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東南アジア華人社会の伝統芸能 - 東京大学学術機関リポジトリ
− 農暦七・八・九月の祭杷と地方劇 東南アジア華人社会の伝統芸能 目 次 一調査の目的 ニ シンガポールの中元節︵以上本号︶ 三 シンガポールの斉天大聖聖誕他 調査の目的 四 マレーシアの九皇爺法会 五 タイの宗禍 六 補記 H 尾 上 兼㌧ 英 0・フランケ教 東南アジアの華人社会についての研究は、多くの分野から進められている。﹁東南アジア学﹂というタームさえ学 界で通用し、方法論が模索されている。︵この場合は当然のことながら、華人以外の民族も対象となゑ ところで、東南アジアの開発に華僑がどのように貢献したかについては、陳育椋・陳荊和両教授ハ 東南アジア華人社会の伝統芸能 東洋文化研究所紀要 第八十二筋 二 授、今堀誠二教授らが蒐集・整理された会館や廟・亭の碑文録に基づく研究によって明らかにされ、また日比野丈夫 教授の﹁マラッカのチャイニーズ・カピタンの系譜﹂︵﹁東南アジア研究﹂六1四︶など、現地調査の業績が次々に発表 されている。一九七九年には酒井忠夫教授を団長とする﹁東南アジア文化調査団﹂が、文部省の援助によって派遣さ れ、会館関係の資料が博捜されたとのことであるが、これによって東南アジア華人の研究が飛躍的に発展することが 期待される。 しかし、伝統的民間演芸がどのように保存され、娯楽に転化する以前の﹁酬神戯﹂としての性格がどのように維持 され、同族・同郷・同業団体の結束にどのように役割をになっているかについての報告は、管見の及ぶ限りまだな い。東南アジアの地方劇の実情についてほ、シンガポールの南洋大学に所属する王息林・皮述民・頼炎元・謝雲飛の 四民による﹃四大伝奇及東南亜華人地方戯﹄︵南洋大学亜洲文化研究所一九七二刊︶というすぐれた調査報告があるが、 とくに集団の という視点は欠落しており、説唱文学や地方劇の研究に、文献資料の − 関心ほ荊叙記・自免記・拝月亭・殺狗記の四伝奇に限定して、シンガポール、マレーシア、タイ、ムロ湾での公演の情 − 況の調査にあり、華人社会の習俗との関連にはない。文芸を支え、維持発展をほかる集団との関連 結束をはかる祭柁、その他の行事との関係 不足という限界を打破して文学史を再構成したいと考える者にとっては、その点に不満が残るのである。 このような調査は、中国人が主体となって進められる方が、より効果は大きいと思われるが、遺憾ながら中国人社 会では、文学における戯曲・小説の地位ほ依然として低く、我々の関心の持ち方について十分な理解が得られないこ とは、前回の報告︵﹃東洋文化研究所紀要﹄第七十五冊︶以後も変りはない。そこで、文学畑の他に、歴史学・民俗学三己 語学等の専門家の協力を得て、本格的に調査を進めたいと願うに至った。幸にして﹁東南アジアに残存する華人社会 の民間演芸の調査・研究﹂に対して海外学術調査が認められ、文部省から科学研究費が与えられることになったので、 香港・シンガポール・マレーシア・タイの現況と調査地点、時期の選定を中心課題として、一九七九年度は予備調査 シンガポールの中元節 に当ることとした。調査は、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の中嶋幹起氏と尾上の二人が当った。 臼 農暦七月は中元節、孟蘭勝会の時期である。Festiくa−OfHungryGFOStと英訳されるように、冥界にある孤魂の 本来は農暦七月十五日をはさむ前後数日であるが、劇団の数が 冥福を祈るとともに、故人となった祖先の慰霊が中心であり、その際﹁酬神戯﹂として演劇の奉納を伴うために、 か月にわたって各地、各集団によって行われる。− 少いので同時に招碑することができず、長期にわたるのである。 香港の孟蘭勝会ほ潮僑︵潮州出身の華僑︶が主体であり、これに関しては前回の報告に示した日程表を訂正する必要 ︵注︶ は、ほとんどないが、年によって事情の変更があり、多少の変動は避けられない。シンガポールで得た情報によれ ば、劇団との契約は毎年更新されるが、金額が折合わぬ場合は、更新されない。その時には日程にも影響が出ると う。香港の場合も同様であろう。また卑劇︵広東系︶恵州劇︵福催系︶についてその後、知見を加えたことがあるが、こ れらの点に関しては、いずれ東洋文化研究所の同僚、田仲一成氏から詳しい報告がされる予定なので、田仲氏の参 しなかったシンガポール以後の予備調査に、この報告は限定したい。なお、この報告に関する調査では、中嶋氏が 得した広東語・福建語等の言語知識によって、調査対象となった人との意志疎通に大きな役割を果したことを特記 東南アジア華人社会の伝統芸能 東洋文化研究所紀要 ておきたい。 第八十二筋 調査のためシンガポールに到着したのは、中元節の後半であった。 地方劇も衷顔する運命をたどるのであろうか。その徽候ほすでに現われており、福建系の布袋戯が﹁華語﹂ ることについて考えさせられた。やがて画一的な華人系シンガポール人となり、故郷の習俗が失あれ、各方 答えられ、二世・三世というものについて考えさせられたが、今回は﹁連帯の証﹂である故郷の﹁ことば﹂ の人が努力しています﹂と、商店主にたしなめられたりした。前回ほ同じ質問をして、﹁私はシンガポール 華人ですか﹂と質問したのに対して、﹁我々ほ﹃多講華語﹄運動を推進しており、今や標準語を話すことに 人の話しことばを統一しようとする熱気が渦巻いているように見える。我々の経験でも、﹁あなたは、どの ターに名を連ね、意州会館も推進を議決し、宣伝隊を西部マレーシアの同郷会へ派遣している ー標準中国 見の及ぶ所では、福州如排酒餐商工会、境川如排酒餐商工会、工業工聯、新加塀管理協会なども推進に協力 ている。これにほ新聞界から星洲日報、南洋商報、新明日報が協力し、小販︵商店︶新加増巴士なども呼応してー管 また華人の共通語としての﹁華語﹂の地位を高め、各方言を消滅させる方向で、一大キャンペーンがくり 人、マレー人も同一住宅街に集め、シンガポール人としての一体化をほかっているという。 して、近代建築の住宅街へは旧居住区の住民の一括移転を認めず、各方言系の華人を混任させるとともに、 タウンの旧房屋の破壊が進行し、そのあとに高層の近代建築が建てられ、昔日の面影を失いつつある。政府 シンガポールは、産業構造の近代化が推進されており、前回︵一九七六年︶の調査の際危倶したように、チャイナ・ 四 ﹁講撃語﹂キャンペーンのポスター 東南アジア華人社会の伝統芸能 れ1中谷魯TiOngBaFruRd・農暦二十九日−また地方戯より も、歌台の流行歌の方に人気が集る︵付表一注3参照︶という傾向が見 られる。地方劇の最も熱心な観客は、年輩の婦人である。 孟蘭勝会の情況について、チャイナ・タウンの旧房屋め壁や柱に残 十日−十九日 二十個所 六個所 九個所 る怖告を丹念に拾って、次のような結果を得た。︵付表一参照︶ 同 一﹂十日−二十九日 農暦七月一日−九日 同 二個所 ︵但し、八月にわたるもの二個所を含む︶ 同 一個所 八月一日−二日 日付不明のもの もちろん、これがすべてでほなく、近代建築に変貌した地域 − Ayer の一部 − 及び現 UpperCircu−arROadからUpperChinCFewStreet BridgeROadの北側の地域と、Kreta 壊が進行している地域−再建のすんだ地域に隣接し、次年度に再開 発が計画されている一帯は、家賃・地代が免除されているという ー 五 東洋文化研究所紀要 第八十二筋 痕跡を残さぬ祭神後の広場︵丹戎百葛︶ 六 と、チャイナ・タウンと呼ばれる一角から離れた地域で行われる孟蘭 勝会は、仮設された神殿、戯ムロが解体されると痕跡を残さず、備告も 張り出されることが稀であるため、時期を外した場合、後からほわか らなくなる。それらの事情を考慮に入れても、大体の傾向ほ察知する ことができよう。すなわち上旬に約30パーセント、中旬は15パーセン ト、下旬は約55パーセントとなり、中だるみを挟んで後半にウエート − − 卑劇は広東系華人の居住地域を除いて見当らなかった 従って中元節の中心的推進者ほ潮州や福建南部出身者というこ がかかることがわかる。また劇種も潮州劇、闘劇︵福建劇︶が主であっ て とになろう ︵付表一参照︶ 各出身地別の居住区域は、楊松年商洋大学教授の教示によれば、次 の通りである。 St. 沙球牌街Circu−ar 直落亜逸街Te−OkAyerSt●芳林衝HOngLim 潮州系 牛車水KretaAyer珍珠坊PeOp−e正Park 福建系 広東系 蜜配律Midd−eRd. Rd● 海南島系 これが再開発以前の出身地別の勢力圏であるが、CrOS∽St.の東北 街頭に貼られた孟蘭勝会の怖告 東南アジア華人社会の伝統芸能 側の再開発地域の住民はHa邑OCkRd・に建設されたマシンヨン街 に移っており、祭祀を主催する集団が地域と一体化していたかつての 姿は見られない。広東系華人街も再開発が進行中で、牛車水人民劇場 も独立の建物から現在は一大ビルディングの一部となっており、変貌 が甚だしい。海南島系のMidd−2Rd・もROChOr︵梧槽︶を中心に近代 化が進められており、三年間で完結する計画で旧房屋の破壊が進行中 である。 近代化の進行と並行して、観光促進局︵SingapOreTOuristPrOm? tiOnBOard︶が、これらの地域性をもつ祭犯行事の日程を把握してい Opera︵KOngCFOW︶HOng るかと期待したが、両者の間の連絡はまったくない様子で、公的な機 関が主催する行事、演劇では Nの−N可﹀May−Chinese MinistryOfCu−tureSiロgapOreTOuristPrOmOtiOn −−N−1une−ChineseOpera︵SinKeeLin︶亜認刃け 匪轟軸司ト ーヤーー∞、lune︸CEneseOpera︵SinYOngWah︶渇望刃h 世裔軸遜h 七 東洋文化研究所紀要 第八十二筋 一九七六年当時の牛車氷人民劇場 八 の三件以外はわからないということであった。これは芳林公園での公 演であって、この場合ほ観覧無料であるが、興行演劇で、地域とも祭 杷とも無線である。 地域主催の祭杷・演劇についても、主催者相互の連絡はないよう で、時期的に、また地域的に接近している場合に﹁あそこでもやって いる。あそこの規模ほ、ここより大きい﹂という程度の情報しか持っ ていなかった。 結局、怖告を目で探がし、その場所を耳で聞いて足で確かめるとい ぅ迂遠な方法をとった。新聞社にも期待したが、関心をもつ記者個人 ほ別として、社として民間団体の動向を熱心に探索ほしていないよう である。 − から日程を聞 その後の調査によって、各劇団−香港、バンコク等から魔請され る多少の例外を除いて、少数の劇団が巡回している き出す方法と、政府の内部治安局に出された孟蘭勝会開催の申請書を 見ることができれば、全貌がつかめることを知った。 祭花と演劇の結合した行事ほ、三種類に分けることができる。 一、出身地域を同じくする同郷団体が主催し、一年に一度結束を確 一九七九年の牛車氷人民劇場 東南アジア華人社会の伝統芸能 認するために行われるもの。 二、信仰を基盤とする00壇、00神社などが主催し、出身地方や 職業に拘束されないもの。 三、主として宗族団体及び同業団体が主催するもの。 * * * ** ** * * * * 今回の調査は、この三種について、たまたま地域を異にして見聞す ることができた。 * 以下、この分類に従って記述したい。 * 中元節は、同郷の祖先慰霊と地域の一体性を確認するために行われ ー これほ同一地域を出身地とする人びとが、同一地域に るので、主催団体ほ地名を冠した﹁合衆社﹂﹁聯誼社﹂といった名称の 団体が多い 移住した姿を反映するものであって、現在ほ二重に混乱しているよう である。時間の経過に従って他地域の出身者が同じ地域に住む場合 と、建物の近代化に従って同一地域の居住者が島内に分散して居住す る場合とがあるからである。 九 東洋文化研究所紀要 第八十二筋 ﹁酬神戯﹂は二天連宵のものが此較的多く、香港が三天連宵を主 とするのに比べて、規模が小さいように思われる。また戯台、神殿 の配置でも、形式が異っている。会場の広さが形式に影響を与えて いるのかも知れないが、香港では必ず見られた﹁孤魂台﹂がシンガ ポールにはない。また俗に﹁雌の神﹂、﹁雄の神﹂と呼んでいる紙製 の神も、シンガポールにほなく、代りに﹁神祖﹂が並べられること が多い。これには奉納した信者名と神の名が記されているので、そ の関係を聞きだすことができれば、興味ある資料が得られるかも知 れない。 CheOngChiロNamRd・から釆ていた一高層アパート街の中間にある芝生の広場に集っ 間にわたる大規模な行事なので、他を割愛して観察した。 織1の主催する孟蘭勝会で、農暦七月二十三日から八月一日︵一九七九年は公暦九月十四日から二十言︶までの八日 ここは福邑公建普皮−シンガポールでは少数派に属する福清出身者を主体とし、それに潮州人などが加わった組 て催したものである︵六ページ写真参照︶。将来ほこうした型が多くなるのであろう。 とえば合衆兢の婦人は 丹戒官葛はすでに再開発された地域に属するので、孟蘭勝会の怖告はなく、かつての住民がかなり遠方からーた SA新二号門での孟蘭膠会を終始観察することができたので、まず配置について、香港と比較してみよう。 シンガポールでは、大枚丹戎巴葛Ta鼠On的Pagar洛口羅繕律P 香港・油麻地 旺角区四方街潮僑 新加披・丹戎百葛・天来街 東南アジア華人社会の伝統芸能 福邑公建普度 」些甘t 東洋文化研究所紀要 第八十二筋 炉主の挨拶、全文は以下の通りである。 新一九七九 九月十四 九月廿一日 謹消 暦 年 至 古 歳次己未 七月廿三 八月初一日 為恭就大坂丹戎巴葛洛口羅蒔律草場福口官公建普度特礼樽正覚寺啓建一二塁夜道場由七月廿三日昔時竪旛廿四排壇廿五 日上午八時発奏頂礼梁皇宝傾廿六白書時拝礼斗廿七日下午四時放水燈夜晩施放喩伽族口内資恩賜外抜孤滞以此功徳 祈求世界和平国泰民安増福延寿務希炉主緑首各執事墜衆位善男信女慶誠到壇焚香礼拝由七月廿五日至廿七日敬演新 恭候 炉主 葦春悌 厳玉喜仝敬約 陳双書 慶筆問劇団三旦佼廿八日至八月初一日敬清福州楽峯天班加冠全台三天連宵答謝神恩以昭誠敬慶讃中元佳節並治豆暢 光儒 慶讃中元 合境平安 ﹁境﹂とここでいうのは、主催団体が﹁社﹂を名乗らないことと、かつての住民が現在分散して居住しているため ではなかろうか。 ここほ三十年の歴史があり、二十数年前にほ李光耀総理も参観に釆たということを誇りにしていて、質問には快く 応じてくれたが、質問の意図が十分理解されず、また故事来歴に通じている人が少いため、必ずしもすべて疑問が解 けたわけでほない。彼らが残念がっていたのは、かつては馬路 − TanjOロgPagarRd.− に接して牌楼を作ってい たが、政府に禁止されて八年になるということである。次の図の如きものであったという。空中に設けた歌台で男女 各一人の歌手が歌う。福建人はもちろんのこと、広東人もその他の地方出身者も見物に釆、聴衆が道路にはみ出すの で、危険防止を口実に禁止されたという。祭壇、神殿等も他と比較して規模の大きいこの孟蘭勝会に、 この牌楼は一 段と精彩を加えたのであろう。これは住居分散以前のことであった。 質問事項ほ多岐にわたるが、本調査のための覚え書として幾つか記しておこう。 ︵廟会の日数について︶ すでに備告によって他の例を見ているので、ここが長いことにつ いて質問してみた。 − といったが実 最長は四十九日、以下二十一日、九日、七日、五日、三日、一日、 の七種あり、普通ほ三日であるが、ここでは十日 際は八日 − で長い方であるという。 ︵場所の確保について︶ こうした行事は、三か月以前に政府の内部治安局に申請すること になっているという。ここが使用している広場は政府所有であり、 他の多くの場合も、駐車場から一時草をしめ出したり、道路を半分 占拠して仮設神殿、仮設戯台を作るので、許可を必要とするのであ 東南アジア華人社会の伝統芸能 彩色燈 ろう。 東洋文化研究所紀要 ︵総費用︶ 第八十二筋 蝋燭、紙銭、供物、食事等 − に一万ドルという。計 支出ほ約八万シンガポール・ドル︵以下シンガポール・ドル︶。内訳は、和尚に七∼八〇〇〇ドル、設備も七∼八〇〇 − ︵寄附金︶であるが、収支は償なわぬという。 〇ドル、戯班︵劇団︶への支払いは一日、一万ドル。その他 と﹁楽消﹂ 算は正確でないが、概数を言ったのだろう。 収入は後に述べる﹁標福物﹂︵供物のせり︶ 収支については後日報告されるであろうが、ペナンの﹁日本街堂日本新路﹂の孟蘭勝会の収支報告を中嶋氏と ︵シンガポール・ドルとほぼ等価︶であ 入手した。場所が違うし、規模もわからないので単純に比較するわけにはいかないが、詳細な内容なので付表の 二とする。それによれば、麗声卑劇団への支出は五六〇〇マレーシア・ドル る。だとすれば、一日一万ドルは高過ぎることになる。 ︵行事︶ 前記の炉主の文中に示されているが、七月二十三日︵農暦、以下同じ︶の﹁竪旛﹂、二十四日の﹁排壇﹂、二十五日の ﹁梁皇宝傾﹂を見逃したので尋ねてみたが、説明が厄介なのか、﹁来年また見に釆なさいよ﹂といなされた。 ︵酬神戯︶ − 前回の報告で﹁天后廟﹂と書い 前半三日は福建劇、後半三日は福州劇で、福川劇はシンガポールでも珍しいが、福滑出身者が主体となっているた めであろう。 香港の長洲島で行われる北帝廟のBunFestiくa−における酬神戯の場合も 戯館街南東社の潮劇中の亡鬼 東南アジア華人社会の伝統芸能 − 前年に事故があり、一九七九年ほ﹁拾﹂が たのは誤りであった−前半四日は卑劇、後半三日は恵州劇。﹁会 景﹂と﹁拾飽山﹂ 禁止された1−が終って後に恵州劇を上演するのは、恵州・海陸 豊出身の福傍系住民が主体となって廟会を推進しているからであ ろう。 シンガポールの場合も途中で劇種が変るのほ、同様の理由から と考えられるが、確認を怠った。前半は多数派住民のために一般 的な劇種を上演し、後半ほ主たる推進者のために郷里の劇種を選 ぶのではなかろうか。いずれにせよ、軌を同じくしているのは興 味深い。 上演する劇日と主催団体との関係は、最も興味のある問題である 一 括婚の相手を選ぶ場合、同郷 が、選定は一切戯班まかせであるという答ほ意外であった。種々の職 業を含み、また出身地も一様でない − ことから、拝神の対象が普遍 人であることが前掟になるかという質問に対して﹁什靡人也可以。印 度人也可以﹂というのが答であった 化し、とくに劇日を限定する必要がないためかとも考えられる。 ここの場合は、観音菩薩が柁られていたが、これについてペナンで 一五 東洋文化研究所紀要 蘇月撃小姐の舞台姿 第八十二筋 二ハ 劉宋囲氏から伺った詣でほ、身一つで海外へ出た華僑が、救命の神と して崇拝したものだということである。このことについては、近く同 氏が論文を発表されるとのことであった。 劇目についてほ指定しないとのことであったが、広東街口姑駁船聯 合主催の新賽風聞劇団と、戯館街両頭社主催の老賽桃源劇団は、劇種 は福建劇と潮州劇の相違があるが、亡霊の出現という共通項を持って いた。孟蘭勝会と何か関係があるかもしれない。しかし、酬神戯その ものがマンネリ化し、今ではアトラクション的要素が強くなっている から、主催者側が劇目の指定をしないと考える方が自然かもしれな ヽ 0 .LY 但し、劇団はそれぞれ冒頭の劇で﹁跳加冠進禄﹂を必ず行う。これ については、新慶草間劇団の蘇月華女士からの聞きとりを参照された い。︵付録︶ ︵蘇月華の妹︶、文武 新慶草間劇団の団員構成は、余亜妹団長、主角文武正生蘇月華小 娘、文武正且彼玉英小姐、三花小生蘇月珠小姐 花旦徐玉琴小姐、彩且美蘭小姐、反派小生林招砥小姐、丑生徒妨、文 武艶且許変革小姐、黄梅調聖手林金蛙小姐、歌唱聖手玉玲令小姐、そ 丹戎百葛の戯棚 東南アジア華人社会の伝統芸能 の他に聞きとりに応じてくれた郭鳳福民ら二、三の男優から成る。事 務所はシンガポールとクアラ・ルンプルにあり、シンガポールとマレ ーシアで活躍中とのことであった。 夜演 * * * * * 福禄寿青竹山、義漢救主 福禄寿、義婦伸寛 八仙大浮海、仏門得子 * 天官賜福、邦玉成 * 万花献寿、劉金定殺四門 ママ 大三仙、惧殺鄭恩 臨江駅 堵桃会、七千救駕六子成 新慶筆問劇団の戯題 初日 第二日夜演 第三日日演 夜演 日演 新楽天班の戯題 初日 夜演 第二日夜演 第三旦佼演 *祝福の﹁折子戯﹂の後で子供の人形を舞台から神殿へ捧献する ︵﹁跳加冠進禄﹂︶ 棉仮面をつけた神が、祝福の句を記した布の巻物を広げる︵﹁天官 賜福﹂︶ 一七 東洋文化研究所紀要 新慶筆問劇団の﹁加冠進禄﹂ 第八十二筋 − 一八 ほとんど子供ばかり ー 日演も確認する必要があるが、他の調査や本調査のための交渉など と重なり割愛した。日清は見物人が少い ので、若手俳優の訓練にあてられる場合もあるが、見物人なしに熱演 をしている場合もたびたびある。 たとえば、八月初二日のB2tQuayでの新賽風聞劇団の日戯 ﹁鉄板記﹂は、女性一人の見物に対して、団員総出の熱演であっ た。 また、九皇爺法会の終った翌日十日︵九月初十日︶の、クアラ・ ルンプルの安邦新村にある南天官の正面の舞台では、新願麟閏劇 団の日戯﹁双想思﹂にはまったく観客はいなかったが、手を抜い ている様子はなかった。 劇団の演技水準について意見を求めたところ、シンガポールでは尊 劇が最高水準にあり、同州会館ほ高い芸術性を維持しているという。 シンガポールの劇団を徹底的に調べるには時間不足であった が、一九七二年二月十九日から二十四日︵新暦︶、人民劇場主催 ﹁地方戯観摩大会﹂のプログラムを見ると、各種の地方劇が維持 されていることがわかる。 岡州会館は広東省新会県出身者の組織で、Ne宅BridgeRd●に面し、KretaAyerRd・とTeOHOn的Rd 中間にあり、設立以来亘二十九年の歴史︵一九七九年現在︶をもつ。同郷人の憩いの場として利用されてきたが、 第二次大戦後は﹁文娯活動﹂に力を入れ、醒獅団・楽劇部・飛車部・群育部・福利の面での組織化をはかり、会 員子弟のために奨学金も出しているが、とくに目ざましいのは楽劇部の卑劇で、卑語テレビ劇は好評を博してい る、云々。︵同プログラム中の﹁岡州会館歴史簡介﹂︶ 飴娯僑楽社は一九一二年に創立され、漢劇愛好家の業余劇団として活動を始め、チャリティー演劇をしていた が、一九四七年に潮州八邑会館に参加し、一九六〇年以後ほ潮州劇の俳優も育て、映画・テレビに活躍してい る、云々。︵同﹁飴娯儒楽社簡史﹂︶ 夜風開劇団は一九五七年に、閏劇の研究団体として設立され、俳優の養成に当っている。︵同﹁横風閏劇団成立 簡史︶ 境南音楽劇社は、戦争で各地に散った俳優を集め、一九五〇年代に填劇︵海南島劇︶の再興に当った業飴劇団で あり、一九五七年四月二十七日に正式に発足した。六一年になって﹁演員訓練班﹂を設立し、俳優を職業劇団に 送りこんでいる、云々。︵同﹁象南音楽劇社簡介﹂︶ 京劇も戦前は愛好者が多く、Nei−Rd.の広東会館の一角を借りて平社を設立し、抗日戦争中にチャリティー 演劇を行って義損金を集める活動などをしていたが、シンガポールが日本軍によって占領されて以後閉鎖、戦後 いち早く復活し、毎日曜日練習を続けている、云々。︵同﹁新加披平社簡史﹂︶ 人民劇場ほ一九六九年三月に竣工し、ビクトリア劇場、国民劇場と鼎立する形で華人のための劇場という性格 東南アジア華人社会の伝統芸能 東洋文化研究所紀要 老三正順劇団の事務所 第八十二筋 二〇 を強くうち出している。最初ほ露天舞台をもつだけであったが、六 九年九月二十七日に正式の認可をうけ、募金をして屋根をふき、床を 板張りして第二期工事を終えた。︵前回参観した時はこの状態であった︶ に着手し、今日見られる近代劇場 劇場周囲之公路与停車場、 一九七一年五月に第二期計画が完成すると、直ちに第三期計画 − − 燈光及播音控制室、三 其他劇場内の各種設備 一椅子、二 四 となった。その間にチャリティー演劇が十数回にわたって行われて いるが、なかにはインドの映画スター出演、ドイツ大使館主催の魔 術大会なども含まれている。 こうした劇場演劇は、﹁票友﹂︵素人愛好家︶による上演が多く、職 業劇団にしても興行演劇に移行している。我々の調査目的とほ合致 しないが、劇団の歴史を調べるためには有力な情報源である。 古い劇団、たとえば老三正順劇団などはシンガポール河畔に現在 も事務所を構えているので、直接的にはこれら職業劇団を調査する 方が効果的であろう。 しかし、一般に民間地方劇は人気が下る一方で、見てわかり、聞い、て わかる人は多いが思想が保守的なので、﹁歌台﹂やテレビドラマの方に 福邑公建普度の紙船 東南アジア華人社会の伝統芸能 若い人の好みは移っているという。香港でも同じ傾向が見られるが、 これが一般的な風潮なのであろう。 若い人に、﹁地方戯ほ面白いか﹂と質問したら、﹁様板戯の方がよ い。よくわかる﹂という返事であった。・そこで、人気が落ち目の地方 劇に執着する理由を質問したところ、﹁政府は、学校を英文と華文の 教育にわけており、その卒業生は物の見方、考え方がまったく違って いる。伝統的な礼節を保存し、戯劇を維持しようとする人ほ、子弟に 華文教育を受けさせており、地方劇はそのためにも重要である﹂とい ぅ。但し、京劇はまったく人気がないとのことであった。 劉果因氏とペナンで旧いものに対する青年の反応について、同 じょぅなことを話題にした際、劉氏の意見では、英文教育をうけ た人は、中国固有の文化に強い関心を持ち、華文教育をうけた人 は無視する、という正反対の結論であった。その原因ほマレーシ アで華文教育に当った人ほ、﹁新学﹂の教育をうけ、辛亥革命後 の反動期に脱出してきた人が中心勢力を形成し、反迷信教育をし たからだと考えるとのことであった。シンガポールとマレーシア は隣接する国であるが、華人とマレー人の人口比率や国内治安、 二一 東洋文化研究所紀要 奈河橋を渡る櫨主 第八十二筋 二二 国策等で、かなり違った方向を目ざしているように思われるの で、こうした情勢がかなり大きな要素となっているのでほないか と思われる。 ︵祭柁の行事︶ 仏前で納経の順序に従って和尚らの読経が行われる。・居合わせた男 女が礼拝することがくりかえされる。 七月二十七日は、﹁超魂﹂のために﹁放水燈﹂が行われる。三時半 になると、和尚らを先頭に、神像・供物・線香を捧げる男女が、仏前 金橋と銀橋を含め 表示無罪﹂という意味を − の間を通って奈河橋を渡る、のくり返しであ これは三十三天と十八層地獄の中間を埋める建 − − から奈河橋を渡り、神殿を廻って拝天台のわきから紙姶のわきを抜 け、仏壇と中金壇 物との説明であった − る。この奈河橋を渡るのは、﹁如果通過此三橋 て三橋といったが、この両橋ほ渡らない もつのだという解釈であった。橋の神の信仰によるのであろう。 四時になると、燈・旗・祭壇・紙船二鰻・僧侶・炉主・楽隊−11ド ラ、欽、太敢−−線香を捧げる男女の順で、祭場を出発し海辺へ向 ぅ。海岸は貨物の積降ろしのための埠頭なので、許可がなければ入れ 海辺での﹁放盆﹂ 東南アジア華人社会の伝統芸能 ない禁区となっている。現地の人はIDカード、それ以外の人ほパス ポートが要求される。行列を組んで禁区に入って後、バスに分乗して 海辺へ向う。海岸の高台に祭壇を設けて和尚が読経し、最後に供物の 米飯を浜へ向けてぶちまける。海辺でほ、男女が手にした線香を立 パラフィン紙に蝋燭を立て海 が行われ、潮の流れに乗って入江の対岸へ漂う。最後に紙 − て、供物を並べて礼拝する。盛大に泣いている婦人は、昨年身内を失 − ったのであろう。海面には﹁放盆﹂ へ流す の船に紙銭が積みこまれ、火がつけられる。 この行事は、沿海ではどこでもやっているが、主として福建人の儀 式であるという。 もとの祭場へ戻って、食事をすませると、三十七種の異った供物が 大士爺に供えられる。これを﹁荻口﹂といい、そのあとで炉主を加え て盛大な読経が行われ、施餓鬼の行事ほ終りとなる。 この日ほ、光明山普覚禅寺でも盛大な祭があるということなの で、午前中に行ってみたが、スクール・バスを連ねて参詣人が来 るが、とくに変った様子は見られない。参詣人のことばは広東語 であったので、広東系の寺院かもしれない。 二三 東洋文化研究所紀要 火をつけられた紙船 第八十二筋 二四 − 唐の李世民 七月二十八日は、午後四時に会員に﹁礼物﹂が配られ、七時に﹁酒 会﹂が始まる。昨日まであった仏壇、中金壇・大士爺 の時代に、﹁観音大士無法管理孟蘭勝会、変身大士爺、然後管理﹂と素 ー などが片肘けられ、そこに宴 性の説明をしてくれた。法会の終了後、冥界から釆た亡者を連れもど す役割をもつのだということである 席が作られる。席数を数えてみると、ざっと八百人くらい、西洋人が 一組招かれてきていた。次々に料理が運ばれる中で、﹁標福物﹂が始 まる。 ﹁都緑首﹂四五〇〇ドル、﹁副緑首﹂三二〇〇ドル、﹁預緑首﹂二一〇 〇ドル、﹁助緑首﹂A二二〇〇ドル、同B二〇〇〇ドル、同C二〇〇 〇ドル、﹁福緑首﹂二二〇〇ドル、﹁禄緑首﹂一八〇〇ドル、﹁寿緑首﹂ ﹁緑首﹂の意味を質問したが、﹁都﹂ほ状元、﹁副﹂ほ宝︵傍︶眼、 三〇〇〇ドル、﹁書経首﹂二五〇〇ドルまでせり上って、寄附を申し 出る。 ママ ﹁預﹂ほ探花。﹁助﹂以下は進士である。いずれも﹁闇王有奉職 位給他﹂であり、孟蘭勝会に﹁出力、出銭﹂するのであるという 説明であった。 ﹁標福物﹂ の情況 東南アジア軍人社会の伝統芸能 二一〇〇ドル、﹁天 ついで﹁燈籠﹂A五五〇〇ドル、同B二五〇〇ドル、純金の打物A 二六〇〇ドル、同B三〇〇〇ドル、﹁観音大士像﹂ 公燈﹂一対三三〇〇ドル、﹁燈・合家平安﹂一対一〇〇〇ドル、﹁燈・ 神馬第一奨﹂一、000ドル、﹁額・金玉満堂﹂四一八ドル、﹁観音大士 像﹂五〇〇ドル、﹁額・財源広進﹂六〇〇ドル、﹁感天大帝﹂四〇〇ド ル、﹁観音大士像﹂四〇〇ドル、﹁関公﹂四〇〇ドル、﹁大伯公﹂一〇 〇〇ドル、米一袋A五〇〇ドル、同B一五〇ドル、同C一六〇ドル、 ⋮⋮と続く。 せりほ、年輩の人ほ福清語、若い方ほ関南語、時々北京語もまじ り、﹁釆、釆、釆!﹂とせき立てながら、僧を釣りあげていく。せり 落とされると、﹁熱烈地鼓掌﹂とか﹁多多鼓掌﹂と叫びながら、ドラ を打ち鳴らす。 翌日も続けたが、目ぼしい品物ほ第一日であらかた売りつくしたよ うである。これらの値段は相場より高いと思われるので、念を押して みると、神の物のありがたさを買うので、これを買うと商売ほ繁昌す るのだという。共同体への忠誠度がほかられているという感じがする ので、別の人に尋ねてみたところ、これによって地域の信用が得られる 二五 東洋文化研究所紀要 第八十二筋 ので、高利貸から借金して払う場合もあるということであった。 七月二十九日の﹁標福物﹂は、マイク・スピーカーを取り外し、弁事処の人たちが交互にせり落している程度で、 一方で福州戯が上演されているが、行事の山場は越えたという感じである。 八月初一日は、夕刻から神像や炉を片肘け始め、質問に答えてくれていた王志才氏が多忙になったため、片肘け先 など確認できなかったのが心残りである。廟を持っているのかどうか、どこかの廟に預けているのか、あるいは炉主 ○ × 前回の報告は、田仲一成氏の教示により以下の個所を訂正する。表︵20ページ︶上欄、後より3行目﹁楽当老区﹂は﹁楽富 ○ × ○ × の家におくのか、来年の孟蘭勝会までの期間の結束の持続のしかたは宿題となった。 注 0 老区﹂。下欄、後より2行目、官塘保慶管壇﹂は﹁官塘保慶愛壇﹂。表︵21ページ︶上欄、1行目﹁石峡尾﹂は﹁石碗尾﹂。下欄、 5行目﹁葦社﹂は﹁義誓社﹂。9行目喪滴﹂は﹁管涌﹂。 付表 H 備告の文章は、冒頭が﹁謹訂﹂﹁謹定﹂﹁謹唐﹂﹁請渦﹂﹁洞﹂﹁揮走﹂等のパターンにわかれるが、﹁揮定﹂が﹁壇﹂の備告であ るのを除いて、本文に示したものと大差はないので省略する。なお﹁合衆社﹂﹁聯誼社﹂は﹁合社平安﹂、﹁壇﹂やギルドの場合 は﹁合境平安﹂とする区別が見られる。関係者の居住区域の反映であろう。 中元節︵農暦七月︶ 日 時 劇 団 老一枝香班 老栄秀春班︵清唱︶ 初一、二、三 初一 青葉玉楼春 鳳風流動歌台 初三、四 初八、九、十 初七、八 初五、六 初五、六 織雲潮劇団 天鷹卑劇団 蝮聯声劇団 新潮芸潮劇団 老賓桃源班 初四 初九、十 十一 老三正順劇団 熊荊荊歌劇団 初十 十一、十二 東南アジア華人社会の伝統芸能 名 催 麦加商社 者 天后聖母 莱仏土旅店徳土地 藍谷符合衆社 ︵永万生大号加演︶ ︵真記花店加演︶ 摩士街孟蘭勝会理事会 小披重囲衝 桑野社 励習合衆社 東陵待合衆社 吻基柴船頭社 摩境目蘇丹律 後把蜜合衆社 主 水廊頭・克里門検・登律 兄弟公 七 劇 種 潮 潮 潮 潮 尊 卑 卑 ? 潮 潮 期 間 天 晩 天 天 天 天 天 天 天 天 晩 暁 天 東洋文化研究所紀要 鴬燕聞劇団 第八十二筋 十三、十四 歌台 十三 十五、十六 天鷹卑劇団 宿菅歌劇団 十四、十五 十八 新慶草間劇団 *l 十九、廿 廿一、廿二 老三正順劇団 ︵歌台︶ 老黄桃源劇団 新慶草間劇団 金聯発歌台 草 間 潮 闘 潮 閑 潮 廿一、二 廿二、三、四 廿 廿 廿 四 四 三 宵 天 天 天 天 天 天 晩 天 天 天 集衆社 須涯律区大公司 威蘭聯合社 諮管聯合孟蘭勝会 水廊頭聯誼社 育英丹街・巴沙巷・畢街 ・購街 水廊頭・克里門検・登律 集衆社 紐頓圏熟食小販 巴沙巻聯合社 吻基十八渓囁区 合衆社 八 廿五、六、七、 新慶筆問劇団 八、九、八月初一 福州楽峯天班 金竜歌台 老三正順劇団 陽光歌劇団 新麒麟劇団 新芸軍歌台 日月星賞中班 老賓桃源劇団 双飛鳳高脚隊 南芝闘劇団 丹戎百葛福邑公建普度 海陸起落貨㌶社 海関街聯合社 披沙街合衆社 四馬路徳示鈷慶中元会 珍味坊徳土地 聯合商号 司機 倶楽部中元会 合社 棚管欄管合理事会 中谷魯 中谷暑 戯館街両頭社 畢街小公司 律 商三徳 聯軍士 廿五 廿八、九 廿八、九 *2 廿九 廿九 廿九、八月初 一、二 東南アジア華人社会の伝統芸能 美 芝 天 天 天 晩 天 宵 天 天 六 七 ヽ ヽ 廿 廿 廿 廿 廿 七 六 六 五 五 閣議盃潮 東洋文化研究所紀要 第八十二筋 ほ、日数の確認を怠った。 怖告の用紙が破れていたので確認できず。 木偶戯︵布袋戯︶ 聴講旋音歌ムロ 助興二天 大規模の歌ムロであったらしい。怖告の全文は次の通り。 慶祝中元 司儀 依琳、陳雲 夢者大楽隊、白熊大楽隊、彩霞女子楽隊、︵印度︶庭内新星大楽隊 港・ムロ・星・馬・印 呂達 陳建彬、 馬文妬 侃渉 南官雁 藍桜 水銀銀 鍾侃玲 梨川、 陳彩珍、 呉剛、 林鳳玲 察沖、 紫凌、 黄清元 夢華、 方雲、 林業敏 雷蜂 雷奇 陳金波 菓玲 劉美挙 陳慶撃 鑑潔、 方羽、 黄妙君 陳美光 葉新和 陳佳佳 付 表 二 洪小凌 先棒儀 唐妬 李進才 藍小玲 華玲玲 蘭花姐妹 張乃鳳 周黛蘭 荘芸 双玲姐妹 美辞撃 陳如君 林楓 上官琳雁 李撃革 李憲玲 張頸 謝竜雑伎田︶ 紅麗姐妹 杜氏姐妹 明珠姐妹 王梅 ︵香港 会務顧問 会督一、 国会議員 二、 正財政一、 三一 副人情部主任一、 副総務一、 一、 羅賓 唐欣 江峰 律師 正総務一、 正人情部主任一、 月拍毎伶四伍元伍角︶ 副文喜一、 副主席一、 法律顧問 珊珊 謝天 横城、日本街豊日本新路、孟蘭勝会 − 頭家 四、 副炉主一、 − 公元一九七八年至一九七九年度 炉主・頭家・職員 正炉主一、 正主席一、 正文喜一、 法人五、 法人一、 査嬢一、 主席 個人一、 政一、 協理員 個人一二、 本年潤六月全年一三個月 四六、︵一九七伶︶ 金 具︵毎名月網三元五角 個人一五一、法人 東南アジア寧人社会の伝統芸能 副 名 財 誉 東洋文化研究所紀要 注 法人会員の職業 第八十二筋 理髪院一〇、茶室一〇、飯店 七、貿易 三二 法人 三、英行一、雑貨一、印刷一、広告一、洋 法人︵一︶、一〇〇元 二、不明一、︶ 正主席︵一︶ 四、有限公司 頭家︵二︶ 七︵記 正炉主︵一︶、二〇〇元 服一、美術一、皮革商一、皮革工場一、その他 戯金楽梢 六〇〇元 名誉主席︵一︶、三〇〇元 七五〇・〇〇 五六〇〇・〇〇 五〇〇・〇〇 麗声卑劇団 陳清水搭棚費 三三四・五〇 二四〇二・八〇 記桧香紙庄大士公一単 二三七・八〇 溢景稽宴金一単 金星電器一単 四二七・〇〇 一一九二・〇〇 呉華林生業一単 新泉成︵香、燭、酒、汽水︶一単 七二七・一五 一七七・〇〇 幸運奨︵拍風扇、電焚、各一白鴎噌麺一二金︶ 球利金精一単 福興号津南 支出 計三九五二・三ドル ︵一︶ 無名氏︵一︶、五〇元︵一二︶、三〇元︵三︶、二〇元︵三一︶、一二元︵一︶、一〇元三角︵一︶、一〇元︵三九︶、五 元︵四七︶、四元︵二︶、三元︵九︶、二元︵二八︶、一元︵四︶ 一二一九・〇四 五三・〇〇 三二九三・〇〇 九四三・五〇 三九五二・三〇 一〇・五〇 八九六三・五〇 九七九・三八 注 二〇〇元の法人は一九八〇年度の名誉主席 収入 承上年給存 会員月桐 会員中途退出 戯金楽拍 神壇香油箱 香油楽網 漠民学校募桐箱 宴会点唱楽拘 五〇〇・〇〇 六三・〇〇 酒席券 一七五・七四 楽網行違奨現銀 合衆銀行利息 徐作能紅包 海貴様宴会音楽助興 工作人員福食一単 一六〇・〇〇 一三〇・〇〇 一五七・二五 二万一五二・九六 九七九・〇〇 人情部収入 承上年給存 四五・〇〇 羅洪恩綜檻一単 二三四・八〇 七二・〇〇 全平香餅家一単 一〇〇・〇〇 排椅位四日費用 拾椅轍運︵畷哩車費用︶ 四八・〇〇 二五・〇〇 二四・〇〇 四・〇〇 瑞和師父開光 二四・〇〇 日本街二三号搭木架一座費用一単 楽拍明徳行ヰ片一単 春草印務局︵全部印︶一単 出席梼区代表 四〇・〇〇 四五・〇〇 二〇・〇〇 七七・七〇 九〇・〇〇 二〇一九・〇四 数火機︵二支︶一単 二二・五〇 三三 銀行費用 楽掲︵漠民学校重建基金︶一単 広同和電晒一単 雷普新号︵刻金較勢一把︶ 炊熟維一単 怖記号大蝋四対一単 六六三・〇〇 一六四二・五〇 〇・五〇 人情部月指 部員中途退出 計 東南アジア華人社会の伝統芸能 東洋文化研究所紀要 第八十二筋 三四 義和号︵藤二支︶一単 高仲候号︵彩球・彩帯︶ 栄商号︵放生銭︶一単 一二・四〇 一五・〇〇 一四・〇〇 六・〇〇 三四・三五 遠興号︵角木条六支︶一単 四三・六五 文具雑費 万隆姻草公司︵香姻四条︶ 五七二一〇 五四・〇〇 八包紅包 一〇・五〇 成発号承印上年度賎目単 興利号︵金較勇一把︶ 一二・〇〇 八・〇〇 茶水費用 光寧日報一単 四・〇〇 二七・〇〇 東方美術複印紙 五〇個塑膠牌 二〇・〇〇 一五一・八〇 楽掴︵牛干冬睦郷計画中心︶ ママ 新旧職員交待宴会︵海景楼︶一単 一万六一五六・九四 本年度支出 総共 本年総収入 承上年結存 三九九六・〇二 一万六一五六・九四 二万一五二・九六 一万九一七三・五八 九七九・三八 孟蘭勝会進支脹目︵一九七九年︸ 本年度結存 九七九・〇〇 人情部 承上年給存 六六三・〇〇 〇・五〇 二八〇・〇〇 一六四二・五〇 一二・〇〇 一三五〇・五〇 二九二・〇〇 本年度結存 白米二包 五件 東南アジア華人社会の伝統芸能 * 五三四六・五二 * 本年度弐条総結存 総共 支出 花圏一単 支出 爵金人名 総共 中途退出一名 本年総収入 * 孟蘭勝会︵一九七九年︶熱心商号堂人士拍白米餅干等 * 東洋文化研究所紀要 白米一包一九件 牛新一箱一件 同楽摘草運奨品 第八十二筋 法人四増、文書 三三件 中文と英文にわけ正副各一︵二名増︶、協理員 現金一三件 品物︵煙草・魔法瓶・サングラス・カセットテープ・黒ビール等︶ 一九七九年至一九八〇年職員 録 会務顧問一名増、名誉主席 付 蘇月撃女士との会見記 ︵一九七九年九月二十九日︶ − 従小時代的履歴、 個人一、法人四増。 − ︵根昔肝!︶ ︵有、有。︶ − 請 請把這 − ︵問︶我椚狽菩歓看戯。在日本没有機会看到中国的地方戯、所以泥、現在我椚釆星加披看地方戯。還有我椚的目標要研究星加披 的人喜歓不善歓看地方戯、他椚看戯反映忠磨様。還有陀、蘇月華女士的過去的 − 差不多是一九四九年、五〇年我就正式開始学戯、 給我椚清一講肥。還有、当倣演員要具有甚磨標的条件、練習的過程。蘇月琴女士応該有師博昭。 様的関於戯劇的一切話、講給我椚聴。 我牢⋮︰好像是一九︰⋮・好像是没甚磨注意的枇! 先把自従出世以来到現在的過程、請給我椚講一講⋮⋮。 ︵答︶我的経歴根苦肝! 当時因為我椚的家裡根昔、環境完全狽不好、所以我希望能移出来宮忙工作費家庭的、而且従小対戯劇狽有興趣。這様、我就第 一、次参加﹁南蛮民︵閏?︶劇団﹂ ︵問︶当時幾歳? 因為践老板打合同、一個月只是二十塊銭。毎一天的早上岡、差不多足六点我椚就起釆練舞了、練 ︵答︶当時⋮⋮当時決定演戯的時候、読書不算、正式開始十四、五黄的時候。 ︵問︶加入民劇団開始、以後泥? ︵答︶講最初練習根痛苦冴! 練打筋斗、不過這個年齢己経不能的了、有時候呵、学得腿黒了、腫了、連縛下去都没弁法膵。大概是在十点的時候、就有東西 送如俳或者是2計siLema或者是麺包。這様給我椚吃早飯。十一点練完、我椚就再練唱歌和跳舞、打鋼琴、遣様練一個多鐘 − 快楽世界艇、大世界椒、実世界等等。 頭、就休息吃飯。吃飯了就練琵琶。練完了琵琶、練得不好了就挨打。差不多練一個鐘頭酎。郵個時候間、狽少演出拝神的戯 間。郵個時候時常済世界裡面的戯 ︵問︶都度、練了幾年之後、才可以当倣独立的角色? − 看人的一種天才。有一些入学了十多年還是老様子。有些人学得 ︵答︶這様呵、最初的時候先練陀、一直練下去了、直到晩上岡、就化装演戯。都度、有空間的時候呵、必須脹老板洗一些上台的 大衣、囲巾要舎去洗、這様一直倣。道程演戯要看人的天才 比較快、好像我学了四個月、可以登台正式演一個角色、我比較有天才。這様演戯的時期呵、就受到老板的管束。好像休要買甚 駿東西、休要去卿裡、必須要告訴他、不可以随随便便就航人家一起去。因為如果給人家帯走了、他責任根大、所以我椚根不方 便。 這様最初的演戯冴、甚麿都不憧唱。如果在ム口上呵、好像演得小兵呵、要小心不要措任那個大角色了。都些会演戯的人的台歩 艇、如果措到他了、他就順便全都個馬鞭泥、這様打。伽如果舎邦個官刀給他、仰措到他的脚歩、他的去路、他就用官刀打件。 − ︵日本的歌舞伎也有類似的情形。︶1這様、好像我僧泥、家庭的背景不好、我椚一定要好好的学。学一種学塾、要庶倣 有一種経験的人、自己自安慰了。我椚有一套戯﹁王宝釧﹂。地的丈夫呵、去打戦十八年以後才回釆。地在那個寒害裡面吃桑菓 了。這様渡過十八年枇、自己安慰自己。 東南アジア華人社会の伝統芸能 第八十二筋 伽在嘲裡生的? 東洋文化研究所紀要 ︵間︶伽府上在耶裡? ︵答︶馬六甲。 ︵間︶件父親、母親都是福建人鳴? ︵答︶父親是福建人。 ︵問︶福建的研一個県? ︵答︶南安、是従中国釆的。母親是潮州人。 ︵間︶蘇女士的家庭、本来以前没有践倣戯的関係、是不是? ︵答︶没有。我対戯劇狽有興趣、所以地方的戯劇釆到馬六甲的時候、那個酬神的戯、我就去看。看了以後、心裡就想馬上就想学 戯。這様我参加了﹁南蛮民劇団﹂。 ︵問︶灘甚磨時候可以当主角了? ︵答︶主角没有道産快峨。参加劇団五年以後、応該是我椚可以演了。至少枇白天戯我椚可以当主角。因為泥、白天的戯比較没有 人看、所以我椚就這様学起。不遇応該我椚的薪水是要昇、可是老板他不給。五年以後、他還是不給。後来就父親来談判、然後 就一天変成四塊銭泥、一個月就有百多塊了。因為郡個時候学戯根専制、老板対︼切有力量。現在不一様了。小該子、休不能移 地今天白天要演戯、不可以来。地此我椚更苦闘! 弛泥、四、五歳就学戯。従小的時候、地的父親、母親 多講他、休如果講、他可以不要倣、他這裡不要請他、別的戯班可以請他。 許変革唄⋮⋮ 也是清戯的。不過、弛的父親和母親的意見不合、他椚夫妻分居了。弛父親就将地狽小就交給他的祖母了。這個小該子学得狽 快、将来弛可以頂得上圭角了。人家要甚靡就有甚頗都学過。 ︵問︶地是件的親戚嘱? ︵答︶没有親戚的関係。不適地的母親喰、地的母親、従小就践我在席六甲一起長大的、所以我椚一起釆学戯。我早地幾年、早地 三年。 這様我椚継続下去、一直演戯了。這様、如果遇到這個男女主角有甚歴生病、養該子、或者是探親、或者是意外事情了、 Yai︶、我椚 我椚拉進去当主角了。当他椚回釆的時候、再不能移演圭角。這様時間、就這様抱釆抱去、我学得差不多十年、然後才能 角。十年以後、我差不多二十六、七蔵了。 ︵問︶現在請把伽椚劇団的一年間的計画、誇給我椚聴。此方某某節日清某某戯。 ︵答︶劇団陀、如果在正月的時候、就比較有点忙喝因為二十九、我椚就停演了、正月農暦年三四、我椚就開始演戯。両場有時 間演到、三場有試過。玩到印尼︵IndOneSia︶椒、牧釆︵Brunei︶馬尼泣へMani亘或者是泰国都一辺合文︵Hat 三月差不多這様喝四月也是差不多、五月就根好了。五月、六月、七月 有試過清三場的戯了。正月比較好、郡磨二月就比較小月。二月、戯有是有了、但戯少、而且泥、人家酬謝神的時候少、 少、請我椚去演戯的銭少、這様、老板比較鹿本泥! ⋮⋮七月是最好了、最好是七月。七月泥、因為人家孟蘭勝節紀念日蓮救母、躁日蓮超渡是七月喝日蓮泥、他的父親死了 的母親狽壌、遵狗也殺釆吃、遣様就犯到都些神就打到十八地獄了受苦。郡庶、日蓮泥、現在的地蔵就是日蓮、所以毎逢 就番目蓮超渡。人家拝鬼神甚磨、就是説、像日蓮這歴、像孟蘭節、中元節喝這棟這個月的時期児、如東平常泥、平常両 千五、在七月両天就是三千六、多出一倍多。八月就是中秋節喝算是、也是応該狽好了。不過没有七月伶邦璽同的価銭。 月、九皇節約戯、也是狽好。十月、十一、十二月就差了。尤其是十二月、最多是十多天的戯。十二月二十四、我椚華人 了、没有戯。正月初四神又回釆。 ︵問︶件椚除了星加披以外去耶個地方?・ ︵答︶狽多地方。聯邦︵Ma−aysia︶、現在要道個護照比較手続麻煩、不過我椚現在進聯邦的限制旅行椒、我椚去演幾天、去三四 天就回去、最多是一個礼拝、而且去得不遠、Batubaba。在過去我椚泥、如果没有戯的時候、我椚会過去、此方説、Sandaka。、 lakaruta、也去過。 東南アジア華人社会の伝統芸能 東洋文化研究所紀要 第八十二筋 ︵問︶侮椚的演員都是福建人嘱?・ ︵答︶不、好像我椚的演員泥、在台上用的全部都是福建話、不過、甚至印度人也参加我椚的演戯、不過他是徴兵、他学久了也会 講福建話、不過他根黒、他可以演小丑、他会演得根好。還有、広東人枇、潮州入野⋮:根多野。台上一定要請福建話。 ︵問︶都度音楽隊陀? ︵答︶我椚大多数分両種。二胡、洋琴、sa誓phOne、C−arinet︸参参。有時候休演這個江山美人喝参参西楽配合官的戯劇。音楽 是要配合戯劇的。 ︵間︶伽椚表演的時候、都同一個楽隊嘱? 此方説七月伶演甚靡、八月伶演甚磨。 ︵答︶没有固定的。不適有一些有固定的也有、.不遇根拠劇本的微少。 ︵問︶倣戯有没有固定的内容? ︵答︶劇目是没有固定的。不過、表演的劇目、好像研一月就演研一月的戯、属於研一月的神纂近一些。七月是神戯。 ︵問︶仰椚劇団的団長也同時当倣櫨主嘱?・ ︵答︶不是、不是。丹戎百葛的演戯呵、郡辺的櫨主請我椚去。他事先根我椚接沿好了、決定了時間、日子、然後我椚告訴我椚的 演員、把他椚載到台上、我椚載到邪神就演到都裡。我椚必須護送他椚去、這横道個嘘主必頚要践我椚通知好。嘘主是請戯的人 泥、請我椚去都辺演戯的人。燵主是信神的人、而又有経済能力支付出大戯的演出。若経済不允許、但有号召能力、能群集大衆 付出一筆可観的銭釆応付戯班和廟会的用費的人。 ︵問︶ ﹁廟会﹂、這是甚靡意思?・ ︵答︶廟会珂、就是這磨講珂−我椚時常演的就是廟会。好像這個神吋、好像観音誕、観音的生日十九、有一些人也倣初九、有 一些人就倣二十九、這様他椚就会集在廟都辺泥、帯我椚的戯去演、道程叫倣臍会間。好像毎一個臍呵、官裡面的神泥、有的是 包公枇、霊水夫人轍、耶咤椒、観音嘩⋮:廟戯就是廟会︵biOhue︶喀。 ︵問︶這個廟会、根節日没有関係嘱? ︵bむbiaNti︶在七月裡面河、毎 ︵答︶郷裡会没有。有、一定有。此方説、郡個村的習慣説、風俗是二十幾倣、侮椚就会集在廟都辺、挙行大日子慶祝。 ︵問︶休椚劇団有没有導演? ︵答︶有、有。好像我本身也有導過演、有時候我椚分班。拝這個神明、福建人説是﹁好兄弟﹂ − 第一 一個人都要拝這些鬼舵。有些人争先恐后的、好像拝不到、就不好ア、所以毎一個在請戯。有時我椚的戯呵、没有了酎、他就要 求我椚分班岡、有時候分到三班也有可能、這様我椚去演呵、這棟毎一個班一定要有一個導演耶。我椚的戯本是這棟間 ︵taiのOu︶椒、台数就是戯本、戯本就是台数。此方説、戯本 場出誰、第二出甚庶人、甚庶人、官的情形是忠歴様、忠歴様。如果要演的時候、就把大家叫釆、休演甚磨、休演甚靡、択他講 一遍、郵磨有一個郡個ム口数、我椚福建話叫台数枇、就是﹁台数﹂ 間、要毎一個言詞請出釆、不過我椚台数没有。此方説、第一台這様隔出来、出一個﹁山﹂字其某名、某某名、忠戯様、忠贋 − 陳柄雲泥。遣様毎一個人叫他倣 様。第二台出道個﹁庁﹂︵t療喜︶某某人、其某人、体忠様。第三台、侮忠様、出﹁山﹂或是﹁打架﹂、或者﹁打戦﹂泥、打究、 出其某人、某英人、第四台・⋮︰。 ︵問︶導演也会倣戯鳴? ︵答︶一定会、一定要演戯、裡面毎一個角色、他都会演。 へ問︶伽椚的導演是誰? 不是一個人? ︵答︶我椚的導演裡面泥、好多個。 へ問︶好多個? ︵答︶好多個、最⋮⋮老導演陀、他的名字是姓陳泥、他的名字陳老排間。他的蛮名是陳柄雲 ﹁老排叔﹂・︰⋮﹁叔﹂︵tsek︶呵、因為他是長輩、郵磨、裡面遺有一個導演、就是姓林。林招治。 ︵間︶他是老頭児嘔? 東南アジア華人社会の伝統芸能 東洋文化研究所紀要 第八十二筋 ﹁西秦戯﹂喝 ﹁白字戯﹂枇? 侮椚福建戯、有甚歴様的種類? ︵答︶不是老頭児、他是演花旦的。還有一個姓許的。好像是許中元。許導演泥。就是這様的。 ︵問︶伽知不知道﹁正字戯﹂喝 ︵答︶我椚没有聴過。没有這様的区別。演甚磨戯、尽量用甚麿像地方言語的語。 ﹁加冠進禄﹂︵Kak仁aミsin−i。k︶。用木頭彫一個自白的面。他的意思就是説、先﹁跳﹂、﹁跳﹂就是 へ問︶休椚倣劇的邦頭一天、抱着一個用木頭倣的小宝宝送給神、都是甚靡意思? ︵答︶郡個意思就是説呵− 表演、﹁跳加冠﹂就是説﹁加冠進禄﹂呵、這様、年牛歩聖書同昇、希望天下太平、大家高興。帯戯的人命運好、一路風順 他椚的合境平安、根有意思。這様的話、在他的廟、人会平安、神也喜歓。送木頭的小宝宝達有一個意思、就是説、需要児 好像説、誰希望有孫子而他的太太没有孫子的軍送木頭給地抱、可以祈祷、明年可以添丁了。這個狽重要的、有根大的意思 有時候十二点鐘正体得去、二早就一点、両点開戯呵⋮⋮。有些没有計璽蔓喝好像要開戯的時候、休跳這個加冠給他送這 個小宝宝去、有些人不要他要掟早。 ︵問︶伽椚有没有固定的戯院?・ ︵答︶没有固定的。 ︵問︶伽的ヰ片上写的﹁光明戯院﹂陀? ︵答︶郡是露天電影戯院、在巴爺礼谷︵PayaLebar︶、我椚策近郷辺演。 以前的学戯的小鼓子泥、微音、処処都受到老板的管束。可是現在不同様。現在政府肝、労工部、他可以cOmp−ain。伽好像 不到十八歳、他没有自立。老板会打他、同時欺負他、所以毎三個月要験一次、他身上如果有打傷的話、安城老板算購、現 演戯呵、老板不可以打孫子了。所以以前的小該子峨、有差不多八年了。他頭脳狽快呵、背景好了、好像戯班銀地有.親戚的関 係、他根快就可以起一個文武双全的角亀打琵琶甚磨都憧、八年就可以ア。現在的孫子、二十年了、没有弁法起一個正式的 色。道程也可以説、好像有人説管教呵、他是苦締出釆的、才可以成一個正式的演員。給他清文、可以武、可以翻蛇頭、、 都可以。現在的該子不可場。因為他没有苦練、因為受到這個政府珂、労二部的干渉、小該子絶対不可以打、不可以勉強 日本有没有好像我椚這様的地方戯岡?−1︵我椚日本、地方戯也可以説現在没有了。本来有、現在没有了。在日本喜歓看地 方戯的人波有了、所以在日本地方戯消滅了。這是日本的情況︶。・−−−這是這様。不過我椚星洲珂、喜歓看地方戯的人也巳経根 少了。根少根少。 ︵問︶不過、都天晩上、人比較多肥。 ︵答︶因為岡、我椚這個地方呵。這個KampOng︵郷里︶呵、属於這裡的、要拝這個神的入金部都会出来、所以才有人。現在我 椚清福建戯、以前陀、七点半演到十二点、現在七点半00ーart差不多八点左右珂、唱歌、流行歌曲、BandbOy・唱歌台上唱到 九点、然後九点開始演大戯、演到十一点半。以前没有這様的。七点半開始演大戯到十二点、現在巳経要蓋了。潮州戯己 了。少而少之了。広東班也根少了。 ︵問︶請問、郡天晩上的福清人、他椚請休椚倣戯、這是偶然的或者是⋮⋮? ︵答︶固定的。毎一年邦天晩上演売、他就践我椚合同、明年再来演、都個日子一定要釆倣。 ︵問︶休椚在郷裡、演了幾年了? ︵答︶差不多演了六年了。所以差不多是固定的。好像我椚此方説、人最好有的時候也有口角了。正如我椚有時候根底主也会口 ︵謝謝! 伽今天特地抱到這老遠的地方釆、並且能鯵抽出宝貴的時間︶。1︵完︶ 角、如果有口角了、心裡有点児不満意、件不請我、我也不会去倣、他請別人、我椚也去別地方倣︰⋮・。好、時間到了 起、以後有機会我椚再談。− * 聞きとりは、蘇月琴小姐と郭鳳福氏の二人の俳優について行ったが、この会見記の︵答︶は、すべて蘇小娘である。 星洲日報社論要員の阜南生民に同席してもらって援助をうけ、テープ・レコーダーを利用して完壁を期した。筆 嶋氏による。 なお許変革小娘は郭氏の婚約者で、写真を見ながら話題にした。︵三八ページ︶メモによると、団員には海南島人もい 東南アジア撃入社会の伝統芸能 東洋文化研究所紀要 第八十二筋 四四 るということであった。︵三九ページ︶また﹁台数﹂は、俳優の出番一覧表とでもよぶべきものである。・︵四一ページ︶