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シャーローム

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シャーローム
シャーローム
日本基督教団尾張一宮教会牧師 矢 部 節
雅歌 1章1~2節a
ソロモンの雅歌。どうかあの方が、その口のくちづけをもって/わたしにくちづ
けしてくださるように。
雅歌は聖書の中の恋愛歌です。タイトルが雅歌と訳されるのは、中国語訳の
題を受け継いでいるからです。ヘブライ語ではシール・ハッシーリーム。歌々
の歌。数ある歌の中で最もすばらしい歌という意味です。それに「ソロモンの」
と続きます。ソロモンの雅歌というとソロモンがつくったと取れますが、この
歌が作られたのは、ソロモンの時代よりもずっと後の時代と考えられるので、
ソロモンに寄せてつくられた歌という意味で理解するのがよいだろうと思いま
す。では、どうしてソロモンなのでしょうか。伝説では、ソロモンは千五の詩
を作ったとされます。作者不詳の優れた詩が有名人のつくったものとされるこ
とはよくあることです。歴史を学んでいて、しばしば伝誰々という表記に出会
います。ユダヤ人の間では、ダビデもたくさんの詩を書いたことで有名です。
詩編の中にはダビデ作とされる者がいくつもあります。しかし、雅歌はダビデ
のではなく、ソロモンの雅歌と言われます。それは、ソロモンの名に象徴的な
意味が込めらているからです。
ここで、次にあげる語の音に耳を澄ましてください。シャーローム。シェ
ローモー。シューランミート。同じ子音が含まれていることに気がつきまし
たか。シャーロームは平和という意味です。シェローモーはソロモンです。
シューランミートは、雅歌の第7章で「シュラムのおとめ」と訳されており、
この歌のヒロインです。ヘブライ語では、三つの子音が根幹となる意味を担っ
ています。ソロモンやシュラムのおとめが、平和を意味するシャーロームと子
音を共有していると言うことは、二人の名前に平和の王や平和のおとめという
響きがあるということです。はじめに雅歌は聖書の中の恋愛歌であると言いま
したが、ソロモンのと言われるのは、その恋愛が平和に根ざした愛であること
をほのめかしています。というのも、聖書においては、平和は神さまの愛のあ
らわれでもあるからです。わたしたちは平和は戦争がない状態だと考えます。
また、平和は平安とも訳され、心の穏やかな状態も表しています。もちろん、
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シャーロームも戦争がなく、心が穏やかな状態も意味しますが、もっと、充実
した、生き生きとしたニュアンスも持っています。シャーロームは、シャー
レームという動詞の名詞形ですが、動詞の本来の意味は「満ちている」、「補完
する」、欠けがあるものをあるべき状態に回復することを意味しています。そ
して、聖書が伝えてきたことは、シャーロームを与えてくださるのは神さまで
あるということです。実は、雅歌には神さまが登場しません。しかし、この歌
全体にシャーロームが通奏低音のように響いているということは、確かに聖書
として、神さまの言葉であり、神さまの祝福の中で恋愛の歌がうたわれている
のです。外にも内にもシャーロームであるということは、諍いを避けるために
自分を抑えたりはしません。互いに相手との違いを認め合い、それぞれの持っ
ている良いところを生かすことで平和を造り出すのです。男女の間の恋愛も
シャーロームの上に築かれます。
雅歌は表題に続いて、くちづけを求める乙女の思いが歌われます。もちろん、
このくちづけは恋人同士のくちづけです。ただ、古代イスラエルではくちづけ
は恋人たちだけのものではありません。家族や兄弟姉妹、友だちともあいさつ
としてくちづけをします。そこには、シャーロームがあります。ヘブライ語で
は、あいさつの言葉がシャーロームだからです。「こんにちは」にも「さよう
なら」にもシャーロームと言います。そこには、あなたに平和があるようにと
いう思いが込められています。あいさつによってお互いに平和を祈りあってい
るのです。ただし、恋人同士のくちづけは単なるあいさつではありません。あ
いさつ以上のものです。そして、この歌のヒロインは、彼のくちづけを切に求
めています。恋の歌は彼女のくちづけを求める思いによって歌い出されます。
あの方へのあこがれ、くちづけへと駆り立てる想いがこの歌を導きます。くち
づけによって口がふさがれるまで、想いが口からあふれ出します。シャーロー
ムを求めて言葉を紡ぎます。恋する想いが満たされるシャーロームは二人が一
体となることです。そのために、相手を全人格として受け入れなければなりま
せん。シャーロームには欠けるところがあってはならないのです。
全人格として受け入れる姿は主イエス・キリストによって示されています。
主イエス・キリストのくちづけでは、イスカリオテのユダによる裏切りのくち
づけが思い起こされます。主イエス・キリストは裏切りとわかっていて、くち
づけを受け入れられたのです。それは、わたしたち人間の罪を贖うために必要
なことでした。そして、贖いは、シュラムのおとめにも見られます。シュラム
のおとめと訳してはいますが、シュラムという地名は確認されていません。そ
のため、シュネムのおとめの綴り間違いではないかという者もいます。それは
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シュネム生まれのアビシャグで年老いたダビデを慰めるために連れてこられた
美しい娘です。その後、彼女はソロモンの王位を巡る政治の道具として用いら
れます。この不幸な娘を贖うかのように、シュラムのおとめはこの歌では主導
権をもって積極的に愛を歌います。シュネムのおとめに代わって人格を取り戻
そうとするかのように、おとめの方からあの方が「わたしにくちづけしてくだ
さるように」と求めます。恋愛は互いの人格が出会うところからしか、シャー
ロームとして本当の愛を実現する事はできません。相手をひとりの人格として
認めて受け入れるとき、シャーロームへの道が開かれるのです。
2012年7月10日 朝の礼拝
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