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始覺全身在帝郷
平成 26 年 第 7月 1日 9号 始覺全身在帝郷 はじ おぼ ぜ ん し ん て い きょう あ 始めて覚ゆ全身帝 郷 に在ることを ご う こ ふ う げ つしゅう (『江湖風月 集 』) つ ゆ ぞ ら 7月に入りましたが、相変わらずの梅雨空、不安定な気候が続きま す。さて、今回の禅語です。 始めて覚ゆ、全身帝郷に在ることを 誰もが、毎日毎日仕事に忙殺され、日常に振り回され、いつしか心 のゆとりをなくしてしまいがちです...あれをしなくちゃ、これをかたづけ なければ...頭も心も、いっぱいいっぱい... そんな時、ハッと気づく... 道端の名も無き草花が、清楚で可憐な白い花を咲かせ、雨上がり の露の雫がキラキラと輝きながら緑の草葉の上に零れ散る... どこまでも深い青空に、白銀色の夏雲が力強く盛り上がり、山々は、 緑、黄緑、青緑、紺...色とりどりの衣装を身に纏っています... ああ、こんな素晴らしいものに囲まれていながら、自分はいったい、いま まで何を見ていたのだろうか! 気が付けば、自分はこんな素晴らしい世界にいるではないか... 始めて覚ゆ、全身帝郷に在ることを... 「帝郷」というのは、もともと古代中国の神話的な最高神「天帝」の 住まうところ、「道教」にとっての「理想郷」です。 『荘子』には、このようなくだりがあります(『天地篇』一二)。 ...千歳世を厭えば去りて上僊し、彼の白雲に乗じて帝郷に至 るべし(そんなにこの世を嫌だとお思いでしたら、この世を去って仙人 は じ お ぼ ぜ ん し ん て い きょう あ ぼ う さ つ み ち ば た く さ ば な つ ゆ せ い そ か れ ん しずく こ ぼ ち ま と は じ お ぼ ぜ ん し ん て い きょう あ て い きょう そ う て ん て い じ せ ん さ い よ い と さ じょう せ ん か は く う ん じょう て い きょう となり、大空のあの白雲に乗って天帝の地、帝郷に行ってしまえば いいではないですか)... い と せ ん じゅつ 要するに、この世を厭うならば、仙術を身につけ、その神通力によっ -1- て雲に乗り、理想の地「帝郷」に行く...というのです。 「帝郷」とは、厳しい修行を重ね、雲ですら自由に操ることのできるよ うな仙術を身につけて、初めて至りつくことのできる世界、この世なら ぬ「神仙」の世界です。 その理想の「帝郷」に、この自分が「全身」でいる... この禅語には、自分が、いま現にその理想郷にいるのだ、という驚き と、心からの喜びが溢れています。 誰もが憧れる、あの「帝郷」を、ただ夢物語として漠然と思い描くので はなく、あるいは願ったとしても、とてもかなうことのない「見果てぬ夢」 として、はるか遠方に、微かに仰ぎ見るのでもなく、いま、ここにおいて、 このわたしが、自分自身が、全身でそこにいる... もちろん、わたしたちは、自分たちの生きているこの世界が理想的な ものとはほど遠いものであることを、嫌という程思い知らされています。 だからこそ、あるべき姿を体現した、理想の世界を思い浮かべる。 しかし、心の奥底で、どこかに理想の場所はないか...誰かが、どこ かに理想郷を作ってくれないだろうか...そんな風に思っているのであ れば、そんなものはどこにも存在するはずがありませんし、自分の生 きる現実も、何も変わりはしない。 「帝郷」に至るためには、何よりもまず、自分自身が一歩を踏み出す こと... どれほど遠い道程であろうとも、一歩一歩着実に、力強く足を踏み しめて歩いていれば、必ず気が付くときが来ます。 わたしたちがそこに生きている世界...それは、さまざまな恵みに満ち あふれています。わたしたちが「生きている」世界というのは、実はわた したちがそこで「生かされている」世界なのです。 わたしたちの「あるべき姿」に向って、黙々と 歩みを進めていく、その途上において、世界の 尊さ、素晴らしさに気づく...そして感謝の心 をもって、足下を、頭上を、回りを見返す... 「帝郷」への入り口は、そこにしかないのです。 し ん せ ん あ ふ ば く ぜ ん か す あ お み ち の り -2-