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変貌する香港

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変貌する香港
ーは香港で最も低料金の公共交通機関で、だいた
中国史の奥の細道
い十数分で海を渡ることができる。昼の海景色も
美しいが、夜景も素晴らしい。これは、安いけれ
変貌する香港
ど、とても贅沢な体験といえる。
船が九竜の側につくと、相変わらずの雑踏に入
っていくことになる。ただ、はじめに英領とされ
たのはごく狭い範囲にすぎず、港から 15 分も歩
東京大学文学部准教授 吉澤 誠一郎
かないうちに、1860 年以降の境だった地点に達
してしまうはずだ。そこから先は、1898 年にイ
香港再訪
ギリスが 99 年期限で租借した領域になる。これ
が香港「新界」と呼ばれる比較的広い地区であり、
今年の一月、三週間ほど香港に滞在する機会が
かつては農村地帯だった。今日では、高層マンシ
あった。香港は、あいかわらず活気に満ちている
ョンが立ち並ぶ近郊のようになったところも多い。
とは一応いえる。でも、やはりずいぶん変化した
私が初めて訪れた頃は、香港新界と中国内地の
なという感じもある。
あいだに国境検査があり、香港側の羅湖まで電車
今回、私は、香港大学の大学院生用の宿舎に泊
で行き、歩いて橋を渡って中国側の深
まっていた。この大学は、香港島のやや西のほう
のである。香港が中国に返還された今日も、依然
西営盤という地区に位置する。キャンパスは、ま
として中国内地と香港の間には、パスポート・チ
さに山の斜面にあるといってよい。私の宿舎は敷
ェックがあり、中国人であっても身分証なしでは
地の最も高いところに建っている。門からは、階
自由に行き来できないことになっている。
に出たも
段とエレベータでだいぶ上らなくてはならない。
変わりゆく街
土地の狭さが世界有数の香港らしい。
私が香港を初めて訪れたのは、1988 年夏のこ
とだった。空港に降りて二階建てバスで市内にむ
日本では香港返還というのが普通だが、中国か
かうとき、何とも暑くてやりきれなかったことが
らみれば香港が「回帰」したことになる。
忘れられない。このときは一泊だけして広州に行
この表現には、実は少し落ち着かない気分にさ
ってしまったとはいえ、その印象は強烈だ。
せるところもある。香港は、いまでも金融・商業
そのあとも、似たように通過地点として香港に
など経済活動で大きな役割を果たしている。しか
寄ることはあったものの、香港に「滞在」したと
し、アヘン戦争のときにイギリス軍が香港島を占
いってよいのは、今回が初めてだった。
領したころには、多少の漁民が住んでいたぐらい
で、都市などというものではなかった。イギリス
香港島から九竜半島へ
の植民地となったがゆえに、香港の繁栄がもたら
されたことは、否定しがたい。
いうまでもなく1988年に私が降り立った香港は、
イギリスと中国は、99 年の期限切れが近づくと、
イギリスの統治下にあった。香港島は、アヘン戦
新界だけでなく香港島までひっくるめて返還する
争ののち英領となり、その対岸の九竜半島の突端
ことを約束し、1997 年にそれが実現した。中国
部は、第二次アヘン戦争後の北京条約でやはり英
がここを領土として回復したいというのは理解で
領となった。香港島と九竜半島は、今日では地下
きるとはいえ、清朝支配下で香港が大都市だった
道でつながっていて、地下鉄も行きかっているが、
わけではないのだから、
「回帰」という言い方が
やはり船で海をわたるのがよい。スター・フェリ
少し気になるのである。
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香港には、いまだにイギリス統治期の仕組みが
ころの出身で
色濃く残っている。自動車は、香港では(日本と
ある。彼がハ
同じく)左を走るが、中国内地と台湾では車は右
ワイで学んだ
を走る。香港は明らかにイギリス式である(アメ
ことは有名だ
リカ合衆国や欧洲大陸諸国では、車は右を走る)
。
が、実は香港
建物の階の数え方も、日本の一階は香港では the
大学も彼の母
ground floor、二階が the first floor となるが、こ
校といえる。
れもイギリス式である。香港大学の制度もイギリ
香港大学の起
スのものを多く踏襲しているようである。
源をたどれば、
しかし、中国に「回帰」してから、さまざまな
西洋医学を教
変化があったこともまた確かである。まず、中国
育する「西医
での共通語が相当に通じるようになった(でも、
西営盤の街路。高いビルの間に狭
い道が通る(ここは一方通行)
。
地元の人どうしは、広東語で話している)
。また、
イギリス統治時代よりも公共工事をしっかり行う
書院」という
学校だった
(これは、現在も香港大学の医学部の場所になっ
ようになり、以前の無秩序な感じはない。沢木耕
ているという)
。
太郎『深夜特急』で描写されたような混沌として
孫文は、この学校に入る以前、教会にも出入り
熱気あふれる香港は、もう過去のものである。
して、アメリカ会衆派の宣教師から洗礼をうけ、
キリスト教徒になっていた。
香港島を歩く
このように医学を学び、またキリスト教徒だっ
たことが、孫文に与えた影響を考えてみる必要が
香港経済の中心は、その名もずばりセントラル
あるだろう。彼がのちに結婚した宋慶齢は、上海
という(漢字では中環)
。ここには、香港上海銀
の中国人プロテスタント宣教師から実業に転じた
行や中国銀行など高層の建物が建ち並ぶ。日曜と
人物の娘である。孫文は 1897 年に南方熊楠とロン
なれば、フィリピン人の労働者がセントラルに集
ドンで知り合ったが、ふたりで王立キュー植物園
まり、歌などで気分転換をはかっている(フィリ
を参観していることが熊楠の日記からわかる。こ
ピン人女性は、子守などの家庭内の雇用が多い)
。
れらは、単なる挿話をこえて、孫文の人物像を考
少し西にゆくと、じきに古い商店街になる。こ
察するときに、科学とキリスト教という要素を忘
こが上環という地区で、とくに乾物を扱う店が集
れてならないことを示しているようである。
中している。貝柱、アワビ、ナマコ、フカヒレ、
最近、その孫文の記念館が香港にできたと聞い
燕の巣などを商う。
て行ってみた。ここは、孫文と親しかった資産家
さらに西へゆくと西営盤であり、より所得の低
の邸宅を改装したもので、もちろん中国革命で
い人も多く住んでいる。急な坂道や小さな食堂に
の役割は明示されているが、西医書院での彼の成
は、地元の人々の哀感を見て取れる。私は冬の名
績表など興味ぶかいものも見ることができた。努
物、蛇のスープの店を見つけて入った。やはり地
力しているのが、香港近代史のなかに孫文を位置
元の人ばかりで、あまり中国の共通語が通じない。
づけようとする展示で、イギリスの植民地支配と
いかにも香港らしい味のある界隈といえる。
近代化という香港の政治・社会環境のなかでこそ、
孫文の思想が育まれたとする点が強調されていた。
孫文の足跡
これは、一つの政治的資源としての孫文を香港に
結びつけようとする工夫であるようにも思われた。
孫文は、広東省のうち澳門(マカオ)に近いと
これもまた、香港の一側面といえるだろう。
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