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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title Author(s) Citation Issue Date URL 大理石ヒンドゥー像はヒンドゥー王朝のものか 桑山, 正進 東方學報 (1972), 43: 1-54 1972-03-30 https://doi.org/10.14989/66484 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 彫像 資 料 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー 王 朝 のも の か 彫 像 資 料- 様式 観 諸 説-細部表現の検討-冠巾の表現ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝の年代-突蕨期におけるヒンドゥー神像 桑 山 正 進 l九 三四年 に自 大 理石 ス1- ヤ神 像 が カーブ ル北 邦 の ハイ ル ・ハネ峠 近傍 で茸 見 され てから ' 一九 七 1年 〓 7 月現 在 に いた るま で' 二十教 鮎 に のぼ る白大 理石彫像 が しられ る。そ のう ち 二' 三 の例 を のぞ - と'それ ら は科学 的 な車 掘 によ っ て出 土 したも のではな - '農 民 の採 集 したも のであ ったり、収 集 家 の所有 に蹄 したも のであ った- し てへ正確 な 出 土状 況 に関 す る記銀 を敏 し て いる。す なわ ち科学 的童 掘 以外 の手績 き で知見 に のぼ った例 は'遺 物 と遺 跡 と の関 係 が明瞭 でな - 、 こ の事 情 が自 大 理石像 に封 す るさ まざ ま の見解 を生 じ'神 像 の宗教 的 あ る いは社合 的 な背 景 を理解 す る場合 に難鮎 を興 え て いる。 ま た 一方 ' これ ら の彫像 に関 す る様 式観 やそれ にとも なう年 代親 も像 日渡 を綿 密 に観 察 しな いで いたず ら に比較 の対 象 を求 め て いる現状 であ る。 したが って' ここ では資 料 の再検 討 の意味 から ' まず 自大 理石像 個 々の詳 細 な観 察 を記述 す る こと から はじ )。 ス1 - ヤ Sdr ya神 像 ( 固2) l ・ア ッカ ソ J.Hac ki n とl ・カー ル JacqueCar Lは 一九 三四年 に カーブ ル Ka b u tの西 める ( 五頁の表参照 ‖ i r abad の ハイ ル ・ハネ K h air Khane h 遺 跡 を吏 掘 Lt 上層 期 の紳 両B及び紳 詞C 北 郊 一二 キ ロにあ る ワジ ラ ーバ ード W az ( 1) の問 に堆積 した土中 より こ の神 像 を登 見 した。 こ の神 像 はBまた はC の いず れ か の神 南 にま つられ て いたも のと推定 され る。 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 東 方 学 報 右 坐 俺 段 す 左 陽 太 央 上 れ 分 部 三 ( は か わ そ 下 紙 身 え 像 の 中 を ヤ 二 ) ス に 高 る で チ 四 セ さ 自 ン リ 。 、 ' 右 乗 綱 手 ね が 馬 頭 や む 左 車 た ル p は あ の に ナ を ろ ア き と し う a u r っ り 、 l 者 段 央 駁 中 で る A 。 連 種 三 定 推 大 飾 頚 二 下 が 部 頭 れ 珠 方 か 央 ね 小 け そ あ は い て に の を る 中 さ り 。 、 神 珠 大 が 味 一 連 重 飾 頚 小 肩 二 磨 今 央 ね い ほ 滅 た は て な に 中 で る さ を の き ど と も っ し 。 ' 、遷 連 神 路 饗 珠 飾 垂 太 衣 着 右 頚 れ 陽 む 上 刻 た か へ 下 左 あ で は の 陰 線 に て そ る ま ろ さ も と こ ら っ 。 、 '喫 格 連 現 表 路 理 側 大 珠 れ 単 形 方 外 み 飾 装 位 は あ で 内 て い 小 同 な え の る つ め じ さ き よ を ぎ う く と 。 '垂 判 種 路 喫 形 飾 長 常 非 二 が 像 坐 端 末 か け つ た 腹 い て 紋 衣 部 は の を 明 に ち る あ め で こ し も 。 へ '近 〇 g 二 五 脇 高 が 人 侍 ! は セ チ た 監 え さ の を る ガ ダ ソ ピ ラ ン a h i P し a と a ・ 。 、 神 に D ソ 頂 造 柄 境 形 錐 方 戟 態 付 光 頭 背 像 れ が す け で 出 は い て の た な に を さ る ち こ ど う 目 と も ょ 。 ' 横 側 頭 部 寮 栴 並 れ 前 冠 後 通 線 上 形 は で か む へ す 固 て そ の い だ に び る を よ ま こ と う っ ぐ 。 、 '形 楕 戟 連 装 形 歯 哉 線 上 並 珠 飾 立 面 異 お 左 固 が 正 か は て い だ ん た な 方 前 像 ( の を に ) ま る と こ ら っ ' 飾 形 爪 縞 二 異 徴 特 が わ 瞭 結 い て は た つ あ で な そ 巾 る の に 明 を び ま さ よ こ う ら 目 っ 。 年 賓 後 横 部 頭 け 分 下 縞 縦 垂 か 冠 で 上 示 は す む 出 た ( の 巾 び を ) ち る ボ ら こ も う し と ン リ ' 。 、 左 連 装 帯 牛 へ 固 楕 珠 飾 哉 右 績 接 が 冠 か 側 l 立 面 正 ゆ 中 た 方 い は の 出 そ で て に る き と ら し っ 。 、 ' 牛 腰 装 封 編 部 頭 後 賛 滞 一 飾 右 稀 状 す れ 冠 然 的 心 左 は ん 前 で な を に め 中 ル い ま の ざ き さ プ と ら も ー 。 '髪 連 牛 立 面 側 右 施 装 楕 裁 達 左 珠 や 形 練 が か む 配 は 固 の あ て だ た を に る し も っ 。 、遺 神 頭 部 側 彫 墓 基 小 前 か 丈 低 粗 陽 太 段 た い 下 車 馬 置 位 は で す に る の あ 中 ら 。 ' 帯 隔 候 二 平 線 刻 段 彫 上 表 部 頭 行 突 れ 輪 現 だ ん ル 馬 車 て あ 出 中 は を る の な い ナ ろ ア こ さ と り 。 ' 二 半 楕 南 帯 等 二 角 三 師 立 裁 形 面 成 端 飾 囲 正 冠 か 垂 中 は 肩 天 の に 出 巾 で お い て る を と ら 下 り し っ 。 ' 、髪 の下 方 にみ え る結 び 目 '両 脚 問 に たれ る連 珠 '像 背 面 にみえ る連 珠 の腰 帯 の上 下 にあ ら わ さ れ た衣 紋 な ど に よ って判 断 され る。 両 腕 に か かり ' 両 脚 間 にたれ る布 は衣 服 ではな - ' こ の像 の背 面 に南 端 が表 現 され る と ころ の 一俵 の布 であ る。 爾 肱 は倍 坐 し た腿 の上 にあ てが い'物 を さ さげ も つよう に表 現 され 、 手 預 に環 状 お よび 連 珠 の二種 の腕 輪 を は め るが 、 手 は敏 落 し て いる。 脚 に は連 珠 装 飾 が あ り ' おそ ら - 長靴 の装 飾 と考 え ら れ る. 太 陽 神 の相好 は タ キ シラ出 土 のヴ ィ シ ュヌ Vi 等 u 神 像 に と- に ( 2) 近 似 Lt後 述 の シヴ ァ gi va 両 頭 部 に眉 の表 現 が 顛 同 す る。脇 侍 のダ ンダ とピ ソガ ラは太 陽面 よ りも いち じ る し-小 さ - あ ら わ され 、 両 者 とも 腰 を 折 って身 を か が め' 太 陽神 を仰 ぎ み る姿 勢 を と る。 両 者 とも ま た着 衣 は同 類 で、 両 肩 を お お い、 胸 も と でと め た マソトを着 、 両 脚 間 に舌状 に垂 れ る連 珠綾 飾 のあ る衣 服 を つけ る。背 面 は ただ磨 研 され た だ け で頭髪 や衣 紋 な ど の表 現 は ま った- な い。特 色 が認 めら れ る のはダ ソダ のも つ槍 の表 現 で'槍 身 に常 る部 分 が木 葉 型 にあ ら わ され て いる こと であ る。 ま た馬 が裸 馬 でな い鮎 が 興味 ぶ か- ' ど ち ら にも 鞍 と手 綱 の表 現 が あ る。 鞍 の敷 物 の緑 飾 が ま たダ ソダ のも つ槍 身 と同 じく木 葉 状 装 飾 であ る。 下 段 は前述 のと おり丈 の低 い基 墓 とも稀 す べき 部 分 であ るが 、背 面 では太 陽 神 の のる 上 段 よ り 下 が基 墓 のよ れ ば ' Tan. jr e の ス-リヤナ- ル コイ ルSBr y a n a r k o i t ) う な観 を ロ 王し て いる。 す な わ ち側 面 から み る と こ の像 の基底 が 水 平 でな - 、後 から 前 に かけ て斜 行 し て いる のであ る。 シヴ ァ ( 3) ス- リ ヤ形 式 は地域 と時 代 と に より 決 定 され ' 早 期 の例 ( ボド ・ガヤー B.dh・gay抑) Sv ia r a ma mu r t iによ ラ マムー ルテ ィ C. は 四頭 立 て の馬 車 、 時 代 が降 って の例 では 七頭 立 て であ - 、 ま た南 イ ンド(タンジ ョー ル で は裸 足 、 ま たデ カ ン地方 でも 裸 足 であ る 一方 ' ビ ハ- ルな ど北 イ ンド の例 で は長靴 を は- 。 ま た北 イ ンド の ス1 - ヤ の表 yp' スヴ ア ルチ ャサー Su v a r c asa を ス1 - ヤが したがえ、 ア ル 現 では' ダ ソダ ' ピ ソガ ラ、 お よび そ の妻 チ ャー ヤ ー Cha ー ル Bi har ' ベ ンガ ル Be ngatに ナが 七頭 立 て の馬 を駁 Lへ さ ら に暗 黒 を弓 射 し て追 い掃 う 二人 の女 射 手 を とも な う のが最 も 一般 的 で、 ウ ッタ ル ・プ ラデ シ ュ Ut t a rPrade shP ラージ ャスタ ー ン RaJ a ' s t h an'グ ジ ャラ ー ト GuJ ' ar at tオ リ ッサOr i s sat 'ri ニ みら れ る とす る。 ダ ソダ ' ピ ソガ ラ の妻 たち は タ ミ ー ル地方 を のぞ - 全 イ ンド の地 であ ら わ れ て いる。 ま た ラ オ T.A.Go p i ・ ( 4) ロ athaRaoによ る と ' 彼も 南 イ ンド と北 イ ンド と の二 つのグ ループ を認 め'南 イ ンド では'手 を肩 の高 さ ま で畢げ '牛 関 の蓮 大理石ヒンドゥー像はヒンドゥー王朝 のも のか 東 光背 断 片 ら な い。 臼 方 畢 報 ・三 セ ンチ'左 足 の長 さ 一 一 ・七 り され 'それ に爪 形 の刻 線 が表 現 され て いる鮎 が と- に注 目 に値 す る。 イ ンド におけ る ス- リ ヤがそ の南 北 を問 わず 光背 をも ( 8) つと いう ラオ の記述 と ス- リ ヤ像 の柄 とを考 え あ わ せ てへ こ の光背 が ス- リ ヤ像 のも のであ った と推定 す る ことも でき るが ' ( 7) ハイ ル ・ハネ遺 跡 の神 岡A、BtC の前 方 に ひろが る廉 い空 間 で出 土 したが'大 き さ は不明 であ る 。巾 が浮 彫 シ ャー ナ族 に関 係 した彫像 や貨幣 にみられ t と- に パイ ク- ヴ ァ 出 土 の基董 浮 彫 の男 子像 にあ ら わ れ る鮎 、 地 理的 ( 6) に近 接 したも のと し て興味 深 い。 こ の日大 理石像 が ど の神格 をあ らわ したも のか は' こ のよう な残 映 だ け から はま った -わ か P a i t a v a 分 で示 され る膝 以 上 の部 分 には縦 の曲線 が刻 まれ 'ズ ボ ンが こ こ でふ- ら ん で いる ことを表 わ し て いる。 こ のよう な服割 は ク ′ も のと は異な った形式 であ る。 脚 は膝 以 下 を横 と縦 の刻線 でかざ り'長靴 を は- ことを 示す が '衣 の裾 と長靴 上端 と の狭 い部 た帯 も し て いる。左 手 は長剣 の把 頭 にお かれ て いる。頚 飾 は 二種 で' ひと つは ス- リ ヤと同 じ形 式 の連 珠 で'他 は ス- リ ヤ の はな い。裾 に連 珠 の縁 ど- のあ る長 衣 は ス1 -ヤ像 一姫 と同 じ形 式 で、 腰帯 も つけ て いる。 これ と は別 に長剣 と刀子 とを つけ いる。 頭部 は量感 があ -' 頭髪 は長 - 、中 央 を境 に左 右 に分 け られ 、生 え際 は小 さ い波状 をな し' 一本 の帯 を奄 -。帯 に装 飾 こ の武 人像 は左 腕 と右 脚 とを鉄 損 し、 右腕 は肱 から 先 が前 方 へさ し出 され た形 を示す よう にみら れ るが' そ の部 分 が鉄 損 し て 基童 の上 に今 はな い像 の両 足 と' そ のむ か って右 に園 柱状 のも のにより'中 心 の像 を みあげ て立 つ個 剣 の武 人像 を配す る。 セ ンチ。雨 足 の症 の間隔 三 二 ハセ ンチ。供 養 武 人像 の高 さ 二 一セ ンチであ る。 0 セ ンチ の長方 形 で'像 の右 足 の長 さ 二 き さ は、長 さ 三七 セ ンチ、幅 二 二セ ンチ、高 さ 1 た。前 者 は紳 両A の奥 壁 に設 けら れ た基 壇 西北 隅 のデ ブ リ中 で、後 者 は基 壇 に原 位置 を保 って'そ れ ぞ れ 出 土 した。基 童 の大 でに達 す る。脚 も 足も 裸 ではな い。 ま た両 地 に共通 す る特 徴 は' キ リ ー タ Ki r i t a とそ の背 後 の囲 光 の存 在 であ る。 ( 5) 像 基董 ( 固3上) ハイ ル ・ハネ遺 跡 上原 期 の紳 詞A で出 土 した。 供 養 武 人像 と足 だ け残 し た基 華 と は別 々の地鮎 で出 土 し ⇔ 華 を両 手 にも ち、脚も 足も 裸 であ る。 北 イ ンド では' 手 は背 部 ま でたらす か'肱 ま で挙 げ る か で'全 開 の蓮 華 が肩 の レベ ルま 四 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか c m ○あ り, ?不明,/な し,高 : 彫 像資料一覧 表 五 東 方 学 報 ウ ー ルド ゥヴ ァ レー ク ス ・ガ ネ - シ ャ Or d h v a r e t as gaDeh 立像 (園6) ガ ルデ ィーズ Gardi z付 近 で 一九 五 六年 頃 護 見 あ V i S Du・ ウ ー ルド ゥヴ ア レ - タ ス ・ガ ネ - シ ャ立像 ( 固7) カ ーブ ル近 郊 の サカ ル ・ダ ルS a ka rDh a r(カIブルよ- l五キロ)で 一九 (ザ ー ル ShorBaz ar にあ る ヒ ンド ゥー寺 院 で いまも 信 仰 され て いる。 五 六年 頃 尊 兄 され たも の で' カ ーブ ル市 内 の シ ョル ・' ( n) 一九 六 八年 に アグ ラ ワ ラに よ って襲 表 され た資 料 だ が ' サ カ ル ・ダ ルに お け る正 確 な 出 土状 況 に つ いては何 も わ か って い な い 。 飼 に よ る銘 文 の陰 刻 が あ る こと で、 こ の像 を奉 献 し た 王名 と期 日 と が よ み とら れ る。 これ に つ いては後 述 す る ( 二六貢参照 )0 の例 と は重 要 で ガネ - シ ャのほ か に こ の種 の ウ ー ルド ゥヴ ア レー ク ス ・ガ ネ - シ ャの例 は時 代 の早 い例 に とぼ し- 、 そ の意 味 から こ の例 と次 1 . ) ( o る 。 こ のガ ネ - シ ャ像 に は さ ら に重 要 な こ と に は基 童 正 面 の磨 研 部 分 に 二行 にわ た る鋭 角 ブ ラー フ ミ-文 字 え て鼓 腹 の下 方 に は エレク ト ・リ ンガが みえ る。 ウダ ヤギ - Ud a y a g i r i(M adya Pra d e s h )石 窟 第 六洞 の門 口にあ ら わ さ れ た dhar mo t t a r a が とく に言 及 し て いる四管 のヴ ィナ- ヤ カ Vina yakaの特 徴 によ- 合致 した表 現 と いわ ねば な ら な い。 これ に加 y a gaa j a6pavi t a であ る0 腰 の虎 皮 の表 現 と とも に ヴ ィ シ ュヌダ ル モー ツタ ラ て いる聖 紐 は ナ- ガ' す な わ ち これ は n が'いま は左 右 の前 腕 二暦 を残 す にす ぎ な い。し か し肱 から 先 が鉄 損 し て いる の で'持 物 は 不 明 であ る。左 肩 から 右 脇 へと か け そ の上 に立 ち あ が った細 いも のが あ ら わ され て いる。 肩 のう しろ にあ る 一封 のも のは おそ ら -象 の耳 であ る。 腕 はも と 四背 だ し 三面 立飾 の上部 を 大 き -鉄 損 し て平 頂 の観 を興 え る。 正 面 の幅 の贋 い牛 戟 楕 固 形 の立飾 に は' 細 いク レ ッセ ソーが み ら れ ' は床 上 に出 て いる部 分 の高 さ だ け と考 え ら れ る。 七 一セ ンチ で' 幅 は約 三 五 セ ンチ であ る。 ガネ - シ ャは賓 冠 を つけ る。 し か 董 は いま粗 彫 部 分 を こ の寺 院 の床 にう ず め こん で固 定 し てあ る の で正 確 な 線 高 は不 明 であ る。 し た が って アグ ラ ワ ラ の計 測 値 h Dar gah に お いて信 仰 封 象 にな って いる。 G ・- タ ッチ G.T u cciが l九 五八年 に簡 単 に報 告 し' 一 ルガ p-. rRat hanNat ( 9 ) 九 六八年 にR ・C ・アグ ラ ワ ラ R.C. Ag r a waL a が 再 び と り あ げ た。像 は基 童 の上 に ガ ネ - シ ャを彫 り 出 し た丸 彫 の像 で' 基 され たも の で' 正確 な 出 土 地鮎 や 出 土状 態 に関 し ては ま った- 不 明 であ る。 現 在 カーブ ル市 内 のピ ー ル ・ラ タ ン ・ナ1 - ・ダ 輯 そ の場 合 の難 鮎 は ス- リ ヤ像 の巾 の表 現 と光 背 に みえ る巾 の表 現 とを どう 解 樺 しう る か と いう こと であ る。 六 全 鮭 に かな り磨 滅 の進 ん だ像 であ るが ' 頭 部 に は 三両 立飾 のあ る賛 冠 を おそ ら - つけ て いた と考 え ら れ る。 四層 が み と めら れ 、右 前 層 は答 の蓮 垂 をも つ手 、左 前 管 は肱 から 先 を敏 損 Lt 爾 後 層 は ま っす ぐ 伸 し て ガ ネ - シ ャの両 脇 に立 つ丈 の低 い従 者 a g a y a j A 6pavita、鼓腹 の下方 には裳 を つき あげ た エレクト ・リ ン の頭 上 に手 を お いて いる。 ナ- ガ ヤ ジ ュ ニ ョ- バ グ ィ- タn ガ、 裳 は虎 皮 ( 虎頭は左大腿上にみえる)な ど鱒 の ガ ルデ ィーズ 出 土 のガネ - シ ャ像 と ま った -圃 像 上 は等 し- 同 類 であ る。 従 者 は何 をあ ら わ し た か 不詳 だ が ' 頭髪 は大 き い巻 き 毛 から 成 り 、 童 子 形 であ る。 基 童 は正 面 上部 にご - 狭 い l帯 を残 す 他 は粗 彫 り のま ま であ る。 ラオ によれば 四膏 のガ ネ - シ ャはバ ー ラ ・ガ ナパ テ ィ Bat a G aa DP at iと' ' (ク テ ィ 。ヴ ィグ ネ - シ ュヴ ァラ 2 1 ) ( 虎 皮 と エ レク ト ・- ソガと ナ - ガ聖紐 の組 合 せ のあ る ガネ - シ ャの例 はな い. ま た B h a k t i ・ Vi ghnegvaa r と であ る と いう が ' イ ンド 本 土 のガ ネ - シ ャと時 代 地域 を問 わず 比 較 した場 合 ' ガ ルデ ィーズ のガネ - シ ャのよう な鼻 が短 か- 内 へ巻 き こん だ 例 ド ウ ルガ- ・マヒ シ ャー スラ マルデ ィ ニー Dur ga M a h i S as u r a mardi ni像 ( 固9) いわ ゆ る "S c o r r e t t imar bt e" と よば はな - ' サ カ ル ・ダ ルの ガネ - シ ャのよう に鼻 先 に何 も 持 たず か つ短 い鼻 の例 にも と ぼ し い。 銅 ウ ルガ I が マ れ る像 で、 カ ーブ ル周連 で出 土 した と いわ れ るだ け で正 確 な 出 土 地す ら 不明 であ る。 長 さ 三 四 セ ンチ' 残 高 二 七 セ ンチ であ る。 ( 13) c h t u mb e r g e r が l九 五 五年 に は じ め て襲 表 し た フ ェルナ ソド ・ス コレ ッテ ィ所 蔵 品 。 水 牛 の上 にド ウ シ ュラ ン' ' (ルジ ェ D.S ルガ-女神 が右 脚 を か け、 マヒ シ ャー スラ の 口元 に手 を か け ' マヒ シ ャー スラ の首 を 上 にむ か せ て いる像 で' ド ヒ シ ャー スラを退 治 す る場面 であ る。 ド ウ ルガ Iは マヒ シ ャー スラ のむ こう 側 から ま たが った恰 好 で、 こ の像 の背 面 に ド ウ ル ガ I の腎 部 と左 脚 があ ら わ され た丸彫 であ る。 マヒ シ ャー スラ の四脚 は ほ と ん ど敏 損 Lt 屈 し た右 前 脚 のみ蹄 が残 って いる が' そ の鮭 躯 の表 現 は充寛 し て いる。 充寛 感 はド ウ ルガ I の肉 づ け にも みら れ る。 ド ウ ルガ -は マヒ シ ャー スラ の 口元 に か け た右 手 と腰 以 下 の部 分 を残 す が 、 左 足 お よび 膝 を屈 し た と考 え ら れ る右 脚 の大 部 分 は とも に散 伏 し て しま って いる。 マヒ シ ャー ス ラ の腰 の手 前 上 には ド ウ ルガ I のさ し こん だ 三 又戟 が若 干残 り、 腰 のう しろ側 に は尾 毛 が弓 な り に浮 彫 り され て いる。 ド ウ ル 七 ガ - の右 手 首 に は連 珠 を ふ- め た幅 廉 い腕 輪 が み え 、 第 五指 に は指 輪 を は め て いる。 左 脚 に は裳 の槽 が陽 刻 され ' 背 部 や左 腰 大理石ヒンドゥー像はヒンドゥー王朝 のも のか て いる。 東 方 軍 報 のう しろ側 から ド ウ ルガ Iが片 柳 を属 し てま たがり ' マヒ シ ャー スラ の腰 に三 叉観 を つき 立 てる と いう 形 式 であ る鮎 が 一致 し たド ウ ルガ- の右 脚 の衣紋 は放物 線 を並 べた陰 刻 で形 式 的 に整 理 され て いる。 こ の像 も 銅 の像 も 前 脚 を屈 した マヒシ ャー スラ 腕 輪 のう ち ' マヒ シ ャー スラ の頭 を さ さえ る左 腕 と剣 を にぎ る右 腕 と は花 紋 のあ る幅廉 いも ので、 他 の腕 のも のと異な る。 ま 二叉観 の中 央 の身 は木 葉 型 であ る。 ド ウ ルガI の か ん で いる。 そ の蹄 の つく り方 ' 三叉戟 ' ド ウ ルガI の腕 輪 に特 色 があ る。 一 髪 は かき あげ たよう な よ-整 理 され たも のだ が'耳 のう しろ側 で肩 ま でかか る垂髪 とな って いる。 マヒ シ ャー スラも 短 剣 を つ 像 の左 上 にま っす ぐ のび た右管 のひと つは マヒ シ ャー スラ の腰 に打 ち こんだ 三叉戟 を握 ったも のであ る。 マヒ シ ャー スラ の頭 う ち 一層 は何 も も たず ' 二膏 は持 つが '持物 は不明 であ る。右 層 のう ち尾 を つまむも の以外 は軟 損 し て いる。 しか しおそ ら - 手 に握 った剣 をそ の頭 にさ し 'ま さ に切 - とら ん と し て いる。 ま た右 管 のひと つは マヒ シ ャー スラ の尾 を つまむ。 他 の左 管 の ー スラ の背 に右 足 を ふまえ ' 水牛 頭 を切 り落 され て上牛 身 をあ ら わ した マヒ シ ャー スラ の首 を左前 膚 で後 頭部 から お さえ '右 むこう側)から右 脚 を まげ て' マヒ シ ャ マヒ シ ャー スラとを 一成 に丸彫 したも のであ る。 ド ウ ルガ -は マヒ シ ャー スラ の背 後 ( ズ 出 土 と いう が'そ の正 確 な出 土 地 は不明 であ る。残 高 六〇 セ ンチほ ど で'基 墓 の上 に八層 のド ウ ルガ Iとそ れ に退 治 され る mad Al iM o t a mediによれば ' ガ ルデ ィー れ 以前 に護 見 され て いた こと は確 か であ る。 同博物 館 長A ・A ・モタ メデ ィ Ah ) 掴 ド ウ ルガ- ・マヒシ ャー スラ マルデ ィ ニー像 ( 挿固1 こ の像 に つ いて欧 に婆 表 され た論者 をき かな いがへ 寓 異 はM ・タ ( ;) デ イ M .Tadde iが l九 七〇 年 に公表 し、筆 者 は 1九 六五年 に既 に ア フガ ニスタ ン閥 立博 物 館 で観 察 した ことがあ る ので'そ 識 のな さを示 し て いる。 r at au r o k t on o s の表 現 であ ると した のは'彼 の ヒ ンド ゥー固 像 撃 に関 す る常 ン世界 でみられ る , , ,ト ラ ・タ ウ ロクト ノ ス M i t h の刻線 を複数 入れ て いる。 こ の像 の紹 介者 が係 数 像 でな いこと に気 づ き な がらも そ の国儀 上 の解 樺 に苦 しみ' グ レ コ ・ロー マ に は腰 帯 ( ?)の末 端 の表 現 があ る。 マヒ シ ャー スラ の蹄 は中 央 に 一本 の刻線 を 入れ る こと によ って二分 し、蹄 と脚 と の境 は縦 八 大 理 石 ヒ /ド クー像 は ヒ ンド ゥー王朝のも のか 挿 国 1 Dur g云Mahi s As u r ama r di ni像 ( 彫像資料 7) ㈹ ド ウ ルガ- ( ?)紳 頭部 ( 閏5) ラー グ マ ン地 方 の 村 カ ラ ・ア ミー ル ・モ ハマド の遺 跡 にお いて 一九 六〇年 に表 面 ( 15) 採 集 され た。高 さ 六 セ ンチであ る。も と も と大き な像 の頭部 であ った こと は頭 が や や右 むき に彫 られ た ことを 示す割戟 面 があ る ことよ り知 られ る。後 頭部 は粗彫 り のま ま で表現 され る ことがな -'像 が 丸彫 でな か った ことを示 し て いる。磨 滅 が みられ るが' 三眼 をも ち ' ≡面 立飾 の あ る冠鞘 を つけ る。 正面 の立飾 は フォ ン ド キ スタ ソ厳 寺 壁書 菩 薩 の天 冠 のそれ に 類 似 Lt中 心 に重 圏 があ り' そ こから植 物 の葉 のよう な装 飾 が でて いる形 であ る。 左右 の立節 は同 類 で'連 珠 を組 み合わ せ た固 形 であ る。右 側 頭部 は' こ の頭部 が や や右 むき であ るた め にそ こに花飾 ら し い装 飾 をあ らわ し て いるが'磨 滅 し て明 確 でな い。 冠帯 の下 '耳 のう しろ では波 九 東 方 学 報 状 に髪 がなび - さ まをあ らわす 。 頭 頂 部 の髪 の表現 は細 い線 を多数 平 行 に刻 んだも ので入念 であ る。 こ のよう にあ ら わ され た 髪 が後 頭部 で束 ねら れ て いる こと は 一本 の隆起 線 によ ってあ き ら か に知 られ る。 こ の頭 部 が ド ウ ルガ - であ る かどう かは にわ か に決定 しが た い。 第 三 の眼 をも ち 、牽 冠 の形式 が こ の日大 理石像 グ ループ のな か では女性 形 に層 す る ことな ど により へ シ ヴ ァ神 の神 妃 であ る こと は考 え られ よう 。 し た が ってあ る いは ド ウ ルガ- であ るかも しれ な い。 こ の像 の登表 者K ・フ ィ ッシ ャ s c h e r は'関 のド ウ ルガ-像 の頭 部 ではな いか と考 え て いる。 ー K. Fi 囲 シヴ ァ gi va紳 頭 部 ( 圏4) シ ュラ ンベ ルジ ェに よ って 一九 五五年 には じ め て婆 表 され た資 料 であ るが' ガ ルデ ィーズ 出 ( 16) 土 とだ け憶 え られ 'そ の他 の詳 細 は不明 であ る。高 さ 二八 セ ンチで、現 存 の自大 理 石像 の頭 部 と し てはも っとも 大 き い。 三面 立飾 の牽 冠 を つけ'第 三 の眼 をも ち '顔 は顎 が や や とが- '全 鰹 に細 い華 奪 な表現 であ る。 非 常 に磨 滅 が多 - t と- にそ れ は む か って右 側面 にお いてはな はだ し- 、 こ の側 面 が長 - 土中 から 露 出 し て いた と考 え られ る。髪 は賓 冠 の下部 の前 額 部 で左 右 封 稀 に虞 理 され てお-、巻 き 毛 とな って いるが'そ の各 々に こま か い線 を 入れ て毛髪 を表 現 し て いる。寮 冠 の右 立節 は後 側 に 縁遠 の連 珠飾 が若 干残 って いるだ け だ が、 正面 立節 は牛 裁 楕固 形 を星 Lt縁遠 に連 珠装飾 を まわ し'中 央 下底 に ク レ ッセ ント h g a を た て、 - ソガ上部 と ク レ ッセ ソト両端 とを紐 で連 絡 し飾 って いる。 冠帯 は方 形 と園 形 を交 を配 し' そ の上 に - ソガ Li 互 に配 し'そ の間 を 二列 の連 珠 帯 で つな いで いる。賛 冠 にか こまれ た頭髪 部 は'頭 頂 部 と とも に破 損 し て いるら し- ' ま た破 損 の のち磨 滅 し て いる。 こ の像 の相好 でと- に注意 を ひ- のは鼻 梁 から左右 に出 た眉 で'そ れ は囲 弧 の形 を とらず ' 限 尻 の上 方 ま ではほ とん ど直 線 をも ってあ らわ され ' そ こから や や弧 をな し て いる。 H の ス1 - ヤ像 の相 好 と とも に タキ シラ出 土 のヴ ィシ ュヌ Vi S Du 像 に共 通鮎 を み る。 毎 ド - テ ィー Dhof iを つけ た ト ルソ ( 固10) 高 さ 六 五 セ ンチで' タガ- オ T a gao 出 土 とされ ' シ ュラ ンベ ルジ ェによ って ( Ⅳ) l九 五 五年 に はじ め て登 表 され たも のであ る. 頭部 、腕 '脚 下部 を軟 損 Lt全 鰹 に磨 滅 がす す ん で いるが '背 面 にお いて腰 に 裳 を つけ たさ まが浅 -表 現 され て いる。 ま た頭部 と とも に後 肩 ま で剥 落 のあ とが みえ る のはおそ ら - 垂髪 か頭飾 かが そ の部 分 ま で表現 され て いた ことを示す のであ ろう。 腕 は つけ根 から 折損 し て いる が、も と は八背 であ った と考 え られ る。裳 の衣紋 は ( 18) a g e n sが l九 六四年 に聾表 した。 残 高 二〇 七ソ 像 基童 ( 闘3下) タパ ・スカ ソダ ル出 土 と俸 えられ t B ・ダ ジ ャン B.D Ⅴ字幕 を刻 ん で表 現 され て いる。 臼 チ'奥行 一八 七 ソチ'長 さ五〇 センチであ る。基底 部 は不整 形 で、 それ に つづ - 約 三分 の二 の部 分 は粗 彫 り のま ま であ るが' 上部 三分 の lは帯状 に若 干彫 - こみ、磨 研 し て いる。 こ の磨 研 部分 の中 央 に女性 形 上牛 身 が浮 彫 であ らわ され て いる。連 珠 頚 飾 を つけ '両腕 を さ さえ るよう に上方 へひろげ '衣 は左 上腕 にかか るも のと腹 部 を お おうも のとがあ る が' おそ ら - ひと つづ き の衣 であ ろう。 衣紋 はや はりⅤ字 清 を刻 む ことを基 本 とす る。 右 上腕 に表現 され たも の の意 味 は不明 であ る。 こ の年 身像 る0 物 館戒 で出 土 地 不明 の ブ ラ フ マI Br a h ma 立像 の ス ルタ ン ・マー ス- ド Ghazni ガ ズ ニー 一一 小 さ い蓮 坐 の上 に立ち'そ の足も と に左 右 各 三 の小 立像 ' ち ょう ど両腕 の両 Sul t an Masdd 三世 の宮 殿 の贋 間 北隅 から 八断 片 にわ かれ て出 土 した'胴腔 ( 21 ) を軟 損す る立像 であ る。総 高 九 八 セ ンチ。 中 央 には三顧 をも つブ ラ フ マtが J j I 比較 し て' これ を俳 教関係 の遺 物 にした いよう であ る。 基 ダ ジ ャンは ペ シ ャー ワ ルP e s h a war博物館 蔵 で サ ー - ・バ ー ロ ー ル ( 19) Ba h 1 6 4出 土 の供養者像 (べシャーワル博物館 l四二七番)基童 や ラ ホー ル博 ( 孤) 墓 ラ ( ホ ール 博物館七七七番)に浮 彫 され た像 ( 挿固2)と 側 のも のは不明 であ るが'左 側 のも のは動物 の蹄 とも 衣 紋 の末 端 とも みられ た ことがわ かる。 基董 上面 の両 端 にも彫 刻 のあ とが残 って いる。 む か って右 って いるが 、ち ょう どそ の雨掌 に普 たる位置 に基董 上 に立 つ主像 の足 があ っ の頭部 だ け は基童 の上面 に丸彫 と し て表現 され て いた ので いま は軟 落 し てしま って いる。 両腕 は左右 に ひろげ て支 え る形 を と 大 理 石 ヒ ソド クー像 は ヒ ソド クー王朝 のも の か S a h r i 挿 固 2 坐俳 台座 浮彫 ( Lahor e 博物館,片岩) 東 方 学 報 側 に結伽 した像 各 1を配 し'左 右 の顔 前 に持 物 をも つ坐像 各 1があ る。全 鰹 は大 き い長方 形 の石板 から彫 り出 され て いる。 そ の上部 は牛固 形 の光 背 を彫 る。 光 背 の経 過 は陰 刻 の花 紋 、中 心 はブ ラ フ マI の襲 撃 のう しろ に普 り、 そ こは復活 の蓮 華 を透 彫 に し て いる。 ブ ラ フ マI の襲 撃 は非 常 に丈 が高 -、顔 面 の二倍 以 上 の高 さ であ るが'中 央 の相 好 は磨 滅 し て いる。 左 右 の相 好 の牽 鷲 は組 み紐 のよう に高 -結 いあげ '左 右 封稀 に つ- る。各 々の編 紐 には さら に こま か-毛 髪 の表現 があ る。 ブ ラ フ マI の 頚飾 '腕飾 '脚 の左右 に残 る衣紋 の表現 、光 背 や量 産 の つ- り方 な ど以 上 に の. ,(た 一群 の大 理石像 と は はな はだ し い差 異 が認 S c e r r a t o は次 の観 鮎 から考 え て ガズ ナ朝 のイ ンド征 略 の折、 ガズ ニーにイ ンド められ る。 こ の像 の費 掘 者U ・セ ッラー I U. a rista に よれば ' ガズ ナ朝 の ス からも たら され た像 であ ると み た。 セ ッラート の根 嬢 は次 のと おり であ る。‖ フ ァリ シ ュタF o Ar a s u ' ) F a l a qM s q ue mnat h の像 を破 壊 し ても ち締 り ' ア ルー ス ル・フ ァラ ク・モ スク ルタ ン ・マ- ムード は ソ ムナ1 - So biによれば ' マ- ムードが ソ ムナ1 -割 歴 紀念 に建 設 した前述 の モ スクに'戦 利 品 の入 口を造 る のに用 いた。⇔ ウ -ビ ー Ut と し てイ ンド から運 ば れ た諸 像 から 金 を と って これ を用 いた。臼 こ の像 の磨 滅 は偶 像 忌 避 の結 果 ではな - ' こ の上を賓 際 に歩 ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ Uma ma h e か v a r a 並 坐像 (固1、挿固3) た 。 基 童 の上 に ナ ソ ハイ ル ・ ハネ 遺 - こと によ って徐 々にす -き れ たも のであ る。 こ の像 形 式 が ' アジ ュメー ルで出 土 し、 ラ ージ ュプ ク ー ナ博物 館 にあ る ス- リ ( 22) ヤ像 と同 額 であ る と観 察 して'筆 者 も セ ッラ1 - の説 を安 菅 とす る。 3E し タパ ・スカ ソダ ル ( カーブル市北方約三〇キロ' ( 23) 跡の北方約 l八キロ)の下層期 の大 テ ラ ス上 に て出 土。 l九 七〇 年 秋 京 都 大挙 中 央 アジ ア学 術 調 査 除 が賛 掘 ーN a ndi牛 に牛蜘 して坐 す 単 面 ≡限 四層 の シヴ ァとそ の左 によ り そう 紳 妃 パー ルヴ ア テ ィと パー ルヴ アテ ィの裳 裾 にと ディ り ついた スカ ソダ Skandaを 一成 彫 出 した坐像 であ って、大 理石諸 像 のう ち軟 損 す る部分 も き わ め てす - な - 'も っとも 整 っ 〝 こ の銘 文 帯 より下 は粗彫 り のま まを残 し' 基 鋭角 ブ ラ フミ-文 字 ″ の刻銘 があ り' さら に こ の像 の重 要 性 を ま し て いる。 銘 文 には後述 のご と- マ へ- シ ュヴ アラ た像 であ る。 基 董 正面 に幅 ( 高さ)平 均 五 ・八 センチ' 長 さ 四 三 センチ の磨 研 部 があ -' そ こに三行 八四字 ( 句読鮎をも含む)か ら成 る Ma h e g v a r a と し て シヴ ァの名 が みえ る ので'紳 妃 は ウ マI Uma の名 を と る。 底 は不整 形 。基底 から マ へ- シ ュヴ アラ の頭頂 ま で の高 さ'す なわ ち こ の像 の総 高 は八 一 ・五 セ ンチであ る。像全 鮭 は日 の ス - リ ヤ像 や輯 ' 飼 のガネ - シ ャ像 と同様 と- に正面観 を重 ん じ、 も っとも厚 み のあ る部分 で' 奥 行 はわず か l八 センチであ -、 全 鮭 に薄 い観 を輿 え る。 ナ ンデ ィー牛 の表 現 は' 正面観 にお いてはむ か って左 にみえ る頭部 と蹄 とが みえ るだ け であ る が へ 背 面 では癌 を はじ め鰹 全鰹 が浅 い浮 彫 であ らわ され て いる。 蹄 は中 央 で二分 Lt 足首 に こま か い刻線 を 入れ て毛 を表現 しょう と し て いる。 ま た シヴ ァと同 じ- ナ ンデ ィー牛も 第 三 の眼 を眉間額中 央 に開 いて いる。 預 には花 の垂飾 を つけ る。 ナ ンデ ィー牛 の上 に マ へ- シ ュグ アラは左 脚 を折 - ' 牛 伽 の姿 勢 で坐 す。 連 珠 頚飾 ' 聖紐 ya j n 6 p a v itat ド - テ ィー dho巾iの 他 は裸 で' ド - テ ィーに は腰帯 を まわ しへ そ の腰帯 の中 心 にド - テ ィー の槽 が集 約 し て' そ こに エレクト ・- ソガが ド - チ ィー の下 から つき あげ た勢 を示 し て いる。 衣紋 は非常 に整 理 され 、形 式的 で、Ⅴ字 型 にき り こんだ韓 をも ってそ の表 現 の基 本 と し て いる。 マ へ- シ ュヴ アラ上牛身 の肉 づ け は充宜 し'廉 い肩 から 腰 に いた る重 厚 な モデ - ング により、 上牛 身 は見 事 な逆 三角 形 を み せて いる。右 の二層 のう ち前唇 は肱 を まげ て畢 手 のポ ーズ を とるが '手首 から先 が鉄 損 す る。後 背 はま っす ぐ のび て指 を内 へ曲げ '右 膝 にあ て て いる 。 こ のよう な石膏 の表 現 に射 し て左層 は不自 然 であ る 。 そ れ はよりそう ウ マIによ って規 制 され て いる とも考 え られ る。 前腎 は極端 に短 - ' 肩 からす ぐ に手 首 にな り' 掌 を下 にむ け' ウ マ- の右 肩 にお-形 とな っ て いる。指 は第 一指 と第 二指 を碗 す る。 後 背 は正面 から はみえず ' ウ マ- の頭 頂 のむ こう側 ( うしろ側)から 三叉戟 の身 が や っ と のぞ いて'そ こに後 背 が あ ることが 知られ る のであ る。 しか し背 面 には明瞭 に腕 が あ らわ され て いる。 三叉観 の柄 はち ょう ど ウ マI の背 後 にあ る と いう意味 で正面 から は見 えな いが '背 面 にも そ れ ら し い浮 彫 は見営 らな い。 三叉戟 の身 を マ へ- シ ュ ヴ アラはそ の指 問 にはさ ん で いる のであ る。 こ のよう な 三叉戟 の表現 法 は こ の像 に特徴 的 であ り'自飴 の例 を筆 者 は寡 聞 に し て知らな い。 ま た三叉戟 自 身 の形式 にも特 色が あ り' 三 つの身 のう ち中 央 の身 は木 葉型 をな し' 左右 の身 はそ の木葉 型 根 元 か ら分 枝 したよう にあ らわ され る。 マ へ- シ ュヴ アラ頭部 は丈 の高 いほぼ 五角 形 を皇す る寒害 部 とそれ とほぼ 同 じ高 さ の顧 両 部 と にわ かれ る。 顔 面部 は楕囲 形 を牛 蔵 した形 で' 院 が ほ とん どな -丸 -' 頚 も ほ とん どな いと い ってよ いが 三遷 はあ る。 鼻 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 東 方 学 報 1 0 挿 囲 3 Ma he 畠 va r a頭部糞測囲 ( 彫像資料1 3 ,部分) 一四 は短 小 で' そ の つけ根 あ たり から細 い隆起 線 によ る眉 が は じまり 、 ゆ る い囲 弧 をえが いて終 る。耳 は大 き - '顔 の側 面 の長 さ に ひと し いほ ど であ る。耳 采 を楕 固 形 に長 -到 り ぬき '両 耳 とも 同 じ位 置 に 小 さ い耳飾 が 表現 され て いる。 おそ ら - こ の像 が ま つられ て いた段 階 では' こ のよう な 長 い空白 は金属 製 耳節 でかざ ら れ て いた と推定 す る。牽 肇 にまわ した冠 は革 面賓 冠 で' 正面 に立飾 が あ るだ け であ る。 立飾 は銅 のガ ルデ ィーズ の シヴ ァ神 のそれ と同式 で'牛 固 形 で' 連 珠 の緑 かざ り を つけ、 そ の中 央 上端 から 頭 頂 に かけ て四珠 を つら ね る。牢 固 の内側 は ク レ ッセ ソーと リ ンガ とを紐 で連 絡 した形 を と る。 こ の立飾 の中 心線 と頭頂 へのぼ る四珠 を軸 と し て賓 客 は左 右封 稀 であ る。襲 撃 のむ か って左 側 面 に小 さ い ク レ ッセ ントが ひと つ彫 り 出 され て いる のは他 に例 を みな い顕 著 な特 色 であ る。 冠帯 より下 の髪 は かきあげ であ るが '耳 からう しろ では ただ 垂 下 さ せ るだ け で' 末 端 は両肩 を お お って いる。 しか し蒙 のう しろ側 は冠符 の側 頭部 か ら 出 た巾 を鉢巻 き状 にむす び ' むす んだ あ ま り を 垂下す る。 垂 下 し た巾 の大部 分 は袴 が爪 形 の横 縞 であ る。 鉢巻 き より 下 にたれ た髪 は ループ を いく つも つな いだ よう な編 髪 で入念 な彫 成 であ る。 マ へ- シ ュヴ アラ頭部背 面 の表現 は非常 に綿 密 で'神 経 質 とさえ みら れ る。 ウ マ-やそ の他 の像 の背 面表 現 は ほ とん どな -、 ま たあ っても お お ま か であ る のに勤 し' マ へ- シ ュヴ アラ の後 頭部が鮭井 者 に と って不 可硯 であ る にも か かわらず いち じ る し- 入念 な のはt冒 の ス1- ヤ像 と規 を 一にし'主神 の頭部 が な んら か の理由 で重 要蔵 され て いた事情 を示 し て いる。紳 妃 ウ マIは マ へ- シ ュヴ アラの左 膝 に右 肱 を休 ま せ'右 脚 を ふか- 曲げ て上鮭 を マ へ- シ ュヴ アラにあ づ け る姿 勢 を とり'左 手 は腰 に常 てて いる。 ウ ハ1 - テ ィ Panc i k a・ Har i t i像 ( 挿固4)とま った-性格 をちが う マIは こ のよう に し て マ へ- シ ュプ アラよりも 頭 ひと つ低 - '鮭 も 小 さ-'あ - ま で マ へ- シ ュヴ アラに従 属す るも のと し て 表現 され ており' こ の鮎 が ガ ンダ ー ラにみられ るパ ンチカ ・ も のにし て いる。 ウ マI の表現 でもう ひと つ注意す べき鮎 はそ の左 半 身t と- に左 腕 の表 現 であ って' こ こだ けが肉 づき のわ る い平面 的 な彫 り であ りt と- に腰 に営 てた左手 は'蓮 華 をも つウ マIの右 手 や マ へ- シ ュヴ アラ の右手 や足な ど の表現 と こ 一五 ょ って天衣 三帯 が平 面的 に表現 され て いる。 裳 裾 は基董前 面 の上 から腹 へかけ てみられ '腹 部 では陰 刻 線 の間 隔 に差 を出す こと に は足 ま で十分 におおう 長 い裳 と天衣 とを つけ ' 天衣 は右腕 と左 腕 上半 身 はY字 型 の乳房 鞘 と頚飾 と方 形 の胸あ てを つけ る。 下牛身 左 肩 から腕 の下方 へ及び ' こ の部分 では陰 刻 で表現 され て いる。 的 な装 飾 にな って いる。 冠帯 は 一段連 珠 であ る。髪 は非常 に長 - 右 の立飾 は大き - つ- り、 正面 から観 るとき こ の右 の立飾が 中 心 と って いる。 む か って左 の立師 は ウ マI の姿 勢 と関連 して小 さ-' これ は 二面 と いう襲 別的 なも のであ る。 ま た各 々異な った形態 を に注意 を ひ- のは賓 冠 で、普 通 は立飾 が 畢 面 か三面 であ る のに' 相好 のむ か って左牛 分 は右 牛分 はど の入念 さが認 められな い。特 とな って いる。 ウ マIは マ へ- シ ュヴ アラとちが って正面 をむ かず ' マ へ- シ ュヴ アラ の前 方 を み る姿 勢 を と って いる ので' 大 理 石 ヒ ソド ゥI像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 挿 国 4 Pa nc i ka Har i t I l像 ( Pes hawar 博物館,片岩) 東 方 学 報 部 三分 の 1を お お い、 衣 紋 はⅤ字 型 の番 を多数 刻 ん であ らわ され 、そ の末端 はY字 型 を組 合 せ て整 え てあ る。 ま た ふ かく屈 し た右 脚 の衣紋 は放 物 線 の組 合 せ であ -、形 式 的 であ る。 両 脚 の間 には他 の衣紋 とま った- ことな った蛇 行状 の浮 彫 が みられ る。 以 上 に のべた大 理 石像 の いず れ の紐 の表現 にも 類 を みな いこ と, ま ga のよう でも あ -、裳 の紐 とも みられ るが ' 筆 者 は ナ- ガと考 え る。 衣 紋 の表 現 と こ の蛇 行状 の浮 彫 と の差 が大 チ-ガ Na き く、裳 の紐 であ るな ら これ ほ ど蛇 行 さ せ る必要も な し たイ ンド本土 におけ る ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 では マ へ- シ ュヴ ァラが 左 手 に ナ-ガを持 物 とす る例 ( アイホ- リA i h . ! e )が あ る ことな ど によ る。 ウ マ- の左 下 に とり つ-童 子 は ガネ - シ ャではな いから スカ ソダ に比定 でき よう 。 腰 に連 珠 帯 を つけ る以 マ 外 は ま った- の裸 形 で'耳 菜 に固 形 の耳 節 を つけ る。 頭髪 は猶 特 で'前 頭 から 頭 頂 へかけ て の頭 部 中 央 は毛髪 を表 現 せず '側 頭 部 だ け に波状 髪 が み と められ る。 相 好 は' 額 が 狭 いこ と' 眉 ' 眼な どす べ て二両 と規 を 一に し、 童 形 とは い いが た い。 へ- シ ュヴ アラや スカ ソダ の腕 節 は単 な る輪 であ るが 、 ウ マ- のも のだ け は環 と連 珠 環 と の組 合 せ であ る。 マ へ- シ ュヴ アラ の三 叉観 をも つ手 の第 五指 に は賓 石 を童 に つけ た指輪 の表 現 が みられ る。 こ の像 では彩 色が よ-残 って いた鮎 が 他 の例 とこ と な -'著 し い特 色 であ る。 朱 '育 、 窯 の三色 で、朱 は、髪 の生 えぎ わ ' 上酸 の上線 、 口唇 、顎 、耳 、 三遷 ' 冠 の 一部 '乳 首 ' 、 ウ マI では マ へ- シ ュヴ ァラより残 りが よ- '寅 膳 '腰 帯 の上線 '右 腕 折 曲部 ' 三叉観 の木葉 型 の 1部 ( 以上マへ-シュヴァラ) 冠 立飾 や衣紋 には と- にそ の状 態 が よ い。前 頭部 頭髪 の生 えぎ わ 、 限晩 の上線 、耳 、 三遷 に隅 ど- のよう に引 かれ ' 口唇 は ぬ り っぷ され て いる。青 は マ へ- シ ュヴ アラ の裳 の色 であ るが 、 雨滴 の眼険 にも 若 干残 る。 窯 は頭髪 ' 上険 の下縁 ' 下酸 のふち な ど に残 る。 基董 正面 に刻 まれ た鋭角 ブ ラー フ, , ,-文 字 に よ る三行 八四字 の銘 文 が l行 目 二〇 字 、 二行 目 四 六字 ' 三行 目 l八 な い 2 。 字 と不統 1であ る のは、 ウ マ- の裳 裾 が 銘 文帯 の右 上 を お お って いる た め であ る。 し か し銘 文 帯 のほぼ 下年分 が 刻字 されず ' ( 4) あ いたま ま にな っており T字 -ぼ り に封 す る配 慮 が みら れ 以 上 二 二鮎 のほ か に白 大 理 石像 は少 - とも 一 〇鮎 が 知ら れ て いたが 、 タパ ・スカ ソダ ルでは 一九 七〇年 に四断 片が 出 土 した から それ ら はす べ て 一四鮎 に のぼ る。 そ のう ち 二鮎 が シヴ ァ神 像 、 二鮎 が リ ンガ ・スト ー ン' 四鮎 が ヴ ィ シ ュヌ神 像 であ る。 ま た他 の二鮎 は自大 理石 ヒンド ゥー像 と いう だ け で、何碑 に相常 す る かわ から な い。 タパ ・スカ ソダ ルの四断 片 は いず れも 長 〇 センチま で の小 片 で、 三鮎 ま でが蓮華 をも った手 、 一瓢 が連 珠環節 をあ らわ した腕 (宿?)であ る。 さ一 シヴ ァ紳 頭 部 e l a t 抑 b Ad 西 郊 のダ ルソタ Da runt a 出 土 と停 えら れ て いるも ので、 寓 県 資 料 とし て ジ ェラー ラー'' '-ド l 掃 シヴ ァ神 像 タパ ・スカ ソダ ル北方教 百 メート ルにあ る小 丘 の遺 跡デ ー ・, , ,ル De h Mi rから数 年 前 に農 民が採集 し、現 ( 25) 在 カーブ ル市 の警 察学 校 長 の私蔵 品 で' ト リ ム- ルテ ィ Tr i mBrt iと いわれ るが末 輩 表 の資 料 であ る。 3 E u s t a mi n d y 博 士 の教 示 によ るば かり で'寓 ア フガ ン考 古研 究所 に登錬 され て いるが 、所 長S ・B ・ムスク マンデ ィ S.B.M o 虞 す ら未 見 であ る。 閑 し た 。 エー カ ムカ 。- ソガ Ek a mu k h a t i hg a(圏 11 ) ペ シ ャー ワ ルの ア ル'' ' あ 一七 に表現 され て いるだ け であ る。 耳飾 は連 珠環 、頚 飾 も連 珠 で'そ の上 に び 明 確 な彫 りだが '柔 味 を出す。 耳 よりう しろ は形式 的 な 波状 髪 が 入念 いる。 三眼 で鼻 を敏 損 Lt顎 は表現 され て いる。 相好 は全鮭 に囲味 を お で粗 彫 のま ま残 し、基底 は平 ら であ る。 基底 にむ か ってや や細 -な って あ たり の出 土 とみ るが 、妥 常 で イ M. Ta d d ei は フ ソド Hund、 ウダ'' '- ソダ ブ ラ Udah b晋d a p u r a \ r∴) る 。 上牛 は磨 研 され ' 下 牛 は八面 ど - -ブ 。ヒダ ヤ ト 。ウ ラ ー Ar b a b Hi d a y atUEah 所蔵.吏 表者M ・タデ 掲 と のな い単 な る リ ンガ石 であ る。 いね いに磨 研 し てあ り' 上下 二石 より成 るが ' シヴ ァ頭部 を彫 出す る こ - ソガ ・スト ー ン ( 挿固5) A ・7- シ ェが ラ ーグ マン La ghma n 地方 を l九 二五年 l 〇 月 に踏 査 した とき ' タガ - オ に ( 26) 今 カーブ ルの ア フガ ニスタ ン国 立博 物館 蔵 。高 さ約 七五 セ ンチで砲弾 型 を星 し、 て お いて原 位置 で立 って いる のを襲 見 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 挿 固 5 Li 血ga (彫像資料 1 6) 東 方 学 報 三 遷 が 刻 まれ て いる。 賓 馨 の表 現 は 以 上 の大 理 石 像 に 例 を み な いが 、 二訓頭 部 は菱 形 を 中 心 に L t そ こ か ら 左 右 封 稀 に ひ ろが っ ヒ ンド ゥー神 像 一瓢 はU ・セ ッラー ー に よ - 報 じ ら れ た も の で' イ タ リ ア考 古 調 査 国 が ガズ ナ朝 宮 殿 跡 を 豪 掘 す る数 てゆ - 結 髪 ' そ の上 に のる啓 は 「⊥ 」 型 とそ の両 側 の怒 髪 よ - 成 る。 開局 年 前 に 、 同 宮 殿 北 隅 か ら 出 土 し、 現 在 ア フガ ニス タ ン国 王 モ ハマド 。 他 の 一鮎 は 、 ・ザ ヒ ル ・シ ャー M o h a mma dZ a h e rS h a h の所 蔵 にな っ ( 28 ) て いる。 セ ッラー ー と 同 様 に筆 者 も 賓 際 に観 察 し た こ と は な いが ' 彼 に よ れ ば これ は 確 賓 な 情 報 であ る と いう ラグ マン地 方 カ ラ 。グ ル ・ア- マド Qa t a GutAhmad 東 方 の マサ ムー ド M assamud 附 近 で尊 兄 さ れ たも の でtK ・フ ィ ッ ( 29) シ ャーが フ ラ ン ス考 古 調 査 圏 のM 。ルベ ー ル M ・Le B e r r e か ら 得 た情 報 であ る。 こ の 二像 に つ い て は ヒ ンド ゥー のど の神 格 を 表 現 し たも のか ま ったく 不明 であ る。 ( 30) ヴ ィシ ュヌ Vi S p u神 像 二鮎 が ガ ルデ ィーズ 付 近 で出 土 し た こ とをK ・フ ィ ッシ ャーが 俸 え る。 ひ と つは高 さ 一〇 揖日日 C aturmtirti像 の断 片 で現 在 カーブ ルの私蔵 晶 であ セ ン チ' 長 さ 七 セ ン チ の猪 頭 で ヴ ィ シ ュ ヌ 。チ ャー ウ ル ムー ルテ ィ Vi 等u る。 他 は高 さ 四〇 セ ン チ で、 や は - チ ャー ウ ル ムー ル テ ィ のヴ ィ シ ュヌ 四 層 像 断 片 であ る。 一瓢 は ガズ ニー の ア タ 。 ハキ ム At a Haki m 蔵 のヴ・ イ シ ュヌ像 ト ル ソ であ る。 薗 ヴ ィ シ ュヌ 。チ ャト ウ ル ムー ル テ ィ像 ( 囲8) D 。'' '1レ ッー D.Bar r et tが 拳 表 し た資 料 で、 イ ンダ ス渡 河 瓢 の要 衝 ア ( 1 3 ) 蔵 . ア ト ツ ク採 集 と いう か ら お そ ら - フ ソド 連 が 員 寅 であ ろ う 。 u s e um ック At t oc k で採 集 され p 現 在 英 国 博 物 館 Br i t i s hM 光 背 と左 右 に猪 頭 、 光 背 の裏 に浅 浮 彫 の頭 部 を あ ら わ す 。 中 心 のヴ ィ シ ュヌ本 鰹 は 、 相 好 が 磨 滅 Lt ま た賓 冠 にも 磨 滅 が お よ ん で いる。 賓 冠 は ≡ 面 の立 飾 を も つら し い。 編 髪 が 両 肩 に装 飾 的 に表 現 さ れ て いる。 耳 飾 は特 殊 で' 小 さ い耳 菜 に 二環 を つら ね たも の であ - p 耳 采 に つ- 環 は索 漠 だ が 、 これ に つら な った 環 は連 珠 飾 が あ る。 三遷 は 十 分 隆 起 し' か つ頭 が 長 い。 窺 飾 は 三 本 の連 殊 と そ の間 に隆 起 線 を 入 れ る幅 廉 いも の で、 中 心 に は磨 滅 し て不 明 の装 飾 を お き ' ペ ンダ ン ト形 であ る。 光 背 は外 匠 が 唐 草 紋 で、 内 匠 が 蓮 梓 であ る。 いず れ も 浅 浮 彫 であ る。 光 背 裏 面 は鬼 面 のご とき も の で' 高 い髪 形 に連 珠 の冠 背 を つけ ' 唯 l残 存 す る正面 立飾 は冠帯 に比 し て極 端 に小 さ い二重 三角 形 であ る。 耳 飾 ・頚 飾 の型式 は ヴ ィ シ ュヌ本鰹 とほ とん ど同 じだ が、 こ の方 が 若 干簡 略 にな って いる。 高 さ は約 二八 セ ンチ。 以 上 二 二鮎 の自 大 理 石像 のう ち日日 の像 基 童 と臼 の光 背 を 除外 す れば す べ て ヒ ンド ゥー教 関 係 の彫 像 であ る。 し かも⇔ '目 は像 主膿 が 失 わ れ て いる のであ って'基 童 の形 式 から みれ ば 後 述 のよう に他 の ヒ ソド ゥ-数滴 像 のも のと l致 す る。 ま た臼 の 光 背 は前 述 のとお - 、 ヒ ンド ゥー教 神 像 に付 いて いたも のと解 樺 でき な いこ とも な い。 こ のよう に考 え る とp これ ら はみな ヒ ンド ゥー教 関 係 のも の であ る。諸 像 を ま つ った寺 院 に関 し て現 在 ま でに既 に明 ら か にな って いる のは' ハイ ル ・ ハネ遺 跡 だ け であ る。 ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 を出 土 した タパ 。スカ ソダ ル TapaS k a n d a r に つ いては' スカ ソダ ルⅠ の8匠 の紳 同 風 建 物 に こ の像 が直 接 ま つら れ て いた か どう か は 一九 七〇 年 度 の調 査 では明 ら か に され る こ とが な か った。 し か しL 。エーデ ル br g やJ 。E ・ファ ン ・ロウ へイ ゼ ソ =ド = レーダ J.E. van Lohuizen deLeeuw ら はジ ェラー ラーバ ー ベ ル ク L.Edele プ ド北 東 の ク ナ- ル Kunar川 上流 にお いて ヒ ンド ゥー寺 院 が 存 在 した形 跡 を停 え て いる。 同 時 にK ・フ ィ ッシ ャーも これ と は ( 32) る 。 フ ィ ッ シ ャーは' イ スラ ム ー ルl s t a mp ur の現 在 の村 にあ る木 造 の モ ス クに ヒ ンド ゥー寺 院 の自 大 理 石 別 に報 告 し て い C h iga Sarai 製 建 築 細 部 断 片 が 再 利 用 され て いる と俸 え る。 デ ン マー ク の第 三次 中 央 アジ ア調 査 (一九四七-四九)と ハズ ル ソド =クリ ステ ソ セ ソ紀 念 調査 (一九五三-五四 ) の両 調査 に際 し て撮 影 し た資 料 をも と に、 L ・エーデ ルベ ルクは、 チ ガ ・サ ライ 村 の北 方 丘陵 の麓 に現 代 イ スラ ム墓 地が あ り 、 そ の墓 石 に スト ゥ-パ s t t i paの細 部 が 再 利 用 され て いる と報 告 し た。 彼 は 丘陵 上 に スト クーパ跡 が あ る こ とお よび 再 利 用 され た建 築 神都 に コ- ソト系 壁 柱 浮 彫 が みら れ る こ と から ' これ ら の遺 物 を併 教 的 な も のと判 断 した のであ る。 材 質 が 白 大 理 石 であ - '装 飾 に用 いら れ た紋 様 が係 数 造 形 の範 噂 を こえ て いるな ど から ' む し ろ 一九 前 節 に よ って自 大 理 石像 が す べ て ヒ ンド ゥー教 神 像 であ る こ とが 判 明 した。 これ に封 す る年 代 観 は 一九 三 四年 に こ の付 近 に ヒ ンド ゥー教 寺 院 が 存 在 し た謹 左 であ る と考 え る。 様 式観 諸 説 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ソド ゥ-王朝のも のか 東 方 畢 報 国 布 l 二 〇 ・ア ッカ ソが ス1 - ヤ神 像 を護 見 し て から現 在 に いた る ま で諸 説 が 提 出 さ れ た。 次 にそ れ ら を検 討 す る こ と に よ って白 大 理 石像 に関 す る様 式 論 や系 統 ハイ ル ・ ハネ遺 跡 の吏 掘 され た範 囲 内 で六群 論 のあ とを追 い、 問 題 の所 在 をあ き ら か にす る。 3 : ア ッカ ソ' マー シ ャ ル諌 の建 築 が 明 ら か に され ' そ の中 心 と目 され る建 物 の西 隅 に滞 立 し た同 プ ラ ン の三宝 を南 北 に並 列 Lt 東 面 し た両 堂 群 が あ る. こ の両 堂 群 はそ れ よ れ前 の 時 期 に屠 す る 三宝 一棟 の建 物 を 石 と泥 煉 瓦 で埋 め た てた- え に築 かれ て いた。 し たが って岡 堂 群 は 上層 期 に属 し て いる。 両 堂 はそ れ ぞ れ 南 からA、 BtC と名 づ け ら れ 、 基 壇 に営 る部 分 が 平 石積 ' 壁 が 錬 士麓 で、ABC共 通 の陸 屋 根 をも って いたら し い。 ス- リ ヤ像 な どが こ の建 物 に関 し て出 土 し た こ と ば 前 述 のと お り であ る。 こ のよう なプ ラ ンで三両 堂 が 並 ぶ形 は非 常 に特 殊 であ る にも か かわ らず へ ア ッカ ソは これ をす ぐ さ ま中 央 イ ンド の小 規 模 な シヴ ァ ( 33) た 。 ブ マラ寺 院 は石造 畢 室 で' a と比 較 でき る と し 寺 院 であ るブ マラ Bhumar い る (34 ) 。 P ra d a k g a監 ap a マ ン ア ッカ ソは ハイ ル 。ハネも ブ マ Si 思・ pah t a t マンダ パ M r b h a等 at 低 い基 壇 の上 に エー カ ムカ ・リ ンガを 安 置 す る ガ ルバ グ リ ハ Ga そ れ を めぐ るプ ラダ ク シ ナ- ・パ タ 及 び 基 壇 正面 左 右 の中 洞 堂 から 成 って ラも とも に両 堂 自 身 のプ ラ ンや方 向 が 同 じ で、 プ ラダ ク シナ 1 ㌔ハタ' ダ パ をも つ鮎 も 同 類 であ る と し たが 、 プ ラダ ク シ ナ- ・バ クや マンダ パな ど が 比 較 の封 象 にな - え な いこ と は明 ら か であ り ' 三宝 並 列 の例 をも っては じ め て ハイ ル ・ハネ の比 較 の封 象 にな りう る。 ア ッ 分 跡 挿固6 遺 あ カ ソは こ のよう な建 築 的 な面 のみな らず 、 ス1- ヤ形 式 にも 一致鮎 を み る。 そ の形 式 とはダ ソダ とピ ソガ ラと いう 二人 の脇 侍 ( 35) る 。 ア ッカ ソに よれば イ ンド に お け る ス- リ ヤ像 に は 二形 式 が あ り ' ひ と つは ス- リ ヤが 戦 車 に の を したが え て いる こと で るイ ンド式 で'そ の場合脇 侍 はな いか'あ れば 二人 の婦 人 の射 手 ( 晴里甚 駆逐する)であ る. 他 は脇 侍 が有 賀 の書 記 ピ ソガ ラと無 i 髪 の戦 士ダ ソダ で、 こ の二像 は エデ ツサの太陽神 の脇 侍 であ る アジ ゾ ス Az i z o s と モ( , ,モ ス Mo mmo s とに系統 を求 めう る 西方起 源 の性格 をも つ。 ハイ ル ・ハネ の ス1-ヤ像 やブ マラ のそれ は後 者 に従 う とす る。 か つ彼 は ス1 -ヤ自鮭 に ついてそ の 衣裳 と頭飾 とが サー サー ソ 朝 の シ ャープ ー ル Sha p u r二世 、 ア ルダ シー ル Ard a s h ir 二世 、 シ ャープ ー ル三世 な ど四世 紀 の も のに近 いと し、R 。D ・バ ナジ ー R.D.Ban e r j iのブ マラ寺 院 や クタ ラ Ku t h a ra、 デ オグ ナ De o g u n a な ど のパー ルヴ ァ r v ati寺 院 な ど の年 代観 にしたが って ハイ ル ・ハネ遺 跡 を 五世 紀 とした。 し か しブ マラ寺 院 に ついては マー シ ャ ル譲 が テ ィ Pa い る 。 あ って六世紀 に常 て て いる。 ま た マー シ ャ ル J.M ar s hal tは ア ッカ ソの ハイ ル ・ハネ車 掘 報告書 を書 許 したな か で' ス- リヤ ( 36) に常 てる年 代 は ア ッカ ソ説 が 正雷 であ る とし'自 身 のブ マラ寺 院年 代観 と矛盾 し て ア ッカ ソの年 代観 の根接 は、 イ ーラー ソの サー サー ソ王像 と中 央 イ ンド の シヴ ァ寺 院 と の爾資 料 であ る。 と ころが これ ら の サ ー サ ー ソ王像 の衣裳 と ス-リ ヤ像 の衣裳 とは密 接 な関 連 の中 にあ る とは考 え難 い。 両者 を 一見す れば 明白 であ る。 冠巾 の表 現 は後 述 のご と- 七世 紀初 頭 の サ ー サ ー ソ王像 にま であ き ら か に鮭 承 され 、 と- に四世 紀 のも のに常 てる理由 はな - ' ス- リ ヤ の衣裳 も サー サー ソ王像 に特 色 のあ るも のとは い いき れな い。 ま たピ ソガ ラとダ ソダ の表 現 が ブ マラにみられ る のは事茸 だ が ' ス- リ ヤ像 全 鮭 と し て観 察 す るな らば 、 そ の間 に大 き な 差 異 こそ あ れ 、密 接 な関 係 は認 め難 い' ア ッカ ソの比 較 は革 に固 あ る 。 像 撃 上 の 一致 にすぎ な い。 ブ マラ寺 院 の年 代 も あ る いは五世 紀 と い い'あ る いは 六世 紀 と い い、 一定 しな いのも 年 代考 定 の基 ( i ,: ) 準 と し ては無 意 味 であ る。 こ のよう な年 代観 とは別 に、ブ マラ寺 院 の建 築装 飾 に用 いられ た唐 草 紋 には注 意す る必要 が Ba mi y a nt フ ォンド キ スタ ソ Fondu k i s t ant タ パ ・サ ル ダ ー ル Ta paSar darな ど に こ の系統 の唐 草 そ れ は こ の唐 草 紋 が と- に垂 の存 在 を強 調 し て薬 が球状 に退 化 しよう とす る傾 向 にあ る こと で'後述 のご と-' ア フガ ニスタ , ,ヤ ー ン ンでは、バ 1 , 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ソド クー王朝 のも のか 東 方 畢 報 紋 を 豊 富 に み る こ とが でき る。 こ の紋 様 は ク シ ャー ナ の マト ゥ ラー M at hur a 涯 彫 刻 と か 、 ア- ンド ラ And h r a 朝 の ア マラ ー ヴ ア テ ィー Amqr avat -.や ナ- ガ ルジ ュナ コソダ Na g a r j u t n a ko監 a な ど では みら れず ' グ ブ タ朝 に お いても 筆 者 の知 見 の及 ぶ 限 り では 、 サー ル ナ- ト Sar nat h の初 韓 法 輪 像 の光 背 にそ の胸 芽 とも いう べき も のが み ら れ る にす ぎ ず 、 グ ブ タ美 術 に お l九 五 五年 に フ ェル ナ ソド ・ス コレ ッテ ィ F. S c o r r e t t i蔵 自 大 理 石像 (固9)に つ いて更 表 し' そ る が 降。 38 ) 説 いてもそれ は若 干 時代 ( シ ュラ ンベ ルジ ェ 臼 の際 、 ガ ルデ ィーズ の シヴ ァ頭 部 ( 園4) ' タ ガ - オ の リ ンガ ・スト ー ン ( 挿固5) ' タ ガ- オ の ト ルソ (固10)、 ハイ ル ・ ハネ の ス1 - ヤ像 ( 圏2)を あ わ せ て検 討 し た 。 ス コレ ッテ ィ の大 理 石像 と は前 述 し た関 のド ウ ルガ- ÷ ヒ シ ャー ス ラ マルデ ィ ニー 像 であ るが ' 彼 は ア フガ ニス タ ンに お いて尊 兄 さ れ た彫 刻 に大 理 石 を 材 料 と し たも のが き わ め てま れ であ - 、 か つこ の像 が 丸 彫 であ る こ と ' そ の表 現 さ れ た 主 題 に つ い ても これ に平 行 す るも のが な いこと を 指 摘 し ' 先 に記 し た と お り ' - ト ラ ・タ ウ ロ ク ト ノ スに 比 定 Lt ガ ンダ ー ラ俳 教 彫 刻 と は 異 類 であ る と考 え た 。 ハイ ル ・ ハネ の ス- リ ヤ像 に興 え た ア ッカ ソ の年 代 観 に勤 し p 確 寛 な 編 年 の メ ル ク マー ルと し て同 遺 跡 のF室 で 尊 兄 さ れ た 二枚 の ナプ キー. Napk.1貨 幣 を考 慮 す る 必 要 が あ る と し た。 し た 。 ア ッカ ソは こ の貨 幣 をⅤ ・A ・ス , "ス V.A.Smi t h に よ って 五 世 紀 な いし 六 世 紀 の ク シ ャー ノ ・サー サー ソ王 手 行 のも のと ( g ; ) ( 胡) し か しR ・ギ ル シ ュ マン R. Gh i r s h ma n が 七世 紀 に比定 し た こ と を シ ュラ ンベ ルジ ェは愛 常 と み て' ス- リ ヤ神 解揮 像 の年 代 を 示 唆 し た。 タ ガ- オ の ト ル ソ' リ ンガ ・スト ー ン、 ガ ルデ ィーズ の シヴ ァ頭 部 に封 す る年 代 は 不 明 と み て いる 。 こ れ ら 四 例 は ヒ ンド ゥー教 の遣 物 であ り 、 同 じ く 大 理 石 製 の - ト ラ 。タ ウ ロク ト ノ ス像 も 非 係 数 的 主 題 であ る。 ク シ ャー ナ' ク シ ャー ノ ・サー サー ソ、 エフ タ ルな ど の時 代 ま で係 数 の造 像 に大 理 石 が つか わ れ て いな い事 寛 を 指 摘 し ' これ ら の造 像 が 係 数 造 像 活 動 の下 火 に な った 時 期 であ る エフ タ ル末 期 以 降 イ スラ ム侵 入 以 前 に相 普 す る と考 え た 。 す な わ ち 六 世 紀 中 頃 か ら 九 世 紀 後 年 以 前 であ る 。 シ ュラ ンベ ルジ ェは これ を ド ウ ルガ 1両 と認 め る こ とが でき な か った が ' 白 大 理 石 像 を と ら え て、 そ の主 題 が 非 悌 数 的 であ る こ と に気 づ き 、 同 時 に ク シ ャー ナ期 に相 薗 す る大 理 石 彫 刻 のな いこ と か ら エフ タ ル期 以 前 に さ か のぼ ら な い あ る 。 と し た のは安 富 であ る。 ただ ナプ キ ー貨 幣 はF室 から 出 土 した と は いえ ' ス 1 - ヤ像 と年 代 決定 のう え で、関 連 性 に とぼ し い ( 41) こ と は明 白 で シ ュラ ンベ ルジ ェの ス コレ ッテ ィ 大 理 石像 の固 像 撃 的 解 樺 と そ れ に閲 適 し た 資 料 の 紹 介 は、 l九 五 七年 に H 。ゲ ツツ H. ゲッ ツ 説 ス コレ ッテ ィ大 理石 お よび そ の他 の大 理 石像 は ア フガ ニスタ ン考 古 学 のギ ャ ップ を 埋 め る と考 え p キ ダ ー ラ ・ G o e t z とD 。.' '1レ ット D.Bar r e tと によ ってそ れ ぞ れ 批 判 が 行 わ れ た。 ( 42) 臼 ク シ ャー ナ Ki dar aKu 昔 a 以降 重 要 な 位 置 を こ の地 域 に占 め て いた シ ャイ ヴ ィズ ム5a i v i s m に これ ら の像 が属 す る と し た。 リ ンガ と シヴ ァ頭 部 と はあ き ら か に シ ャイ ヴ ィズ ムであ る。 明 白 シ ュラ ンベ ルジ ェが そ の性 格 を ま った く 不 明 と し た - ルソに 関 し ては、敏 落 部 分 を解 樺 した結 果 ' 六替 あ る いは 八背 の シヴ ァ像 とみ た。 シヴ ァ両 と同 じ-多 層 であ り う る ヴ ィ シ ュヌ神 は 一 〇 世 紀 以 降 にな って は じ め て若 干 の例 を み る にす ぎ ず '多 層 の シヴ ァ像 は 一〇 世 紀 はす で に非 常 に 一般 的 であ った と いう 。 Ai h o ! e のド ウ ルガ -寺 院 の轟 にみ と めら れ る。 こ の 西 北 イ ンド の シヴ ァ ・イ コンは' ク シ ャー ナ貨 、 後 期 グブ タ砕像 、 アヴ ア ソテ ィプ ー ルAv a n t i p ur像 、 ブ ラ フ モ ル Br a h mo r (チ ャ ン' , (C h a mb a )な ど にみら れ ' 同 時 代 のイ ンド でも 多 層 像 は アイ ホ- よう に考 え て ス コレ ッテ ィ大 理 石像 は ヒ ンド ゥー教 彫 像 であ り、 前 述 のとお り シヴ ァ碑 妃 た るド ウ ルガ Iを あ ら わ す も のと し た。 彼 は こ の像 を と- に エロラー EEo r a の第 一七窟 や ラーヴ ア ナ 。カ ー 。カイ ー RavaI J a ・ k a・ Khai のド ウ ルガ- 。マヒ シ ャ ー スラ マルデ ィ ニーと ほ ぼ 同 時 期 のも のと考 え ' これ ら の像 の間 に若 干 の圃 像 的 な 差 異が あ る のは' いず れ にも み と めら れ る い て 、 襲 形 に は かな ら な いと した。 エロー ラや アイ ホ- リ の諸 像 の年 代 は彼 によ る と七世 紀 であ る。 し か しA 。K ・ク マ- ラ スワ( 43) こ の年 代 は確 定 したも ので はな - ' ゲ ッツ の年 代 のき め手 も 不 安 定 であ る。 ミな ど 六世 紀 に常 て る ひ とも シ ュラ ン. ベ ルジ ェの ス コレ ッテ ィ大 理 石俊 郎 ミト ラ・タウ ロク ・ 1ノ ス説 は' ド ウ ルガ - 。マヒ シ ャー スラ マルデ ィ ニー形 式 の ラ 西方 起 源 説 を と る ゲ ツツに と っては起 源 的 に は正 し いこ と にな る。 彼 の所 論 は次 のと お り であ る。 ド ウ ルガ - 。マヒ シ ャー ス 〇 、 二 世 紀 を さ か のぼ る こ とな - 、 ラ マルデ ィ ニー像 は パ ンジ ャーブ ・ヒ マラ ヤ の寺 院 では非 常 に 一般 的 だ が いず れ も l 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 東 方 学 報 ヴ ィ Ravi河 西 方 で は 1六 世 紀 に な ってや っと l般 化 す る。 こ の固 像 形 式 は まず 中 央 イ ンド のグ ブ タ期 の寺 院 であ る ブ マラ ( 彼は五世紀に当てる)に あ ら わ れ ' 次 に アイ ホ- リや エ ?- ラな ど 七 ' 八 世 紀 の北 部 デ カ ン地 方 にあ ら わ れ る 。 マヒ シ ャー ス ラ (マヒシャという名の水牛の姿をした悪紳)殺 数 と いう こ の固 像 形 式 の信 仰 は 政 治 的 な 事 件 と密 接 に関 連 し て流 行 し は じ め た と し た。 ava ha na 帝 国 から ヴ ァ- カー タ カ Va ka t a ka 王 国 ま で マヒ シ ャー スラは スキ タイ 系 人 種 の代 名 詞 で' シ ャー タ グ ア- ハナ 粁 t h i S mat iを 都 とす る図 を 建 て た事 寛 と関 連 す る と いう 。 し たが ってそ の短 い時 期 に、 スキ タイ 系 人 種 が マヒ シ ュ マテ ィー Ma の流 行 は グ ブ タ期 以 前 に は 遡 行 しえ な い。 ま た グ ブ タ美 術 に は 一般 に考 え ら れ て いる以 上 に ヘレ ニズ ム ・ロー マ世 界 か ら の影 響 が 認 めら れ p 西 方 的 要 素 を 組 な おす こ と に よ ってグ ブ タ美 術 が さ ら に発 達 し た と い- 考 え を 彼 は 明 ら か に し ' - ト ラ ・タ ウ ロク ト ノ スが ド ウ ルガ - ・マヒ シ ャー スラ マルデ ィ ニー の' 彫 像 と し て の モデ ルに な った と し ても 不 自 然 でな いと 認 め た 。 ゲ ツ ツは ま た これ ら 自 大 理 石 像 の株 式 に関 し て次 のご と- の べ る。 す な わ ち ' ガ ンダ ー ラ系 悌 教 美 術 にも ' 後 期 ク シ ャー ナ 貨 幣 にあ ら わ れ た シヴ ァ像 の表 現 に み ら れ る サー サー ソ的 組 型 にも ' こ の株 式 は 共 通 性 が な - 、 す べ て にわ た って イ ンド的 様 式 であ る と し た。 そ のイ ンド 的 様 式 と は何 であ る か 。 ク マ- ラグ ブ タ Kumr a a gupta 一世 の五世 紀 に は輪 郭 を 明 確 に とら え る 表 現 が 流 行 し た 。 ま た 七 世 紀 に は囲 味 を 帯 び た 流 麗 な 様 式 が は じ ま った . こ の爾 様 式 は 八 世 紀 初 頭 に 折 衷 さ れ た 。 全 鮭 は園 味 を 帯 び て ふ - よ かだ が 、 非 常 に シ ャープ な 線 に よ って細 部 を 明 確 に虞 理 す る。 こ のイ ンド的 様 式 す な わ ち グ ブ タ模 式 の最 晩 期 に属 す る株 式 の中 心 は、 は じ め は カ ナ ウ ジ Kanaujにあ り ' 次 に ガ ヮ- リ オ ル Gwat i orに移 った 。 いず れ も ヤ シ ョヴ ア ル マン o v a r ma n(七二〇I七五三)の時 代 の首 都 だ が ' ガ ヮ- リ オ ルに移 った のは カ シ ュ, "- ル Ka恥 mi r の ラ リ クーデ ィ テ ィ ヤ ・ム Ya g a t itadt y ia Mu k t a p 叫da 王が ヤ シ ョヴ ア ル マンを撃 破 し た こ と に よ る。 こ のあ たり が カ シ ュ, -1 ル の統 治 に は い ク タ-ピ ーダ L った こ と に よ り ' こ の最 後 のグ ブ タ株 式 ( グッツはカナウジ沢グブタ彫刻とよぶ)が ' カ シ ュミー ルに俸 播 し た。 す で に ラ リ クーデ ィ テ ィヤ 王 以 前 チ ャ ンド ラーピ ーダ 王 の時 代 に カ シ ュミー ル の支 配 範 国 に は い って いた ア フガ ニス タ ンに こ の様 式 に従 った造 像 が 存 在 し た のは 不 自 然 では な いと いう の であ る。 ゲ ツ ツ の自 大 理 石像 の様 式 及 び 年 代 に関 す る 特 色 は 、 そ れ が 直 接 イ ンド と の交 渉 に よ り 停 播 し たも の でな く カ シ ュ-1 ルに お け る カ ノウ ジ 涯 グ ブ タ彫 刻 と関 係 さ せ た鮎 にあ る。 か つカ シ ュミー ル の カ ノウ ジ 涯 と は カ ノウジ 地 方 自 腹 の流 涯 と は 異 な り ' そ の地 方 的 な 模 作 に他 な ら な いと いう 。 カ シ ュミ ー ル の美 術 に造 詣 が 深 い彼 が そ の年 代 に諸 説 あ る ラ リ ク ーデ ィ テ ィ ヤ王 に カ ノウジ 涯 グ ブ タ彫 刻 俸 播 の責 任 を挿 し h gi p i た のは、 ﹃ラージ ャタ ラ ソギ ニー﹄ Raj at ar a に み え る ラ リ タ-デ ィ テ ィ ヤ王 の事 跡 を す ' ,(て歴 史 的 事 茸 と し て認 め た か 4 4 ) ( ら な い。 こ こ に ひ と つ の問 題 瓢 が あ る と同 時 に、 カ シ ュ, , ,- ル のこ の涯 の ヒ ンド ゥー像 と自 大 理 石 像 と を 直 接 比 較 検 ら に他 な と い いへ カ シ ュ, , ,- ルか ら 像 自 身 が も た ら さ れ た のだ と いう 。 カ ノウジ 涯 グ ブ 討 す る と いう 基 本 的 態 度 に かけ て いる。 彼 が 行 な った のは 鋸 の シヴ ァ頭 部 に み ら れ る賓 冠 だ け であ る。 し かも そ れ が 純 粋 な カ u r e t y Kas h mi r it y pe) シ ュ, , ,ル 。タイ プ だ ( p タ彫 刻 の様 式 の停 播 に関 す る考 え 方 は' 美 術 様 式 の俸 播 を 政 治 的 な 交 渉 と直 接 む す び つけ るも の で' は な はだ 安 易 な も のと い 説 ( 45) ハイ ル ・ ハネ の ス- リ ヤ像 に つ いて は シ ュラ ンベ ルジ ェ説 に賛 成 し' ガ ルデ ィーズ の シヴ ァ紳 頭 部 を カ シ ュ わ ねば な ら ず 、 説 得 性 が あ る よう に み え るが ' カ シ ュミー ル の ヒ ンド ゥー彫 刻 が さ ほ ど 紹 介 され て いな い現 在 にわ か に承 服 で ' ' '1レ ッー き な い。 輯 - 1 ル株 式 と し て八 世 紀 後 年 に あ て た。 タ ガ - オ の ト ルソ に関 し て は見 解 を さ し ひ かえ ' ス コレ ッテ ィ大 理 石 像 を ミ ト ラ ・タ a tes ウ ロク ト ノ スと は認 めず ' ゲ ッツと同 じ く ド ウ ルガ - ・マヒ シ ャー ス ラ マルデ ィ ニー像 と し、 八 世 紀 にあ て る 。 ド ウ ルガ - の 姿 勢 に関 連 す る 資 料 と し て エレ フ ァ ンタ E l t e p h a n t a や ボ ンベイ Bomb a y のプ - ソ ス ・オ ブ ・ウ ェイ ルズ PrinceofW 博 物 館 のド ウ ルガ Iを あ げ ' そ れ ら にも っとも 近 - ' 三 叉戦 のお き 方 に関 連 し て は' アイ ホ - リ の ヒ ンド ゥ ー看 、 エ ロー ラ の 一四 ' 一七 ' 二 l' 二 七 の諸 窟 の像 と 比 較 し' これ ら デ カ ン の諸 像 は 七 世 紀 から 九 世 紀 に いた るも の と考 え る。 シ ュラ ン' ベ ルr ジ ェは こ の日 大 理 石 像 を カーブ ル近 連 に限 るも の と考 え た が t rパ レ ットは英 国 博 物 館 所 蔵 の二 つ の像 を あ ら た に登 表 し、 そ れ ら が ア ト ツク' ブ ネ ー ル Bun e r童 鬼 であ る こ とを紹 介 し、 自 大 理 石像 が ア フガ ニスタ ソ内 に限 定 され るも のでな いこ とを 立 謹 し た。 つ いで ガ ンダ ー ラ儒 教 美 術 系 統 の片 岩 製 の ヒ ンド ゥー彫 刻 が 英 国 博 物 館 に 四 例 あ る こ と を 示 し、 ま た カ シ ュ、 , 、- ル ・ 大 理 石 ヒ ンド ゥI像 は ヒンド ゥー王朝 のも のか 東 方 -・学 報 ( 46) ス マスト出 土 の木 彫 を あ げ ' これ ら す べ てが カ シ ュ、 ( ,- ル様 式 に層 す る と し た 。 彼 の年 代 考 定 も 像 の細 部 を 検 討 す る こ とな く' ま た カ シ ュ( , ,- ル様 式 と の比 較 も 行 わ れ て いな い。 ラ リ クーデ ィ テ ィ ヤを は じ め とす る こ の地 方 の歴 史 を 叙 述 す る な か で、 簡 - ク ツ チ読 単 に カ シ ュ ミー ルと の関係 を説 き ' ゲ ツ ツと同 じ - 歴 史 事 寛 と美 術 流 涯 とが 不 即 不離 であ る と いう 立 場 を と って いる 。 I (i = ) ス ワ- ト地 方 の l般 調 査 に お い て こ の地 方 に シヴ ァ沖 と 比 定 さ れ る浮 彫 像 が 存 在 す る こ と を 注 意 し' 従 来 こ 田 れ ら 非 悌 教 的 遣 物 に封 す る槍 討 が 非 常 に限 定 さ れ て いる こ と を 指 摘 し ' そ の関 連 に お い て ひ とう の大 理 石 像 を 紹 介 し た 。 そ の 際 にそ れ 以 前 に判 明 し て いた ス1 - ヤ像 な ど 自 大 理 石像 全 般 に つ い て の株 式 論 や 年 代 論 は 展 開 せず t j Jの像 だ け に関 す る検 討 を 行 った 。 ガ ルデ ィーズ 出 土 と俸 え る ガ ネ - シ ャ像 が そ れ で、 基 董 正 面 の二 行 にわ た る 刻 銘 を 解 揮 す る こ と に よ ってそ の年 代 . . . ma h at・ p r ati 思hapi t a mi d a r Pma havi nay a k a ・ p a r a ma b h attaraka・ mahar aj adhi r aj a ・ g r i ・ 笛h i ・ k h i I Pgat 0 ・ t ya n a ・笛hipidai︹h︺ at Or ps a召V S a r ea浩a t a mes a m 8j y e St hama s a ・ g u k L a・ pakS a・ t i t hau t t r ayo d a g y抑r r lg udii O I 3 ri kS e vi 猷k h eFb h e si r p h e を 決 定 し よ う と し た 。 ト ク ツチ に し た が って )) ) C -︰. 2 havi na yaka像 が 八 年 に建 てら れ た と み え るが 、八 年 が ど の紀 元 に属 す る か 不 と よ め る銘 文 に は ' こ の マ ハー グ ィ ナ- ヤ カ Ma 明 であ る の で、 これ か ら 年 代 を 決 定 す る こ と は でき な い。 そ こ で - ク ツチ は ' 末 尾 に み え る Kh i r p g a t aと いう 玉名 が 未 知 のも の で は な いと し、貨 幣 の銘 に み え る D e va笛hikhi hgil a と ﹃ラIr,, }ヤ ク ラ ンギ ニー﹄ に み え る Nar endr adi t ya Kh i A k h i t aと ( 48) る 。 ﹃ ラージ ャ ク ラ ンギ ニー﹄ に こ の王 が ' ブ - チ - シ ュヴ ア ラ Bhae t g v a r a に伺 堂 を 奉 献 し た こ と を記 す 。 そ れ はち を あげ ょう ど ア シ ョカAg o k aが 、 図 が ム レ ッチ ャ Ml e c c h aに よ って既 潤 され た とき 、 シヴ ァ ・ブ - チ- シ ュヴ アラから ム レ ッチ ャ を 撲 滅 す る た め に 一人 の息 子 を さず か った のと同 じ だ と み ' Kh i r p gat a も ' 厄 難 滑 除 の紳 た る マ ハー グ ィ ナ- ヤ カを 願 求 す る た め' こ の像 を 造 った と解 樺 L へ Kh i r p gat a 即 Kh i h k h i t a と考 え た。 ﹃ラ ージ ャク ラ ンギ ニー﹄ に よ れ ば こ の王 は , ∼ヒ ラ ク ラ Mi hir a kul a の ひ と り の後 鰹 者 であ る と いう が ' ド ・ラ ・ヴ ア レ ・プ サ ンd el aVat16ePoussin や ラブ ソ ソ Rapson は貨 幣 形 制 にも とづ いて ト ラ マ- ナ T o r a m昔 a 以前 であ る と ( 49) す る . 王 の年 代 決 定 を ト ク ツ チは さ け て い る. 銘 文 の玉名 に つづ く khi r pgaloせ a .na を ト タ ッチは ウデ ィヤー ナと讃 む 方 に傾 き 、 碑 文 にあ ら わ れ る唯 lのウデ ィヤ ー ナ 王 に キ ンガ ラを あ てる雰 囲 気 が 感 じら れ る。 も し ウ テ ィヤ ー ナと よ め る に し ても ' ﹃ラ ージ ャク ラ ンギ ニー﹄ に は こ の王が ウデ ィヤ ー ナす な わ ち スワ - トを 統 治 し た記述 はな い。 次 に字 鰹 を ト タ ッチは明 確 な 理由 な し に 五世紀 末 あ る いは 六世 紀 初 であ るら し いと しへ こ こ では じ め て こ の像 の年 代 に ふれ るが 、 知 ら れ る と ころ の 〝 鋭 角 ブ ラ1 7 、 、 、-文 字 ″ のも っとも 古 - 遡 れ るも のが 六世 紀 末 であ る こ ( 51 ) ( 50) と 、 後 述 のウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 の碑 文 の字 鰹 と類 似 性 が 認 めら れ る こ と ' な ど から ト ゥ ツチ説 は妥 常 でな い。 キ ンガ ラ を ﹃ラ 1.,, hヤク ラ ンギ ニー﹄ に あえ る エフタ ル王 に比定 す る と いう こ とが ' お そ ら - こ の年 代 観 に から みあ って いる。 アグ ラ ワ ラが こ のガネ - シ ャ像 と国 のガネ - シ ャ像 とを紹 介 し た こと はす でに のべ たが ' そ の中 で彼 は' これ ら のガネ - シ ャ像 は マト ゥラ ー のグ ブ タ美 術 に お け る 二腎 ・虎 皮 の表 現 と エレク ト 。リ ンガをも つウダ ヤギ - のガ ネ - シ ャ像 の表 現 とが 混 d e r e 合 し たも のと し、 両 地 から のグブ タ美 術 の流 れ を引 いたも のと解 鐸 し て いる。 エレクト ・- ソガをも つガネ - シ ャ像 は北 イ ン フ ィ ッシ ャ ー 説 にま でみ と めら れ ' 一般 的 であ った と いう 。 ド では行 わ れ な か ったが へ 四督 。虎 皮 をも つ例 は タ - ム盆 地 の エンデ レ En ( 52) アグ ラ ワ ラは と- に絶 対 年 代 を 示 し ては い な い 。 ( 3 5 ) タ ガ - オ尊 兄 の自 大 理 石 頭 部 ( 固5)に つ いて報 告 す るな か で、 こ の l達 の 自 大 理 石像 に封 す る 様 式 観 閃 Hart e lにより 、 ま た自 大 理 石 像 が カーブ ルや ガ ルデ ィーズ から ペ シ ャー が う かが え る。 囲 像 挙 上 の解 樺 はM ・ヘルテ ル H. ワ ル、 イ ンダ ス西 岸 ま で に分 布 す る と いう のはパ レ ット によ ったも のと思 わ れ る。 相 好 、 眼 、 第 三 の眼 な ど こ のド ウ ルガ 1両 頭 部 にみら れ る表 現 は グブ タ期 から 系 統 を ひ- イ ンド的 な も のであ るが t l方 で巻 毛 や頭 飾 な ど には ガ ンダ ー ラ係 数 美 術 の晩 期 の モチ ー フを 想起 さ せ' カ ツ ュ, , ,- ルの彫 刻 と平 行 す る鮎 も 考 え られ る。 白 大 理 石像 が ア フガ ニスタ ン の地 でお こ った ひと つ の折衷 様 式 の ヒ ンド ゥー美 術 で、 そ の年 代 は ト ウ ルキ ー 。シ ャーあ る いは ヒ ソド ゥ- ・シ ャー の時 代 に相 嘗 す る と いう ので あ る。 大 理 石 ヒ ソド ゥ-像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 掴 東 軍 報 閑 の エー カ ムカ ・リ ンガを 紹 介 す るな か に彼 の様 式 観 が み ら れ る 。 こ の リ ンガ の頚 飾 ' 三遷 ' 顎 の表 現 にポ ス 方 54 ( ) タ デ イ説 ト ・グ ブ タ期 の特 色 が う かが え る。 そ の例 護 を エレ フ ァ ン タ と アジ ャ ン タI のヴ ィ ハ- ラⅠ の菩 薩 像 に求 め ' 同 時 期 す な わ ち 八 世 紀 に常 て る。 し か し リ ンガ像 は エレ フ ァ ン タや アジ ャ ン タ I の革 た る模 倣 で は な - ' サー リ ・'' '1- ロー ル Sahr ・ i I Ba h t 6 ) の ハ- リ テ ィ像 や 貴 人 供 養 像 な ど こ の地 方 の俸 統 にそ った ひ と つ の様 式 と し て完 成 し て いるも の でも あ る と考 え た。 す な わ ち リ ンガ は ボ スー ・グ ブ タ期 や ガ ンダ ー ラ後 期 相 方 の影 響 下 に完 成 し た ひ と つ の流 派 に屠 す るが ' ボ スー ・グ ブ タ期 に お け る廉 い造 像 活 動 の ひ と つ の中 心 であ って、 ア フガ ニス タ ン東 部 か ら ガ ンダ ー ラ地 方 にわ た る 西 北 イ ンド で こ の流 涯 だ け が 孤 立 し て 存 在 す るも の で は な い。 彼 は 八 世 紀 と いう 年 代 を リ ンガ を 含 め た自 大 理 石 像 に普 て た が 、 同 時 に カ ーブ ル ・カ シ ュ-1 ル問 で こ の時 代 にあ った 主 な 勢 力 は ' カ シ ュ、 、 、- ル の王 朝 を のぞ - と シ ャー ヒ朝 であ った と し' こ の像 を カーブ ルに お け る ト ル コ系 前 節 に概 観 し た と こ ろ は ア ッカ ソ以 降 タデ イ に いた る ま で こ の大 理 石 像 に関 す る年 代 観 に 二 つ のグ ループ が シ ャー朝 と ウダ パ ンダ に お け る ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 のも の に営 てた の であ る。 し か し彼 ら の絶 封 年 代 に つ い て は と- に言 及 し な い。 細 部 表 現 の検 討 あ り ' ひ と つは ア ッカ ソや - ク ツチ のよ う に 五 、 六世 紀 に お - も の' ひ と つは シ ュラ ンベ ルジ ェを は じ め と し、 と - に ゲ ツ ツ 以 降 タデ イ に いた る 八 世 紀 な いし 九 世 紀 に お - も の であ る。 ア ッカ ソお よび ト ク ツチ所 論 で示 し た と お - 、 筆 者 は 五 ㌧ 六 世 紀 課 に承 服 す るわ け に は ゆ か な い。 そ れ な ら ば ゲ ツ ツ以 降 の説 は愛 普 であ る か と いう と、 必ず しも 正 鵠 を 得 て いな い。 イ ンド の ポ スト 。グ ブ タ期 の ヒ ンド ゥー教 彫 刻 と の関 連 の中 に自 大 理 石像 が 位 置 す る こ と は自 然 であ る。 し か し ' 直 接 そ の細 部 の要 素 に お いて は と- に 比 較 す る こ と は む ず か し い。 し か も 年 代 決 定 の基 準 に彼 ら が 考 え た イ ンド に お け る請 像 が ' 説 - ひ と に よ っ て少 しず つそ の年 代 に差 を 生 じ て いる 以 上 ' ひ とえ に こ のよ う な 資 料 に た よ る わ け に は ゆ か な い。 し かも グ ッ ツ、 バ レ ッー' フ ィ ッ シ ャー、 さ ら に タデ イ に し ても 大 理 石像 が ヒ ソド ゥ-教 に展 し て いる た め に' シ ャー朝 に これ を 比 定 し よ う と いう 大 前 提 を おき 、 それ を ふまえ て大 理石像 の様 式 を ポ スト ・グブ タ期 の流涯 に求 めよう とした こ とが 明 ら か であ る。 と ころが シ ャー 朝 と い っても 時代 を前後 し てト ゥ ルキ ー 。シ ャー朝 と ヒンド ゥー ・シ ャー朝 とがあ り 、彼 ら は上 の大前提 に立 つ以 上' これ ら の大 理 石像 が 、 どちら の シ ャ ー朝 に屠 す る のか'あ る いは丙 シ ャ ー朝 に属 す る のか、検 討 不能 に終 って いる。 シ ャー朝 に屈 す る か どう か と いう 問 題 以前 に' まず 大 理石像 を詳 細 に検 討 す る ことが普 然 の作 業 であ - '軍 に ヒンド ゥー教神 像 と いう概 念 的 な とらえ方 から問題 には い ってゆ- ことは避 け る べき であ る。 「 彫 像 資 料」 の-わ し い観 察 を行う ことが でき た十数 例 のう ち'像 とし てほ とんど完壁 に残 存 し、多 - の槍 討 す べき細部 要 素 をも って いる のは タパ ・スカ ソダ ル出 土 のウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ並坐像 には かな ら な い。 これ を基 本資 料 とし、各 要素 を 抽 出 し て、 それ らが 他 の神 像 にど のよう にあ ら われ て いるか検 討 す る。 ‖ 基墓 の つくり方 ( 義) 不整形 の基底 部 をも ち ' 上面 に神像 を 彫 りだ し て いるが 、 そ の 正面 上部 に横 長 の 狭 い 一帯 をも う ハ け 'そ の部分 だ け彫 り-ぼ め' 入念 に贋研 し て いる。 こ の贋 研 部分 以 下 は粗彫 り のまま であ る。 ま た背 面 から基底 にかけ ては 粗 -打 ち割 ったあ とを残 し'側 面観 によれば '基底 部 は平 ら でな - '前 面 にむ か って尖 ら せ' いわば 片匁状 を望 し て いる。 イ ル ・ハネ の例 ( 彫像資料e から ' 正面磨 研 部 を残 し' 粗 彫 部 は基 壇 の床 面 下 にう め こまれ て いた と考 え られ '基底 を片匁状 に形 成 した のは'床 にお- のではな- 、 さ し こむ作業 を容 易 にす る工夫 であ った。 こ の正面 の磨 研 部が '革 に基墓 の前 面 で護 彫像資料S)や ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 符 者 から見 え る位置 にあ る た め' 磨 研 し てとと のえ られ て いた のか' ガネ - シ ャ像 ( ( 同日)のよう に銘文 帯 と し て造像 の雷初 から意 固 され て いた のか は不明瞭 であ る0 ガネ - シ ャ像 銘文 は 二行 とも 字配 りが自 然 であ る のに封 し、 ウ マ- マ へ- シ ュグ アラ像 の場合 は、裳 裾 が銘 文 帯右 上 にま で表現 され て いる ことを考 慮 し ても 不自 然 であ る。 こ の基童 をも つ例 は多 - ' ス- リヤ像 ( 彫像資料3 : ) ' ガ ルデ ィーズ のガネ - シ ャ像 ( 同軸) ' サカ ル ・ダ ルのガネ - シ ャ像 ( 同的) ' ハイ ル ・ハネ の 「雨 足 と武人像 とを残 す基 童」 ( 同E) ' タパ 。スカ ソダ ル出 土 と俸 え る基憂 ( 同日)ド ウ ルガ -像 ( 同軸) にみられ る。 そ のう ち ' ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 、 ガ ルデ ィ ーズ のガネ - シ ャ像 ' ハイ ル ・ハネ の基墓 、 タパ 。スカ ソダ ル 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 三〇 の基童 の四例 はみな 同 じグ ループ の つ- り を 示 し て いるが ' サ カ ル ・ダ ルのガネ - シ ャ像 で は磨 研 部 分 が ほ とん どな く てう す - 'す ぐ 粗 彫 部 にな って いる。 ハイ ル ・ハネ の ス-リ ヤ像 では' 馬 の いる中 段が '磨 研 部 に相 馨 し' こ の中 段 に つづ - や や下方 ま で磨 研 され 'そ の下 が 粗 彫 - にな って いて' サカ ル 。ダ ルのガネ - シ ャ像 の基童 形 式 に似 て いる とも いえ る。現 存 す る大 理 石像 のう ち 、・ 基 童 をも つも のは七例 で、 そ の六例 が こ の形式 を と って いる ことは 注 意 す る必要 が あ る。 他 の 一例 は ガズ ナ朝 王宮 から 出 土 したも ので、 そ の像 が イ ンド からも たら され たも のであ る こ とはす でに記 し たが 、基 墓 形 式 から み ても 六例 のグ ループ に加え る 三 叉戟 形 式 ( 表'挿囲7) 固 像 挙 上 三 叉戟 を持 物 とす る のは シヴ ァ関 係 の像 であ ってt と こ とは でき な い。 臼 - に こ こ では、 シヴ ァの貸 し輿 え た三 叉戟 を使 って マヒ シ ャー スラを退 治 す る両 妃 ド ウ ルガ も ので、武 器 の装 飾 を ここ に援 用 したも のであ る。 こ のよう に木葉 状 装 飾 は'持 物 と し て三叉戟 や槍 な ど の武 器 を持 つ例 には と つのき まり とな って いた と考 え られ る。 ま た同 じ- ス1 - ヤ俊 二頭 の馬 の鞍 の緑 飾 は、木 葉 型 のう ち 片側 だ け をあ らわ した ダ ソダ の武 器 にも みら れ ' そ こ では三 叉戟 ではな い、槍 の身 であ る こ と に興味 深 い鮎 が あ って、 こめ 種 の大 理 石像 の武器 のひ 同式 の三叉戦 が あ った とみ てさ し つかえ な い。 こ の三 叉戦 の中 央 の身 の形 式 は' ハイ ル ・ハネ出 土 の ス-リ ヤ像 の脇 侍 であ る れ る。 腰 の上 に三叉戟 を突 き さす ガ ルデ ィーズ のド ウ ルガ -像 と形 式 が ま った-同 一であ る から 、 こ の像 にも ガ ルデ ィーズ と 近 の出 土 ら し い シ ュラ ンベ ルジ ェが 報 告 す る例 ( 彫像資料内)に は' マ′ ヒ シ ャー スラ の腰 の上 に三叉観 を突 き さ した残 敵 が みら が固 形 に近 -虞 理 され て いる こ とな らび に中 央 の身 が 木葉 状 に表現 され て いる こ と であ る。 ド ウ ルガ-像 のう ち ' カーブ ル附 長 い身 が あ り'そ の根 本 から 二又 にわ かれ 、 三叉 の形 を と る。 そ の彫 出 の特 色 は三 本 の身 によ ってか こまれ る根 本 に近 い部 分 彫像資料栂)と に認 められ る。 形 態 は中 央 に細 Iであ る。 そ の例 は ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 と ガ ルデ ィーズ のド ウ ルガ -像 ( 挿圏7 三叉 戟 ( 1 ) 彫像資料13 ,( 2 ) 同7 X L IX , tt6). ウ マ- マ へ- シ ュヴ ア ラ像 の ウ マ-及び マ へ- シ ュグ ア ラ' ス- リ ヤ' ガ ルデ ィーズ の シヴ ァ ィーズ のガネ - シ ャ ( 同%)' サカ ル ・ダ ルのガネ - シ ャ ( 同E)' カ ラ ・ア , , ,- ル ・モ ハマド のド ウ ルガ - ' ris, )961, pt . す べ て表 現 され て いる こ と にな る。 ト ツクズ 。サ ライ Tq oq u zSaraiからも 木 彫 の同式 の出 土を み る こと に注意 し た い (Mi s s . i n mc h ouq. Pa デ 冠 ( 義) 冠 を被 る像 は Paut Pet l i ot I,T ou 臼 ( 彫像資料 3 g)' ガ ル ( 同州)t であ る。 こ のう ち ' マ へ- シ ュヴ ア ラ' シヴ ァ' ガ ルデ ィーズ のガネ - シ ャの冠 は' 三面 立飾 ' 軍 両 立飾 の別 はあ る け れ ども 、牛 固 形 の中 に ク レ ッセ ソト と - ンガ とを配 す る こ と は同 じ であ る。 そ の構 成 は、 ク レ ッセ ント の上 に リ ンガを 立 て' リ ンガ上方 に -ボ ンを結 び ' そ の南 端 を ク レ ッセ ソー の南 端 に結 ん で いる。 ち ょう ど人 が 立 って腕 を ひろげ た よ- であ る。 ガ "p u r e t y K抑h s mi r ニype" だ そう であ るが ' カ シ ュ-1 ルの例 示な - し ては にわ か にそ の比定 ネ - シャ ( 同軸)の天 冠 は、 頭 頂部 を敏 損 す る ので マ へ- シ ュヴ ア ラ のよう に明 確 ではな いが ' 同様 の表 現 であ る。 こ のよう な 天 冠 の表 現 は ゲ ツツによれば ( 55) は 結 に承 服 す る こ と は でき な い 。 と- に カ シ ュ-1 ルの ヒ ンド ゥー造 像 に関 し ては、 pur e t y と いう 言葉 を使 え る ほ ど明 ら か にさ 冠巾 の表 現 ( 表、挿固3) 冠 は、 冠帯 の側 頭部 に普 る と ころ から巾 が 出 て' そ れ によ って冠 を頭 に固定 し て いる。 巾 れ て いる と は考 え られ な い。 輯 ば れ た のち 、 そ の飴 った部 分 を 垂 下 し て いる。 垂 下 し た部 分 のう ち 下 から 年 分 以 上 ま で には横 方 向 に爪 形 を い- つも きざ ん だ 摺( ?)が あ り 、 こ の槽 よ り 上 は縦 方 向 の槽 を きざ ん で いる。 マ へ- シ ュヴ ァラや ス- リ ヤな ど の後 頭 部 にみら れ るも の であ る。 マ へ- シ ュヴ ア ラ の方 は ス- リ ヤよ りも 綿 密 で候 数 が多 - ' 彫 も 深 いが ' ス- リ ヤ では粗 い。 ハイ ル ・ハネ では こ の ス1 - ヤ のほ か に光 背 の断 片 も 出 土 した こ と は前 述 のと お り だ が ' こ の光 背 に巾 の爪 形詔 の部 分 が 表 現 され て いる。 マ へ- シ ュヴ アラ も ス- リ ヤも 巾 の結 び 目が な いのが 特 色 であ る。 これ ら の像 は正 面観 を強 調 し て、背 面 の仕 上げ は像 の形 を と と のえ る た め に 磨 研 し て輪 郭 を 出 し た のに と ど め て いる。 し か し と- に後 頭 部 の表 現 だ け は' 正面 と同 程 度 に入念 綿 密 に彫 り 出 し て いる。 こ の鮎 が 非 常 に注 目 され ' 主神 の頭 部 の造 形 が そ の意 味 は不明 だ が と- に重 要 祝 され て いた鮎 を 指摘 した い。 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか また他 の二鮎 は自大 理石 ヒソド ゥ-像 と いう だ け で'何両 に相嘗す る かわ からな い。 タパ ・スカ ソダ ルの四断 片 は いず れも 長 シヴ ァ神 像 ジ ェラー ラ ー.. ハード Je t at abad 西郊 のダ ル ソタ D a r u n t a 出 土 と俸 え られ て いるも ので' 寓 県資 料 とし て あ る . タ。 ハ ・スカ ソダ ル北方数 百 メー ト ルにあ る小 丘 の遺 跡デ ー ・・ , ,ル De h Mi rから数 年 前 に良 民 が採集 Lt現 ( 缶) 〇 セ ンチま で の小 片 で' 三鮎 ま でが 蓮華 をも った手 へ 一鮎 が連 珠環師 をあ らわ した腕 (宿?)であ る。 さ一 掃 シヴ ァ紳 頭部 i mBr t iと いわれ るが 未顎 表 の資 料 で 在 カ ーブ ル市 の警 察学 校 長 の私蔵 晶 で、 ト リ ム- ルテ ィ Tr 掃 Moustamiロdy 博 士 の教 示 によるば かり で'寓 ア フガ ソ考 古研 究 所 に登録 され て いるが '所 長S ・B ・ム スク マソデ ィ S.B. 県 す ら未 見 であ る。 房 し た . エー カ ムカ ・- ソガ Ekamu kh a t i hga (旧 11 ) ペ シ ャー ワ ルの ア ルバ あ 節 る 。 一七 に表 現 され て いるだ け であ る。 耳師 は連 珠環 、頚飾 も連 珠 で'そ の上 に び 明 確 な彫 り だが'柔 味 を 出す。 耳 よりう しろ は形式 的な 波状髪 が 入忠 いる。 三眼 で鼻 を鉄 損 Lt顎 は表現 され て いる。 相 好 は全 鰹 に園味 を お で粗彫 のま ま残 し'基底 は平 ら であ る。基底 にむ か ってや や細-な って あ たり の出 土 とみ るが '妥 皆 で イ M . Ta dde i は フ ソド Hund' ウダ バ ー ソダブ ラ Udabh晋 dapu r a () 上牛 は磨 研 され '下 牛 は八面 どり ーブ ・ヒダ ヤ ト ・ウ ラ ー Ar bab Hi dayatUt t ah 所 蔵。豪 表 者M ・タデ 掃 と のな い単 な る リ ソガ石 であ る。 いね いに磨 研 し てあ り' 上下 二石 より成 るが ' シヴ ァ頭部 を彫 出す る こ - ソガ ・スト ー ン ( 挿国5) A ・71 シ ェが ラーグ マンL a g h ma n 地方 を l九 二五年 l〇月 に踏査 した とき ' タ ガ - オ に ( 雄) 今 カ ーブ ルの ア フガ ニスタ ン国 立博 物館 臓。高 さ約 七 五 七ソチで砲弾 型 を豊 し、 て お いて原 位置 で立 って いる のを硬 見 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ソド ゥ-王朝 のも のか 挿 問 5 Li hga ( 彫像責料1 6) 賓 冠 であ る のに他方 が 三面賓 冠 であ ったり 、相好 全鮭 や とく に眉 の表 現 な どやや差 異が 認 められ る のであ る。 ま た ウ マ- マへ - シ ュヴ ァラを はじ め とし て平 面的 すな わ ち 正面観 に主鮭 を お いたも のと、そう ではな - ド ウ ルガ -像 のよう に丸彫 のも のと が あ る。 これ には固像畢 な原 因があ るか と いう とそう とも い いき れず ' ド ウ ルガ -像 な ど でも 丸彫 でな い例も イ ンド では しば しば みう けられ る0 こ の 1達 の大 理 石像 は正面観 を主 と した像 でも背 面 を全 然彫 り出 さな いも のはな - へそ の意 味 から は いず れも 相 互 に隔絶 し ては いな い。 こ の鮎 ガ ンダ ー ラ の片 岩製 の係 数 彫 刻 の俸 銃 とは相 容 れず ' 大 理石像 と ガ ンダ ー ラ片岩像 と の 間 に つなが り を持 た せよう とす る説 には首肯 Lが た い。 大 理石像 が完全 な 丸彫 ではな いに せよ、む しろ フ ォソド キ スタ ン駿 寺 の塑像 を はじ めとす る傍 教諸 像 に、大 きな流 れ の中 のひと つと し て関 連 す る と'考 え る方 がむ しろ自 然 であ る。 細 部 要素 の つなが りを相 互 に観 察 でき た ことによ って大 理石像 は ひとま とま- の性格 の中 に とら え る ことが でき 'そ の事 は 製 作年 代 にも 非常 に大 きな 差がな いことを示 し て いる。 しか し'各 々の間 のこま か い年代 差 に関 し ては これ だ け の資 料 から は 検 討 を さけ る べき であ ろう。 以 上検 討 し てき た と ころ と- に注意 す る必要 のあ る特 色 は第 四 に掲げ た冠巾 の表 現 であ る。 こ の 種 の冠飾 とも い- ''(きも のが サー サー ソ王冠 に附随 したも のであ る ことは周 知 の事案 であ る。 しかも サー サー ソ王 はそ の系譜 と年 代 が 確定 し てお-、年 代考 定資 料 とし て俵患 す る に足 る. したが って次節 では こ の サー サー ソ王冠 におけ る冠巾 の表 現 を 追 跡 し'同時 に サー サー ソ王冠以外 のも のにど のよう にあ らわれ るか' か つそれ ら と大 理 石像 と の関 連 にも ふれ て'大 理石像 の年 代観 を示 した い。 冠巾 の表 現 遺 物 に 3 サ ー サ ー ソ朝 王像 を表現 した磨 崖浮 彫 '銀 盤、貨 幣 な ど の冠巾 は、結 び 目以下 の部 分 が 風 に翻 った状 態 を 示 し て ( 56) ついて巾 だ け の表 現 を分 糞す る と次 の三型式 にな る ( 挿固 9 )。 結び 目 から先 の部分 に多 - は爪 形 の いる。 こ の一 二種 の 横 縞 だ けが み と められ る。㈲ 結 び 目 から さき の部 分 のう ち'結び 目 に近 い年分 は縦 縞 で、先 端 に近 い年分 は横 縞 であ る。佃 と - に縞 目が み と めら れ な いも の。 こ の三型式 のう ちB式 が も っとも 頻繁 にあ らわ れ '次 がA式 で、C式 はきわ め てまれ であ る。 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 東 方 畢 報 ( 1 ) ( 2 ) B式 押 倒 9 サ ーサ ー ソ王冠 の 「 f l ( 1 ) A式 日 サー サー ソ王冠 三四 バ フラ ー ム Ba hr抑m 二世 (二七六-二九≡)に いた る ま でに上 の 三種 の遣 物 上 に 三型式 とも あ ら わ れ て いる。 と- に貨幣 ではA式 の巾 ば かりが ' ア ルダ シー ル Ar da s h ir l世 から rJ ',フラ ー ム二世 に いた る 五 王 に み と めら れ t 、 バ フラ N arseh (二九≡-三〇二)以降 表現 され る ことがな い. シ l世 ( 二四三-二七三)と ホ ル、 , 、 ズ ド Ho r mi zd 一世 (二七三-二七 ー ム二世 の次 の ナ I ル セI ャIo フー ル S h apur 四)と に はC式 の表 現 も あ るが 、 これ がC式 の唯 lの例 であ る. 銀盤 はバ フラ ー ム 一世 ( 二七四-二七六)に は じ め て遺 物 と し てあ ら わ れ て- るも の であ るが ' こ の王 は の ア ルダ シー ル l世 、 シ ャープ ー ル 1世 ' ナ B式 '次 のバ フラ ー ム二世 はA式 であ り '貨 幣 にみ るご とき 方 向 はな い。磨 崖 浮 彫 N a qsh・ i ・ Rus t a m は ナ ク シ ・ル スタ ム ク シ ・ラジ ャーブ N a qsh・ i ・ Ra j ab の シ ャープ ー ル 一世 ' ナ ク シ ・ル スタ ムのバ フラ Khos r a u 二世 な ど にみ ら れ '磨 憎 浮 ー ム 一世 ' t、 ハフラ ー ム二世 ' ナ - ル セ-、 ホ ル・ , 、 ズ ド 二世 ' ク ーキ ・ブ スタ ー ン u s t an の ア ルダ シー ル二世 ' ホ ス ロウ T a q ・B i・ 彫 のあ る 王像 に はす べて に こ の巾 の表 現 が み と めら れ る。 そ の型式 は 二種 あ り' ア ルダ シー ル l世 で はA式 だ け ' シ ャープ ー ル l世 には ナ ク シ ・ル スク ムのB式 と ナ ク シ 二フジ ャーブ に みら れ る縦 縞 だ け のも のとが あ る. シ ャープ ー ル 一世 以降 はす べ てB式 であ るが ' クー キ ・ブ スタ ー ソの ア ルダ シー ル二世 だ け はA式 であ る。 こ のよ う にみ る と サ ー サ ー ソ王冠 では' 初 期 にはA式 が も っぱ ら 使 わ れ t と- に シ ャ ープ ー ル 一世 代 ( 二四三l 一 七三)では貨幣 に は前 代 を踏 襲 し てB式 が つかわ れ たが' 磨 崖 ではB式 が つかわ れ 出 し、 そ の中 間 の縦 縞 をも つも のな ども あ った。磨 崖 で は は や-B式 が l般 化 した のに勤 し' サー サー ソ王像 を表現 した主要 な 三種 の遣 物全鰹 にB式 が 一般 化 した のはほ とん ど四世紀 から であ って、 こ の型式 が貨幣 では便化 し っ つも 七世紀 中葉 ま で歴 倒的 に用 いられ た のであ る。 れ る 5 。 以 上 の サー サー ソ朝遺 物 におけ る表現 は遺 物 の絶封 年 代 の明確 なも のに限定 したが ' オ ルベ リ ー.〇r be iが 七世紀初 頭 に比 ( 57) 定 した サー サー ソ後 期 の' クーキ ・ブ スター ン崖 墓 正面 の アー チ左右 の浮彫 にも 認 められ 、銀 盤 の様 式 から み て サー サー ソ後 ( 8) そ し て サー サー ソ朝 の遺 物 に表現 さ 期 あ る いはボ スー ・サー サー ソ ( 七世紀後半)と考 え られ るも のにもB式 が み と めら れ た巾 は'普 然 ク シ ャ ー ノ ・サ ー サ ー ソ' エフタ ル、 イ ンド ・サ ー サ ー ソと いわ れ る サ ー サ ー ソ彊 域 の東 方 で模倣 され た サ ー サ ー ソ系貨幣 の上 にも 認 められ る。 そ の サ ー サ ー ソ彊域 の東 方 に普 る ア フガ ニスタ ン東 部 に於 てこれ ら の貨幣 以外 にも こ の系 統 の冠巾表 現 が存 在 す る のはな んら 不思議 ではな い。 ( 59) 冒 .' ' 1- , , ,ヤー ン Bp mi y an B式 とC式 とが ここ で認 められ る。 ここではそ の例が非常 に豊富 であ る。 そ の分布 は'三五 メ ( 60) ート ル大悌姦 天井側 壁 の貴 族 恰衆 供養 固 、 天井 ス1- ヤ墓像 ' 三 五 メ-ー ル大悌轟 周過 の諸 窟 ' 五 三 メート ル大悌 足 下 の諸 窟' カ クラ ク石窟 群 な どバ ー ミヤ ー ン渓 谷 の石窟 ほ とんどを おお って いる。も っとも集 中 し てそ の例が みられ る のは 五三 メート ル て プ ラ ソを 八角 形 とし' 各 壁 に悌 大 俳 の足 の周囲 に開 口す る 二 窟 で' そ のう ちⅠ' Ⅱ、 刃 の三窟 は石窟 の壁 を 八面 にわ け ( 61) 寵 を はり こみ' こ の壁面 の上 に牛 球状 の天井 を彫 出 し て架す るも のであ る 。 天井 のう ち壁 に近 接 す る 一帯 は二段 に分 れ 'そ こ Ki r i t mu k h a )が残 って いる。 上 段 は アー チ型尖 頂 の列轟 で' に列鳥 形 を造 り出 し'下 段 は 三乗 型尖 頂 の列轟 が 壁柱 の上 に架 構 され たあ り さまを 示 し、各姦 内 には いま は頭 光 ・身 光 だ け を 残 す 坐傍 が も とあ った。 三菓 型 の相 互 の問 には鬼 面 ( キー ル テ ィ ムカ いま は頭光 ・身光 だ け を残 す塑造 立傍 が あ って' 下 段 と同 じ-'各轟 の間 には キ ー ルテ ィ ムカを配 し て いる。翻 る巾 の表現 は ( 62) これ ら轟 の尖頂部 に左右 になび -B型式 で'表 現 に精 粗 の差が あ るが 上下段 とも 同式 であ る。 ま た これ ら の列轟 にあ っては三 菓 型 や アーチ型白燈 に唐 草 紋 を泥 の型 ぬき によ って貼 付 Lt装飾 とし て いる。 こ の唐 草 紋 は葉 と考 え られ る部分 が 完全 に菜 と ( 63) し てあ らわ されず '小 球 形 に便化 し て いる鮎 が特 色 であ る ( 挿囲10 )。 こ のよう な表現 は唐 草 紋だ け に とど まらず '鳥 形 の間 の 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 東 方 畢 JI 報 三 六 キ ー ルテ ィ ムカにも あら われ て い こ の紋様 は (朗 ) る 。 s a n c t uaire.と した悌像 を ま つる窟 にこ a rc h を はり 出 し' そ の上 に半球状 天井 - のそれ と同 じ であ る ( 挿固11) 。 のせ て いる。 G窟 出 土 の坐俳 衣紋端 の虞 理 は ウ マ 轟 帯 をも う け 'そ の上 に二段架 構 の持 送 り天井 を Ⅴ窟 は俳轟 をも つ四面 の壁 の上部 に三葉 型尖頂 列 を架 し て いる。 天井 の壁墓 に便 化唐 草 紋が みえ る。 sq u in c h プ ラ ソをも ち t G窟 は四隅 に ス キ ン チ ・アー チ に泥 で尖 頂型 、便化 した唐 草 紋 の装 飾 を施 し て い ( 防) る 。G窟 と 五 三 メー ト ル大 悌 足 下 のⅤ窟 と は方 形 つなぐ 一帯 に三乗 型 の轟 形 をきざ み こみ'そ の上 囲 天井 を架す る窟 であ るが ' 列轟 は壁 と天井 とを 段 と上段 と に配 す る。 D窟 も 八角 形 プ ラ ンの上 に 井 を架 Lt 三乗 型尖頂 と アー チ型尖 頂 の列轟 を下 の唐 草 紋があ り' や はり八角 形プ ラ ソに牛 球状 天 ッカ ソが た 三 五 メート ル大俳轟 東 方 のFtDtG の諸 窟 で ( 65) も みられ る。 F窟 は五窟 から 成 るが 'そ のう ち ア Ⅴ' 氾膚 にも やはり列轟 装飾 として つかわれへ ま 挿 闘1 0 巾 ・唐草紋 のある三菓型姦 ( B豆mi y豆n53m 俳轟の第 Ⅰ洞) バ ー -ヤー ソで今 ま で調査 され た限 り では' 八角 形プ ラ ソの上 に牛 球状 の天井 を架 す る構造 の石窟 は七窟あ り 'そ のう ち 二 窟 Ⅲ' Ⅶ は泥 を貼 付 した列姦 装 飾 が全 部 剥 落 し て原 形 を と ど め て いな い。 残 る五窟 にはす べてに列轟 に便 化 した唐 草 紋 を配 し' ま たF鹿 ひと つを のこす はかはす べ てに キ ー ルテ ィ ムカの装 飾 が みられ る。 そ のう ち少 く とも 二窟 に は サー サー ソ系 王冠 にみ ( 腿) られ るも のと同種 の巾 の表現 が み と めら れ た。 便化唐草 紋 と キ ー ルテ ィ ムカとB式 の巾 が ひと つの セ ット にな ってバ ー -ヤ ー ソに存 在 す る ことを認 める必要 が あ る。 さら にバ ー ミヤ - ソ東部 のカ クラ ク石窟 でも 八角 形プ ラ ンの上 に牛 球状 天井 を架 す る 一窟 があるが、 こ の場合 壁 に近 い天井 部 に壁書 帯 を設 け' 天頂 にも囲 形 を基 本 とす る千俳 園が あ る。 壁 書 の残 存状 態 はわ る いが '天井 下部 では、楯 挟 型 列轟 に菩 薩 T apa S ard ar ガ ズ ニー西南 のダ シ ュテ ィ ・マナーラ 三七 あ り ' 特 の' 珠状 に襲 化 したよう な葉 の表 現 手法が、 同 じ ヴ ィ ハ- ラ出土 の塑造 (. '1- -ヤ ー ンの例 より若 干租薙 さが み とめら れ る。 同時 にそ の唐草 紋 の滞 す る特 徴 をも って いる。 す な わ ち 三業 型轟 形 には便 化 唐草 紋 の装飾 が 菱 表 され たが ' それら はあ き ら か に上 にの.'(た、、 ハ1 、 , 、ヤ ー ンの諸 例 に 一致 70 () ら剥落 し て雛精 し て いたo これ ら の彫 塑類 は タデ イ M .Tadde iによ って が か こむ 長方 形 プ ラ ソのこ のグ ィ ハ- ラには多 - の泥像 や建 築装飾 が壁 か 九 六 二年 と 一九 六七年 の二回 の費 掘 によ って完 掘 され た.泥 煉 瓦を積 む 壁 一九 五九年 以来 蓉 掘 され '大 スト クーパを中 心 にした俳 教寺 院 であ る こと ( 69) が 判 明 した。 そ のう ち晩期 に屠 す る ヴ ィ ハ-ラ第 1七 Vi ha r aL7 は' 1 D a s h t ・ i ・ M anar a にあ る楕 鳳 形 平面 をも つ遺 跡 で' 坐像 を描 -。 各亮 の間 には鬼 面 ではな - ' スト ゥ-パ園 を描 くが '楯 扶塑自 身 は便 化 した唐草 紋 を措 -。 同時 に千俳 構 成 の中 夕パ ・ サ ルダ ル 心 にな って いる菩 薩像 は冠 の左右 に ひるが え るB式 の巾 を つけ て いる0 日 大 理 石 ヒ ソド ゥI像 は ヒ ソド ゥI王朝のも のか 挿 固11 坐俳塑 俳 ( B豆m i y云nG 洞 出土) 東 方 .翠 .報 (71) ト ルソー の理 路 に 鵬 ま た俳像 の螺髪 に韓 用 され て いる とみ て よ い o さら に注 目す べき表 現 は, こ のヴ ィ ハ- ラ奥 壁 にま つられ ( 72) た' いま は脚 だ け を残 す 坐俳 の衣 紋末 端 の槽 であ る 。 ハ-ー型 の襲 形 とも tY字 塾 の轡 形 とも いう べき こ の虞 理 はさき に のべ 。 ロ d u , ,ヤ」 ソの例 にも 通 じ'大 理石像 のう ち ウ マI マ へ- シ ュヴ アラ像 のウ マ-衣 紋端 と規 を lにし て いる。 たバ 1 , ( 73) ⇔ フォンド キ スタ ン F ki s t an 巾 の表 現 は 二例 知られ て いる 。 ひと つはギ メ-博 物 館 にあ る'豊 麗 な賓 冠 をも つ菩 薩 塑 ( 74) ( 75) 像 ( 挿圏T <C C) '他 は壁 書 の育 蓮 手 菩 薩像 ( 挿園S)であ る 。 前 者 はD姦 奥 壁 む か って左 手 の脇 侍 '後 者 はE轟 正面 む か って右 壁 に o r b and 渓 谷 流域 の シア 。ギ ルド村南 方 の谷 口にそび え る瓢 丘 上 の狭小 な 場所 あ った。 フォ ンド キ スタ ン厳 寺 は ゴ ルバ ンド G に立 地 し て城 壁 のご とき棟 相 を 示 し て いる。 出 土 した多 数 の彫 塑 類 はボ スー ・グブ タ系 と サー サー ソ系 の様 式 を混 合 した鮎 に 特徴 が み と めら れ る。 こ の遺 跡 が 重 要 であ る のは'バ ー ミヤー ンや タパ ・サ ルダ ー ルではそ の年 代 を明確 に示す資 料 が敏 け て いた のに封 Lt そ の上限 を お さえ る資 料が 出 土 した こ と によ る。 スー ク-パを中 心 に し てへ そ の四 周 を か こむ悌 轟A∼L のう ち tE には おそら - こ の俳 寺 建 立 に深 い関 係 をも った と考 え ら は ' サ ー サ ー ソ式 の銀貨 二枚 と他 に 一枚 の銀貨 と数 枚 の銅貨 とが 灰 ととも にお さ められ て いた。 ア ッカ ソは サー サー ソ式 銀 れ る貴 族 夫婦 の塑像 が ま つられ て いたが 、 そ の像 の基 童 とも稀 す べき も の の下 に 一個 の火葬 骨 壷 が 埋約 され てお り'火葬 骨 壷 に h o s r ow 貨 を ホ ス ロウ ・パ ルウ ェ-ズ K し た 。 Parvez ( ホスロウ二世)にあ て'他 の銀貨 の蹄 層 は明 ら か に せず '数 枚 の銅貨 をJ ・ド ・ 6 7 ) ( よ って ア ッカ ソの h a rdjistan 吏 行 のも のと モ ルガ ン J.deMo r g an に したが ってゴ ル・, . hスター ンの シ ャー ル Sardu G フ ォンド キ スタ ンに常 てる年 代 は' ホ ス ロウ二世 を 上限 と し てだ いた い五九〇年 を さ か のぼ ら な いも の で あ る。 と ころが こ 〝 ビ ス, , ,ツラ ー Bi s mi t l a 〟 と アラブ 文 字 が よ め る こ とな ら び に A Z Rと i r s h ma n は' これ ら の貨 幣 をあ ら た め て 検 討 し な お し、 ア ッカ ソが ホ ス ロウ 二世 に比定 し れ に封 し てギ ルシ ュマン R.Gh . b v e r s e )の縁遠 部 に た サー サー ン式 の銀貨 が ' 表 面 ( t s i h とよ める こと によ り イ スラ ム暦 三 七年 す なわ ち あ る こと によ って脊 行 地が スサ Sus a であ る こ と、 さ ら に ハフー シー hf キ リ スト紀 元 六 五 七年 に打 刻 され たも のであ る ことを明 ら か にした。 ま た表 面 には これ ら と は別 に動 物 の頭部 を打 刻 したあ と 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ソド ゥI王朝 のも のか 挿 国1 2 青蓮華手菩薩聖像 ( Fo n du k i s t a l l ) が み と めら れ たが 、 こ のよ う な 打 刻 貨 幣 が ト ハリ スタ ソ To kha r i s t an で手 行 され たも のが 多 いこ と から ' ギ ル シ ユマンは こ の貨 幣 が バ ー - ヤ ー ソー フ ォソド キ スタ ン地 ( 77) 方 の小 王 た ち によ って顎 行 され たも のと解 揮 し た. ま た P iO 数 枚 の 銅 貨 に つ いて 彼 は、 ト ハラ文 字 に よ る C SAHO ( Sri o抄 a h i )の銘 と エフタ ルの シ ムボ ル マー ク を し た 7 。 ・ ,ヤー ソの小 王 によ る章 行 であ る こ とを 示 み と め' バ ー ・ ( 8) こ の 一群 の銅貨 に つ いて は コ- ヒ スタ ー ソな ら 唆 び に コーダ ー マソ地 方 で従 来 多教 委 見 され て いた彼 の い pi ma t ka 型 のも のと銘 以 外 う ナプ キー ・マルカI Nak は共 通 の特 色 をも つこ とを 明 ら か に Lt ナプ キ ー ・マル カ-型 貨 幣 が ' ホ ス ロウ 二世 の王 冠 と の比 較 から ' 七世 紀 以 前 のも の ではあ りえ な いこと を 示 した。 と- に ア ッ カ ソが ホ ス ロウ 二世 貨 とみ と め た貨 幣 に封 す るギ ル シ ュ マンの検 討 は安 嘗 な 結 論 であ って' これ によ って フ ォ ン ド スキ ク ソE姦 造 立 は 六 五 七年 を さ か のぼ る こ と はな く E轟 の塑 像 とま った - 同 一様 式 に屠 す る フ ォ ソド キ スタ ンの塑像 な らび にそ の建 築 装 飾 を ふ - め た フ ォ ソド キ ス タ ン巌 寺 の スト ゥ㌧ ハ ・コート の創 建 は早 - とも 七世 紀 三九 挿 周1 3 菩薩像頭部 ( Fonduki s t an,Mus d eGui met ) 四〇 後 牛 に相 常 す る。 \ こ の フ ォ ンド キ スタ ン に お いて 二 種 の巾 の表 現 が あ る こ と は前 述 し た が ' 塑 像 に み え る のはB式 ' 給 墓 のも の は縦 に線 のは い ったも の であ る。 ま た 轟 の正 面 は ア ー チ型 を な し ' 各 轟 の間 は壁 柱 を 泥 で浮 彫 に L t 各 轟 の正 面 の アー チはこ の壁 柱 に の ( %) ってい る。 ア ー チ の装 飾 は バ ー ミ ヤ ー ンと同 じ 便 ( 8 1) 化 唐 草 紋 を 配 し て いる 。 し たが ってバ ー - ヤー ン、 タ パ ・サ ルダ ー ル' フ ォ ンド キ スタ ソの三者 は ' 便 化 唐 草 紋 を そ の共 通 の 建 築 装 飾 と Lt そ れ と開 適 し てB式 の巾 の表 現 が みら れ 、併 像 を は じ め とす る彫 像 はす べ て塑 像 であ る と いう 特 色 をも つ。 さ ら に フ ォ ンド キ スタ ンの ウ シ ュカ ル U sh k a r 巾 のひるが え った例 は ア フガ ニスタ ン の彊 域 を こえ て カ シ ュ, ( ,- ルにま で認 めら れ る。 す な わ ち ウ 年 代 から 考 え 、 これ ら の要 素 が は や - とも 七世 紀 後 車 のも のであ る こ とが 明 ら か であ る。 輯 シ ュカ ル出 土 の テ ラ コッタ頭 部 であ る ( 挿tE )o れ ウ シ ュカ ルが ﹃ラ ージ ャタラ ソギ ニー﹄ にみえ る フ シ ュカプ ラ Hus h k a p ur a ( 2 8 ) た 。 そ の フ シ ュカプ ラは、大 ク シ ャー ナ期 の フグ ィ Cu ロ niロ g h am によ って比定 さ であ る こ と はす で にA ・カ ニソガ ムA. シ ュカ王 ま でさ か のぼ る こ とが ' そ の名稀 から 察 せら れ 、 ま た ク シ ャー ナ期 に関 係 す る遺 物 の出 土 も 停 え ら れ て いる。 し か し k o t a 朝 の ラ - クーデ ィ テ ィヤ 。ムク クーピ ーダ 王が こ こ で重 要 な のは、 ﹃ラ ージ ャタ ラ ンギ ニー﹄ にみ え る カー ル コタ Kar , ,ソ M ukt as vami n と いう ヴ ィ シ ュヌ神 殿 と スト ゥ-パ のあ る大 ヴ ィ そ の在 位 中 に フ シ ュカプ ラ にお いて' ムク タ- スヴ ァ1 , る が ' ハ- ラとを建 立 し た こ と であ る。 ラ - クーデ ィ テ ィヤ 。ムク タ-ピ ーダ 王 の年 代 に関 し ては 、 ゲ ッツや スタイ ンら によ ってそ ( 84) 筆 者 はそ の在 位年 代 を ほぼ 七 三〇 年 から 七 六 六年 に普 て る こ とを妥 常 とす る。 ﹃ 新 唐 書 ﹄ 奄 二 二 一下 の れ ぞ れ 異説 が あ は 、 え S.Lか viとが 考 足 し た と ころ で チ ャ ンド ラピ ーダ Cand r a pi da' クー ラ ーピ ーダ Tar a . p毘a'ラ リ タ-デ ィテ ィヤ の順 に 王位 が 騰 承 され た と み Ch a v a nn e s と レグ ィ E. あ る jJ J 、 r 。 箇 失 密 図 の候 を み る と'開 元 八年 にそ の三尾 陀 羅 秘 利 を筋 立 して 王 と し、彼 は しば しば 胡薬 を猷 上 してき た。 天 木 が 死 ん で、 ( 85) 弟 の木 多 筆 が 王位 に のぼ っ た .とあ り'員 陀 羅 私 利'天 木、木 多 筆 の順 に王位 に つ いた と考 え ら れ る。 ﹃ラ ージ ャク ラ ンギ ニー﹄ ( 6 8 ) る oチ に ヤ ソド ラピ ーダ が 員 陀 羅 融 利 に相 嘗 す る こ と は シ ャヴ ア ン ヌ そ う す る と天 木 は クー ラ ーピ ーダ ' 木 多 筆 は ムク ク ーピ ーダ す な わ ち ラ - クーデ ィ テ ィヤに比 定 され る。 チ ャ ンド ラピ ーダ は い う 。 ﹃ラージ ャクラ ンギ ニー﹄ によれ ば 八年 八 ケ月 の統 治 と し、 クー ラピ ーダ は約 二年 、 ラ リ クーデ ィテ ィヤ ・ムク クーピ ーダ は ( 88) 県 陀 羅 秘 利 は 開 元 八年 に筋 立 され て いる から 、 七 二〇年 にはす で に カ シ ュ, , ,- ル王 であ った と いえ よう 。 す る 三 六年 と と天 木 であ る タ- ラ ーピ ーダ は 七 二八年 から 七 三〇年 ま で、木 多 筆 す な わ ち ラ リ ク ーデ ィテ ィヤは 七 三〇年 から 七 六 六年 が在 新 府 元免 ﹄ 奄 九 七 五 ・ 位 期 間 であ り へ こ の三 重 は こ の年 代 以降 ではあ - え な い。 と- に ラ - クーデ ィテ ィヤ王 に関 し て は、 ﹃ 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 東 方 畢 報 三二 以 上 四鮎 の特 色それ ぞ れが 各像 の間 に共通 であ るほ か'頭 髪 の虞 理 、衣紋線 の 刻 み方 '連 珠装 飾 '指 輪表現 な ど にお いても や はり若 干 の共 通性が みら れ る。 ド ゥ ルガ 1両 と いわれ る カ ラ ・ア ミ ー ル ・モ ハマド の像 頭部 、 ウ マ1㌧ ハイ ル ・ハ ネ基重 の供養 武 人な ど'頭頂部 におけ る髪 の表現 は、Ⅴ字 形 の溝 を刻 む ことによ り'前 頭 から後 頭 へと平 行 し て毛髪 をあ らわ し て いる。 ま た ス-リ ヤ像脇 侍 のダ ノダ 頭部 は側 頭 へなび -毛髪 を つ- り出 し て いるが 'それ は ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 のむ か って右 下 に いる童 子 の頭髪表 現 とま った-同 種 であ り' ダ ソダ のそ れ が 毛髪 ではな - '被 り物 のひと つであ った と し ても ' そ の頭頂部 に何も表現 せ ず '側 頭部 にだ け こ のような表現 をす る と いう鮎 が ひとし い。 衣紋 の判定 でき る例 は' ウ マ- マ へ- シ ュグ アラ' ス- リ ヤ'両 ガネ I シ ャ' しかし例 えば ガ ルデ ィーズ の シヴ ァ像 と タパ ・スカ ソダ ルの マ へ- シ ュグ アラ像 とが 同種 の立飾 をも ち なが らも ' 一方が壁 面 鮎 と共通 の特 色 をも ってゆ き'そ れぞ れが かみあ って つ いに は全 例が それぞ れ かかわ りあ いをも って いる ことが わ かる ( 衣) 0 く特徴 が若 干 を除 いてとぼ し いのは皆 然 であ るが ' 一方 で固像 畢 上 の共通項 にお いてそれぞ れが特 色 をも ち ' 二瓢 あ る いは≡ こ のよう に画 像 の細 部 の要素 を抽 出 し て検 討 し'各像 を比較 し てゆ - と'固像 撃 的 な とりき めも あ って、全 例 に共通 し てゆ ヤー スラの蹄 とはま った- 同 じ表現 であ る。 と とも に'付 け て いる指も 第 五指 で同 じ であ る。 さら に ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラの ナ ンデ ィー牛 の蹄 と ガ ルデ ィーズ の マヒシ の三叉観 を つかむ手 の第 五指、 ガ ルデ ィ ーズ のド ウルガ I の剣 を とる手 の第 五指 と に明ら か にま った- 同 じ型 式 の指輪 を み る る。 これ らす べて の像 の衣紋 は' 毛髪 表現 と同 じ-tV字 満 をそ の基 本 と し て いる。 ま た指 輪 を は める例 は マ へ- シ ュヴ アラ 両 ド ウ ルガ- マヒ シ ャー スラ マルデ ィ ニー' ハイ ル ・ハネ と クパ ・スカ ノダ ルと の主像 を映 した墓室 ' タ ガ -オ のト ルソであ rga紳頭撃 ( 彫像資料 8) 挿 悶 8 Du って フ ォンド キ スタ ンを はじ め とす る遺 跡 でみられ た巾 の表現 および寺 院 の年 代 が 六 五七年 を さ か のぼ る ことがむず か し いこ とを 知 った。現 在 の知見 が およぶ かぎ り では' これ ら 一連 の寺 院 と巾 の表現 が、 と- に七世紀後 年 から 八世紀 中 葉 にかけ て行 わ れ て いた こ とは確寛 であ る。 こ のよう に観 察 し て- るならば 、巾 の表現 が み と めら れ る大 理石像も ' 上 の年 代 の係 数 造像 と 地 理的 に オ ー ヴ ア-ラ ップ し て いる以 上同時期 に平 行 し て行わ れ た とみ てさ し つかえ な い。 大 理石 ヒンド ゥー神 像 は'巾 の表 現 のほ か に、バ ー ミヤ ー ンや タパ ・サ ルダ ー ルの備像 衣紋 端 の虞 理 にも 同式 の表現 が みられ た。 同時代 にあ って'ヒ ンド ゥー神 像 は大 理石 によ って つ-られ る ひと つのグ ループ をな し、儒 教 の造像 はま った- 石材 と は絶 縁 Lt泥 をも って仕 上げ る塑像 と し て別 のグ ループ に屠 す る。 宗教 上 の差が造像 の素 材 の差 と し て認 められ る のであ る。 し かし'宗教 的 に意 味 のな い、す なわ ち さき に様 式観 諸 説 の項 で鑑 に指 摘 したご と- '大 理石像 を ト ウ ルキ ー ・シ ャー朝 お よび ヒンド 固像 挙 上問題 とはな りえな い巾 の表現 や衣紋 の庭 理 にお いて は両 グ ループ の問 に共 通 の要素 が存 在 し て いる ことを指摘 した い。 ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 の年代 ゥ ー ・シ ャー朝 のも のと理解 す る説 があ った。 しか し、 こ の南朝 に関 す る年 代 は かならず Lも 明確 にとら えられ て いるわ け で はな い。 とく に ア フガ ニスタ ン国 立博物 館 は所 蔵す る大 理 石像 のう ち へ ス1 -ヤ像 を のぞ -す .'(てを ヒンド ゥー ・シ ャー朝 の ( 91) も のと し て いる 。 こ こ ではあ ら た め て ヒンド ゥー ・シ ャー朝 の年 代 を検 討 し'事賓 大 理石像 が ヒンド ゥー教 に属 す るも のであ りな が ら ' ヒ ンド ゥ ー ・シ ャー朝 のも のではな いことをあき ら か にした い。 B i r t l niはそ の﹃イ ンド史﹄Ta r i k h ・ al ・ Hi ndiにお いて カーブ ルの ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 の存 在 を俸 え て ア ル ・',i J- ルー ニー Al ・ いる。 そ の記 事 は次 のとおり であ る。 「イ ンド人 たち は、 カーブ ルに住す る王 を戴 いて いる。 彼 ら は チベ ット起 源 と いわれ る ト ル コ人 であ る。 諸 王 の始 組 はパ ル ハ ・テギ ソ Bar hat e gi n と い い、 こ の地方 に到来 Lt手 と肱 とをも ってし てかろう じ て は いれ る カーブ ルの洞窟 には い った。 ( 中略) 入窟後数 日 にし て大衆 の面 前 に ( 再び)あ ら われ た。前 開き の短 衣 '頂 の高 い冠帽、 長靴 へ武器 な ど ト ル コ風 衣裳 を つけ てあ らわ れ た。 こ の時大衆 は彼 を奇跡 的 な 出自 のひと とし て讃歎 し、 王 とし て定 められ た 大理石ヒンドゥー像はヒソドゥ-王朝 のも のか 東 方 畢 報 四四 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 運 命 にあ る者 と し た。 事 案 これ ら の国 々を そ の勢 力 下 に おき ' カ ーブ ルの シ ャー ヒヤ の稀 既 のも と に支 配 し た。 支 配 はそ の後 聴 者 たち に引 き つが れ 、 ほ ぼ 六〇 世 代 を か さ ね た。 ( 中略)こ の種 族 の最 後 の王 は ラ ガ ・ 1ウー ル マ- ソ La ga t t i r ma n と い い' そ の宰 相 はバ ラ モ ン教 徒 カ ラー ル Kat t ar であ った。 カ ラ ー ルは隠 匿 され た財 賓 を遅 よ-偶 然襲 見 し た こ と に よ り '勢 力 を得' Anandapa l a、 タ ロ1,,, hヤナパ ー ラ Ta r o j a n a p巴a であ る。 最後 の王 タ ロ-・,,Lヤナパ ー ラ ジ ャ そ の結 果 こ の永 漬 し た チベ ット家 系 は支 配 標 を落 し た。 宰 相 カ ラー ルは ラ ガ ー クー ル マ- ソを 掃 え ' 王 位 を纂 奪 し た。 カ ラ ー Jai p at 、 アー ナ ンダ パ ー ラ ルの のち バ ラ モ ン教 を 信 奉 す る藩 主 が 支 配 し た。 そ れ ら の王 は サー マンド SamandT カ マルー Kamat u' ビ ー ム Bhi m、 イ パー ル な は四 一二年 ( キリス-紀元 一 〇二 1年)に殺 され 、 そ の息 子 'ri JI マパ ー ラ Bh i mapat aは 五年 後 に殺 さ れ た。 こ の ヒ ンド ゥー ・シ ャ ( 92) い 。」 ∼ ー朝 は現 在 (T 〇三〇年)消 滅 し、 こ の家 系 に つ いて はも は や 一塵 の残 影 も こ の王朝 に関 す る記 事 から 推 察 され る事 案 は 、 カ ーブ ル近 連 に お いて'' '1ラ モ ソ教 を奉 ず る ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 が - ル コ系 j シ ャナパー ラが 一〇 二 の王朝 に と って かわ った こ と であ る。 と こ ろが ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 に関 す る年 代 はそ の最 後 の王 タ n 一年 に殺 され た こ とだ け が 判 明 し て いてそ の始 租 カ ラー ルが 何 世 紀 に普 る か 不 明 であ る。 Sar P k a r a v a r ma n 王 の在 位 中 の記 事 に, ウダ バ ー ンダ Udabh昔 daに ラ リ ヤ ・ こ の王 の年 代 決 定 に有 力 な 手 が か- を典 え る のは カ シ ュミー ル王統 史 ﹃ラ ージ ャク ラ ンギ ニー﹄ に他 な ら な い。 そ の記述 に よ る と ' カ シ ュ, , ,- ル の シ ャンカ ラヴ ア ル マン る シ ャー ヒL a l l i y as h a h iと いう 王が堅 固 な都 城 を かまえ ' グ ル' ,, hヤラ王 ア ル ハ- ナ At k h a n a の支 援 者 とし て存 在 し'傑 出 し ( 93 ) た 王 であ る とみえ さ れ 、 。 ウダ バ ー ンダ は スタイ ンに より フ ソド に比定 され 、 ま た最 近 は0 ・キ ャ ロウ によ -現 在 の フ ソド ではな ( 94) いず れ に し ても イ ンダ ス河 西 岸 にあ - ' ア ト ツクよ り や や北 に位 置 し、 ﹃ 大唐 - ' そ の付 近 のラ ホー ル過 の テペ に比定 あ る 。 西域 記﹄ 奄 二 にみえ る烏 鐸 迦 漠 茶 城 に は かな ら な い。 スタイ ンによ る シ ャンカ ラヴ ア ル マン王在 位 年 代 は八 八 三年 か ら 九〇 二 ( 95) 年で い る 。 ア ル ・rr i J- ルー ニー の いう ヒ ま た シ ャ ンカ ラヴ ア ル マン王 の後 肢 者 であ る ゴ ーパ ー ラヴ ア ル マン Go pa t a v a r ma n は' 反 抗 的 な シ ャー ヒ の王国 ( 96 ) を ラ リ ヤ の息 子 1 1 7ヤー ナに輿 え ' - ラ マ- ナに カ マルカ K a ma l u k a と いう 名 を勝 って ンド ゥ- ・シ ャー朝 第 三 代 の 重 力 マル ー が す な わ ち ゴ ー パ ー ラ ヴ ア ル マ ン王 時 代 の カ マ ル カ に相 普 し へ か つ ヒ ンド ゥー ・シ ャ あ る 9 。 した ー朝 始 組 の カ ラー ルが シ ャ ン カ ラ ヴ ア ル マン王 時 代 に ウダ バ ー ンダ に お いて統 治 す る ラ - ヤ ・シ ャー に 相 普 す る こ と は ' 既 に 7) ( A 。カ ニン ガ ムA.Cu n ni n g h a m'Ch.シイ ボ ルト Ch.Seybo l dtA ・ス タイ ソ A. St e i n ら が考 澄 し た とお り で が って ス タイ ン の ﹃ラ ージ ャ タ ラ ソギ ニー﹄ 諸 王 の年 代 比 定 に し た が う な ら ば ' シ ャ ン カ ラ ヴ ア ル マン治 世 の初 年 であ る 八 八 ' ハー ンダ にす で に 居 住 し て いた と み な け れ ば な ら な い。 三 年 に は ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 姶 租 ラ - ヤ ・シ ャー即 カ ラ ー ルが ウダ 、 ま た そ の息 子 であ り 、 ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 第 三 代 王 の カ マ ル カ即 カ マ ルー は 、 ス タイ ン編 年 に よ れ ば ' ゴ ー パ ー ラ ヴ ア ル マ ン治 世 た る 九〇 二 年 か ら 九〇 四 年 ま で のあ る 時 鮎 で即 位 し て いる こ と に な る。 と 9 ' r i k h ・ カ ラ ー ル即 ラ リ ヤ ・シ ャー は 八 八 三年 以 前 に は即 位 し て いた はず であ る 。 そ の即 位 年 は い つか。 ﹃シー ス タ ー ン史 ﹄ Ta ( 8) イ ス ラ ム紀 元 二 四 八年 す な わ ち キ - スト紀 元 八 六 一年 に サ ッフ ァ ー ル朝 S a f f a r i ds 第 二 代 ヤ ク-ブ ・イ ブ i ・ Si s t an に よ る h a t i j i dst ン エフイ スY a qubb.Laisは ア , , ,- ルを シジ ス タ ー ン で軍 言 し ' そ の後 数 年 に し て キ ル マ- ソ Ki r ma n の ハリジ 族 K at ' ア ル ・ル ハ-ジ Ar ・ Rukhaj の ルー J'i Jル R u t b itt さ ら に カーブ ル の シ ャ ーな ど に対 し 、 侵 略 を お こ な った 。 へラ ー I Her jt こ の東 方 遠 征 に際 し て 彼 は カ ソダ ハル Kandahar経 由 で南 か ら ガズ ニー に は いり 、 イ ス ラ ム紀 元 二 五 七年 す な わ ち キ - ス ト紀 元 八 七〇 年 に は カーブ ル地 方 を 完 全 に掌 握 す る こ と に成 功 し た 。 こ の占 操 が こ の地 方 に興 え た 影 響 の甚 大 であ った こ と は カー ブ ル の大 寺 院 か ら 掠 奪 し た 偶 像 や バ 1 , , ,ヤ ー ンか ら う ぼ った戦 利 品 を バ グ ダ ッド の カ リ フ に磨 った な ど の記 事 か ら 察 せ ら れ ' い る 。 一般 に彼 以 前 数 波 のイ ス ラ ム化 の波 が カーブ ル地 方 を お そ った が 、 こ の時 は じ め て徹 底 的 に カーブ ル地 方 は イ ス ラ ムに よ る 打 ( 99) そ の後 、 カ ーブ ル地 方 は 弟 の ア ム ル ・イ ブ ン エフイ ス Amrb ・Lais が 統 治 し ' 八 七 九 年 に ヤ ク 撃 を う け た と いわ れ て Logar の両 地 は 完 全 に ヒ ンド ゥー ・シ ャー のも と に か え った 。 ま た 同 じ - ア ム ル の時 、 ガ ズ ニー と ガ ルデ ィーズ の n garahar、 -ブ が 死 ぬ と ' ア ム ルが 即 位 し た が 、 こ の年 に ヒ ンド ゥ ー ・シ ャ ー は カ ーブ ルを 奪 還 し ' こ と に ニソ ガ ラ ハル Ni ロー ガ ル F a r d g h an は サ カ ワ ンド Sakawand の偶 像 寺 院 を焼 き う ち し た。 これ に封 し て ヒ ソド ゥ ス タ ー ン 代 官 であ った フ ァ ルド ガ ソ 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 東 方 畢 報 の カ マル Kamat u は大 軍 をも ってザ -ブ リ スター ン Zabul ist抑n を 攻 め た と 闇 E い う . 四六 これ ら の資 料 によ って従 来 考 え ら れ て いた こ と は ' スタイ ン の ﹃ラ ージ ャタ ラ ソギ ニー﹄ 編年 を 信 用 す る以 上 ' シ ャ ン カ ラ ヴ ア ル マンの時 す でに カ ラ ー ルが ウダ バ ー ンダ に居 住 し て いた こ と' 八 八 三年 に は カ ラ ー ルが す で に こ こ に いた こ とな ど であ り 、 一方 ﹃シー スタ ー ン史 ﹄ によ れ ば 、 八 七 九年 に ヒ ンド ゥー ・シ ャーが カ ーブん や ロー ガ ルへ ジ ェラ ー ラ ーバ ード を奪 還 し た こ と' こ の時 の ヒ ンド ゥー ・シ ャーは カ ラー ルであ る こ と' 彼 は 八 七 九年 以 前 に カ ーブ ルを放 棄 L へ ウダ バ ー ンダ に移 って いた こ と' 八 七〇年 にお け る ヤ ク -ブ の カーブ ル占 操 のとき ' ウダ パ ンダ に移 った 可能 性 が高 いこ とな ど であ る。 そ う す る と カ ーブ ルで ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 が は じ ま った のは 八 七〇 年 以 前 であ る。 ただ こ こ で注 意 せね ば な ら な い のは ' ﹃ジ ャ - ・ア ル ・ヒ カ ヤ ッ-﹄ Ja m・ i ・ a THi ka yat では 、 ア ム ル ・イブ ン ・ライ ス の統 治 期 間 八 七九年 から 九〇〇年 の二 二年 間 のな か に ヒ ソ ﹄ の カ マルカと同 一人 物 と考 え る と' スタイ ソに よ る ラ ージ ャタ ラ ソギ ニー編年 は崩 壊 せざ るを え な い。 す な わ ち カ ド ゥ スタ ー ンの カ マルが存 在 し て いる こ とを備 え る鮎 であ る。 こ の カ マルが ' ア ル ・ビ ー ル- ニー の カ マル' ﹃ラ ージ ャタ ラ ソギ ニー マルは' 九〇〇年 ま で には 王 位 に のぼ って いた と考 え ね ば な ら な いか ら へ ス タイ ン の カ マルに常 て る年 代 す な わ ち ゴ パ ー ラヴ ァ ル マンの在 位 期 間 は九〇 二∼ 九〇 四年 であ る はず が な い。 同 様 に カ マルが 王位 に のぼ った 上 限 は 八 七 九年 に ま でさ か のぼ ら せ る必要 があ る。 そ れ ほ とり も な お さず ' カ マル以 前 の ヒ ソド ゥ- ・シ ャー朝 二人 の王 カ ラ ー ルと サ ー マンド を 八 七九年 以 前 に遡 ら せ る こ と でも あ る。 し か し ﹃ラ ージ ャタ ラ ソギ ニー﹄ のう ち p 第 四巻 の チ ッパ タジ ャヤ ーピ ーダ Ci ppat aj aa y p ida の没 k i k a 紀 元 によ って記 され ' ラ リ ヤ ・シ ャー と同 時 代 の シ ャ ンカ ラヴ ア ル 年 以降 は ほ と ん どす べ て の王 の年 代 が ラ ウ キ カ Lau Av a n tivarma nの没年 三 五九年 す なわ ち キ - スト紀 元 八 八 三年 以前 ではあ り え な い. マンの即 位 は前 王 アヴ ァ ソテ ィヴ ア ル マン 異 った資 料 から み る とき ' これ ら 譜 王 の年 代 に は矛 盾 が 生 ず る。 し か し ラ - ヤ ・シ ャー の年 代 は' 上 のど ち ら の年 代 観 を と る に せよ、棄 際 の生 存 年 数 から考 え るな ら ば へ ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 の成 立 が 九 世 紀 内 にお け る事 件 であ る こ と は確賓 であ る。 さき の遺 物 から考 え ら れ た年 代 と ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 の年 代 と の間 には大 き な ギ ャ ップ が 生 じ ' 大 理 石 ヒ ンド ゥー神 像 を 東 方 学 報 玄 罪 によ る と ヒ ンド ゥー教 徒 の存 在 は 西 は迦 畢 試 国 には じ ま- ' そ れ 以 東 イ ソド全 域 にわ た って いる0 そ れ は 「天 両」 「異 ( ・=一 道 」 と いう 記 述 から う かが え るが へ ジ ャイ ナ教 徒 が 若 干 加算 され る と し て も ' そ の勢 は七世 紀 初 期 に大 であ った と いわ ねば な ( gJ ら な い。 迦 畢 試 図 に は' ジ ャイ ナ教 徒 であ る露 形 外 道 のほ か に' 塗 灰外 道 が あ り '鰐 髄 を つなぎ あ わ せ て冠 営言 し て い る と Lt ( 響 国 都 の南 四十 里 ほ ど に は、 シ ュヴ ェ- クー シ ュヴ アク ラ 一涯 の シヴ ァ信 徒 の探鮎 であ る看 蔽 多 伐 刺 岡 城 が存 在 し た 。 濫 波 、 那 掲 羅 局 国 にも 天 両 が あ るが ' そ のう ち いま のジ ェラー ラー' バード付 近 を さす 那掲 羅局 図 では異道 を信ず るも のが す - な - 、 ま な い 。 建 駄 羅 国 では かえ って正法 を 信 ず る者 がす - な - '異道 を敬 す る者 多 - '天 OO徐 人 と いう. そ れ に封 し て澄 渡圃す なわ ち いま のラ ーグ マンLa ghma n地 だ 併 法 が つよ い。 そ れ でも 天 両 五所 、 異道 は l 闇四 方 は天 両数 十 を かぞ え '異道 はそ の教 を しら a r OO除 所 におよび、賓 際 の天 両 の位置 ま で記 し て いる。そ れ によれば'布 色掲 羅 伐底 城'いま のペ シ ャー ワ ルP e s h a・ 両 は賓 に l w い た 。 の城 門 外 に l天 両 が あ り ' 抜 虜 沙 城 す な わ ち いま の シ ャーバ ーズ 。ガ - S h a h b a z g a r h i 北 方 の高 い山 には'青 石 の大 日 L rf) ガ i m抑像 があ - 'そ の麓 には大 自 在 天 M a h e g v a r a 両 があ り ' 塗 灰外 道 が そ の両 を ま つ って 在 天婿 像 即 ち批 摩 天 女 Bh ズ ニーを中 心 と し た漕 短 托 閥 の記述 に は、 百両 を燈 す と いえ ども ≡賓 も 崇 敬 す る と い い、 外 道 が 多 - 、積 那 天 に宗 事 し て いた。 玄 罪 も これ ら の国 で とく に支 配 者 たちが ヒ ンド ゥー教 を信 奉 し て いた とは記 し て いな い。 し か し漕 矩 托 国 の保 にそ の摺 那 天神 に封 す る信 仰 が き わ め てあ っ- 、遠 近 宗仰 し、 上 下 砥 催 し たり 、隣 国 異俗 の君臣 僚 庶 な ど の布 施 が す こぶ る多 か った こ とが み ( 響 え 、係 数 を 信 奉 す る 一 方 で、 ヒ ンド ゥー教 にも 関 心が 高 か った こ とが 推 察 され る。 ガ ネ - シ ャ碑 文 にみえ る ウデ ィヤー ナ ( ?) の王 キ ンガ ラも そ う いう ひ と たち の l人 であ った と思 わ れ る。 ア ル ・ビ ー ル- ニーや悟 空 、慧 超 、 さら に玄 井 も 加 え て考 え ら れ る のは、 こ の地方 にお け る宗 教 のう ち t と- に ヒ ンド ゥー 教 は、慧 超 にみえ る胡 す な わ ち ア ル ・ビ ー ル- ニー にみえ る ヒ ンド ゥー人 た ち の宗教 であ る とす る のが 自 然 で、 以 上 に検 討 し てき た 一連 の大 理 石 ヒ ンド ゥー神 像 、 と- に シ ャイ ヴ ィズ ム関 係 のも のが これ ら 被 支 配 者 側 に掃 属 す る こ と は でき よう 。 し か しな か には 王族 にも そ の讃 仰 者 が あ ら わ れ 、次 第 に勢 をえ てき た大 衆 の宗 教 であ る ヒ ンド ゥー教 を 地 盤 と し て、 カ ラー ルのよ e g i n から 六〇 世代 のち のラガ ト ゥ- ル マンに いた る ト ル コ系 の王朝 パ ル ハ ・テギ ソ Bar hat ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝 のも のに蹄 す こ とは でき な い。 そ れ ら は営 然 ヒンド ゥー ・シ ャー朝 以前 に存 在 した ト ウ ルキ ー ・シ ャー 朝 と関 係 し てく る のであ る。 突 厭 期 に おけ る ヒンド ゥー神 像 は、 ヒソド ゥ1人 を支 配す る と いうも の の、 ヒ ンド ゥー教 を信奉 す る記述 は見 あ たら な い。 ア ル ・ビー ル- ニー の いう とおり い る 。 t g i n が始 租 であ った と し ても そ の年 代 は不明 であ る。 ただ ﹃ラ ージ ャタ ラ ソギ ニー﹄ に ラ リ クーデ パ ル ハ ・テギ ソ B arh a e 、、、 ( E : ) 八世 紀 中 ィテ ィヤ王時代 す なわ ち 八世 紀 中英 に彼 に臣従 し て し かも カ シ ュミー ルの高 官 であ った シ ャー の存 在 を 記 し て 葉 と いう年 代 を考 えれば ' こ の シ ャーが ヒ ンド ゥー 。シ ャー でな いこと はた し か であ - ' カーブ ル地方 を統 治 し て いた ト ル コ 系 王朝 の王 に督 る と考 え る のは自 然 であ る。 悟 空 は天寅 〓 l 哉 英 巳 二月 二 l日す なわ ち 七 五 三年 に乾 陀 羅 閥 に到 った。 こ こは厨 賓 の東 都 城 であ り ' 王 は冬 は乾 陀 羅 園 に' 夏 は尻賓 閥 に住す る。 ま た至徳 二哉 七 五 六年 に迦 漏 禰 羅図 には いり ' 七 六〇年 ま で滞 在 したが 、 そ の際 カ ツ ュミー ルに突 厭 皇 子 の建 立 にか か る也 里特 助 寺 '突 厭 皇 后 の建 立す る可敦 寺 が存 在した。 七 六〇年 再び乾 陀 羅 園 には い った悟 空 は、 こ こ でも 特 い る 。 勤滴 寺 ' 可敦寺 、前 者 は実 験 皇子 、後 者 は突 厭 皇 后 の建 立 にな る悌 院 の存 在 を俸 え る。 ガ ンダ ー ラから カ シ ュ-1 ルにかけ て ( 讐 慧 超 によれば 、彼 は八世紀 前牛 に カーブ ル、 ガ ンダ ー ラな ど の地方 に滞 在 した と考 え 儒 教 寺 院 が存 在 す る こ と を 示 し て ら れ るが 、建 駄 羅 園も尻賓 園も とも にそ の王 と軍 勢 はす べて実 験 で、土人 すな わ ち被 支 配 者 は胡 で'婆 羅 門 ( 教 徒 )も いた と みえ 、 ア ル ・ビ ー ル- ニーが いう - ル コ系 王朝 が ヒ ンド ゥー人 を支 配 した事 情 に合 致 す る。 慧 超 の記 銀 にお いては' は じ め て 被 支 配者 に婆 羅 門 が いる と いう 事寛 を確 認 でき る。建 駄 羅 図 の突 蕨支 配者 は' はな はだ ≡賓 を数 倍 し、 王へ 王妃 、 王子 '首 領 る 。 はそれ ぞ れ造 寺供 養 を お こな い' ま た 王 は年 二回 の無 遮 大倉 を優 し'そ の悌 法 に封 す る蹄 俵 の心高 か った ことがう かが い知れ ( rg) 大 理石 ヒ ンド ゥー像 は ヒソド ゥ-王朝 のも のか う に ヒ ンド ゥー教 を正面 だ って奉 じ た王朝 を建 て る ひとたちが 九世紀 にな って接 頭 し てき た のであ る。 最 後 に付 け加え てお- 必要 のあ る のは' ガ ンダ ー ラ地方 で護 見 され た エー カ ムカ 。- ソガやヴ ィ シ ュヌ両 な ど の大 理石像 の こ と であ る。 こ の二部 は表現 の細部 にお いて、 ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ並坐像 を は じ め とす る 一連 の大 理石像 と共 通す る鮎 に とぼ し い。 リ ンガ の粗彫部 は前述 のよう に八面 どり でし かも 磐 の入れ方 が 入念 で' ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 のよう な粗薙 な も のではな い。 ま た髪 の虞 理 や装 身 具も ことなり 、 と- にヴ ィ シ ュヌ像 ではそれ が顕 著 であ る。明 確 に年 代 決定 す る手 が かり はな いけれ ども 、 さき に共通鮎 を掲 げ た ウ マ- マ へ- シ ュヴ アラ像 を はじ め とす る l達 の大 理石像 より年 代が降 る雰囲 気 を感 ま い 。 じ' おそ ら -、 ヒ ンド ゥー ・シ ャー朝が ウダ バ ー ンダ に都 をう つした のち の時期 のも のであ ろう 。 これ に関 連 し て'寛 際 に筆 ( 10 1 ) a p.)66,fig. 1. t e ya n dLosAn g et s ,1 9 6 7),p t .10 4 . J .Ha c k i netI .Cart ,i b i d,p t .XXt I I ,3 2 1 T.A.Go p ina t h aRao,o p.li t . ,312. GITu c ci ,P r e t i mi nay r r e P O r ti na na r c ha e o t o gi c a ls u r veyi nS wa t , Es ta nd Wes t ,Ne w Se r i e s Vv o t .9,no.4,( Ro me﹀1958)﹀pp1 3 2 7 3 2 8 ,ag.40;R.C.A grawal a Uqr dhva r e t a sGa ne ㌻f r om A f・ gh a n i s t a n,Eas tan d We s t ,V O LXVZ Z I ,m o s .1 I 2,( Rome,19 6 8)V 四九 氏 .C .A graw aa l﹀ o p.c i i . ,p.) 6 7 ,a g.3 . R.C.Agr a wa l a ﹀o p.c i t . ,p .167,fig14 1 n a t haRa o,El e me n t so fHL n dz tZ conoB r a Pk y,vol .I , T・A・Gopi p a r tI , ( Md a r a s ,1 9 14)Vp. 5 2 f E こ .Ba n e r j e aV o pIC i t . ,p p .359I361; C・S i v a r a ma murt i }o pIC i i . ,p.3 0 1 (13) D. S c h l u mb e r g e r,Lemar br eSc o r r e t t i ,A7 ・ t SAs i at i q ue s ,t o meI I , i s ,)955 ),pp.LL O I t t 9,pt s .( ,Z t . ( Pa r Ma u ri z i oTa dde i ,I ndi a( A7 ・ C kae o bg i aMu n d i ) ,( Geneva,1970), (S) 者 が像 を観 察 でき な か った数鮎 のヴ ィ シ ュヌ像 も突 蕨支 配 の時 期 に比定す る ことは でき 註 彫像資 料 Khane hp 7 ・ i sd eKabul ,Fo ui l l e sJ .Ca r letJ.ff a c k i n,Mi mo i J ・ e S .Ha c ki ne tJ .Cart ,Re c he r c he sA7 ・ C hd o l o B l q ue sa uCo ld eKh a i r ( 1) J AFA と以下略す) tt o meVT Z ,(Par i s ,) 9 3 6) ,p.4 . del aDdl d B ・at i o nAr C hd o l o Bi q u eFr a n c , a i s een Af ghamT s t a n( MD ( 2) J i t e n d r a n a t hBa n e r j ea﹀TheDevelopmento fHi n d uZ c o n o g r apky, C (a l c u t t a, 15 96 ),p・40),p l ・XXXI ;A・D・ S i d d i qui ,Ar c ha e pl o gL ' ・ C J IS u 7 -3 ,O f Zn d i a,Amz F alR p eo r tt 9 3 54 p.35,pt .XL,a. d i anl c.n.g r a p h y ,Ancl e ntZ n d 1 .a,Bu l l e t i no fi keAr c ha eol o Bi c a l ( 3) C.Si va r a ma mu r t i ﹀Geo g r aphi c a t a n dChronot o g i catFa c t orsin I n ・ v o lL , ( 4) T・A・Go p i n a h t aR a o,Elemenisof Hindu ZCOnOB ・ r aPk y, p a r tI I,( Ma d r a s1 ,9 ) 4) ,p p .3 1 L I 3 )8. ( 5) J .Hacki ne tJ . Carl ,i bi d . ( 6) J O h nM.Ros e n A e t d }Th eDyn a s t i cAr t so fi h eKus hans ,( Ba r k e ・ 大 理 石 ヒ ンド ゥー像 は ヒ ンド ゥー王朝 のも のか 曝 i q 称 屑○ 賛 i l l us t r at i onno.1 38 ,p. 255. ( E s ) M.Ta dde i ,AnEka mukhal i 血gaf r om t heN.W .F.P.a nds ome ( E q) K Fi s c he r ,Unet e t e邑 i va l ' t ee nma r br edel ' Af h ani g s t n or a i e nt al , Conne c t edPr o bl ems ,A St udyi nI c ono gr aphy a n d St yl e,Eas t Ar t sAs i ai i q ue s ,t omeX,f a s c i c ul e1 ,( Pa r i s ,1 9 64),pp.3514 2, l .1 3,no.4. ,( Rome,1 96 2) ,pp.288 131 0,ass .1 -4, an d We s t ,vo 7,9. 五g6 .5-8. ( 盟) D.Sc hl umbe r ge r ,o p.c i t . ,pp.1 1 4,11 6,五 g.2. o ,o p.c i t . ,p.40. ( 笥) U.Sc e r r at ( E =) D.Sc hl umbe r ge r ,i b i d. ( g3 ) K.Fi s c he r ,o p-c i i . ,p.35,f oot not e( 1 )・ ( 5 3) B.Da ge ns ,Fr a gment sdes c ul pt ur ei n6 di t s ,Mo nument sPr l h' s l ami ・ ( 罵) 1 1 1 零 AJp 7 PK.Fi s c he r ,Pr el i mi na r yr e ma r ksonar c ha eo l o ic g a ls ur - q ue Sd' AfB hani s t an,Pr emi e r epa r t i e,MDAFA,t omeXI X, .p.35, pl .XXI I ,3,4. ( G -) ' I .Lyons& H.I nghol t ,Gandh ar anAr to f Pak i s t an,( Ne w Yor k, 1 95 7) ,五g.400,p.1 58. p.c i t . ,五g.3 4 6,p.1 48. ( 慕) o ( 扇) U.Sc e r r a t o,Summa r yr epo r tont heI t al i a nAr c ha eo l ogi c a lMi s ・ s i o ni n Af gha ni s t a n- The f i r s tt wo e xc a va t i o nc a mpai gns a t Gha z ni ,1 95 7-1 958,Eas tand We s t ,vol .1 0,nos .1 -2. ,( Rome, nt 7 1 al as i ai i s c he St udi e n 3,( Wi e s ba de n, ve yi n Af gha ni s t a n,Ze 1 969) ii穂 . 吋′ 桝家事正 Oユリ G ) 群 ′桝 喜怒出 望 出口ユリ望′ 中QHIE【 ○囲′ e)-Gar de z ′ 中el l l 冊i i囲′ a)-Gha z niG ) 群迦中点 ' ∼点薗蛮O ( a) D.Ba r r e t t ,Sc ul pt ur e soft heSha hiPe r i od,Or i e nt alAr t ,vol . Ⅰ Ⅰ Ⅰ ,no.2,( 0Ⅹf or d,1 957) ,pp.54 -59,五 g.1 ,a,ち. ( S S ) L Ede l be r g,Fr a gme nt sd' uns t i i pada nsl aval 1 6ed u Kuna ren t s As i at i q ue s ,t ome I V,f a s c i c ul e3, ( Pa r i s , Af gha ni s t a n, Ar 1 9 59),pp.29,3 9,40,丘g. 3 9;M.Taddei ,o p.c i t . ,i l l us t r at i onno. 1 9 57),pp.1 99 12 07;J _E.va n Lo hui z e ndeL e euw,Ana nc i e nt 1 66,p.25 7. Hi ndnt e mpl ei n Ea s t Af gha ni s t a n,Or i e nt alAr t ,vo l .Ⅴ,( 0Ⅹ・ o,o p.c i t . ,vol .Ⅰ ,pa r tI I ,pl .XC,五 g・1・ ( S j ) T.A.Gopi na t haRa ( E 3) 灘三国埋 「尽o (・T (i lヽ' ' R ミ鯨1 亙渥驚鰐御璽憲一裁掛結 団 6 ) 除塵 f o r d,1 9 59) ( 楳嘩);K.Fi s c he r ,o p.c i t . ,p.35 7. 丑 墜輔番君 慧満 執軍高官峯 ej j掴-」( 「 楳韓双掛合喋卜' , L卜卦装罷樹盛I i iギ○姓 ( E 3) J .Ha c ki netJ.Ca r l ,op.c i t . ,pp.6-7. 噸 e鰐樹」) ( 『 現車』鯨哨EI 静冊緊′ 1頁ギ l姓L F j 町) l圃 1 ′1 ( 講) R.D.Ba ne r J . i ,TheTempl eof畠i vaatBhuma r a,Me mo i r so ft he 1 く 〇一日く両国o ( 式) 譜琳i iOニL'望′ヨE B監置 「心 T ,一 ・T y(-, b d' h トl卜車 Q壌屑」 ( 「 梶棒i (掛甘喋 卜' , h卜掛寒罵倒盤1 i iギ○姓 曝 6 ) 罷禰」 )( 『 現車: 』 絵柄EI 縛1 1 1 峯′ li iギ 1姓同町) I1 く<- 1ギ哨囲o ( E q) S. B・Mous t a mi ndy ( Di r e c t o r Gene r a l ,Af gha nI ns t i t ut eofAr c ha e ol ogy) e更意脂 i i代 将O ( E S) A.Fouc he r ,Lavi e i l l er o ut e de l ' Z nde ,de Bac t r e s a Taxi l a, MDAFA,t omeI ,( Pa r i s ,1 942),pl .XXXI ,60,pp.34,1 72. Ar c hae o l o B i c alSur ve yo fZ nd2 ' a,nO.1 6,( Ca l c ut t a,1 924) ,pl s .I , b,Ⅰ Ⅰ ,ⅩⅤⅠ Ⅰ . ne r j i ,o p.c i t . ,pl .XI V,a;J . Ha c ki netJ.Ca r l ,o p.c i t . , ( E q) 氏.D.Ba c ha pi t r eI I I . ( 拷) J o ur n alo ft heRo yalAs i at i cSo c i e t y,1 937,pp.499 -501. ( S s ) R.D.Ba ne r j i ,o p.c i t . ,pl ・VI I ,C・ ( 謁) D.Sc hl umbe r ge r ,o p.c i t . ,pp.11 2-11 9・ ( 宍) Ⅴ.A.Smi t hyCat al o BneO ft hec o i nsi nt heI ndi anMus e um,Cal l (40 ) ( 幼) L・deLaVaL L 6 e Po ussi n ,Dyn as t i e setHi s t o i r edel ' Z n dede pui s en d o wme nt︹ f ort he f eeding of Br a hmans. ]" Ra j .vo1 .I ,I nt r o・ . G に よ った 。 略 親 を Raj .と 冠 巾 の表 現 (5) H.Go e t z ,St udN e Si nt hem s t o 7 3 7and Ar to f Kaskmi ra nd t he Z ndi a n Hi mal a ya ,( Wi e sba d e n,1 9 69);Ar l s As i at i q u e S ,t o me V I ,p .19. 細 部 表 現 の検討 (4 5 ) M .Ta dde i ,Eas tan d W es t ,vo t .)3 ,p p1288 3 1 0 1 (53 ) K.Fi s c he r,Ar t sAsi at i q u e s ,t ome X,p p137-3 8 1 (52 ) R・C.Agr awal a ,op.ci t . ,p.)68. (51 ) 山 田 明爾 ﹃ 史 林 ﹄ 第五四巻三窮' 1七 一頁。 c at edf r o m Ap p e nd i x,Indi anAn t i q u ar y.19 0 4 ) ,p.6 8 . (a ) G・Bi i ht e r ,I n di an Pal eoB7 1 a Pky, (Ne w De l hi ,) 9 5 9( ∼ ) ﹀r e p ubt i ・ Kan i s k a,p.)4;EL .Ra p s o n,i bi d. du c t i on,p .8 0. =1 Wd mo z . r e sde I . ] n s t i t utFr an,c at s d. Ar c hd o l oBi e Or i e nt al e du C ut t a,P.2 3 5 ,pL . : XXV,no s .2 ,3 1 R.Ghi rshma n,Le s Chi o n i t e s ・ He pht a l i t e s ,MDAFA,t o meXHii Cai r e ,t omeLXXX.( Le Cai r eL 948) , pp.5 1-541 ( 41) ス-リヤ像 とナプ キ型 貨 幣と はま った- 同 じ 場 所 で出 土 し た の では な い。 H s ( 望 o e t z ,Lat e Gu p t aScut p t u r ei nAf ghani s t an: The ( ( Sc o rret t i Ma r b t e ) )a nd Co g na t e Sc ut pt u r e s ,A7 ・ i s Asi at i que s ,t o me IV, f a s c i c ut et ,( Pa r i s )195 7 ) ,pp.) 3 19. ( 43) A.K.Co o ma r a s wa mi ,Hi s t o r yo f I n di anand Indone s i anAr t , ( New Yo r kV1 9 6 5 ,r e pr i nte di t on of19 27) ,pp.71も 1.pt s .XXX X. VI Z,XXXI (g) M・ A・St e i n,Kal ha p a' sRL 2 j at ar a7牡 i . 馬, A Ch7 1 0ni c l eo ft heKi n g 本 o fKa3 m叫 r ,2vot s . )( We s t mi ns t e, r) 9 0 0 ). 以下 筆 者 が用いた Ra ・ j at a r ah gi忠 はすべてこのスタイン諾註 す る。 ( 45) D.Ba r r e t t Uo ptCi t . ,pp.54-59. . a ,(Lo ndon,) 8 9 7 ) ,pll S .1 5 2 ,1 5 3 ,p.)4. o fZ n d1 ( 4 6) J・Bu l g e S S)TheAn ci e nt M o7 mme n t S , T empl e sand scul pt ure s ( 47) G.Tu c c i ,op.c i t. ,p p.3 2 7 -3 2 8 ,ag 40. (6 5) こ こ で取 り扱 った サー サ ー ソ王 冠 関 係 の資 料 は 次 に よ る 。 A .Pope} A Surve y o f Pe r s i an Art ,(Oxf or d ,)938) ﹀ vot s . ( (t ext ) ) lI (pt a t e s );E.He r z f e t d,Am To r yo n As i e n ,Fe l s de n kmal e aus 7 7 ・ anS He l denz e i i. (Berl i n ,19 2 0 );F. D .J.Pa r u c k, Sd s an i an t t on ﹀ The Treas u7 T eO f t he Co i n s ,(Bombay,1924);O.M .Da Olu S ,( 3r de d.Lo nd o n,) 964 );H.I ng ho t t )o p.C i 1 . ;Vl a di mi rGI a Z Z ,Ar chaeol oB i a Mun di ,( Gene v a ,)967); R Lu ko ni n, Persi G6 b t ,Sasani di s cheNumi S mat i k,( Br auns c hwei gV1 9 6 8 ) . A.Po pe )o p.ci t . ,vo t .T V,pl .230 ,A. A・Po p e,o ptCi t ・ ,vo t ・IV,pt .)59,B・ 五一 Carl ,No u ve l l e sRe che 7 ・ C he sArchdol o gl q u e sd BL l mZ yj i n ,MDAFA, ome I I I ,( Pa r i s ﹀1933).お よ び筆者 の踏 査O t deBami yan ,MD AFA﹀ t ome i i )( Pa r i s L9 28);J .Ha cki ne tJ. A.God a rdUYIGo d a rd﹀e tJ . Ha c ki n,Le sAnt i qui i d sBouddhz . q u e s 57 ( 8 4) De va 笛hiKhi hgit aに関 しては'A.Cunni ngham,La t e 7 ・Z n do ・ S c yt hi ans ,Co mpl e t e W orks o f Al e xander Cunni n gh a m,e d.A. KINa r a i n, (Varanasi ,1962), pp.278I279,p1 . VI Z,i );E.J. Ra p s on,I n di an Coi ns ,( Va r ana s i ,) 9 6 9 ,r e pu bt i c a t i onofGrundr L P derZ n do ・ Ari s c he n Ph i l ol ogL eu .Al t e r t u mskunde ,herausgegeben vonG.Bi i ht e r ,a Band∴3 He f t ﹀B. ) p.29;ラージ ャタ ラソギ ニ ー に関 し てはt Raj .bo o kI V3 4 7 (vot .Ⅰ .p.52). "Hi ss on N抑・ r endradi t ya ︹ Ⅰ . ︺ V whob o r et h e secn odn a meo f Khi akhi L a ,c o n・ s s e c r a t e d hri n e st o︹ Si v a ︺BhBt e Sva ra,a nd f ounded ap e r ma ne nt 大 理 石 ヒ ソド ゥ-像 は ヒ ンド ゥー 王 朝 のも の か 58 59 (60 ) (61 ) 学 報 o meXI T I ,p p130 I 32. M DAFA,t M DAFA,t o meXI I Z .pp128 I 29. 方 ( 4)の フラ ン ス人 の調 査 の際 に は スー リ ヤ像 の巾 表 現 は看過 さ れ た 。 東 ンの給 蓋 と建 築- 手 フソ傍 数 式 美 術 畢 術 調 査 - 」 (﹃ 畢 術 月 報﹄ 二九 名古 屋 大挙 の観 察 に よ る。 小 寺 武 久 ・前 田耕 作 ・宵 治 昭 「バ ー ミア (8 ) (85 ) (S ) 168. 五二 v o t .I ,b o o kZ V,V.)88."・ AtHuS ka pur at hi sno bt e白 i n d e d Ra j . t arge Vi h a r awi th a St 亡P a . ki ngb ui l tt hes p t e ndi d︹ S hri neo fVi 等uj Mukl as v i i mi n and a ラ - クーデ ィテ ィヤ の年 代 に関 す る論考 に は次 のご とき も のが あ るo i sB anerJ. i , Ya g o va r manofKa na q. ,I n di anCul t ur e ,XV,1 9 4 9. p ia t h, i Hi s t o7 3, O f Kanau j ,(Benares ,)937) , p.201声 ; R.T.Tr Adr a p.203f E .;H.CIRa y,Dyn a s t i c ms t o r y o f Nor t he r n Id ni a,i ﹀ ) 9 3 ) ,p.112; NIN.Da s gu pt aV Indi an Cul t ur le ,XIV, )947,p・ z .The Conques to fNort h ern a nd W e s t e r nI nd i 1 4 f E ;H.Goet by Lat i t a di t ya ・ Mukt api d ao f Kas hmi r,St ud1 . e Si nt he m s t o r y an d Arl o f Kas hmi r and t he I n di an Hi mal a D/ a ,(W e is baden, 1 9 69 ) ﹀p.8 H. ;A.St ei n,Raj .vo t .( ,I nt r oduct i o n ,p16 7 ff. ﹃新唐書﹄魯二 二 一下西域 博 の箇失密 の候 に、 ヽ ヽヽヽ ヽ 開 元初 達 使 者 朝 。 八年 詔 筋其 王虞 陀 羅 秘 利 薦王。間献胡薬。天木 死。弟木多筆立。遣使者物理多来朝。- Ra j .v ot .I ,bo o kZ V.p11 3 0 1 Syt v a in Lか v ie tid.Chava nnes VVo y a ge sde sPg L eri nsBouddhi s t e s , I t i n6 r a i r e d' 0宇Ko ng( 7 5 1 I 7 90) >Jo urn al Asi at i qu e, t ome 6 . L' s ,)885) ,p.35 0 . ( Pari (88 ) Ra j .v o t L Ln t r oduct i on,Ap p e ndi xI ,p.1 3 6 . (7 8 ) t B7)) ,pp.9 9 1 0 3;A.St e i n,Ra j .v o t .I .bo o kI , p13 0 .f o ot n o t e MDA FA,t o me XL I Z ,pp.5 1 I 54. M DAFA,t o me VI I l )かg.1 8 9 . o meI t I ,pt .LXVZI. M DAFA,t omel I I 、pp.3 9-46,帥g.XI . M DAFA,t M .Tad d e i ,Tap a Sa rda r,First Pr e t i mi na ry Re p o r t ,Eas tand We s t ,vet .)8,mos .)-2 ,(Rome ,) 9 6 8 ) ,p.1 16 M .Ta d d e i ,Eastan d We st ,v o t .) 8,かg s .4 0 , . 9 3 3 -)940)∵MDAFA,t o meVlZi ,( Pa r i s,19 5 9 ) up p14 9 ni s t an ( ) 58,figs .)43 2 0 6. . (9 8) ﹃筋府元亀﹄巻九 七 五 '外臣部'褒異二の開 元 二十 1年 閏 三月 辛 卯 ( Par i s ,1 92 3 IL 9 3 6 ) ,p.4 5 3,6g.5 9 8. ma z i qu eo 7 7 . e ni al e ,d el ' Ant i qui t L f et d u Moye n Age,t o me I . M DAFA, t o me VIiT ,B g.174;M .Hal L ade﹀7 T he Gandh ar aSt yle and t h eEvo l ut i on o f Bu ddhi s tArt ,(Londo n,196 8 ) }p t .1 7 7 1 MDAFA,t o meVtIT ,Ags.1 8 9 ,1 9 6 . M DA FA,t o me Vr Z t ,p 5 7;J .de: Mo r ga n,Man ue ldeNumi s ・ (83 ) 五暁 、 1九 七 l年 二月 )、 四 三頁 。 同 ﹃バ ー , , 、ア ン﹄ ( 名青 畳 大 学 M .Tadde i ,o p.c i t . ,figs 14 7.6 0 1 M DAFA,t omer t I ,pt .XZ ,Ag.)2. 70 r l ,) 937) )Di versesr e che7 1 C ke S a7 1 Che J o l o Bi que sen Afgha・ deJ.Ca 71 .Hacki n ,LeM o na st a r e Bo uddhi que de Fo nd uki s t 抑n ( Foui L 1 es I . 4 2 M DAFA,t o meI I l ,pp .2 0 I 2 3 ,fig.I I I( p.1 7 ) , Rg.V (p.1 9 ) i i g.VZ( p.2 ) ) o meI t r ,pt s IXXX,XXXI I ,XXXI V, MDAFA,t M DAFA,t o meI l l ,p t .XXXI. M DAFA,t omeI l t ,pt .XXXZ T t ,帥gs .35,36,p t .LXXXtZ,かg.9 ) . M DAFA,t omeI i l ,pp.5 -ll . A.Clnn i n gh am,The An c i e n t GeoB Y la Ph yo fI ndi a,( Londo n, 77 81 M DAFA﹀t o me VI i I ,ag s .) 5 7 ,158. 78 一九 七 一)0 80 79 82 72 M.Tadde i }o p.c i t . ,Lg.28. 6 96 86 76 66 56 46 36 2 73 Q堅 L i′ Anc i e ntPak i s t an,Bul l e t i no ft heDe par t me nto f Ar c hae o l o g y, ′′′ ′′′′ ′′′′ 担累恕相接執鮒聖i (軽重昏封㊥姓密竃脳O稚苗密封執姓○礁l lT E : 題○襲荘哨匝国 ○凝血蚕噌醇O-・ ・ . Uni ve r s i t yo fPe s hawar ,vol .Ⅰ Ⅰ( 1 9 65 -66),pp.4-1 2. ( ≡) Mo ha mmadUf i ,J ami al mk a yat;0.Ca r oe ,o p. c i l . ,p.1 09. ( 慕) R.C.Ka k,Anc i e ntMo nume nt so fKas hmi r ,( London,1 933),pp. 1 52 -1 54. 蹴L #帯i l屈とT Qi J: 12 Lか一度撃 i l: Vh や一 ・′ ゝキー岸 e牡だ ( ≡) 『 製剤<i l l 据』( 『 米国拓塗双僅麗』鯨 国 1紳駁撃矧 1 1 )L l' ( ≡) Ra j . ,vol .T ,p.1 33 ,bo okI V,V.1 42 -1 43&f oo t not e1 40-1 43. 削 ( H (配)+1博幸 粘n ]1伸二 11 + iⅡ 工 0削癌巴壁間 ( 緊糎国Ⅲ ・ ・ -・ ・ ( 宗) Mus d e Nat i o n ald' Afghan i s t an ,Gui de du VL l s i t e ur ( Cat a l o gue 墾嘉埋冠一族捕)O当忘噸輔堪韓軍事O用稗Q ( , ( 晦当君○囲喝晦蹴o pa r t i elde sobj e t se xpos es ,2 m eE di t i o n,( Ca boul ,1 964) ,pp・1 8 -1 9. ( O c l , ) E・C.Sa c ha u,Al b e r un i ' sI n di a,( London,1 888) ,vol .Ⅰ Ⅰ ,pp.1 0; 1 3 -1 4. 盟報恩懸 ○ヨ堅輔壁0--灘 帯 ( 塑 酎 Q伸一鮒湛他)軸醍醐 ( 宗) Ra j . ,vol .I,bookV,p.206,mos.1521155,p.217,no.232. k I 罵革嘩1 1 1 僅O櫨制婁浩〇・ ・ -僅 断 1 +樽ギoi q史ヨ 駐韓O塞闇 4 j . ,γ ol .Ⅰ Ⅰ ,p.33 6,Not eJ;01 a fCa r oe , ThePat hans550B. ( 芸) Ra 撮O志和確碓回慧屠鷹双副双掴馳瑚樫削粟 11 鮮上部増車○空 目 + 硯 萱O ・ ・ ・ ・ -麺帥墾盛槻冠○音型 ( 煤鰐栄一鮒碑捕)肢帯奥義恩姓○榊々 on,19 62 ), pp.9 7 -9 8;Ar c h ae ol o Bl ' c al C・-A D・1957,(Lond i io食感肇祭E 斐冠鰻桝異国O-・ ・ 日産楳嘉 仲宿樹医展0滴掛璽瓢婁 Su7 7, e yO fZ ndL l a,AnnualRe po r t1928-24,Expl o r a t i o n,Fr o nt i e r 国数髄鄭執敵軍O毅当欄丑聴牌o幸手 朕 釦H l 肇 せ憩堪o輩餐岩沢 封1 Ci r c l ebyMr .H.Ha l ・ gr ea Ve S ,PP,68 -70. 建憩磯撞酔賭o矧 購 綴瓢轟釈放〇・ ・ ・ ・ -潔庫肇副費奔牌○尊く 壁H l車 ( O L n ,) Ra j ・vol .I ,I nt r oduc t i on,Appe ndi xI ,p.1 3 7. 軸事07 7 1 i梓甘商碑 ○鮮麗副u g観事O宝鑑董闇1 1 1 睡蓮医O脚瞥辞避○ ( A) Ra j .vol .I ,boo k V,p.21 7,no.233. 拡磁壁㊥〇千 試藍糎H l塵屑匝畦, gN応戦増車○量哩頚髄供駈堪難o ( S ; ) Raj .vol .I I ,p.33 6,Not eJ ;Ch.Seybol d,Zum Bi r an王 ' sl ndi c a , Ze i t s c hr L ftde rDe ut s c he nMo r ge n l andi s c ke nGe s e l l S C ha fi . ,ⅩLV Ⅰ H,p.700;A.Cunni ngha m,Ant i qui t i e s of t he Sal t Ra nge , Ar c hae o l o gi c alSur e yo fI ndi a,Re po r t1 8 7 2-1 873,Vol .Ⅴ ( 1 875), 起鞄EI せ0--磯 暁 ( 堅割 合故雌蝶-鮒神捕)凧糸鯨el 鮮麗O丑 愚喋斬団or (柳 裟塞○褒量畦題辞各駅粗O・ ・ ・ -宵陣要素塵肺 o 駅 瑚 事 ○甘商仲秋魔皿 糊 埴現車0--島 根竣麺p ( 馳 11 姓0品観 餐H IH ・ 7 せ酔堪 o・ 望蟻碑屑触属瑚涯堪堪 11 ・ p.8 2f f . 確 ( ≡) ( 票) 0.Ca r oe,o p.c i t . ,p.1 03. ( 票) RIC・Ma j umda r( ge n・e d・ ) ,TheCl as s i c alAge ,TheHl ' s t o r yan d Cul t u7 1 eO ft heI ndi anPe o pl e ,vol .Ⅰ Ⅰ Ⅰ ,( 2 nded . ,Bombay,1 9 62), 展望<ギ○亜灘 故A)郎 PL)〉匿 紳 Q擁壁芸 pp・1 67 ,1 68・ ;噴 増 eE S <l E I -<11 く甘 i i穴 -' トミ薯i qP掛 尋 『 離璽建国H (馴冠健』( 『 米国振替双巻起』鯨T F j + l静覇壁 吊川)i l′ =十滴mO<三糾讃岐冠o岩泉暦畦〇・ ・ ・ ・ ・ ・ 相磯粗壁 --F iせ当崇u 粍埴梓碑○褐肘頭( 与眠柊髄〇日--図鑑増枠増蟹○双与牒墜史〇滴 眠圏班oJ 」削慣用o削冠相川忠相車ot L削匝壁画柵o埋軟只掌○ 車皿埋 僻 事 O-・ . ・ p (定男献腎捜団○思崇墜∃lm ミ 敏○削職責捜O JOLjりA J 心配冨JヰJo M. く 哩○窓朝鮮壁01 1 <哩軍O堪梓鄭 髭に0--当用蛍哨煤 宅H l褒u j A.Gha f oo r ,TwoLos tI ns c r i pt i o nsRel at i ng t ot he Ar a b Con- 塵○租轟墜1 1 1 甑oH 1回婁H l車種革紳 ○車庫埋碑o巡将 I l l 駄○宅出 que s tofKa もulandt heNor t hW e s tRe gi on of W e s t Pa ki s t a n, 府姓歴裂離巌堪双廠O-・ ・ ・ 宅軍聾盟肝腎《定業放置胆0-日‥p ( 程 双離幅 山ヽ' L Lも一重当山ヽ' L L心-相帯 6 17 6 , Q長 剛1 1 ( 1-4 ( 1 ( 1 ) ) ) ) ( 1- ) (1 報 五四 候.諸肇堵波。頗多額増O天殉教 百。異造雑居。 -・ ・ ・ 渡大河。至 学 布色渇遵伐底城. -・ ・ ・ 城西門外O有 1天河O天像威厳O震異相胎 。 方 此建駄羅園。正北入山三日程。至鳥長図。彼自云欝 地引部。此玉 東 呼云著摩褐羅闇園。此王亦敬信三賛O有寺有借.-・ ・ ・ 又従此建駄 羅図。西行入山七日。至覚波図。此園無王.有大首領。亦層建駄 王及兵馬突蕨。--図人大数信三賓。足寺足倫O百姓家各鴇造寺。 在厨賓.逐涼而坐.冬往建駄羅O超暖而住0 --此園土人是胡。 異俗。君臣僚庶。毎歳嘉辰。 不期而合。或資金鍍奇襲。或以羊局 暴偽悪。信求者達願O軽蔑者招狭。故遠近宗仰.上下紙催。隣国 日迦畢試閥阿路津山。徒居此図南界樗郡脚羅山中。作成作一 幅。馬 十O異造雑居。 -・ ・ ・ 計多外道。其徒極盛O宗事稽郡天O其天神昔 --雄和百締。敬崇 三資。伽藍数百所。借徒寓飴人。--天岡数 大敬三賓.: ・ ・ ・ ・ ・ 又徒鳥長閑。東北入山十五日程。至拘衛園。彼自 ( 1) --成虜沙城東北五十飴里至崇山。山有青石大自在天婿像。枇摩 天女也。 --山下有大自在天岡。塗灰外道式修同和。 -≡ ﹃ 大唐西域記﹄巻 二 丁 漕短確固 の僕 に' 羅園所管。-・ -有寺有倍。敬 信 三質。行大乗法。又従此腰波図両 供養三賓。 -・ ・ ・ 又従此厨賓閥。西行七日O至謝観閲。役目呼云社 馴畜o競興貢奉。倶申誠素O所以金銀布 地。羊馬漏谷。無敢凱観。 行 入山O経於八日程。室蘭賓園。此図亦是建駄屠王所管。此王夏 護羅薩他部o土人是朗。王及兵馬即是突灰。其 王.nB是鹿賀王姪兄 唯修施奉O宗事外道。克 心苦行。天神授其呪術.外道遅行多数。 治療疾病。頗蒙症愈。 。自把部落兵馬。住此於 ( 於此 P)図。 不屈飴園。亦 不屈阿叔。・ 唐 此王及首領。錐是突灰。極敬三質。足寺尼僧。行大乗法。 -K.Fi s c he , rZ ent71 al aS i at s ic heSt ud e in 3( 1 9 6 9 ) .pp1339 ,343. ﹃ 大 域 西 記 ﹄奄l 迦畢試図の候に、 如 上 の大理石像 と 一連 の年代を普 てるが、片岩 のも のに関す る年代 ・ , ,- ル ・スマスト出土 の木彫な どがあ るO この木彫 に関 して筆者 は ( 110 ) ここに扱 った資料 である大理石以外 にtと- にガ ソダ ーラでは片岩 製 の ヒンド ゥー像 らし いも のがあり'また本文中 に引 用 した カシ ュ 観 をもちあわせな い。 ここでとり扱 った地域以外 にも ソヴ ィ エト中 西域記﹄巻 1迦畢読図 の僕 に' ﹃大 央 アジ アや中国新彊経書爾自治区、 アフガ ニスタン北部 でヒンド ゥ 唐 --城南四十飴 里。至寧蔽多伐刺岡城。凡地大震。山崖崩堕。周 驚 ︰-・ 天同数十所O異道千鉄人.或露形或塗灰。連絡閣僚。以馬 冠 ・ r j・ ・ ・ ・ ・ ・ 此城界。無所動揺。-- 節 を故意 に省略 した。 これも また別 の機合 にゆず る。 をま って襲表す る用意 があ る。 また この稿 では貸常や碑文 に関す る ー像らしきも のが出土 して いる。 これら のも のに関 しては別 の機合 ﹃ 大唐西域記﹄巻 二濫波園 の候 に' この城が タパ ・スカソダ ルに相常す ることは、彫像資料註 ( 23)の文 献 で筆者が既 にのべた。 --伽藍十飴所。恰徒寡少。 並多習撃大乗法敵。天両数十。異道 構想 の段階 で'上野照夫'小野 山節 '山田明爾 の諸 氏から有益な 御教 示をうけた。挿固 二葉 ( 地園 と神像線描) は田中重雄氏をわず らわした。挿固3 の賓測圃掲載 に ついては樋 口隆康先生 ( 京大中央 アジ ア学術調査陵長) の御配慮を いただ いた。 タパ ・スカ ンダ ル詮 掘報告公刊 にさきだ つ掲載 であ る。また'固6㌧7 はイ ンド政府考 --崇敬併法。少信異道。伽藍錐多。恰徒寡少。諸牽堵波。荒蕪 また同郡掲羅局閥 の僕 に、 甚多。-; ・ ・ 杷壊。天両五所。異道首鉄人。 -- ラル I l a t局長 の 御 配慮 に ,1-56 ,No .33-56)でtB ・B ・ 古局 の資料 ( AFG.ASZNe e,No よ る。 これらの方 々に厚く謝意を表するo ︰-・ 多敬具道O少信正法。 --倫伽藍千飴所。推残荒廃。蕪漫藷 ﹃ 大唐西域記﹄巻 二億駄遅図 の 候 に' 脂H UmAl l l ah e 毒 v ar A J・ 唯鞭 ( I; 他 所阿1 3) N5 L ) l J r Fa( >l■9 4. 1:( tZ 枠l lI l8 P l7 UrtI hva J tL a SG叫e j aJ p 倣 (t2 血流† 15) 円 9 DI J E gき M a h' 車名ur i ' nnr J■ r l l(鞍 t t煎n 6) 的1 0 Dt q lをつけた トル ′ ( JE 蝕や l ll O) 僻目 Eknmukh. l 】 叫. 1( 彪微飛付1 7)