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報道関係者各位 Press Release
平成23年10月14日 宮下夏生
生誕100年
宮下 廣吉 展
東北の祭りを描いた画家
会期 2011年11月30日(水)∼12月5日(月) 11:00∼20:00(会期中無休) 但し、最終日は18:00まで
会場 ギャラリーやさしい予感 東京都品川区上大崎2-­‐9-­‐25(JR目黒駅より徒歩5分) TEL:03-­‐5913-­‐7635 FAX:03-­‐5913-­‐7632 web site : hCp://www.yokan.info
出品点数 油彩画30点・水彩画20点・素描画20点
お問い合わせ
宮下夏生 東京都港区高輪2-­‐5-­‐4 TEL 03-­‐3443-­‐0877 mail : info@miyashita-­‐ltd.com 宮下廣吉は1911年(明治44年)北海道・石狩で生まれ、20歳の時に画家
を志して上京しました。東北を中心とした日本各地の風景や祭りを描き、
1972年に62歳で逝去するまでの間に数多くの作品を残しています。
生誕100年を記念した今展では、仙台の七夕祭り、岩手のちゃぐちゃぐ
馬っこ、福島の相馬の馬追い、青森のねぶた など東北の祭りを中心にした
油彩画と素描画、更に宮下が渡欧中に描いた人物画、風景画もあわせて展示
致します。また、100号の油彩画”まつりの日”(ちゃぐちゃぐ馬っこ)は
寄贈先を目下募集中 です。 是非ご高覧ください。
宮下廣吉画歴
1911年
北海道石狩町に生まれ、函館市に育つ
1931年
画家を志して上京、川端画学校に学ぶ
1932年
独立展に初入選
1954年
両陛下東北・北海道御旅行の際、青函鉄道管理局の依嘱により、津
軽海峡を謹作洞爺丸上にて展覧に供す
1956年
仙台駅ホーム内壁画完成 (長さ66尺、高さ17.7尺。22m、5.1m) 1957年
独立美術協会を経て創元会に入会
1958年
第1回日展初出品
1960年
明治学院大学美術部顧問
1962∼65年
東京銀座松屋にて個展
1965年
東南アジア・およびヨーロッパ各地に遊学。 東京・大阪・仙台・札幌にて個展開催 第一回日展出品より毎回出品 創元会運営委員
1972年
11月20日逝去
1983年
11月、日本橋画廊にて遺作展
1988年
10月、ぎゃらりい・ベールシバにて遺作展
仙台の壁画・模型
まつりの日(ちゃぐちゃぐ馬っこ) 100号 1968年 児島善三郎夫妻と 宮下廣吉、妻・清子、長男・捷、清子の妹・雪枝
酋長とメノコ 100号 1960年
昭和38年5月31日毎日新聞宮城版より
画家・岡本太郎氏との出逢いと消えた父の仙台駅壁画
美術史家 宮下夏生
旧大日本体育協曾報道部の山川益男氏が次のような文章をかつて私の父・宮下
廣吉の展覧会図録のために送ってくれた。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ 丈夫ナカラダヲ
モチ 慾ハナク 決シテ顚ラズ イツモ静カニワラツテヰル (宮沢賢治) この詩のやうに、強くて、純情で眞直なのが宮下さんなのだ。そしてビールを
うまさうに飲みながら楽しいことだけを話す、苦しいこと、辛いこと、不愉快
なこと、色々あるのに決して言はない。唯、愉快に酒を楽しむ、だから宮下さ
んと一杯やると、いつも僕はよつぱらつてしまふ。けれど彼は
つぱらはれちやつたな!
今日も先によ
と云ふだけである。」
父は宮沢賢治が大好きだった。そして、生まれ故郷の北海道と同じくらい東北
を愛し、人々を山々を、そして祭を絵にしていった。その集大成が父が描いた
仙台駅ホーム内の大壁画だった。仙台の七夕、福島の相馬野馬追、青森のねぶ
た、岩手のちゃぐちゃぐ馬っこ、山形庄内の野良女、秋田のかまくらを長さ 22
メートル、高さ 5.1 メートルのスケールで 1956 年(昭和 31 年)に完成させた。
父は藤田嗣治の大壁画を所蔵する秋田の平野政吉氏(平野政吉美術館元館長)
より、藤田に次ぐ日本第二の規模の壁画を描くよう促された。3 年がかりで東北
各地を回ってスケッチし、一ヶ月かけて仙台市内で描き上げた。完成間近に父
に逢いに行った母は、壁画を描く夫の姿を見て、
「この人は気が狂ってしまった
かと思った」と後日、話してくれた。それ程、父はこの壁画に精根を込めた。
最近、私の母の死を期に父の遺品整理にかかったところ、父の誕生年が、画家
岡本太郎氏と同じだったということがわかった。2011 年の今年は太郎氏の生誕
100 年を記念に大きな展覧会が開催され、テレビでも彼の両親岡本一平、かの子
と太郎の人間模様がドラマ化された。太郎氏と父との間には個人的な付き合い
はなかったようだが、娘の私が意外な場所で太郎氏と接点を持ってしまった。
1975 年、ロンドンで開かれた日本人アクションペインターのための展覧会祝賀
パーティーに太郎氏はパリから特別に足を運んだ。64 歳になった太郎氏は派手
な衣裳をまとった 40 代の日本女性をパリからお供に連れてきていて、盛んに彼
女と踊ってみせた。彼の手や足の動き、表情は見事なものだった。有名人の太
郎氏の周りには、多くの日本人がお酒を持って近寄り、彼も大分酔いがまわっ
たように見えた。私は彼の様子を会場の隅でじっとうかがっていた。すると、
どこからともなく、太郎氏が現われ、私の横に倒れるように座った。私は自己
紹介をし、「現在、ロンドンで美術史を勉強中です。」と話すと、それではとピ
カソ、カンデンスキー、アルプたちについて話し始めた。その内、旅の疲れか、
アルコールのせいか、太郎氏の目が徐々に閉じていき、頭を私の膝の上に乗せ、
ぐっすりと寝入ってしまった。私の腿が膝枕!緊張のあまり私は身動きも出来
ず、困り果ててしまった。深酒で、パリから連れてきた日本女性と私とを間違
ってしまったようだった。私は彼の寝顔をじっと見入った。あの魔術師のよう
な大きな目を開けて今睨まれたらどうしようと一瞬思った。その内、顔のしわ
や酔った寝顔が、画家であった父と重なって見えてきた。私の父も大酒飲みで、
酔って帰った時は母に代わって私がよく介抱していた。
太郎氏とお会いする 3 年前に私の父は亡くなっていたので、膝枕の一件が父と
の再会のようで、不思議な親しみを覚えたことを今でも記憶している。最近見
つけた父の遺品の中に新聞記事( 新年壁画の祭典
1957 年 1 月 6 日 )の
同じ紙面に、太郎氏の壁画 日の壁 (旧東京都庁舎のための制作)の写真と父
の壁画の写真が掲載されていた。 日の壁 はタイトル画で長く都庁舎に掛けら
れていたが、新宿に都庁を移転する際、美術評論家たちに反対されつつも、無
残に破壊され、瓦礫と化してしまった。私の父の大壁画も完成してからわずか 7
年後に、悲劇に襲われた。父は仙台で個展を開くためたまたま仙台駅にきて自
分の壁画を見ようとしたところ、壁面は真っ白に塗り変えられていた。当時の
仙台駅鉄道旅客課の話によると、駅改築の話がなかなかまとまらない上、天皇
両陛下が仙台にお立ち寄りになると言うので仙鉄局はとりあえず駅の改装を始
めたという。画家本人の承諾もなく、駅当局が一方的に塗料で全面を塗りつぶ
してしまった。父の絵は永久に消失してしまった。
この文章を書き終えて間もなく東日本大震災が起きてしまった。居間に掛けて
いた父の大きな絵が枠と共に飛び出るほどの揺れだった。テレビでは毎日東北
の悲惨な姿を映し出している。父の絵で見ていたちゃぐちゃぐ馬っこの馬たち
は今どうなってしまったのだろう。人々はその日の暮らしに追われていて、馬
どころではないのではないか。あの東北六県の風俗祭典行事を描いた大壁画が
残っていたならば、どれだけ東北の人々の心をなぐませてくれたことだろう。
父も完成当時、「・・・この絵を見て東北に親しみを感じ、或は故郷の味を感じて
くだされば本望です」と新聞のインタビューに答えていた。
私はこの 12 月にかつて宮下一家が住んでいた目黒のギャラリー・やさしい予感
で父の生誕 100 年展を開催することにした。会場には仙台駅の壁画の模型や、3
年を費やして描いたデッサンなどを展示する。当時の壁画を懐かしがってくだ
さる方、また一度も見たことのない方々に是非見ていただきたいと願っている。
あと数ヶ月して、復興が進み、県庁あるいは市庁が落ち着きを取り戻してから、
日展に入選した 100 号の油彩画「まつりの日」
(ちゃぐちゃぐ馬っこ)を寄贈し
ようと心に決めた。美しく飾られた馬と誇らしげに手綱を持つ馬子の姿が描か
れている絵だ。地震と津波に疲れはててしまった人達へ少しでも郷土の祭をお
もい起こしていただければと思う。多くの方に観ていただける場を提供して下
さる方は是非ご連絡下さい。
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