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ー 5見童生徒用書の説明

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ー 5見童生徒用書の説明
9 佐太夫
l児童生徒用書の説明
佐太夫伝説には二つの側面があります。一つは改革にともなう百姓一揆との関係であり、もう一つは佐
太夫神社の起こりとしての話です。正徳2年(1712)、広島藩は財政の逼迫により、年貢の増徴と安定化
を図る改革を行いました。幕府の享保の改革に先立つ「正徳新格」という改革です。代官制を廃止し、豪
農・百姓から所務役人(40人)を、その下に頭庄屋(81人)を任命して、苗字帯刀を許したり、扶持の米
銀を支給して協力を求め、年貢率の引き上げと完全徴収を図ったのです。享保元年(1716)には定免制を
取り入れ、豊凶を問わず年貢徴収高の安定を行ったのです。すでに、宝永5年(1708)に世羅郡をはじめ
6郡で大規模な百姓一揆が起こっていましたが、この改革に反発して享保3年(1718)には全藩にまたが
る大一揆になったのです。
佐太夫が百姓一揆の指導者であったのか、頸庄屋の任命にかかわる対立が伝説の背景にあったのかよく
は分かりません。結果は改革の廃止、すなわち、所務役人の廃止、年貢請負担の減免など改革前の状態に
戻ったのです。しかし、一揆首謀者の処罰が行われました。百姓一揆の指導者に感謝し、慕うことは、表
だってできなかったので、当時、農民を苦しめていた災害対策とくに虫害対策に名を借りて彼を祀るので
す。農民の叡知を見ることができます。親孝行や施しをするなど、親が子に語り伝える話としては、佐太
夫は理想的な人物だったのでしょう。
l一 道徳内容項目との関係(例)
2(2)だれに対しても思いやりの心をもち、相手の立場に立って親切にする。
4(5)父母を敬愛し、家族の幸せを求めて、進んで役に立つことをする。
4(7)郷土の文化と伝統を大切にし、先人の努力を知り、郷土を愛する心をもつ。
川 補足資料
1 「佐田虫」伝説のあらすじ
今からおよそ280年前、榊山神社の宮司の家に生まれた佐太夫は、幼くして母を亡くした。後から釆た
母の子を後継ぎにするために、自分は農家の養子に行った。佐太夫はそこでかわいがられ、一家は幸福に
暮らしていた。
ある年のこと、厳島神社にお参りに行ったとき、見知らぬ若者が佐太夫のふところにお金の包みを入れ
て、通りすぎた。お金を返そうと思い若者を待ち続けたが、若者はあらわれない。しかたがないので家に
持ち帰った。たいへんな大金だったので、これは神様からさずかったものと考え、村人に分けてやった○
その年は作物がとれないで、みんな困っていたので、佐太夫の行いを喜び、村人は彼を慕い、尊敬した0
これをみていた庄屋は、佐太夫をねたみ、なんとかして彼をなきものにしようとした0
ところが、それからまもなくのこと佐太夫の母が足のけががもとで、亡くなってしまった。庄屋はこれ
ぞ親殺しの大罪と代官所に訴えた。佐太夫はとらえられて、牢に入れられた。彼は牢につながれたまま百
日も取り調べもないまま過ごした。
冬になり、あまりに寒いので羽織を送ってはしいと解い出たところ、ゆるしが出て村から羽織が送られ
てきた。その数百枚あまり、代官はこれを見て、彼は罪をおかすような人間ではないと思い、彼を牢から
出して馬1頭を与えて返した。
−34一
代官はあの庄屋が何をするか分からないので、すぐ役人をつかわしたが、時すでにおそく、佐太夫は庄
屋につかまり首を打たれてしまった。
ところがその年の夏、庄屋は雷に打たれて死に、見たこともない虫がわいて、稲を食い尽くしてしま
た。そればかりか、牛や馬もみな死んでしまった。その虫は頭に黒い烏帽子をかぶっていたので、村人
佐太夫の生まれ変わりだとおそれ、榊山神社にわら人形を作ってお祈りをした。七日七夜お祈りしたと
ろ、わら人形に佐太夫の魂が乗り移ったのか、人形がこっくりとうなづいたということである。
2 佐太夫伝説の時代背景
元禄12年(1699)
広島藩家中・郡中・町方に倹約令が布告された。
宝永4年(1707)
広島藩領に大地震があった。
宝永6年(1709)
正徳2年(1712)
「御殿様入国の祝儀」として、寸志米を上納した。
広島藩主が「郡方御新格之俵」(正徳新格)を布令する。
代官制を廃止し新たに所務役人・頭庄屋を任命する。
享保元年(1716)
広島藩領に定免制を採用する。
享保3年(1718)
広島藩領三上郡から百姓一揆が起こり、全藩に波及、30万の農民が蜂起
する。所務役人・頭庄屋制を廃止し、郡制を古格(割庄屋制)に戻す。
定免制も廃止し、土免制に復した。
3 伝説ゆかりの遺跡・遺物
数基の五輪塔を組み合わせた真 申村博和氏宅(城之堀)にあり佐太夫の墓と伝う。
佐太夫神社 出来庭境ケ迫にあったが現在は大歳神社前に転遷
首切り塚(出来庭) 首洗い井戸(城之堀) 宮の首(地名) 二又杉(中溝)
4 御領分百姓騒動記
この記録は書長公御代記の中、「事跡諸鑑」27御領分に善かれている。そこには「11月9日、
死罪 豊田郡下方村全入寺村 00 山県郡中祖村 △△△△ 安芸郡熊野村 権現宮守 佐
太夫」とある。
享保3年(1718)3月22日に奴可・三上・三谷郡百姓たちが、願い出があると、大勢で城下
へ押しかけたのがきっかけとなり、世羅郡、三上郡、高宮郡と広がってる。その騒動を鎮める
ために、一柳平兵衛・青木弥太夫が西条本郷筋に行き、海田市まで兵庫彦左衛門が取り締まり
に出ている。
この騒動は百姓の全面勝利と撃ったが、その後厳しい詮議と描縛が続いていく。三上郡の百
姓◇◇◇◇◇を始めに、6月から11月まで死罪、獄門、成敗とそれぞれの斬罪がなされている。
佐太夫伝説は架空の詣でさまなくて、歴史の中にしっかりと記録されているのである。「10月13日、
重罪の百姓片付け伺之事」とあり、それから1ヶ月も経たない中に処刑されている。
lV 道徳学習指導案
主題名 佐太夫の伝説
1 内容項目
2−(2)だれに対しても思いやりの心をもち、相手の立場に立って親切にする。
−35−
4−(5)父母を敬愛し、進んで役に立つことをする。
4−(7)郷土の文化と伝統を大切にし、先人の行いを知り、郷土を愛する心をもつ。
2 資料名
①「佐田虫」「広島のむかし話」広島県小学校図書館協議会編
「熊野川」熊野第一小学校編 創立百周年記念誌
②ビデオ 「佐田虫」熊野町教育委員会編
3 ねらい
「佐太夫」が今もふるさとで語り継がれているのは、なぜだろうか。そこを手がかりに村人中辛せのため
に進んで役立つことをした佐太夫の行為を知り、人のために役立つことの尊さを学ばせる。
4 学習過程
支援と指導上の留意点
学 習 活 動
・ビデオを見せて、その疑問を導き出す。
導 1佐太夫はどうして死罪となったのかを考
入
える。
2「佐太夫さん」と呼ばれる理由を話し合
展
・佐太夫神社があり、人々が祭りをするわ
けに気づかせる。
う。
開 3「佐田虫」を読み、それぞれの考えを発
・「佐田虫」は教師の範読にすることもで
きる。
表する。
終 4佐太夫が命がけで村人のために尽くした
末
・感想や自分の考えを作文にする。
ことを知る。
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