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法然 l:人績仰会

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法然 l:人績仰会
浄土原694降 7 号 t毎月 1 圃 19先行} 平成15年 7 月 1 日発行昭和10年 5 月 209M3 帽鱒慢輸U司
法然 l:人績仰会
月刊 浄土 t?"9< dl)(J号
糊\一 山
総ラ 4 ブデ} ー
.
d
J 川
一ぞ
Jif--n 引」
、
ゆお M1J
い作一
や弘
HWWA ぶ仰
t
・・
・・・・・・・・
,・
「--・・・・・
山市介主
昭和 18~手 3 月号
昭和 18~4 月号
昭和 18~手 5 月号
昭和 18~手 7 月号
昭和 18 年 8 月号
昭和 18 年 9 月号
ヱ
主滞
昭和 18~11 月号
昭和 19~革新年号
昭和 19~4 月号
昭和 19 年 6 月号
昭和均等 7 月号
法然上人鏑仰会
昭和 18~10 月号
島守に歴史あリ
日本の
人々に信仰あリ
心の故郷を紀行する
イ山
五却山愚鈍院描団長寺本堂と怨鈍院中国村
側
道住肢とその畏男、蓮光寺中村繍貸住総
本過は中村鍵造住'躍が昭和四十八年
に建立したが、 当初1J\ら縛予席、 調R
4主 、 内陣筒脇が床の間と怨いのこ
もった符別な作りだった
本場は阿弥陀如来坐像
仙台観音盤織の第十五醤自の観音を記
る観音堂
l
愚鈍院第二十三位、 二十四t!!
となった中村嶋進住臓o r あ
とは怨鈍念仏に身をお任せす
るだけだ」と大らかな笑顔を
魅せられた
望書殿奥二階にある念仏堂. 入り口に
大本山崎自よ号警の第八十六世蔵盆奇襲俊
台下の 「愚鈍念仏」 の額がかかって
いる
、
寺宝の一つである鵬首導犬師 滋然上人の胤商品開
それぞれ発願文、一牧起償支が配されている
.
惜明内のきかりし泰道の法然像
お書きから患で約二十分の蕊間にある
愚鈍院歴代住臓の襲。 区画鐙還に関
わる寺院の墓地はこの混同にまとめ
られた 。
海軍長/タカ オ カ邦彦
,~jλ
2003/7 ・ 8 月号
r
I
次
… 領軍~=タカオカ邦彦
l
人 IIII に宗教はなぜ必要か ・……・…....・H ・-….....・ H ・..... ひろさちゃ
~Wiカラー 、子院紀行 仙台・掛鈍院 ……一-
6
剛
14
4民紙のことば ・・………H・ H ・. .........・H ・..…・…………… 永井健策
、予院紀行
仙台・思鈍院 .'..…………H・ H ・-一……… H・ H ・ 真山
23
符流 I ' }j …… H ・ H・...・ H ・-… H ・ H ・-・・H ・ H ・.....・ H ・...・ H ・.....・ H ・....・ H ・- 林田班順
2
4
i車線 パ リアフリー考
28
…H ・ H ・....・ H ・...・ H ・...・ H・ H ・ H ・.. .. .・ H ・...・H ・- 白木
力
「 代侍医療 J と いう 111耕 一H ・ H・-………・・・…・・・ …… … 井上朝緩 3
0
会いたい人留士民奈]:;①… H ・ H ・ ...・ H ・-… H ・ H ・ ...・ H ・. .. ・H ・.. 関
容子 32
辿,眼 f覚字J . .. ..・ H ・-… H ・ H ・..… ・・ H ・ H ・. .. ・ H ・....・H ・......・H ・ ...・ H・-… 真野随海
4
0
民,訴をたずねて い… H ・ H・-….....・ H ・-…H ・ H ・- 石崎敬子 〈絵石川忠夫>
4
4
J フォーラム …...・H・.....・H・.....・ H・..…...・ H ・.....・ H ・-…H ・ H ・-・…・H ・ H ・...…
55
浄 J: 誌 t 句会 …… H ・ H ・..……・".・ H・.,..・ H ・-… H ・ H・- 選者=浴田河郎子 56
マンヌr r さっちゃんはネ ッ
・・ H ・ H ・・・ H ・ H ・....・ H ・- かまちよしろう
編集後記 ・..... . .....・ H・....・ H・-… H ・ H・-…・-… H ・ H ・......・ H ・-…..…… H ・H・-…-…
表紙題字=浄土門主
q'H f,h 併 5!tド
アートディレクション= 近雌 | ・ 開~
悩カ= 迎段綴 {刷 会
5
9
ω
ひi
ろ家
さ
4三企
第一回
.
。
つまり、それぞれの学百がそれぞれ
。
.
.
そして
。
その点についてお
そして、人聞が宗教を持
」 という問題になってくるわけです
」 というのは、非常にわかりにくい
「
私は宗教というのをこういうふうに定義しま
.
一体、宗教というのは何なのかという 問地ですが、宗教学省の数だけ宗教の定義があり
ます
一体何なのか
す 」 と、勝手に定義しているわけです
ですから、 「
宗教というのは
その上で、 「
宗教というのが必要なのかどうか
私は
「
宗教というものはなければならない」 と考えています
。
たなければ、たぶんみんなインチキ宗教にだまされてしまうでしょう
話しします
それじゃ、 聞くけれども、魚の命
へ『僕
そうすると、子供はすぐに、活発
っていうのは北のもの?
」 と聞く
「
じゃ、小川打の命
命っていうのは僕のものじゃないか
。
私は毎年、五十人ぐらいの小学生を相手に仏教の話をしますが、ある年、「君たち、命
。
というのは誰のものだ? 」 と、子供たちに尋ねました
。
に容えました 。「そんなの、先生、わかってる
の命は慌のもんだ 」 と答えます
.
あっ、そう 」 とえって、小学問年生の小川訂というずに、
そこで、 「
は小川打のものだね
」 と J うんです
。
Fが符えました
。
漁師がもらって、お魚屋さんがもらっていて、魚そのものはお金なんか
J うけれども、お魚さんは 一銭もお金をもらって
」 と別の
」 と 聞 いたん
と、 「
それは魚のもんだよ」 と J-つんです 。「じゃ、ゴキブリの命は誰のもの? 」 と 聞 いた
.
そうすると
.
「
お金を払 っているからいいと
「
先生、お金を払ってるからいいんですよ
じゃ、魚の命は魚のものだったら、なぜ nは
H 魚を食べるの?
ら、 「
ゴキブリのもんだ
.
「
あ っ、そう
です
そこで
ないじゃないか
7
(
I
I(
指1
人間 に ~j,l';( ,まなぜ必~か
」 と J うと、岡ってしまうわけですね
それで、 『
じゃ、先牛、命は議のものなんだ?
もらってないじゃない
。
。
」 と「供のほうから聞いてくるわけです
そこで、 「
命はみんな仏さまの命なんだよ 」 というように答えたわけです
しかし、この問題をほったらかしにしておいて、「命って誰のものなんだ?
」 と昌いま
.
すと、Ar宗
.教を持っていない人は、大低、 「
仏さまの命だ 」 という感覚はないわけですね
。
.
。
というのは、すぐに命は百し上
そうすると、円分の命は円分のものだとなってしまうわけです
。
たり前だ 」 となったわけです
wl
F 供のころ、「お前たちの命はお前のものじゃないんだ
.
.
天宮陛下の命
つまり、 「
命はお前のものじゃないんだ 」ということになるからです
そうなると、これは恐ろしい結果になってしまいます
.
だから、陛下に命を正し出すのが
戦争中など、私の
げられてしまいます
なんだ
この辺が恐ろしいですね
.
」 などというような教育、そういう宗教抜きの
。
。
ですから、 『
命が私のものだ」と古っていたら、すぐに召し上げられてしまいます 同
「
命は円分のものだ
のものとして取り上げられてしまうわけですね
結局、明治時代に、
教育、あるいは川家神道というインチキ宗教にもとづいた教育をやっていて、その小で徐々
.
「
徴兵の義務 」 で命が綜われる
.
.
教
そして、 「
」 という
命も魂も国家に奪われてしまったというわけです
そして、今度は
「
納税の義務 」 ということで、国
に国家棺 h というものが仲びてきて、 「
天皇制宗教」と国家神道が 一つになって、私たち
.
Hっていますが、戦前の温法では、
?
の命はうまく召し上げられたわけです。
だから.ある人が
民の財陀が件われていく
育の義務
」 によって魂が秤われる
そういうときに、 「
命は仏さまの命なんだから、天皇陛下の命ではあるものか
。
8
.
与え β を私たちが持
と思います
向こう岸を
「
パ
l
。
一つの図式を考えてください
。
.
川のこっち伴
l
ラ
サンスクリット語で 言 いますと、こっち岸を
l
。
ラム
これが
l
」 となります
にいたのではだめなので、パ
.
キリスト教などでもそ
「
裟聾 」 という漢・アを当てました
というのが、
」
私たちはこれ
.
「
神の同 」 だと思 っ てもらえ
.
前
い 日台わせができているんです
l
」 というのが
「
あなた方はサハーからパ
しかし、そこにいたのでは本当の意味で問題
H
「イタ
だから、 「
向こう岸に渡りなさい
っ て、ちゃんと
。
向こう内wu を
またあるな味で、京教の本質ともいえます
」 ということにな
.
ってください
を行訳、
「シ
つまり、私たちが住んでいる人間世界のことが仏教では
l
βをしているか
っていたら、あんなに悲惨な戦争にはならなくて済んだのじゃないか
。
。
ここで 一応々え β の基準をわかってもらうために、仏教はどういう与え
ということを、お品ししたいと思います
」 と 言 います
。
ラム 」 と言います
まず真ん中に大きな川が流れているという
l
を此岸といい、向こう岸が彼岸になります
「
サハ
。
真の意味での問題解決ができないから、
。
」 と教えているわけです
。
今、私たちが住んでいるのはサハーです
解決ができない
ムに渡りなさい
仏教の教えなんです
せよ!
一体何かといえば、 「
サハ
そして、 「
渡る 」 ということをサンスクリット疏で汀いますと
l
だから、仏教というのは
にイタ
仏教の本質なんです
。
。
.「人間の惟鮮にいたのではだめだから、神の凶に渡りなさい
ういうふうに与えていると思
ばいいわけです
宗教の本質なんです
さて、中国人は彼岸のサハ
を 「
シャパ 」と呼んでいます
9
いl
首1
人IIlJ に米政 11 な ぜ必咲か
ヤパ 」 というわけです
.
.
。
パ
l
だから、
。
日行さ怨さがあ
花粉が飛べば、そ
。
ラムのほうは理想的な他界ですが、こっ
。
そううまく人間の都合どおりいかない陛界です
」 となります
サハーというのはどういう怠味かというと、「じっと耐え忍ぶ」
ということです
「
忍上 」 なんです
意味を取って訴せば、 「
忍上
ち側は
。
って、非常に再いときには耐え忍ばなければならない 冬もそうです
れに耐え忍ばなければならない人もいます。
日本人は変に道徳教育をやって「人に迷惑をかけてはいけません」と教えるわけです。
「
あな
のなら、大きな間違いなんです。インド人に話をしていたら、「人に迷惑をかけてはいけ
しかし、こんな教えはおかしいんですよ。皆さんのお子さんにそういうふうにおっしゃる
ません
」 と d うんです。それが宗教教育なんです。
」 というのは絶対に言わないそうです。では、どのように言うかというと、
.
しかし、あの人はこんなに大きな迷感
.
迷必というのは 一体どういうことなのか
AH
油相
例えば、
「
ゴ
と教えると、みんな迷惑をかけているにもかかわらず、
」
たは人に迷惑をかけているんですよ
「
人に迷惑をかけてはいけません
.
。
。
そうならざるを符な
「
入るなと 」 と J っ ているわけ
」 と♂うけれども、その人が
。
おなじ迷惑であっても人の迷感は大きいということで、
「
わたしがかけている迷惑はこれだけだ.小さい
をかけている 」 となるんです
しかし、よく身えてみてください
ムひものもの足し 」 で物を凡てしまうということになるわけです
。
だからといって
ただ、私が合栴すれば、誰かが繕ちているんです
。
ある人が大学に AH
仙惜します そうすると、 「
おめでとう
。
したら、誰か 一人は部ちているんですね
.
じゃありません
いんです
1
0
道を歩いていると、後ろの人の交通を妨苫しているんです
.
F 供たちに本吋の宗教教育として
.
自動唱を 一品川進らせると、
。
「
あなたは人に迷惑をかけてい
だから、人に迷感をかけているんですね
やっぱり、渋滞をつくっているんですよ。また、行列に並べば、後ろの人を一人分多く待
.
」 と教えるわけです
。
これが本当の宗教教育なんですよ。
それを人さまから汗してもらって、生かされているんだから、あなたもまた迷惑を耐
ですからインドでは、
たせることになります
る
え忍びなさい
ところが、日本では、
。
それがおかしいわけです
.
「
迷惑をかけるな 」 となりますが、そうすると、自分がかけてい
k
uと呼んでいるわけです
.
」 ということを
「
私たちが生きている世界は、人に迷惑をかけずには生きられ
る迷惑の度合いみたいなものをはかり始めるわけですね
.
だから、そういうド.似を込めて忍
ということは、人の迷感を耐え巡んで生きるしかないんですよ
ですから、インド人は、
ないんだ
。
フム
l-
イタ
・
l
。
」 になるわけです
が 一緒になると、どうなりますか
I
。
。「渡る」というのは
「イ
JF になります。そうすると、「パ
「
初公 」 というのは
「
般店披耀蜜多心経 」 となるわけです
般必 」 をつけて、 「
この
.
こっち側で汀っ
H
仏
の明日忽
ωだと
。
」 と言ったら、わかりますね。中国人がこれに当て字をしたのが「波羅蜜多 」
と
」ですから、 「パ
l
l
この忌後の M
ラミタ
l ラムに渡りなさいと教えているんです
ですから、この仰の 山中
では問題を全部解決できないでしょう.こっち側の附界では問組
J って いるわけです
タ
を解決できないから、パ
l
となって、顕に
。
実は私たちはこの仰の 中 でみんな知忠を持っています
「
般若 」 というのは智なという立味なんです
。
ている知忠というのは何かというと、「制約の知忠」ということになります・どうしたら
思ってください
1
1
;
n1
0
1
人/111 に 3ii 殺はなぜ必要か
。
「
兄弟で半分
私たちはそういう知忠は持っているけれども、似仰
と J うと、どっちが大きいかといって、何ミリグラムの走まではかろ
得ができるか、どうしたら領するかという鍋得の知患です 。一 つのお柴子を
こして食べなさい 」
.
.
って、向こう作に漉るようにする必蛍がありますが、火は、渡
うという、そういう似得の知必です
を超えた仏さまの科怠でも
.
ぷ・吋に柄りを聞いた人だけで
日本には尚仰がたくさんいますが、ほとんどが無用ですね
泳いで渡るためにはどうしないといけないかというと、
。
ですから、私たちは渡る必要はないわけです 渡ろうとすると、普通ですと川ですから、
.
れるはずがないんです それができるのは仏さまだけです
す
。
。
。
4
.
って
つ
「自分一人
.
子供を体制てているんです
.「 子
そういう仏教が小乗仏教なんです。 「
みんな出家しなさい
.
しかし、私たちは向こう作の般打の科怨でも
「
般打で渡りなさい
」
人で
重い財産を背負っては渡れない急流です。また、家族を連れて
.
ですから、家族もみんなこっち山に残して、点つ慨になって、白分
。
泳いで渡らなければなりません
。
楳にならないといけない
は渡れません
泳いで渡るほかないわけです
と J って、日分.人渡ろうとするという仏教なんです
。
そうすると、こっち側での憂き仰の問題というのは、全部悩まないで済むわけです
供が学校に行かなくなった
」 といって梢む必要はありません
女房にぐだぐだ言われる必要もありません。 一人自由になっているわけです
しかし、そういう渡り方じゃだめだということで、大乗仏教ができました
。
。
」 ということなんです
さえ渡れればいい、という渡り方で渡っても仕方がない そんな渡り方なら渡るな」と教
えました
ら なくてもいいんです
それではどうすればいいのかというと、
まり、尖際に槌
12
.
。
。
そうすると、どう比えるか
渡ることが難しいのなら、波らなくていいんです
っち側を昆てみよう
こっち側を見るようにすればいいわけです
。
向こう作からこ
え点なんです
見ればどう凡えるだろう
。
。
。
.
行きなさい
.
r 供がいる
.
。
。
それが大乗仏教の与
向こう仰の見点
しかし、向こう作から
。
戦争をやっておいて平和に氏献
科学などというのも全部こっち側の知恵なんです
。
。
それを、
ちょ っと迎うよ 」
.
(つづく
)
一生懸命教え
そして、カウンセラー
学校に行けない「供がいる
」 というのはこっち側の知忠なんです
不脅校の
。
これらはみんなこの世の中の物産
。
厳近、イラクで戦争がありましたが、人殺し
例えば、戦争中は、世の中の役に立つ人間とい
その向こう山の料公というものを確立しよう
一体どう見えるのか
をしようということなんですね
仏さまから見たら
うのは、人殺しができる人間だったんです
ができる人が、平和に貢献したということになるんです
。
したというのは、みんなおかしなことだと思うんです
しですね
。
ったわけですね
それをお釈迎さまは、 「
仏教の物足しは向こう作の智怠で凡てごらん
っ しゃ
「
行きなさい
とお
。
などが 言 っているのは、どうしたら学校に行くようになるかという知忠を、
ているんです
1
3
第 - [r11
人 1m に ~i< (Á はなぜ必'!.l!か
愚鈍院
イ山
畠a、
ロ
線影/タカオカ邦彦
真山剛
文/
lIi宅院山内. .かれたお守ということからを右の場はqJが型車げるように右よっている. さらにこの
械をよりゆが見えるようは織に作り直す予定だ
V 院紀行
「う ち の 住 職 、 『 伊 達 の 殿
様』なんて呼ばれるのですよ」愚鈍院住
職夫人の晴子さんの明るい笑い声が応接間に響く。
インタビューも 二日目、品後に浄上宗の宗政に話が及んだ時だっ
fさんは、取材にも同席をしてくれていた
.
が.必くなり捗行総を使う住臓に影のように
た。数年前から起の共 AH
計り添う附
「浄土宗の宗会議員や刑上寺の執事をさせていただいていたのです
十
4
三
。
笑顔といえば、この取材
、四位となる山中村民道住臓はにこや
その笑顔が実に優しい
.
が、住職は夢や理想ある人で、しかも頑聞なところがありますから
ね」
.
この奥臓の品に掛鈍院
かに笑っている
で多ぐの住職に訴を聞いてきたが、こちらがこんなに笑わされたの
は中村住職が初めてだった。それこそインタビューののっけからで
ある。
.
中村住職は今回訪れた掛鈍院の隣の成党与で生まれた 長児であ
る中村住峨が成党与を継ぐのが普通だが、体の弱い弟に生まれ汗っ
。
た与で過ごせるようにとその席を譲り、自分は戊辰戦争以来住臓が
いな か っ た こ の 愚 鈍 院 を 復 興 さ せ る 道 を 選 ん だ
t
を向きながら「さあ?
」 である 。宗 派は違う
事前取材で調べていたが、確認の意味も含め、出身のお寺の話を
・
4ねると、それこそ
が今点光という有名なお幼さんがいたが、その風貌を思わせる少し
掬 ・関山よ人が念仏道渇として開い
感触開院の縁起が・かれた号変の幽芭
た経舗が膨岨聞にしるされている
1
5
強面の威厳のある住臓がまさかお茶目だとは思わな い。 忠わず心の
ら れるのである
.
.
中で、 「
あれ、問迎 いない符なの に、いや、どうしよう 」 と ド感 った
と、 そ れ を 凡 て 愉 快 に 笑 い 始 め
った
。
その笑顔に住職の茶目っ気にようやく気づいたのだが、 二 日問、
何度 も 笑 わ さ れ た イ ン タ ビ ュ ー と な
。
愚鈍院の境内に北限となるかやの木が
「.生市心 」
、大正大学児明教化研究部で前印刷をされていた住峨の
。
。
d
ら いのための部凶
そうしたこともあって、客殿の玄関をあがった
こつぷがやという木で、昔は近所の子供と 一緒にその
施れの銘の 一つがこの J 集
立っている
実を食べたという
ところに
」 と何度も話されたが、それ
ご」つぶがや文郎」 と名付けた説川と
がつくられている .「子供が大官だね
3葉であり、子供心が住職の中に生き続けている
。
は机上の事だけでなく、住職が実際に子供たちと触れ合ってきた経
験か ら の
内 ニ軒で、しかも百年近くも住職のいない
阻家数、 一
この小村住臓が隣の成党与からこの m純
m 院の住臓に入ったのが、
。
った
。
う なお与だ ったという
.
とはいえ、宝肝年
そのお堂も 天井に穴のあいた序説きで、近
境内は草ぼうぼうで、現在の本絡が記つであった持仏
。
附和 て十四年
お寺だった
堂が唯 一の建物だ
くの人が堂守しているよ
間に建てられたそのお堂は伊達部の城代家老の持仏堂だけに釘一本
もない造りのいい建物で、由緒ある愚鈍院の面影は残してしたとい
。
候補地だった. 現在は僧ヶ丘公園と高よっている
た宮島は現T王宮繍刑務所とはっている
・2織を見混ぜる!I~になるはずの悶は仙台滅の
伊連政~が随磨後の若綜城を節減し
伊遇政宗亡きあとの徳川..とのISl防を想定し 、
1
6
寺院紀行
naす
A かぐ
O ニ)年に南町通り(現仙台
ぅ。またそこにお組りしであった阿弥陀如来坐像は作者は不明なが
ら室町時代の作風のもので、現在の本尊になっている。
さて、仙台駅から東南、寺町、新寺(旧新寺小路)の寺院が建ち
並ぶ通 り に あ る 愚 鈍 院 は 鹿 長 七 三 六
駅構内)に建立された。開山上人は良蝿上人で、袋中の名で知られ
る良定上人の法弟である。東北に浄土宗を広めたのは金光上人で、
その基盤の上に名越派閥植の時観上人が念仏信仰をさらに強いもの
にしたのだが、名越派の僧侶は良の字を冠するが、二 人とも良の 字
がついている。
この良雄上人は学僧として有名で、天正年間に伊達政宗が帰依、
米沢時代の成党寺中興開山となった。その時、上人は正宗からの
三百石の寄進を断っているが、その後、成徳寺十六世となった上人
を正宗が手元に呼び寄せ悟真寺(後の掛鈍院)を建立させた時も
三十石の寄進を断っている。そこで、正宗は近隣の武家百四十軒を
恒家とさせている。それぐらい念仏弘通に力を注いだ上人で、寄進
断る人柄を慕って集まる僧侶の研鋪道場としてその歴史は始まった。
そして寛永年間に現在地に移転した。現在新寺と呼ばれるこの一角
には 二十余の寺院が並んでいるが、周辺の寺院が寄せ集められ、寺
町となったのである。それまでの青葉城を核とした町割りで北山五
寺い
町が作
山を中心にした寺町があったにもかかわらず、なぜ新し
中日刊昌明道住織は且閣鈍院の聞の成覚寺
昭和二 十四年に入った
の畏男だったが、第に服り感鈍院に
1
7
られたのか?それは伊達滞のこういう不安からだった
。
と船日を持ちなが
戦岡武将の縦、伊達政宗は天下取りの実 hH
ら も、
徳川の臣下にけんぜざるを仰なか ったが、いつもその動向を徳川は
気にしていた。いよいよ政宗が隠居を迎えるにあたり、政宗存命中
はと も か く 、 亡 き 後 に は 徳 川 が 伊 達 部 を 武 h M
ででも取り出しに来る
.
。
だろうと予相心していた そこで、そうなった時には戦場となるであ
。
新寺は戦場を見渡せる小高い岡
現在の宮城刑務所の地に政宗は隠居のための若林城を築き、そこ
ろう宇野を想定した城と城下町を築いたのである
を小 心 に 新 し い 町 並 み が 作 ら れ た
.
そして、その問辺には鍛治
と城の問に位凶しているが、敷地の広い与は戦の時にはいろいろな
川途 に 使 え る 利 点 も あ っ た か ら で あ る
百人町といった町名の町が今も残っている。
町、鉄砲町、 一二
。
幸い政宗亡き後に徳川と伊達滞に争いが起こる事はなかったが、
。
。
春子夫
のある車師寺{旧新@小島) の区画筆
11は二十年に及ぶほど紛糾した. .
.後に残った区S騒が.鈍院の・地と
4ょったが、いまでは頂上付近の見鳴
S霊的には.悶に g 地がまとめられ、
それぞれの別院が姐てられた
らしのいい繍所となった
新寺はこうした伊達部の恨怖から生まれた町なのである その新与
が大きく揺れた事件が起きた 時は下り、附和 二十年代後半から始
まった仙台市の区画整理にともなう墓地移転がそれである
。
人が嫁いで来たのは昭和 ニトじ年だが、当時は墓地移転反対運動の
っていた
で、登記されてい
J一
卜年代、仙台市は革新市 IU
将名 の 品 中 で 、 中 村 住 職 が 反 対 迎 動 の 先 副 に 伝
昭和 ニト年代から
なかった新 寺 小路( 当時)の寺院の墓地を葛岡に移転し、新たな区
飽和三十年から始まった.鈍院など
18
1,'"院犯行
8圃帽の出し入れを
本骨量勘耐の位陣盆・
AJ
今はお諌さんも手
伝ってくれるとい
.
曹古田聞こg
帽m
の
情聞からこっぶ董が見える
@村佳織が豊田:&である矢吹照夫浄土宗顧問弁
創土から聞られた錫鋤.宗教学.矢lll1・m先
生 、 a・上司警八十也大島・水台下が飽和十二年
正月 、 鎌倉康光~で遊びjIれに 12 したものだ
1
9
繭整理を市は計画していた
。
。
。
。
歩
たか
それに対して、登記の有無はともかく、
それこそ伊達の殿線、政 宗 公以来の伝統ある寺の墓地である
が数ト年の市が何を 言 うか、と新寺の寺側が相対したのである
み寄りのないまま墓地の所有問題にまで発展し裁判沙汰になる中、
寺側は浄土真 宗 の国会議員に陳情するため何度も東京まで赴いた
。
しかし、双方の 言 い分は 平行線、紛争はこじれにこじれ、あっとい
う聞に十数年の月日が涜れた
。「仏につかえる者が争い事
このままでは裁判が最高裁に、こうした中、反対運動の中心だっ
た中村住職は百八十度方向転換をする
。
。
浄土宗のお
仏教連盟を組織し区間整理の委員長になるのだが、手の平を
で身をやっしている:::」 そんな思いから今度は和解運動の先頭に
立つ
。
。
とはいえ、時間と
返す形となる中村住職についてくるお寺 は少なかった
寺と魁鈍院に隣接する曹洞宗妙心院だけだった
ともに墓地移転、区画整理に賛成するお守が噌えていく
お寺の区間
ですから愚鈍院は表通り側の角地がな
。
昭和四十五年、ようやく移転と区間整理が決着をみることになる
。
。
住職は立場上、皆さんを優先していました 」
墓地も品後に残った山頂付近、これは今では逆にいい
。
「区画整理の委員長ですから、自分の愚鈍院は後回し
。
も墓地の場所もそうでした
いでしょう
場所 に な り ま し た け ど
二十年近い仙台市との係争は何はともあれこうして解決をみた
。
.
葛岡の薗'地に立つ水子供獲のお地蔵
さま 且回鈍院の向いには産婦人科が
あるが、圃
mの産婦人科医会の方々と
枠内に侠圃置を鯵けてきている
2
0
寺院紀行
小さな 子供の目線で作られたものだ
。
当 初から椅子席、脇陣
。
この係争以前からお寺だけではやっていけない事もあり、お 寺 以外
。
。
以来それまで続けてきた愚鈍院の各種会合がより活発になる
時に昭和四十八年のことであ
に仕事に就いていた住職だが、さらにいろいろな役職におされるこ
。
そうした中、本堂の復興を迎える
とになる
る
。
新本堂は無柱、
婦人会、青年会、 写 経会、詠唱会、そして朝粥会など、長いもので
は四十五年もの歴史がある
。
。
少々古くなった
境内の躍の中央
山門の向かいにある産婦
。
また山
は床の問、というユニークなもので、随分研究して作った空間が相
家さんをはじめ地域の人たちからも好評を博したのだった
門両脇の塀は胸の高さより上が縦だけの格子になっていて中が覗け
一つである
るようになっているが、良蝿上人以来の念仏道場として広く皆さん
にお寺に来てもらうためのアイデアの
。
その塀が今度 立替えられるが、さらに境内が見やすくなるという
誰でも入り易いお 寺 への工夫は塀だけではない
。
あたりに小さな童形の誕生仏と両菩薩、そして小さな鏡が並んでい
る
。
「
伊
人科に来る母子の憩いの場になればと最近作ったもので、可愛いベ
ンチに親 子が並んで座れる
。
こうした多くの人に聞かれたお寺を目指すには住職の、いや
達の殿様 」 としてのこうした 信 念が裏付けになっている
岨構内にある誕生仏と観音、岨開歪苔結
晶陣と鋪・子供たちの目録に合わせて
作ってある
21
「今の坊さんは賀沢、なんのかんのいっても充分生きていけるのだ
から、世間にお返しをしなければいけない。ここに気づかなければ
」
さて、こうした住職の姿を見て育った長男、中村瑞貴さんは現在、蓮
仏法に生きているとは言えないな
光寺の住職をされている。仙台市内だが、町はずれの田んぼの中にあ
るお寺でこちらも無住時代が長くつ守ついていた。栂家数も数えるほ
どのお寺ながら、いろいろなことを始めている。瑞貴住職は東北か
ら初めて全国浄土宗青年会の理事長に選出された行動派で、あたか
も中村住職が荒れていた慰鈍院を復興させたように、栂家とのつな
がり、地域とのつながりを大事にしながらの寺創りに取り組んでいる。
その瑞員住職には奥様の彩子さんとの聞に男の子が 三 人いる。民
道住職が命名した龍樹くん、悟民くん、そして瑞道くんだが、親子
三代が法要の時に姿を現すのを僧家さんは何よりの楽しみにしてい
るという。もちろん子供好きの員道住職も孫たちの衣姿に目を細め
ているのは 言うまでもないが、その住職が最後に五十年の住職歴を
振り 返 り こ う 言 っ た 。
「良蝿上人がたくさん残してくれたものを、今時間をかけて拾って
いるようなものだね 」
。(
ルポライ?・ }
たとえ指い残しがあっても、ご子息やお孫さんが忘れずに拾って
くれ る に 違 い な い
山内館の鎗
2
2
心象書道
生(い)きるということの大きさを感じていま
す。
生(は)えるも同級です。
生きると生えるも、決して放くはないけど、
それでも大きなことのように感じませんか。
何故かそれと援することで、本当に牛.命を流
せるような気がしています。
永井健策
私はそんなことを感じたものだから、何故か
うれしくなって 「生J という学をこの様に嗣
いてんl ました 。
(なか'いけんさく)
昭和 20年群馬県生まれ 。 中央大学法学部卒業後、読売広告社に入社。
企画セクションに配属され 161手在籍した後、自動販売機製造メー
カーのサンデンに転機。 販売企画の仕事を 16 年続け、平成 111手
に独立 。 会社を放立し、新規事業に取り組んでいる 。 趣味で始めた
「心象書道j が趣味の世界を超え、展覧会を開くまでになっている 。
響流十方
生まれてはまづ思ひ出んふるさ
契りし友の深きまことを
とに
法然上人「元久 二年十 二月の詠歌」
阿弥陀さまのお浄土に往生したならば、般郷であるこの婆婆世界で、必ずやお浄土に往生
いついつまでも
i
。
しようと契りを結び、共々にお念仏にいそしんできた友人たちの深いまことの心を真っ先に
i
倶会 一処」 の喜びを分かち合いたいものである
思い出し 、お 浄土で叶えられる 「
あなたと私
響滅十方
そ
書店に足を運ぶと臨死体験や退行催眠療法の臨床研究の成果をふんだんに盛り込
。
。
んだ書籍がうずたかく積み上げられています もちろん、両者とも科学的な検証が
一OO %なされたわけではありませんし、そんなことは今後も不可能でしょう
少し整理してみる必要がありそうです
。
。
第 一に幽体離脱
。
病院の 一室
れにもかかわらず、 なぜこれらがこれほど多くの人々の関心を集めるのでしょう
か?
臨死体験は、その多くが共通しているといいます
。
で最期を迎えている自分の姿を肉体から離れた自分自身が外から見ている 医師が
第 二 にトンネル現象
。
トンネルのような真っ暗な世界を通
第 モ に、これは文化的背景により一腕があるようですが、トンネルを
。
ご臨終です」といい、家族が 「ワアl」と泣き崩れていくありさまの一部始終を
「
。
見聞きしているのです
り抜けていく
くぐり抜けた先で、神さまのような方に出会ったり、今は亡き家族や友人に再会し
。
たり、あるいは、花園のような場所や明るい光に遭遇したりするそうですつまり、
こうした臨死体験を積み重ねた臨床研究とは、死後の世界の存在を肯定し、〈この、
今、意識している私〉が何らかの形で死後もあり続け、ともすると、今は亡き〈か
2
5
〉 と再会することもできるのだという確いを他かせる契
。
退行催眠とは、医師が患者の心の備を治療する時に用いる催
っているといえましょう
けがえのない大切なあの方
機とな
。
。
そういう場合、医師は退行催眠を施して
。
例えば、大人になっても水が怖くて顔も洗えない方がいる 本人
次に退行催眠療法
眠術の 一種です
には、その原因がまったく思いつかない
。
ると患者は、
「水が怖くなってしまった原因まで遡ってください」とお願いすする
。
大方は、その原因が判明するだけで症状は大幅に川
。
それこそ幼い時に何かのきっかけで溺れかかった体験を話し始める その原悶に応
。
じて医師は治療を施すのです
復するそうです
通常の巡
。
「とにかくあなたがぶを怖が
」 と行げると、その忠持の年齢をはるかに
った医師が
S筒で取り上げられるのは、そうした退行催眠療法の輪組転生版です
ってください
行催眠では忠舟の心の似まで辿り行けなか
る原凶の生じた時点まで遡
らずあり、その内容も、思
超えた白身の過去世での原因を話し始める川崎合が少なか
者が決して知りねない伯報をスラスラと、 しかも正確に話し始めるというのです
2
6
響流 ト 方
その時の心の傷が現在の私に及んでいます」 などと
。
。
そ
例えば「 OO という国に住んでいた OO という名前の私は、 00年に OO 船が難破
った
。
「その時、私の×× (両親夫
・ 婦 子
・ 供 友
・ 人など) であった OO は、
今 は (今も)
して溺れ死んでしま
して
。
OO という箇所がすべてい事実だというのです つま
私の××(両親 夫
・ 婦 ・
子供 友
・ 人など)である OO です」とまで
言 いきるそうです
後で調べてみると、実際にその
り、こうした退行催眠療法を積み重ねた臨床研究とは、 〈この、今、意識している私〉
(そして、今後も続いていく
〈
かけがえのない大切なあの方 〉 との関係
は何らかの形で過去にも生を享けており、そればかりか、現在の関係とま ったく同
じではないけれども自分自身を取り巻く
一代限りではなく、過去世から連綿と続いてきた
。
であろう)関係なのだという確信を抱かせる契機となっているといえましょう
。
L
カ・カ
こうした臨死体験や退行催眠療法を経験された方々に共通するのは、みな 一様に
それからの人生を前向きに、実に生き生きと過ごすようになるといいます
。
合掌
大正大学問師・林国庫一
}期
(
ですか?「倶会 一処 」 の喜びが語られる法然上人のお歌は、冒頭の疑問を見事に解
いてくれそうです
27
(ま
説討会話芸会長
パ
言 リアフリ
白木力
選挙
ル}
投票
者
l
丸山力 新 P7引
U都況認治会員
2 /
文
第 内£ 回(金 S 回 予定}
いつも彼奴所に怒るこの小学綬では 、 会織の体淘
.の入O にベヱヤで作られた作りのI!いスロープ
を見かける. 少しの段IItf気になっている .
年
多くの被災者が出た
。
。
あのときに気
阪神淡路大盤災で国内がゆれたのは、 19
95
して使われる
だから、なおさら気にかかる
。
。
投票所は、
投票所のバリアフリー化については、多くの
。
地域でも同様にかなり遅れている
送られ
になっ た の が 、 避 難 所 の 状 況 だ っ た
学校や市民センター、お寺などだったりする。
。
てくるテレビの画像に釘付けになりながら見
次第に現地の状況がわかるに
簡易な手作りのスロープで済ませたり(写真
。
守った も の だ
。
応は、まだまだ場当たり的だ 投票所自体が、
、人的な力で車いすを抱え上げたり対
参照 〉
。
したが っ て 、 そ の 悲 惨 な 状 況 が 明 ら か に な っ
。
車いすの人やお年寄りにとってトイレを
多くの自治体で選挙管用委員会の管轄でない
た
化が整
。
。
改善はその管理
宗教団体だったりと
っ て違う
。
。
選挙権の
各地域の選挙管理
一惑の近道だ
。
。
ハードにもソフトにも、そ
ろそろメスを入れて欲しいものだ
ければならない
委員会はもっと強く、その責任を受け止めな
行使はことさらに重たい
一票を投じることが
地域をそして国を変えるためには、選挙で
管理者は場所によ
教育委員会だっ
点も問題を複雑にしている
i
。
始め、 そ の 環 境 は 過 酷 を 極 め た
たり、市民局だ
。
スも多いが、同じ
早急な点
ったり、
時間が経つと忘れてしまうが、 一番の避難
所になった学校の整備は、まだまだ現在も遅
。
者が立任を持つ、選挙が来るたびに、またシ
。
l
バリアフリ
その犠牲の程もマスコミな
。
れてい る 多 く の 地 域 で 緊 急 時 の 避 難 所 は 、
小学校、中学校等の公的な施設だ このよう
ツコク改善を呼びかけたい
。
な緊急 時 に 、 い つ も 犠 牲 に な る の が お 年 寄 り
ゃ隙害者である
どでは 伝 わ っ て こ な い
備され て い れ ば 防 げ る ケ
。
ような こ と が 現 状 で も 懸 念 さ れ る
検が必 要 だ
さらに学校などは選挙のときに、投票所と
2
9
一考
77 I}
パ I}
「代 嘗 医 療 」 と い う 世 界
「
ホリスティック」とい
。
簡単に
とい
ょっとご紹介します
。
井上朝雄
。
全米ホリスティック協会の発起人たちは入会してくる
メンバーに、こう呼びかけたのだそうです
n
子機械としてのから
分
「
われわれは修理工ではなく、庭師になろう 」
つまり、ここでは近代医学を
だの故障を直すもの'であり、医師をそれを行なう修理
。
われわれのからだとい
.
工になぞらえているわけですが、では、医者が庭師にな
」 の認識です
「
庭 」 のようなものであ
自然といった人間よりはるかに偉大な何
・
。
この考え方は、キリスト教的な身体認識でもあるらし
る、という比略的な見方です
者かから無償で貸し与えられた
く、神・宇宙
うのは物質でできた、精密につくられている機械ではな
基本は「からだ
うもので、始まりはアメリカ 。一 九七八年に「米国ホリ
。
「
補完代替医療入門」(岩波
アクティブ新S) に占かれていたので、今回はそれをち
である上野圭 一さんの近著
話が、わたしたち代替医療利用者ネットワークの副代表
そのアメリカでの設立時のエピソードとして興味深い
られています
十年、八八年に「日本ホリスティック医学協会 」 がつく
るというのはどういうことなのか
ーー
④
スティック医学協会 」が設立され、日本でも遅れるとと
学だけでなく代替医療も積極的に使っていこう
体・精神・湿性の統合体 N として丸ごと見ょう、近代医
H
言えば、病気や病巣だけを見るのではなく、人聞を身
リスティック医学 」 という考え方があります
うことばを紹介しましたが、このことばを冠につけ「ホ
た
前回、,全体的'を意味する
「庭」と「庭師」
「管 理 人 」
と
f(\:a医療j という 1ft 界
.
いのですが、したがって、わたしのからだはわたしの所
時期がきたらその偉大な何者かにお返し
しなければならない。そこにおいて、「わたし」とは、
有物ではない
いつかくる返却日までの問、その「庭
」 を、そこに生存
.
する樹木やさまざまな他物などを、鎚雌に保つことを務
「
特別人 』 ということになります
.
て、専 門家として助ゴし、 同生のために専 門的な腕を仮
ただし、再生していくカの本体は庭そのものが持って
るうことです
hH
のことを
いるものであり、庭師はそのカが発現しやすいように補
佐するものでしかありません.その再生する
hu
地もまた、忠
n然的総 h といい、代将阪蝦のけ嶋本的な
捕ではなくからだ全体に働きかけ、からだ日・妙が備えて
めとしてうえられた
庭を健康に保つには日々の手入れが大切です.水や肥料
いる治癒力を賦活させることにあるのです
な.せなら呼吸・飲食・運動
排m
・
­
。
あるいはテレ
ビなどで,××に効く'と紹介される食べ物や健康法、
後補助食品を奴ることでよしとしている
って f
小胤則な生活をし、それらのツケはビタミン剤や栄
ヤンクフ!ドを予気で食べ、運動もせず、睡剛山吋聞を削
.
仕 事 を怠っているように思えてなりません ふだんはジ
しかし、そう考えると現代人の多くは管理人としての
.
をやり、雄前半を取り、害虫を駆除し、校を払い、落ち葉
を掃き泊めるなどの営みがなされないと躍は荒れてしま
.
そんなもの、品初から庇 削 にまかせればいいじゃない
います
.
か、という人もいるでしょうが、からだという庇だけは
そうはいきません
睡眠など、からだを健康に保つための基本的なことは管
「
何とかしてくれ
」 とすが
綜浪、どこかちょっと H
公けが必くなると、修均じである
制柑人しかできないことだからです。これを汀い検えれば健
、康総見に飛びついて、・:宅 川口ほど試してみる。その
「
わたしの健康は、まずわたし白身の日々の生活のあり
民有のところに駆け込んで、
ひとつは管理人に適切な日々の庭仕事のやり方を指導
療消費符の側にも、いま大いに必袋なことではないでし
健康観は、医療者の側はもちろんですが、わたしたち医
「庭」「管理人」「庭師」というホリスティックな医・療観
・・・・:
。
点にある」というきわめて当たり前のことなのですが、
りつく
すること、もうひとつは作型人の手に負えなくなるほど
ょ・っか。
ことは 二 つしかありません。
そこにおいてホリスティックな医師である庭師にできる
荒れてしまいそうな、あるいは病んでしまった雌に対し
3
1
。
1I~/9 カオカ邦彦
会いたい人
さんがいて当り前、といった生活に反嬢して、
庁年らしい正義感から左翼運動に走っちゃっ
オペラを観ているとき、ミラノにいてもウ
ィーンにいても、民奈美さんは今どうしてい
引
たの何度も脱が符察に行っては、現で取
a
るかな?とふと思うなぜだろうと思った
。
口語体の短歌も作っ
二 のころ、手術い失恋をしたらしく
。
て司憂欝な若葉』という歌集も出してるの
オリンなんか弾いてた
称して上京して、昔梨学校へ行って、ヴァイ
マンチストだったのかしらね大学に行くと
きして述れて州ってきてたみたいよ結応ロ
に、
山中
ら、「魔術』のご人の魔 Kとか、?一 l ベルン
グの指輪』の一二
人 のラインの乙女とかの
。
。
それほど民奈美さんの顔立ちは日
たいてい毘奈美さんに似た人が浪っているか
らだった
本人離れしている
十.、
湖と
H
。
人はだしなのも、そして人並外れて正義感が
長奈美さんの苦楽好きも、俳句の腕前が玄
いうか(笑こ
ね、ちょっと啄本調というか、俵万知
的ぎしり附んで来てられてゐる
逝く#の午前,時は悔しいな
二
さんの順に例
作田今日チ、 LZ
行H
和子、富士興宗美の妖艶
f
って、悶々として,人旅してたようね。
f さん、和
-K
慢が仲のいいのは近ごろ有名だが、払は
二
かなり前から今日
でお-一人に民奈克さんを引き合わされた。オ
別に親しくなり、あるとき偶然オペラの会場
。
ペラと興奈美さんが条件反射のように結びつ
くのは、そのせいもあるかもしれない
「あら、日本人離れと言ったって、父は修善
ついこの間、山行和「さんから捌いたのだ
強いのもみんな父親ゆずりなのだろう
ではよく知られた大地主で、じ人兄弟のぶつ
も人つてないわよ(笑)父の巾犬家は修持与
興奈美さんと. 一
人で歩いていたら、向うから
が、雄ヰのグラビアの仕恨で後楽同の雌闘を
寺の人で舟は 一一
品一
の人伊豆の血以外は一滴
子だから親子ほど年の述うお兄さんにお安
33
笑いの夕、不にできること
いつかも、スペイ
女性の腰を抱きかかえるようにして歩いてく
ンで日本料理屋を経営している新宿「どん底」
の元マスターが久々に対向し、民奈美さんが
d
る初老のカップルとすれ違った和チさんは
別段批難する気は起きなかったが、民奈美さ
タクシーを降りて叫んで駆け寄るサマをこう
「いい年を
んは 「はしたないと刷をひそめ
ぷされた、と突っていた
l
ドみた
父は苦味走ったい
ボガ
・
そんなことは言っても、平成六年に沢田
。
った、ですって ひどいじゃない、これって」
巨大な主糸の球が転がり落ちてきたのかと思
「芭皮のコl ト府てたからね、タクシーから
して辿峨というものを知りなさい 」 と文句を
J ったそうだ
。
「まあ、私はかなり父親似よ眼とかおでこ
とか天然パーマとかまで
l
甘ったれ坊やだったらしくて、
研一一と共演した『かもめ』(チェ
l ホフ)のア
。
い男で、ちょっとハンフリ
いだったの
ルカジ
l
ティ
セカンドストリ
K 優の此録だっ
小学校へは爺やがついて行って、その爺やが
たし、平成八年、十年のミュージカル位 nd
フォ
ナ役は堂々とした大
教の恨の窓の外から見てないと泣いてうちに州
STREET(
l
っちずつような子供だったほは,人娘で、
ート)一では、歌も断りもさることながら、
l
父親が鉄道者につとめでたからやっぱりお娘
「民奈美っていう名前はね、今でこそ結構同
。
その花やかな美貌がひときわ日なって舞台映
。
その コ人がお見合いをして、父が
さん育ち
えした
。
でもね、いつ椅子から父が立ち上
ハンサムだったから一ぺんで決っちゃったん
ですって
るのかしら、と思ってたら、もう立ってた
じ名前の若い人がいるけど、私以前にはどこ
HM
年だった父が万柴集
(笑)。汗はあんまり向いほうじゃなかったわ
文学
にもないと思う
から取ったんですって
。
ねそこも似ちゃったの」
.
慢に珍しく内川分を
興公明K
い
さんのれ火山…はk、
3
4
会いたい人
足引の山さはびとの人さはに
46
ん
」
「まな 』 という
麻奈といふ子があやにかなしさ
人はたくさんいるけれども
そ
娘がどうにもいとしい、ってこと?
。
万葉集巻十四相聞の表記によると、「安志
比窃乃夜か砂波批登乃比登佐波か麻奈
登伊布児我安夜か可奈忠佐」とある
言 うわね
。
経t竹題提箇「つむじ風J;,I量産清さんと
「私以外の民奈美さんに訊くと、父が冨士さ
んのファンなので、ってたいてい
35
秋山庄太郎措置彫
19..r文11春秋j
-6・11
一二
砕けで、また火だ
「私の家はお付敷の前の川川家
(
笑 ) 附和
十九年に机父が亡くな って、官似たちの.・米が
-士山に民って住みつくことになったんだけど
うところは、東洋
な村なの
。
一の湧水量だというきれい
私はそこで清水小学校に入学して
な水が泉のように涌いて流れる柿田川で街名
3
で
っ F に聞かれち
」
3
6
それで、姉の名前は静、次の姉が仁子、説も
読めないの、これ私が
というんで非常ぉ
それが天の助けで、そのあとすぐに東京は大
にがっかりされちゃった
らしくて{笑てほは巾しわけないから恒子
空襲前一懸でやられた人もずいぶんいたとい
i
に出します、と?けったら、父が優しい人で、
でも次に弟が生まれたらあ
三島と沼津の聞の清水村とい
うことよこの
ピックフォードみたいに可愛いじゃ
・
そんなこと言わないでお前、よく見てごらん、
メリ!
。
十 二年間いたわけだけど、村の子供はモンペ
れたんですって
ないか、うちで育てよう、ってたしなめてく
んまり嬉しくて祖父が名前つけて進、その下
姿で学校に通ってたのに、母は私に手編みの
。
。
・
みつAEA-z
の弟は光人、それからまた娘が生まれて環
セーター着せて、短いスカートにハイソック
2
.
h しかないようなシンガーミ
いスカートを作ったり、コティの円紅を格つ
シンを持っていて、セルの持をほどいて可愛
母親は村に
も私もたちまち凹合になじんだけどね
ゃって、『あなたの家』とかJ われてね
が大きな戸で -J
うのをいじめ
とき、あなた、ハンカチ持った?なんてり
ちまちいじめられたそれに父税が出かける
これは母がソプラノ歌手の さ浦環が好きだっ
クだ
スなんて目立つ格好をさせるものだから、た
ー
たから」
やはり境奈夫さんの名が断然ユニ
・島市が町生まれだが、父
け
(
現夜の北区 ) へ川川越し、」ハ成ま
ψ1
時新聞必在だったので、転勤で点点、
その興公美さんは
親が
滝野川氏
でをそこで過した成品山のすぐ近くで、
f供ごころに憶えてい
の前が渋沢栄 一邸 広大なお u敷
mの塀がどこ
までも続いていたのを
る
会いたい人
。
たりする{ただしのちの慎奈長さんが倹る下
分以下の濃さ}するお刑務な人だった
父は酔うと歌うのよ
。
そ
「
母は、父が左翼なのも、大柄飲みなのも知
令
f
って私のことよ(笑)
れて行くならどうか次の下だけにしてくだ
さい、って女の
この話をのちに付から聞いたときにはもの
。
すごくミジメになって、向分が可表そうだつ
た
らずに結婚したの
れも、古き都を来て見れば浅茅が原とぞ荒
。
そうい
でも母があんまり面白そうに話すんで、
れにける月の光は隈なくて秋風のみぞ身
う父も結核で、五十 二歳で若死にして、母は
ま、いつか、という気になったわね
。
には必む:::なんて、藤原実定測の歌に勝手
私はそういう歌があ
結後
。
。
帰るとなると突然帰る帰ると一汗い
プを運転して 一二
ぬま
l
HKが
mM
犬みたいなものなのね」
。
「中学 二年の とき、シューベルトみたいな風
との出会いだった
となったのは、中学と高校の 二人の汗楽教師
民奈美さんを芸能の伶界に結びつける基盤
f さんから聞いたことがあったつけ
淳之介に対する感じも川じだった、と前に利
・
Hば占行あぐりさんにとっての託児
そう 1え
ら、
で送ってくんだけど、母は夫が口 rく死んだか
出すので、私が赤いジ
ちゃうの
八十九歳まで生きたけど、うちの 二階に来て
。
。
に節をつけて歌ってた
声はよかったわよ
泊ってても、弟が可愛いからすぐ 三 島に帰っ
も
るのかと思ってたら、父が作ったのね、音楽
学校出の人だから
は大伴旅人みたいに酔い泣きするの(笑))
」
民奈美さんも父の愛明歌を聞き憶え、げの
歌をよく知っているものだから、片付川校生のこ
ろには、 「
あなたいくつなの?」とよく訊か
れたそうだ
「阿離の弟への溺愛は大変なもので、私とは
J一つのときにおなかをこわして、世痢
。
A-崎均
い叱大低の走別じゃなかったわよ 私が五つ、
弟が
になって死にかけたのそしたら父は無神論
者のはずなのに、神仏に祈ったんですって
男の子はやっと授かった宝ものですから、述
3
7
18..r週刊朗日j
褒紙. 小偏食平~~のモデル
38
会いたい人
。
何か理由があ
貌のえテノール歌手という先ル 1かい米京から綿
子の実みたいに流れ着いたの
のよ」
『蝶々夫人』の中の有名
なアリア
「ある晴れ
た日に」が、将来民奈美さんの花やかなデビ
c
って将来の夢を中断さ れた、 って感じ。アル
「
私の舞台経験は、中学の文化祭で亦い靴
ューにつながるのだが、この話はまたのちに
リの「以も光りぬのレコー
l
中なのかお柄の匂いがして、悲しげで、教本
ではいつもジ
l
k泊したの
仔に民ってその.節を聞かせてくれた
民奈長さんがよく制作く戸を抑え、高校生の
だあの歌はおぼえてるわよ」
死んじゃう手児奈の役なんだけど、今でもま
私は.一人の別に求愛されて梢んで、入水して
広大の初出に先立って引似たちで
聞の下山保』というオペレッタふうの作品を、
高校の文化祭のときは、服部正さん作仰の吋点
のにバレリーナの役をやったのが最初映画
というドラマを円分で九いて、踊れもしない
r
リは歌い終ると働突す
。
ドをかけて、窓の外のレンゲ畑やタンポポの
咲いてる回国風肢をぼんやり眺めてるの 私
の『赤い靴』を見て感動した結果の産物よね。
1
はそれです っかりオペラのトリコになっちゃ
ったのねだってジ
るんだものこんなドラマチックな歌い店も
あるのかと、ショックを受けたものだった
高校に入ったら仰い任が芸大出のソプラノ歌
。
手で、東京では長谷川京子(のちの伊藤京子)
・ヘプハ
オ
i
が
hp
ドリ
ンみたいな夫人で、
l
さんの伴奏なんかもなさった万だったの
よくてピアノがうまくてぷ敵な先生私がオ
「水の底に低く我を呼ぶ戸響くよ波に
ゆらぐ玉藻は手を差しのべて招くよお:::っ
ペラが好きとわかったら、%時としては珍し
かったからすごく可愛がってくれて、レコー
て、ほらね」
(つづく)
ドや譜面も貸してくださったから、私は『格
脱』や『蝶々夫人のアリアの 3 面を写して、
そこに似名を撮って、以訴でおぼえちゃった
3
9
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ヨ・Ea
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龍 か教オ
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日本語アイウエオは仏教のまt'r-から
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母音
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自候T1・
ka
Dha
ダハ
ンナ
2
3
cha
日 本語では
ニャ
2
4
> j'aヤ
多少発音が出来ない文字もあり
j
i
h
Ja
h
カ
、
2
5
J
a
カハ
党字はインドの 言 葉ですから、
2
6
17
kha
ない文字や
ンガ
1
8
gガ
a
ます が 、 日 本 語 に 合 わ せ て 、 こ こ に 示 し ま し
ロッ
1
9
2
0
gすhれa、
。
ー
2
1
た党 語 の 文 字 順 に よ っ て 、 日 本 語 の ア イ ウ エ
。
ロッパとアジアの中間
母音
Ga
オを作りました
ー
党諸問のさらにその源は、インド・ヨ
パ語と 言 われて、ヨ
そ
くらいの地域にあったようです 従って英語・
。
の証 拠 に は 党 訴 の 中 に は 、 そ れ ら の 同 訴 と 似
ドイツ語フランス語などと同じ系統です
。
もちろ
それで、党訴にない訟もあれば、日本
た言 葉 が あ る の に 気 が つ き ま す
。
。
ところが、日本語は、言葉としては別系統
です
語で は 使 わ な い 党 語 も 多 く あ り ま す
ん、それで、日本語にある文字(ゴチック文
字で 示 し ま し た ) を 、 党 語 の 中 か ら 願 書 に 拾
。
っていって、日本語の文字表、つまりアルフ
ァベット表を作りました
字母表(アルファベッ ト)
悉曇(シッタン)党字
1レ 7 ン
普通は NO.52 は表示されないが、党字 では 、
「ン」をあらわす時、 文字のよに点 、 または、
半月形のよに点を打って 、「ン」と表すこと
耳島..弓 a カ 4量カ+の「シ 11:: 涌ずるよ弓ア~忍 .
e
1
3
R
古き伝統姥
三代にかたる信頼
この点は党訴のアルファベットぷですが、
こ の中から、日本語に関係のある文字を順々
に拾 い だ し て い き ま し た そ の 献 を わ か り や
。
9
「オ」
l
「ア」
、
3
「イ」
、
5
、
。
日本文化の基礎と
n 身も知らぬ人が多いのではないでしょ
「いろは 」
解されているようですが、共
f
、
に日本 J のふ一礎が、仏教、制の伽けなで築かれ
ているわけですこの法礎文化に A日常です
は比較的よく
うかもう,つのアルファベットの
教削
アイウエオを学ぶ時は幼少の放か、それとも
されたことは特唱すべき事ですこのことは
その伝統の党・アの学問、修糾の小から生み山
もいうべきアイウエオが仏教の術的の特立で、
表にすると次の如くです
ンとくり返しましたが、このことをもう.度
古島法ゑ恋
浄土宗法衣専門
「ウ」
、
f 仔ではヵ、サ、夕、ナ、ハ、
、
党字の中、若い昏号から作られていき
すく す る た め に 、 ゴ チ ッ ク 文 ・ ア に し て お き ま
した
、
。
場本では
エ」
ました
7
日
マ、ャ、ラ、ワ」の願で、党字衣でも、口」
「カ
、
。
そういえば、私どもは
、泣「タ」、お「ナ 」、計 吋ハ」
詑 「凶サ」
エオができたのです
この去を覚えるのに、アカサタナハマヤラワ
有限
会社
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連載
民話
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'Kトw.&
絵石川忠 夫
ピんどむかし
あるところに、おどうと娘が暮らし
。
T おったと
。
ある日、おとう、が隣の村に行こうと山越えをしよったら、ボツリ
ポツリピ雨が降リだしたそうな
「こリゃ、いかん」
。
そのうえ、雷まで鳴
おとうは山道をかけ虫したが、だんだんに雨は強くなリ、自の前
がかすんで見えなくなるほどであったそうな
リ虫し、パリパリと大きな告がしたと
ウフへえ 1」
おとうは耳を両手でふさゲ、大きな杉の根元のうろに走リ込んだ
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れJ
川
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21-A
くわばら、くわばら、助かった」
「
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ッと稲光が光リ、ゴロゴロドシャ l ンピ大きな者が
ふどころから手ぬぐいを反リ虫し、滑れた頭を拭-』うとした途端、
ピカ!ッピカ
。
して、自の前に太い火柱、が立ったと
「ひぇ! 」
4
5
開一
おとうは悲鳴をあげるなリ、その場で気を失っ
T しもうたと
。
どうやらへソも無事だし、そろそろ行
。
T おったと
それからどれほどたったか、ふと気がつくピ、どうじゃ、あれほ
どの大雨もやみ、陽が射し
「おお、ひどい自にあった
くとするか 」
。
てくリ
。
。
それ
Tおるど、なんど道の真ん中で、雷が
たまげたおとうが、
T くリヒ歩い
へソのあたリをひと撫でしたおとうは、杉のうろから乏い虫した
そうな
迄いまわリょったそうな
雷さん、どうしたね 」
「
ピ声をかけると、雷は、
T しもうたんじゃ
。
いやは
T、カまかせに雨降リ太鼓を叩きよっ
「
さっき大雨を降らしたら、杉やら槍やらがえらい喜んでの
でもっピ降らしちゃろど思う
。
T痛うてのう、立ち上がれんのよ」
たらのう、足元の雨雲を突き破って落ち
や痛う
ピ、腰をさすリさすリしたと
「
それは難儀じゃのう 雷さんよ、わしに手伝えることがあるじゃ
1
6
ろか 」
地上では神通カがさ
。
つぱリ出んのじゃ 」
そしたら雷の神通カが虫
、天に帰
っT
っ たと
。
r
。
L
っ T お ったが、神通
。
おとうが、中仕事か
、尻からはゴロゴロピ
ゃ
L
ニ、=一目したらお礼に行くからな
」
い
おと
T空へ戻れるがじ
そんならすまんがのう、わしをそこの榊の木に押し上げT登ら
「
。
T くれんもんかいのう
ゃ
、
こう言うて、雷はペコリベコリピ頭を何度も下げたそうな
T
初めはソロリソロリヒ木を金
、
っこらしょピ雷を押し上げ T ゃ っ
っとかわいそうになっ
っ た」
うは、雷がらく
「あい、わか
雷は
。
T っぺんまで登 った雷は、
ったのか、そのうちガッガッピカ強く畳リだしたと
。
ピ、近くの大きな榊の木に、ょ
たそうな
カが戻
木の
「ぉピうよ、おおきに
LT
と言うど、頭の先からピカッピ稲妻を虫
者を虫
った夕方のこピじ
っ Tみると、妓が待ちかねてお っ たそうな
それから、三日ほどた
ら戻
47
民話
おとうよ、今日のう、見たことのない男の人がうちへ来ょ
「
「ふーん、議じゃろか 」
T
い ったんよ 」
雷さんが礼に来たか 」
っ たと
。
ったぞ 」
っ T みたと
。
一
そのぼた餅のう
。
「
わしは雷やが、三日ほど前にここのおとうに助け T もろうたきに、
っ T 、この重箱をおい
。
ゃ」
っそく二人はぼた餅を頬張
じ
。
T 、妓は黒塗リの立派な重箱に目をやったど
お礼に来た、
そう言う
「おお、そうか、そうか
さ
ったそうな
おとうは嬉しくなリ、どれどれど重箱のふたをと
。
の重にはぼた餅がず っしリピ詰めてあ
まそうなこと
。
T みたど
。
ニの重には、小芋やら豆や
さて、三の重
っ たと
。
おとう、次の重はいったい何じゃろな 」
「
うまいのう、こんなぼた餅は、初めT
「うん、うまい、うまい
、
。
っぱい並べてあ
っぱい入っ T お っ たそうな
今度は、娘 がニの重を開け
らキノコやらの煮物がい
やまたなんど、へソがい
T あ っ たと
。
っこみベソ、た T ベソ、うずまさベソ、大きなへソ、ち
はと見ると、こリ
虫ベソ、へ
よんまいへソ、まが ったへソやら、どのへソも煮
4
9
民話
おとうは、すっかリ感化し
T
、
「いやあ、雷さんは、人さまのへソをとっ
T灸うと言うが、こんな
」
。
T
いったそう
」
にまあたくさんのへソをようも集めたもんじゃのう そリ・ヤそうと、
T みいや
、プンプン怒リながら部屋を虫
。
T 、へその下は見せるわけにゃいかん
へその重の下はなんなら、早う聞け
と言うたら、娘は、
LT
なんぼおピうが言うたっ
「
ピ、顔を真っ赤に
LO
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むかしまつこう、さるのつベ、ぎんごろぎんごろ
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H んで
行く春や子に踏まれいる土絡まず
〈筆〉
風伯上がりだろうか
。
もらっている 被れが取れてきて、眠気を党
えてきそうである「踏ませいる」なのだろうが、
。
原句の方が気分に合っているように思う 一
字の違いだが大きい
河合富美枝
枝
〈
ぬ搾〉川底に蟹か内八掘る土煙リ
き
僧侶の友衣
故里の土つけ場とどきけリ
土 かけの若
初
新
田
原
細
石
村
善
也
56
平井美津子
よ〈
達公l
のu一リミ』にけ
一
浄一
火
井
•
•
。
。
見たのである 夏の夕方のゆったりした時間
が、ここにはある
焚火して帰漁持らいる嫁若き
言い訳の聞き投棲雨の桐火鉢
〈
佳作〉 火樺会意しみつつ茶会長つる
- 自由 題
てしまった
。
。
目覚めたあとその新聞を畳んで
。
金谷
友江
片桐てい女
いるのだが、頭はまだ完全にはこの世の状態
、それらを如
「ゆっくり畳む」が
ではない
弘
実に表している
ち
子
寝ころんで新聞を読みかけたまま、寝入っ
昼寝党めゆっくり畳む新聞紙
政
男
ゑ
"
'
〈佳
作〉リハビリに手筋やわム斤春短波
遵
藤
田
郁子
四
方
加
国
浦
田
北
端子器に残る指あと花ぐもリ
灰汁す TT さらす蕨のみどリ濃き
5
7
〈
特選
〉
選者=僧田河郎子
埋め立ての土管に遊ぶ互の潮
雑草会抜けば土の呑瓦の庭
鍬入れて土轟リあぐる茄子畠
住所
増田
…百議所やカ士の一傘エ不着
風うけて素足で走る土の上
信子 …土検匂ひ残して録嫡去る
菅子
友江火
氏名を必ずお書き下
・
坪庭の蚊遣火匂・フタ銅時
…棟上会え打で送る卯月かな
…大花火終わリて解けし警備の輪
L
…護摩の火や一隅照・ヤす夏の閤
朽ちてトチ芋ヱ匂ふなユ由寺の夏
L来
中島富士子 …濃き野火の呑会員ひ犬の逗
、
清
瓦近く土手に湛るる子等の声
回起しの土の匂ひを五月風
名
。
片桐てい女
・
『
浄土 』 ニOO 三年十月号
締切 ・七月二十日
選者 ・漕田河郎子 (荷
『風 』 主宰 )
発表
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晩鐘の初に割れマ Lやぼん玉
ローカル線停車の長き券基
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春日余白宮参リの列つづく
知らぬ飯場えて漁村の子供の日
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隅田喜代子
山本美代子
恵子
中 島富 士子
嶋田喜代子
枝
片織でい女
佳
春
農は土つくることよリ勉矧殖ゆ
浄土臆土句会の
お知らせ
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佳作各
・ いずれの題とも数の制限はありません
応募方法
1名
明照会館内
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信子
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. 特選各
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葉書に俳句 (
何句でも可 )と
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宛先
東京都港区芝公園
月刊 「
浄土 』誌上句会係
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編集部選
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参加作品 -
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編集後記
厳かにオチを理解し、笑いにつなげ
茄子の牛仏壇の前を独り占め
ることは苦い人には縦しく、それなりの
。
明近、胞餓鬼会の説
東京の 寺院では日
文化の即解力が必嬰となる
。
教の前座与重加の堕象をお咋びすること
。
が多くなっている 私の寺もそれに采じ
。
「もし後妻手通える
ようなことがあれば、その結締式の晩に
き犬は約束をする
たぷではないが、家内の友人が担甘い苦闘
たとえば「
三年目」という草加がある
家と結婚し、ト蔀の機会をもらえないか
との話もあり、応援の意味もかねてお願 仲むつまじい中だ婦の奥さんが亡くなると
いすることにしたその峨家と当日の超
自の相談で打ちAいわせをしたとき、現代
日本人の落語織れの深刻さをしみじみと 糊銀として現れて後必を返っ払っておく
れ」としかし三年目の晩まで死んだ女
伺った。
。
びるまで山山てこれないじゃないか」と
手柄りトげてしきつものだから、髭が仰
併は現れなかったもう子供もいる夫は
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女房に今頃来てと言うと、死んKだ
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テレビ番組から古典落語の欣送が無
くなり、若い人たちは縫語というと「笑 「だってお通夜の晩にみんなして私の頭
また務語のオチをだじぞれと間
。
庄の太宰習を勘違いする人までいる
そうだ
。
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斎藤晃道
長谷川、白潤
佐山哲郎
村田洋一
大室了時
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真野能海
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六十九巻じ・八月号創価・ハ百円
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昭和 21 ~10 月号
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昭和 21 ~手 11 月号
昭和 21 ~12 月号
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昭和 22 1<手 2 月号
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昭和 22 年 6 月号
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昭和 23 年 1 月号
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