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北鎌尾根の初登攀
134 北鎌尾根の初登攀 槍ケ岳は播隆上人の初登攀(1828)、ウエストンの登頂(1893)、小島烏水の登頂などがあっ た。だが年月を経ても北鎌尾根は、全く人間が足を踏み入れたことがない。処女ルートであっ た。この北鎌尾根に挑戦するため、大正11年7月4日の朝、4人の男が中房温泉を出発した。 彼らは学習院大学山岳部の板倉勝宣、京大の松方三郎、東大の伊集院虎一、そしてガイドの小 林喜作である。 ところがこのとき、すぐ近くの燕山荘を舟田三郎をCLとする、早稲田大学山岳部の麻生武 治、フランス人のジャン・ジルベールの3人組も出発した。目的は同じ北鎌尾根である。実は 燕山荘で他の登山者から 『学習院 OB らがガイドの小林喜作に案内されて北鎌を狙っている』 と聞いており、他校の山岳部から一歩遅れてきた早大山岳部としては 『ガイドに案内されてくる一行には、絶対に北鎌は渡さない』 と誓いあったのである。 一方の学習院一行は中房温泉から燕山荘を経て、喜作自身が建設した喜作新道を歩いて大天 井岳、そして右折して沢を下りさらに天井沢を遡り、北鎌尾根の端に取り付いて登り始めた。 夕方には約2千7百㍍地点についた。 そこはハイマツのジャングルで足が下まで届かない。道具という道具はすべて使った。 喜作は草鞋の上に輪カンジキと、鉄カンジキをつけ岩場でも草付きでも登った。だがハイマツ も2千7百㍍あたりから無くなり、岩場となった。夜になったので油紙のテントを張って眠っ た。 もう一方の早稲田パーテイは、出来たばかりの喜作新道を東鎌尾根に至り、槍ケ岳の肩にテ ントを張って眠った。夜中にジルベールが急病になったので殺生小屋へ運び、麻生と舟田は北 鎌尾根に向かった。学習院組は北鎌尾根を先端から登ろうとしているのに、早稲田組は槍ケ岳 頂上から北鎌尾根に下り、独標2912㍍ を往復して再び槍ケ岳を登るという。 舟田三郎の筋肉は躍りきっていた。岩のけ じめを見出し足元は正確に移され置かれ、また 踏み耐えている麻生によって、ザイルは堅く 絶えず引き張られていた。緊張は1時間で終了 した。舟田たちは2912㍍の独標に到達し、 あたりを探したが学習院一行の到着した気配 はなかった。そして再び槍ケ岳に戻った。 学習院組は独標の登りに2時間、北鎌尾根 の岩場に6時間もかかり、槍ケ岳の頂上に着 いたのは夕方だった。ところが新聞マスコミは 「学習院パーテイが北鎌尾根の 初登攀に成功した」 と間違って報道された。のちに早稲田の舟田三郎 は語っている。 『報道の間違いを私たちは抗議しなかった。 初登攀の喜びは人に知らせるものでは なく、自分だけで満足すればよいものだ』 だが真実の初登攀は大正2年の夏、あの ウエストンが2回も登っていたのである。