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偽者の教皇たち 5

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偽者の教皇たち 5
http://www.youtube.com/watch?v=pE2MbPsaZYo
偽りの教皇たち V
ヨハネ 23 世とは一体何者だったのか?
ヨハネ23世は、イタリアの小さな村ベルガモで 14 人の子供のうちの 4 番目の子供として生まれた。
彼が 19 歳の時、まだ徐階される年齢に達していなかったので、彼はローマで勉強するために奨
学金をもらった。一学期、彼にはエルネスト・ブオナッリという友人ができた。
ブオナッリは後にロンカリの初ミサの侍者をつとめ、彼らは生涯の友となったのである。不幸なこと
に、ブオナッリはイタリアの中でも指折りの近代主義者の一人であった。彼は生涯に三度も破門さ
れた。三度目の、そして最後の破門は教皇自身によるものであった。
ロンカリが 23 歳の時、彼はレディー二・テデスキ司教の個人的秘書となった。テデスキは、ご記憶
と思うが、ラムポラ枢機卿の親友であった。彼はラムポラが教皇になった時、国務長官になるはず
であった。しかしラムポラが教皇になることはなかった。教皇になったのはピオ 10 世であった。ラ
ムポラが辞任した後、テデスキ司教は新教皇によってベルガモに左遷されたのであった。そこで
彼は自分が失敗した所から再出発すべく、新しい子分ロンカリを見つけるのである。
1913 年、聖座は今や神学校の講師になっていたロンカリを、彼の非正統的な考え方と近代主義
的思想のため観察下に置いた。1924 年、ロンカリ神父はローマのラテラン神学校で講義を始める
ことになった。しかし、3 ヶ月後、ルドルフ・スタイナーの神秘学的哲学を引用したため、その職から
解かれるのであった。記憶にあると思うが、ルドルフ・スタイナーは OTO の一員であり、神智主義
協会の創立者ホリーナ・ブラヴァッツキーの協力者であった。ロンカリは、 1958 年、教皇に選出さ
れるまで聖座、CIA、FBI の厳しい監視のもとに置かれることになったのである。教皇に選出される
と、彼はヨハネ 23 世を名乗る。これは普通の人にはそれほど珍しいこととは思えないだろう。
しかし、実は 500 年以上前、ヨハネ 23 世と呼ばれるもう一人の偽教皇が存在して、1410 年から
1415 年まで教皇の座にあったのである。ヨハネという彼の名前は、 500 年以上もの間、どの教皇
も名乗ろうとしなかったほど悪名が高かった。それは、近代主義と魔術的宗教に関連することが知
られている人が、後代の精密調査の原因となるかもしれないので、選択しそうにもない名前であっ
た。多分、この名前が私たちに何かを語りかけようとしているのではなかろうか。
教皇ヨハネの仕事の手始めは 23 人の新しい枢機卿を選ぶということであった。その中にいたの
が彼の親友ジョヴァンニ・モンティー二であった。彼は、ピオ 12 世が、後述する理由のために、枢
機卿に任命することを拒否していた人物であった。しかし、モンティー二は、1963 年、教皇の座に
つくのである。1959 年 1 月 6 日、教皇に就任した3ヶ月後、彼は公会議を開催することを発表する
のである。彼は友人に、自分がそのようにするようにという霊感を受けたなどと言っていたもので
ある。それは第二ヴァティカン公会議と呼ばれることになる。そのとんでもない影響については別
の映画が必要となる。今のところそれを「歴史上最大の過ち」と呼んだシリ枢機卿の名前だけを記
憶にとどめておいていただきたい。
ヨハネ23世は在位中、小さな、一見して小さな変化をミサの中に導入し始めた。例えば、聖ヨセフ
の名前をキャノンに付け加えることであるが、あと知恵になるが、これは典礼が変化することに信
徒を少しずつ順応させる試みであるかのように見える。実際、それは、 1969 年、トレント公会議の
ラテン語ミサを完全に破壊したあの変化によって絶頂に達するのである。
教会法 2335 条によれば、フリーメーソンとか類似の団体に加入する者は、カトリック教会への加
入資格を失うのである。「教会、もしくは合法的な市民当局に反対して陰謀を企む者フリーメーソン
もしくは他の類似の団体に加入する者は、その事実によって破門される」(教会法 2335 条)
ジャーナリストのピエール・カルピは、ロンカリが、教皇使節としてイスタンブールにいた頃、フリー
メーソンの第 18 番目の、もしくはばら十字会員として登録されていたことに関する絶対的証拠を
握っていると主張している。彼は自著 "The Prophesies of John XXIII"(ヨハネ 23 世の予言)の中
で、彼が入会の時点でヨハネを名乗った事実も含めて、その証拠を数多く挙げている。だから、彼
が教皇としてヨハネを名乗った際、彼は教皇庁を乗っ取ったという自分の小さなメッセージを、メー
ソンの兄弟たちに送ったのではなかっただろうか。彼のパリ着任後、大統領直轄の共和国護衛隊
の複数のメンバーの証言によれば、ロンカリは平服を着て毎木曜日、グランド・オリエント・メイソン
集会所に出かけていたのである。
何人かの高位フリーメーソンは教皇ヨハネ 23 世について興味深い発言をしている。「ローマによく
見られる普遍救済説はわたしたちの存在の目的にとても近い・・・私たちは心を挙げてヨハネ・パ
ウロ 23 世の革命を支持する」スコッティッシュ・ライトのフリーメーソン、イーヴ・マルソードン
「私はロンカリ枢機卿をよく存じ上げておる。彼は理神論者であり、その能力が奇跡を信じて、聖
なるものを礼拝する力にあるのではないことを知っている合理主義者である」高位のフリーメーソ
ン、カール・ヤコブ・ブルクハルト
ヨハネ 23 世は共産主義者であったか?
共産主義に関するヨハネ・パウロ 23 世の行為に関しては合衆国の裁判委員会の統計を見ると良
い。1917 年から 1959 年にかけてソヴィエット政権によって虐殺されたカトリック信徒の数は次のよ
うになる。2500 万人の信徒、32,000 人の司祭、199 人の司教。それに加えて、ざっと 16,000 人の
司祭がその職を断念させられた。更に 32,000 もの教会と神学校が破壊され、すべてのカトリック
の組織が解散を命ぜられた。
これらの情報を頭に入れて、ヨハネ 23 世に関する以下の行為を理解しようとしてみてください。彼
の 80 歳の誕生日にヨハネ 23 世はソヴィエットの指導者ニキタ・クルシェフから、お祝いとともに、
その健康と地上における平和に対する彼の気高い抱負の成功を願った電報を受け取ったのであ
る。1963 年 3 月 6 日、ヨハネ 23 世はクルシェフの娘と義理の息子をヴァティカン内で非公式に迎
えた。それはイタリア共産党書記パミロ・トゴヤーニによってお膳立てされたものであった。この巧
妙に宣伝された訪問のおかげで、共産党はイタリアの選挙でいつもより 100 万票も多く獲得した
のである。
共産党オブザーヴァーがヴァティカン公会議に出席
ヨハネ 23 世は、共産党に対するいかなる批判が絶対に無いことを保障して、共産党オブザーヴァ
ーも第二ヴァティカン公会議に招待した。そして、事実、非難しようとした教父たちは丁寧にではあ
るが席に座って沈黙を守るよう要請されたのである。以下にヨハネ 23 世が共産主義に関して言っ
たことを一つだけ記そう。「もし、共産主義者の方が彼らの政治的方針と歴史的宿命に従うのにも
っと相応しいと思うのであれば、なぜキリスト教徒がマルキシストに一票を投じることができないか
わたしにはわからない」ヨハネ 23 世
共産主義者の意見
フランス共産党の指導者モーリス・スレットはクレムリンにロンカリに関する熱烈なる報告を送った 。
「ロンカリは理想的聖職者でありました・・・彼はマルクシストのようにマルキシズムを理解していま
した。そしてもし共産党が戦闘的無神論を応援していなかったら、彼こそローマ・カトリック教会内
の最高のキリスト信者の同士であったかもしれません」
彼の腐敗した遺体
ヨハネ 23 世の死後、彼の遺体には腐敗を防止するため 10 リットルもの防腐剤が注入された。そ
して体全体にワックスが塗られたのであった。
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