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ー 997年度オ離ストラリア・アジア微量分析及び
iforum in FORUM3 1997年度オース トラリア ・アジア微量分析及び 環境モニタリングシンポジウムに参加 して 基礎化学科 楢崎 久武 1. はじめに 1997年 8月 18目付 けの手紙でオース トラリアの西 シ ドニー大学 ・ネ ピー ン校 ・電気化学及び分析技 CERAT)のアデ ロジュ教授か ら 10月 9日110日に同大学パ ラマ ッタ校舎で開催 さ 術研究セ ンター ( れ る上記 シンポジウム ( AuSTEAM1997) につ いて基調講演の依頼があったO講演 の内容は この シ ンポ ジ ウムの 目的 に沿 った もので あれ ばなんで もよいが、で きれ ば貴殿 が Ana ly tical Sc i- ences誌 (12,623-627,1996)に発表 した水素化物発生 一誘導結合 プ ラズマ ー質量分析 法 につ いて して講演 して ほ しいとの ことであった。直ちに受諾の返事 と講演要 旨を送付 したが、そ の後なん の連絡 もなか った09月 16日になって ファックスで宿舎 の手配 を したのでシ ドニー空港 の到着時刻 を知 ら せて は しい との連絡があ り、急 にシ ドニーゆきの航空券 を購入 し、オース トラリアの査証の準備 を した。 も うこの時点で は格安航空券 も 日本航空 の航 空券 も売 り切れて いた0 10月 7日は東京大学教養学部で 日本分 析化学会 46年会があ り、 17時 まで座長 をしていたので、講演終 了後 、成田空港へ直行 した。空港へ到着 してみ ると、20時 45分出発予定のカ ンタス ・オース トラリア航空 QF22便 はキ ャ ンセル された との こ とで、その代わ りにケアンズ行 きの QF60便 が 21時 に出発す る ということで、それ に便乗する ことにな った。ケアンズ空港で 1時 間休 憩ののち、臨時便 に搭乗 し、眼下 にグ レー ト・バ リア ・リー フを眺めなが ら、 10月 8日の 8時 20分 に シ ドニー空港 に到着 したO こういうわ けで、シ ドニー空港 では 2時間 もアデ ロジ ュ教授 を待たせて しまったO先 に台湾か ら到着 され た国立清華大学化学研究所の貴 覧達教授 とともに西 シ ドニー大学 の 自動車で 、 1852年創立 の シ ドニー大学 を横 目に見なが ら、 シ ドニー市内を通 って西 シ ドニ -大学パ ラマ ッタ校舎 の近 くの宿舎 ウェス レ一 ・ロッジに到着 した。季節 は初夏で あった。 宿舎では翌 日の講演 の準備 に没頭 したが、一段落 したので、宿舎 の近 くを散歩 してみ る ことにした。パ ラ マ ッタ校 舎 の近 くにはパ ー スへ 通 ず るウ ェス トミー ドとい う駅 が あ り、駅 の近 くに は数軒 の店 が あ り、 CHEMIST (薬局) もあ り、駅か らシ ドニー中央駅 まで 20分 である ことが分かった。書店ではダイ ア ナ元英 国皇太子妃の追悼写真集 が うず 高 く積み上げ られてお り、 この国が英連邦 の一員 である ことが印象付 け られ た。 2. 1997年度オース トラリア ・アジア微量分析及び環境モニタリングシンポジウム 10月 9日は最初が小生の講演 で 「 嘉 一液分離器 を用 いた水素化物発 生 一原子分光法 による河川水 中の水 素化物発生元 素の定量」 と題 して、水素化物発 生 一原子吸光法、水素化物発生 一誘導結合 プ ラズマ ー原子発 光法及び水素化物発 生 一誘導結 合プラズマ ー質量分析法 による ヒ素及びセ レンの定量 につ いて講演 した ( 本 誌 ,15,9-19,1995掲載)D以下 、順 を追 って述 べ る。2, アデ ロジ ュ教授 の 「 ス トリッ ピン グ ・ボル タ ンメ トリー による環 境及び生体 中の微量金属及び半金属 の定量」、3.タスマニ ア大学 のハ ダ ッ ド教授 の 「 イ オ ンクロマ トグ ラフィー及びキ ャ ピラ リー電気泳動 による環境モニタ リング」、4.アデ ロジ ュ教授 の 「 矩形波ア ノーデ ィック ・ス トリッピング ・ボル タンメ トリー による鉛、カ ドミウム及び亜鉛 の同 時定量」、4.香港城市大学 の胡 紹炎教授 の 「 微量金属 の環境モニ タ リングー過去 と未来」香港湾 の環境 - 43 一 待染o5.オース トラリア連邦科学工業機構 ( Commonw ealth S°ientific and In( lustrial Research Organization、CSIRO)のバ ッ トレ-博士に よる 「 天然水及び堆積物中の微量金属の形態 と生物活性」、バ ッ トレー博士はフロー レンス博士 とともに分 ( chem ical speciatiol l)の草分けであるが, フロー レンス博士は CSIROを定年退職 されたとの ことであった。6.ニュージーラン ド ・オタゴ大学の 析化学の教科書にも登場する化学種定量 ハ ンター教授 による 「 生物起源配位子 による水系における微量金属の制御」、7.ニュー ・サ ウス ・ウェー ルズ大学の ヒバー ト教授の 「 環境データの正確 さ」。 午後 7時か ら隣のパ ラマ ッタ駅の近 くのガゼボ ・ホテルで晩餐会があった。アデ ロジュ教授はナイロビ出 身の黒人であ り、夫人はケアンズ出身の白人で、 ご先祖は英国 リヴァ-プール出身 とのことであった。 ここ で初めて Tボー ン ・ステイ-クなるものを賞味 したが、オース トラリアの肉は堅 く.その他 の料理 も荒っぽ かったO宿舎にはオース トラリアではサー ビス ド・アパー トメン トといわれる自炊設備があるので、 自炊す ることにした。スーパーでのイ ンスタン ト食品は韓国製であったO 翌 日の講演は 1.滴華大学の黄 賢達教授の 「 固相微量抽出による水中の有機物の定量」、カナダのボー リスチ ン教授が開発 された固相微量抽出の応用である。 2.ニューイ ングラン ド大学のデ ィン ドサ講師の 「 冷原子吸光法による水銀定量のための環境及び生物試料の処理」、 この発表はのちにディン ドサ講師の博士 論文 とな り、小生は学外論文審査員 ( external examiner)を担 当した03.シ ドニー大 学 ケネディ一教授 の 「 オース トラリア綿花工業 における殺虫剤の影響の最小化」、4.ラ トローブ大学のブ ル ックス氏の 「 河川水 中の天然有機化合物」、 5.アデ ロジュ教授の 「 環境モニタ リング用電気化学バイオ セ ンサー」、 6.アデ ロジュ研究室唯一のオース トラリア入学生であるア ドック氏 による 「 陽極電折 による 工業排出物か らの金属の回収」。その後 ワーク ・ショップがあった。 ポスター ・セ ッションでは 1.メルボルンにあるオース トラリア政府分析実験所 ( Australian Covernment Analytical Laboratories、AGAL)による 「ガスクロ マ トグラフィー及び高速液体 クロマ トグラフィーによる土壌 中の微量の多芳香環化合物の定量」、 2.オー ス トラリア政府分析実験所の 「 土壌及び水中の石油炭化水素 ( C1O- C36) の確認 と分析」、3.ニューイン グ ラン ド大学のデ ィン ドサ講師の 「 冷原子吸光法による水銀定量」、4.ニュー ・サ ウス ・ウェールズ大学 の ヒバー ト教授の 「 テ トラテノイルテ トラアザ クラウンエーテルをベースとするポ リ塩化 ビニル膜電極 を用 いたフローイ ンジェクション電位差分析による水銀の定量」、 5.西シ ドニー大学ホ-ケスバ リー校の 「 シ 高速掃引示差 アノーデ ィック ・ス ト ドニー周辺の農作物の土壌中のカ ドミウム」、 6.アデ ロジュ教授の 「 リッピング ・ボルタンメ トリーによるニ ッケル及びコバル トの定量」があったO これだけのシンポジウムを学生たちとともに開催 されるアデ ロジュ教授には大変な ご苦労があった と思わ れた。 3. オース トラリアにおける研究 西シ ドニー大学 ( University o f Western Sydney) はいずれ もシ ドニー郊 外にある 3つのカ レッジか らなる。リッチモ ン ドにある 1891年創立の西シ ドニー大学ホ-ケスベ リー校, キ ングスウッ ドにある 1973年創立の西 シ ドニー大学ネピー ン校及びキャンベルタウンにある 1974年 創立の西シ ドニー大学マ ッカーサー校がオース トラリア政府出資のもとに 1989年に統合された学生数 1 万 6000人を擁す る総合大学である.ホ-ケスベ リー校は創設 100年を越え、農業教育 に伝統があ り、 農学部、経営学部、理工学部、園芸学部及び看護学部がある。マ ッカーサー校は人文教養、看護、語学教育 等のコースを開設 しているO電気化学及び分析技術研究セ ンターの所属する西シ ドニ-大学ネピー ン校 には 商学部、教育学部、工学部、人文社会学部、法学部、看護学部、芸術学部及び理工学部があ り、学生数 1万 -4 4- 2000人であるoさらに理工学部には数学科、物理学科、化学科、生物学科及び計算学科があ り、学生数 14( )O人であるDアデ ロジュ教授の主宰される電気化学及び分析技術研究セ ンターは 1988年に創設さ れ・同教授は分析化学の中でも電気化学の鋭意練達の士であ り、ボルタンメ トリーやバ イオセ ンサーについ て精力的に研究 してお られる。研究室の学生は入学院生と研究生 と合わせて 10人であ り、生粋のオース ト ラリア人は ェ 人で他は中国.ベ トナム、ス リランカ、アルメニア、エルサルバ ドル、南 アフ リカ等か らの全 て留学生である。 日本のように修士課程を修 了 してか ら、博士課程に進学するのではな く、オース トラリア では学部を卒業すると、修士課程または博士課程 いずれかに進学する。外国か らの留学生は hon。ra_ ry studel lt ( 研究生のこと) を 1年 してか らいずれかに進学するようである。 オース トラリアの面積はわが国の約 22倍 もあるが、人口は 1700万人で、学会活動は低調であるとい うo同じ広大な国土を有 し、 13億の人口を有する中国の方が学会にも活気があるよ うである。オース トラ リアは石炭,羊毛、綿花な どの資源輸出国であるが、わが国は資源輸入国であ り、わが国の唯一の資源は人 材であ り、人口の減少には気を付けなければいけないと思 った。オース トラリアか ら日本分析化学会の英文 誌に投稿されることがあるので、理由を尋ねてみると、なによ りも出版が迅速であるか らということであっ た。留学生か ら履歴書を添えて 日本への留学を依頼されたが、住環境、奨学金、 日本語 という言語の障害 を 考えると引き受ける気にはな らなかった。 シンポジウム 4. オース トラリアについて 休 日は海外か らの人はオース トラリアのグラン ドキャニオンといわれるシ ドニー郊外のブルー ・マウテン ズ国立公園へ出かけた人が多かったが、小生は鉄道、市内電車及びバスを利用 して専らシ ドニー市内の観光 に終始 したDロックス ( The Roeks)は 1788年に英国のアーサー ・フィリップが移民船 を率い て上陸 し、砂岩の丘に開拓村を建設 したところで、現在はハーバー ・ブリッジやオペラハウス等が林立 し、 観光客が絶えないところである。アーサー ・フィリップは直ちに縁豊かな穀倉地帯 を求めて、最初に述べた パラマ ッタへ進出 したという。シ ドニー市内の土産物店ではワーキング ・ホ リデーといって 日本の若者たち が働いていた。 シ ドニーにはハイ ド・パーク、キ ングス ・クロス、オックスフォー ド・ス トリー ト、パディ ン トンな ど英国のロン ドン市内と同じ地名があるが、恐 らく故国を懐か しんで名付けられたのであろう. 小生は 1975年か ら 1年間 ロン ドン郊外のエセ ックス州エ ツビングに在住 し、ロン ドン市内まで通学 し たことがあり、シ ドニー郊外にもエツビングがあったので行ってみたが、オース トラリアの工ッビングは英 国のエッビングと異な り、広々としていた。行ってみるまでは、分か らなかったが、オース トラリアは色々 な点で英国の影響を受けているようであるO例えば、エ レベーターは 1を押す と 2階で止まり、2を押す と 3階で止まる。 しか し通貨はポン ドではな くて、 ドル とセ ン トであ り、 1セ ン トと 2セ ン トの硬貨がな く、 最小硬貨は 5セ ン トでなので、端数のセン トは二捨三人または七捨八人される。例えば、92セン トの場合 は 90セ ン トにな り、93セン トの場合は 95セ ン トになる。 こうした点にもオース トラリア人の気質が現 れているように思えた。帰国後、航空券を購入 した東京エクスプレスか ら飛行機がキャンセルされて大変だ ったで しょうといわれたが、旅は出会いであり、思わぬ ことにも出くわす こともあるが、それな りの収穫 も あったと思っている。 西