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クジラと石油と子ブタ

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クジラと石油と子ブタ
クジラと石油と子ブタ
映画「ザ・コーブ」騒動が考えさせてくれたこと
桂
敬一
◆「ザ・コーブ」は本当に「反日」なのか
映画「ザ・コーブ」の上映反対運動が話題となっている。右翼の妨害だとも報じられている。そ
ういわれると思い出すのは、2007 年秋、中国人監督の撮ったドキュメンタリー映画、
「靖国」が発
表されると、翌年にかけて、上映阻止を目指す右翼の騒ぎが起きたことだ。確かに靖国神社は、日
本の総理大臣が参拝すると、中国、韓国・朝鮮、東南アジアの国々から反対の声が上がる、イデオ
ロギー的な場所だ。これを中国人監督が、日本人の見方にはとらわれない目で見て、作品化したの
だから、靖国神社を尊崇する右翼の人たちには、
「反日」と映るところがあったのだろう。
だが、「ザ・コーブ」は、和歌山・大地町のイルカ追い込み漁を題材とした映画であり、それがな
んで「反日」に直結するのかがわかりにくい。横浜の奇特な映画館主さんが、表現物がだれにも見
られないかたちで非公開に追い込まれるのはよくない、と頑張っているところに、上映阻止を叫ぶ
大勢の人たちが集まり、その映画館の前で日の丸やスローガンの横断幕を掲げ、ハンドマイクで叫
んでいるのをテレビでみた。それによると、イルカやクジラを食べる日本文化に敵意を示す作品だ
から「反日」だ、ということらしい。
しかし、それだけでなんで右翼の人がいきり立つのか、もうひとつピンとこない。横断幕には「夫
婦男女別姓反対」「外国人参政権反対」とも書いてあった。それでも納得がいかない。この二つのス
ローガンは、読売や産経など大新聞も社説で主張している。これらの新聞も「右翼」なのか。もっ
とわからないのが、右翼をみずから名乗るが、その言動に日ごろ感心させられるところの多い一水
会の鈴木邦男さんが、上映を妨害するなと、横断幕、ハンドマイクの集団ともみ合っている光景が、
テレビで映し出されたことだ。
右翼とはいったい何なのだ、
と不思議な気持ちになった。「ザ・コーブ」
上映反対運動の人たちは、
右翼的な政治目標や理論化された教条に基づき、そうした思想や政治勢力の拡大を図るというより、
自分たちの文化や伝統、習俗が汚され、自分たちが美風と思っている感覚や価値観が、外部の文化
の流入や異端の乱入によって失われていくことに、激しい嫌悪感、あるいは危機感を抱くようにな
っている人たちなのではないか、と思えてきたからだ。
こうした特徴をもつ右翼は、
「在日外国人特権反対」を叫び、在日韓国・朝鮮人や、さまざまな事
情でやむなく不法滞在をつづける在日外国人に対しても、集団的に嫌悪感や激しい敵意を示すこと
がある。ある種のゼノフォビア(xenophobia。外国人嫌い)ともいうべき傾向が、なんでこんなに
急に肥大化したのか、不思議でならない。
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◆欧米の捕鯨反対運動に白々しさを感じるわけ
「ザ・コーブ」上映反対運動に対し、表現の自由が侵されると、大勢の表現者・ジャーナリスト・
市民が一緒になって立ち上がり、勇気ある映画館経営者を激励し、ひとりでも多くの観客に見ても
らいたいと、上映運動を展開している。
また、シンポジウムを開催するなどして「ザ・コーブ」の作品をめぐって討論をしたり、雑誌な
どでもさまざまな議論を交わし、作品の良否によって公表の可否が決められることがあってはなら
ない―すべての作品にまず公表の機会が与えられ、その後に作品の良否について自由に意見が交わ
せるようでなければならないとする、真っ当な議論が行われている。
ところが、そうした運動や議論にほとんど全面的に賛成であり、異存はないのだけれども、私は
なぜか、もうひとつ乗れない気分なのだ。正直いうと、
「ザ・コーブ」そのものも、そう見たくはな
い。実際、見にいくことはないのではないかと、今でも思っている。
「ザ・コーブ」には、有名な捕鯨反対運動の団体、シー・シェパードの関係者も登場しており、監
督は、彼らと気脈を通じており、実質的に欧米の反捕鯨派のキャンペーンに貢献する役割を果たし
ている、といえる。そう思うと、作品を見もしないでいってはいけないのだろうが、正直何か白々
しい感じが先に立ってしまうのだ。
ほとんど 20 世紀に入る前に、太平洋上の大型クジラを絶滅させてしまったのはだれだったのか、
という感慨が浮かぶからだ。北太平洋ではアメリカ人が、南太平洋ではイギリス人が取り尽くして
しまったのではなかったか。
彼らの大規模捕鯨の狙いは、
灯りや燃料の原料となる油の採取であり、
油のほかには、婦人のスカートやコルセットを丸く膨らますフープ材として骨や髭がわずかに利用
されただけだ。残る身や皮や、大きな骨は全部、海に捨てられてしまったのだ。
1853 年、ペリーが黒船を率いて江戸幕府に開港を迫ったのには、北西太平洋まできている米国の
捕鯨船に、避難港の提供や、食材・水・薪炭の調達の便宜を求める目的があった。しかし、1859 年
にペンシルベニアで石油が発見され、その後、全米各地で油田の発見が相次ぎ、石油産業が発達す
ると、アメリカの捕鯨は 20 世紀に入る直前には、完全に廃ってしまった。全盛期の 1840 年代には
700 隻を越したアメリカ捕鯨船(大西洋分含む)による乱獲で、そのころには資源が枯渇しきって
いた事情もある。
◆先住民・日本人はどのようにクジラを大切にしたか
欧米人が今、クジラやイルカを、人間と同じ哺乳類、高い知能を持った生物として大事に考え、
特別扱いするのには、
こうした自分たちの、
過去に犯した罪に対する懺悔と反省があるせいなのか、
と思いもする。だが、それでも白々しさは消えない。そうならそうで、自分たちの歴史経験のなか
で反省していればいいことであって、アラスカやグリーンランド、あるいは南米、南洋諸島などの
先住民の沿岸捕鯨にまで文句を付ける必要はまるでない。
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日本列島沿岸部に何百年と棲みなしてきた住民のクジラやイルカの捕食習慣も、放っておいても
らいたい。追い込み漁で狭い入り江=coveを獲物の血で真っ赤に染めても、欧米人がクジラに
加えた仕打ちより、残酷さの程度はずっと軽い。なぜならば、それらの人びとは、クジラやイルカ
が獲れなくなってしまっては、自分たちの暮らしが困るため、過剰に殺戮し、絶滅させてしまうな
どのことは、絶対にしないからだ。クジラについていえば、獲物の利用も実に多岐にわたる。
身や油だけでなく、皮もほとんど食用とし、残る皮は骨と一緒に砕いて価値の高い肥料とする。
大きな骨は、生活雑器の材料とされる。東京近辺では、伊豆半島東海岸の川奈・富戸(ふと)、西海
岸のは田子・安良里(あらり)なども、ゴンドウクジラ、イルカなどの追い込み漁で、つい最近ま
で有名だった。
日本の漁民たちは、自分たち人間が、ほかの動物の命を奪って自分の命の糧としなければならな
い業について、深い思いをめぐらしてきた。漁村の一隅や、地域的な魚市場の片隅には、魚の霊を
慰める碑が認められることが多い。
一方で漁業には、大漁に遭遇するのか不漁に終わるのか、人間が予想しきれない賭のような面が
伴う。大漁になれば神に感謝し、不漁がつづけば豊漁を神に祈願する。弱った巨大なクジラが狭い
入り江に迷い込み、動けなくなったり、大風や大波で浜や浅瀬に打ち上げられると、周辺の三つも
四つもの村の漁民が喜んで集まり、一緒になってこれを捕獲、みんなで切り分けて食糧にした、と
いう話もたくさんある。
そういうところには、クジラを弔う意味や、これを恵みの神と感謝する意味も籠めた、鯨塚とか
鯨神社が残っていることがある。こうした習俗は、近代的で科学的な文明からみたら、迷信に近い
ものかもしれない。だが、そこには、自分も自然のなかで生かされている命の一つなのだとする思
いが、根強く存在する。
◆クジラを捨てて石油を取った欧米人の残酷さ
石油を掘り当てた欧米人は、クジラの油を見限り、石油で動く世界をつくりあげた。地球上至る
ところで石油資源を支配することになった欧米メジャー企業は、今度は石油でも同じようなことを
やりだす。
もちろん石油資源を枯渇させることに一番精を出しているのが彼らだ、ということだ。だが、石
油を支配するためには、産出途上国を植民地として支配する政治にコミットし、それができなくな
れば、それらの国の支配層に取り入り、彼らに国民を裏切らせ、利益を山分けし、それができない
となると、戦争を仕掛けることまでやってきたのが、石油メジャーの歴史だったといっても過言で
はない。ブッシュ政権のイラク戦争にはその傾向が多分に認められる。
そして今年4月、メキシコ湾の海中油田掘削施設の爆破事故によって発生したBP(ブリティッ
シュ・ペトローリアム)の原油流出事故を、指摘せざるを得ない。今も止まらない、史上最悪とい
うべき大量の流出原油は、米国領海を越えて汚染を拡大、沼沢や海中の植生、そこに棲息する多く
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の魚、両生類、鳥などに死をもたらしている。沿岸部住民の健康被害も心配だ。報道によれば、開
発コストの効率化を重視するあまり、
安全対策を軽んじたことが事故を招いた、
ということらしい。
ボランティアの市民が出動、原油まみれで飛べなくなったペリカンを救出、羽の汚れを落として
やり、ほかの潟に移してやったり、砂浜の原油の塊を取り除いたりしている光景が、テレビに映し
出された。涙ぐましく、感動的な情景ではある。しかし、事故の巨大さを考えると、空しさが募る。
それでどれだけの生き物が助けられ、破壊された環境のどれだけが復元できるのか、見当がつかな
いからだ。
むしろ、現代の巨大技術の、神をも恐れぬ、また自然に畏敬の念を払わない暴走に、限りない不
吉さを覚えるばかりだ。さすがにオバマ大統領は、沿岸の住民や企業の被害の補償のために、BP
に 200 億ドル(約1兆 8,000 億円)の基金をつくらせることにした。BPはそれとは別に、これま
でに原油流出を止める作業費として、26 億 5,000 万ドル(約 2,300 億円)を投じてきた。BPはこ
れらすべてを負担しきれない。
その結果、BPは6月、この海底油田に 10%の権益を持つ日本の三井物産グループに、約1億
1,100 万ドル(約 97 億円)の負担を求めた。だが、流出はまだつづいている。物産グループの負担
はもっと膨らむこともあり得る。そこにみえてくるBPの姿は、資源も環境も、他者の利益も、何
もかも収奪し尽くすというものだ。それらを公共財とみなし、これを生かしていこうとする姿勢や
行動は、およそみられない。
◆現代日本に忍び寄る欧米的な食文化の問題
だが、近代欧米文明の荒々しい自然破壊は、私たち日本人にも忍び寄っている。そのことを感じ
させたのが 4 月に発生した宮崎の口蹄疫パンデミックだ。その後 1 か月間に、ウシ・ブタ約 13 万頭
が殺処分されたという。まだ規制の完全解除が宣言されていないが、最終的にはこの数は、もっと
多くなっているだろう。
家畜への感染が始まりだしたころ、テレビに可愛い子ブタの群れが映し出された。小さなからだ
を押し合いへし合いしながら幼い声をあげている、
ピンク色の子ブタをみているうちに、
涙が出た。
口蹄疫の感染が確認されたので、これらの子ブタもすぐ殺処分されるのだという。なんでそんなむ
ごいことをしなければならないのか。こんなことまでして生き物の命を口にする食文化は日本には
なかったのではないかと、ふと思った。
しかし、欧米における口蹄疫対策はもっと迅速かつ徹底的に展開され、発生が確認され、感染が
始まったと推認できたら、疑惑の対象を一気に数百万頭も殺処分にし、パンデミックへの飛び火を
消すというのだ。報道では、そうした対策こそ有効かつ必要であり、優柔不断の時間稼ぎは災厄の
跳梁跋扈を許すばかりだ、とするもののほうが多かったように思う。
食肉牛を肥育するアメリカの個人農家は、1 軒で数千頭飼っていても珍しくない。企業化された
肥育業者となると、巨大な畜舎を何棟も建て、何万頭ものウシに成長促進ホルモンや抗生物質を混
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入した人工飼料を与え、生きた肉の塊を効率的に生産する。人工飼料の主原料、トウモロコシは、
遺伝子組み換えで除草剤や害虫駆除剤に負けない、病害にも強い品種とされたものが使われる。
日本では、アメリカの牛肉というと、BSE(狂牛病)ばかりが話題になるが、本当は、もっと
このような工場型大量生産の食肉牛肥育の実情と問題にも、目が向けられるべきだろう。アメリカ
は、こうした大量生産でコストダウンした牛肉を世界中に安売りするために、WTO(世界貿易機
関)の場で、牛肉輸出の自由化を求めてきたが、ヨーロッパも含め、多くの国の農民や市民からの
反発を招いている。
このような大量生産は南米、オーストラリアなどの、一部の国を除いて到底できるわけがなく、
価格面で太刀打ちできず、自国の畜産や酪農が崩壊するしかなくなるからだ。そしてもっと重要な
のは、食の安全、農業や酪農の自然環境との調和ということを考えると、アメリカ型畜産は許し難
いものと映るからだ。
1999 年8月、南フランスの地方都市、ミヨーで、農民たちが建築中のマクドナルド店を襲い、破
壊した。その地域は、世界的にも名高いロックフォール・チーズの産地だ。このチーズの生産者で、
フランス農民同盟の代表であるジョゼ・ボヴェが、マクドナルド事件の首謀者だった。彼の地産地
消の思想からすると、マクドナルドはアメリカ的グローバリズムのシンボルだった。
◆多様なローカリズムが育む自然観・生命観
宮崎で本格的な殺処分が始まると、テレビは、農地の脇の木立の根方などに、パワーシャベルが
巨大な横型の穴を掘り、
そこにクレーン車が、
石灰をかけた白い布にくるんだ牛の死体を1本ずつ、
穴の底に敷き詰めるように置いていく作業を、映し出した。
穴の底が全部死体で埋まると、その上に覆土し、さらにもう一段死体を重ねていき、これをもう
1回繰り返し、計3段の死体のうえに盛り土をし、処分が終わるようだった。なんともいえない光
景だった。こんなにまでしてわれわれは肉を食べなければいけないのか、とさえ思った。
昔の農家でウシやウマを飼い、農耕や運搬作業に使っていたとき、決まって名前を付け、可愛が
ったものだ。乳牛でもそうだった。しかし、飼育頭数はとてもアメリカのようには多くなく、事業
規模は小さくても、食肉牛の肥育専門の畜産農家が出現、ついに口蹄疫に冒されることになると、
1頭1頭を慈しみ、病気を看てやるということはできなくなり、たとえ生き物でも、これをモノと
して取り扱い、効率的に処分し、残る商品を救う、というようなことをやらざるを得ない状況とな
った。
アメリカ人からみたら、そんなことは当たり前なのだろうが、日本の漁業や農業・畜産の習慣の
なかに流れていた自然観や生命観がかくも簡単に、
また暴力的に失われていっていいものだろうか、
という気がしてならない。
ことは、イルカの追い込み漁や、殺したイルカを食べる日本の漁民に対する非難を捉え、それを
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「反日」の言説だ、と反駁、映画も止めさせてしまえ、とするような次元の話ではないのではないか、
と思えてならない。地球全体に旋風のように高度資本主義の残酷さを撒き散らす欧米近代文化の歪
みと、もっと根源的に向かい合う必要があるのではないか。
その場合、日本の内部だけに立て籠もるのでなく、地球上の多くの先住民文化を残す地域の人々
の暮らし方や、古いヨーロッパの農漁業・畜産、食文化、アジアの国境を超えた共通の農業文明な
ど、多元的な生活文化との連帯を強め、ローカルな違いを認め合うことこそ真のグローバリズムに
つながる、とする観点を強くうち出していく必要がありそうだ。
(終わり)
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