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1 使徒言行録 13 章 4~12 節 イザヤ書64章1~7節 「私たちは粘土」
使徒言行録 13 章 4~12 節 イザヤ書64章1~7節 「私たちは粘土」 私は、今年になって初めて、教会のすぐ近くの、友人が開業しているカイロプラクティッ クに行きました。そうしたら、前からうすうすは気づいてはいたのですけれども、そこに行 って初めてはっきり分かったことがありました。 真っすぐだと思って生活していた私の体は、 腰の上の部分から右側に向けて曲がっていました。それによって私の右足は、左足よりも短 くなってしまっていました。幸いそこの先生は、あまり無理なことはやらない先生でしたの で、ゴキゴキバキバキと体を矯正させられるような痛いことにはならなかったのですけれど も、でもこの歪みは一回の施術では治らないと言われ、けれども数回通ったあと、忙しさに かまけて通うのをやめてしまっています。ですから、今まっすぐに立っているようでいて、 私の骨盤はまだ歪んだままになっていると思います。 先週私たちは、 私たちの生き方には二つの方向性があるということを学びました。 一つは、 神に栄光を帰する生き方、そしてもう一つは、自分自身に栄光を帰する生き方です。そして、 神に栄光を帰するとは、具体的には、神様のヴィジョン、神様の将来的な計画に自分を明け 渡すこと、自分の筋をあきらめてでも、神様の方の筋を通すことだと知りました。 今朝の御言葉からも、基本的には同じ問題が語られています。そして今朝は、神に栄光を 帰し、神のヴィジョンに自らを明け渡すということは、より具体的にはどうやって、この私 たちに起こってくるのかということを示されたいと思います。 今朝の御言葉のタイトルに、キプロス宣教とあるように、いよいよパウロの伝道旅行の第 一回目が、ここからスタートしています。聖書の巻末にある、あの宣教旅行の地図の一つめ が、いよいよここから始まっているのです。 パウロとバルナバは、キプロス島への宣教へと、異邦人へと福音を伝えていくという神様 のヴィジョンに向かって、アンティオキア教会から送り出されました。何週か続いて、手と いう言葉が出てきましたけれども、今朝の御言葉にも、11 節で、主の御手という言葉が出て きます。本当に、この使徒言行録の主役は、主なる神、主イエス・キリストです。主イエス はこの使徒たちの時代にも、今の私たちの時代でも同じく、天におられて、この目には見え ないのですけれども、しっかりと生きて、その手を動かして、私たちの日常の間で働いてお られます。4 節にあります、 「聖霊によって送り出された」とは、その見えざる、しかし確か な、主イエスの御手によって送り出されたということです。 そしてキプロス島に行ってみると、果たしてそこには、権力者である地方総督セルギウス・ パウルスという支配者を、救いの子という意味の、主イエスと似たような名前を名乗るバル イエスという偽預言者と、エリマという魔術師の二人が取り巻いている状態が見えてきまし た。偽預言者や魔術師が権力を握っている地方総督を取り巻いているという状況は、どうい う状況かというと、それは、それらのニセ預言者と魔術師が、地方総督の宮殿に出入りして いたということであり、それによって地方総督に対して、恐らく公私にわたって彼らが助言 をし、ある場合には国の政策を占ったりなどして、政治的な力をも発揮していたということ です。ちょうど今、韓国で大きな問題になっているようなことと同じようなことが、ここで も起こっていたということです。 そこで偽預言者や魔術師たちがやることとは何かというと、 それは、真実を曲げることです。魔術を使って、トリックを使って、彼らは黒いものを白と 1 言う、曲がったものを真っすぐであると言ってだますのです。そうやって、真実から目をそ らさせて、まやかす。偽物の、嘘の情報を、まるで真実であるかのように語り、それによっ て人を動かすのです。そうやって彼らは、地方総督を操っていました。 総督は、7 節にあるように、神の言葉を聞きたいと思ってバルナバとサウロを自分のもと に招くぐらいでしたから、彼には真実を知りたいという心、真理を探求する心はあったので す。この地方総督はきっとまじめな人物だったのだろうと思います。けれども恐ろしいこと ですが、まじめで、自分自身で、賢く、賢明に、まっすぐに立とうと強く思う時にこそ、人 間は自分でも気付かないうちに、間違った方向を取ってしまったり、ひどく考え方がこわば ってしまったり、バランスを欠いたりしてしまいます。偽預言者たちはそこに付け入ってい ました。 そこでパウロは、聖霊に満たされ、主の御手に導かれて、魔術師エリマに対して言いまし た。10 節の言葉です。 「 『ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の 敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。 』」 パウロが、主のまっすぐな道、と語っていますように、主の道はまっすぐなのです。けれ どもそれを、偽預言者たちは歪めようとして止まない。そして歪められたままの道を、地方 総督はまっすぐな道だと思ってやまない。けれども、偽預言者たちが語るまっすぐさは、主 なる神様にとっては、歪曲していて、曲がった道なのです。 パウロは言いました。11 節。 「今こそ、主の御手がお前の上に下る。お前は目が見えなく なって時が来るまで日の光を見ないだろう。 』するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、 すっかり見えなくなり、歩き回りながら、誰か手を引いてくれる人を探した。」この言葉によ って、魔術師エリマの目は見えなくなりました。 けれどもこれは、かつてそのまま、パウロの身にも起こったことです。パウロ自身も、かつ ては、かつての自分自身こそがまっすぐ神に従っている人間だと、強烈に自負して、主イエ スの方をこそ、曲がっている。神を冒涜している。イエスこそが、とんでもなく正道から外 れた者だと批判し、迫害していました。主イエスは神の御子だったのですけれども、本当に パウロの目には、その真実が見えていなかった。そこでパウロは、主イエスに出会い、主イ エスが見えるようになるために、目を見えなくされたのです。 クリスマスに起きたことも、本質的に同じことでした。そこでは祭司ザカリヤの口が閉ざさ れました。ザカリヤは祭司でしたから、神様に礼拝を捧げるために、香を焚いて、神様に祈 りをささげ、祭事を行っていました。けれどもそこで天使が現れて、妻のエリザベトに洗礼 者ヨハネが生まれること、そのヨハネが主イエスの誕生の先駆けとなることが告げられまし た。つまり、クリスマスは、人間が語り、こちらから神様に祈りをささげる時ではなく、神 様の方が語り、行動し、神様の方から、こちらに来てくださる番なのです。だからそれが起 こる間は、神様がそのまっすぐな道を通す間は、人間は、口をつぐんでいなければならない。 そもそも私たちは、なぜ祈るときに、目を閉じるのでしょうか?聖書には、目を閉じて祈り なさいとは必ずしも書かれていないのですけれども、 でも祈るときに目を閉じるのは、やは りそれは、肉眼の視力をふさぐことで、信仰によって、心で神様を見るためです。祈って目 を閉じるときには、ある意味エリマとパウロに起こったことと、同じことが起きているのだ と思います。そして、どうして私たちは、祈るときに、静かな場所で祈るのか、それは私た 2 ちが耳に、他の雑音を聞き取ることをやめさせて、耳に機能を停止させて、そのことによっ て神様の御声を聞き取るためです。さらに私たちは、なぜ立ち止まって祈るのか、それは、 私たちが動きを止めなければ、神様が動いておられ、生きておられ、御手をもって私と私の 周りのすべてのものを動かしてくださっていることが分からないからではないでしょうか。 あるいは、なぜ人は眠るのでしょうか?人が人生の三分の一ぐらいの多くの時間を眠りに費 やさなければ生きていけないということは、不思議なことだと思います。なぜ私たちは毎日 一日の時間のうちの少なくない時間を、信じられないほど無防備な状態に自分をさらして、 死んだような体制になって、ベッドで眠らなければならないのでしょうか?それは、本質的 には、神様に守られ生かされていなければ、こんなに弱く無防備な人間は、とても自分自身 を守り切ることができない。 起き続けていることさえも人間にはできない。 だから私たちは、 自分自身の力でずっと生き永らえることができるような存在ではないということを、私たち が知るためではないでしょうか。そのように、神様を知るためには、まっすぐな神様と深く かかわるためには、そのために自分の歪みを正すためには、私たちは、自分自身を、いった ん機能停止させなければならない。私たちの五感は自然に歪んでいますので、いったん盲目 にされなければ、自分の目が真実を見通せていないということにさえ、私たちは気づけない のです。 よって、苦難が与えられる時は、目が見えなくなるように先が見通せなくなったり、何を 語ったらよいのかわからなくなったり、耳がふさがるように、どんな言葉に従っていけばい いのかわからなくなったりする時は、それはつらい時でありますけれども、しかしそれは同 時に、私たちが自分の歪みに気付いて、正しい姿勢に、まっすぐに矯正させられる時なのか もしれません。 そして、私たちが自分自身の歪みに気付くために神様が送られる苦難は、永遠に続くよう なものではありません。苦難には、しっかりとした解決の時が備えられている。それはこの 聖書が一貫して語っていることです。苦難は永遠ではありません。 今朝の 11 節の御言葉でも、 パウロは言っています。 「お前は目が見えなくなって、 時が来るまで日の光を見ないだろう。 」 この時とは、カイロスという言葉で、時計の針が指す時間を意味する、クロノスという言葉 とは違う種類の、時を表す言葉として、使い分けられています。このカイロスとは、何時何 分とか、何時間後、何年後という、時の計りかたではなく、その時は、すぐ来るかもしれな いし、何十年もあとになってからくるかもしれないけれども、例えば、自分が何気なく街中 を歩いているときに、好きな人にばったり出会ってときめいたり、ふと何気なく手に取った 本の中の一節に、稲妻のように心を打たれる瞬間のような、そういう、時計のさす時間を超 えた、人間を超えた神様のような大きなところからくる、啓示を捉える瞬間であり、それは そういう、人生の中で決して忘れることのできないような特別な瞬間という意味の言葉です けれども、苦難があるときには、しかしそういうカイロスという時が必ずやってきて、その 時には、今見えていないものが見えるように、目が開かれるようになることを、パウロは、 魔術師エリマの盲目に際して示唆していると思われます。 これこそまさに、 カイロプラクティックのような骨盤の矯正に似た、鉄の打ち直しなのです。 そしてもちろん、この矯正は、鉄の打ち直しのような、ちょっと施術すればすぐ直るような 類の矯正ではなく、もっと根本的な変化が必要になる、たやすく済むようなことではありま せん。私たちは、自分としては、たとえそれが背骨の曲がっている状態であったとしても、 3 自分の姿勢を正しい姿勢だと信じたいですし、自分のやり方を信じて、それを貫きたいと思 ってしまうからです。 時々、求道中の方々から受ける質問があります。それは、クリスチャンになって、何かい いことがあるのか?という質問です。大事な質問です。良くなりたくて、人は教会に来るか らです。キリストの愛にふれることができる。自分自身と自分の人生の、深くて、高い価値 を知ることができるなど、色々に答えることのできる質問だと思いますが、今朝の御言葉か らその質問に答えるならば、曲がった、人間としての心の背骨を矯正してもらえるという、 いいことが、ここで起こります。そんな矯正は、クリスチャンになる前の人は、必要だと思 わなかったと思いますし、自分が矯正の必要な人間だということも、そもそも皆が、聖書に 向き合い、整体師ならぬ、魂の医者である主イエスに出会うまでは、全く分からなかったこ となのですけれども、具体的に、神の栄光を現すために、自分のためという狭い枠ではない、 神のためにという、自分のための生き方も含んだ大きな枠で生きようとする時には、私たち は、人間としての人生の骨格を矯正されるのです。そしてその先には、実は大きな喜びがあ ります。 月報にも紹介したヒルティの本に、ちょうど今朝のこの御言葉にぴったりと合うような、 こういう言葉がありました。 「ただ、自分の気のままに生きたいと思っている人にとっては、 神の命令はなるほど重荷であり、神様に従うことには多くの困難が伴う。しかし、この困難 と重荷は、人間が神様との関係の中で根源的に味わうことのできる喜びと結びついている。 そしてその質の祝福と喜びは、けっしてほかでは得ることのできないものであり、ほかの方 法では決して補うことのできないものである。」骨盤がまっすぐになると、血流がまっすぐに なり、リンパも流れ、体温も上がり、体が元気になります。そして、神様の御言葉にしたが って、神様のまっすぐさによって自分を矯正されながら生きる者には、血流の流れ以上に重 要な、生きる喜び、手ごたえ、自分が神様と共に、神様のために生きているという感謝と祝 福が、体中にあふれるのです。時は、それぞれに、必ず与えられています。そのカイロスと いう時が来た時には、本当に、神様との一体感を私たちは味わるようなり、空の色が違って 見えるような、感動と喜びを私たちは味わい知ることができる。これが、クリスチャンに起 こる、良きことです。 イザヤ書 64 章には、主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土。あなたは陶工。私たちは皆、 あなたの御手の業。という御言葉があります。神様は父親としての愛によって、陶工として、 粘土にたとえられている私たちを、こねて、形を整えて、矯正してくださる。そしてその手 で、美しい神様の器に、作り上げてくださいます。今年も色々なことがありました。苦難も、 うまくいかないことも、悲しみも、悔しさもありました。出っ張りあったり、へこんでいた り、いまだ不格好なわたしたちですけれども、神様がこれからも、様々な起こりくることを 通して、私たちそれぞれに持ってくださっている計画と設計図にしたがって、まっすぐに、 神様の栄光を表す器に、私たちを作り上げて、織りなしてくださるように、祈ります。 4