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3300KB - 京都精華大学
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アルベルト・ブッリが獲得したコラージュの独自性
アルベルト・ブッリが獲得したコラージュの独自性
田 中 真 吾
TANAKA Shingo
1.はじめに
アルベルト・ブッリ (Alberto Burri 1915 年∼ 1995 年 ) は、ルーチョ・フォンタナと同時期
に活躍したイタリアの芸術家であり、フォンタナと並んで戦後イタリア美術を代表する芸術家
とされているが、日本では 2000 年に豊田市美術館で行われた回顧展と、1950 年から 60 年代
にかけて数回紙面で言及された以外はほとんどその活動を紹介されていない。しかし、ブッリ
の制作活動から生み出された作品は、彼の持つ素材への探究心とマチエールの意識によって独
自性を獲得し、それが現在のヨーロッパでの評価へと繋がっている。ブッリは、ピカソ、ブラッ
クから始まり、ダダやシュルレアリスムにも継承されたコラージュを、彼の方法論で更に発展
させたのである。彼の作品はイタリアのみならず、ヨーロッパからアメリカにまで紹介され、
同時代とその後の美術史に大きく影響を与えている。本論では、アルベルト・ブッリの制作活
動全体の流れを追いながら、特に初期から中期の作品をコラージュの方法論で捉え、ピカソの
作品と比較しながら、コラージュの技法を彼がどのように発展させ、新しい表現を生み出した
のかを考察していく。
2.アルベルト・ブッリの経歴と時代状況
1 ブッリの経歴
アルベルト・ブッリは 1915 年、イタリアのチッタ・ディ・カステッロ市に生まれる。父ピ
エトロはワイン商、母カロリーナ・トッレッジャーニは小学校教師であった。1940 年にペルー
ジア大学医学部を卒業するとすぐに軍医として召集され、リビア戦線に従軍後、1943 年にチュ
ニジアでイギリス軍の捕虜となる。その後 1944 年にアメリカ軍によってテキサス州アマリロ
近郊、ヒアフォードの捕虜収容所に移送され、そこで1年半の抑留生活を送ることとなる。こ
の抑留生活の中で、支給された物資の中からカンヴァスと絵具、絵筆を選んだことが、その後
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の彼の人生にとっての大きな転換点とな
1
る。 この時期、同じ収容所で捕虜生活を
していたイタリア人作家のジュゼッペ・
ベルトは、当時の様子を回想しながらこ
う述べている。
「人間にあきあきとし、人
間など自分が診るに値しないと決め、も
う医者はやらぬときっぱり宣言した医師
がひとり収容所にいる。これがヒアフォー
ド収容所に広まっていたブッリの伝説で
あった」この時期の作品は多くは残され
図 1:
《テキサス》1945 年、油彩
(出典:
『BURRI』
(展覧会図録)豊田市美術館)
ていないが、例えば収容所で描いたとされる最初期の作品〈テキサス〉( 図 1) を見ると、この
頃からすでにブッリの関心が、対象を「本物らしく描くことにはない」ことが分かる。各々の
モチーフは極端に単純化、あるいは変形され、色彩においても、見えている色をそのまま画面
にのせているようには見えない。厚く塗られた絵具は物質感を主張し、チューブから出されて
そのまま塗られたかのような生々しい色彩が画面全体を覆っている。この作品からも、ブッリ
が制作活動の初期から、素材への意識と画面を構成する色彩に関心を持っていたことが窺える。
1946 年に抑留生活が終わり、故郷に帰ると家族に医師を辞めることを告げ、ローマへと赴き、
そこでスタジオを構えて本格的な制作活動を開始することになる。翌年、マルゲリータ画廊で
初個展を開く。この時出品された作品にはヒアフォードで制作された初期の具象作品も含まれ
ていた。1948 年に初めてパリを訪問。初期アンフォルメルの作家と交流し、大きな影響を受
ける。この年に行われたマルゲリータ画廊での 2 度目の展覧会には具象的な絵画とともに抽象
を試みた作品が出品されており、これを境にしてブッリ独自の作品が形作られていくことにな
る。1951 年、コッラ、バロッコ、カポグロッシとともにグループ〈オリジネ〉を結成するなど、
当時の美術状況にとりわけ顕著であったマニフェストを基にしたグループの活動も積極的に行
い、1952 年にはフォンタナを中心とした空間主義の第 5 回宣言にも署名している。同年には、
第 26 回ヴェネツィア・ビエンナーレにも出品している。1953 年に当時のソロモン・R・グッ
ゲンハイム美術館長であったジェイムス・ジョンソン・スウィーニーに見出されたことが、ブッ
リの国際的評価を高めるきっかけとなる。1955 年にはニューヨーク近代美術館で行われた「新
たな 10 年 22 人のヨーロッパ画家」に参加し、これに併せて行われたニューヨークのステー
ブル画廊とオベリスコ画廊での個展にスウィーニーがモノグラフを寄せたことで、アメリカで
の評価は確たるものとなり、その後は公的施設での個展が続いていく。このアメリカでの成功
を受けて、それまでブッリに対して批判的であったイタリアの批評界も、ついにブッリを受け
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入れる。これによりイタリア各地の画廊、美術館での展覧会が実現し、1960 年に行われた第
30 回ヴェネツィア・ビエンナーレにおいては、1 室を与えられての展示となった。ブッリは
1963 年、ミラノにあるスカラ座でのモートン・グールドのバレエ「スピリチュアル」の舞台
デザインを手がけたことをきっかけとして、1972 年のローマ、オペラ座における武満徹「ノー
ヴェンバー・ステップス」や 1975 年のトリノ、レージョ劇場において、ヴァーグナー「トリ
スタンとイゾルデ」の舞台装置を担当するなど、演劇の分野でも精力的な活動を行っている。
この演劇分野での活動の背景には、1955 年に結婚したアメリカ人舞踏家の妻、ミンサ・クレー
ヴの存在があると思われる。1981 年、チッタ・デ・カステッロのルネサンス建築、パラッツォ・
アルビッツィーニに美術館と財団が設けられたことにより、故郷への大規模な寄贈が実現し、
約 200 点の作品が常設展示されることになった。アルビッツィーニ財団は後年更に施設を拡張
し、1990 年には同じくチッタ・デ・カステッロ地方にある旧煙草工場をブッリ・コレクショ
ンの 2 番目の施設として公開した。この施設では、およそ 1km の壁に 200 点を超える作品が
展示された。1995 年、ニースで死去。享年 80 歳であった。
2 当時のヨーロッパ及びイタリアの美術状況
ブッリが制作活動を開始した当時 (1948 年 ) のヨーロッパでは、各国で新しい絵画の探求が
始まっていた。その中でもブッリ自身に影響を与えただけではなく、戦後世界の美術を大きく
方向づけたのは「アンフォルメル」だろう。アンフォルメルとはフランスを中心として興った
抽象絵画の動向であり、戦前までの幾何学的抽象に対して、厚塗りや即興性をその特徴として
いる。それらを試みた一群の作品を、1952 年にフランスの美術評論家であるミシェル・タピ
エが「アンフォルメル」と名付け、1945 年から 47 年に続けて発表されたジャン・フォートリ
エの《人質》
、ジャン・デュビュッフェの《厚塗り》
、そしてヴォルスの個展をその先駆的存在
と位置付けながら、強力に唱導していくことになる。アンフォルメルの特徴について、井関正
昭は『イタリアの近代美術 1880 ∼ 1980』の中で次のように定義している。
フォルム ( 形態 ) の概念を美術の長い過去の歴史にあったように完成されたものという基
準で決めないで、存在そのものを基準としながら、フォルムを形づくる行為そのものや、
表現のための素材自体を共通の起点として一瞬のうちに提示することである。したがって
何かの対象を形づくるという願望に対して、あらかじめ合理的に構成することに反対する。
この意味でアンフォルメルは、対象の形を再現することはないので、抽象的ではあるが、
決して幾何学的でも構成的でもない。そこでは、表現する行為そのものが問題となり、素
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材自体が強調される。
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タピエには、同時代に興り始めた絵画の新たな探求をアンフォルメルによって一括し、国際
的な枠組みへと展開しようとする意図があった。それはタピエが 1951 年に組織した展覧会「激
しい対話」において、初期アンフォルメル作家とともに、ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・
クーニングといったアメリカの抽象表現主義の作家が含まれていることからも窺うことができ
る。タピエはその後、様々な国を周ってアンフォルメルの伝道に努める。1958 年にはアンフォ
ルメル作家であったジョルジュ・マチュウやサム・フランシス、ヨーロッパに滞在していた今
井俊満らと共にタピエ自らが来日し、当時日本で前衛的な活動を行っていた「具体美術協会」
を一線級のアンフォルメルだと賞賛した。この大々的な宣伝活動の影響で「アンフォルメル旋
風」と呼ばれる現象が起こり、多くの作家がアンフォルメル画家へ転身するなど、ヨーロッパ
から遠く離れた極東の国にまでアンフォルメルの影響は届いていた。結果的に、アンフォルメ
ルは 1950 年代から 60 年代にかけてヨーロッパのみならず世界中の美術の動向に影響を与え、
歴史的にも類を見ない程の一大潮流へと成長する。しかし、あまりにも多くの作家がその表現
方法を取り入れたことで、1960 年代に入ると形骸化に陥り、アンフォルメルは次第に影響力
を失っていくことになる。だが、アンフォルメルが戦後美術の中に新しい表現を築いたことは
紛れもない事実であり、その功罪を含めて今なお議論の余地が残されている。
イタリアでは、戦後独自に形成されてきた「具体主義 ( コンクレティスム )」と呼ばれる探
求が進められていた。
「具体主義」とは具象でも抽象でもない絵画を目指す流れであり、結果
的にアンフォルム的な抽象絵画が生成されたとしても、その道程はアンフォルメルとは対照的
なものであった。この「具体主義」の優位や自然主義的な伝統の強さ、立体主義の残滓などの
3
要因により、イタリアにアンフォルメルが導入される時期は遅れたとされている。 しかし、
それは同時代のイタリアにアンフォルメル的な探求を行う作家がいなかったことを意味するの
ではない。今日ではブッリやフォンタナが重要なアンフォルメル作家として度々紹介されてい
ることからも窺われるように、彼らは具体主義や自然主義の優位の中で新しい絵画を探求した
のである。そしてその中で生み出された表現は、現在ではアンフォルメルとして一括されがち
ではあるが、当時はアンフォルメルと並行する形で独自の動向を形作っていた。それでは、フ
ランスでアンフォルメルが花開き始めたのと同時期のイタリアにおいて、どのような活動が行
われていたのか。20 世紀美術史上重要な作家と位置づけられているルーチョ・フォンタナと
彼が結成した〈空間主義〉
、
またブッリが加わっていたグループ〈オリジネ〉について見ていく。
1939 年、当時 40 歳であったルーチョ・フォンタナ (Lucio Fontana 1899 年∼ 1968 年 ) は、
ミラノのブレラ美術大学で彫刻を学んだのち、故郷であるアルゼンチンに戻り、彫刻と陶芸分
野ですぐれた活動を行っていた。彼は 1946 年にブエノスアイレスで空間主義の前提示という
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べき「白の宣言 Manifesto Blanco」を発表する。
「白の宣言」を携えて 1947 年にイタリアに戻っ
たフォンタナは《空間主義》を結成。同年 5 月に最初の空間主義宣言を行う。空間主義宣言は
その後 1949 年から 53 年まで毎年、計 6 回行われ、第 6 回目の宣言は 1953 年のヴェネツィア・
ビエンナーレの機会に行われた。この 6 回にわたる宣言の中で、ブッリも第 5 回目の空間主義
宣言に署名している。フォンタナは当時「ゲルニカを越える」ことを目標としていた若いイタ
リアの芸術家たちを鼓舞し、道標を示す役割を担った。フォンタナの功績は、この《空間主義》
での活動に加えて、キャンバスを鋭利な刃物で切り裂いた有名な作品《空間概念》を発表した
ことにある。この作品が後世の美術家に大きな影響を与えたことにより、フォンタナは 20 世
紀美術史上の重要な作家として位置付けられることになる。
ブッリが同じローマで活動していたジュゼッペ・カポグロッシ (Giuseppe Capogrossi 1900
年∼ 1972 年 ) やエットーレ・コッラ (Ettore Colla 1896 年∼ 1968 年 ) らととも 1951 年に立ち
上げたのがグループ〈オリジネ〉である。
〈オリジネ ( 起源 )〉は、
そのグループ名が示すように、
絵画や彫刻のあり方を根源から問い直し、物質性を強調しながら現実世界と芸術の形而上的世
界を結ぶことだった。その方法として、一見破壊的とも思える芸術行為によって新たな出発を
試みる。メンバーの一人であったコッラは、アッサンブラージュ ( 寄せ集め ) の手法を用いて
幾何学的な抽象彫刻を試みている。コッラがこの頃に使用していた素材は、鉄製の滑車や筒、
ボルトなどの工業製品であり、それらの素材を用いることで出来るだけシンプルな構成のなか
に寓話的な世界を醸し出そうとしていた。このようにグループ〈オリジネ〉を構成していたメ
ンバーの多くは、身の回りの日常品、中でも産業製品に時代精神を見出しながら、作品に取り
4
入れようとしていたことが分かる。 しかし、
〈オリジネ〉のメンバーであったブッリ、カポグ
ロッシ、コッラ、カリ、ドラツィオ、スカナビーノ、ポモドロ兄弟、ソットサス、ベリッリの
内、ミラノの彫刻家であったポモドロ兄弟とベリッリを除けばローマの芸術家を中心に結成さ
れており、心理的な友情の結びつきという側面が強かったようである。したがって〈空間主義〉
や、
〈オリジネ〉と同時期に結成され、シュルレアリスムを手がかりにして素材の抒情を探求
したグループ〈核運動〉のように、広くヨーロッパへ繋がる文化的な性格は持っていなかった
5
とされている。
3.アルベルト・ブッリの作品概要
1 制作活動全体の流れと特徴
ブッリが 1945 年頃にヒアフォード捕虜収容所で描いた最初期の作品は、油絵具によって厚
く塗られた具象的な絵画であり、Ⅱ節でも述べたように収容所から見える風景を元に描いてい
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図 2:
《SZ1》1949 年
(出典:
『BURRI』
(展覧会図録)豊田市美術館)
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図 3:
《袋》1953 年、86 × 100cm 画布に袋、布地、油彩、ヴィナヴィル
(出典:
『BURRI』
(展覧会図録)豊田市美術館)
る。これらの作品は収容所でその一部が描かれ、
残りはローマにスタジオを構えてから制作され
た。1948 年からは、油絵具と同時にタールや
軽石を使った抽象的な画面づくりへと展開して
いく。この具象から抽象への転換に大きな影響
を与えたのがアンフォルメルである。ブッリは
1948 年にパリを訪れた際、初期のアンフォル
メル作家と交流を持ち、中でも美術史において
初めてタールを使用したジャン・デュビュッ
フェの作品に特に関心を寄せたようである。こ
の経験により、ブッリは絵具に拘らない絵画の
制作を手がけ始め、同年にマルゲリータ画廊で
図 4:
《赤 プラスチック》
1964 年、
60 × 40cm 木枠にプラスチック、燃焼
(出典:
『BURRI』
(展覧会図録)豊田市美術館)
行われた個展には、早くもタールを使用した作
品が出品されている。パリでの出来事は、単にアンフォルメル的な表現方法を作品に取り入れ
ただけではなく、そこから彼独自の素材への探求を生み出す契機となった。ブッリと初期アン
フォルメル作家の作品を比較しながら、北谷正雄は「アルベルト・ブッリの芸術:生成と展開」
の中で次のように述べている。
フォートリエやデュビュッフェに見られる厚塗りを用いて素材の質感を強調する描き方
は、画面に描かれた形象を強調することに重点が置かれ、下地とその上に描かれる画像と
いう伝統的な絵画の様式をはみ出してはいない。一方ブッリの作品にはそのような区別は
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アルベルト・ブッリが獲得したコラージュの独自性
図 5:
《白 亀裂 C1》1973 年 150 × 125cm、チェロテックスにアクリル絵具、
ヴィナヴィル、カオリン
(出典:
『BURRI』
(展覧会図録)豊田市美術館)
図 6:
《チェロテックス》1984 年、90 × 127cm チェロテックスにアクリル絵具
(出典:
『BURRI』
(展覧会図録)豊田市美術館)
見当たらない。ブッリ以外の素材を重視した作家たちが「素材を用いて作品を制作した」
6
のに対して、ブッリは「素材を作品にした」のである。
この「素材を作品にした」ことがブッリ作品の持つ魅力であり、以後の制作においても一貫
されているだけではなく、
《アルテ・ポーヴェラ》など後に続くイタリアの芸術家の指針ともなっ
た。1949 年に星条旗が印刷された麻袋を画面の一部に使用した《SZ1》( 図 2 ) が制作され、こ
の作品での実験を経て翌年からブッリの代表作となる《袋》の制作が開始される。一つの麻袋
で画面全体を覆ったもの、あるいはいくつかの袋同士を画面上で縫合したものをそのまま提示
する《袋》の作品によって、ブッリは作家としての立ち位置を確立することとなる。
《袋》( 図
3) を見ると麻袋で覆われた画面の所々に穴が開いており、その中に赤や黒の色彩が覗いている
のが分かる。穴がくる場所に予め色彩をのせていることからも、麻袋だけを提示するのではな
く、穴から覗く色彩を含めて画面を構成しようとする意識が読み取れる。さらに画面上には穴
を塞いだり、袋同士を繋ぎ合わせるために「縫合」を行っている箇所がある。図 3 の作品では
この「縫合」箇所を左側に多く作り物質感を持たせることによって、画面の右側にある穴から
覗く赤と黒のために画面全体のバランスが右側に傾く危険性を回避している。これはブッリが
新たな素材を画面に導入しながらも、素材が持つ特性に頼りきるのではなく、あくまでも冷静
に画面の中の構成について思考していたことを示す例である。
1950 年代前半には、画面に木の板を貼り付けた《木》のシリーズ、1950 年代後半には鉄を
貼り付けた《鉄》の作品が発表される。並行する形で 1954 年から紙や木、鉄、袋など、ブッ
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リの作品を構成する素材を燃やした状態で提示する《燃焼》の作品が手がけられている。
《燃焼》
の作品は、その後プラスチックと結びつき《プラスチック》( 図 4) の作品へと発展していく。
プラスチックは 1960 年代以降、安価で大量生産され広く普及した素材であり、戦後を特徴付
ける素材であるとも言える。そのため、もはや使い捨てるしかない無価値な素材として、当時
多くの作家が作品に取り入れている。ブッリはこのプラスチック板をバーナーで燃やし、画布
へと貼り付けることで作品へと昇華させた。燃やされることで歪み、所々に穴の開いたプラス
チック板はグロテスクな様相を呈しているが、穴から覗く下地の黒とのコントラストが印象的
である。
《袋》で得た感覚はここに活きており、表面のプラスチックから受ける物質的感覚と、
矩形で区切られた画面内での色彩や構図から受ける絵画的感覚が作品に同居している。この作
品からも、ブッリは決して破壊のみを意図して燃やしているのではなく、絵筆を握るような感
覚でバーナーを使用していたことが読み取られる。
1960 年代後半に入ると、縫合された麻袋や、燃焼により穴の開いたプラスチックなどの荒々
しい表現は落ち着き、色彩も白と黒のモノトーンとなる。この時期に制作された作品は《白》
または《白 黒》と題されており、プラスチックだけを白や黒の画面の上に接着させることで
構成されている。加えて、この頃から明確な輪郭を持ったフォルムが現れてくる。形状は半円
状、または聖堂を思わせるゆったりとした円天井の形となっており、イメージは単純化されて
いる。
1970 年代には、乾燥した大地のひび割れを思わせる《亀裂》( 図 5) が制作される。磁土のひ
び割れを用いたこの作品では、亀裂の生じている部分を画面の周囲や下部、または中心に配置
するなど、亀裂を活用して画面を自在に構成していることから、磁土と接着剤の混合によって
作家本人が厳密に亀裂を制御していることが分かる。
1980 年代に制作される《チェロテックス》( 図 6) によって、ブッリの制作活動は締めくくら
れることになる。素材に使われているセロテックス (celotex) とは、木粉・バガス粉・わら粉な
どの植物繊維を膠着材で固めた建材であり、吸音材・保温材として現在も使われ、ブッリ自身
も 1950 年代の作品から度々支持体として用いていた。
《チェロテックス》に至り、それまでの
モノトーンから一転して色彩が豊かになり、青色や金色が画面に登場してくる。それに伴い、
フォルムも単純化された女性の裸体を思わせるものへと変化している。しかし、それは着想段
階のモチーフに過ぎず、どのようなものをモチーフにするにせよ、ブッリにとっての関心は素
材の持つ質感と画面の構成であることが作品全般を通して貫かれている。
ブッリ作品の特徴として、まず素材に対する探求が挙げられる。麻袋からプラスチック、セ
ロテックスに至るまで、どのように扱えば素材の持つ最良の効果を発揮できるか、様々な実験
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アルベルト・ブッリが獲得したコラージュの独自性
的試みの中から生まれた手法が「縫合」であり「燃焼」や「亀裂」である。そのことは作品の
変遷を見ても明らかであり、実証的な制作姿勢は作品タイトルにも表れている。例えば《Sacco
(袋)
》や《Combustione Plastica( 燃焼 プラスチック )》など、素材や行為をそのまま作品タ
イトルにしたもの、または《Bianco( 白 )》
、
《Nero Cretto( 黒 亀裂 )》など画面に使われてい
る色のみのタイトルや、色と素材、または作品を特徴付ける効果の組み合わせで付けられてい
るものがほとんどである。こうした一見無頓着で単純に思えるタイトルからは、作品が象徴的
なニュアンスを持って分析されることを拒もうとする作家の強い意志が伝わってくるようであ
る。ブッリの作品は詩的な要素を極力排除し、素材が変容した様をそのまま提示する科学的探
究心によって支えられている。後年、
《袋》の作品が好評を博していることを知りながらも、
頑として再制作に応じなかったのは、彼の中で探求し尽くした素材に対する興味が失われてい
たからかもしれない。次に特徴的なのが画面に使われている色彩である。ブッリの作品を通し
てみると、
《チェロテックス》に至るまでの作品のほとんどが白、黒、赤の色彩で占められて
いる。麻袋や木の板など、素材の色をそのまま使用している作品においても、麻袋の穴や木の
板の隙間から黒や赤で塗られた画面の下地の色が見えている。ブッリにとってはこの白、黒、
赤という色彩は特別なものであった。それらの色彩を画面の中にどのように配置するか、ブッ
リは多様な素材を用いながらも色彩を含めた画面構成の重要性を常に意識し続けたのである。
2 作品への評価
Ⅱ節でも述べたように、アルベルト・ブッリの作品の評価は、当時のソロモン・R・グッゲ
ンハイム美術館長ジェイムス・ジョンソン・スウィーニーに「発見」されたことが大きな転機
となっている。ブッリはそれまでも、
ローマのオベリスコ画廊での個展や第 26 回ヴェネチィア・
ビエンナーレへの出品、グループ《オリジン》の結成など精力的な活動を行ってきたが、それ
はイタリア国外へと広く出て行くものではなかった。しかし、スウィーニーに見出されたこと
で 1953 年以降アメリカでの発表が頻繁に行われるようになり、それに伴いフランスやドイツ、
スイスなどヨーロッパ各国での展示も実現している。他にもイタリアの美術史家で評論家でも
あるチェーザレ・ブレンディや当時のプラド現代美術館長であったブルーノ・コラらがブッリ
の作品を高く評価している。チェーザレ・ブレンディはブッリの画集を編集しただけではなく、
評論家として当時のブッリ作品に対していち早く新しい解釈を試みた。それまでは、袋に開け
られた穴や縫合の跡は主に「傷跡」として解釈されており、従軍医師であったブッリの経験を
引き合いに出しながら「痛み」や「不快感」などといった実存的読解と呼べるような批評が大
半であったのに対し、ブレンディが試みた解釈とは、ブッリ作品の持つ革新的な重要性を指摘
するものである。その指摘とは、美術の体系の中に穴開けや切り裂き、縫合の行為を組み入れ
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るというものであり、
それらの行為を絵筆や鉛筆の代わりに針とハサミによって実現された「記
号」として考えることによって、初めてブッリの表現を理解できると説いたものであった。パ
ラッツォ・アルビッツィーニ財団のキアラ・サルテアネージは、豊田市美術館での展覧会カタ
ログの中で「この作家には素材を傷めつける意図はなく、素材本来の姿からかけ離れたものを
表そうとする気持ちもない」と書いており、ブッリが作品の中で「観者が素材の微妙な色の変
容に気づくこと」を大切にしていたと述べている。
日本でも東野芳明や宮川淳らがブッリを論文の題材として取り上げている。両者とも、出だ
しこそ袋に開いた穴や縫合跡を外科医としての彼の経験に繋げて書いてはいるが、それだけに
留まらない作品の持つ魅力を見抜いている。東野は「かれの作品はけっして破壊的でも革命的
7
でもない。汚穢な屑からかれがひき出す優美な韻律こそかれの本領である」 と述べ、宮川は
「ブーリの作品をキュビズムやダダイスムのコラージュ、さらにはシュルレアリスムのオブジェ
から区別するものは、その新しい物質意識である。というよりも、後者にあるものは、物質意
8
識ではなく、むしろ物質の認識にほかならない」 と分析している。
しかし、上記のような理解ある評価を得ていた反面、前衛的で攻撃的とも受け取れるブッリ
の作品を批判する声も強く、1950 年代のイタリアではそれほど取り上げられずに、主に国外
での発表を続けていくことになる。その原因として、一説にリオネッロ・ヴェントゥーリの存
在が挙げられる。彼は当時イタリア批評界の重鎮であり、彼の介入によって 1958 年に行われ
た第 29 回ヴェネチア・ビエンナーレへの作品出品数が大きく減らされたり、ピッツバーグ
200 周年記念国際絵画彫刻展にてブッリに大賞を与えようとするスウィーニーにヴェントゥー
リが抗したため、結局彼は 3 位に留まったという話もあるくらいである。だが、アメリカでの
度重なる成功を受けて、1950 年代後半からようやくイタリアの批評界もブッリを受け入れる
ようになる。また、イタリアの美術史家であるマリオ・プラーツは「惨めな木炭と化したフェ
ニックス」という挑発的なタイトルの論文の中で、
「
『エレベーター』の不潔な労働者同様に、
ブッ
リも「俺は魔術師だ」と言う権利をもっている。この魔術師は、もっとも嫌悪を催す、もっと
もつまらぬ素材プラスティックを芸術作品に変容させることができるのである」と皮肉めいた
9
口調でブッリを批判している。
4.コラージュとしての独自性
今まで見てきたアルベルト・ブッリの作品は、当時の美術状況において、結果的にどのよう
な独自性を獲得したのだろうか。ここからはブッリ作品の制作方法をコラージュの方法論とし
て捉え、ジョジュル・ブラックとともにコラージュを生み出したパブロ・ピカソ (Pablo Picasso
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アルベルト・ブッリが獲得したコラージュの独自性
1881 年∼ 1973 年 ) の作品と対比させながら、この問題を考えていく。
コラージュとは、その手法自体は少しも目新しいものではなく、20 世紀のはるか以前から
存在していたことが知られているが、美術史 ( 少なくとも西欧において ) の文脈に登場するの
は 20 世紀になってからである。西洋美術史の文脈においては、1912 年に「コラージュ」はピ
カソによって、
「パピエ・コレ」はブラックによって、それぞれ最初に制作されたとされてい
10
る。 「パピエ・コレ」とはコラージュの一種であるが、原則的に紙のみを貼り付けた作品を
指す。現在、
「コラージュ」の概念が、様々な解釈や方法論を取り込みながら拡大化したのに
対し、
「パピエ・コレ」という用語は時代的にきわめて限定され、キュビストが紙を貼り付け
て制作した作品に対してのみ使われている。
コラージュが生み出す作品への効果には次のような特徴がある。
「コラージュは、新聞紙、
木目を模した壁紙、防水布、さらには芸術家の作品自体といった既成のオブジェ ( 物 ) を台紙
に貼り付けるということ以上に、他の領域 ( あるいは他の時間 ) に属していた、一つあるいは
複数の要素を、新しい芸術のコンテクストに移すことを意味する。コラージュにおいて重要な
のは、このように諸要素が移動し、新たに出会うことによって、形態・構造のレベルもしくは
意味のレベル ( あるいは同時に二つのレベル ) において、元のコンテクストからの逸脱が生じ
ることである。それゆえ、コラージュの原理に基づいて制作された作品は、異質な構成要素を
11
受け入れ、
均質な空間を破壊する不連続性を特徴とする」 これは遠近法によってイリュージョ
ン的な空間を提供してきたルネサンス以来の絵画システムへの問い直しであり、だからこそコ
ラージュは、今日に至るまで多岐にわたって展開されてきたとも言える。これらの特徴につい
てピカソは当時から意識的であり、周りの作家や評論家でさえ見逃していたこの様な効果に誰
よりも敏感であった。ピカソの作品は、既成の布や新聞を用いながらも、それをそのまま布や
新聞紙の役割を担わせて作品内に登場させるのではなく、それらの素材を使いながら全く異質
な素材であるギターや瓶を連想させる画面を作り上げている。それぞれの断片を新聞紙や布と
して使用するのではなく、マチエールとして、あるいは色彩として使い、そうすることで素材
が本来持つはずの「意味」が解体される構造になっている。また、
矩形の中に描いた瓶やギター
の一部を異質な素材で覆い、覆われた部分と描かれた部分の差を際立たせることで、観者に画
面に対する違和感を与え、思考へと誘うことがピカソの狙いであった。さらにピカソの作品が
持つ魅力とは、意味を解体され、マチエールや色彩へと変換されたはずの新聞紙が、単なる画
面を構成する一要素として機能するだけではなく、作者によって厳選された見出しの言葉自体
が再度意味を持つ構造となっていることにある。その例を示す作品の一つが 1912 年の秋に制
作された《ギター、楽譜、グラス》( 図 7) である。この作品についてロザリンド・E・クラウ
スは著書『ピカソ論』の中でこのように述べている。
京都精華大学紀要 第四十六号
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ピカソのコラージュを歴史的に論じようとする人々
の意見が一致しているものの一つが、おそらく
1912 年秋の連作最初の作品における、
「戦端が開か
れた」という言葉であろう。この見出しはバルカン
戦争に関する報告 (「チャタルジャ前線で戦端が開
かれた」) と新聞の紙名である LE JOURNAL を LE
JOU に切り詰めたものだ。コラージュの操作その
ものの戯れを前提として、歴史家たちはこれらの言
葉全体が二つの水準――一つはバルカン戦争を、も
う一つは、油彩による「高級」芸術もしくは別の紙
片に ( 今や乗り越えられた ) 分析的キュビスムの手
図 7:
《ギター、楽譜、グラス》1912 年
(出典:ロザリンド・E・クラウス
『ピカソ論』松岡新一郎訳 青土社)
法で素描されたグラスに依然見られる図像再現の
( 伝統的な ) システムに対する闘いを指す――で機
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能していると見なそうとする。
このように、ピカソのコラージュはその画面の中で、幾度も意味の解体と創出を繰り返す
構造になっており、
「ピカソのコラージュは知的な遊戯のようである」と形容される所以でも
ある。コラージュの技法はその後、ダダに取り入れられることで現実世界の崩壊図や秩序の不
在の具現図となり、シュルレアリスムに取り入れられることで無意識化の幻想と象徴として用
いられ、合理的意識を非芸術的な図版や紙片の偶然の衝突によって壊そうという意図を持った
ものとして様々に展開されていくことになる。
戦後に活動を開始したアルベルト・ブッリは、同時代の多くの作家と同様にピカソを越える
ことを目標としながら作品制作を行っていた。美術評論家のジュリアーノ・セラフィーニは自
身が執筆したブッリのカタログの中で、彼がピカソを尊敬していたことを本人の言葉を引用し
ながら綴っている。
プラトンは、すべてはホメロスの中に見出せると言ったが、同じことがピカソにも当ては
13
まる。絵画のあらゆることは彼の作品に含まれている。
コラージュとしてのブッリの作品は、麻袋を麻袋として、プラスチックはプラスチックとし
て提示しており、それらを使って何か別の意味や役割を表そうとしているわけではない。異な
るコンテクストを持つ素材は、矩形の中に納まる断片としてではなく作品全体を覆い、そうす
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アルベルト・ブッリが獲得したコラージュの独自性
ることで所々に開いた穴から覗く下地を意識させる。隠された画面に意識を向かわせるこの効
果は、ピカソのコラージュについても言及されていたが、ピカソと決定的に異なっていること
は、画面に図像を連想させるフォルムが存在しないということである。ピカソの作品では、キュ
ビスム的手法によって分解されてはいるが、ギターやヴァイオリン、瓶などを思わせるフォル
ムが存在することによって、絵画であることが示されている。対して、ブッリの《袋》や《プ
ラスチック》には本来の意味での形象もなければ、観念の記号も無意識の象徴も見当たらない。
そこにあるのは赤や黒といった強い色彩と、縫合の跡、あるいは燃焼によって生じた歪みのみ
である。これは、単に抽象絵画的な手法に沿って画面が構成されているということ以上に、フォ
ルムからマチエールへの大きな価値転換が行われている。ブッリは、自らの探究心が見つけ出
した麻袋の縫合やプラスチックの歪みが持つ表情を、マチエールとして取り入れることでフォ
ルムを消し去り、異質な素材で覆われた画面を新たな絵画として成立させたのである。これは、
ポロックたちが切り拓いた抽象表現主義的な絵画とも、フォートリエやデュビュッフェが作り
出したアンフォルム的絵画とも異なる。彼らもフォルムを廃してはいるが、
素材の持つマチエー
ルよりも、第一に身体を感じさせる行為の跡を押し出すことによって画面を成立させている。
確かに、ブッリの作品からも作家の行為性を受け取ることはできるが、それは素材を作品とし
て成り立たせるための補助的なものとして行われているように見える。ブッリが持つマチエー
ル意識について、宮川淳は代表作である 「アンフォルメル以後」 の中で次のように述べている。
ここに典型的にみられるように、マチエールはもはや、その表面において、外在的にでは
なく、あくまでもそれ自体のうちに表現的可能性をはらむものとして、内在的に捉えられ
ているのだが、現代のマチエール意識がフォルムのシステムの否定に対応しているとすれ
ば、それはまさしく、マチエールがその表面においてではなく、そのかげにかくされてい
る内部性、深みにおいて捉えられているからであり、それゆえにその表現的可能性がフォ
ルムの破壊を前提とするからなのだ。たとえば、アルベルト・ブーリの作品は明らかにこ
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のような意識構造を示すものだろう。
ピカソのコラージュにおいては、布や新聞紙がマチエールの役割を担わされてはいるが、あ
くまでもフォルムが描かれている絵画空間という前提の上に、異質なコンテクストが入り込む
構造になっている。布や新聞紙のマチエールとしての機能は、観者がピカソの作品を絵画とし
て認識することで作動するのであり、画面内の不連続性が生じさせる違和感もここから導かれ
る。ブッリ作品の前では、誰もが全面を麻袋、あるいはプラスチック板で覆われた画面を見る
ことになる。観者はそれが絵画であると認識するより以前に、縫い合わされ、炎で変質させら
れた得体の知れない物体と向き合うことを余儀なくされる。フォルムという手がかりはなく、
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従来絵画を描くための材料であった絵具もほとんど使用されていない画面に対して、変容した
素材がマチエールとしての機能を併せ持っていることを受け入れた時に、初めて作品から絵画
空間が浮かび上がる。それは素材そのものの自立的表現であり、観者が了解した時にのみもう
一つの画面が立ち上がってくる、物質的画面と絵画的画面の二重性を帯びた作品となる。ピカ
ソと比較してみると、コラージュとしてのブッリ作品は絵画の成立過程を見事に逆転させてい
る。これがブッリが獲得したコラージュの独自性である。ここでブレンディのカタログから次
の一節を引用したい。
ブッリはコラージュから出発したのではなく、その反対に、徐々にコラージュの革新へと
行きついたのである。コラージュを革新するということは、素材を自立させるということ
15
をも意味する。
加えて、ブッリ作品が持つ独自性は素材との関係にも表れている。縫合や燃焼など、一見破
壊的に見える素材の見せ方は、傷跡や痛みなどと繋げて解釈され、また物質感を前面に出す手
法が、ブッリをアンフォルメル作家と位置付けさせてもいる。しかし、彼の活動の中で生み出
された作品全体を俯瞰してみると、その根底にはダダのコラージュや初期アンフォルメルのよ
うに、素材を支配し変形させるための手立てだと捉えているというよりは、もっと優しく素材
を尊重している感覚があるように思われる。キアル・サルテアネージの言葉を借りれば、
「用
いる素材の形を変えることは求めず、逆に素材の隠された表現力を露わにする」ような配慮が
ある。徹底した探求から生まれた素材との関係と、初期の作品から一貫して画面構成の意識を
持っていたからこそ、ブッリ作品は独自性を獲得し、コラージュを発展させることができたの
ではないだろうか。
5.まとめ
アルベルト・ブッリは徹底した探究心を持つことで、他のアンフォルメル作家とは異なる形
で素材との関係を築き、画面構成とマチエール意識によってコラージュを発展させた。彼は、
画面からフォルムを消す変わりに素材の自立的表現を獲得することで、独自性を持った絵画空
間を生み出したのである。ブッリの表現手法は、その後イタリアの芸術運動《アルテ・ポーヴェ
ラ》を始め、数多くの芸術家に影響を与えながら様々に継承されていくことになる。ブッリが
獲得したものは未だ美学的に多くの示唆を含んでおり、それは現在のイタリアにおいて、今尚
フォンタナと並んで戦後現代美術の祖として位置づけられていることにも窺うことができる。
2015 年にはニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館での回顧展が予定されており、
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アルベルト・ブッリが獲得したコラージュの独自性
これを機会にアルベルト・ブッリに関する研究が更に進むことを期待している。
注
1 北谷正雄「アルベルト・ブッリの芸術:生成と展開」豊田市美術館展覧会カタログ『BURRI』
2000 年 p.34
2 井関正昭『イタリアの近代美術 1880 ∼ 1980』小沢書店 1989 年 p.202
3 同上 p.203
4 愛知県美術館展覧会カタログ『イタリア美術 1945-1995 見えるものと見えないもの』1997 年
5 井関正昭『イタリアの近代美術 1880 ∼ 1980』小沢書店 1989 年 p.220
6 北谷正雄「アルベルト・ブッリの芸術:生成と展開」豊田市美術館展覧会カタログ『BURRI』p.37
7 東野芳明「優しき縫合術〈ブーリの場合〉
」
(現代美術の解剖 2)
『美術手帖』1960 年 2 月号 美術
出版社 p.120
8 宮川淳「傷痕の造形〈グリューネワルトとブーリ〉
」
『宮川淳著作集Ⅱ』美術出版社 1980 年 p.37
9 マリオ・プラーツ『ペルセウスとメドゥーサ−ロマン主義からアヴァンギャルドへ』末吉雄二、
伊藤博明訳 ありな書房 1995 年 p.573
10 河本真理『切断の時代− 20 世紀におけるコラージュの美学と歴史』ブリュッケ 2007 年 p.30
11 同上 p.5
12 ロザリンド・E・クラウス『ピカソ論』松岡新一郎訳 青土社 2000 年 p.81
13 Giuliano Serafini,Burri,The Measure and the Phenomenon ,1999,Edizioni Charta,Milano p.141
14 宮川淳「アンフォルメル以後」
『美術手帖』1963 年 5 月号 美術出版社 p.91
15 C.Brandi ,Burri , 1963, p.21
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