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Page 1 十一世紀中世について ー三つのシンポジウムー 最近の中世史学

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Page 1 十一世紀中世について ー三つのシンポジウムー 最近の中世史学
孝
一
十二世紀中世について
t三っのシンポジウムー
越
ーロッパ史全体のプロセスについての考察があらためて要請さ
最近の中世更学が地方史重視へと傾斜しつつあるなかで、ヨ
いったいどのていどわたしたちのものであるのか。問われるべ
錯誤︵アナクロニズム︶がそこに生じる。そのことの自覚が、
分野の研究が時代史一般との関連を欠くとき、ともすれば時代
きはこれである。
は、およそ歴史思考にあっては通用しない。
はただ部分を埋めてゆくだけだといったような呑気なはなし
いった諸事象は、いわば絵パズルの、それぞれがボール紙の切
枠を破って開始されたこと、とりわけ西欧の外へ向って。こう
仔情詩が彩りゆたかに歌いだされたこと、人の移動が自閉的な
立したこと、西欧人の思考が哲学への道を切りひらいたこと、
封の体系が自律的力学をもちはじめたこと、石の教会堂が林
ィーの地方自治体︵プール︶についての研究は、当然のことな
がら、ノルマンディーを包みこんでいた国際関係についての理
めて、時代を作る。歴史はパズルあそびである。
ところで、絵パズルでは、ボール紙の切れっぱし︵a︶はパ
れっぱしであって、ほどあいよく形のとれたそれら諸断片を集
ぬ へ ゐ へ
全体が部分を規制し、部分が全体の形をきめる。ノルマンデ
ある。なにかこう、全体の構成はぴしっときまっていて、あと
視的な構造の理解をうながすという、これはよくあるはなしで
れているという事態はこよなく興味ぶかい。微視的な視線が巨
地方史と国制史との関係についてだけのことではない。各種
れは歴史思考にそのままあてはまろう。
錯していたのが中世社会だとはマルク・ブロックの言だが、こ
堀
解を前提として要求する。国際関係のことは、プールの様態が
わからなければ、ついにわからない。普遍と個別が不連続に交
86
1
十二世紀中世について
ズル盤︵A︶にしかはめられない。︵B︶には無理なのである。
そんなことは、こどもならだれでも知っている。部分は全体を
カ も ヘ へ も へ
ヤ へ ね
ジウムが三つもたれた。一九五七年十一月十二目から十四日に
ここ二十年ほどのあいだに、酉欧の十二世紀をめぐるシンポ
映している。事象︵a︶は時代︵A︶の形になじむよいかたちに
おいて、はじめて理解される。というよりも、そういう︵A︶
しかも、これはなんとも悟性では説明しきれない事態なのだ
わたしたちの認識にはいるのである。
郊スリジイ・ラ・サルの城館で開かれたシンポジウム、それに
学中世ールネサンス研究所主催のシンポジウム、一九六五年七
かけて、ウィスコンシン大学人文学類およびウィスコンシン大
これは変形シンポジウムというべきか、一九七四年十一月上旬
月二一日から三〇日にかけて、ノルマンディーのクータンス近
から翌年三月上旬にかけて録画・放映された日本放送協会の放
が、断片︵a︶が図柄︵タブロi︶︵A︶になじむかどうかは、
また、こどもにはよくわかるはなしの筋である。この感覚の眼
うものは、もともとそういう性質を帯びているのである。これ
この三者いずれのばあいも、その後、報告者の草稿と談話の
送大学実験番組﹁西欧精神の探究﹂である。
筆録をもとにして本が作られ、出版された。
約である。
﹁拝情詩が彩りゆたかに歌いだされた﹂という事象︵a︶は、
に対する関心の態様を考えてみたいと思う。
以下、この三つのシンポジウムが浮彫にした﹁十二世紀中世﹂
﹁シャルトル学校﹂、アーバン・T・ホームズ﹁ヨーロッパの
パ社会のなかでの思考﹂に、レイモンド・クライバンスキi
手を入れたものをまとめて本にしたもので、第一部﹁ヨーロッ
ウィスコンシンーグループの本は、報告者がそれぞれ草稿に
ルネサンスという図柄︵B︶にはなじまない。たとえばそうい
のだ が 。
をひき、ボール紙を切りなおした方がいい段階にはいっている
もパズル︵B︶は、そうとう使い古されていて、あらためて線
解しようといくらやってみても、パズルは完成しない。もっと
うことである。そういう︵B︶になじむものとして︵a︶を理
差しの質が歴史家に問われる。これは歴史家を縛る不可避の制
直観的にわたしたちの認知の眼差しにはいるのである。形とい
ぬ へ ぬ へ う ぬ た へ も
になじむ形において、はじめて︵a︶はよいかたちにおいて、
、
由学科の造型表現﹂の三篇を、第二部﹁経済と社会における変
教育における変遷﹂、アドルフ・カッツェネレンボーゲン﹁七自
87
2
遷﹂に、ヒルマー・G・クルーガ!﹁展開するヨーロッパの経
ロッパ史全体の流れにおいて、十二世紀をそういう時代として
バラクラフは建設ないし構成の時代ということをいう。ヨー
とらえること、これがマディスン︵ウィスコンシン大学のある
済的諸相﹂、ジョゼフ・R・ストレイヤー﹁封建的諸制度の発
展﹂、 エルンスト・H・カントロヴィッツ﹁学問的法律学の影
町︶のシンポジウムの狙うところであった。
ている。
︵2︶
だから本の表題は﹃十二世紀と近代社会の基礎﹄とつけられ
響下の王権﹂の三篇を、第三部﹁ヨーロッ。ハ文化への東方の影
響﹂に、レオ・スピッツァー﹁ユダヤーイタリァ悲歌へのヘブ
ライ詩および俗語詩の影響﹂、ミルトン・Vドエイナストス﹁ラ
次にスリジイ・ラ・サルのシンポジウムの報告書だが、この
方は、そのものずばり﹃十二世紀ルネサンスについての談話﹄
テン世界の思想へのビザンティンの影響の諸相﹂、G・E・フ
オン・グルーネバウム﹁イスラム世界−敵の顔1﹂の三篇を、
と題されている。そのものずばりといったのは二重の意味であ
題をはらむ﹁十二世紀ルネサンス﹂という語句をそのまま表に
いるという意味で、そのものずばり﹁談話﹂であり、あまた問
って、報告者の報告と討論の内容がほぼ半々の割で収録されて
それぞれ収録している。
・クラーゲット、ゲインズ・ポスト、ロバート・レイノルズの
ひじょうに特徴的なことは、この本の編者であるマーシャル
共同署名による序文の書出しが、まずジョフリー・バラクラフ
出しているという意味でもまた、そうである。
モーリス・ド・ガンディヤック、エドゥアール・ジョノー両
の名をあげ、ついでチャールズ・ホーマー・ハスキンズを回想
していることである。後者の﹃十二世紀ルネサンス﹄は一九二
と巨人﹂、ビルガー・ムンクーオルセンが﹁ジャン・ド・ソール
氏の統括したシンポジウムは、第一目目に、ジョノーが﹁爆人
し、それぞれ十人前後のメンバーによる討論が行なわれた。
ズベリ、十二世紀の一キケロ学者のユマニスム﹂について報告
る。
︵1︶
七年に、前者の﹃転換期の歴史﹄は一九五五年に出版されてい
ンスという。ハズル盤は一応そのままに、後者の駒の重要なもの
ハスキンズの十二世紀理解は、旧来の中世、あるいはルネサ
応用できていて、ついついだまされた気になる。なぜかという
i・テレーズ・ダルヴェルニイ﹁ノヴァ・エト・ヴェトラ﹂、
ナン・ブリュネル﹁デウス・フォルマ・エッセンディ﹂、マリ
以下、報告者と報告題だけ拾ってゆくと、第二日目にフェル
と、じつのところ、もともと﹁ルネサンス﹂という概念は超歴
第三日目にジャン・シャチオン﹁十二世紀のサン・ヴィクト!
のいくつかを前者に組みこんだものといえる。なかなかうまく
史的なものであり、やすやすと時代を越えるからである。
88
十二世紀中世について
マネスク芸術入門﹂、第五目目にM・M・ダヴィ﹁ベルナール・
ル学校の文化﹂、レイモンド・フォレヴィユ﹁十二世紀イギリ
もうとする方向性の確定。
印される民族の過去、慣習法の世界にローマ法の水路を掘りこ
形︵フォルマ︶の確定、愛の教義と慣行の形成、﹁ロマン﹂に刻
る。いわゆる﹁ルネサンス﹂の印影であろうはずはなく、ここ
り、時代の内包を時間軸に沿って押し流すダイナミズムであ
したがって﹁十二世紀ルネサンス﹂は﹁開かれた概念﹂であ
の共有するところとなっていたかのようである。
を作る。そういう見通しが、スリジイ・ラ・サルに集った人々
i︶がひとつの図柄を描き、十二世紀以後のヨーロッパの見取図
。ハ﹂の世紀であり、そこに生れ育てられた文化の諸系列︵セリ
十二世紀は多様な表現の可能性に向って﹁開かれたヨーロッ
スにおける政治意識の誕生﹂、第四日目にフランシス・サレ﹁ロ
ド.クレールヴォーとギヨーム・ド・サンチエリにおける霊の
妻の主題﹂、バーリー・スモーリー﹁十二世紀の聖書注釈﹂、第
六日目にジャン・ルクレルク﹁聖ベルナールの文学的人文学﹂
︵この報告は収録されず、討論のみ収録されている︶ロベール
・ジャヴレ﹁霊の愛対宮廷風愛﹂、ド・ガンディヤックとエニ
ド.マクレオド﹁アベラールとエロイーズ﹂ ︵これは両氏の対
話の形をとっている︶、第七日目にウィルヘルム・ケラーマン
﹁西欧拝情詩の開花−愛の崇拝ー﹂、ジャン・シャルル・パイ
ヤン﹁フランス中世物語詩における女性像﹂、ド・ガンディヤッ
ルネサンスと、浮游するルネサンスの虚像は消えた。
にカロリング・ルネサンス、オットー朝ルネサンス、十二世紀
のとるところではない。ロマネスクは、その後のヨーロッパの
スクとゴシックが演ずるといったみかたは、フランシス・サレ
の枠組みがあって、総枠のなかでの区画のとりあいを、ロマネ
ほんのひとつのケースをみてみよう。建築史の確固たる不動
ク、ロジエ・ジャヴレ、ケラーマン、ロベール・マリシャル、
パイヤンの五氏による討論﹁カタリ派と宮廷風愛をめぐる討
論﹂、第八日目にマリシャル﹁物語詩︵ロマン︶の誕生﹂、第九
日目にジャクリーヌ・ランボーービュオ﹁グラティアヌス法令
集、過去の遺贈、古典的時代の到来﹂、最後にド・ガンディヤッ
︵3︶
ク、ジョノーをふくめ十一名による総括的討論。
アンリ・フオシオン、噛ジュルギス・バルトゥルサイティスの系
︵4︶
譜の﹁美術史﹂学の示唆したところであった。
ックも、そのゆたかな変奏として理解される。これはすでに、
美的感性の総体をはらむ表現の集塊であって、ゴシックもバロ
ールの体現する信仰の情動と聖書学、アベラールと西欧の思考
ゴシックは近代のみた中世の顔である。そういうおもいきり
ョン・オブ・ソールズベリと古典研究︵ユマニスム︶、聖ベルナ
サン・ヴィクトール学校に代表される﹁スコラ﹂の研学、ジ
の方法論の確立、﹁ロマネスク﹂の形成にみられる西欧の造型の
89
のよいみかたこそのぞましい。
代の+二世紀に回帰すると.・ろ、アメリカの詩人エズ㌘パウ
不思議を問い、ヨーロッパの仔情の伝統の起点を確認する。現
この創造と構成の時代は、﹁西欧型政治原理の発生﹂をみた時
ンドは、トルバドゥールの詩歌に詩想を汲んだのである。
﹃西欧精神の探究﹄は、副題に﹁革新の十二世紀﹂というの
をもっている。編者の堀米庸三氏は﹁あとがき﹂にいう。 ﹁十.
代であった。身分制議会の形成は十二世紀中世に深く根差し、
二世紀を中心とした一時期が、ヨーロッパが最初の精神的自覚
に、従ってまた独自の文化の創造にまで到達した最初の時期で
堀米氏は第九日目の報告を結ぶ。
第十章に、今道友信氏は﹁大学と学問﹂の成立を論じ、﹁スコ
後代の代表制議会へと変容する。この見通しの言葉をもって、
ラ﹂学の復権をめざす。 ﹁スコラ﹂学が近代哲学の諸派にその
あること。そこで、この︸時期を各方面から検討すれば、西欧
数次にわたる転相を経て、現在にいたる。十二世紀中世へと回
ヨーロッパの価値体系は、十二世紀に創造された。その後、
ての正当な認識が、わたしたちに要請される。第十一章の伊東
方法論を与えたという、考えてみればあたりまえの事態につい
精神の源流を最も的確にたどることができよう。﹂
スを認知し、再生の根拠を狙う眼差しであり、これこそが﹁ル
俊太郎氏﹁近代科学の源流﹂もまた、巨視的な展望において今
帰する眼差しは、ヨーロッパが自分自身の誕生と成長のプロセ
ネサンス﹂本来の意味なのである。
道氏の立場に同調するものであって、スコラ学と近代科学の連
提起する。
続と非連続という言葉づかいのうちに、氏はあらためて問題を
第一章﹁革新の十二世紀﹂に、堀米庸三氏は十二世紀中世の
総体の意味を明らかにし、﹁西欧農耕民の心﹂、﹁都市民の心﹂
間﹂をみる。概念的説明がうるさく、ロマネスクのふくらみは
第十二章の柳宗玄﹁中世人の美意識﹂はゴシック以後に﹁人
に、木村尚三郎氏が、ヨーロッパの人と共同体のかかわりにつ
いての理解に示唆を与える。第四章から六章にかけて、堀米氏
まいか。第十三章﹁賛歌と愛の歌﹂の皆川達夫氏は、中世音楽
感じとれない。柳氏は、なにか感違いなさっているのではある
の﹁グレゴリウス改革﹂がヨーロッパの精神的自覚を展望し
﹁正統と異端﹂の二篇が、その基盤となった信仰の覚醒と情動
て、その歴史的意味を問い、今野国雄氏の﹁祈れ、そして働け﹂
にある。持続するものと変化するものと、この二要素の計量に
わたしの関心は、ひとつの図柄から次の図柄への転相の様態
に西洋音楽の原型をみてとる。
ぬ へ ゐ カ
新倉俊一氏は、﹁騎士道﹂と﹁愛、この十二世紀の発明﹂に、
のダイナミズムに照明をあてる。
愛が、この創造の社会に形式と歌とをおのがものにしたことの
90
十二世紀中世について
つく発言であった。 ﹁十二世紀中世﹂が転相する予感を、わた
ある。最終日の報告﹁中世と現代﹂は、この基本の関心にもと
十三世紀の側から十二世紀を、 ﹁十七世紀近代﹂の側から﹁十
く、この構えに立つとき、﹁ルネサンス﹂の呪縛は消える。再生
中世﹂の側から、観察する。これが基本の構えとしてのぞまし
二世紀中世﹂を狙う眼差しであり、いつわりの眼差しである。
ヘ ヘ ヘ カ も も ヘ ヘ ヘ ヘ ヨ へ ぬ へ も へ ゐ へ
の概念は、おのずから非歴史的契機をはらんでいる。それは、
へ う ヘ ヵ も へ
しはいだく。ヨーロッパ文化はその転相をふくむものであると
︵6︶
いうのがわたしの意見である。
ンス﹂という概念に対して反定立されたものとご理解ねがって
二世紀中世﹂というのはわたしの造語だが、 ﹁十二世紀ルネサ
成立の根拠が問われた場であったといってよいであろう。﹁十
三つのシンポジウムは、 ﹁十二世紀中世﹂という歴史概念の
﹁思想史﹂とか、縦軸の区分づけに気をとられがちな﹁歴史﹂
︵8︶
の誘いにのることはない。それはいつわりの歴史である。
思いこむことこそ危険である。 ﹁文学史﹂とか﹁美術史﹂とか
姿がみえなくてもかまわない。みえなければならないはずだと
相の多様な可能性を、わたしたちの眼差しに提示する。転相の
近代﹂が出てこなくてもよかったはずなのだ。時代の図柄は転
十二世紀から十三世紀が、 ﹁十二世紀中世﹂から﹁十七世紀
かまわない。このばあい、 ﹁中世﹂とは、ある価値体系をにな
らずに、歴史における理解がどうして可能であろうか。その多
﹁十二世紀中世﹂の歴史学は、十二世紀の諸系列のはらむ表
様性のふくらみを、ふくらむがままにふくらませてみる。あく
現の多様性に目を奪われる。時代にのめりこむということを知
く時代に対してポジティヴな主張をもっている。
の図柄を作る、その図柄の呼称だが、したがって、それにつづ
たとえば伊東氏はスコラ学と近代科学の連続と非連続という
じるのである。
までも持続する部分の計量こそが、変化するものの析出に先ん
わされた言葉だが、いいかえれば、様々な系列が集ってひとつ
いいまわしをされる。ひとつの図柄から他の図柄へと時間軸に
08︷マ2bJm旨。。息2σq汀電ミ。q§ゐき§鷺越磯一さ、・ミ.
O§Nミぎ国舘墨乙¢°勺゜サ一㊤卜○メ
︵1︶O冨二①ω口oヨ震口諺履冨“臼註N∼§籍凡毫ミQミ記、ミ竃き
︹注︺
沿って転相するとき、持続するものはなにか、切れるものがあ
るのか、その辺のところにわたしたちは視線を据えねばなるま
﹁十七世紀近代﹂へ。
い。十二世紀から十三世紀へ、あるいは﹁十二世紀中世﹂から
︵7︶
へ も も へ も セ ヘ ヤ へ う ヘ へ
この転相の様態を、それぞれ十二世紀の側から、 ﹁十二世紀
91
3
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O︷乏冨OOロω冒℃︻①ωω”]≦麟島u。oPド㊤①一。
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象︻①o菖oロ匹①]≦帥仁ユ6①匹①O㊤p禽=鴛Φけ国山o仁9巳冒pロ器β⊆甲
一︶①゜巴①−﹁傷信O①三冨n巳け=冨=⇒8ヨpユo昌巴餌のO①﹁冨︽・い甲QDp=ρ
50仁<①=①゜︻①ユoり甲]≦oロ8P℃ρ門冨1い踏置鎚冤♪H㊤①Q◎.
︵4︶=①鼠閃8剛=。﹃﹄こ・N、9ミミ馬富﹄§・、騨詮馬
沁oミ窺謡巴OミミQ寒3︾門日pβ餌Oo嵩7勺脚ユω噸ド㊤ωo。・
冒農冨じd巴#蕊p三ω”肉“ミ昏ミ︾6鼠磯a軌卜“噴9、,ミ、.馬
、ミ言象鳶象♪﹀噌日9ロ餌Oo犀P勺日冨”δ①O・
︵5︶°。9答ド琴u8覧・寒爲審ミミ§ヘミミ寄ミ伽ミ。ミ
↓、,俺眠賊禽ミ計℃ニコ88ロd°℃二Hり刈b⊇・
︵6︶ 堀米庸三編﹃西欧精神の探究−箪・新の十二世紀1﹄日本放送出
版協会、昭和五一年
︵7︶十七世紀にヴェクトルの変換点を求めるみかたは様々な方面に
おいて確認されつつあるが、ここでは次の二著を紹介しておく。
バジル・ウィレー﹃十七世紀の思想的風土﹄深瀬基寛訳、創文
﹂§満9蕊、裳量゜おωGQ︶
社、昭和三三年︵原題bJ°≦出一〇鷺↓、ミ切§か隣、oミ、糺ミ,藩馬
ミッシェル・フーコー﹃狂気の歴史ー古典主義時代におけるー﹄
田村椒訳、新潮社、昭和五〇年︵原題ζ.閃oロ8三2鳶ミo㌣馬さ
︵8︶たしか﹃思想﹄の五七入号︵一九七二年八月︶に村田全氏が数
旨きN甘即﹄.誰磯馬らミ旨3決魯H⑩話︶
学史について論じていて、数学史はいわば不可逆的に読むべきこ
と。ある段階から次の段階への展開の可能性は多様に開かれてい
主義の洗礼をくぐりぬけてデカルトをみいだしたことの次第は、ま
て、必然静にということはない。西欧中世の数学が後期中世の神秘
ことに不思議の妙である。西欧の数学の第一特性を合理性にみよう
という議論には根拠が.なく、神秘主義と数学とは、つねに干渉しあ
いつつ、パラレルに展開してきた。大体こう論じて、歴史を現在か
ら過去へ、出てきたものを軸に出てきたものをふくむ総体へ、逆に
読むことの危険さかげんに言及されていた。この論文︵うっかりし
て手許にみあたらず、うろ覚えの紹介で恐縮だが︶はわたしの共感
った。
を呼び、これを﹁史学概論﹂のテキストに使おうと思ったことであ
ヨーハン・ホイジンガは、論文﹁ルネサンスの問題﹂の第二部に
おいて、ルネサンスをもって中世から近代への過渡の様相を括る概
戒せよと戒めている。ホイジンガの﹃中世の秋﹄は、後期中世とい
念と推量し、その変化の様相を護むにあたって、逆向きの視線に警
う時代のふくらみのなかに立って、変容の可能性の多様さに心を開
いた書物であった。村田氏は、おそらくホイジンガを知らずしてホ
ミ民氏恥壽、㍗ミぴ餌①o一守噂弓゜b∂㎝膳︷︷。
い=9N冒σQ貸国Φけ買〇三①①日餌①﹃菊魯9ω匂・きoPおb。O︸<ミN貸
イジンガの立場に立ちえた人である。
92
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