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大金久展

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大金久展
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戦後初期 の早稲田大学 全学 自治会 の委員長で、大山郁夫帰 国促進運動 の中′
の一人で もあった フランス文学者で ロマン・ ロラン協会代表の蟷川譲氏 (23。 政経 )が
上
『 敗戦直後 の祝祭 日 回想 の松 尾隆―』 (藤 原書店 1989・ 5)と い う本 を書 いた。
私のと ころばか りで な く、往年 の早稲田の学生運動の関係者の ところにも著者 か ら相 当
広範囲にわたって購読のすす め があ り、 かな りの人 がすで に 目を通 しているようだ。
一読 してその内容 のひ どさに驚愕 した。大小 とりまぜての誤 りの多 さ、往時の学友 にた
いす る悪罵 の数 々、随所 に見 られ る無断引用 な い し盗用、おのれひ と りを尊 しとす る高 慢
音 日の颯爽 とみえた著者 の想像 も しなかった一 面 を眼のあた りに して言葉 を失った。
これにたい して、「黙殺」 を主張す る友人 もなかにはいるが、す で に抗弁す べ くもな く
故人 となった先輩 、友人 も少 な くない。その人 たちのためにも最低限 い うべ きことはいっ
には到底 「師」 を語 る資格 はない、 という強烈な自己過信 が 目立 つ ということにあろう。
吉田嘉清 は 「警察大学 にあ こがれた男」で 「知性 に欠けて いる」 (51頁 )と か「田川 は
党籍 を気 に しなが ら文春 の広告担 当の取締役 になつた」が「その存 在 は軽 かった」 、ある
いは 「柳沢良―も電通 の取締役 に昇進 したが、先 ば しりの日川 と同型 の人物」、 「栗原光
一郎はうっ か り敵 に情 報 を漏 らす党員」 (115頁 )な どとい う当時の党員学生 へ の悪罵 の
羅列 が端的 にこれ を示 している。
しかし、 それ以上 に凄 ま じいのが『 松尾隆 ―早稲国の疾風怒涛 の時代 を駈 け抜 けた一教
師―』 (松 尾隆教授記念行事会編 1986・ 12新 制作社)に た いす る憎悪である。 これはい
うまでもな く、主 と して 1950年 の レッ ドパージ反対運動 に参加 した活動家たちが中心 とな
って刊行 したものだが、 これ につ いて 著者は 「無定見な 自費 出版 にあ りがちな誤 りの多 い
記録集」で 「師 へ の敬意 が欠 けて いる」 とい うコメン トを巻末 の 「主要参考文献」のなか
でつけてい る。おまけに 「この書 か らの引用 は Q書 と略 した 」 と書 き、あたかも「いわ く
つ きのウサ ン くさい本 」 であるかの ように扱 っている。
「破廉恥 な無断引用 」
ところが、著者 はは本文のなかでその いわゆる「Q書 」の誤 りを具体的に指摘 している
かというと、それ が全 くないのである。 これ についてはた だ の一 行の指摘 もないばか りか、
│1氏 の本 はで きなかったろう、と
逆 にそこか ら無数の引用 を行 ってお り、 それ な しには蟷り
思われる内容なのであ る。
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べて 「Q書 」 か らのあま り上手 でない 引 き写 し (ほ とんど丸写 し)で ある。 「Q書 」 力ヽら
明 らかに無 断引用 して いると推測 され る個所 も少なくな い。 「稲 が枯 れるぞ」 というプラ
カー ドの話、 と 「人民大学」の くだ り (122頁 )は 武藤氏 の『 「復員学生」 の渇 いた心 に
しみていった松尾ぶ し』 からの無 断引用 に相違 ないし、 「雨 の 日は休講」 というエ ピソー
ド (188頁 )は 「Q書 」巻頭 の 「我 が友 松尾 隆」 (古 在 由重 )か ら盗用 した可 能性 が高
い
。
3頁 近 くにわた って 引用 され 、 末尾 に (川 添 登『思 い出の記 』 TEM研 究所 、発行 )と
あ る一文 は 「 Q書 」 の 「教授 は学 生 が選 ′
Siも の だ 」とぃ う川 添 氏 の文章 が初 出で あ る。
「Q書 」 か らの 引用 を少 しで も小 さ く した い とい ぅ、 これ は み えす いた ゴマ か しだ ろ
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「N本 」の 「松尾隆著 作 目録」 と「松尾隆略年譜」 を 「Q書 」 の それ を比較 し
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0は 到曇信 じがたいことで ある。そして、125頁 の 「松尾隆に入党 をすすめたのは党本部
`か ?」 とい うことも支持できな い。いまも健
にいた一年 下報 だつた園部実 あた りではなし
在の園部氏 が党本書j専 従 になつ たのは、1946年 2月 末 の第 5回 党大会の後で 、埓川説 だと
松尾睦み人党は1916年 2月 以降 の ことになる。 (園 部氏 は 「す っか り忘れた」 といってい
るが、 これは当時園部氏の親友 だった越智龍弥 の姉 〔
桧垣年子 さん〕も証言 して い る)
「日部たちの軍学徒転入学 反対運動 を契機 に急速 に細胞結成の機運が高 ま りその直後 に
早大細胞は結成 されたが、その 会議で松尾 さんは指導的な役割 を果た していた。その時期
はおそ くとも10月 末だつたろ う、全国の大学、高専、師範「
●
Jな かではいちばん早かった」
とい うのが寺尾説だが、これ には異説 もあって長瀬隆はそのす ぐれた作品『 微笑 の沈黙』
(晩 書社 1985)で 1947年 入党 説 をとつている。
また.松 尾隆 ともあろ う人 が学院一年生だつた学生 にすすめ られて入党 したとい うのは
それこそ 「Fll」 へ の冒涜その tiの だろう。寺尾氏は明言 を避 けて いるが、寺尾氏 は じめ早
人 で先輩の沼田秀郷 (佛 文中退 )、 杉本文雄 (唱 2・ 政経)と いった人 々の役割 が大きかっ
たと思われる。
また、松尾階 が早大細胞 とつ かずはなれず というような関係だったような書き方は事実
と明 t,か に相違す る。松尾隆は早大細胞では いずれ にせ よかな り早 い時期 か らの党員であ
り、50年 分裂 か ら6全 協までの時期、細胞解散処分で余儀な く党籍 を失った以外 、その死
に至るまで共産党員 (早 大細胞所属 )で あ りつづけた。職域 の党員 が地域 の活動 に協力す
るとい う立場でその会合 に出 るとい うことはあ って も、それは早大細胞 か ら居住細胞 に移
ったことを意味ない。 「N本 」の これにかんす る記述 の不正確 さは歴然 としている。
第二 に松尾隆の学院時代 の親友 だつた西村勝― が風 間指導部の家屋資金局長だつた (14
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鐘 爾
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燕す るためにおこなったわつ造で あることを西村氏 は そのす ぐれた自伝『 私暦 をひ らく』
(マ ル ジュ 社 1035)の なかで綿密 に論証 してお り、大塚有章の『 未完の旅路』 (三 一書
房 )に も詳 しい記述 がある。 西村氏 に触れな が らその著書す ら参照せず に知 ったかぶ りを
す る 「無知」は 旧当のもF7 lで ある。
「長瀬峰」のこと
「N本 Jは 松尾隆の遺稿の ことで長瀬隆 と面会予定 日まで決めて いたのに 「一 方的な面
会 キヤ ンセル」 を「突然電話で告げ られ、今 日にいたるまで、彼 との面会 は実現 していな
い」 と書 くとともに「この長瀬 は、本寺投年時の弟子筋 の早大生であるらしい」 とのべて
いる 1237頁 )。 長瀬 が昭和 33年 一 文露文科の事業生であることは 「早稲 田大学校友会J
の 「会員名簿」にも記載 されていて疑間 の余地はない し.彼 の作品や訳書な どにもはっき
り明記 されている。この長瀬 と蟷川氏 は二度の電話 のや りと りの うえで 96年 の 2月 に会
い長時 Ful話 しあつてい るが、こね′
は長瀬 が詳 しくその経緯 を書 くはずである。長瀬はその
折 に彼 の『 微笑の沈黙」 (1免 督社 1985)を 寄贈 して いるが驚 くなかれ、燿川氏 はその本
から無断引用 をやつて のけているので あ る。176∼ 177頁 の岡沢秀虎 に関す る叙 述 が長瀬の
作品か らの盗用 なことは両者 をひき くらべれば歴然 と していると断言で きる。
また、不思議でな らないのは姑川氏 が松尾隆の唯 一の弟子 をもつて任 じながら「松尾隆
教授記念行事会」 が収集・ 整理 に着手す る以前 、その卒業論文 を含む遺稿 に全 く接 してい
′
ないのは どうし
てなのか、 ということで ある。
その気 になれば没後 30年 の間 に蛯 川氏な らいくらでもその遺稿 に触れ る機会 はあつた
はずで ある。 しか し、そ うした作業 を蟷川氏は 一切 なかつ た。 「松尾隆教授記念行事会」
にたい して憎悪 の念 をもちつづけ、 これ に悪罵 を放 ちながらこれに免れきつて書 いたのが
蛇川氏 の今度の本だ、 といえよう。
1
tノ
むすびにかえて
以上は取 り急 ぎ気のついた点 につ いて 「走 り書き」 したもので、十分の推敲 を経たもの
で│ま ない。まだ、指摘す べ き点 もは多 々あるがそれは後 日に譲 りた い。
(1998・ fi,9)
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