア ソテ ィプ ー ルAv
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ur像 、 ブ ラ フ モ ル Br
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(チ ャ ン'
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)な ど にみら れ ' 同 時 代 のイ ンド でも 多 層 像 は アイ ホ-
よう に考 え て ス コレ ッテ ィ大 理 石像 は ヒ ンド ゥー教 彫 像 であ り、 前 述 のとお り シヴ ァ碑 妃 た るド ウ ルガ Iを あ ら わ す も のと し
た。 彼 は こ の像 を と- に エロラー EEo
r
a の第 一七窟 や ラーヴ ア ナ 。カ ー 。カイ ー RavaI
J
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k a・
Khai のド ウ ルガ- 。マヒ シ ャ
ー スラ マルデ ィ ニーと ほ ぼ 同 時 期 のも のと考 え ' これ ら の像 の間 に若 干 の圃 像 的 な 差 異が あ る のは' いず れ にも み と めら れ る
い て 、
襲 形 に は かな ら な いと した。 エロー ラや アイ ホ- リ の諸 像 の年 代 は彼 によ る と七世 紀 であ る。 し か しA 。K ・ク マ- ラ スワ(
43)
こ の年 代 は確 定 したも ので はな - ' ゲ ッツ の年 代 のき め手 も 不 安 定 であ る。
ミな ど 六世 紀 に常 て る ひ とも
シ ュラ ン.
ベ ルジ ェの ス コレ ッテ ィ大 理 石俊 郎 ミト ラ・タウ ロク ・
1ノ ス説 は' ド ウ ルガ - 。マヒ シ ャー スラ マルデ ィ ニー形 式 の
ラ
西方 起 源 説 を と る ゲ ツツに と っては起 源 的 に は正 し いこ と にな る。 彼 の所 論 は次 のと お り であ る。 ド ウ ルガ - 。マヒ シ ャー ス
〇 、 二 世 紀 を さ か のぼ る こ とな - 、
ラ マルデ ィ ニー像 は パ ンジ ャーブ ・ヒ マラ ヤ の寺 院 では非 常 に 一般 的 だ が いず れ も l
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
東
方
学
報
ヴ ィ Ravi河 西 方 で は 1六 世 紀 に な ってや っと l般 化 す る。 こ の固 像 形 式 は まず 中 央 イ ンド のグ ブ タ期 の寺 院 であ る ブ マラ
(
彼は五世紀に当てる)に あ ら わ れ ' 次 に アイ ホ- リや エ ?- ラな ど 七 ' 八 世 紀 の北 部 デ カ ン地 方 にあ ら わ れ る 。 マヒ シ ャー ス ラ
(マヒシャという名の水牛の姿をした悪紳)殺 数 と いう こ の固 像 形 式 の信 仰 は 政 治 的 な 事 件 と密 接 に関 連 し て流 行 し は じ め た と し た。
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na 帝 国 から ヴ ァ- カー タ カ Va
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ka 王 国 ま で
マヒ シ ャー スラは スキ タイ 系 人 種 の代 名 詞 で' シ ャー タ グ ア- ハナ 粁 t
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iを 都 とす る図 を 建 て た事 寛 と関 連 す る と いう 。 し たが ってそ
の短 い時 期 に、 スキ タイ 系 人 種 が マヒ シ ュ マテ ィー Ma
の流 行 は グ ブ タ期 以 前 に は 遡 行 しえ な い。 ま た グ ブ タ美 術 に は 一般 に考 え ら れ て いる以 上 に ヘレ ニズ ム ・ロー マ世 界 か ら の影
響 が 認 めら れ p 西 方 的 要 素 を 組 な おす こ と に よ ってグ ブ タ美 術 が さ ら に発 達 し た と い- 考 え を 彼 は 明 ら か に し ' - ト ラ ・タ ウ
ロク ト ノ スが ド ウ ルガ - ・マヒ シ ャー スラ マルデ ィ ニー の' 彫 像 と し て の モデ ルに な った と し ても 不 自 然 でな いと 認 め た 。
ゲ ツ ツは ま た これ ら 自 大 理 石 像 の株 式 に関 し て次 のご と- の べ る。 す な わ ち ' ガ ンダ ー ラ系 悌 教 美 術 にも ' 後 期 ク シ ャー ナ
貨 幣 にあ ら わ れ た シヴ ァ像 の表 現 に み ら れ る サー サー ソ的 組 型 にも ' こ の株 式 は 共 通 性 が な - 、 す べ て にわ た って イ ンド的 様
式 であ る と し た。 そ のイ ンド 的 様 式 と は何 であ る か 。 ク マ- ラグ ブ タ Kumr
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gupta 一世 の五世 紀 に は輪 郭 を 明 確 に とら え る
表 現 が 流 行 し た 。 ま た 七 世 紀 に は囲 味 を 帯 び た 流 麗 な 様 式 が は じ ま った . こ の爾 様 式 は 八 世 紀 初 頭 に 折 衷 さ れ た 。 全 鮭 は園 味
を 帯 び て ふ - よ かだ が 、 非 常 に シ ャープ な 線 に よ って細 部 を 明 確 に虞 理 す る。 こ のイ ンド的 様 式 す な わ ち グ ブ タ模 式 の最 晩 期
に属 す る株 式 の中 心 は、 は じ め は カ ナ ウ ジ Kanaujにあ り ' 次 に ガ ヮ- リ オ ル Gwat
i
orに移 った 。 いず れ も ヤ シ ョヴ ア ル マン
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n(七二〇I七五三)の時 代 の首 都 だ が ' ガ ヮ- リ オ ルに移 った のは カ シ ュ,
"- ル Ka恥
mi r の ラ リ クーデ ィ テ ィ ヤ ・ム
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叫da 王が ヤ シ ョヴ ア ル マンを撃 破 し た こ と に よ る。 こ のあ たり が カ シ ュ,
-1 ル の統 治 に は い
ク タ-ピ ーダ L
った こ と に よ り ' こ の最 後 のグ ブ タ株 式 (
グッツはカナウジ沢グブタ彫刻とよぶ)が ' カ シ ュミー ルに俸 播 し た。 す で に ラ リ クーデ
ィ テ ィヤ 王 以 前 チ ャ ンド ラーピ ーダ 王 の時 代 に カ シ ュミー ル の支 配 範 国 に は い って いた ア フガ ニス タ ンに こ の様 式 に従 った造
像 が 存 在 し た のは 不 自 然 では な いと いう の であ る。 ゲ ツ ツ の自 大 理 石像 の様 式 及 び 年 代 に関 す る 特 色 は 、 そ れ が 直 接 イ ンド と
の交 渉 に よ り 停 播 し たも の でな く
カ シ ュ-1 ルに お け る カ ノウ ジ 涯 グ ブ タ彫 刻 と関 係 さ せ た鮎 にあ る。 か つカ シ ュミー ル の
カ ノウ ジ 涯 と は カ ノウジ 地 方 自 腹 の流 涯 と は 異 な り ' そ の地 方 的 な 模 作 に他 な ら な いと いう 。
カ シ ュミ ー ル の美 術 に造 詣 が 深 い彼 が そ の年 代 に諸 説 あ る ラ リ ク ーデ ィ テ ィ ヤ王 に カ ノウジ 涯 グ ブ タ彫 刻 俸 播 の責 任 を挿 し
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た のは、 ﹃ラージ ャタ ラ ソギ ニー﹄ Raj
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に み え る ラ リ タ-デ ィ テ ィ ヤ王 の事 跡 を す '
,(て歴 史 的 事 茸 と し て認 め た か
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(
ら な い。 こ こ に ひ と つ の問 題 瓢 が あ る と同 時 に、 カ シ ュ,
,
,- ル のこ の涯 の ヒ ンド ゥー像 と自 大 理 石 像 と を 直 接 比 較 検
ら に他 な
と
い いへ カ シ ュ,
,
,- ルか ら 像 自 身 が も た ら さ れ た のだ と いう 。 カ ノウジ 涯 グ ブ
討 す る と いう 基 本 的 態 度 に かけ て いる。 彼 が 行 な った のは 鋸 の シヴ ァ頭 部 に み ら れ る賓 冠 だ け であ る。 し かも そ れ が 純 粋 な カ
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シ ュ,
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,ル 。タイ プ だ (
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タ彫 刻 の様 式 の停 播 に関 す る考 え 方 は' 美 術 様 式 の俸 播 を 政 治 的 な 交 渉 と直 接 む す び つけ るも の で' は な はだ 安 易 な も のと い
説
(
45)
ハイ ル ・ ハネ の ス- リ ヤ像 に つ いて は シ ュラ ンベ ルジ ェ説 に賛 成 し' ガ ルデ ィーズ の シヴ ァ紳 頭 部 を カ シ ュ
わ ねば な ら ず 、 説 得 性 が あ る よう に み え るが ' カ シ ュミー ル の ヒ ンド ゥー彫 刻 が さ ほ ど 紹 介 され て いな い現 在 にわ か に承 服 で
'
'
'1レ ッー
き な い。
輯
- 1 ル株 式 と し て八 世 紀 後 年 に あ て た。 タ ガ - オ の ト ルソ に関 し て は見 解 を さ し ひ かえ ' ス コレ ッテ ィ大 理 石 像 を ミ ト ラ ・タ
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ウ ロク ト ノ スと は認 めず ' ゲ ッツと同 じ く ド ウ ルガ - ・マヒ シ ャー ス ラ マルデ ィ ニー像 と し、 八 世 紀 にあ て る 。 ド ウ ルガ - の
姿 勢 に関 連 す る 資 料 と し て エレ フ ァ ンタ E
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a や ボ ンベイ Bomb
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y のプ - ソ ス ・オ ブ ・ウ ェイ ルズ PrinceofW
博 物 館 のド ウ ルガ Iを あ げ ' そ れ ら にも っとも 近 - ' 三 叉戦 のお き 方 に関 連 し て は' アイ ホ - リ の ヒ ンド ゥ ー看 、 エ ロー ラ の
一四 ' 一七 ' 二 l' 二 七 の諸 窟 の像 と 比 較 し' これ ら デ カ ン の諸 像 は 七 世 紀 から 九 世 紀 に いた るも の と考 え る。 シ ュラ ン'
ベ ルr
ジ ェは こ の日 大 理 石 像 を カーブ ル近 連 に限 るも の と考 え た が t rパ レ ットは英 国 博 物 館 所 蔵 の二 つ の像 を あ ら た に登 表 し、 そ れ
ら が ア ト ツク' ブ ネ ー ル Bun
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r童 鬼 であ る こ とを紹 介 し、 自 大 理 石像 が ア フガ ニスタ ソ内 に限 定 され るも のでな いこ とを 立
謹 し た。 つ いで ガ ンダ ー ラ儒 教 美 術 系 統 の片 岩 製 の ヒ ンド ゥー彫 刻 が 英 国 博 物 館 に 四 例 あ る こ と を 示 し、 ま た カ シ ュ、
,
、- ル ・
大 理 石 ヒ ンド ゥI像 は ヒンド ゥー王朝 のも のか
東
方 -・学
報
(
46)
ス マスト出 土 の木 彫 を あ げ ' これ ら す べ てが カ シ ュ、
(
,- ル様 式 に層 す る と し た 。 彼 の年 代 考 定 も 像 の細 部 を 検 討 す る こ とな く'
ま た カ シ ュ(
,
,- ル様 式 と の比 較 も 行 わ れ て いな い。 ラ リ クーデ ィ テ ィ ヤを は じ め とす る こ の地 方 の歴 史 を 叙 述 す る な か で、 簡
- ク ツ チ読
単 に カ シ ュ ミー ルと の関係 を説 き ' ゲ ツ ツと同 じ - 歴 史 事 寛 と美 術 流 涯 とが 不 即 不離 であ る と いう 立 場 を と って いる 。
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ス ワ- ト地 方 の l般 調 査 に お い て こ の地 方 に シヴ ァ沖 と 比 定 さ れ る浮 彫 像 が 存 在 す る こ と を 注 意 し' 従 来 こ
田
れ ら 非 悌 教 的 遣 物 に封 す る槍 討 が 非 常 に限 定 さ れ て いる こ と を 指 摘 し ' そ の関 連 に お い て ひ とう の大 理 石 像 を 紹 介 し た 。 そ の
際 にそ れ 以 前 に判 明 し て いた ス1 - ヤ像 な ど 自 大 理 石像 全 般 に つ い て の株 式 論 や 年 代 論 は 展 開 せず t j
Jの像 だ け に関 す る検 討
を 行 った 。 ガ ルデ ィーズ 出 土 と俸 え る ガ ネ - シ ャ像 が そ れ で、 基 董 正 面 の二 行 にわ た る 刻 銘 を 解 揮 す る こ と に よ ってそ の年 代
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を 決 定 し よ う と し た 。 ト ク ツチ に し た が って
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yaka像 が 八 年 に建 てら れ た と み え るが 、八 年 が ど の紀 元 に属 す る か 不
と よ め る銘 文 に は ' こ の マ ハー グ ィ ナ- ヤ カ Ma
明 であ る の で、 これ か ら 年 代 を 決 定 す る こ と は でき な い。 そ こ で - ク ツチ は ' 末 尾 に み え る Kh
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aと いう 玉名 が 未 知 のも
の で は な いと し、貨 幣 の銘 に み え る D
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va笛hikhi
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a と ﹃ラIr,,
}ヤ ク ラ ンギ ニー﹄ に み え る Nar
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48)
る 。 ﹃
ラージ ャ ク ラ ンギ ニー﹄ に こ の王 が ' ブ - チ - シ ュヴ ア ラ Bhae
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a に伺 堂 を 奉 献 し た こ と を記 す 。 そ れ はち
を あげ
ょう ど ア シ ョカAg
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aが 、 図 が ム レ ッチ ャ Ml
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aに よ って既 潤 され た とき 、 シヴ ァ ・ブ - チ- シ ュヴ アラから ム レ ッチ ャ
を 撲 滅 す る た め に 一人 の息 子 を さず か った のと同 じ だ と み ' Kh
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a も ' 厄 難 滑 除 の紳 た る マ ハー グ ィ ナ- ヤ カを 願 求 す る
た め' こ の像 を 造 った と解 樺 L へ Kh
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a 即 Kh
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a と考 え た。 ﹃ラ ージ ャク ラ ンギ ニー﹄ に よ れ ば こ の王 は ,
∼ヒ ラ ク ラ
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a の ひ と り の後 鰹 者 であ る と いう が ' ド ・ラ ・ヴ ア レ ・プ サ ンd
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aVat16ePoussin や ラブ ソ ソ Rapson は貨 幣 形
制 にも とづ いて ト ラ マ- ナ T
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m昔 a 以前 であ る と
(
49)
す る .
王 の年 代 決 定 を ト ク ツ チは さ け て い る. 銘 文 の玉名 に つづ く
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.na を ト タ ッチは ウデ ィヤー ナと讃 む 方 に傾 き 、 碑 文 にあ ら わ れ る唯 lのウデ ィヤ ー ナ 王 に キ ンガ ラを あ てる雰
囲 気 が 感 じら れ る。 も し ウ テ ィヤ ー ナと よ め る に し ても ' ﹃ラ ージ ャク ラ ンギ ニー﹄ に は こ の王が ウデ ィヤ ー ナす な わ ち スワ
- トを 統 治 し た記述 はな い。 次 に字 鰹 を ト タ ッチは明 確 な 理由 な し に 五世紀 末 あ る いは 六世 紀 初 であ るら し いと しへ こ こ では
じ め て こ の像 の年 代 に ふれ るが 、 知 ら れ る と ころ の 〝
鋭 角 ブ ラ1 7 、
、
、-文 字 ″ のも っとも 古 - 遡 れ るも のが 六世 紀 末 であ る こ
(
51
)
(
50)
と 、 後 述 のウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 の碑 文 の字 鰹 と類 似 性 が 認 めら れ る こ と ' な ど から ト ゥ ツチ説 は妥 常 でな い。 キ ンガ ラ
を ﹃ラ 1.,,
hヤク ラ ンギ ニー﹄ に あえ る エフタ ル王 に比定 す る と いう こ とが ' お そ ら - こ の年 代 観 に から みあ って いる。
アグ ラ ワ ラが こ のガネ - シ ャ像 と国 のガネ - シ ャ像 とを紹 介 し た こと はす でに のべ たが ' そ の中 で彼 は' これ ら のガネ - シ
ャ像 は マト ゥラ ー のグ ブ タ美 術 に お け る 二腎 ・虎 皮 の表 現 と エレク ト 。リ ンガをも つウダ ヤギ - のガ ネ - シ ャ像 の表 現 とが 混
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合 し たも のと し、 両 地 から のグブ タ美 術 の流 れ を引 いたも のと解 鐸 し て いる。 エレクト ・- ソガをも つガネ - シ ャ像 は北 イ ン
フ ィ ッシ ャ
ー 説
にま でみ と めら れ ' 一般 的 であ った と いう 。
ド では行 わ れ な か ったが へ 四督 。虎 皮 をも つ例 は タ - ム盆 地 の エンデ レ En
(
52)
アグ ラ ワ ラは と- に絶 対 年 代 を 示 し ては い な い 。
(
3
5
)
タ ガ - オ尊 兄 の自 大 理 石 頭 部 (
固5)に つ いて報 告 す るな か で、 こ の l達 の 自 大 理 石像 に封 す る 様 式 観
閃
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lにより 、 ま た自 大 理 石 像 が カーブ ルや ガ ルデ ィーズ から ペ シ ャー
が う かが え る。 囲 像 挙 上 の解 樺 はM ・ヘルテ ル H.
ワ ル、 イ ンダ ス西 岸 ま で に分 布 す る と いう のはパ レ ット によ ったも のと思 わ れ る。 相 好 、 眼 、 第 三 の眼 な ど こ のド ウ ルガ 1両
頭 部 にみら れ る表 現 は グブ タ期 から 系 統 を ひ- イ ンド的 な も のであ るが t l方 で巻 毛 や頭 飾 な ど には ガ ンダ ー ラ係 数 美 術 の晩
期 の モチ ー フを 想起 さ せ' カ ツ ュ,
,
,- ルの彫 刻 と平 行 す る鮎 も 考 え られ る。 白 大 理 石像 が ア フガ ニスタ ン の地 でお こ った ひと
つ の折衷 様 式 の ヒ ンド ゥー美 術 で、 そ の年 代 は ト ウ ルキ ー 。シ ャーあ る いは ヒ ソド ゥ- ・シ ャー の時 代 に相 嘗 す る と いう ので
あ る。
大 理 石 ヒ ソド ゥ-像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
掴
東
軍
報
閑 の エー カ ムカ ・リ ンガを 紹 介 す るな か に彼 の様 式 観 が み ら れ る 。 こ の リ ンガ の頚 飾 ' 三遷 ' 顎 の表 現 にポ ス
方
54
(
)
タ デ イ説
ト ・グ ブ タ期 の特 色 が う かが え る。 そ の例 護 を エレ フ ァ ン タ と アジ ャ ン タI のヴ ィ ハ- ラⅠ の菩 薩 像 に求 め ' 同 時 期 す な わ ち
八 世 紀 に常 て る。 し か し リ ンガ像 は エレ フ ァ ン タや アジ ャ ン タ I の革 た る模 倣 で は な - ' サー リ ・''
'1- ロー ル Sahr
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)
の ハ- リ テ ィ像 や 貴 人 供 養 像 な ど こ の地 方 の俸 統 にそ った ひ と つ の様 式 と し て完 成 し て いるも の でも あ る と考 え た。 す な わ ち
リ ンガ は ボ スー ・グ ブ タ期 や ガ ンダ ー ラ後 期 相 方 の影 響 下 に完 成 し た ひ と つ の流 派 に屠 す るが ' ボ スー ・グ ブ タ期 に お け る廉
い造 像 活 動 の ひ と つ の中 心 であ って、 ア フガ ニス タ ン東 部 か ら ガ ンダ ー ラ地 方 にわ た る 西 北 イ ンド で こ の流 涯 だ け が 孤 立 し て
存 在 す るも の で は な い。 彼 は 八 世 紀 と いう 年 代 を リ ンガ を 含 め た自 大 理 石 像 に普 て た が 、 同 時 に カ ーブ ル ・カ シ ュ-1 ル問 で
こ の時 代 にあ った 主 な 勢 力 は ' カ シ ュ、
、
、- ル の王 朝 を のぞ - と シ ャー ヒ朝 であ った と し' こ の像 を カーブ ルに お け る ト ル コ系
前 節 に概 観 し た と こ ろ は ア ッカ ソ以 降 タデ イ に いた る ま で こ の大 理 石 像 に関 す る年 代 観 に 二 つ のグ ループ が
シ ャー朝 と ウダ パ ンダ に お け る ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 のも の に営 てた の であ る。 し か し彼 ら の絶 封 年 代 に つ い て は と- に言 及
し な い。
細 部 表 現 の検 討
あ り ' ひ と つは ア ッカ ソや - ク ツチ のよ う に 五 、 六世 紀 に お - も の' ひ と つは シ ュラ ンベ ルジ ェを は じ め と し、 と - に ゲ ツ ツ
以 降 タデ イ に いた る 八 世 紀 な いし 九 世 紀 に お - も の であ る。 ア ッカ ソお よび ト ク ツチ所 論 で示 し た と お - 、 筆 者 は 五 ㌧ 六 世 紀
課 に承 服 す るわ け に は ゆ か な い。 そ れ な ら ば ゲ ツ ツ以 降 の説 は愛 普 であ る か と いう と、 必ず しも 正 鵠 を 得 て いな い。 イ ンド の
ポ スト 。グ ブ タ期 の ヒ ンド ゥー教 彫 刻 と の関 連 の中 に自 大 理 石像 が 位 置 す る こ と は自 然 であ る。 し か し ' 直 接 そ の細 部 の要 素
に お いて は と- に 比 較 す る こ と は む ず か し い。 し か も 年 代 決 定 の基 準 に彼 ら が 考 え た イ ンド に お け る請 像 が ' 説 - ひ と に よ っ
て少 しず つそ の年 代 に差 を 生 じ て いる 以 上 ' ひ とえ に こ のよ う な 資 料 に た よ る わ け に は ゆ か な い。 し かも グ ッ ツ、 バ レ ッー'
フ ィ ッ シ ャー、 さ ら に タデ イ に し ても 大 理 石像 が ヒ ソド ゥ-教 に展 し て いる た め に' シ ャー朝 に これ を 比 定 し よ う と いう 大 前
提 を おき 、 それ を ふまえ て大 理石像 の様 式 を ポ スト ・グブ タ期 の流涯 に求 めよう とした こ とが 明 ら か であ る。 と ころが シ ャー
朝 と い っても 時代 を前後 し てト ゥ ルキ ー 。シ ャー朝 と ヒンド ゥー ・シ ャー朝 とがあ り 、彼 ら は上 の大前提 に立 つ以 上' これ ら
の大 理 石像 が 、 どちら の シ ャ ー朝 に屠 す る のか'あ る いは丙 シ ャ ー朝 に属 す る のか、検 討 不能 に終 って いる。 シ ャー朝 に屈 す
る か どう か と いう 問 題 以前 に' まず 大 理石像 を詳 細 に検 討 す る ことが普 然 の作 業 であ - '軍 に ヒンド ゥー教神 像 と いう概 念 的
な とらえ方 から問題 には い ってゆ- ことは避 け る べき であ る。
「
彫 像 資 料」 の-わ し い観 察 を行う ことが でき た十数 例 のう ち'像 とし てほ とんど完壁 に残 存 し、多 - の槍 討 す べき細部 要
素 をも って いる のは タパ ・スカ ソダ ル出 土 のウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ並坐像 には かな ら な い。 これ を基 本資 料 とし、各 要素 を
抽 出 し て、 それ らが 他 の神 像 にど のよう にあ ら われ て いるか検 討 す る。
‖ 基墓 の つくり方 (
義) 不整形 の基底 部 をも ち ' 上面 に神像 を 彫 りだ し て いるが 、 そ の 正面 上部 に横 長 の 狭 い 一帯 をも う
ハ
け 'そ の部分 だ け彫 り-ぼ め' 入念 に贋研 し て いる。 こ の贋 研 部分 以 下 は粗彫 り のまま であ る。 ま た背 面 から基底 にかけ ては
粗 -打 ち割 ったあ とを残 し'側 面観 によれば '基底 部 は平 ら でな - '前 面 にむ か って尖 ら せ' いわば 片匁状 を望 し て いる。
イ ル ・ハネ の例 (
彫像資料e から ' 正面磨 研 部 を残 し' 粗 彫 部 は基 壇 の床 面 下 にう め こまれ て いた と考 え られ '基底 を片匁状
に形 成 した のは'床 にお- のではな- 、 さ し こむ作業 を容 易 にす る工夫 であ った。 こ の正面 の磨 研 部が '革 に基墓 の前 面 で護
彫像資料S)や ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像
符 者 から見 え る位置 にあ る た め' 磨 研 し てとと のえ られ て いた のか' ガネ - シ ャ像 (
(
同日)のよう に銘文 帯 と し て造像 の雷初 から意 固 され て いた のか は不明瞭 であ る0 ガネ - シ ャ像 銘文 は 二行 とも 字配 りが自 然
であ る のに封 し、 ウ マ- マ へ- シ ュグ アラ像 の場合 は、裳 裾 が銘 文 帯右 上 にま で表現 され て いる ことを考 慮 し ても 不自 然 であ
る。 こ の基童 をも つ例 は多 - ' ス- リヤ像 (
彫像資料3
:
)
' ガ ルデ ィーズ のガネ - シ ャ像 (
同軸)
' サカ ル ・ダ ルのガネ - シ ャ像
(
同的)
' ハイ ル ・ハネ の 「雨 足 と武人像 とを残 す基 童」 (
同E)
' タパ 。スカ ソダ ル出 土 と俸 え る基憂 (
同日)ド ウ ルガ -像 (
同軸)
にみられ る。 そ のう ち ' ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 、 ガ ルデ ィ ーズ のガネ - シ ャ像 ' ハイ ル ・ハネ の基墓 、 タパ 。スカ ソダ ル
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
三〇
の基童 の四例 はみな 同 じグ ループ の つ- り を 示 し て いるが ' サ カ ル ・ダ ルのガネ - シ ャ像 で
は磨 研 部 分 が ほ とん どな く てう す - 'す ぐ 粗 彫 部 にな って いる。 ハイ ル ・ハネ の ス-リ ヤ像
では' 馬 の いる中 段が '磨 研 部 に相 馨 し' こ の中 段 に つづ - や や下方 ま で磨 研 され 'そ の下
が 粗 彫 - にな って いて' サカ ル 。ダ ルのガネ - シ ャ像 の基童 形 式 に似 て いる とも いえ る。現
存 す る大 理 石像 のう ち 、・
基 童 をも つも のは七例 で、 そ の六例 が こ の形式 を と って いる ことは
注 意 す る必要 が あ る。 他 の 一例 は ガズ ナ朝 王宮 から 出 土 したも ので、 そ の像 が イ ンド からも
たら され たも のであ る こ とはす でに記 し たが 、基 墓 形 式 から み ても 六例 のグ ループ に加え る
三 叉戟 形 式 (
表'挿囲7) 固 像 挙 上 三 叉戟 を持 物 とす る のは シヴ ァ関 係 の像 であ ってt と
こ とは でき な い。
臼
- に こ こ では、 シヴ ァの貸 し輿 え た三 叉戟 を使 って マヒ シ ャー スラを退 治 す る両 妃 ド ウ ルガ
も ので、武 器 の装 飾 を ここ に援 用 したも のであ る。 こ のよう に木葉 状 装 飾 は'持 物 と し て三叉戟 や槍 な ど の武 器 を持 つ例 には
と つのき まり とな って いた と考 え られ る。 ま た同 じ- ス1 - ヤ俊 二頭 の馬 の鞍 の緑 飾 は、木 葉 型 のう ち 片側 だ け をあ らわ した
ダ ソダ の武 器 にも みら れ ' そ こ では三 叉戟 ではな い、槍 の身 であ る こ と に興味 深 い鮎 が あ って、 こめ 種 の大 理 石像 の武器 のひ
同式 の三叉戦 が あ った とみ てさ し つかえ な い。 こ の三 叉戦 の中 央 の身 の形 式 は' ハイ ル ・ハネ出 土 の ス-リ ヤ像 の脇 侍 であ る
れ る。 腰 の上 に三叉戟 を突 き さす ガ ルデ ィーズ のド ウ ルガ -像 と形 式 が ま った-同 一であ る から 、 こ の像 にも ガ ルデ ィーズ と
近 の出 土 ら し い シ ュラ ンベ ルジ ェが 報 告 す る例 (
彫像資料内)に は' マ′
ヒ シ ャー スラ の腰 の上 に三叉観 を突 き さ した残 敵 が みら
が固 形 に近 -虞 理 され て いる こ とな らび に中 央 の身 が 木葉 状 に表現 され て いる こ と であ る。 ド ウ ルガ-像 のう ち ' カーブ ル附
長 い身 が あ り'そ の根 本 から 二又 にわ かれ 、 三叉 の形 を と る。 そ の彫 出 の特 色 は三 本 の身 によ ってか こまれ る根 本 に近 い部 分
彫像資料栂)と に認 められ る。 形 態 は中 央 に細
Iであ る。 そ の例 は ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 と ガ ルデ ィーズ のド ウ ルガ -像 (
挿圏7 三叉 戟 (
1
)
彫像資料13
,(
2
)
同7
X L IX , tt6).
ウ マ- マ へ- シ ュヴ ア ラ像 の ウ マ-及び マ へ- シ ュグ ア ラ' ス- リ ヤ' ガ ルデ ィーズ の シヴ ァ
ィーズ のガネ - シ ャ (
同%)' サカ ル ・ダ ルのガネ - シ ャ (
同E)' カ ラ ・ア ,
,
,- ル ・モ ハマド のド ウ ルガ -
'
ris, )961, pt
.
す べ て表 現 され て いる こ と にな る。 ト ツクズ 。サ ライ Tq
oq
u
zSaraiからも 木 彫 の同式 の出 土を み る こと に注意 し た い (Mi
s
s
.
i
n
mc
h
ouq. Pa
デ
冠 (
義) 冠 を被 る像 は
Paut Pet
l
i
ot I,T ou
臼
(
彫像資料 3
g)' ガ ル
(
同州)t であ る。 こ のう ち ' マ へ- シ ュヴ ア ラ' シヴ ァ' ガ ルデ ィーズ のガネ - シ ャの冠 は' 三面 立飾 ' 軍 両 立飾 の別 はあ る
け れ ども 、牛 固 形 の中 に ク レ ッセ ソト と - ンガ とを配 す る こ と は同 じ であ る。 そ の構 成 は、 ク レ ッセ ント の上 に リ ンガを 立 て'
リ ンガ上方 に -ボ ンを結 び ' そ の南 端 を ク レ ッセ ソー の南 端 に結 ん で いる。 ち ょう ど人 が 立 って腕 を ひろげ た よ- であ る。 ガ
"p
u
r
e
t
y K抑h
s
mi
r
ニype" だ そう であ るが ' カ シ ュ-1 ルの例 示な - し ては にわ か にそ の比定
ネ - シャ (
同軸)の天 冠 は、 頭 頂部 を敏 損 す る ので マ へ- シ ュヴ ア ラ のよう に明 確 ではな いが ' 同様 の表 現 であ る。 こ のよう な
天 冠 の表 現 は ゲ ツツによれば
(
55)
は 結
に承 服 す る こ と は でき な い 。 と- に カ シ ュ-1 ルの ヒ ンド ゥー造 像 に関 し ては、 pur
e
t
y と いう 言葉 を使 え る ほ ど明 ら か にさ
冠巾 の表 現 (
表、挿固3) 冠 は、 冠帯 の側 頭部 に普 る と ころ から巾 が 出 て' そ れ によ って冠 を頭 に固定 し て いる。 巾
れ て いる と は考 え られ な い。
輯
ば れ た のち 、 そ の飴 った部 分 を 垂 下 し て いる。 垂 下 し た部 分 のう ち 下 から 年 分 以 上 ま で には横 方 向 に爪 形 を い- つも きざ ん だ
摺(
?)が あ り 、 こ の槽 よ り 上 は縦 方 向 の槽 を きざ ん で いる。 マ へ- シ ュヴ ァラや ス- リ ヤな ど の後 頭 部 にみら れ るも の であ る。
マ へ- シ ュヴ ア ラ の方 は ス- リ ヤよ りも 綿 密 で候 数 が多 - ' 彫 も 深 いが ' ス- リ ヤ では粗 い。 ハイ ル ・ハネ では こ の ス1 - ヤ
のほ か に光 背 の断 片 も 出 土 した こ と は前 述 のと お り だ が ' こ の光 背 に巾 の爪 形詔 の部 分 が 表 現 され て いる。 マ へ- シ ュヴ アラ
も ス- リ ヤも 巾 の結 び 目が な いのが 特 色 であ る。 これ ら の像 は正 面観 を強 調 し て、背 面 の仕 上げ は像 の形 を と と のえ る た め に
磨 研 し て輪 郭 を 出 し た のに と ど め て いる。 し か し と- に後 頭 部 の表 現 だ け は' 正面 と同 程 度 に入念 綿 密 に彫 り 出 し て いる。 こ
の鮎 が 非 常 に注 目 され ' 主神 の頭 部 の造 形 が そ の意 味 は不明 だ が と- に重 要 祝 され て いた鮎 を 指摘 した い。
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
また他 の二鮎 は自大 理石 ヒソド ゥ-像 と いう だ け で'何両 に相嘗す る かわ からな い。 タパ ・スカ ソダ ルの四断 片 は いず れも 長
シヴ ァ神 像
ジ ェラー ラ ー..
ハード Je
t
at
abad 西郊 のダ ル ソタ D
a
r
u
n
t
a 出 土 と俸 え られ て いるも ので' 寓 県資 料 とし て
あ る .
タ。
ハ ・スカ ソダ ル北方数 百 メー ト ルにあ る小 丘 の遺 跡デ ー ・・
,
,ル De
h Mi
rから数 年 前 に良 民 が採集 Lt現
(
缶)
〇 セ ンチま で の小 片 で' 三鮎 ま でが 蓮華 をも った手 へ 一鮎 が連 珠環師 をあ らわ した腕 (宿?)であ る。
さ一
掃
シヴ ァ紳 頭部
i
mBr
t
iと いわれ るが 未顎 表 の資 料 で
在 カ ーブ ル市 の警 察学 校 長 の私蔵 晶 で、 ト リ ム- ルテ ィ Tr
掃
Moustamiロdy 博 士 の教 示 によるば かり で'寓
ア フガ ソ考 古研 究 所 に登録 され て いるが '所 長S ・B ・ム スク マソデ ィ S.B.
県 す ら未 見 であ る。
房
し た .
エー カ ムカ
・- ソガ Ekamu
kh
a
t
i
hga (旧 11 ) ペ シ ャー ワ ルの ア ルバ
あ
節
る
。
一七
に表 現 され て いるだ け であ る。 耳師 は連 珠環 、頚飾 も連 珠 で'そ の上 に
び 明 確 な彫 り だが'柔 味 を 出す。 耳 よりう しろ は形式 的な 波状髪 が 入忠
いる。 三眼 で鼻 を鉄 損 Lt顎 は表現 され て いる。 相 好 は全 鰹 に園味 を お
で粗彫 のま ま残 し'基底 は平 ら であ る。基底 にむ か ってや や細-な って
あ たり の出 土 とみ るが '妥 皆 で
イ M . Ta
dde
i は フ ソド Hund' ウダ バ ー ソダブ ラ Udabh晋 dapu
r
a
()
上牛 は磨 研 され '下 牛 は八面 どり
ーブ ・ヒダ ヤ ト ・ウ ラ ー Ar
bab Hi
dayatUt
t
ah 所 蔵。豪 表 者M ・タデ
掃
と のな い単 な る リ ソガ石 であ る。
いね いに磨 研 し てあ り' 上下 二石 より成 るが ' シヴ ァ頭部 を彫 出す る こ
- ソガ ・スト ー ン (
挿国5) A ・71 シ ェが ラーグ マンL
a
g
h
ma
n 地方 を l九 二五年 l〇月 に踏査 した とき ' タ ガ - オ に
(
雄)
今 カ ーブ ルの ア フガ ニスタ ン国 立博 物館 臓。高 さ約 七 五 七ソチで砲弾 型 を豊 し、 て
お いて原 位置 で立 って いる のを硬 見
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ソド ゥ-王朝 のも のか
挿 問 5 Li
hga (
彫像責料1
6)
賓 冠 であ る のに他方 が 三面賓 冠 であ ったり 、相好 全鮭 や とく に眉 の表 現 な どやや差 異が 認 められ る のであ る。 ま た ウ マ- マへ
- シ ュヴ ァラを はじ め とし て平 面的 すな わ ち 正面観 に主鮭 を お いたも のと、そう ではな - ド ウ ルガ -像 のよう に丸彫 のも のと
が あ る。 これ には固像畢 な原 因があ るか と いう とそう とも い いき れず ' ド ウ ルガ -像 な ど でも 丸彫 でな い例も イ ンド では しば
しば みう けられ る0 こ の 1達 の大 理 石像 は正面観 を主 と した像 でも背 面 を全 然彫 り出 さな いも のはな - へそ の意 味 から は いず
れも 相 互 に隔絶 し ては いな い。 こ の鮎 ガ ンダ ー ラ の片 岩製 の係 数 彫 刻 の俸 銃 とは相 容 れず ' 大 理石像 と ガ ンダ ー ラ片岩像 と の
間 に つなが り を持 た せよう とす る説 には首肯 Lが た い。 大 理石像 が完全 な 丸彫 ではな いに せよ、む しろ フ ォソド キ スタ ン駿 寺
の塑像 を はじ めとす る傍 教諸 像 に、大 きな流 れ の中 のひと つと し て関 連 す る と'考 え る方 がむ しろ自 然 であ る。
細 部 要素 の つなが りを相 互 に観 察 でき た ことによ って大 理石像 は ひとま とま- の性格 の中 に とら え る ことが でき 'そ の事 は
製 作年 代 にも 非常 に大 きな 差がな いことを示 し て いる。 しか し'各 々の間 のこま か い年代 差 に関 し ては これ だ け の資 料 から は
検 討 を さけ る べき であ ろう。 以 上検 討 し てき た と ころ と- に注意 す る必要 のあ る特 色 は第 四 に掲げ た冠巾 の表 現 であ る。 こ の
種 の冠飾 とも い- ''(きも のが サー サー ソ王冠 に附随 したも のであ る ことは周 知 の事案 であ る。 しかも サー サー ソ王 はそ の系譜
と年 代 が 確定 し てお-、年 代考 定資 料 とし て俵患 す る に足 る. したが って次節 では こ の サー サー ソ王冠 におけ る冠巾 の表 現 を
追 跡 し'同時 に サー サー ソ王冠以外 のも のにど のよう にあ らわれ るか' か つそれ ら と大 理 石像 と の関 連 にも ふれ て'大 理石像
の年 代観 を示 した い。
冠巾 の表 現
遺
物
に
3
サ ー サ ー ソ朝 王像 を表現 した磨 崖浮 彫 '銀 盤、貨 幣 な ど の冠巾 は、結 び 目以下 の部 分 が 風 に翻 った状 態 を 示 し て
(
56)
ついて巾 だ け の表 現 を分 糞す る と次 の三型式 にな る (
挿固 9 )。 結び 目 から先 の部分 に多 - は爪 形 の
いる。 こ の一
二種 の
横 縞 だ けが み と められ る。㈲ 結 び 目 から さき の部 分 のう ち'結び 目 に近 い年分 は縦 縞 で、先 端 に近 い年分 は横 縞 であ る。佃 と
- に縞 目が み と めら れ な いも の。 こ の三型式 のう ちB式 が も っとも 頻繁 にあ らわ れ '次 がA式 で、C式 はきわ め てまれ であ る。
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
東
方
畢
報
(
1
)
(
2
)
B式
押 倒 9 サ ーサ ー ソ王冠 の 「
f
l (
1
)
A式
日
サー サー ソ王冠
三四
バ フラ ー ム Ba
hr抑m 二世 (二七六-二九≡)に いた る ま でに上 の
三種 の遣 物 上 に 三型式 とも あ ら わ れ て いる。 と- に貨幣 ではA式 の巾 ば かりが ' ア
ルダ シー ル Ar
da
s
h
ir l世 から rJ
',フラ ー ム二世 に いた る 五 王 に み と めら れ t 、
バ フラ
N
arseh (二九≡-三〇二)以降 表現 され る ことがな い. シ
l世 (
二四三-二七三)と ホ ル、
,
、
ズ ド Ho
r
mi
zd 一世 (二七三-二七
ー ム二世 の次 の ナ I ル セI
ャIo
フー ル S
h apur
四)と に はC式 の表 現 も あ るが 、 これ がC式 の唯 lの例 であ る. 銀盤 はバ フラ ー ム
一世 (
二七四-二七六)に は じ め て遺 物 と し てあ ら わ れ て- るも の であ るが ' こ の王 は
の ア ルダ シー ル l世 、 シ ャープ ー ル 1世 ' ナ
B式 '次 のバ フラ ー ム二世 はA式 であ り '貨 幣 にみ るご とき 方 向 はな い。磨 崖 浮 彫
N
a
qsh・
i
・
Rus
t
a
m
は ナ ク シ ・ル スタ ム
ク シ ・ラジ ャーブ N
a
qsh・
i
・
Ra
j
ab の シ ャープ ー ル 一世 ' ナ ク シ ・ル スタ ムのバ フラ
Khos
r
a
u 二世 な ど にみ ら れ '磨 憎 浮
ー ム 一世 ' t、
ハフラ ー ム二世 ' ナ - ル セ-、 ホ ル・
,
、
ズ ド 二世 ' ク ーキ ・ブ スタ ー ン
u
s
t
an の ア ルダ シー ル二世 ' ホ ス ロウ
T a q ・B
i・
彫 のあ る 王像 に はす べて に こ の巾 の表 現 が み と めら れ る。 そ の型式 は 二種 あ り' ア
ルダ シー ル l世 で はA式 だ け ' シ ャープ ー ル l世 には ナ ク シ ・ル スク ムのB式 と ナ
ク シ 二フジ ャーブ に みら れ る縦 縞 だ け のも のとが あ る. シ ャープ ー ル 一世 以降 はす
べ てB式 であ るが ' クー キ ・ブ スタ ー ソの ア ルダ シー ル二世 だ け はA式 であ る。 こ
のよ う にみ る と サ ー サ ー ソ王冠 では' 初 期 にはA式 が も っぱ ら 使 わ れ t と- に シ ャ
ープ ー ル 一世 代 (
二四三l 一
七三)では貨幣 に は前 代 を踏 襲 し てB式 が つかわ れ たが'
磨 崖 ではB式 が つかわ れ 出 し、 そ の中 間 の縦 縞 をも つも のな ども あ った。磨 崖 で は
は や-B式 が l般 化 した のに勤 し' サー サー ソ王像 を表現 した主要 な 三種 の遣 物全鰹 にB式 が 一般 化 した のはほ とん ど四世紀
から であ って、 こ の型式 が貨幣 では便化 し っ つも 七世紀 中葉 ま で歴 倒的 に用 いられ た のであ る。
れ
る
5
。
以 上 の サー サー ソ朝遺 物 におけ る表現 は遺 物 の絶封 年 代 の明確 なも のに限定 したが ' オ ルベ リ ー.〇r
be
iが 七世紀初 頭 に比
(
57)
定 した サー サー ソ後 期 の' クーキ ・ブ スター ン崖 墓 正面 の アー チ左右 の浮彫 にも 認 められ 、銀 盤 の様 式 から み て サー サー ソ後
(
8)
そ し て サー サー ソ朝 の遺 物 に表現 さ
期 あ る いはボ スー ・サー サー ソ (
七世紀後半)と考 え られ るも のにもB式 が み と めら
れ た巾 は'普 然 ク シ ャ ー ノ ・サ ー サ ー ソ' エフタ ル、 イ ンド ・サ ー サ ー ソと いわ れ る サ ー サ ー ソ彊 域 の東 方 で模倣 され た サ ー
サ ー ソ系貨幣 の上 にも 認 められ る。 そ の サ ー サ ー ソ彊域 の東 方 に普 る ア フガ ニスタ ン東 部 に於 てこれ ら の貨幣 以外 にも こ の系
統 の冠巾表 現 が存 在 す る のはな んら 不思議 ではな い。
(
59)
冒 .'
'
1- ,
,
,ヤー ン Bp
mi
y
an B式 とC式 とが ここ で認 められ る。 ここではそ の例が非常 に豊富 であ る。 そ の分布 は'三五 メ
(
60)
ート ル大悌姦 天井側 壁 の貴 族 恰衆 供養 固 、 天井 ス1- ヤ墓像 ' 三 五 メ-ー ル大悌轟 周過 の諸 窟 ' 五 三 メート ル大悌 足 下 の諸 窟'
カ クラ ク石窟 群 な どバ ー ミヤ ー ン渓 谷 の石窟 ほ とんどを おお って いる。も っとも集 中 し てそ の例が みられ る のは 五三 メート ル
て
プ
ラ ソを 八角 形 とし' 各 壁 に悌
大 俳 の足 の周囲 に開 口す る 二 窟 で' そ のう ちⅠ' Ⅱ、 刃 の三窟 は石窟 の壁 を 八面 にわ け
(
61)
寵 を はり こみ' こ の壁面 の上 に牛 球状 の天井 を彫 出 し て架す るも のであ る 。 天井 のう ち壁 に近 接 す る 一帯 は二段 に分 れ 'そ こ
Ki
r
i
t
mu
k
h
a
)が残
って いる。 上 段 は アー チ型尖 頂 の列轟 で'
に列鳥 形 を造 り出 し'下 段 は 三乗 型尖 頂 の列轟 が 壁柱 の上 に架 構 され たあ り さまを 示 し、各姦 内 には いま は頭 光 ・身 光 だ け を
残 す 坐傍 が も とあ った。 三菓 型 の相 互 の問 には鬼 面 (
キー ル テ ィ ムカ
いま は頭光 ・身光 だ け を残 す塑造 立傍 が あ って' 下 段 と同 じ-'各轟 の間 には キ ー ルテ ィ ムカを配 し て いる。翻 る巾 の表現 は
(
62)
これ ら轟 の尖頂部 に左右 になび -B型式 で'表 現 に精 粗 の差が あ るが 上下段 とも 同式 であ る。 ま た これ ら の列轟 にあ っては三
菓 型 や アーチ型白燈 に唐 草 紋 を泥 の型 ぬき によ って貼 付 Lt装飾 とし て いる。 こ の唐 草 紋 は葉 と考 え られ る部分 が 完全 に菜 と
(
63)
し てあ らわ されず '小 球 形 に便化 し て いる鮎 が特 色 であ る (
挿囲10 )。 こ のよう な表現 は唐 草 紋だ け に とど まらず '鳥 形 の間 の
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
東
方
畢
JI
報
三
六
キ ー ルテ ィ ムカにも あら われ て い
こ の紋様 は
(朗 )
る 。
s
a
n
c
t
uaire.と した悌像 を ま つる窟 にこ
a rc h
を はり 出 し' そ の上 に半球状 天井
- のそれ と同 じ であ る (
挿固11)
。
のせ て いる。 G窟 出 土 の坐俳 衣紋端 の虞 理 は ウ マ
轟 帯 をも う け 'そ の上 に二段架 構 の持 送 り天井 を
Ⅴ窟 は俳轟 をも つ四面 の壁 の上部 に三葉 型尖頂 列
を架 し て いる。 天井 の壁墓 に便 化唐 草 紋が みえ る。
sq u in c h
プ ラ ソをも ち t G窟 は四隅 に ス キ ン チ ・アー チ
に泥 で尖 頂型 、便化 した唐 草 紋 の装 飾 を施 し て い
(
防)
る 。G窟 と 五 三 メー ト ル大 悌 足 下 のⅤ窟 と は方 形
つなぐ 一帯 に三乗 型 の轟 形 をきざ み こみ'そ の上
囲 天井 を架す る窟 であ るが ' 列轟 は壁 と天井 とを
段 と上段 と に配 す る。 D窟 も 八角 形 プ ラ ンの上 に
井 を架 Lt 三乗 型尖頂 と アー チ型尖 頂 の列轟 を下
の唐 草 紋があ り' や はり八角 形プ ラ ソに牛 球状 天
ッカ ソが
た 三 五 メート ル大俳轟 東 方 のFtDtG の諸 窟 で
(
65)
も みられ る。 F窟 は五窟 から 成 るが 'そ のう ち ア
Ⅴ' 氾膚 にも やはり列轟 装飾 として つかわれへ ま
挿 闘1
0 巾 ・唐草紋 のある三菓型姦 (
B豆mi
y豆n53m 俳轟の第 Ⅰ洞)
バ ー -ヤー ソで今 ま で調査 され た限 り では' 八角 形プ ラ ソの上 に牛 球状 の天井 を架 す る構造 の石窟 は七窟あ り 'そ のう ち 二
窟 Ⅲ' Ⅶ は泥 を貼 付 した列姦 装 飾 が全 部 剥 落 し て原 形 を と ど め て いな い。 残 る五窟 にはす べてに列轟 に便 化 した唐 草 紋 を配 し'
ま たF鹿 ひと つを のこす はかはす べ てに キ ー ルテ ィ ムカの装 飾 が みられ る。 そ のう ち少 く とも 二窟 に は サー サー ソ系 王冠 にみ
(
腿)
られ るも のと同種 の巾 の表現 が み と めら れ た。 便化唐草 紋 と キ ー ルテ ィ ムカとB式 の巾 が ひと つの セ ット にな ってバ ー -ヤ ー
ソに存 在 す る ことを認 める必要 が あ る。
さら にバ ー ミヤ - ソ東部 のカ クラ ク石窟 でも 八角 形プ ラ ンの上 に牛 球状 天井 を架 す る 一窟 があるが、 こ の場合 壁 に近 い天井
部 に壁書 帯 を設 け' 天頂 にも囲 形 を基 本 とす る千俳 園が あ る。 壁 書 の残 存状 態 はわ る いが '天井 下部 では、楯 挟 型 列轟 に菩 薩
T apa S ard ar
ガ ズ ニー西南 のダ シ ュテ ィ ・マナーラ
三七
あ
り '
特 の' 珠状 に襲 化 したよう な葉 の表 現 手法が、 同 じ ヴ ィ ハ- ラ出土 の塑造
(.
'1- -ヤ ー ンの例 より若 干租薙 さが み とめら れ る。 同時 にそ の唐草 紋 の滞
す る特 徴 をも って いる。 す な わ ち 三業 型轟 形 には便 化 唐草 紋 の装飾 が
菱 表 され たが ' それら はあ き ら か に上 にの.'(た、、
ハ1 、
,
、ヤ ー ンの諸 例 に 一致
70
()
ら剥落 し て雛精 し て いたo これ ら の彫 塑類 は タデ イ M .Tadde
iによ って
が か こむ 長方 形 プ ラ ソのこ のグ ィ ハ- ラには多 - の泥像 や建 築装飾 が壁 か
九 六 二年 と 一九 六七年 の二回 の費 掘 によ って完 掘 され た.泥 煉 瓦を積 む 壁
一九 五九年 以来 蓉 掘 され '大 スト クーパを中 心 にした俳 教寺 院 であ る こと
(
69)
が 判 明 した。 そ のう ち晩期 に屠 す る ヴ ィ ハ-ラ第 1七 Vi
ha
r
aL7 は' 1
D
a
s
h
t
・
i
・
M anar
a にあ る楕 鳳 形 平面 をも つ遺 跡 で'
坐像 を描 -。 各亮 の間 には鬼 面 ではな - ' スト ゥ-パ園 を描 くが '楯 扶塑自 身 は便 化 した唐草 紋 を措 -。 同時 に千俳 構 成 の中
夕パ ・ サ ルダ ル
心 にな って いる菩 薩像 は冠 の左右 に ひるが え るB式 の巾 を つけ て いる0
日
大 理 石 ヒ ソド ゥI像 は ヒ ソド ゥI王朝のも のか
挿 固11 坐俳塑 俳 (
B豆m
i y云nG 洞 出土)
東
方 .翠
.報
(71)
ト ルソー の理 路 に 鵬 ま た俳像 の螺髪 に韓 用 され て いる とみ て よ い o さら に注 目す べき表 現 は, こ のヴ ィ ハ- ラ奥 壁 にま つられ
(
72)
た' いま は脚 だ け を残 す 坐俳 の衣 紋末 端 の槽 であ る 。 ハ-ー型 の襲 形 とも tY字 塾 の轡 形 とも いう べき こ の虞 理 はさき に のべ
。
ロ
d
u
,
,ヤ」 ソの例 にも 通 じ'大 理石像 のう ち ウ マI マ へ- シ ュヴ アラ像 のウ マ-衣 紋端 と規 を lにし て いる。
たバ 1 ,
(
73)
⇔ フォンド キ スタ ン F
ki
s
t
an 巾 の表 現 は 二例 知られ て いる 。 ひと つはギ メ-博 物 館 にあ る'豊 麗 な賓 冠 をも つ菩 薩 塑
(
74)
(
75)
像 (
挿圏T
<C
C)
'他 は壁 書 の育 蓮 手 菩 薩像 (
挿園S)であ る 。 前 者 はD姦 奥 壁 む か って左 手 の脇 侍 '後 者 はE轟 正面 む か って右 壁 に
o
r
b
and 渓 谷 流域 の シア 。ギ ルド村南 方 の谷 口にそび え る瓢 丘 上 の狭小 な 場所
あ った。 フォ ンド キ スタ ン厳 寺 は ゴ ルバ ンド G
に立 地 し て城 壁 のご とき棟 相 を 示 し て いる。 出 土 した多 数 の彫 塑 類 はボ スー ・グブ タ系 と サー サー ソ系 の様 式 を混 合 した鮎 に
特徴 が み と めら れ る。 こ の遺 跡 が 重 要 であ る のは'バ ー ミヤー ンや タパ ・サ ルダ ー ルではそ の年 代 を明確 に示す資 料 が敏 け て
いた のに封 Lt そ の上限 を お さえ る資 料が 出 土 した こ と によ る。
スー ク-パを中 心 に し てへ そ の四 周 を か こむ悌 轟A∼L のう ち tE には おそら - こ の俳 寺 建 立 に深 い関 係 をも った と考 え ら
は
' サ ー サ ー ソ式 の銀貨 二枚 と他 に 一枚 の銀貨 と数 枚 の銅貨 とが 灰 ととも にお さ められ て いた。 ア ッカ ソは サー サー ソ式 銀
れ る貴 族 夫婦 の塑像 が ま つられ て いたが 、 そ の像 の基 童 とも稀 す べき も の の下 に 一個 の火葬 骨 壷 が 埋約 され てお り'火葬 骨 壷
に
h
o
s
r
ow
貨 を ホ ス ロウ ・パ ルウ ェ-ズ K
し た 。
Parvez (
ホスロウ二世)にあ て'他 の銀貨 の蹄 層 は明 ら か に せず '数 枚 の銅貨 をJ ・ド ・
6
7
)
(
よ って ア ッカ ソの
h
a
rdjistan 吏 行 のも のと
モ ルガ ン J.deMo
r
g
an に したが ってゴ ル・,
.
hスター ンの シ ャー ル Sardu G
フ ォンド キ スタ ンに常 てる年 代 は' ホ ス ロウ二世 を 上限 と し てだ いた い五九〇年 を さ か のぼ ら な いも の で あ る。 と ころが こ
〝
ビ ス,
,
,ツラ ー Bi
s
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t
l
a
〟 と アラブ 文 字 が よ め る こ とな ら び に
A Z
Rと
i
r
s
h
ma
n は' これ ら の貨 幣 をあ ら た め て 検 討 し な お し、 ア ッカ ソが ホ ス ロウ 二世 に比定 し
れ に封 し てギ ルシ ュマン R.Gh
.
b
v
e
r
s
e
)の縁遠 部 に
た サー サー ン式 の銀貨 が ' 表 面 (
t
s
i
h とよ める こと によ り イ スラ ム暦 三 七年 す なわ ち
あ る こと によ って脊 行 地が スサ Sus
a であ る こ と、 さ ら に ハフー シー hf
キ リ スト紀 元 六 五 七年 に打 刻 され たも のであ る ことを明 ら か にした。 ま た表 面 には これ ら と は別 に動 物 の頭部 を打 刻 したあ と
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ソド ゥI王朝 のも のか
挿 国1
2 青蓮華手菩薩聖像 (
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)
が み と めら れ たが 、 こ のよ う な 打 刻 貨 幣 が ト ハリ スタ ソ
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an で手 行 され たも のが 多 いこ と から ' ギ ル シ
ユマンは こ の貨 幣 が バ ー - ヤ ー ソー フ ォソド キ スタ ン地
(
77)
方 の小 王 た ち によ って顎 行 され たも のと解 揮 し た. ま た
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数 枚 の 銅 貨 に つ いて 彼 は、 ト ハラ文 字 に よ る C
SAHO (
Sri
o抄
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)の銘 と エフタ ルの シ ムボ ル マー ク を
し
た
7
。
・
,ヤー ソの小 王 によ る章 行 であ る こ とを 示
み と め' バ ー ・
(
8)
こ の 一群 の銅貨 に つ いて は コ- ヒ スタ ー ソな ら
唆
び に コーダ ー マソ地 方 で従 来 多教 委 見 され て いた彼 の い
pi
ma
t
ka 型 のも のと銘 以 外
う ナプ キー ・マルカI Nak
は共 通 の特 色 をも つこ とを 明 ら か に Lt ナプ キ ー ・マル
カ-型 貨 幣 が ' ホ ス ロウ 二世 の王 冠 と の比 較 から ' 七世
紀 以 前 のも の ではあ りえ な いこと を 示 した。 と- に ア ッ
カ ソが ホ ス ロウ 二世 貨 とみ と め た貨 幣 に封 す るギ ル シ ュ
マンの検 討 は安 嘗 な 結 論 であ って' これ によ って フ ォ ン
ド スキ ク ソE姦 造 立 は 六 五 七年 を さ か のぼ る こ と はな く
E轟 の塑 像 とま った - 同 一様 式 に屠 す る フ ォ ソド キ スタ
ンの塑像 な らび にそ の建 築 装 飾 を ふ - め た フ ォ ソド キ ス
タ ン巌 寺 の スト ゥ㌧ ハ ・コート の創 建 は早 - とも 七世 紀
三九
挿 周1
3 菩薩像頭部 (
Fonduki
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)
四〇
後 牛 に相 常 す る。
\
こ の フ ォ ンド キ スタ ン
に お いて 二 種 の巾 の表 現
が あ る こ と は前 述 し た が '
塑 像 に み え る のはB式 '
給 墓 のも の は縦 に線 のは
い ったも の であ る。 ま た
轟 の正 面 は ア ー チ型 を な
し ' 各 轟 の間 は壁 柱 を 泥
で浮 彫 に L t 各 轟 の正 面
の アー チはこ の壁 柱 に の
(
%)
ってい る。 ア ー チ の装 飾
は バ ー ミ ヤ ー ンと同 じ 便
(
8
1)
化 唐 草 紋 を 配 し て いる 。
し たが ってバ ー - ヤー ン、
タ パ ・サ ルダ ー ル' フ ォ
ンド キ スタ ソの三者 は '
便 化 唐 草 紋 を そ の共 通 の
建 築 装 飾 と Lt そ れ と開
適 し てB式 の巾 の表 現 が みら れ 、併 像 を は じ め とす る彫 像 はす べ て塑 像 であ る と いう 特 色 をも つ。 さ ら に フ ォ ンド キ スタ ンの
ウ シ ュカ ル U
sh k a r
巾 のひるが え った例 は ア フガ ニスタ ン の彊 域 を こえ て カ シ ュ,
(
,- ルにま で認 めら れ る。 す な わ ち ウ
年 代 から 考 え 、 これ ら の要 素 が は や - とも 七世 紀 後 車 のも のであ る こ とが 明 ら か であ る。
輯
シ ュカ ル出 土 の テ ラ コッタ頭 部 であ る (
挿tE )o
れ
ウ シ ュカ ルが ﹃ラ ージ ャタラ ソギ ニー﹄ にみえ る フ シ ュカプ ラ Hus
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(
2
8
)
た 。 そ の フ シ ュカプ ラは、大 ク シ ャー ナ期 の フグ ィ
Cu
ロ
niロ g h am によ って比定 さ
であ る こ と はす で にA ・カ ニソガ ムA.
シ ュカ王 ま でさ か のぼ る こ とが ' そ の名稀 から 察 せら れ 、 ま た ク シ ャー ナ期 に関 係 す る遺 物 の出 土 も 停 え ら れ て いる。 し か し
k
o
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a 朝 の ラ - クーデ ィ テ ィヤ 。ムク クーピ ーダ 王が
こ こ で重 要 な のは、 ﹃ラ ージ ャタ ラ ンギ ニー﹄ にみ え る カー ル コタ Kar
,
,ソ M ukt
as
vami
n と いう ヴ ィ シ ュヌ神 殿 と スト ゥ-パ のあ る大 ヴ ィ
そ の在 位 中 に フ シ ュカプ ラ にお いて' ムク タ- スヴ ァ1 ,
る
が
'
ハ- ラとを建 立 し た こ と であ る。 ラ - クーデ ィ テ ィヤ 。ムク タ-ピ ーダ 王 の年 代 に関 し ては 、 ゲ ッツや スタイ ンら によ ってそ
(
84)
筆 者 はそ の在 位年 代 を ほぼ 七 三〇 年 から 七 六 六年 に普 て る こ とを妥 常 とす る。 ﹃
新 唐 書 ﹄ 奄 二 二 一下 の
れ ぞ れ 異説 が あ
は
、
え
S.Lか
viとが 考 足 し た と ころ で
チ ャ ンド ラピ ーダ Cand
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da' クー ラ ーピ ーダ Tar
a
.
p毘a'ラ リ タ-デ ィテ ィヤ の順 に 王位 が 騰 承 され た と み
Ch
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s と レグ ィ
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。
箇 失 密 図 の候 を み る と'開 元 八年 にそ の三尾 陀 羅 秘 利 を筋 立 して 王 と し、彼 は しば しば 胡薬 を猷 上 してき た。 天 木 が 死 ん で、
(
85)
弟 の木 多 筆 が 王位 に のぼ っ た .とあ り'員 陀 羅 私 利'天 木、木 多 筆 の順 に王位 に つ いた と考 え ら れ る。 ﹃ラ ージ ャク ラ ンギ ニー﹄
(
6
8
)
る oチ
に
ヤ ソド ラピ ーダ が 員 陀 羅 融 利 に相 嘗 す る こ と は シ ャヴ ア ン ヌ
そ う す る と天 木 は クー ラ ーピ ーダ ' 木 多 筆 は ムク ク ーピ ーダ す な わ ち ラ - クーデ ィ テ ィヤに比 定 され る。 チ ャ ンド ラピ ーダ は
い う 。
﹃ラージ ャクラ ンギ ニー﹄ によれ ば 八年 八 ケ月 の統 治 と し、 クー ラピ ーダ は約 二年 、 ラ リ クーデ ィテ ィヤ ・ムク クーピ ーダ は
(
88)
県 陀 羅 秘 利 は 開 元 八年 に筋 立 され て いる から 、 七 二〇年 にはす で に カ シ ュ,
,
,- ル王 であ った と いえ よう 。 す る
三 六年 と
と天 木 であ る タ- ラ ーピ ーダ は 七 二八年 から 七 三〇年 ま で、木 多 筆 す な わ ち ラ リ ク ーデ ィテ ィヤは 七 三〇年 から 七 六 六年 が在
新 府 元免 ﹄ 奄 九 七 五 ・
位 期 間 であ り へ こ の三 重 は こ の年 代 以降 ではあ - え な い。 と- に ラ - クーデ ィテ ィヤ王 に関 し て は、 ﹃
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
東
方
畢
報
三二
以 上 四鮎 の特 色それ ぞ れが 各像 の間 に共通 であ るほ か'頭 髪 の虞 理 、衣紋線 の
刻 み方 '連 珠装 飾 '指 輪表現 な ど にお いても や はり若 干 の共 通性が みら れ る。 ド
ゥ ルガ 1両 と いわれ る カ ラ ・ア ミ ー ル ・モ ハマド の像 頭部 、 ウ マ1㌧ ハイ ル ・ハ
ネ基重 の供養 武 人な ど'頭頂部 におけ る髪 の表現 は、Ⅴ字 形 の溝 を刻 む ことによ
り'前 頭 から後 頭 へと平 行 し て毛髪 をあ らわ し て いる。 ま た ス-リ ヤ像脇 侍 のダ
ノダ 頭部 は側 頭 へなび -毛髪 を つ- り出 し て いるが 'それ は ウ マ- マ へ- シ ュヴ
アラ像 のむ か って右 下 に いる童 子 の頭髪表 現 とま った-同 種 であ り' ダ ソダ のそ
れ が 毛髪 ではな - '被 り物 のひと つであ った と し ても ' そ の頭頂部 に何も表現 せ
ず '側 頭部 にだ け こ のような表現 をす る と いう鮎 が ひとし い。
衣紋 の判定 でき る例 は' ウ マ- マ へ- シ ュグ アラ' ス- リ ヤ'両 ガネ I シ ャ'
しかし例 えば ガ ルデ ィーズ の シヴ ァ像 と タパ ・スカ ソダ ルの マ へ- シ ュグ アラ像 とが 同種 の立飾 をも ち なが らも ' 一方が壁 面
鮎 と共通 の特 色 をも ってゆ き'そ れぞ れが かみあ って つ いに は全 例が それぞ れ かかわ りあ いをも って いる ことが わ かる (
衣)
0
く特徴 が若 干 を除 いてとぼ し いのは皆 然 であ るが ' 一方 で固像 畢 上 の共通項 にお いてそれぞ れが特 色 をも ち ' 二瓢 あ る いは≡
こ のよう に画 像 の細 部 の要素 を抽 出 し て検 討 し'各像 を比較 し てゆ - と'固像 撃 的 な とりき めも あ って、全 例 に共通 し てゆ
ヤー スラの蹄 とはま った- 同 じ表現 であ る。
と とも に'付 け て いる指も 第 五指 で同 じ であ る。 さら に ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラの ナ ンデ ィー牛 の蹄 と ガ ルデ ィーズ の マヒシ
の三叉観 を つかむ手 の第 五指、 ガ ルデ ィ ーズ のド ウルガ I の剣 を とる手 の第 五指 と に明ら か にま った- 同 じ型 式 の指輪 を み る
る。 これ らす べて の像 の衣紋 は' 毛髪 表現 と同 じ-tV字 満 をそ の基 本 と し て いる。 ま た指 輪 を は める例 は マ へ- シ ュヴ アラ
両 ド ウ ルガ- マヒ シ ャー スラ マルデ ィ ニー' ハイ ル ・ハネ と クパ ・スカ ノダ ルと の主像 を映 した墓室 ' タ ガ -オ のト ルソであ
rga紳頭撃 (
彫像資料 8)
挿 悶 8 Du
って フ ォンド キ スタ ンを はじ め とす る遺 跡 でみられ た巾 の表現 および寺 院 の年 代 が 六 五七年 を さ か のぼ る ことがむず か し いこ
とを 知 った。現 在 の知見 が およぶ かぎ り では' これ ら 一連 の寺 院 と巾 の表現 が、 と- に七世紀後 年 から 八世紀 中 葉 にかけ て行
わ れ て いた こ とは確寛 であ る。 こ のよう に観 察 し て- るならば 、巾 の表現 が み と めら れ る大 理石像も ' 上 の年 代 の係 数 造像 と
地 理的 に オ ー ヴ ア-ラ ップ し て いる以 上同時期 に平 行 し て行わ れ た とみ てさ し つかえ な い。 大 理石 ヒンド ゥー神 像 は'巾 の表
現 のほ か に、バ ー ミヤ ー ンや タパ ・サ ルダ ー ルの備像 衣紋 端 の虞 理 にも 同式 の表現 が みられ た。 同時代 にあ って'ヒ ンド ゥー神
像 は大 理石 によ って つ-られ る ひと つのグ ループ をな し、儒 教 の造像 はま った- 石材 と は絶 縁 Lt泥 をも って仕 上げ る塑像 と し
て別 のグ ループ に屠 す る。 宗教 上 の差が造像 の素 材 の差 と し て認 められ る のであ る。 し かし'宗教 的 に意 味 のな い、す なわ ち
さき に様 式観 諸 説 の項 で鑑 に指 摘 したご と- '大 理石像 を ト ウ ルキ ー ・シ ャー朝 お よび ヒンド
固像 挙 上問題 とはな りえな い巾 の表現 や衣紋 の庭 理 にお いて は両 グ ループ の問 に共 通 の要素 が存 在 し て いる ことを指摘 した い。
ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 の年代
ゥ ー ・シ ャー朝 のも のと理解 す る説 があ った。 しか し、 こ の南朝 に関 す る年 代 は かならず Lも 明確 にとら えられ て いるわ け で
はな い。 とく に ア フガ ニスタ ン国 立博物 館 は所 蔵す る大 理 石像 のう ち へ ス1 -ヤ像 を のぞ -す .'(てを ヒンド ゥー ・シ ャー朝 の
(
91)
も のと し て いる 。 こ こ ではあ ら た め て ヒンド ゥー ・シ ャー朝 の年 代 を検 討 し'事賓 大 理石像 が ヒンド ゥー教 に属 す るも のであ
りな が ら ' ヒ ンド ゥ ー ・シ ャー朝 のも のではな いことをあき ら か にした い。
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niはそ の﹃イ ンド史﹄Ta
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ndiにお いて カーブ ルの ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 の存 在 を俸 え て
ア ル ・',i
J- ルー ニー Al
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いる。 そ の記 事 は次 のとおり であ る。 「イ ンド人 たち は、 カーブ ルに住す る王 を戴 いて いる。 彼 ら は チベ ット起 源 と いわれ る
ト ル コ人 であ る。 諸 王 の始 組 はパ ル ハ ・テギ ソ Bar
hat
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gi
n と い い、 こ の地方 に到来 Lt手 と肱 とをも ってし てかろう じ て
は いれ る カーブ ルの洞窟 には い った。 (
中略) 入窟後数 日 にし て大衆 の面 前 に (
再び)あ ら われ た。前 開き の短 衣 '頂 の高 い冠帽、
長靴 へ武器 な ど ト ル コ風 衣裳 を つけ てあ らわ れ た。 こ の時大衆 は彼 を奇跡 的 な 出自 のひと とし て讃歎 し、 王 とし て定 められ た
大理石ヒンドゥー像はヒソドゥ-王朝 のも のか
東
方
畢
報
四四
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
運 命 にあ る者 と し た。 事 案 これ ら の国 々を そ の勢 力 下 に おき ' カ ーブ ルの シ ャー ヒヤ の稀 既 のも と に支 配 し た。 支 配 はそ の後
聴 者 たち に引 き つが れ 、 ほ ぼ 六〇 世 代 を か さ ね た。 (
中略)こ の種 族 の最 後 の王 は ラ ガ ・
1ウー ル マ- ソ La
ga
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n と い い'
そ の宰 相 はバ ラ モ ン教 徒 カ ラー ル Kat
t
ar であ った。 カ ラ ー ルは隠 匿 され た財 賓 を遅 よ-偶 然襲 見 し た こ と に よ り '勢 力 を得'
Anandapa
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a、 タ ロ1,,,
hヤナパ ー ラ
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p巴a であ る。 最後 の王 タ ロ-・,,Lヤナパ ー ラ
ジ ャ
そ の結 果 こ の永 漬 し た チベ ット家 系 は支 配 標 を落 し た。 宰 相 カ ラー ルは ラ ガ ー クー ル マ- ソを 掃 え ' 王 位 を纂 奪 し た。 カ ラ ー
Jai
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、 アー ナ ンダ パ ー ラ
ルの のち バ ラ モ ン教 を 信 奉 す る藩 主 が 支 配 し た。 そ れ ら の王 は サー マンド SamandT カ マルー Kamat
u' ビ ー ム Bhi
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イ パー ル
な
は四 一二年 (
キリス-紀元 一
〇二 1年)に殺 され 、 そ の息 子 'ri
JI マパ ー ラ Bh
i
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aは 五年 後 に殺 さ れ た。 こ の ヒ ンド ゥー ・シ ャ
(
92)
い 。」
∼
ー朝 は現 在 (T
〇三〇年)消 滅 し、 こ の家 系 に つ いて はも は や 一塵 の残 影 も
こ の王朝 に関 す る記 事 から 推 察 され る事 案 は 、 カ ーブ ル近 連 に お いて''
'1ラ モ ソ教 を奉 ず る ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 が - ル コ系
j
シ ャナパー ラが 一〇 二
の王朝 に と って かわ った こ と であ る。 と こ ろが ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 に関 す る年 代 はそ の最 後 の王 タ n
一年 に殺 され た こ とだ け が 判 明 し て いてそ の始 租 カ ラー ルが 何 世 紀 に普 る か 不 明 であ る。
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n 王 の在 位 中 の記 事 に, ウダ バ ー ンダ Udabh昔 daに ラ リ ヤ ・
こ の王 の年 代 決 定 に有 力 な 手 が か- を典 え る のは カ シ ュミー ル王統 史 ﹃ラ ージ ャク ラ ンギ ニー﹄ に他 な ら な い。 そ の記述 に
よ る と ' カ シ ュ,
,
,- ル の シ ャンカ ラヴ ア ル マン
る
シ ャー ヒL
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iと いう 王が堅 固 な都 城 を かまえ ' グ ル'
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hヤラ王 ア ル ハ- ナ At
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a の支 援 者 とし て存 在 し'傑 出 し
(
93
)
た 王 であ る とみえ
さ
れ
、
。 ウダ バ ー ンダ は スタイ ンに より フ ソド に比定 され 、 ま た最 近 は0 ・キ ャ ロウ によ -現 在 の フ ソド ではな
(
94)
いず れ に し ても イ ンダ ス河 西 岸 にあ - ' ア ト ツクよ り や や北 に位 置 し、 ﹃
大唐
- ' そ の付 近 のラ ホー ル過 の テペ に比定
あ
る
。
西域 記﹄ 奄 二 にみえ る烏 鐸 迦 漠 茶 城 に は かな ら な い。 スタイ ンによ る シ ャンカ ラヴ ア ル マン王在 位 年 代 は八 八 三年 か ら 九〇 二
(
95)
年で
い る 。
ア ル ・rr
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J- ルー ニー の いう ヒ
ま た シ ャ ンカ ラヴ ア ル マン王 の後 肢 者 であ る ゴ ーパ ー ラヴ ア ル マン Go
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n は' 反 抗 的 な シ ャー ヒ の王国
(
96
)
を ラ リ ヤ の息 子 1 1
7ヤー ナに輿 え ' - ラ マ- ナに カ マルカ K
a
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a と いう 名 を勝 って
ンド ゥ- ・シ ャー朝 第 三 代 の 重 力 マル ー が す な わ ち ゴ ー パ ー ラ ヴ ア ル マ ン王 時 代 の カ マ ル カ に相 普 し へ か つ ヒ ンド ゥー ・シ ャ
あ
る
9
。
した
ー朝 始 組 の カ ラー ルが シ ャ ン カ ラ ヴ ア ル マン王 時 代 に ウダ バ ー ンダ に お いて統 治 す る ラ - ヤ ・シ ャー に 相 普 す る こ と は ' 既 に
7)
(
A 。カ ニン ガ ムA.Cu
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m'Ch.シイ ボ ルト Ch.Seybo
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dtA ・ス タイ ソ A.
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n ら が考 澄 し た とお り で
が って ス タイ ン の ﹃ラ ージ ャ タ ラ ソギ ニー﹄ 諸 王 の年 代 比 定 に し た が う な ら ば ' シ ャ ン カ ラ ヴ ア ル マン治 世 の初 年 であ る 八 八
'
ハー ンダ にす で に 居 住 し て いた と み な け れ ば な ら な い。
三 年 に は ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 姶 租 ラ - ヤ ・シ ャー即 カ ラ ー ルが ウダ 、
ま た そ の息 子 であ り 、 ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 第 三 代 王 の カ マ ル カ即 カ マ ルー は 、 ス タイ ン編 年 に よ れ ば ' ゴ ー パ ー ラ ヴ ア ル マ
ン治 世 た る 九〇 二 年 か ら 九〇 四 年 ま で のあ る 時 鮎 で即 位 し て いる こ と に な る。
と
9
'
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・
カ ラ ー ル即 ラ リ ヤ ・シ ャー は 八 八 三年 以 前 に は即 位 し て いた はず であ る 。 そ の即 位 年 は い つか。 ﹃シー ス タ ー ン史 ﹄ Ta
(
8)
イ ス ラ ム紀 元 二 四 八年 す な わ ち キ - スト紀 元 八 六 一年 に サ ッフ ァ ー ル朝 S
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ds 第 二 代 ヤ ク-ブ ・イ ブ
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an に よ る
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ン エフイ スY
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qubb.Laisは ア ,
,
,- ルを シジ ス タ ー ン で軍 言 し ' そ の後 数 年 に し て キ ル マ- ソ Ki
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n の ハリジ 族 K
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' ア ル ・ル ハ-ジ Ar
・
Rukhaj の ルー J'i
Jル R
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itt さ ら に カーブ ル の シ ャ ーな ど に対 し 、 侵 略 を お こ な った 。
へラ ー I Her
jt
こ の東 方 遠 征 に際 し て 彼 は カ ソダ ハル Kandahar経 由 で南 か ら ガズ ニー に は いり 、 イ ス ラ ム紀 元 二 五 七年 す な わ ち キ - ス ト紀
元 八 七〇 年 に は カーブ ル地 方 を 完 全 に掌 握 す る こ と に成 功 し た 。 こ の占 操 が こ の地 方 に興 え た 影 響 の甚 大 であ った こ と は カー
ブ ル の大 寺 院 か ら 掠 奪 し た 偶 像 や バ 1 ,
,
,ヤ ー ンか ら う ぼ った戦 利 品 を バ グ ダ ッド の カ リ フ に磨 った な ど の記 事 か ら 察 せ ら れ '
い る 。
一般 に彼 以 前 数 波 のイ ス ラ ム化 の波 が カーブ ル地 方 を お そ った が 、 こ の時 は じ め て徹 底 的 に カーブ ル地 方 は イ ス ラ ムに よ る 打
(
99)
そ の後 、 カ ーブ ル地 方 は 弟 の ア ム ル ・イ ブ ン エフイ ス Amrb
・Lais が 統 治 し ' 八 七 九 年 に ヤ ク
撃 を う け た と いわ れ て
Logar の両 地 は 完 全 に ヒ ンド ゥー ・シ ャー のも と に か え った 。 ま た 同 じ - ア ム ル の時 、 ガ ズ ニー と ガ ルデ ィーズ の
n
garahar、
-ブ が 死 ぬ と ' ア ム ルが 即 位 し た が 、 こ の年 に ヒ ンド ゥ ー ・シ ャ ー は カ ーブ ルを 奪 還 し ' こ と に ニソ ガ ラ ハル Ni
ロー ガ ル
F
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an は サ カ ワ ンド Sakawand の偶 像 寺 院 を焼 き う ち し た。 これ に封 し て ヒ ソド ゥ ス タ ー ン
代 官 であ った フ ァ ルド ガ ソ
大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか
東
方
畢
報
の カ マル Kamat
u は大 軍 をも ってザ -ブ リ スター ン Zabul ist抑n を 攻 め た と
闇 E
い う .
四六
これ ら の資 料 によ って従 来 考 え ら れ て いた こ と は ' スタイ ン の ﹃ラ ージ ャタ ラ ソギ ニー﹄ 編年 を 信 用 す る以 上 ' シ ャ ン カ ラ
ヴ ア ル マンの時 す でに カ ラ ー ルが ウダ バ ー ンダ に居 住 し て いた こ と' 八 八 三年 に は カ ラ ー ルが す で に こ こ に いた こ とな ど であ
り 、 一方 ﹃シー スタ ー ン史 ﹄ によ れ ば 、 八 七 九年 に ヒ ンド ゥー ・シ ャーが カ ーブん や ロー ガ ルへ ジ ェラ ー ラ ーバ ード を奪 還 し
た こ と' こ の時 の ヒ ンド ゥー ・シ ャーは カ ラー ルであ る こ と' 彼 は 八 七 九年 以 前 に カ ーブ ルを放 棄 L へ ウダ バ ー ンダ に移 って
いた こ と' 八 七〇年 にお け る ヤ ク -ブ の カーブ ル占 操 のとき ' ウダ パ ンダ に移 った 可能 性 が高 いこ とな ど であ る。 そ う す る と
カ ーブ ルで ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 が は じ ま った のは 八 七〇 年 以 前 であ る。 ただ こ こ で注 意 せね ば な ら な い のは ' ﹃ジ ャ - ・ア
ル ・ヒ カ ヤ ッ-﹄ Ja
m・
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THi
ka
yat では 、 ア ム ル ・イブ ン ・ライ ス の統 治 期 間 八 七九年 から 九〇〇年 の二 二年 間 のな か に ヒ ソ
﹄
の カ マルカと同 一人 物 と考 え る と' スタイ ソに よ る ラ ージ ャタ ラ ソギ ニー編年 は崩 壊 せざ るを え な い。 す な わ ち カ
ド ゥ スタ ー ンの カ マルが存 在 し て いる こ とを備 え る鮎 であ る。 こ の カ マルが ' ア ル ・ビ ー ル- ニー の カ マル' ﹃ラ ージ ャタ ラ
ソギ ニー
マルは' 九〇〇年 ま で には 王 位 に のぼ って いた と考 え ね ば な ら な いか ら へ ス タイ ン の カ マルに常 て る年 代 す な わ ち ゴ パ ー ラヴ
ァ ル マンの在 位 期 間 は九〇 二∼ 九〇 四年 であ る はず が な い。 同 様 に カ マルが 王位 に のぼ った 上 限 は 八 七 九年 に ま でさ か のぼ ら
せ る必要 があ る。 そ れ ほ とり も な お さず ' カ マル以 前 の ヒ ソド ゥ- ・シ ャー朝 二人 の王 カ ラ ー ルと サ ー マンド を 八 七九年 以 前
に遡 ら せ る こ と でも あ る。 し か し ﹃ラ ージ ャタ ラ ソギ ニー﹄ のう ち p 第 四巻 の チ ッパ タジ ャヤ ーピ ーダ Ci
ppat
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ida の没
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a 紀 元 によ って記 され ' ラ リ ヤ ・シ ャー と同 時 代 の シ ャ ンカ ラヴ ア ル
年 以降 は ほ と ん どす べ て の王 の年 代 が ラ ウ キ カ Lau
Av
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n
tivarma
nの没年 三 五九年 す なわ ち キ - スト紀 元 八 八 三年 以前 ではあ り え な い.
マンの即 位 は前 王 アヴ ァ ソテ ィヴ ア ル マン
異 った資 料 から み る とき ' これ ら 譜 王 の年 代 に は矛 盾 が 生 ず る。 し か し ラ - ヤ ・シ ャー の年 代 は' 上 のど ち ら の年 代 観 を と る
に せよ、棄 際 の生 存 年 数 から考 え るな ら ば へ ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 の成 立 が 九 世 紀 内 にお け る事 件 であ る こ と は確賓 であ る。
さき の遺 物 から考 え ら れ た年 代 と ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 の年 代 と の間 には大 き な ギ ャ ップ が 生 じ ' 大 理 石 ヒ ンド ゥー神 像 を
東
方
学
報
玄 罪 によ る と ヒ ンド ゥー教 徒 の存 在 は 西 は迦 畢 試 国 には じ ま- ' そ れ 以 東 イ ソド全 域 にわ た って いる0 そ れ は 「天 両」 「異
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ら な い。 迦 畢 試 図 に は' ジ ャイ ナ教 徒 であ る露 形 外 道 のほ か に' 塗 灰外 道 が あ り '鰐 髄 を つなぎ あ わ せ て冠 営言 し て い る と Lt
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国 都 の南 四十 里 ほ ど に は、 シ ュヴ ェ- クー シ ュヴ アク ラ 一涯 の シヴ ァ信 徒 の探鮎 であ る看 蔽 多 伐 刺 岡 城 が存 在 し た 。 濫 波 、 那
掲 羅 局 国 にも 天 両 が あ るが ' そ のう ち いま のジ ェラー ラー'
バード付 近 を さす 那掲 羅局 図 では異道 を信ず るも のが す - な - 、 ま
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建 駄 羅 国 では かえ って正法 を 信 ず る者 がす - な - '異道 を敬 す る者 多 - '天
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方 は天 両数 十 を かぞ え '異道 はそ の教 を しら
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ズ ニーを中 心 と し た漕 短 托 閥 の記述 に は、 百両 を燈 す と いえ ども ≡賓 も 崇 敬 す る と い い、 外 道 が 多 - 、積 那 天 に宗 事 し て いた。
玄 罪 も これ ら の国 で とく に支 配 者 たちが ヒ ンド ゥー教 を信 奉 し て いた とは記 し て いな い。 し か し漕 矩 托 国 の保 にそ の摺 那 天神
に封 す る信 仰 が き わ め てあ っ- 、遠 近 宗仰 し、 上 下 砥 催 し たり 、隣 国 異俗 の君臣 僚 庶 な ど の布 施 が す こぶ る多 か った こ とが み
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方 で、 ヒ ンド ゥー教 にも 関 心が 高 か った こ とが 推 察 され る。 ガ ネ - シ ャ碑 文 にみえ る ウデ ィヤー ナ (
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の王 キ ンガ ラも そ う いう ひ と たち の l人 であ った と思 わ れ る。
ア ル ・ビ ー ル- ニーや悟 空 、慧 超 、 さら に玄 井 も 加 え て考 え ら れ る のは、 こ の地方 にお け る宗 教 のう ち t と- に ヒ ンド ゥー
教 は、慧 超 にみえ る胡 す な わ ち ア ル ・ビ ー ル- ニー にみえ る ヒ ンド ゥー人 た ち の宗教 であ る とす る のが 自 然 で、 以 上 に検 討 し
てき た 一連 の大 理 石 ヒ ンド ゥー神 像 、 と- に シ ャイ ヴ ィズ ム関 係 のも のが これ ら 被 支 配 者 側 に掃 属 す る こ と は でき よう 。 し か
しな か には 王族 にも そ の讃 仰 者 が あ ら わ れ 、次 第 に勢 をえ てき た大 衆 の宗 教 であ る ヒ ンド ゥー教 を 地 盤 と し て、 カ ラー ルのよ
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n から 六〇 世代 のち のラガ ト ゥ- ル マンに いた る ト ル コ系 の王朝
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ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 のも のに蹄 す こ とは でき な い。 そ れ ら は営 然 ヒンド ゥー ・シ ャー朝 以前 に存 在 した ト ウ ルキ ー ・シ ャー
朝 と関 係 し てく る のであ る。
突 厭 期 に おけ る ヒンド ゥー神 像
は、 ヒソド ゥ1人 を支 配す る と いうも の の、 ヒ ンド ゥー教 を信奉 す る記述 は見 あ たら な い。 ア ル ・ビー ル- ニー の いう とおり
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ィテ ィヤ王時代 す なわ ち 八世 紀 中英 に彼 に臣従 し て し かも カ シ ュミー ルの高 官 であ った シ ャー の存 在 を 記 し て
葉 と いう年 代 を考 えれば ' こ の シ ャーが ヒ ンド ゥー 。シ ャー でな いこと はた し か であ - ' カーブ ル地方 を統 治 し て いた ト ル コ
系 王朝 の王 に督 る と考 え る のは自 然 であ る。
悟 空 は天寅 〓 l
哉 英 巳 二月 二 l日す なわ ち 七 五 三年 に乾 陀 羅 閥 に到 った。 こ こは厨 賓 の東 都 城 であ り ' 王 は冬 は乾 陀 羅 園 に'
夏 は尻賓 閥 に住す る。 ま た至徳 二哉 七 五 六年 に迦 漏 禰 羅図 には いり ' 七 六〇年 ま で滞 在 したが 、 そ の際 カ ツ ュミー ルに突 厭 皇
子 の建 立 にか か る也 里特 助 寺 '突 厭 皇 后 の建 立す る可敦 寺 が存 在した。 七 六〇年 再び乾 陀 羅 園 には い った悟 空 は、 こ こ でも 特
い
る
。
勤滴 寺 ' 可敦寺 、前 者 は実 験 皇子 、後 者 は突 厭 皇 后 の建 立 にな る悌 院 の存 在 を俸 え る。 ガ ンダ ー ラから カ シ ュ-1 ルにかけ て
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慧 超 によれば 、彼 は八世紀 前牛 に カーブ ル、 ガ ンダ ー ラな ど の地方 に滞 在 した と考 え
儒 教 寺 院 が存 在 す る こ と を 示 し て
ら れ るが 、建 駄 羅 園も尻賓 園も とも にそ の王 と軍 勢 はす べて実 験 で、土人 すな わ ち被 支 配 者 は胡 で'婆 羅 門 (
教 徒 )も いた と
みえ 、 ア ル ・ビ ー ル- ニーが いう - ル コ系 王朝 が ヒ ンド ゥー人 を支 配 した事 情 に合 致 す る。 慧 超 の記 銀 にお いては' は じ め て
被 支 配者 に婆 羅 門 が いる と いう 事寛 を確 認 でき る。建 駄 羅 図 の突 蕨支 配者 は' はな はだ ≡賓 を数 倍 し、 王へ 王妃 、 王子 '首 領
る
。
はそれ ぞ れ造 寺供 養 を お こな い' ま た 王 は年 二回 の無 遮 大倉 を優 し'そ の悌 法 に封 す る蹄 俵 の心高 か った ことがう かが い知れ
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大 理石 ヒ ンド ゥー像 は ヒソド ゥ-王朝 のも のか
う に ヒ ンド ゥー教 を正面 だ って奉 じ た王朝 を建 て る ひとたちが 九世紀 にな って接 頭 し てき た のであ る。
最 後 に付 け加え てお- 必要 のあ る のは' ガ ンダ ー ラ地方 で護 見 され た エー カ ムカ 。- ソガやヴ ィ シ ュヌ両 な ど の大 理石像 の
こ と であ る。 こ の二部 は表現 の細部 にお いて、 ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ並坐像 を は じ め とす る 一連 の大 理石像 と共 通す る鮎 に
とぼ し い。 リ ンガ の粗彫部 は前述 のよう に八面 どり でし かも 磐 の入れ方 が 入念 で' ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 のよう な粗薙 な
も のではな い。 ま た髪 の虞 理 や装 身 具も ことなり 、 と- にヴ ィ シ ュヌ像 ではそれ が顕 著 であ る。明 確 に年 代 決定 す る手 が かり
はな いけれ ども 、 さき に共通鮎 を掲 げ た ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 を はじ め とす る l達 の大 理石像 より年 代が降 る雰囲 気 を感
ま
い 。
じ' おそ ら -、 ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝が ウダ バ ー ンダ に都 をう つした のち の時期 のも のであ ろう 。 これ に関 連 し て'寛 際 に筆
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五四
候.諸肇堵波。頗多額増O天殉教 百。異造雑居。 -・
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布色渇遵伐底城. -・
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城西門外O有 1天河O天像威厳O震異相胎 。
方
此建駄羅園。正北入山三日程。至鳥長図。彼自云欝 地引部。此玉
東
呼云著摩褐羅闇園。此王亦敬信三賛O有寺有借.-・
・
・
又従此建駄
羅図。西行入山七日。至覚波図。此園無王.有大首領。亦層建駄
王及兵馬突蕨。--図人大数信三賓。足寺足倫O百姓家各鴇造寺。
在厨賓.逐涼而坐.冬往建駄羅O超暖而住0 --此園土人是胡。
異俗。君臣僚庶。毎歳嘉辰。 不期而合。或資金鍍奇襲。或以羊局
暴偽悪。信求者達願O軽蔑者招狭。故遠近宗仰.上下紙催。隣国
日迦畢試閥阿路津山。徒居此図南界樗郡脚羅山中。作成作一
幅。馬
十O異造雑居。 -・
・
・
計多外道。其徒極盛O宗事稽郡天O其天神昔
--雄和百締。敬崇 三資。伽藍数百所。借徒寓飴人。--天岡数
大敬三賓.:
・
・
・
・
・
又徒鳥長閑。東北入山十五日程。至拘衛園。彼自
(
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--成虜沙城東北五十飴里至崇山。山有青石大自在天婿像。枇摩
天女也。 --山下有大自在天岡。塗灰外道式修同和。 -≡
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大唐西域記﹄巻 二 丁
漕短確固 の僕 に'
羅園所管。-・
-有寺有倍。敬 信 三質。行大乗法。又従此腰波図両
供養三賓。 -・
・
・
又従此厨賓閥。西行七日O至謝観閲。役目呼云社
馴畜o競興貢奉。倶申誠素O所以金銀布 地。羊馬漏谷。無敢凱観。
行 入山O経於八日程。室蘭賓園。此図亦是建駄屠王所管。此王夏
護羅薩他部o土人是朗。王及兵馬即是突灰。其 王.nB是鹿賀王姪兄
唯修施奉O宗事外道。克 心苦行。天神授其呪術.外道遅行多数。
治療疾病。頗蒙症愈。
。自把部落兵馬。住此於 (
於此 P)図。 不屈飴園。亦 不屈阿叔。・
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此王及首領。錐是突灰。極敬三質。足寺尼僧。行大乗法。 -K.Fi
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大 域
西 記
﹄奄l
迦畢試図の候に、
如 上 の大理石像 と 一連 の年代を普 てるが、片岩 のも のに関す る年代
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,- ル ・スマスト出土 の木彫な どがあ るO この木彫 に関 して筆者 は
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製 の ヒンド ゥー像 らし いも のがあり'また本文中 に引 用 した カシ ュ
観 をもちあわせな い。 ここでとり扱 った地域以外 にも ソヴ ィ エト中
西域記﹄巻 1迦畢読図 の僕 に'
﹃大
央 アジ アや中国新彊経書爾自治区、 アフガ ニスタン北部 でヒンド ゥ
唐
--城南四十飴 里。至寧蔽多伐刺岡城。凡地大震。山崖崩堕。周
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天同数十所O異道千鉄人.或露形或塗灰。連絡閣僚。以馬 冠
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此城界。無所動揺。--
節 を故意 に省略 した。 これも また別 の機合 にゆず る。
をま って襲表す る用意 があ る。 また この稿 では貸常や碑文 に関す る
ー像らしきも のが出土 して いる。 これら のも のに関 しては別 の機合
﹃
大唐西域記﹄巻 二濫波園 の候 に'
この城が タパ ・スカソダ ルに相常す ることは、彫像資料註 (
23)の文
献 で筆者が既 にのべた。
--伽藍十飴所。恰徒寡少。 並多習撃大乗法敵。天両数十。異道
構想 の段階 で'上野照夫'小野 山節 '山田明爾 の諸 氏から有益な
御教 示をうけた。挿固 二葉 (
地園 と神像線描) は田中重雄氏をわず
らわした。挿固3 の賓測圃掲載 に ついては樋 口隆康先生 (
京大中央
アジ ア学術調査陵長) の御配慮を いただ いた。 タパ ・スカ ンダ ル詮
掘報告公刊 にさきだ つ掲載 であ る。また'固6㌧7 はイ ンド政府考
--崇敬併法。少信異道。伽藍錐多。恰徒寡少。諸牽堵波。荒蕪
また同郡掲羅局閥 の僕 に、
甚多。-;
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杷壊。天両五所。異道首鉄人。 --
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古局 の資料 (
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る。 これらの方 々に厚く謝意を表するo
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多敬具道O少信正法。 --倫伽藍千飴所。推残荒廃。蕪漫藷
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大唐西域記﹄巻 二億駄遅図 の 候 に'
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