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戦 後 史 を 考 え る

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戦 後 史 を 考 え る
戦 後 史 を 考 え る
東京大学教授 田 中 明 彦
第二次世界大戦が終結して、2005年で60年にな
れたのか。このような点が明らかにされなければ
る。この時代を「戦後」という慣習は今でも続い
ならない。
ているが、この60年間をひとくくりにして歴史を
新しい「戦中」の時代?
とらえるのは、いささか無理が生じているように
みえる。第二次世界大戦の前を「戦前」というに
しても、1939年の60年前は1879年であって、この
2001年9月11日に起きたことは、日本では、「同
頃まで含めて「戦前」ということはない。その間
時多発テロ」と呼ばれた。ニューヨークとワシン
に第一次世界大戦もあるから、
「戦前」といって
トンに対してハイジャックされた民間航空機が体
も意味がないからである。
当たりをし、もう一機のハイジャックされた航空
これに比べると、第二次世界大戦後は、諸大国
機は、墜落した。たしかに、この事件はテロとみ
すべてを巻き込んだ世界戦争は、幸運にも発生し
なすしかない事件であった。しかし、通常、テロ
ていないから、いまだに「戦後」が続いていると
リズムという言葉で多くの人々が考える事態とし
みることもできるわけである。しかし、そのよう
てみると、あまりに大規模で破壊力があった。ニ
な「戦後」の時代の一つの特徴として考えられて
ューヨークの世界貿易センターの二つの摩天楼は
きたのが「冷戦」であり、その「冷戦」はすでに
テレビカメラの前で大音響とともに崩壊し、3000
終結してしまった。したがって、1990年代には、
人以上の人々が殺害された。
「戦後」ではなく「冷戦後」という呼び方が広く
国際政治の研究に
使われることになったのであった。いまや、
「戦
おいて、
「戦争」を
後」といっても、冷戦という戦争の「戦後」だと
小規模な武力紛争と
いうことになる。
区別するときに、し
しかし、21世紀にはいった今日、
「冷戦後」と
ばしば使われる基準
いう時代認識も、かなり古びてきたようにみえる。
は、戦闘員の死者が
2001年9月11日のアメリカ中枢部に対するテロ攻
1000人を超えるとい
撃の衝撃が極めて大きかったからである。いまや、
うものである。この
戦後でも、冷戦後でもなく、
「9・11後の世界」
基準に、とくに理論
という言い方の方が、世界的によく使われるよう
的根拠はないが、だ
になってきたのである。
いたい1000人程度の
いうまでもなく、何かの「後」の時代というと
犠牲のでるものは
らえ方は、それ自体でその時代の特徴を指し示し
「戦争」と呼ぶだけの重要性はあると思われてい
ているわけではない。
したがって、
もし現代を
「9・
るのである。この基準からすれば、9・11テロは、
11後」の時代ととらえることに意味があるにして
まさに「戦争」の規模にたっしたテロだったとい
も、
「9・11後」というだけでは、何事も語った
えるだろう。
ことにならない。9・11を境に何が変わったのか。
アメリカ人の多くにとっては、これは真珠湾攻
9・11以後、世界システムにいかかなる特徴が現
撃以来初めての米国領土への直接的な攻撃だった。
−1−
したがって、ブッシュ大統領が、このテロリスト
国際的な支持は強く、軍事作戦が成功しタリバン
たちとの戦いを「対テロ戦争」と呼んだことは、
政権が崩壊したあと、ただちに国際社会によるア
違和感なく受け取られた。その結果、対テロ戦争
フガニスタン復興支援の試みがなされ、依然とし
という名目で行われる、軍事作戦を含む様々な活
てさまざまな問題は抱えつつも、2004年秋には無
動に対してアメリカ国民の多くは支持を与えた。
事大統領選挙が実施されるまでになった。
こうして、9・11以後の世界は、戦後とか冷戦
これに
後というよりも「戦時」に近い雰囲気で推移する
比べると、
ことになったのである。2004年11月のアメリカ大
イラク攻
統領選では、ブッシュ大統領が再選されたが、そ
撃は国際
の最大の要因は、対テロ戦争を遂行しているさな
的にたい
かで、アメリカ国民が自らの最高司令官を交代さ
へん大き
せたくないと思ったことにあるとみられる。ブッ
な問題と
シュ大統領自身、選挙戦では自らを「戦時の大統
なった。
領」として支持を求めていた。
アメリカ
したがって、2001年以後の世界は、ある種の世
がイラク攻撃を行った公式の理由は、サダム=フセ
界戦争のもとにあるとみなすことすらできるので
イン政権が1991年の湾岸戦争後の国際約束である
はないかと思われる。唯一の超大国であるアメリ
大量破壊兵器の破棄ならびにこれを確保するため
カ自身、世界中でテロリストと対峙していると意
の国際的査察を受け入れていないというものであ
識しているし、これに対する9・11の首謀者とみ
った。このような要求を受けて、2002年後半から
られるアルカイダもまた、世界中でテロ攻撃を狙
国連や国際原子力機関の査察チームがイラクには
っているとみられるからである。実際、アルカイ
いって調査を行ったが、はっきりした結論がでな
ダとどれだけ関係があるかはともかく、以後、か
かった。サダム=フセイン政権の十分な協力姿勢
なりの規模のテロが、インドネシアのバリ島、ジ
が得られないということで、アメリカは制裁とし
ャカルタ、中東の各地、スペイン、モスクワ、チェチ
ての攻撃に踏み切ったのであった。
ェンなどさまざまな地域で発生している。冒頭で、
これに対して、フランスやドイツなどは、査察
諸大国すべてを巻き込む世界戦争はおきていない
をさらに継続すべきであるとして攻撃に反対した。
から、現在も「戦後」と言われると述べたが、い
アメリカ、イギリス、そして日本などは、サダム=
まや新しい「戦中」の時代なのかもしれない。
フセインの協力が得られないことを確認し武力行
使を正当化する国連安保理決議を作成しようとし
イラク戦争
たが、これに対しても、フランスは、そのような
決議に賛成しない(つまり拒否権を発動する)と
さらに、9・11以後の世界が、よりきな臭くな
の立場をとった。結局、アメリカは国連安保理決
ったのは、対テロ戦争の一環として、アメリカが
議を求めることを放棄し、それ以前の国連安保理
二つの通常の意味の戦争を始めたからである。そ
決議のみで武力攻撃の正当性はあるとして攻撃に
の第1は、9・11直後から実行したアフガニスタ
踏み切ったのであった。
ンでの戦争であった。これは、9・11の首謀者と
もちろん、この法的論争の背後にある対イラク
みられるアルカイダがタリバン政権のもとのアフ
武力行使に至る経路は複雑であり、今後の歴史研
ガニスタンに根拠地をおいていたからであった。
究の重要な課題であろう。一つの見方からすれば、
第2は、2003年3月に開始したイラク戦争であっ
ブッシュ政権内のネオ・コンサーバティブ(ネオ
た。このうち、アフガニスタンへの攻撃に対する
コン)と呼ばれる人々は、対テロ戦争とも国連の
−2−
査察とも関係なく、とにかくサダム=フセイン政
しかしながら、いかにネオコンの影響力がブッ
権の打倒を常に考えてきていたと言われる。1991
シュ政権内部で大きかったとはいえ、アメリカ国
年の湾岸戦争でイラク軍をクウェートから排除し
民に対して、イラク開戦の正当性を付与したのは、
た段階で戦争をやめてしまい、
結果としてサダム=
サダム=フセインが大量破壊兵器を密かに保持し
フセイン政権を生き残らせたことが、その後の中
ているという疑惑であり、9・11テロの首謀者た
東の混迷を深めたと彼らはみなした。そして、サ
ちとサダムが結託するかもしれないという恐怖で
ダム=フセインを武力で打倒すれば、彼の圧政に
あった。もし9・11テロを行ったテロリストの手
苦しむイラク国民はこれを歓迎し、イラクに民主
に大量破壊兵器がわたったら、彼らは必ずこれを
制をもたらすことが可能になると考えた。そして、
アメリカに対して使うだろうと思った。この危険
イラクの民主化に成功すれば、これを模範として
性からすれば、イラクを攻撃することはやむを得
中東全体に民主主義をひろめ、出口のみえないイ
ないとしたのである。2004年の大統領選でブッシ
スラエル・パレスチナ問題も進展させることがで
ュ大統領に対抗し、その後のイラク戦争を批判し
きるのではないかと考えた。さらにまた、かれら
たケリー上院議員も、開戦当時は武力行使を支持
は、現在の国際政治の中で、国連などの国際組織
したのであった。やはり対テロ戦争という状況が
の手続きはアメリカにとって拘束要因になるだけ
あってはじめて、アメリカ国民はイラク攻撃を支
であって、良い結果を生まないとも考えた。いず
持したのであった。そして、最後まで、大量破壊
れにしても、軍事的にアメリカ軍は圧倒的につよ
兵器を保持しているかのごとく振る舞ったサダ
いのであって、他国の協力がなくともイラク攻撃
ム=フセインもまた、イラクへの武力攻撃論に説
は十分可能であり、武力行使か否かの決断は軍事
得力を与えたのであった。
的に最も望ましいときに行えばよいのであって、
いうまでもなく、その後の事態は、アメリカ国
複雑で困難な多国間外交に縛られることはないと
民の期待通りには進まなかったし、ましてやネオ
考えたというのである。
コンの主張した通りにはならなかった。第1に、
もちろん、このような考え方に対しては、ブッ
イラクで大量破壊兵器は発見されなかった。アメ
シュ政権内部でも国務省を中心とした反対があり、
リカの情報機関の見積もりは、結果的にみれば、
ブッシュ(父)政権の高官であったスコウクロフ
危険の過大評価に陥っていたことになる。第2に、
ト元安全保障補佐官、イーグルバーガー元国務長
劇的な軍事作戦勝利後のアメリカ軍のイラク占領
官など、伝統的な現実主義者からの批判もあった。
統治は、拙劣を極めた。国内武装勢力の武装解除
彼らは、対テロ戦争を行っているさなかにイラク
が進まないなか、国境管理が十分できず、外国か
に武力攻撃を行うことの問題点を指摘し、かりに
ら多数のテロリストの入国を許してしまった。こ
武力攻撃を行うのであれば、
かつてブッシュ(父)
うして、イラク各地でテロ攻撃が繰り返されるな
政権が湾岸戦争の際に行ったように国連安保理の
か、治安は回復せず、イラクの今後の安定にむけ
支持を取りつけるべく努力しなければならないと
てなかなか確固たる道筋がつけられなくなってし
説いた。2002年後半からのブッシュ政権の行動は、
まったのであった。当初のネオコンの希望的観測
こうした国務省などの見解を受けたものに沿った
はまったく実現せず、混迷するイラクが、まさに
ものとなった。しかし、その後の国連安保理決議
アメリカとテロリストが戦う、対テロ戦争の主戦
の作成をめぐっては、表面的には仏独とアメリカ
場となってしまったのであった。
の対立という面が目立ったが、その背後ではブッ
地域主義の進展
シュ政権内部の、安保理決議などはいらないとい
うネオコンと国際協調を重視する国務省などの対
立も大きかった。
かつての世界戦争の時代であっても、文字通り
−3−
世界中が戦争をしていたわけではない。現在の世
は、ヨーロッパに比べれば何十年も後を追いかけ
界が「対テロ戦争」という世界戦争のさなかにあ
ている面があり、実質的には、さまざまの経済連
るとしても、テロリストとの戦争状態のみが、国
携協定や自由貿易協定を促進するというところに
際政治における重要な動きなのではない。対テロ
最も顕著な活動がある。今後、自由貿易や金融協
戦争と並行して、21世紀にはいって、世界ではい
力などを中心とした協力の枠組みづくりが進むと
くつかの新たな趨勢がみえるようになっている。
みられる。
その中で最も注目されるのが、地域主義の動きで
つまり、現在の世界は、対テロ戦争という世界
ある。
戦争という局面にありつつも、ヨーロッパではま
とりわけ地域主義の進展の著しいのはヨーロッ
すます地域統合が進み、東アジアでは地域協力の
パである。ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)
端緒が開かれたという状況にある。このそれぞれ
以来、ヨーロッパ経済共同体(EEC)
、ヨーロッ
の動向は、独自に動くという面も大きいが、やは
パ共同体(EC)
、そしてヨーロッパ連合(EU)
り関連せざるをえない面もある。とくに対テロ戦
へと統合の度合いを進めてきたヨーロッパでは、
争の主役がアメリカであるのに対して、二つの地
1999年に単一通貨「ユーロ」が導入された。その
域主義は、アメリカのはいっていない動きである
後は、冷戦後に民主化した中・東欧の諸国などが
ところにある種の緊張がうまれる。
加盟を求めてきたが、2004年には、合計10か国の
とくに問題含みは対テロ戦争を戦うアメリカと
新規加盟が実現した(ハンガリー、ポーランド、
ますます統一を強めるヨーロッパとの関係である。
チェコ、スロバキア、スロベニア、リトアニア、
イラク戦争の結果、米欧関係とりわけアメリカと
エストニア、ラトビア、キプロス、マルタ)
。こ
仏独との関係は、過去半世紀にわたってみられな
うして、EUは、加盟国は25か国となり、全体で
かったほどの緊張を生んでいる。主権国家を超え
人口は4億5千万、国内総生産も全体で日本の倍
て、多角的枠組みのもとで、平和で人権尊重の理
以上という巨大な存在となった。さらに、全体の
想を実現しようとしているヨーロッパ人の多くに
統治構造を決める「ヨーロッパ憲法」が2004年6
とって、イラク戦争でみせたアメリカのネオコン
月のEU首脳会議で採択された。
「大統領」
職や
「外
的単独主義は、きわめて野蛮にみえる。他方、現
相」職やEUとしての意志決定方式などを規定し
在のイラクの困難な状況について同盟国であるア
たこの憲法が、25か国すべてで順調に批准される
メリカに協力の手を差し伸べないフランスなどに
かは不透明なところはあるが、国際的な行動主体
対しては、アメリカ人の多くは無責任であると思
としてのEUの姿が大きくなる趨勢には変わりは
うようになっている。もちろん、ヨーロッパの中
ないであろう。
にもイギリスのように一貫して、イラクにおいて
一方、これまであまり地域主義的な動きの強く
も対米協力を行っている国もある。しかし、全般
なかった東アジアでも、ここ数年の地域主義に向
的にいって、統合してますます一体感を強めるヨ
かう動きは顕著である。数年前であれば「東アジ
ーロッパとアメリカとの関係は、やや冷ややかな
ア共同体」などという言葉は、ほとんど存在しな
ものとして推移する可能性がある。
かったが、いまや毎年秋から冬にかけて開催され
非国家主体であるテロリストが超大国アメリカ
るASEAN+3の首脳会議にあわせて、そのビジョ
の最大の脅威となり、冷戦時の盟友であるヨーロ
ンや方向性が語られるようになった。2004年11月末
ッパとの関係にも不透明感が漂う。もはや「冷戦
にラオスのビエンチャンで開催されたASEAN+3
後」
でもなければ、ましてや第二次世界大戦の
「戦
首脳会議では、2005年にマレーシアで、最初の
「東
後」でもない時代にはいっているとみるのが適当
アジア首脳会議」を開催することの合意がなされ
なのであろう。
るようになった。もちろん、東アジアの地域主義
−4−
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