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井上隆晶牧師エフェソ5:8~14、ヨハネ9

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井上隆晶牧師エフェソ5:8~14、ヨハネ9
2016 年 11 月 6 日(日)主日礼拝説教
『神の光に照らされて』 井上隆晶牧師
エフェソ 5:8~14、ヨハネ 9:1~12
❶【悪人探しをする人間の愚かさ】
イエス様は通りすがりにある盲人の人をご覧になりました。通りすがりというと、
何か軽く聞こえますが、イエス様はすべての町々を巡回されて神様の救いを語っ
ているのですから、この町を通った時に、その道沿いにいた「生まれながらの盲
人」を照らされたということなのです。空海の言葉に「光明遍照」というのがあ
ります。光はあまねく照らすという意味です。太陽はすべてのものを照らします。
イエス様を太陽だと思って下さい。イエス様は善人も悪人も、病気の人も罪人も
どんな人も照らします。弟子たちがイエス様に聞きます。
「この人が生まれつき目
が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、両親ですか。
」
(ヨハ
ネ 9:2)誰のせいで目が見えなくなったのかという質問は原因と結果、因果応報
の考え方です。科学の世界ならそれは意味がありますが、罪に対しては意味を持
ちません。科学なら原因を突き止めれば治療ができます。機械でも肉体でも「あ
あここが悪いな、これを取り除けば治るだろう。ここを調整し、修理すれば動く
だろうなど。
」しかし罪の問題に対しては原因を突き止めてもどうにもならないの
です。仮にこの人の罪のせいでこうなったと悪人を見つけたとしましょう。その
後、どうするのですか。その人を殺すのですか。この盲人の両親が罪を犯したか
ら彼が盲人になったとしましょう。では両親はその罪をやめられますか。出来な
いでしょう。だから悪人探しをしても意味がないのです。それは責任転嫁という
悪魔の発想です。アダムが罪を犯した時、最初にしたのがそれです。
イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の
業がこの人に現れるためである。
」
(9:3)と言われました。イエス様は罪がない
といったのではありません。罪を犯したから視覚障がいになったのではないとい
ったのです。では「神の業がこの人に現れるため」とはどういう意味でしょう。
それはちょうど、穴が開いた障子から、光が入って来るようなものです。または
地面で窪んだ所に、天からの雨水がたまりやすいようなものです。破れや弱さに
よって、そこに神の光が降り注いだ時に、神の業が見えるようになるということ
なのです。
「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わ
なければならない。誰も働くことの出来ない夜が来る。わたしは、世にいる間、
世の光である。
」
(ヨハネ 9:4~5)
「お遣わしになった方」とは神のことです。私
たちは神の業を日のあるうちに行わなければならないといわれます。
「私は」では
なく「私たちは」と言われています。イエス様だけが神の業を行うのではなく、
あなたも神の業を行わなければならないのです。私たちはキリストという太陽に
1
照らされているうちに、その光があなたを照らしている内に、神の業を行わなけ
ればなりません。いくら障子に穴が開いても、向こうから光が照らしてくれなけ
れば、光は入って来ないのです。光が去れば、いくらあなたの人生に穴が開いて
も、何も入ってきません。
「夜が来る」のです。しかし人は、夜は決して来ないと
思い込んでいます。いつも神が自分を照らしてくれると思い込んでいます。
「暗闇
に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。
」
(ヨハネ 12:35)
●イエス様はユダヤ人たちに「なぜわからないのか。それは、私の言葉を聞くこ
とができないからだ」
(ヨハネ 8:43)といわれました。私はこれと同じ経験をし
たことがあります。カルトの説得です。聖書の言葉をいくら説明しても、彼らは
受け入れません。はっきりと書かれているのに、未信者の家族でも「ほんとうだ
ここにはっきり書かれている」と言っているのに、それを信じません。耳では聞
こえているのですが、自分の事だと受け入れません。神の言葉を受け入れなけれ
ば、悪魔の言葉が入ってきて、その人はどんどん惑わされます。
「主は彼らの間に
迷わす霊を送られた。
」
(イザヤ 18:14)と書かれているからです。
「聞く」こと
が入り口です。人の話を聞かない、人の忠告を聞かない人も同じです。
暗闇に飲み込まれた人を何人か知っています。信仰を失い、礼拝に来れなくなっ
た人を知っています。神の光を失えば、その人は闇に必ず飲み込まれます。
❷【教会(シロアム)に行くと見えるようになる】
イエス様は泥を彼の目に塗りました。その昔、イエス様はその同じ手でアダムを
土から創造されました。その手が今、土をこねて、人間の目に塗るのです。人間
の再創造を意味しています。そして彼に「シロアムの池に行って洗いなさい」
(7
節)と命じられます。
「シロアム」とは「遣わされた者」という意味であるという
注釈が加えられています。何かを悟れということでしょう。
「遣わされた者」とは
イエス様のことですから、イエス様の所に行って洗えとは、教会に行けというこ
とであり、洗礼を意味しています。事実、イコンは十字架の形の泉にしています。
彼は言われたとおりシロアムの池に行って洗い、目が見えるようになりました。
つまり教会に行って見えるようになったということです。何度も「見えるように
なって帰って来た」
(7、11、15 節)と書かれています。私たちも以前は闇の中に
いました。自分の人生の意味も知らず、なぜ生まれてきたのかも知らず、どこへ
行くのかも知りませんでした。また神もどんな方なのか知りませんでした。私た
ちは天からの光で照らされたのです。そこで見えるようになったのです。カルト
にいた人たちも闇の中にいました。その時、自分のしていることが分からず、間
違った神を信じていました。しかし神の言葉を聴き、神に照らされて自分が間違
っていたことを知り、本当の神を知ることができるようになったのです。
アダムの目は本来、何を見るために創造されたのでしょうか。神を見、神の顔を
仰ぎ見るためでした。その昔、アダムがエデンの園を歩いていた時、神の顔を仰
ぎ見ていました。しかし罪を犯した時、彼は神の顔を避けて神を見なくなりまし
2
た。彼は光である神から顔を背けたので、闇の中に生きるようになったのです。
そして偶像を見、闇を見て生きていました。しかし、神を知った人は神を見る生
き方に変わりました。そうやってモーセは顔と顔を合わせて神を見たので、その
顔が光り輝きました。エリヤは天からの炎の馬車を見、エリシャは師であるエリ
ヤが天に昇るのを見ました。ヨシュアは天使長を見、エゼキエルは車輪の姿のケ
ルビムを見ました。イザヤは神殿で祈っている時、神の衣が神殿いっぱいに垂れ
ているのを見ました。最初の殉教者ステファノは天が開け、イエス様が父なる神
の右に立っておられるのを見ました。このように神の光に照らされた人は、神を
見るのです。
「心の清い人は幸いである。その人は神を見る。
」
(マタイ 5:8)
●家の窓は、その家にとって目のようなものです。窓を通して外の光が部屋の中
に入ります。だから窓がなければ家は真っ暗です。もし窓が雨戸で覆われている
なら、どうやって光はその部屋の中に入ることが出来るでしょう。同様に目は人
の窓です。もしあなたの目がこの世の何かで覆われているなら、またあなたが神
以外の何かをいつも見ているなら、どうやって神の光はあなたの中に入るでしょ
う。目を神に向けなければ、神からの光はあなたの中に入って来ないのです。目
を神に向ける、聖書に向ける、イコンに向ける人は、神的な光が入ってきます。
だから見えるようになるのです。
❸【光に照らされて人は光となる】
エフェソ 5:14 に「全てのものは光にさらされて明らかにされます。明らかにさ
れたものはみな光となるのです。
」とあります。この光も神の光です。具体的には
み言葉や聖霊のことです。光に照らすと、闇の中に隠れているものがすっかり見
えます。人は誰でも闇の部分を持っています。認めたくない部分、隠れている部
分です。神の光に照らされると私たちは自分の罪が明らかにされます。だから人
は光を嫌がります。しかし光に照らされた人は光に変えられます。
●伊深の正眼寺の住職で梶浦逸外(かじうらいつがい)という老師がいました。
「私
は困ったとき、シメタと言うんです」というのが、この老師の口癖でした。色紙
には「窮則変、変則通」
(きわまれば、すなわち変じ、変ずれば、すなわち通ず)
という言葉を書くのを常としていました。自分が変われば、どんな困った状況で
も通じるというのです。
スタンフォード大学で心理学講義をしているケリー・マクゴニガル先生は授業で
学生にこう教えています。
「成長型マインドセット」と「固定型マインドセット」
という考え方があります。
「固定型マインドセット」は能力、知性、才能は決まっ
ており、変わらないという考えです。そのような考え方をする人は挫折をすると、
自分には素質がないと諦め、失敗や苦労を避ける人生になるというのです。一方
「成長型マインドセット」の人は、困難を耐え、仕事に意味を見出し、長期的に
成長するといいます。失敗しても、自分の能力不足でもないし、すべての終わり
でもありません。失敗は学びのプロセスです。対処法を見つけ出すためのきっか
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けに過ぎないのです。
最近、教会の礼拝に来る人が減っています。なぜだろうか?聖霊は私を去ったの
だろうか、私はサウルや祭司エリのように退けられるのだろうかとずっと神に祈
っていました。朝、聖堂に来て、いつものように聖書を読み、祈っていると神か
らの光に照らされてだんだんと見えて来たのです。次の御言葉が入りました。
「私
は、深い慈しみをいただいてあなたの家に入ります。
」
(詩編 5:8)なぜ「深い慈
しみをいただいて」神殿に入るのだろうと心が留まりました。神の家に入れるの
は神の憐れみがあったからです。当然ではなかったのです。神の家で奉仕できる
のも当然ではなかったのです。働かせてもらえるだけで感謝なのです。牧師が出
来ることは神の恵みでした。私をこの教会に遣わされたのは神です。牧師として
立てたのも神です。助ける人を送って下さったのも神様。求道者を送って下さっ
たのもすべて神でした。自分でしたのでもなく、自分が熱心だったからでもなく、
自分の人柄が良かったからではないのです。すべては神が今日のようにして下さ
ったのです。だから何も誇ってはいけなかったのです。それなのに私は高慢でし
た。出来ることをさせていただくだけなのです。それに気づきました。神の言葉
で、私は変えられたのです。神に照らされることは何とすばらしいことでしょう。
神が私たちにしてくださった恵みがどれほどすばらしいものなのか、私たちに与
えられる天の祝福がどれほど栄光に満ちたものなのかが見えていますか。サマリ
アの女に対してイエス様はこう言われました。
「もしあなたが神の賜物を知ってお
り、また水を飲ませて下さいと言ったのが誰であるか知っていたならば、あなた
の方からその人に頼んだことだろう。
」
(ヨハネ 4:10)でも彼女は自分が全能の
神、自分の創造主と話をしているのだということを知りません。またイエス様が
与えてくれる賜物がどれほどの価値があるのかが見えていません。彼女が見てい
るのは肉のイエスという旅人であり、地上の水だけです。これと同じことが今も
私たちの上に起こっています。私たちは神秘に気づきません。自分が誰の前に立
っているのか、洗礼によって自分の上に何が起こったのか、自分が何になったの
かが見えていません。また聖堂に来て、聖書を読み、祈ることを通していただく
天の宝のが見えていません。だからそれほど祈祷に熱心ではないのです。黄金の
延べ板を上げますといえば、皆さんはこぞって礼拝堂に来るでしょう。
「主を仰ぎ見る人は光と輝き、恥ずかしめに顔を伏せることはない。
」
(詩編 34:
6)私たちは神から来た光で照らされ、神を見る目に変えられたのです。来世では
毎日、この目で神を仰ぎ見ることでしょう。私たちは本来の姿に戻ったのです。
どうかこの目を神を見る為にもっと用いて下さい。一週間に一度だけ聖書や祈祷
書を見るのなら、あなたは 7 日間のうち、神を 2 時間だけ見るのです。後の何百
時間は何を見ていますか?光のあるうちに、光を自分の中に入れましょう。
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