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聖霊で浸す人

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聖霊で浸す人
聖霊で浸す人
マルコによる福音 1
聖霊で浸す人
1:1-8
マルコという名は、私にはとても大事な名前です。私の恩人アテネのマル
コス・シオーティスさんの「洗礼名」だから(
)です。私
の恩師は毎年、4 月 25 日には「聖マルコの日」を必ずお祝いになります。ち
ょうどアメリカの方たちが誕生日を大事にされるのと同じで、ギリシャの人
たちは、クリスチャン・ネームの命名聖人の日を祝う習慣があります。私の
場合、「バルナバ」は、若い時自分で勝手に付けたペンネームのようなもの
ですから、知る人も少なく、山梨の旧友飯島正久氏との間でだけ、「愛する友
ステファノへ……主にあって、バルナバ」と書くくらいのものです。まして
6 月 11 日の「聖バルナバの日」は、私は守りません。でも、バルナバの墓参
り……と言いましても拝みに行った訳ではないのですが、バルナバが殉教し
た土地は、キプロスへ行った時にこの目で見てきました。その、私が好きな人
のいとこ(甥?-注 1)ですから、その意味でも特別に親しみを感じるのです。
マルコという名はヘブライ語ではないので、ユダヤ人が普通自分の子に付
ける名前とは違います。使徒言行録 12 章に出る呼び名は「マルコと呼ばれて
いたヨハネ」(:12)で、恐らく親からもらった名はヨハネだったのでしょ
う。日本の家庭で息子にジムとかマイクとか英語の名を付ける人は少ないで
しょうが、当時のエルサレムやガリラヤでは、ギリシャ語やラテン語の名は
珍しくありませんでした。イエスの十二使徒の中にもアンデレやフィリポの
ようなギリシャ名の人がいます。ローマ名(ラテン語)で有名なのはパウロ
― Paulus。でも彼が親からもらった名はイスラエルの初代の王と同じ「サ
ウル」lWav' でした。
マルコの従兄(叔父?)バルナバがキプロスの生まれ(使徒 5:36)だっ
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たということから、マルコもパウロと同じように、ユダヤ人の中でも当時の
国際人の感覚を備えた“ヘレニスト”の階級に属していた、というのも興味
ある推測です。マルコの父の名は、不思議と出てこないのですが、彼の母マ
リアの名が、早くからエルサレムの弟子たちの間では知られていたようで、
マリアの家は、信徒たちの集会所か隠れがのような役割を果していた(使徒
12:12)ようです。マルコは多分母から信仰のことを学んだのか、それとも、
その家に出入りしたシモン・ペトロや使徒たちから福音を聞いて信じたので
しょうか。
聖書の読者として非常に面白いと感じるのは、このヨハネ・マルコという
ダブルネームを持つエルサレム出身の弟子が、使徒ペトロの助手として、シ
モン・ペトロの伝道旅行に同行したことを暗示する証言です。こう申し上げ
ると、「それはペトロじゃなく、パウロの助手という意味でしょう」と御注
意を受けるかも知れません。確かに使徒言行録 13 章「バルナバとサウロ、宣
教旅行に出発する」という見出しの記事では、バルナバとサウロの「二人は、
ヨハネを助手として連れていた」(13:5)と書いてあります。この「ヨハネ」
が「ヨハネ・マルコ」です。そのマルコが、旅の途中から脱落してエルサレ
ムに帰ってしまうところで、ルカの記録からは一応消えるのですが、彼はそ
の一回の挫折で永遠に消滅したのでないことを、私たちは知らされます。
一つは、テモテ書の最後でパウロがテモテに、「あなたが来る時、マルコ
を連れて来てくれ。あれは私の仕事にはとても役立ってくれる」(2テモテ
4:11)と書いている所です。これは、晩年のパウロにマルコが再び信用を回
復して、パウロの片腕になって働いたことを暗示します。もう一つ、聖書の
証言ではないのですが、A.D.100 年前後にエフェソの東、ヒエラポリスの主
教であったパピアス
の言葉として伝えられるもので、ペトロの通訳
だったマルコが「主の言葉と行為についてペトロが思い出すことを正確に…
…書きとどめた」という言葉です。(エウセビオス「教会史」第 3 巻 39:15)
これは、マルコ伝の著者問題を扱う書物に必ず引用される、重要な証言です。
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もしこの言葉に間違いがなければ、マルコ福音書の背後には、ローマ書を
書いた使徒パウロがいるだけではなく、ガリラヤで 3 年間主の謦咳に接した
使徒ペトロの影が重なって映っています。パウロの福音を個人的に教えられ
た“二代目”で、イエスの体温が感じられる距離にいたシモンの……そのま
たすぐ横にいた「通訳」だという人が、この二人の信仰と体験に基づいて書
いているのが「マルコによる福音書」だとすれば、古来この第二福音書が、
多くの人に信仰の感動を与え続けてきた理由も想像がつきます。そんなマル
コは、まず何から書き起こしたでしょう。
1.「福音」が始まる :1.
1.神の子イエス・キリストの福音の初め。
イエス・キリストの「伝記」の第 1 章というのではありません。これは単
なる「歴史」ではないのです。「歴史」だと言う人もいます。つまり、マル
コの目が純粋に客観的で、彼のペンがビデオテープよりも忠実に事実を伝え
ていると考えなければ、福音書の記録は信仰の基盤にはならないと言う人た
ちです。私は、そういう人たちから教えを受けましたし、その人たちの理由
や気持ちもよく分かります。今世紀の初め、福音書の記事が当てにならない
……これは教会が美化した架空のイエスの絵だという主張がその極に走ろう
とした時、この不信仰を排除するには、「聖書の記事は文字どおり正確極ま
りない事実そのものの記録である。新聞の報道記事以上に無色、NHK のド
キュメンタリーも及ばない客観性を持つからこそ、これに基づいて信仰を持
てるのだ」という、片意地なまでの善意の主張が生まれました。しかし、ど
ひ いき
うやらこれは「贔屓の引き倒し」の嫌いがありました。
マルコが世に問うたものは、a LIFE of Jesus Christ(イエス伝)でも
biography(伝記)でもなく、「福音」でした。それは、イエスの画像や録
音のようなものではなく、生きた人間の全人格に刻み込まれた永久に消えな
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い印象と、一つのはっきりした確信に基づく「主張」と言いますか……メッ
セージと言いますか……それが、「福音」“エヴァンゲリオン”
です。「この方は生ける神の子である!」と告白するこの人マルコが、読者
にもそれを伝えずにおかない気迫を込めて、「天の父は私にこの真実を見さ
せてくださったが、あなたもよくこのイエスという方を見て、同じ真実に触
れて信じてください」という、強いアピールの書が「福音」なのです。
「神の子」という、この第一文の中心をなす言葉の内容は何か……マルコ
は読者にそれを、どういう意味で受け止めて欲しいのか……。それは、この
後 40 頁にわたる「福音」の文章が明らかにします。でも、これが、ただの伝
記でも歴史記録でもなくて、あなたの生き死ににかかわる「福音」だと言っ
たマルコは、ルカやマタイ以上に大胆に、伝記の資料をカットします。イエ
ス誕生の次第や少年時代、修行時代などには目もくれず、いきなりヨルダン
川の水を背にしたヨハネの前に立ち現れるところから筆を起こすのです。マ
ルコの面目躍如です。
ただ、ここで一言付け加えるとすれば、それだけ余分な贅肉を削って切り
詰めて、マルコが精選した最小限の出来事の“重さ”を考える時やはり、「こ
こに書かれた言葉を、このまま真正面から受け止めて味わう用意があなたに
はあるか」という、天の父の「念押し」のような激しい力を私は感じます。
「これは単なる忠実な写真と音声ではない、これは明確な主張を持った『福
音』なのだ」と受け止める私が、それでもなお、イエスの出来事とイエスの
言葉を、マルコが伝えたまま素直に受け止める理由を、章を追うに従って分
かっていただければ幸いです。特に、イエスの死と復活の報告については、
神が故あって歴史上に一回きり起こされた“究極の事実として受け止めよ!”
という福音の衝撃は、単なる歴史記録の真実性も及ばぬ激しさを以て読者に
迫ります。
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それでは、そんなマルコの伝える「神の子イエス・キリストの福音の初め」
はどんな形で始まったのでしょうか……。
2.「主の道を備える人」現れる :2-5.
2.預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に
使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。 3.荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」その通り、 4.洗礼者ヨハ
ネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣
べ伝えた。5.ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、
罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
聖書に親しんだ人には余りにもよく知られた、預言者イザヤの言葉を中心
にしたメドレーなので、「イザヤの書に」と引っくるめて引用しますが、厳
密には最初の 2 行はイザヤではなく、旧約聖書の最後の書マラキからの引用
です。アレクサンドリアのユダヤ人がギリシャ語訳を作った時に、ゼファニ
ヤ―ハガイ―ゼカリヤと人名が続いた勢いに乗せて、マラキという預言
者があるかのように(?)語呂を併せて
という名を作りました。
しかし、「マルアヒー」ykia'l.m; の意味は、元々「わが使者」で、人名ではな
かったのです。ギリシャ語の翻訳の見出しとしては、十一人の人名の後に「わ
が使者の書」ではバランスが悪いと思われたのでしょう。
聖書を知る人の間では「わが使者の書」は、主なる神が聖なる御意志を最
終的に示して聖所に来られるその前に、主の先触れとなる使者「マルアヒー」
が送られる……という内容と結びついていたのです。それでこのイザヤ書の
中心主題に導入する前置きの形で、この 2 行がついたのだと思います。「浸
しのヨハネ」の使命を預言していた聖句は、イザヤからの 3 行の引用です。
「主があなたに清い命を注いで生かそうとなさる。あなたの王として支配な
さるために来られる。その主なる神御自身がお通りになる道を、広く真っすぐ
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にして備えよ。」実に浸者ヨハネは、その宣言と先触れの“声”だったのです。
ここには、二つの重い宣言があります。一つは、今ガリラヤのナザレから
この川岸に現れる方(:9)の到来は、実は主なる神御自身が来られるのと
変わらない方のお越しである。その方を正しく心に迎えて、その方を王とし
て仰ぐためには、あなたの心の中に広い真っすぐな通り道を造ることが急務
だということ。もう一つは、その「主の道」を開く工事の先触れのために、
神から遣わされた、その「マルアヒー」(わが使者)が、誰あろう、「浸し
のヨハネ」、「水没のヨハネ」のニックネームで知られるその人だというこ
とです。このヨハネの「悔い改めの水浸し」、「川水浸かり」の運動という
ものは、イエスを信じなかった人の間でさえ、長く強烈なインパクトを残し
た宗教運動でした。
ヨハネが与えた霊的衝撃は、「悔い改めのバプテスマ」という名でユダヤ
全土とエルサレムを巻き込みました。もちろん、「ユダヤ全地とエルサレム
の住民すべてが、こぞってヨハネのもとに押しかけた」は、一つの文学的誇
張法と見てもです。ヨハネは真の悔い改めを告白した人をヨルダンの水に浸
けました。ヨハネがすべての人を手ずから浸したか……ヨハネの弟子たちが
師の指導のもとに手分けして沈めたものか……それとも、最近の研究書が指
摘するように、「各人が自分で頭まで沈んで浸かりヨハネと弟子たちが見守
って確認した」(Frederick C. Grant)ものか……よくは分かりません。す
でにこの時代には、クムランの修道院などでは、清浄を願う熱心主義のユダ
ヤ人信徒の「水浸かり」のお勤めが盛んに行われていました。少数者ではあ
りましたが。
そのほかに、異邦人がユダヤ教に改宗を許される場合に、ユダヤ式の割礼
の後でこの「水浸かり」を命じられたこともありました。偶像神の汚れを洗
い清めるという趣旨ででした。しかし、すべてのユダヤ人信徒に向かって、
「罪を告白せよ。罪の赦しへ向きを変えよ」と宣告し、「悔い改めを体で告
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白して、ヨルダンの水に全身を浸けて沈めよ」と命じたのは、ヨハネの運動
が恐らく最初で最後でした。
この「すべて肉なる者は例外なく悔い改めと清めを必要とする」というと
ころで、ヨハネの宗教運動は、次に来るイエスの究極的なメッセージと連続
したのでしょう。ところで、ヨハネの命じた「悔い改め」の意味は、マルコ
が使った「メタニア」
というギリシャ語からだけ解釈すれば、「生
き方……考え方の根本を切り替えること」と定義できるでしょう。しかし、
その背後に考えられるヘブライ語の「テシューヴァー」hb'WvT.(から解釈す
れば、「立ち戻り」……つまり、「素直に神のもとに帰ること」と定義でき
ます。聖書は多分その二つの意味の両方を「悔い改め」という言葉に込めた
ものと思われます。
3.「聖霊で浸す人」の到来を予告する
:6-8.
6.ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べて
いた。 7.彼はこう宣べ伝えた。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。
わたしは、かがんでその方の履物の紐を解く値打ちもない。 8.わたしは水で
あなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けに
なる。」
最初の 2 行に見るヨハネの異様な服装、外観と、荒れ野の行者のような原
ほうふつ
始生活は、列王記が描く預言者エリヤを髣髴させたという意味でここに書い
てあるのですが、これはまた、「わが使者の書」の中に、「その使者は預言
者エリヤの再来である」(3:23)とある言葉の“連想”にも基づいています。
しかし、ここの重点はヨハネの風体ではなくて、この後いよいよマルコが登
場させる神の子イエスとヨハネの関係、その天と地ほどの違いを自分から語
るヨハネの証言です。
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「わたしは、かがんでその方のサンダルの紐を解いてさしあげる奴隷にも
値しない。そんな方が来られるのだ。そのお方がどんな力を持って来られる
かを一言で言おう。私は『悔い改めの浸し』で一応国中に知られてはいるが、
この私のしていることはと言えば、せいぜい人を水に沈めるだけの『水浸け』、
『水浸し』だ。しかし、その方のなさることは、その力強さと永続性から私
のとは比べものにならない。その方のなさるのは『聖霊浸け』、『聖霊浸し』
だ。彼は死んだ人間を神の命そのものの中にドップリ浸けて、命を滲み込ま
せて、生かしてしまわれる。」
《 結 び 》
ヨハネの言った「聖霊浸け」の話は、あるいは彼が、イエスと自分との雲
泥の相違を表現するために使った“比喩”だったと見ることもできます。つ
まり、人間としても、仕事の大きさという点でも、自分とは比較もできない
方が、もうすぐ来られる。私はこうして先に来て「露払い」をさせていただ
いているが、実際にそのお方の前に出れば、地べたに這いつくばって靴の紐
に触れることも許されない。そんな貴い方がおいでになる……と。もし、そ
れだけの比喩に使った言葉であれば、「聖霊」も「浸ける」も言葉のあやで
しょうから、「履物」や「ひも」と一緒に捨象すれば良いことになります。
イエスは聖霊で何をなさるかにこだわることはない……という見方も成り立
ちます。
しかし、それが単に言葉のあやで言われたのでなかったことは、イエス御
自身が後に、この全く同じ言葉をお使いになって、弟子たちに重大な宣言を
残して去られたことからも分かります。
「父が約束されたことがすぐ起こる。
これは私の口からも聞いたはずだ。ヨハネは、自分でも言っていたように、
人をヨルダンの水に浸けただけだったが、間もなくあなたたちは聖霊で浸け
られて聖霊浸けになる体験をする。本当にヨハネの言った通りのことが起こ
る。」これは天に帰って行かれる神の子が、その直前に語られた最も重い御
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発言だと、私は思います(使徒 1:5)。
「聖霊派」とか「異言派」と総称されるグループでは、それは突然激しく
“霊”の感動を経験して、うわごとのような発言をする異常な現象を言うの
だ、と主張しました。使徒言行録 2 章にその前例と原型がある(使徒 2:4)
と言うのです。これには、特定の体質の人たちが同感を示して、自分に暗示
をかけてやってみました。果たして、似たようなことが起こりました。彼ら
は言いました。
「信仰があれば、五旬祭の使徒たちと同じことが体験できる。
それが与えられないのは、あなたに信仰がないから、
真剣に求めないからだ。」
一人の指導者がこれと結びつけてルカ 11:13 を掲げると、誰もかれもが、
“不
信仰者”を憐れむように(本当は、この聖句はこのこととは全く関わりがな
いのですが)ルカ 11:13 を引用しました。
「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
この人たちにとってはこの聖句が、“異言”のうわごとの聖なる根拠にな
りました。
元々、芯から熱心な人たちの、しかも信仰上のことがらですし、有力な指
導者たちを中心に強力な組織や教派までできてしまいますと、もう「その理
解はヨハネの意味とも、イエスの趣旨とも違う!」と呼びかけても、「御言
葉をそんな風に受け止めるのは、偏った指導者の思い込みですよ」と言って
さしあげても、もう手遅れなのは残念です。
でも、私の聖書理解が間違っていて“不信仰?”だったということにでも
なれば、福音を語る伝道者として多くの方に申し訳が立ちません。ですから、
この「聖霊浸し」のことについては、私も真剣に祈って、45 年間かけて、あ
らゆる角度からまじめに調べてみました。今から 6 年前に、「聖霊にどっぷ
り」という題で雑誌“たねまき”に発表したあの理解は、今も少しも間違っ
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ていないと確信しています。
ヨハネは言いました。「わたしは水で君たちを『水浸け』にするケチな儀
式をしているが、次にここに立たれる方のなさることは、スケールも違えば
次元も違う。その方は神の独り子。私などは足元にひれ伏す値打もない。私
のやる『水浸け』とは違い、その方は人間を神御自身の命の中へドップリ漬
け込んで、芯まで命を染み込ませなさる」と。
マルコ伝のこの箇所を講じたのは、18 年前の 4 月でした。今改めて読み直
してみて、「聖霊について、イエスから頂く命については、あれで正しかっ
た!」と証言できることは何より感謝です。そして、イエスも確認なさった
ヨハネの言葉が指し示す「聖霊浸け」の体験を自分なりに味わわせていただ
いたことを皆様に報告して、今回のこのマルコ伝研究……果たしてどこまで
行けるかは主に委ねて、また新鮮な目で学んでみたいと思います。
(1993/05/23)
《研究者のための注》
1. マルコはバルナバの“アネプシオス”
シャ語では「甥」を
だとは、パウロの証言です。現代ギリ
と言いますが、古典と聖書の用例では
は「いとこ」です。A.V.が“sister's son”と訳したため「甥」と考えられがちですが、
最近の訳文は“cousin”としています。
2. マルコのラテン名が、彼が「ヘレニスト」であった証拠になるかどうかは不明で、そ
の蓋然性がやや大きいという程度です。ガリラヤの漁師シメオンも、発音に近似性を
持つギリシャ名シモン
アス
を使いましたし、彼の兄弟は、ギリシャ名のアンドレ
でだけ知られています。アレクサンドロスの征服とシリアのアンティ
オコスのユダヤ支配以来ギリシャ名が広く使われたように、ローマ帝国の統治時代に
はラテン名を別名に使う人が多くなりました。
3. “自分なりに味わわせていただいた「聖霊浸け」の体験”は、異言や幻のような異常
な霊的現象のことではなく、平凡な一信者として、使徒 2:38 に基づいて「賜物とし
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ての聖霊」を確かに頂いていること、その内住の“霊”により確かに神の子(ローマ
8:15,16)とされていること、私の体が罪に死んでいるのを痛感する時でさえも「キ
リストを復活させたお方がこれを生かしておられる」ことを体験から知らされ(ロー
マ 8:11)て喜び、少しずつ内から膨らむ蕾のように「霊の結ぶ実」
(ガラテヤ 5:22,23)
を見て神を崇めていること……そのことが、私の「聖霊浸け」体験なのです。これは
私にとってこの 45 年間の勇気の源であり、どんなに自分に失望した時でも、その失望
の強さを「聖霊に漬け込まれて保存されている」ことの現実感が吹き飛ばして、私を
潰れさせなかったのです。
4. 「聖霊で浸けられる」(俗称“聖霊のバプテスマ”)の捕え方については、大きく分
けて三つのタイプがあります。
《1》使徒 2 章で起こった事実(2:1-4)を主の約束(1:5)の究極的成就と見る
だけでなく、それはすべての信者に「命じて約束されている」ものと解する“聖霊派”
(異言派)の立場。
《2》五旬祭の「聖霊浸け」の体験は、エルサレムの弟子たちにとっては、あの文字
どおりに起こった事実であったが、それは故あって主が二回きり(使徒 1:1-4,同
10:44-46)起こされたもので、私たちには命じられてもいなければ、約束もされて
いないと取る立場。米国の“キリストの教会”運動の先輩たちは大体この線に留まり、
内住の御霊を受ける経験と「聖霊浸け」とを結びつけることは避けました。この人た
ちは教会を病的な emotionalism から守った功労者だったと言えます。
《3》「聖霊で浸けられる」
(使徒 1:5)と美し
い並行を示す聖句としては、パウロの「一つの霊で……浸けていただいた」
(1コリント 12:13)の中に、ヨハネが預言し主が確認保証
なさった究極の「聖霊浸し」の恒久的な成就を見、五旬祭とカイサリアはペトロが、
「主のお言葉を思い出した」と証言したように、その成就を端的に象徴する暗示的な
出来事であったと見る立場。私はこの角度から「聖霊浸け」を理解していますが、五旬
祭とカイサリアの出来事自体の意味については《2》の解釈に基本的に同意しています。
5. 「聖霊浸け」の最終的かつ恒久的な成就をパウロのコリント書の言葉(1コリント
12:13)に見る聖書的・語学的根拠については、大阪聖書学院機関紙「たねまき」1987
年秋号に発表した小論「聖霊にどっぷり」を御覧ください。
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6. 「神の子」という呼び名の持つ意味内容については、旧「ローマ書の福音」(えりに
か社版)第 2 講「キリストのキリストたるゆえん……」、新「ローマ書の福音」第 1
講「神の福音」と書籍の「マタイによる福音」第 48 講「死よりも強い人たちを作る」
のほか、次のスピーチ(録音)を参照してください。1981/5/20「ユニークな神の子」
(ヨハネ 1:14)、1980/8/24「死人を生かす人は神」(ヨハネ 5:19-29)、1980/8/17
「『独り子』なる神」(ヨハネ 1:18)。
7. マラキ書の書名と実在しない預言者名マラキ
については、1982/2/21「丸
亜紀の書から学ぶ」で説明しています。
8. 「福音」という漢字による訳語は、初期の近代中国語訳(漢訳聖書)で初めて使われ
たものらしくあります。R.A.Cole はマルコ注解の INTRODUCTION(p.13)で、敦
煌の写本に、四福音書の合成編集本の翻訳が含まれていることを指摘するので、「福
音」「福音書」という字が同文献に使われているか、印刷本の漢字文献を探ってみま
したが、この熟語は中国ではまだ使われず、evangelion -
を音訳した「阿
恩瞿利容経」を見るのみでした。参照:「敦煌と福音」(1988/8/7.長野県,望月町で
の主日講話)
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