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幕末の志士 真木菊四郎の青春
幕末の志士 真木菊四郎の青春 岩下直行(日本銀行下関支店長) ま き き く し ろ う じゅんなんのち 岬之町の日銀下関支店の近くに「真木菊四郎殉難之地」と彫られた石碑が立っています。この人物はいったい誰かご存じですか。 真木菊四郎と白石正一郎の墓所 「真木菊四郎殉難之地」の石碑 日銀下関支店 中之町の引接寺裏から紅葉館 (藤原義江記念館)まで石段を登り、 その裏山の雑草に覆われた山道を更に登った、 紅石山 にある墓所。 最も古い墓石には、真木菊四郎の名前のみが彫られている。その前に、 「贈従四位真木菊四郎之墓」 と彫られた新しい墓石が立つ。 明治維新の後、勤皇の志士として官位が追贈されたことを示す墓標である。 その左は、赤間神宮二代宮司でもあった 白石正一郎の奥都城 (おくつき。神道のお墓のこと)を示す石碑である。 山口新聞連載 ナゾと推論 第 21 回 「誰が菊四郎を殺したのか」 ま き さい 来週、2月14日はバレンタインデーだが、下関では「真木祭 」が開催される日でもある。真木祭とは、幕末に下関で 暗殺された勤皇の志士、真木菊四郎の命日に開催される 墓前祭だ。菊四郎が遺言により葬られた赤間神宮裏の紅 石山で、神事と琵琶・詩吟の奉納が行われる。 ま き いずみ 菊四郎の父は、久留米水天宮22代宮司の真木和泉で、 幕末の尊王攘夷運動の理論的指導者として名高い。菊四郎 は和泉の四男で、父の政治活動を支えるために奔走した。 菊四郎が歴史の舞台に登場するのは1862年2月、弱冠二十 歳の時だ。和泉と菊四郎は久留米から薩摩経由で京都に上 り、薩摩藩の尊攘激派とともに倒幕のための挙兵を計画す るが、寺田屋騒動で頓挫し、久留米藩に送還されてしまう。 続く1863年、和泉と菊四郎は長州を経由して再び上京 する。和泉は長州藩を中心とする尊攘激派の理論的支柱 として、京都の政局をリードする存在となった。ところ が、同年8月18日の政変により、長州藩は尊攘派公卿七 人とともに京都を追われてしまう。世に言う七卿落ちで ある。菊四郎も七卿を警護して長州に移った。 1864年7月、失地回復を企図する長州藩は禁門の変を起 こす。和泉は浪士隊を率いてこれに加わり、菊四郎も従 軍した。しかし、薩摩、会津らの連合軍に敗れて長州軍 は敗走、和泉は京都山崎の天王山で自害することになる。 菊四郎もその後を追おうとするが、父に諭され、長州・ 下関に落ち延びる道を選択する。 長州に下った菊四郎は、亡き父の遺志を継ぎ、攘夷倒 幕のための薩長連合を実現するために奔走していたが、 1865年2月14日、下関で暗殺されてしまった。享年23歳、 志士としての活動は僅か3年間であった。 菊四郎は誰に殺されたのだろうか。かつて作家の菊池寛は、 「長州人も、真木菊四郎など、長州で十分保護しなければな らない同志の人々を暗殺している。これらは俗論党のやった ことだろうが、長州人としては責任のあることだ。 」と書いた。 しかし、現在では、菊四郎暗殺の下手人は土佐脱藩浪士の いけ く ら た 池内蔵太だと考えられている。内蔵太はNHKの大河ドラマ 「龍馬伝」にも登場した坂本龍馬の幼なじみで、禁門の変 に長州方として参加していたが、そこで自分達を苦しめた 薩摩を憎悪する思いが強く、薩長連合を進めようとする 菊四郎が許せなかったらしい。内蔵太はこの暗殺事件の後、 長州を脱出して長崎の亀山社中に参加し、長崎県五島沖の 水難事故で亡くなった。菊四郎と内蔵太はともに維新後 顕彰され、両名とも従四位を追贈されている。 もしも、菊四郎が1865年に暗殺を免れていたら、その僅か 一年後の薩長盟約の成立を受けて、勤皇の志士としての彼 の地位はより高まったことだろう。あるいは、彼こそが、 龍馬に先駆けて、薩長連合に貢献した人物として歴史に大 きく名前を残していたかもしれない。そんな想像を巡らし ながら、墓前祭に参加させて頂こうと思う。 (2011.2.9掲載) 明治の下関における高橋是清の青春 1. 高橋是清と下関とのつながり 高橋是清は、明治時代から昭和初期にかけて、日銀総 裁、大蔵大臣、総理大臣を歴任した偉大な銀行家、財政 家、政治家です。大蔵大臣として日本経済を金融恐慌・ 昭和恐慌から立ち直らせるために際立った手腕を発揮 しましたが、1936 年、二・二六事件で陸軍の青年将校に 襲撃されて亡くなりました。その是清が、下関と深いか かわりのある人物であることをご存じでしょうか。 是清は、1893 年(明治 26 年)9 月、下関(当時は 岩下直行(日本銀行下関支店長) 総裁の裁可を仰いでまでも、金利差を縮小させようとし た様子が描かれています。 最近の研究によれば、日銀西部支店の開設により、資 金決済が円滑化し、九州の金利と全国平均との差が 3.09%から 0.85%にまで低下したことが指摘されてい ます。全国一律の金利体系は、統一国家の基本ですから、 こうした取り組みによって、幕末までは各藩ばらばらで あった日本の地方とその経済が、明治期にひとつの国家 として統合されていったのです。 さいぶ 赤間関)に新設される日銀西部支店の初代支店長に任命 されました。下関は是清が日銀の正規職員に採用されて 初めて勤務した地です。是清は当時 39 歳。青春という にはややトウが立っていますが、この地で学んだ金融の 実務知識が、彼の銀行家としての成功の基盤となったの です。是清は下関で 1 年 10 カ月勤務した後、1895 年に 東京に戻りました。この間の経験が「高橋是清自伝」に 詳しく書かれているので、我々は明治の下関における是 清の活動内容を知ることができるのです。 2. 是清、支店開設に向けて奮闘 是清が 14 人の職員とともに支店を開設したのは、現 在の南部町の南西側の一角でした。元は廻船問屋だった 二階建ての家屋で、一階には問屋の営業場に用いられた 大広間が、二階には船頭が寝泊まりする小部屋がありま した。是清は、開業一週間前に下関入りし、建物の内部 を検分したところ、そのままでは日銀支店には適さない 構造であることが分かったのです。そこで、昼夜を分か たぬ突貫工事で一階営業場の仕切り板を取り外すなど の改築を施し、金庫その他の設備を整備して、1893 年 10 月 1 日に無事開業を迎えました。 3. 是清、地域の金利引き下げに尽力 日銀が関門地域に支店を開設したのは、主として九州 方面の経済活動を支援することが目的でした。当時、九 州から東京や大阪に農産物や石炭を出荷しており、その 代金決済のために現金を輸送する必要がありました。多 額の現金を輸送するのは手間とリスクがかかるため、必 要なだけの輸送が行われず、現金の不足で金利が高騰し てしまうのが常だったようです。このため、当時の山陽 や九州の実業家は、全国平均よりも相当高い金利を払う 必要があったのです。 是清は、支店長に着任するとただちに、山陽と九州の 金利を大阪や東京と同じ水準まで引き下げるよう尽力 しました。彼の自伝には、上司である監督理事と対立し、 日銀西部支店長時代の高橋是清 日銀総裁時代の高橋是清 4. 是清と日清講和交渉 是清が支店長在任中の 1895 年、下関で日清戦争の講 和条約締結交渉が行われることになり、伊藤博文首相、 陸奥宗光外相らが下関を訪れました。是清は彼らと交流 しつつ、講和交渉について東京の上司たちに情報提供す る伝達役としての役割を果たしました。当時是清が書き 残した報告からは、日本が採るべき経済財政政策や外交 政策に関する優れた見識を読み取ることができます。ま た、こうした経験を通じて是清が培った人脈が、彼のそ の後の飛躍をもたらしたのです。 5. 下関における日銀支店の変遷 この日銀西部支店は、日銀が大阪に次ぐ第二の支店と して開設したものでした。下関が日本全体で二番目だっ たというのも驚きですし、その初代支店長が高橋是清だ ったというのも誇らしい事実だと思います。ところが、 支店設置から五年後、日銀西部支店は下関を撤退し、門 司に移転してしまいました。それから五十年近く経ち、 1947 年(昭和 22 年)に、日銀は再び下関に支店を開設 しました。全国の日銀支店の中で、いったん撤退した後 でその街に再び出店したのは、下関支店だけです。 こうした複雑な経緯があるため、下関における是清の 活動は、地元でもあまり広くは知られていないようです。 例えば、当時是清が勤務していた日銀西部支店は、南部 町の明治安田生命下関ビルの敷地内にありました。しか し、現在そこには、是清のゆかりの地であることを示す 案内や石碑は置かれていません。 現在そのビルの横に置かれているのは「金子みすゞ終 焉の地」を示す記念碑です。実は、詩人の金子みすゞが 下関で住んでいた書店・上山文英堂本店の隣が、日銀西 部支店(当時は百十銀行本店)だったのです。時代が 30 年も違うので、 「高橋是清と金子みすゞが隣同士だった」 という訳ではありませんが、良く知られたこの二人の人 物の史跡が隣り合っているというところに、下関の歴史 の奥深さがよく表れていると思います。 日銀西部支店跡地(下関市南部町) 明治時代の西部支店の様子