...

人生の達人~ 山本玄峰

by user

on
Category: Documents
27

views

Report

Comments

Transcript

人生の達人~ 山本玄峰
広報田辺 平成
03
27
年
3
月号・もくじ
特集﹁ ∼人生の達人∼ 山本玄峰﹂
08
市政﹁未来 ポ ス ト ﹂ ∼ 皆 さ ん の 声 ∼
10
人事行政の 運 営 等 の 状 況
12
おしらせワ イ ド
4
日㊐は和歌山県議会議員一般選挙で
10
12
月
す/田辺市合併 周年記念連携︵冠︶事業
を募集します/国民健康保険の異動手続に
ついて/ヤングカーニバル2015 ほか
2
18
まちの話題
防災学習 いつか来るその日に備えて/今年
も強いぞ! 田辺市堂々の 位!/南国での
雪遊びを満喫! ほか
年度田辺市みんなでまちづくり補助
27
20
おしらせボ ッ ク ス
平成
金募集/健康づくり推進協議会一般公募委
員の募集/母子家庭の母等の就労を支援/
田辺まちなか春祭り/事業者用分別指定袋
の取扱い ほか
26
みんなの広 場
すくすく子育てクラブ/我が家の愛ドル/
たなべスマイル/防災コラム/まちかど特
派員/ブリリアント日記/図書館へ行こう
相談日程
特集
~人生の達人~
山本 玄 峰
世 界 各 国 を 行 脚 し、 徳 を 積
本 宮 町 で 生 ま れ、 日 本 だ け で なげく
んぽう
むことに生涯をかけた禅僧、
山本玄峰老師。様々なことに精通し、
TANABE City 2015.3
世に大きな影響を与え、多くの人物が慕い、教えを求めました。
今 月 は、 田 辺 が 生 ん だ 偉 大 な 禅 僧 の 生 涯 と、 彼 が 残 し た も の
を紹介したいと思います。
■参考文献
◇﹃季刊﹁禅画報﹂1988冬 第6号﹄ 編/竹本和生 出版/千眞工藝
◇﹃回想 山本玄峰﹄ 編/玉置辨吉 出版/春秋社
◇﹃玄峰老師﹄
編/高木蒼梧 出版/大法輪閣
3
30
主な電話番号等
今月の表紙
■田辺市役所 〒 646-8545 新屋敷町 1
☎ 0739-22-5300 ㈹ 0739-22-5310
■市民総合センター 〒 646-0028 高雄一丁目 23-1
☎ 0739-26-4900 ㈹ 0739-26-4914
■龍神行政局 〒 645-0415 龍神村西 376
☎ 0739-78-0111 ㈹ 0739-78-0116
■中辺路行政局 〒 646-1492 中辺路町栗栖川 396-1
☎ 0739-64-0500 ㈹ 0739-64-0966
■大塔行政局 〒 646-1192 鮎川 2567-1
☎ 0739-48-0301 ㈹ 0739-49-0359
■本宮行政局 〒 647-1792 本宮町本宮 219
☎ 0735-42-0070 ㈹ 0735-42-0239
■市水道事業所 〒 646-0028 高雄三丁目 18-1
表紙の山本玄峰老師は、
88 歳の時に撮られた写真
です。老師に会った人は、
みんな口をそろえて「お
別れした途端、すぐにで
もお会いしたくなる人で
した」と言うほど、生来
の人間の魅力がある方
だったそうです。
☎ 0739-24-0011 ㈹ 0739-24-7910
■市ごみ処理場 〒 646-0053 元町 2291-6
☎ 0739-24-6218 ㈹ 0739-24-4068
電話案内サービス
■防災行政テレフォンガイド ☎ 0120-963-910
■救急安心センター ☎ #7119
休日急患診療
田辺広域休日急患診療所(市民総合センター玄関右側)
内科・小児科系、歯科の応急診療
㊐㊗ 9時~11 時 30 分、13 時~16 時
(※小児科のみ、
㊏18時~ 21時 30 分も診療を行っています。
)
☎ 0739-26-4909
田辺市
ホームページ
モバイル用
ホームページ
防災行政
メール等
救急受診
ガイド
魅力あふれる笑顔!
マークの説明
■…日付・期間 ■…時間
■…休館日 ■…場所 ■…定員 ■…料金・費用 ■…持ち物 ■…申込み・申請方法
■…集合
■…内容 ■…問合せ
[消印]…消印有効 ■…対象・参加資格等
[先着]…先着順
◇㊗マークには、振替休日等も含みます。
◇申込み・問合せ等の受付については、基本的に㊏
㊐㊗を除く8時30分~17時15分です。
◇料金の記載のないものは、無料です。
◇申込み方法の記載のないものは、申込み不要です。
◇市役所の開庁時間は、㊗を除く㊊~㊎の8時30分
~17時15分です。毎週㊍は、市民課・保険課・税務課
の一部窓口を19時まで延長しています。
ツイッター・フェイスブックでも市の情報
を発信しています。
http://www.city.tanabe.lg.jp/jyouhou/sns.html
広報田辺 平成 27 年 3 月号
2
玄峰老師の
生涯
老師の人生は、まさに波乱万丈とい
えるものでした。赤ちゃんの時に置き
去りにされ、複雑な家庭環境の中青年
時代を過ごし、若くして失明を宣告さ
れます。途方のない悲しみに暮れ、死
に場所を求めて放浪。実に7回目の四
せっけい
国 遍 路 の 途 中、 雪 蹊 寺 で 力 尽 き ま す。
たいげん
そこで、生涯の恩師となる山本太玄和
尚に出会い、出家を決意。絶望のふち
から蘇生したのです。全国各地で厳し
い修行を重ね、 歳頃からは荒れ寺の
復興にも力を注ぎました。また、亡く
なる直前まで遍路行を続けるなど、生
涯修行を怠ることはありませんでした。
二十年
明治
十四年
二六歳
二五歳
二四歳
二二歳
十六歳
6 月 日、 太 玄 逝 去。 雪 蹊
寺の住職を継ぐ。
初めて修行僧として修行に
出 る。 滋 賀 県 永 源 寺、 神 戸
祥 福 寺、 岡 山 県 井 山 宝 福 寺、
岐 阜 の 虎 渓 山、 合 わ せ て
年間修行する。
雪 蹊 寺 に て 出 家、 玄 峰 の 号
を受ける。
四 国 遍 路 の 途 上、 行 き 倒 れ
と な り、 第 三 十 三 番 札 所 土
佐 雪 蹊 寺( 高 知 市 ) の 太 玄
和尚に救われる。
2年前から発症していた眼
病 が 悪 化 し、 失 明 の 宣 告 を
受ける。
いかだ流しをして熊野本宮、
新宮間を往復する。
三六年
昭和
一一年
八二歳
七一歳
花園大学の改革に専念する。
臨済宗妙心寺派管長に推薦
され、就任する。
7 月、 満 州 の 新 京 に 妙 心 寺
別院を開創する。
4
広報田辺 平成 27 年 3 月号
山本玄峰年譜
二三年
三八歳
龍沢寺(三島市)に入山し、
住職として復興に専念する。
慶応二年 一歳
(一八六六︶
二四年
五十歳
1 月 日、 湯 の 峰 温 泉 の 芳
野 屋 に 生 誕。 置 き 去 り に さ
れ た が、 渡 瀬 の 岡 本 善 蔵・
と み え 夫 妻 に 育 て ら れ、 岡
本芳吉と命名される。
大正
四年
五八歳
二二年
一二年
大 洋 丸 に 乗 船、 外 遊 の 途 に
就 き、 ア メ リ カ 大 統 領 ハ ー
ディングに会見。イギリス、
ドイツを巡遊する。
月、
インドの仏跡を巡拝する。
二二年
八三歳
六十歳
二三年
龍沢寺の住職を辞任する。
分逝去
八六歳
時
二六年
6月3日
九五歳
一四年
11
三五年
九六歳
25
50
28
28
「 無 門 関 提 唱 」 を 出 版 す る。
体調不良により全生庵にて
静養する。
三六年
13
TANABE City 2015.3
5
10
四国霊場第三十三番札所、雪蹊寺(高知県高知市)
生涯の活動拠点となった龍沢寺(静岡県三島市)
四国遍路の様子
いかだ流しをした熊野川
青年期まで過ごした渡瀬の集落
湯の峰温泉にある玄峰塔
書を書く老師
立たぬよ
老 師 は、﹁ 陰 徳 を 積 め ﹂ や﹁ 目
う に、 際 立 た ぬ よ う に、 さ り げ な く 行 え ﹂
という言葉が口癖でした。そうした陰徳の
積み重ねが、大きな徳となって人間性を大
きくし、不可能を可能にすることができる
と身をもって知っていたからです。修行時
代、文字を多く知らなかったことや視力が
悪かったことから、他の修行僧と同じ修行
だけでは到底追いつくことができないた
め、皆が寝静まってから線香の火で勉強を
したといわれています。また、人の嫌がる
ことを率先して行い、修行僧や多くの人々
から信頼を得たこともありました。
うにとの教えです。
とともに、どんな小さなこ
とにでも感謝の念を持つよ
つまり、他人への憎悪をい
くら後悔しても、その罪は
一生消えることはないの
で、常日頃から気をつける
りしたときには、すぐにそ
の場で反省をすることが大
切 だ と 言 わ れ た そ う で す。
老師は、他人に対して悪
く思ったり憎しみを持った
目立たぬように、
際立たぬように、
さりげなく行え
耐え難きを耐え、
忍び難きを忍び
歴代の総理大臣のご意
見役であった四元義隆氏
は、
﹁終戦を貫徹できた
のは、天皇陛下と鈴木貫
太 郎 首 相 の お 陰 で あ る。
鈴木首相を力づけ、終戦
の大信念を固くさせたの
は、
山本玄峰老師である﹂
と言ったそうです。老師
は鈴木氏を励ますために
手紙を送り、その内容が
終戦の詔書の元となった
ともいわれています。
陰徳を積め
教示
玄峰老師の
老師に学んだ人生を
後世にも
しょうとく
徳会
私が所属する頌
︵ 平 成 5 年 設 立 ︶ で は、
関連冊子の製作をはじ
め、講演会や老師が描い
た多数の書の展覧会、市
内やアメリカでは地元有
志によるミュージカルを
開催するなど様々なこと
に取り組んできました。
政界や経済界、文化人
などたくさんの方々が老
師の人柄を慕い、教えを
請われたように、老師の
生き様や言葉は、今を生
きる私たちにとっても学
ぶべきところが多いので
はないでしょうか。
田辺市の誇り、郷土の
偉人として、子どもたち
にも知っていただき、語
り継いでいただきたいで
すね。
6
広報田辺 平成 27 年 3 月号
TANABE City 2015.3
7
玄峰老師頌徳会 会長
久保 隆一 さん
幾つもの書を残している玄峰
老師が、生涯好んで書いたとい
う「寿」の文字。これは 89 歳の
ときに書かれたものです。
負い目をするな
老師は禅の道を歩み、生き続けましたが、老師が残したもの
は禅僧としての生き方だけではなく、
﹃人﹄としての生き方で
した。
﹁今自分が抱えている不安や悩みをどうやって解決できるか﹂
﹁私たちのこれからの人生で訪れるであろう困難に対してど
う向き合うことができるか﹂
そうしたときに、老師の思いや言葉、そして信条が私たちの
生き方に光を与えてくれるかも知れません。山本玄峰は、全て
の人が通るそれぞれの道を照らす﹃人生の達人﹄だったといえ
るでしょう。
人 の生き方に触れて
Fly UP