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井上隆晶牧師民数記14

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井上隆晶牧師民数記14
2016 年 2 月 14 日(日)主日礼拝説教
『祈りは多くの罪を覆う』井上隆晶牧師
民数記 14:11~20、ヨハネ 15 章 4~7 節
❶【実を結ぶ=キリストに似た者になる】
十字架を前にして、弟子たちがイエス様を失った後も、信仰生活を続けていく
ために、何が必要であるかを言われたのが、このぶどうの木の譬えです。
「ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ない
ように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことは出来ない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
」
(ヨハネ 15:4~5)
信仰生活は、まず神に罪が赦されるということから始まります。ローマ信徒の
手紙にこうあります。
「ダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の
幸いを、次のように讃えています。
『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は
幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。
』
」
(ローマ 4:
6~8)これによると、義とされるとは「罪が覆い隠され、罪があるとみなさ
れないこと」だというのです。罪はあるのですが、ただ神に覆ってもらう、罪
なしと見てもらうということです。本人は黒なのですが、神様が白と言って下
さるということです。これは完全に神の側の姿勢の問題です。キリストを信じ
た時、瞬間的に人は義とされます。これを「義認」といいます。しかし、それ
だけでは不十分なのです。ここでは実を結べということが言われています。ぶ
どうの木はぶどうの実を、ナスはナスの実を、トマトはトマトの実をつけます。
キリストという木につながった者は、キリストという実を結ぶというのです。
実を結ぶというのは、キリストに似た者になるということです。これは一度だ
け、つながったところで成るものではありません。枝が幹についたり、離れた
りしていてどうして実を結ぶことが出来るでしょう。義とされることは信仰生
活の目標ではなく始まりにすぎません。キリストに似た者になることが信仰生
活の目標です。
●レントの祈祷文にこんな文章が出て来ました。
「徴税人は救いを得、遊女は
潔い者となり、傲慢なファリサイ人は罪に定められました。徴税人は言いまし
た。
『わたしを憐れんでください。
』遊女は言いました。
『わたしを清くしてく
ださい。
』ファリサイ人は誇って言いました。
『神よ、あなたに感謝します。
』
その他、無知なる言葉を発しました。
」
(アンデレの大カノン木曜日)私たちは
徴税人と遊女の祈りを忘れてはいないでしょうか。彼らは「わたしを憐れんで
ください。
」
「わたしを清くしてください。
」と祈ることを辞めませんでした。
私たちはもう赦されたのだからと、それらの祈りをやめてはいけません。水曜
日に「中部地区合同祈祷会」があり、多くの人が参祷されました。帰る時に、
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K牧師が私に言われました。
「先生の話を聞いていると、神様に出会った体験
があるのが分かる。最近の若い牧師は、自分の罪で泣いて祈り、神に清さを求
めることが少ないと思うのですが、先生はどう思われますか。私は若い時は、
その気持ちがとてもありました。
」といわれました。ああ、謙虚な先生だなあ
と思いました。悔い改めというのは、牧師になっても卒業してはいけないので
す。生涯、自分の罪を思い、罪を悲しみ、落ちたところに帰る努力をしなけれ
ばいけないと思います。水は流れなくなり澱めば腐ります。鳥がはばたくのを
止めれば地に落ちるように、悔い改めることを止めれば人は地に落ちます。清
い状態を保つのは、絶えず悔い改めるしかないのです。
亡くなった戸波兄が以前、奥様とイタリアのアッシジに行かれたことがありま
した。奥様はクリスチャンではありませんが、アッシジにある聖フランシスコ
の聖堂に入った時、感動して自然に涙が出たといっておられました。聖堂の壁
に何百年もの間の修道士たちの祈りが染み込んで、聖堂に入ったとたんに聖な
る空気を感じたというのです。それは長年の祈りによって出来上がるものなの
です。私たち自身が聖堂です。祈りが染み込まなければなりませんね。
❷【キリストにつながることは死活問題】
キリストにつながるといっても、イエス様の姿はありませんから、具体的には
キリストの体である教会につながる、礼拝につながる、聖書につながるという
ことになります。幹から入ってくる命によって枝が生きるように、キリストか
ら入って来る命によってクリスチャンは生きるのです。キリストから来る命と
は、神の言葉、聖霊、聖餐です。それらのものが入って来ないクリスチャンは、
やがて枯れてゆきます。
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は、
父が取り除かれる」
(ヨハネ 15:2)とはそういうことです。形だけつながっ
ていても駄目だよというのです。しかし教会の礼拝や集会になかなか来られな
くても、家で聖書を読み、祈り、神の言葉と聖霊で心が満ちている人は、つな
がっているのです。大事なのは神の命が入っているということです。
「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」
(ヨハネ 15:5)
とイエス様は言われました。幹から離れた枝が命を失っているように、キリス
トから離れて何かをしてもそれは死んだ業になるのです。キリストにつながる
ということは死活問題なのです。
●民数記に「重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れ
た者をことごとく宿営の外に出しなさい。…私がそのただ中に住んでいる宿営
を汚してはならない。
」
(民数記 5:2~3)という言葉があります。重い皮膚病
とは、ハンセン氏病などの伝染病のことです。漏出とは病によって体から血や、
膿が出ている者だと思って下さい。伝染病で死んだ死体に触れた人は病気がう
つるので、隔離したのでしょう。昔は伝染病に対する治療薬がありませんでし
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た。民が疫病によって絶滅することのないようにそれらの人を隔離したのだと
思います。彼らが隔離された理由は「神の住まいである場所を汚してはならな
い。
」というものでした。しかし神の住まいである教会を、私たちは心で汚す
ことがあります。私たちも聖所に入る資格はありません。しかし、イエス様は
これらのすべての人に触れて癒していかれました。重い皮膚病の人に触れ、出
血の止まらない婦人を衣に触れさせて癒し、死人に触れて生き返らせました。
キリストを通して人は清められ、再び聖所に入ることができるようになったの
です。私たちはキリスト無しで、神の前には決して出られないのです。キリス
トの贖い無しで、神の前には決して立てないのです。
どんな時にも、キリストから離れては駄目なのです。キリストに祈らずして一
日の仕事を始めても平気、聖書を読まないで何かをし始めても平気では駄目で
す。
私は他の牧師よりも学歴がありません。
キリ短です。
頭がよくありません。
教会はとても小さいので、建物も証してくれません。自分の頼りにできるもの
は、キリスト様と聖霊様だけなのです。聖霊様が私から去ったら、私はただの
役に立たない屑です。だからこそ、この方の霊が必要なのです。だからこそ祈
りをやめないのです。私が祈りをやめたら、私には何の力もありません。髪の
毛を切られたサムソンのようなものです。私は皆さんに、そのことを知っても
らいたいのです。キリストに頼って生きてほしい。そのような信者になってほ
しいと思います。
❸【神の言葉を握りしめて祈ること】
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にい
つもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
」
(ヨハネ 15:7)とイエス様は言われました。それゆえ祈る時には、神の言葉
を握りしめて祈ることをしましょう。聖書の中に書かれているモーセやダビデ
や族長たちの祈りを見てみると、皆「主よ、あなたは~と言われたではありま
せんか」と神の御言葉を用いて祈っているのが分かります。
●カナン偵察から帰って来た人たちは、その土地はとても良い土地だが、そこ
に住んでいる住人は背が高く、町は堅固でとてもそこへ上って行くのは不可能
だと報告をし、民に悪い情報を流しました。民は泣いてエジプトに帰ろうと言
い出しました。神様は怒ってモーセに言われます。
「この民はいつまで私を侮
るのか。…いつまで私を信じないのか。私は疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、
あなたを強大な国民としよう」
(民数記 14:11)するとモーセは祈ります。
「エ
ジプトからこの民を導き出されたあなたの力は、多くの民に知れ渡っていま
す。もし、あなたがイスラエルをここで全滅させたら、人々は笑うでしょう。
『エジプトから連れ出しはしたが、約束した土地に入れることができなくて、
荒野で民を全滅させた』と。また、あなたは『わたしは怒ることが遅く、慈し
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みに富み、罪を赦す者だ』とおっしゃいました。その言葉の如く、今日まで赦
して下さったようにこの民をお赦しください。
」主は言われます。
「あなたの言
葉のゆえに、わたしは赦そう」
(民数記 14:20)あなたの言葉とは、神自身の
言葉なのです。神ご自身の言葉を用いる祈りは、罪を赦してもらえるのです。
イエス様が「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」というのは
そういうことです。み言葉が自分の内になければ、
「主よ、あなたは~と言わ
れたではありませんか」とは祈れません。私たちは主ご自身が約束された言葉
を握って、はっきりと祈るのです。
●ぞうり履きの伝道者升崎外彦の半世紀『荒野に水は湧く』
(キリスト新聞社)
という本に、大正時代の出雲地方のある若い女性の話が載っています。ひそか
に信仰を持っていた旧家の娘、香代は結核で死も間近というので最後の願いが
かなえられ、土地の人から迫害されていた升崎牧師を呼んで病床で洗礼を受け
ました。その後、病状は回復に向かったのですが、困ったのは家の者でした。
「香代さんがヤソになった」という噂が村中に知れ渡り大問題になったのでし
た。しかし香代はがんとして信仰を捨てないために、家の者は彼女を座敷牢に
閉じ込めました。そして冬のある朝、香代は祈りの姿勢のままで死んでいるの
が発見されました。その後、香代の遺品の中から彼女の日記が出て来ました。
死の二日前までのことがつづられているその日記には家の者に対する恨みや
愚痴は一言も書かれておらず、そのページも両親たちのための祈りと神への賛
美のことばで満ちていました。近親の者はそれを読んで大きな感動を受け、彼
らの心は一変しました。そして一家十一人がキリストを信じるまで導かれたの
です。
」
教会で朝ごとに一人一人の名を上げて祈っていると、祈りが全ての人を、全世
界を支えているという気持ちになってくるのです。これは不思議です。名を呼
ぶことは相手を支配することです。祈った者は、その人の上に立つことが出来
ます。特に祈りを聞いておられる神の前で祈ることは、その人を神様に委ねる
ことになりますから、実に希望があるのです。特に病の人、教会から離れてい
る人、多くの来会者、天に移された方の名を挙げて祈ると、私たちにはまだ使
命が残されていることが見えてきます。私たちは教会に来られますし、まだ命
が与えられているからです。イエス様は祈りの人でした。祈りを必要とし、弟
子たちにも祈ることを教えられました。イエス様はいつもひとり山に行き、夜
を徹して祈られました。夜に祈るということは、闇の中で、問題の中で、困難
の中で祈られたということです。だから今も問題の中で祈って下さっています。
どうか皆さんにお願いします。すべての兄弟姉妹のために、信仰がなくならな
いように、救われる人が起こされるように、この教会の将来のためにお祈りく
ださい。他人事だと思わず、キリストと共に祈って下さい。
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