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中井履軒の名物学―その『左九羅帖』『画觽』を読む

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中井履軒の名物学―その『左九羅帖』『画觽』を読む
さ く ら じ ょ う
えくじり
中井履軒の名物学―その『左九羅帖』『画觽』を読む
湯城吉信
名づけるとは、物事を創造または生成させる行為であり、そのようにして誕生した物事の認識その
ものであった。…ある事物についての名前を獲ることは、その存在についての認識の獲得それ自体
を意味するのであった。…名前の変更とは、すなわち「社会的な変身」にほかならない。
―市村弘正『「名づけ」の精神史』(みすず書房、一九八七)四頁、五頁、一五頁。
はじめに
さくらじょう
幅広い興味を有していた江戸時代の儒者、中井履軒は、
『左九羅帖』という画冊および、
えくじり
その解説書『画觽』を残している(注 1)。『画觽』の「觽」は「くじる」すなわち「掘り
下げる」「探る」の意味で、注釈書の名前に付けられることが多い。『画觽』では『左九
羅帖』に登場する動植物が順番に解説されている。この『画觽』については、従来、「本
草書」と位置づけられ(注 2)、履軒の興味の広さを示す証拠として紹介されるに留まり、
その内容の分析はされていなかった。
以上のような現状に鑑み、本稿では、『左九羅帖』『画觽』の内容を紹介し、その特徴
を明らかにしたい。中井履軒はどのようなものを取り上げているのか、またその説明には
どのような特徴が見えるのか。
本論で述べるように、
『画觽』の内容は、取り上げた動植物の効用を説くものではなく、
「その名前が表すものは何か」、あるいは、「その対象物にはどのような名前が適切か」
に関するものである。そのような点で、『画觽』は本草学の書と言うより、むしろ名物学
の書と言うべきであろう。名物学とは、対象物とその名称の関係を考える学問のことであ
る(注 3)。
第一章
『画觽』概観
本章では、まず、『画觽』がどのような本なのか概観してみたい。
一、『画觽』の内容
『画觽』では、本編で五十一の動植事物を取り上げ、補編で十九の動植事物を取り上げ
ている。それぞれ順番に挙げれば以下のようである。
〔本編〕
樺(さくら)、青鳥(うぐいす)、黄鳥(こうらいうぐいす)、海棠、棣、蘞(かがみぐ
さ)、蔦、女蘿(さがりごけ)、梧桐(あおぎり)、杻(かし)、垣衣(こけ)、蕣(あさ
がお)、蠑螈(いもり)、蜥蜴(とかげ)、蝘蜓(やもり)、花かつみ、 榛(しばぐり)、
-1-
莱(しば)、蕪、鷚(ひばり)、鸚鵡螺(ふめつ)、われから(こやすがい)、藻(も)、
鴟(よたか)、梟(ふくろう)、鵂鶹(みみずく)、藟(ふじ)、穀(かじ)、すみれ(れ
んげ)、つぼすみれ、蓍(はぎ)、蟋蟀(きりぎりす)、芄蘭(ゆうがお)、蛇(くち
なわ)、蝮(へび)、水蝹(かっぱ)、蒿(よもぎ)、蕭(よもぎ)、瓠(ふくべ)、匏(ふ
くべ)、瓜(うり)、なき(ねぎ)、こなき(あさつき)、荇菜(じゅんさい)、牡蠣(お
きがき)、雌蠣(かき)、珠母、やまぶき(欵冬)、葵(さきくさ)、蓬莱山(富士山)、
扶桑木
〔補編〕
卯花、うつ木、椿(つばき)、山茶(さざんか)、瑩(水晶)、瓊(瑪瑙)、柀(まき、
すぎ)、樒(さかき)、菘、促織(きりぎりす)、莞(つくも)、しのぶ、おがたま、
楓、桂(木犀)、木葉石、たこふね、構(補足)、橘(たちばな)
履軒は、以上の動植事物について、その命名の妥当性を検証している。
二、執筆目的
『画觽』には序はないが、本文の中でそこここで執筆目的に触れる。例えば、「桂」の
項に、以下のような文句が見える。
名実のたがひて真假のいりかはりたるは世のなげかしきことなりや。
事物に対する名称の乱れ、不一致を正すのが履軒の目的であったことがわかろう(注 4)。
また、「藟(ふじ)」の項では以下のように言う。
…かかる疑ひを腹にたたみおきてほどもなく消うせむ露の身のはたなにかせん。かき
つけおきなば、よく物をわきまへたらん人のかうがへくさにもやと思ふも、いとおこ
がましや。およそ此巻にかきつらねたる大かたは、しかなり。さきざきにはいはず。
もし『本草』てふ巻物を斧にふりてきりたださんの心あらん人は、初よりみそなはす
まじきことにこそ。
『画觽』は、履軒が、世間でまかり通っている誤解を解くべく書き残した書である。ここ
に、「『本草』を権威に振りかざす人は初めから読まないでください」と言うように、『本
草綱目』を中心とする本草学の権威に挑む書であることがわかろう(注 5)。同様に、履
軒は『爾雅』にも疑義を呈している。
例えば、「荇」はジュンサイだと考えた履軒は、「接余」だとする『爾雅』に反対し、
以下のように言う。
「接余」は「ア
古説(*『爾雅』「釈草」に見える)には「荇」を「接余」なりといへり。
サザ」といふ草なり。「蓴」に似て葉に缺あり。滑なし。食ふべくもあらずかし。菜
-2-
の名はあるまじきことにこそ。
衆菜に秀たる「蓴」なればにや、関雎の詩、これをかりて淑女をしたひもとむる心
をのべたり。食ふべきやいかがと思ふほどの「接余」を、いかでしたひもとめむやは。
『爾雅』などふるき文なれど、したがひがたきことおほし。「荇」のみにかぎらず。
以上のように、履軒は、本草学などの説を鵜呑みにするのではなく、むしろそれに疑義
を呈していることがわかる。
三、成立年
『画觽』の成立は、享和元年(一八〇一)の「享和辛酉水戸浦所捕河童図」以後である
と考えられる。手稿本にはないが、中之島図書館本には、おそらく履軒のものであろうと
思われる「享和辛酉水戸浦所捕河童図」の抜き書き(の写し)が見えるからである(詳し
くは、第二章第五節を参照されたい)。その他、履軒が内容的に大いに参照している『毛
詩品物図攷』は天明五年(一七八五)刊であり、これ以後の成立であることは確実である。
四、執筆の背景
履軒はどのような動植物を取り上げているのか。またどのような説に基づいているのか。
これについては、いくつかの背景を指摘できる。
『詩経』博物学
『詩経』には多くの動植物が登場する。『論語』陽貨篇に「多識於鳥獣草木之名(多く
鳥獣草木の名を識る)」と言うように、それらの動植物を覚えること自体、『詩経』の勉
強の重要な要素とされた。そのため、『詩経』に登場する動植事物を解説する注釈書がこ
れまで多く書かれた。日本で特に問題になったのは、それが日本にもあるものか、あるも
のだとすると和名は何かということである。本草学でもそうだが、和名の同定が大きな問
題となったのだ(注 6)。
そのような日本の研究成果の代表作として、江村如圭『詩経名物辨解』と岡元鳳『毛詩
品物図攷』とがある( 図参照)。前者は、吉川幸次郎氏が『詩経国風』(岩波書店、一九八
〇)執筆の際、参考書としたことで有名な本であり、江戸期の『詩経』博物学の代表作だ
と言える(注 7)。一方、後者は、
『詩経』の動植事物を正確な描写で図示した書物である。
-3-
『詩経名物辨解』
『毛詩品物図攷』
(ともに大阪大学懐徳堂文庫蔵)
そして、履軒はこの両書を目にしていた。まず、『詩経名物辨解』については、履軒の
蔵書目録『天楽楼書籍遺蔵目録』
(天保五年(一八三四))に、
『毛詩品物図攷』とともに、
その名(『詩経名物辨解』先生頭書)が見える。また、『毛詩品物図攷』については、大
阪府立中之島図書館に履軒著『毛詩品物図攷雕題』と思われるテキストが現存している(井
上了「大阪府立中之島図書館蔵『毛詩品物図攷雕題』について」『懐徳堂センター報』二〇〇
(*)。そして、何よりの証拠として、履軒の『詩経雕題』に見える和名は上記書の和
四)
名と一致するものが多い点が挙げられる。そして、『画觽』で取り上げる本編五一、補編
一九の事項の中、二七項について、『毛詩品物図攷雕題』中に関係する記述を見出すこと
ができる(表参照)。
*岡元鳳(字は公翼)は、履軒の知り合いだったようだ。兄竹山の『詩断』に「友人」として見える(懐
徳堂文庫復刻叢書『詩雕題』三三四頁参照)他、『懐徳堂水哉館先哲遺事』巻一の宴会記録(「懐徳書院
燕集」)に履軒らとの唱和詩が見える(『懐徳堂センター報』二〇〇八、七五頁参照)。葛子琴らと同様、
混沌社に属する詩人だったらしい。
【付表】『詩経雕題』に見える動植物の和名(他書との比較)〔要挿入〕
以上のように、履軒は、『詩経』研究の際、『詩経名物辨解』『毛詩品物図攷』を参考書
として使用し、その成果が『画觽』の多くを占めていると言える。
歌語についての考証の流行
だが、『画觽』の背景は『詩経』研究だけに留まらない。江戸時代には、歌語について
の考証が流行した。吉川弘文館刊江戸随筆大成所収の随筆の中には、歌語に関する考証が
多く見られる。『画觽』の中の、「はねず」「花かつみ」「われから」「しのぶ」「めど」「お
がたま」などはいずれも歌語(その中、「めど」「おがたま」は古今伝授)であり、以上
の考証流行の一つの現れと言えよう。なお、新井白石が動植物について解説した和文書で
『東雅』という書物があるが、取り上げる動植物が『画觽』と共通するものが多いこと(注 8)
と、和文で書かれていることなど、『画觽』と共通点が見られるのは注目に値する。この
類似性が単に江戸期の全体的潮流を反映したものなのか、個別に直接的影響が見られるの
か、筆者には判断がつきかねるが、考察に値すると考える。いずれにせよ、履軒は流行に
敏感な人物であったと言えるであろう。
大坂の博物学に対する関心
また、注目すべきは、当時の大坂の博物学に対する関心である。同時代の大坂では木村
蒹葭堂の標本(貝の標本は大阪市立自然史博物館に所蔵されている)が有名である。履軒
が木村蒹葭堂と交流があったことは、『木村蒹葭堂日記』に履軒が登場することから確認
できる。また、履軒が顕微鏡を見たのも蒹葭堂門下の服部永錫のもとである(「顕微鏡記」
を参照のこと)。その他、履軒の弟子に当たる山片蟠桃が仕えた山片家にも大量の標本が
収蔵されていた。山片蟠桃の主人の山片重芳の「家蔵記」(注 9)を見ると、大量の所蔵
-4-
品の中に「貝類」(一一七)や化石などが見える。蒹葭堂門下にわざわざ顕微鏡を見に行
っていたぐらいの履軒だから、以上の蒹葭堂や山片家のコレクションを目にしていた可能
性は高い。
また、『画觽』本文の「珠母(真珠貝)」に「わが家にたくはえたる三種をかきのせた
るなり。大ふたつはもろこしのなり。小ひとつはわが国のなり」とあることから、中井家
も外国産の真珠貝を収蔵していたことがわかる。
『画觽』に化石(木葉石)や貝類が登場するのは、以上のような、当時の大坂の博物学
に対する関心の高さ(及び収蔵品)がその背景にあると言えよう。
なお、周知のように江戸時代は、儒者と医者との結びつきが強く、両者を兼ねているこ
とが多かった。懐徳堂周辺も例外ではない。中井家はもともと医者の出身であるし、竹山
の前の学主三宅春楼も売薬業も営んでいたし、懐徳堂関係者も薬屋が多い(和学者の加藤
景範(竹里)など)。『画觽』にも以上のような環境の影響が考えられる。先に述べた『本
草』批判(陶弘景『本草集注』か? )がそうであるし、「垣衣」「楓」「桂」「橘」の項におい
て、薬に言及する記述が見られるのもその一例と言えよう。「蝮」の項において、語源を
漢方名の「反鼻」に求めるのも、漢方に明るかったがゆえかもしれない。なお、蘞(かが
みぐさ、わのさんきらい)(『詩経雕題』では「ゴヨウカヅラ・ヤブカラシ・ビンボウカ
ヅラ」とある)は、当時梅毒の薬として使われていたものである(「くすりの道修町資料
館」の展示による)。また、女蘿の項に見える桑寄生やメシマコブも漢方薬である。
九州とのつながり
また、九州とのつながりも見逃せない。懐徳堂は、脇蘭室や麻田剛立を始め、九州の儒
者、知識人とつながりがあった。「扶桑木」については、後(第三章第三節)に詳しく述
べる。
和文、日本文化への関心
さらに指摘できるのは、履軒の和文、日本文化への関心である。これは、履軒の多数の
和文作品を見れば明らかであろうが、『画觽』では特に、今も日本の象徴として用いられ
るサクラ、富士山などについて述べているのは注目に値する。この点についても、第三章
第二節で詳しく述べる。
文人画の伝統
最後に指摘しておきたいのは、『画觽』は『左九羅帖』の解説書であり、『画觽』とい
う文章に先立って、『左九羅帖』という画冊があったことである。そして、『左九羅帖』
の画の筆致は、正確な模写を目指したものではなく、文人画風の風雅な筆致である(中之
島図書館蔵『環湖帖』に類似する)。『左九羅帖』および、和文で書かれた『画觽』は、
内容的には学術的考証を含んでいるが、あくまでも文人の雅趣を体現した書物だと言えよ
う。ちなみに、以下のように、『画觽』の中にも画について触れる箇所がある。
・樺(サクラ)の項
①古い土佐絵では、吉野山のサクラは白く描かれている。
-5-
「土佐てふふるき画に吉野山をかきたるをみたりしに、みな白花にて赤きにほひはすこし
もなし。」
②古い巻物に描かれている瓊花は、八重桜に似る。
「ある時、ふるき巻物を見たりしに、道士の、「瓊花」を手折て、手に持たるかたあり。
其花も葉もまさしくここもとの「八重桜」なりけり。」
・女蘿の項
①古い画には、松には必ず「女蘿」が懸かっている。
「ふるき図画をみるに、松にはかならずこの草かかれり。」
・芄蘭の項
①土佐絵や後藤彫の「夕顔」は「瓠匏」ではない。
「土佐の絵、後藤の彫物を見よ。皆いにしへの「夕顔」にて、「瓠匏」にはあらず。」
以上のように、『画觽』は、大坂の文化的背景、懐徳堂の位置、履軒の幅広い関心を背
景にして始めて成立した書であるとも言える。
第二章
内容の特徴
第一章で述べたように、『画觽』は、履軒が実体と名前が一致していないと考えた動植
事物を取り上げて、その誤りを訂正しようとした著作である。本章では、その内容を具体
的に紹介しその特徴を明らかにしたい。
大雑把に言って、『画觽』の内容は、一般的でおおむね妥当な説と、履軒に独特な、や
やもすれば独断的傾向に流れる説とに分けられる。履軒の特徴を明らかにするには後者を
見るのが早いが、それでは『画觽』全体の特徴を明らかにはできまい。(後者は一項目当
たりの叙述が長いが、項目は前者が多いので、分量的には前者が後者の三倍以上ある。)
そこで、本章では、まず履軒説の全体的特徴を明らかにし、次章で、履軒に特徴的な説の
代表として、サクラ、富士山、扶桑木についての言説を取り上げたい。
一、一般的で妥当な説
現在の我々でも、アシカとアザラシとの違いを知っている人は多くなかろう。履軒が取
り上げているのは、多くがこのように誤解しやすい類である。例えば、以下のようなもの
がある。
・イモリ、ヤモリ、トカゲ。
・フクロウ、ミミズク。
・キリギリス、コオロギ。
・スミレ、レンゲ。
・ネギ、アサツキ、ラッキョウ。
-6-
その他、
・アサガオという名でいくつかの植物があること。
・ヨモギに二種類あること。
・葵に二種類あること。
・ツバキ、サザンカ。
などが挙げられる。
その他、漢字の当て方が間違っているものとして以下のようなものを挙げる。
・鶯は「ウグイス」ではない(コウライウグイスだ)。ウグイスは青鳥。
・シバは「芝」ではない(「莱」だ)。
・カブラは本来「蕪菁」と書くべき(「蕪」とだけ書くのはおかしい)。
・「藻」は唐草のこと。
・ヤマブキとは「欵冬」のこと。
・カシは「樫」ではなく「杻」。
・穀は「コウゾ」「カジ」。
・ハギと「萩」とは違う。
・「雲雀」は大和言葉ではない(中国にもある)。
・スギは古来「マキ」と言い、漢字は、「柀」。
・神道も本来、仏教の「樒」(シキミ)をサカキとして用いていた。
・古の「オガタマ」は珊瑚樹のこと。
・「楓」は日本のカエデで間違いはない。
・「桂」は木犀のこと。
以上の説は、先に述べた『詩経』研究などに基づくものが多く、民衆の啓蒙に資する妥当
で穏当な説が多い(ただし、最後の三説は妥当だとは言えない)。
一方、以下のように、名物一致を説くのではなく、単に珍奇な物を紹介するものもある。
これは、先に述べた当時の大坂、あるいは履軒の知的好奇心の旺盛さを示すものだと言え
よう。
・木葉石(化石)
・フメツ
・タコフネ
二、法則性の追究
先の「執筆目的」の項で、履軒は『本草』や『爾雅』に対して疑義を呈していることを
述べた。履軒は、ただ単に、古典を根拠にその名を説くのではなく、命名の背後に潜む法
則性を見出し、その法則により名を正そうとした。
例えば、葵の項に次のようにある。
およそ木の名、かたはしに木をそへたる文字あるは其本名にぞ。省ける其文字の上に
さらに氏を加えたるは、必、べちの木なり。かりて名をつけたるのみ。其木の本名に
あらず。たとえば「楊」とは本名なり。それに氏を加へて「黄楊」「白楊」「垂楊」
-7-
といへば、べちの木をかりて名をつけたるなめり。本名にはあらず。草の名もまたし
かなり。草なる文字にさらに氏を加へたるは、必、本名にあらず。かの「蜀葵」など
いふ草は菜にはあらねども、葉の形のすこし似たればとてなむ、「葵」の字をかり氏
をそへて名とせしなり。それを本名と心ゑてみだりなるわざのいで来たるなり。
ここで、履軒は「単独で用いられているものが本名であり、その語の前に修飾語が付いて
いるのは類似する別物に付けられた名前である」という法則性により、命名の乱れを正そ
うとしている。
また、鷚(ヒバリ)の項では次のように言う。
「天鸙」は『爾雅』に出たり。然るにこれを「天籥」といはばさらに趣あらんを、
「鸙」
は誤文にやあるらん。
美声を特徴とするヒバリは「天籥」
(天の笛)という名前が適当だというのである。
「「鸙」
は誤文にやあるらん」という文句から、ただ単に「趣」(情趣)の面からだけでなく妥当
性の点から「天籥」の命名が正しいと考えていたことがわかろう。
三、自らの命名
事物の命名について法則を見出し、合理的に解釈しようとする履軒は、その自ら考える
法則・道理に従って新たな命名をし、積極的に提唱している場合がある。
列挙すれば以下のようである。
・樺の項
八重桜は中国の「瓊花」と同じなのでそう呼ぶべき(詳しくは後述)。
・女蘿の項
桑寄生は、寄生草に対して「寄生木」と呼ぶべき。
・水蝹(河童)の項(第二章第六節参照)
河童に水蝹という漢字を当てる。
・雌蠣の項
小さいカキは「雌蠣」と呼ぶべき(牡蠣(オスのカキ)がいるならメスもいるはずだから)。
・蓬莱山の項
富士山を「よもぎ山」「よもぎがみね」「ひろ山」「ひろね」「神山」と呼ぶべき(中国人
が称えた蓬莱山、博山のことなので)(詳しくは後述)。
-8-
・卯花の項
卯花は、うつ木に対して「うつ草」と呼ぶべき。
・楓の項
薬にしている楓はもとの楓と区別して「薬楓」と呼ぶべき。
以上の中、「牡蠣」について確認しておきたい。
まず、「カキ」から見てみよう。履軒は、「すでに「牡蠣」の名あれば、必、「雌蠣」あ
るべし」とし、以下のように言う。
ちいさきを「カキ」とのみいふ。肉の形、ちいさき烏賊に似たり。味厚し。いづかた
にても賞玩する物なり。これは「雌蠣」と名づくべし。すでに「牡蠣」の名あれば、
必、「雌蠣」あるべし。この物こそ、まことによくかなひけれとてなん。あまねく文
をかうがへみるに、いかにぞや、あらず。この「雌蠣」の名はこたびはじめてふかう
どのたてまつるなりけり。
だが、実態は、周知のように、カキは同一個体に雌の時代と雄の時代とが交互に現れる一
種の雌雄同一体であり、履軒の説は妥当だとは言えない。このように、履軒の命名は理屈
が先行し、暴走傾向が見られるものがある。履軒も井の中の蛙の誹りは免れ得ない(注 10)。
四、神秘性の暴露
履軒は、神道が祭り上げるものの神秘性を暴露している。
例えば、穀(コウゾ)の項に次にように言う。
「ゆふしで」は、穀の皮を裂て竹の末にゆひつけて塵を払ふ物なり。其形は払子に似
たり。世俗に用る「采幣」にも似たり。もとは常にも用る物なるべし。神社にては、
みやつこども広まへに出んとてはまづこの「ゆふしで」をとりてわが身を払ふ。垢穢
を去て身をきよむる心なるべし。今、神の御まへに杖の末に白紙をきりかけて「幣」
とよぶ物あり。これは昔の「和幣」の変形なり。それにまた「ゆふしで」をあつらへ
つけて、みやつこの身を清むる姿は残りたれど、神に奉る物はなし。唯ねぎごとを申
時の手まさぐりになむ。世中のうつりかはる事はみなかかるたぐひなり。およそ今の
物を本として古へをかたるは大なるひがごとにこそ。今の紙は上古よりありなどいふ
人も世にはありとかや。われらが凡智のしらぬことにぞ。
(*ゆうだすきについても同様だと言う。)
…いかなるわざにやあらん、これらをも神秘といふなればせむかたなし。あやしの世
や。
履軒は、神事で用いられる「ゆうしで」(玉串)はもともとは、竹の棒の先に割いた木の
皮(繊維)をくくりつけた「はたき」で日常生活で用いるものであったとする。そして、
-9-
そのようなものを神秘的に用いている神道を批判するとともに、現在の「ゆうしで」に紙
が使われていることをもって、昔も紙が存在したとする逆転した論理に異を唱える。ここ
で、履軒は、歴史の変遷の法則性を見、冷徹な立場から宗教の神秘主義に反対している。
か
ぢ
『日本書紀通釈』に「池辺真榛云、木綿は穀木の事にて、今もかぢの木、また、かうぞ
と云ひ、和名抄に、楮、穀木也、和名、加知とあるにて知るべし云々」とある(『神道大
辞典』臨川書店、一九八六、一四一〇頁)。『神道史大辞典』(吉川弘文館、二〇〇四)に
かじ
も「ゆうかずら」の項(九九三頁)に「木綿(ゆう)とは、植物の梶(楮・穀とも記す、
じんぴ
落葉喬木)の木の枝の皮の部分を剥がして細い糸状にし(靱皮繊維が長く強靱であり、水
や天日に晒すと真っ白になる)、糸のまま榊に掛けて玉串としたり、または平織りの布と
たいま
からむし
して使用する。実際には、古代すでに麻(大麻、苧麻など)を以てその代わりとなし、呼
称はそのままとした」とある。履軒の推測は的を射たものと言えよう。
神道のサカキと仏教のシキミの関係についても、最初、神道は仏教のシキミを使ってい
たが、その後差別化を図るために別にサカキを使うようになったというのも、同様の立場
からの批判だと言える(注 11)。履軒は神道に批判的だったので、神道が特別視している
ものも実は他からの借り物だということが言いたいのであろう。神道が神格化しているオ
ガタマも実は普通に見られる珊瑚樹のことだというのも同様である(注 12)。オガタマと
いう名称も、普通は「招魂(おきたま)」から来たと考えられているが、履軒は「丘珠」
であるとして、にべもなく否定している。これも、神秘化に反対する履軒の特徴を反映す
るものと言えよう。筆者の調査による限り、オガタマ以外の履軒の推測は的を射ている。
五、身近なものの再評価
『画觽』には、何々は実は身近にあるこれこれなのだとして、身近なものに起源を求め
る傾向と、別の名称を与えられているものを短絡的に結びつける傾向とがある。これは前
節で述べた神秘性の暴露と裏返しの関係にある。
身近なものに起源を求める例としては、すでに述べたが、神事に用いるゆうしでは日常
生活で使うハタキであったとしたり(穀(コウゾ)の項)、占いに用いるめどは身近にあ
るハギであったとしたり(蓍(ハギ、メド)の項)、藻は『書経』益稷篇に見える天子の
服の一つだが、実は唐草模様がそれだとしたり(藻の項)、桂はモクセイのことであると
する(桂の項)などである。神秘化を図る宗教の欺瞞を暴露しようとする内容が多い(注
13)。
その他、椿は身近な木を神木の名としたのであってツバキで間違いないとしたり(椿の
項)、楓は日本のモミジで間違いない(楓の項)と言う。一般的な説には異議を唱えるこ
とが多い履軒であるが、一般に間違いとされている俗説を信じていることもある。これも
身近なものを認めようという傾向の現れであり、日本のものを顕彰する傾向の一つの表れ
だと言える。
別の名称のものを結びつける例としては、樺を桜としたり、中国の瓊花を日本の八重桜
だとしたり(以上二者、樺の項)、中国の伝説の蓬莱山は富士山だとしたり(莱の項で莱
をシバと呼ぶ(芝はシバではない)のもこれに関係する)、これまた中国の伝説の扶桑木
は、『日本書紀』に見える三木の棹橋であり、また古歌に見えるははき木(遠くからは見
- 10 -
えるが近づくと見えなくなるという木)でもあるとする説(扶桑木の項)などがある。い
ずれも中国のものと日本のものとを結びつけているが、これについては次章で詳しく述べ
たい。
六、履軒はなぜ河童を取り上げたか?
懐徳堂学派は怪異現象を信じることに反対し、無鬼論を唱えた(注 14)。履軒も同様で
あり、第四節で見たように『画觽』でも宗教について否定的な言説が見える。
『雨月物語』
で有名な上田秋成(一七三四∼一八〇九)は懐徳堂に通ったこともあり、履軒と旧知の仲
であった。その秋成の随筆集『肝大小心録』(『上田秋成全集』九)には、履軒や懐徳堂
を罵倒する記述が見えるが、その中に次のような記述が見える。
履軒云、きつね人に近よる事なし、もとより渠に魅せらると云はなき事也とぞ(『上
田秋成全集』九、一四六頁)。
怪奇小説を書いた秋成と履軒とは話が合わず、仲が悪かったのは当然であろう(注 15)。
さて、以上のように怪異を否定する履軒だが、『画觽』においては河童を取り上げてい
る。「水蝹
河童
カハタラウ
カハツハ」という項目を立てて、次のように言う。
いづこにもあるものなれど、ことの外、足はやくて人にとらるることまれなり。「河
辺に児を鼈にとられし」といふは大かたはこの物なりけり。九州には殊におほし。
怪異に反対する履軒が河童を取り上げるのはなぜなのであろうか。
この問題を考える前に、
『左九羅帖』と『画觽』のテキストについて確認しておきたい。
河童の項ではそれぞれの本のそれぞれのテキストでは違いがあるからである。
『左九羅帖』は、手稿本だと思われる懐徳堂文庫本と、山片重信(の命)による写本だ
と思われる中之島図書館本とがあるが、両者の河童の画は構図自体に違いが見られる。両
テキストの画は筆致に大きな違いが見られるのだが(『懐徳堂センター報』二〇〇七、口
絵参照)、構図自体が変わっているのは珍しい。
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懐徳堂文庫本『左九羅帖』河童
中之島図書館本『左九羅帖』河童
『画觽』については、手稿本と思われる関西大学本と、山片重信による写本である中之
島図書館本と、履軒の弟子の竹島簣山による写本だと思われる懐徳堂文庫本の三本がある。
その中、中之島図書館本だけに、
「享和辛酉水戸浦所捕河童図」の抜き書きが見られる(別
紙に書かれ上部だけ糊付けされている)(拙稿「中井履軒『画觽』翻刻・解説」六五頁)。
実は、中之島図書館本『左九羅帖』の河童図は「水戸浦所捕河童図」のそれに類似して
おり、それを写したものだと思われる(図参照)。これは、中之島図書館本の抄者の山片重
信が勝手に変えたものなのだろうか。
「水戸浦所捕河童図」(『日本随筆大成』所収 大田南畝『一話一言』より)
この「水戸浦所捕河童図」は大田南畝の『一話一言』などにも抜かれており、当時流布
していたことが確認できる(その図も江戸時代の河童関係の書物にはよく見える)。中之
島本にだけあるので、写本の作者山片重信が付け足したという可能性も考えられる。だが、
他の箇所と同じ紙に同じような筆で書かれており、朱筆や字を消すためでなくただ塗りつ
ぶしただけのような墨筆塗抹もあるので、原本にあったものを透写した可能性が高いと考
えられる(また、山片重信がみだりに自分のものを付け加えたとも考えにくい)。手稿本
(関西大学本)に見えないのは、別紙に書かれていたので紛失したため、懐徳堂本に見え
ないのは、簣山が(意識的かどうか不明ながら)写さなかったためであろうと推測できる。
懐徳堂文庫本『左九羅帖』の河童図も、河童の様子は「水戸浦所捕河童図」のそれに似
ており、おそらくもともとは「水戸浦所捕河童図」を参考に画かれたものだろうと考える。
中之島図書館本は、それがわかっていたので原図に戻したのであろう。懐徳堂文庫本『左
九羅帖』は軽いタッチ描かれており、「正確さ」より「風雅」を追究しているように見え
る。一方、中之島本は、懐徳堂本より精密な筆致で描かれており、構図に変更が加えられ
ているものもある(『懐徳堂センター報』二〇〇七口絵参照)。河童図もリアルさを追究
し、懐徳堂本の加工(ぼかし)を取り除いたのではなかろうか。
以上の推測に間違いがなければ、履軒は「水戸浦所捕河童図」を参考に河童を画いたこ
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とになる。そこでこの「水戸浦所捕河童図」について考えたい。
飯田道夫『河童考―その歪められた正体を探る』(人文書院、一九九三)五五頁は、「水
戸浦所捕河童図」の河童はおそらくアシカであろうと推測する。同書では、当時、日本近
海にはアシカが多くいたことを指摘し、
『甲子夜話』巻三二(平凡社東洋文庫本(三一四)
二八五頁)の「対州の河太郎」もアシカであると断定する。また、同書では、『蒹葭堂雑
録』に載せる、寛政四年(一七九二)に大坂の道頓堀で見せ物になって大評判をとったア
シカの図(海獺図)を載せ、その類似性を指摘する(図参照)。その他、明治の話ながら、
アシカと思われる海獣を河童(水虎)と認識した新聞記事もある(『かなよみ』第四七二
号、明治十年九月一九日、湯本豪一『日本幻獣図説』河出書房新社、二〇〇五、一八頁参
照)(図参照)。
『蒹葭堂実録』海獺図
『かなよみ』河童図
河童についての言い伝えや図は様々ある。人間に近い姿の妖怪の河童が有名であるが、
一方、様々な水棲動物が河童と考えられた。江戸期の日本付近に多く生息したアシカはそ
の一例であると言える。河童において妖怪の要素と動物の要素とは混じり合い峻別できな
いであろうが、「水戸浦所捕河童図」に基づく履軒は、河童を不思議な妖怪ではなく、た
だの動物だと考えていたのであろうと推測できる(注 16)。
中井履軒の弟子の竹島簣山著『簣山文稿』の「小史篇」と題する小話集(漢文)に、狐
の怪の欺瞞を暴く以下のような話が見える(注 17)。ある僕が借金の取り立てを終えて帰
る途中、安立町で狐の皮を買い背負って歩いていた。それを見た籠かきが稲荷神だと思い、
ただで籠に乗せてくれた。ぺこぺこされた上に籠代までただになりしめしめと思った僕で
あったが、金を籠に残してきていた。その後、籠かきが稲荷神の福を得たということが有
名になった。という話である(注 18)。この話に対して、簣山は、世俗の怪談とは実はこ
のようなものだというコメントをつけている。河童の項において、履軒が伝えたかったの
もこのようなメッセージなのではないだろうか。
なお、江戸時代には知識人の間でも広く河童の存在は信じられていた。幕府医学館教授
栗本丹洲も河童を動物(亀)の類だと考えた(注 19)。また、幕末から明治へかけての博
物学者として有名な伊藤圭介も河童を実在のものと考えていた(注 20)。
その他、履軒が目にしたと思われる『長崎聞見録』
(一八〇〇年刊)巻五(注 21)に「海
女」「海人」が見える。「海人」は河童に似た絵が書かれ、「全身に肉皮ありて、下に垂る
る事、袴を著たるに似たり。其餘は人体に異ならず。手足皆水かきあり。陸地にのぼり、
数日置くも、死せざるものなりとぞ」とある。河童も海人も実際いる物として、広く信じ
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られていたのであろう。
最後に、履軒が河童を「水蝹」と呼ぶことについて述べておきたい。
貝原益軒『大和本草』巻一六「獣」には「河童」が見える。そこでは、河童は『本草綱
目』に見える「水虎」と同類別種だと言う。履軒が使っている「蝹」という字は、中国の
文献では、地下にいて、死人の脳を食べる獣だと見える(注 22)。河童は、水中にいて人
間を襲う動物であることから、履軒は「水蝹」と名付けたのであろう。
七、語源説
履軒は、『画觽』において、多く語源に説き及んでいる。以下、そのすべてを引用し、
『日本国語大辞典』に見える語源説と対照して、特に特徴的だと思われる点について述べ
たい。
・樺の項
もと「桜桃」といふ木あり。ちいさき実なる故にや「みどり子の桃」てふ心にて「嬰桃」
とはじめは書きけらし。
「カバ」とは「皮」てふ心なるべし。皮の用、わきてよろしきを「カバザクラ」といひ、
八重にさくを「ヤヱザクラ」といひ、彼岸会にさくを「ヒガンザクラ」といふ。
*『日本国語大辞典』なし。
・棣の項
「リンゴ」といふ、「林檎」の転音なるべし。
・蔦の項
蘿薜の類にてよく物にはひつたふ故に「ツタ」といふなるべし。
*『日本国語大辞典』でも第一に挙げる(『和句解』、『日本釈名』、『東雅』巻一五)。
・梧桐の項
およそ物もて物をささへしとどむるを「支吾」といふ。几もて人の体を支吾する故、几を
名づけて「梧」といふ。「梧」につくりてよろしき「桐」なれば、其木を「梧桐」といふ
なり。
*『日本国語大辞典』『語源辞典』語源なし。自らの考える法則(「AB」二文字でできているものはA
の性質をもったBという意味)に従った解釈なのであろう。
・杻の項
木理屈曲して裂がたし。故に弩幹とす。又罪人の械とす。其械を「カシ」とも「カセ」と
もよぶなり。
*『日本国語大辞典』に見えない。同書が第一に挙げるのは「カタシ(堅)」。履軒に類似の語源として
は、「カシ(くい)を造る木」という説がある。
*「カセ(枷)」:『日本国語大辞典』は「カシ(枷)の転。本来、橿の木で作ったところから」(『俚言集
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覧』
『大言海』)を第一に挙げる。
『語源辞典
植物編』も、
「かし(樫)」の項で、
「刑具に使うカシ(枷)
は、この転用で、和語もカセと変わる」と言う(同書五七頁)。
・榛の項
「ササグリ」とは「小栗」のこころなり。
・莱の項
この草一たびもえ出れば、日々にひろがり漸々こなたに来る草なれば、「来草」てふ心に
て「莱」とは名付けらし。
・われからの項
「ワレカラ」とは「破殻」のこころならん。外の物の殻のわれたるやうにみゆればなん、
この名をとりけらし。
*『日本国語大辞典』も第一に挙げる(『大言海』の説)。
・穀の項
「穀」はことに物をゆひくくるに便あり。故に「ゆふ」といふなり。「ゆふ」は「結束」
の義なり。
*『日本国語大辞典』は二番目に「ユは白い意の古語。またユフは結の義」(『東雅』)を挙げる。第一に
は「ユフサ(齋麻)」(『大言海』)説を挙げる。
・すみれの項
この花(*レンゲ)おほかる処は紫の雲にたとへたり。王城の西北に「紫野」あり。この
花おほかりしより名をとりたるならん。
*萩によるという説もある。黒川道佑『遠碧軒記』上ノ一(地儀)に「今の紫竹の常徳寺の辺を萩野と
いふ。萩の盛に野辺紫なるによりて紫野と云也」とある(『日本随筆大成』一−一〇)。『地名語源辞典』
『角川地名大辞典』語源なし。
・蓍の項
(『古今集』の「めどにけずり花」について)
花瓶に花をさすに其かたぶきたふれぬやうにとてハギを一束つかねて、かづらにてゆひ、
まづ瓶の腹にいれおきて花を其間にさす、是を「メド」といふなり。茎の間目の通りてす
きまあれば「メド」といふなり。
*『日本国語大辞典』なし。
・蛇の項
五月は蛇のおほく出て諸虫を食ふことの盛なれば、「五月蛇」といひたるなり。縄を引は
えたる形なれば、蛇は「はえ」の名あるべし。
*『日本国語大辞典』に見えない説。同書には、「ハハヒ(羽這)」「ハイ(拝)」「自然に発生する=ハ、
ハユル(生)」などの説が見える。
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・蝮の項
「ハミ」も「ヘビ」も「反鼻」の転音なるべし。
*「ハミ」:『日本国語大辞典』も候補に挙げる(『和名抄』
『日本釈名』
『名言通』
『重訂本草綱目啓蒙』)。
第一には「クチハミムシ(口食虫)」(『大言海』)。その他、「ヒガムシ(僻虫)」「人をハム(食)」(『日本
釈名』)など。
*「ヘビ」:『日本国語大辞典』では「ハミ(蝮)」(『言元梯』)、「反鼻」(『滑稽雑談』)という説が挙げら
れている。第一には「身を経て進むヘミ(経身)」を挙げる。
・瓜の項
「ナウリ」とは「菜瓜」てふこころなるべし。
・なきの項
この物ことに菜食によろしき「キ」なりとてなん、「ナギ」とは名づけけらし。
根の白く肥たるを賞して「ネギ」といふならん。
*「ナギ」:『日本国語大辞典』にはなし。同書は「葱」を第一に挙げる。他「ナは嘗、ナは滑」など。
*「ネギ」:『日本国語大辞典』も履軒説を第一に挙げる(『名言通』『和訓栞』など多数)。
*『和訓栞』巻二二「葱をいふは本名きにて根を賞するものなるをもて根葱といへる也。」
・こなきの項
形いとちいさくてうゑわたしたるも根浅き故にや、「アサツキ」の名あり。「浅葱」のこ
ころなるべし。
*『日本国語大辞典』は第一に「アサはアサイ(浅)」という説を挙げる。ただし、履軒の言う根が浅い
からという説(『物類称呼』)以外に、
「他の葱に対して臭気が浅いことから」
(『和漢三才図会』
『大言海』
『和訓栞後編』)などを挙げる(何が浅いかは三説挙げる)。その他、ヒル(蒜)に対するしゃれだとす
る説(『東雅』所引或説)もある。インターネット上では「あさつきとは浅葱と書くように、葉の色が淡
緑なネギをさす」という説が見える。
・やまぶき(ツワ)の項
山野におのづからおひ出て、「フキ」に似て圃菜にあらずとてなむ、「山葵」とは名づけ
けらし。
*『日本国語大辞典』は「山中に生え、花の色がフキ(欵冬)のようであるところから」(『日本釈名』)
「ヤマフフキ(山欵冬)の約」(『大言海』)という説を第一に挙げる。他、「山谷に生え、枝が風に随っ
て振れ揺れるところからヤマブキ(山振)の義」(『大言海』)という説などを挙げる。
冬の寒きにもますますさかゆれば、「冬をよろこぶ草なり」とてなん、「欵冬」とはよび
けらし。
*『大漢和辞典』には「冬を凌ぐ(欵=叩)」と言うが、何に基づくかは未詳。
・葵の項
賀茂の「あふひかづら」は葛の類にて葉の形のすこし葵に似たればとてなん、「あふひか
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づら」とよぶなりけり。「葵の心ばえある葛」といふこころなるべし。
この草おひつらなりたるころは、家の軒端をふきならべたらんやうになん。されば「フキ」
とは名づけけらし。
*『日本国語大辞典』には見えない説。同書では「フユキ(冬黄)」「フフキ」「ハヒロクキ(葉広茎)」。
今、姓氏に「三枝」と書て「さいくさ」とよめり。これは「サキクサ」のよこなまりなる
べし。
*『日本国語大辞典』も同じ。
*千葉琢穂『新編日本姓氏辞典』(展望社、一九九七)一八四頁「『姓氏録』三枝部連は、…庭に三茎の
草あり。これを献ずるによりて三枝部連と給う。」
ここにて「アフヒ」と名づけたるは、「逢日」のこころなるべし。
*『日本国語大辞典』にも見える(松岡静雄『日本古語大辞典』
(刀江書院、昭和四年)の説:六四頁)。
ただし同書では、「アフヒ(仰日)」を第一に挙げる。その他、「アフヒ(押日)」など。
・扶桑木の項
枝のすがたの桑に似たればとてなん、「扶桑」とは名づけけらし。「扶」とは枝のならび
たちてうちなびきたるをいふなり。
*『大漢和辞典』「両樹同根生じて相依するから扶といふ」。
「三池」は「御木」の転音なり。
*『角川地名大辞典』(福岡巻一二六二頁)に「地名の由来は、景行天皇が当地に行幸、高さ九七〇丈の
神木があったことから御木の国といい、のちに三毛と書き、郡名になったといい(『日本書紀』『筑後国
風土記』)、のちに三池となる」と言う。
「ヲラビ」は「さけぶ」の方言なめり。
*『日本国語大辞典』に『物類称呼』
(一七七五年)五に「おめきさけぶと云詞のかはりに九州四国にて、
おらぶと云」とある。この方言は今も生きている(『日本語方言辞書』上(東京堂、一九九六)七一三頁
に見える。また、『現代日本語方言大辞典』三(明治書院、一九九二)二一一四頁には、今「おらぶ」が
使われている地域が示されている)。
・うつ木の項
「うつ木」は、木の中、空虚にて通りたれば、「空木」と名づけけらし。「うつほ木」て
ふこころなるべし。
・椿の項
これは鐔によき木なりとてなん「ツバキ」とはよびけるなん。
*『日本国語大辞典』には見えない。同書では「光沢のツバ」など。他、折口信夫の「ツバキ(唾)」説
「口から吐く唾と花の椿とは、関係があって、人間の唾も占ひの意味を含んでゐた」(『折口信夫全集』
巻二(古代研究(民俗学篇一)四四九頁)、吉田金彦の「聖なる木」説「ツ(処)ニハ(庭)キ(木)、
あるいはツニハ(津庭)キ(杵=棒)」(吉田金彦編著『語源辞典
植物編』一五六頁、『日本語学』一九
八七年一月号に初出)。また、他に、朝鮮語語源説もある(深津正『植物和名の語源研究』八坂書房、二
〇〇〇、二一〇頁)。
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・山茶の項
「サザン」とは「山茶」の転音なるべし。
*『日本国語大辞典』も同じ。
・柀(スギ)の項
これを「マキ」といひしは、「木もよし、香もよし、木の中の上品なり、これこそ、まこ
との木なれ」との心なるべし。
*『日本国語大辞典』でも第一に挙げる(『蒹葭堂雑録』)。他、「マルキ(円木)」など。
皮を剥て用ることおほし。故に文、「皮」に従ふ。
・促織の項
其声ギイチョイ機を織がごとし。人の機織をすすむるに似たり。故に「促織」とは名づけ
けらし。「促」は催なり。
*『東雅』にも、
「倭名抄には兼名苑を引て、絡緯、一名促織ハタヲリメ、鳴声如急織機故名之」と言う。
・おがたまの項
「丘珠」のこころなるべし。
*『日本国語大辞典』に見えない。同書は「ヲギタマ(招魂)」説(『大言海』、折口信夫)を第一に挙げ
る。
・構補足
飯餅の類、もろもろの食物をむかしはおほく木葉に盛りけらし。…「梶」はもとよりなり、
およそ葉の広く、物を盛に便ある物は、皆「カシハ」と名づけて用ゆ。…「カシハ」とは
「藉葉」の義なるべし。「シク」ともよめり。
*「かしは」の語源については、
『日本国語大辞典』は六つの語源説を挙げるが、いずれも「カ」を「香」
と解するものである。一方、吉田金彦『語源辞典
植物編』は、「食物を木の葉に載せたり盛ったりする
カシハ(炊葉)だとする金沢庄三郎や『倭聚名物考』『東雅』『古事記伝』などの説が正しいと思う。米
などを水にカシ(淅)て、飯にカシイ(炊)で、食事に使う具としての木の葉がカシハ(柏)だと判定
してまず間違いあるまい」と言う(同書六〇頁)(木村陽二郎『図説草木辞苑』(柏書房、一九八八)も
同様)。履軒が「カシハ」は「藉葉」(藉はカス、シクの意)で「食物の下に敷く葉」と解釈しているの
と通じる。なお、『東雅』巻一六(樹木)「槲
カシハ」の項には、「古の時には、凡飲食の物を盛るに、
葉をもてし、其葉を呼てカシハといひけり。…古の俗、カシハといひしは、槲葉にのみ限れるにもあら
じ。凡そ飲食ふ物を盛るべき葉を、カシハといひし也。カシハとは炊屋にて炊ける飯を盛りもし、裹み
もしつる葉なればかくいふ」と言う。
・構補足
「カヂ」は「カシ」の転音なるべし。
*『日本国語大辞典』には見えない。同書では、葉の形が船のカヂ(楫)に似ているからとする『名言
通』の説を第一に挙げる。『語源辞典
植物編』でも、櫓や櫂など船の用材に使われたことから、船のカ
ジが樹名に転用されたとする。
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・橘の項
「ミカン」とは「蜜柑」の心もて名づけたるにぞ。
以上の語源説の中、ササグリ、ナウリ、うつ木、ミカンなどはきわめて一般的な語源説
であり特に問題とする必要もなかろう。その他、ワレカラ、ネギ、三枝、サザンカなどは、
『日本国語大辞典』も第一候補に挙げるきわめて一般的な説だと言える。
一方、梧桐、ハエ、ナギ、フキ、ツバキについての説は、『日本国語大辞典』、吉田金
彦『語源辞典(植物編/動物編)』には見えない。その妥当性、語源学史上の位置につい
ては筆者には判断できない。
履軒に特徴的だと思われるのは、桜、樺、梧、柀、莱など、いずれも『説文解字』など
では形声文字とされている字を会意文字として解釈している点である。国字(日本人が作
った漢字)は会意文字として作られている場合が多いことからすると、履軒の漢字の語源
解釈は国字的解釈と言えようか。いずれにせよ、やや安直に過ぎよう。
なお、履軒の語源説は、あるいは新井白石『東雅』の影響もあるかもしれない。先に述
べたように(注 8)、『画觽』で取り上げる動植物は『東雅』と共通するものが多い。
例えば、ヘビの語源が「反鼻」にあるというのは『東雅』に見える(巻二〇「蛇」の項)
し、ヤマブキを欵冬とすることも、
『東雅』巻一三「蕗」の項に見える。また、今の「杉」
は古の「柀」だいう説も、『東雅』巻一六「檍」の項に「倭名抄に日本紀私記に、柀、読
てマキといふ。今按ずるに、杉、一名也。…後の俗、槙の字借用ひて、読てマキといひぬ
マコト
キ
るによれば、マキとは 真 の木也といひしとみえたり」とある。
なお、ここで、注目すべきは、
『東雅』の該当項目には多く源順『和名抄(倭名類聚抄)』
を引いていることである。上記のマキに関する記述やヤマブキに関する記述がそうなのだ
(『和名抄』巻二〇(草類))が、以下のような例もある。
すでに見たように、『画觽』ではイモリ、トカゲ、ヤモリの混同を指摘するが、これは
新井白石『東雅』巻二〇も『倭名類聚抄』における三者の混同を指摘している。梶島孝雄
『資料日本動物史』
(八坂書房、一九九七)によれば、イモリ、トカゲ、ヤモリの混同は、
『倭名抄』が三者の名前を混同して列挙したことに始まると言う(同書三四六頁)。
その他、促織の語源について、『画觽』では「其声ギイチョイ機を織がごとし。人の機
織をすすむるに似たり。故に「促織」とは名づけけらし」と言うが、『東雅』巻二〇「蟋
蟀」の項にも、「倭名抄には兼名苑を引て、絡緯、一名促織ハタヲリメ、鳴声如急織機故
名之」と言う。また、語源とは関係ないが、鷚(ヒバリ)の項で、崔禹錫『食経』を引く
のは、おそらく『東雅』を通して、『和名抄』を孫引きしたものであろう(『東雅』巻二
〇「雲雀」の項、『和名抄』「兼名苑云、絡緯一名促織(和名波太於利米)鳴声如急織機、
故以名之。」)ちなみに、
『和名抄』の項目で『画觽』と一致するものは以下のようである。
巻一七:榛、林檎、橘、瓜、葱、藻、荇、蓴、葵
巻一八:木兎、鴟、梟
巻一九:促織、蟋蟀、蝿
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巻二〇:めど、蕣、藤、柏、楓、桂、桜、樒、杉、梧桐、橿、柀、穀、椿、樺
残念ながら、履軒が『和名抄』を見ていたかどうか確認はできないが、『画觽』が『和
名抄』『東雅』という流れに位置することは言えるであろう。直接の関係があったかどう
かは定かではないが、以上に述べたように内容上の関係は認められるからである。
第三章
履軒の日本文化観―サクラ、富士山を巡る言説
第二章において、履軒が日本のものと中国のものとを安易に結びつける傾向があること
を述べた。本章では、その特徴が典型的に表れた桜、富士山、扶桑木についての記述を取
り上げ詳しく述べたい。
一、サクラに見る履軒の日本意識(中華意識の逆転)
『画觽』において「サクラ」は最重要項目であると言える。まず、冒頭に「サクラ」が
取り上げられ、『画觽』に対応する画冊も「左九羅(さくら)帖」という名前が付けられ
ているからである。以下、サクラについての履軒の記述を紹介・分析し、サクラを巡る文
化史の中でどのように位置づけられるかを確認し、履軒の思想的特徴との関係を明らかに
したい。
懐徳堂学派の吉野行
懐徳堂学派が盛んに吉野へ花見に行っていた。それは、現在、懐徳堂文庫に残されてい
る多くの資料によってわかる(履軒の兄竹山著『芳山紀行』、竹山の子蕉園著『騮碧嚢』
『遊芳自導』(吉野行の自分用のガイドブック兼旅行記録)、蘭窓(金崎元永夫人:蕉園の
吉野行の同行者)著(和文紀行、
『大阪府立図書館紀要』二二号(昭和六一年)に翻字あり)、
履軒の弟子三村其原著『芳山遊草』)。これらの紀行には、歴史的考証がちりばめられて
おり(竹山の海棠説も『芳山紀行』に見える)、当時の学者の旅の楽しみ方を垣間見るこ
とができる。これらの書の中、竹山とその子蕉園は「サクラ」を「海棠」と呼び、履軒と
その弟子三村其原は「サクラ」を「樺」と呼んでいる(履軒の孫寒泉が、還暦以降、桜宮
に住み「樺翁」と号したのも履軒説に基づく)。
履軒のサクラに対する関心・興味は以上のような懐徳堂学派の土壌の中から出てきたも
のだと言える。
*三好学『桜花図譜』は、中井竹山『芳山紀行』を紹介する箇所で、漢学者の筆になる吉野日記は珍し
いと述べている。「世に和学者の作れる吉野日記の類は少なからざれども、漢学者の筆に成れるものは稀
なり」(六五頁)。ただし、筆者の調査によれば、頼千秋にも『芳野遊草』がある(『諸家詩抄』)。戊戌三
月の吉野行を題材にした漢詩集で、サクラを「桜」と呼んでいる。
履軒説の概要
まず、最初に履軒の論を確認したい。原文は長文にわたるため翻刻に譲り、ここでは概
略を説明するにとどめる。履軒は、サクラに「桜」の字を当てるのは間違いだとする。ま
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た、「海棠」であるとする説も間違っているとする(履軒の兄竹山は「海棠」派である)。
以上のように通説を否定した上で、履軒は「樺」こそがサクラであるとする。さらに、履
軒は、隋の煬帝が称えた「瓊華」も実はヤエザクラ(八重桜)のことであるとして、表題
のところに「サクラ」の別名として「瓊華」を挙げる。逆に、
「桜」は「桜桃」として「桃」
とは不可分の関係にあると言う。そして、
「櫻(桜)の」つくり「嬰」は嬰児(みどりご)
のことであり、実の小さい桃を表すと言う。
サクラ文化史
①通時的概観
「サクラ」は「富士山」とともに、日本文化の象徴とされ、文化史上の一大テーマであ
る。履軒のサクラ説を分析するのに先立ち、ここでは、日本での「サクラ」を巡る言説を
概観しておきたい。履軒の位置を明らかにするには欠かせない作業だと考えるからである。
サクラは日本に固有か?―「日本固有」派 VS 「さにあらず」派
サクラが日本に独特のものであるとする説は江戸時代の貝原益軒に遡ることができる
が、今でも一般にそう言われることが多く(注 23)、現在でも多くの日本人がサクラは日
本独特のものであると信じているであろう。それに対し、大貫恵美子『ねじ曲げられた桜
―美意識と軍国主義』(岩波書店、二〇〇三)や斉藤正二『日本人とサクラ』(講談社、
一九八〇)は、サクラが必ずしも日本独特の植物でないことを明らかにし、サクラ日本独
自説がナショナリズムの昂揚とともに喧伝されたものであることを明らかにしている。
また、現在日本ではサクラと言えばソメイヨシノとなっているが、これは江戸時代に生
み出された新種で、日本で広まったのは、明治以降である(注 24)。今見るサクラの風景
は比較的新しいものなのである。
国粋主義とサクラの結びつきについては、江戸時代の国学に淵源し、明治時代以降花開
いたというのが、大貫と斉藤に共通した認識である。
一方、大貫や斉藤が批判対象とする山田孝雄『桜史』
(桜書房、一九四一)や三好学『桜
花図譜』では、日本人とサクラの深い結びつきが古代にまで遡り述べられている。確かに、
『古今集』などの和歌にもサクラを歌った歌は多く、その散り際を歌った歌も多い。周知
のように、吉田兼好『徒然草』の「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」(百
三十七段)という文句もある。サクラに散りやすいという性質がある以上、勢いそれを題
材にすることが多くなるのは必至であろう。だが、和歌では、散りやすさを愛でる歌より
も、それをはかなむ歌の方が圧倒的に多い(注 25)。
以上のことから、日本人のサクラ好きは、古代にまで遡ることができるが、それを、
「潔
さ」や「集団主義」という国民性と結びつける言説は近代以降のことであると考えるのが
妥当であろう。
②江戸時代
江戸時代の博物学は、『本草綱目』を権威として、日本の動植物を中国のそれに同定す
ることが中心であった(注 6 参照)。サクラについては、大きく言って、日本固有派と海
棠派とがあった。日本固有派とは、日本のサクラは中国にはない、よって「桜」という漢
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字を当てるのは本来間違いだが、日本での用法として独自に「桜」の字を当てようとする
立場である。それに対して、海棠派は、日本のサクラは「海棠」であるとする立場である。
サクラに桜の字を当てるのは、平安時代の『新撰字鏡』に由来するが、以上の二説は、
いずれも、日本のサクラと中国の桜とは違うと言う。以下、それぞれを概観してみよう。
まず、日本固有説であるが、これは、斉藤正二『日本人とサクラ』
(講談社、一九八〇)
によると、最初に唱えたのは貝原益軒である(注 26)。その後、朱舜水などの中国人が「サ
クラは中国にはない」として日本のサクラを称えた(注 27)。中国人にサクラを称えられ
ることは日本人の自尊心をくすぐったのであろう、この説は広まった。
一方、海棠説は漢学者により唱えられたようだ。大田南畝が述べるように(注 28)伊
藤仁斎がそうである。仁斎の子長胤が撰した「先府君古学先生行状」
(『古学先生文集』
(六
巻、古義堂蔵版、享保二年刊)「巻之首」収録)には次のように言う。
嘗号仁斎。所居堂前有海棠一株。因又号棠隠。
(嘗て仁斎と号す。居する所堂前海棠一株有り。因て又棠隠と号す。)
小野蘭山は、この海棠説は黄檗宗の僧の影響だと考えている(注 29)。
なお、先に述べたように、履軒の兄竹山もサクラを海棠と呼んでいる(注 30)。海棠の
記述がサクラの様子に一致するからというのがその理由である。
なお、江戸時代には、日本固有説を否定し、外国にもサクラが存在するとする説もあっ
た。斉藤正二が高く評価する小野蘭山がそれである。小野蘭山『耋筵小牘』に桜について
の論考があり、稲生若水や江村如圭らのサクラ海棠説を否定し、中国にも海棠とは別にサ
クラはあるが、風土に合わず日本のほど見事でなく、名称も様々だと言う(注 31)。
江戸時代の漢詩においてサクラがどのように扱われたかについては、日野龍夫「桜と日
本近世漢詩―和習について」(『江戸の儒学』<日野龍夫著作集1>ぺりかん社、二〇〇五)
(初出:『中華文人の生活』平凡社、一九九四)が詳しい。
同論考によれば、サクラを詠む詩はもともと少なくなかったが、古文辞学派が詩壇を主
導するようになってから、ほとんど詠まれなくなったという。中国にサクラが存在せず、
中国にサクラを詠んだ詩が存在しないというのがその理由である。サクラを詠む場合も、
サクラをサクラとしてではなく、中国の花に見立てることが行われた。
だが、中国を無批判に模倣する古文辞学派への反発が生まれ、江戸後期には、日本的素
材・発想を積極的に取り込むことが行われるようになる。これは、儒仏に反発して国学が
勃興したことに代表される、日本近世におけるナショナリズムの形成と対応したものであ
る。つまり、大きく言えば、江戸時代には、和習を排する立場から、和習を認める立場へ
の変換があったとする。以上が、日野の論による江戸時代の流れである。
このような流れの中で、履軒を考えるとどのようになるであろうか。まず、大きくは、
上に述べたような日本再評価の流れに位置すると言えよう。これは、古文辞学派を批判し
た懐徳堂学派としては当然の立場でもある。ただ、日本を中国と切り離し、その独自性を
強調するナショナリズム(国学)の立場とも一線を画し、あくまで、中国と離れない立場
にあると言える。先に述べた服部南郭が「日本に中国を被せる立場」であるとすれば、履
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軒は、逆に「中国に日本を被せる立場」で一八〇度の転換が見られるが、言い方を逆にし
ただけで、同じ範疇に属する発想であるとも言える。
履軒説の検証
以下、履軒の説を具体的に検証していきたい。
まず、サクラに樺の字を当てたことについてである。これは、「華(はな)」の木とい
う意味からの命名である。
…花とだにいへば「サクラ」のこととなりぬ。
…司馬相如の賦に「華楓枰櫨」といへり。「華」はすなはち「樺」なり。むかしの人
さばかりめづる心もなく、また世のすゑをさとりしにもあらぬを、よくぞ「華」の「木」
てふ文字をさだめおきたる。外に文字をたづぬるはあぢきなしや。
(注)「華楓枰櫨」は、『文選』巻八の「上林賦」に見える。なお、履軒は、『荘子』譲王篇の「原憲
華冠」にも「華、樺也。海棠之属」と雕題を付けている(復刻叢書本『荘子雕題』二三三頁)。
先に(第二章第七節語源説)、履軒は、漢字を会意文字としてとらえる傾向があると述べ
たが、これはその最たるものだと言える。安易な発想に見えるが、他に根拠はある。
それは、古来、サクラの皮が「カバ」と呼ばれたことである。サクラとカバの木の地肌
は似ており、古来混同されることが多かった。また、カバザクラという名称もある(『古
今和歌集』物名にはカニハザクラという呼び方が見える)(注 32)。カバの語源は「皮」
であるという説もあり、カバの木もサクラの木もその皮が利用されることが多かったため
に混同が起きやすかったのであろう。『和漢三才図会』巻八七「桜」の項には、項目名の
下に「樺
和名加波、一云加仁波」と言い、「『字彙』に、「樺とは木の名で、皮は弓に貼
るとよい」とあることからみると、これは別種の木であろうか。『和名抄』にも別種のよ
うに見えている。けれども、桜の皮以外に樺と称すべきものはまだ見えていない」
(注 33)
と言う。また、カバノキも「カバ」「カバザクラ」の名で呼ばれ、材はサクラに似ている
ので桜材と称されていた。「カバ」の名がサクラ類とカバノキ科の両方に存在したのであ
カバ
る(注 34)。ただ、この混同は、
『大和本草』巻十二「樺」の項では「樺ト桜ト大ニ異也。
同物ニ非ズ」と樺と桜とを同一視することを否定している。新井白石『東雅』でも否定は
するが、カバとサクラについて述べている(注 35)。履軒は以上のような書物を参考にし
たのかもしれない。
管見の及ぶ限り、サクラは樺だとする説は少ない。山岡恭安著の『本草正正譌』(安永
七年(一七七八))だけである(注 36)。恭安は尾張藩の人であり、履軒との関係は不明
である。
また、後世への影響も、私が発見できたのは、阿部温『良山堂茶話(初編)』(文政七
年(一八二四)刊、『芸苑叢書』一期―五(吉川弘文館、大正八年)所収、一二頁∼一四
頁)に、履軒の弟子の三村崑山から聞いた話として、『画觽』に見えるサクラ樺説を紹介
し、賛意を表明しているぐらいである。その他、蘭山の弟子で尾張の動物学者である水谷
豊文(一七七九−一八三三)の『本草綱目記聞』
(水谷本草)四三巻(一八三二年頃成立)
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に、三村崑山を通して知った履軒のサクラ樺説が紹介され、賛意が表明されている(『本
草綱目記聞』は杏雨書屋に完本あり)。
ちなみに、「椛(かば)」という国字がある。これは、「樺」字の旁を別の「はな」の字
に置き換えたものだ(菅原義三編『国字の字典』東京堂出版、一九九三、四五頁)が、旁
が「はな」であることに注目する点、履軒の発想と同じである。
次に、履軒がヤエザクラを瓊花とすることについてである。履軒は「瓊花」について述
べる際に、隋の煬帝が天下の嘆きを顧みずに巨額を投じてこの花を見に行った話を挙げる。
結末は、花を見られなかった煬帝が逆上して木を切り倒し、世に途絶えてしまったという
話である。この話は、『隋唐演義』第四七回「看瓊花樂盡隋終
殉死節香銷烈見」などに
見える。履軒が実際に何を見たのかは未詳であるが、俗小説も読んでいた証拠として興味
深い。履軒は「ふるき巻物」の瓊花の画を見るとまさにヤエザクラであったと言う。「ふ
るき巻物」が何かは未詳だが、『東洋画題綜覧』(芸艸堂、一九四三)の「瓊花」の項に
も述べるように(注 37)、瓊花とはオオデマリという植物であり、ヤエザクラではない。
ただ、『樹木大図鑑』(北隆社、一九九一)四一七頁の野生種ヤブデマリの写真を見ると、
葉の形と幅広の花びらだけ見れば、ヤエザクラに似ているとも言え、履軒が勘違いしたの
も理由のないことではない。
次に、「櫻(桜の旧字)は実が小さいので、「嬰」(みどりご)という字を使い、「嬰桃」
と言っていた、桜は桜桃であり、桃を離れては存在しない」という説についてである。会
意的解釈は他の字と同様に根拠はない。ただし、桜は桜桃だという説は一般的で、大田南
畝『一話一言』、新井白石『東雅』、江村如圭(注 38)、牧野富太郎『植物記』
(桜井書店、
一九四六)(三七八頁∼三七九頁)も唱えている。
以上のようにサクラについての履軒の説は根拠がないものではないが、妥当だとも言い
難い。その根底には、日本のもので中国のものを包み込もうとする日本中心主義が存在す
ると言える。サクラを樺と呼ぶのは、要するに中国人が花の中の花と称えたのは実は日本
のサクラだという考えであるし、中国の煬帝が夢中になった瓊花も実は日本のヤエザクラ
のことだと言うのである。これはより大きくは、第二章第五節で述べた「有名な∼は実は
身近な∼なのだ」とする論法に属し、さらに広くは、視点の移動を得意とする履軒の思想
の特徴(「中井履軒の宇宙観―その天文関係図を読む」を参照)の反映の一つと言えるか
もしれない。
また、一般に漢学者が「海棠」を当てたのとは軌を異にし、また一方、国粋主義者が日
本固有説を唱えたのとも違う独特なスタンス(視点)の現れと言えよう。
二、蓬莱山に見る履軒の日本意識
『画觽』本編の末尾には、「蓬莱山」と「扶桑木」の項があり長い考証が述べられてい
る。冒頭の「樺(サクラ)」とともに重要な部分だと言える。
この中、まず「蓬莱山(富士山)」に関わる議論を見てみよう。履軒は、日本の富士山
こそが、中国人が憧れた蓬莱山であるとし、香炉で有名な「博山」も富士山であるとする。
いでや、かかるめでたき山の御名をかしづきまいらせて、「蓬莱の嶋」とてむくつけ
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き鬼のすむ海のあなたのさかいなりと、世にいひさはぐこそいと口おしけれ。
わが国なる山を目にもみぬ国にてめでさはぎ、さまざま名をたてたるを、ここにては
用ひだにせぬは、いとこころうしや。山の恥にもやなりなましを。さらば今よりは「よ
もぎ山」といひてもよろしかるべし。「よもぎがみね」もあしからじ。「ひろ山」も
「ひろね」も「神山」も、いでや、世中の歌人よ、「われより古へをなす」てふこと
をよく味はひて、まぐさかる賤のことの葉をむげにはらひすてたまふまじくこそ。
以上のように、富士蓬莱山説に基づき、履軒は、富士山を「よもぎ山」
「よもぎがみね」
「ひろ山」
「ひろね」と呼び、尊重すべきだとする。蓬莱山や博山が富士山であることは、
履軒の和文集『華胥囈語』の「夢路草枕」でも述べられている(拙稿「中井履軒『華胥囈
語』翻刻・解説」『懐徳堂センター報』二〇〇五所収、参照)。
富士山を蓬莱山と見なすことは古くからあった。富士山を蓬莱山に見立てた「三峰型」
の富士は鎌倉時代に始まり、南北朝時代から江戸時代中期に多く見られると言う(注 39)。
ちなみに、富士宮市から見た富士山は実際、三峰型に見え、三峰は単なる想像ではない。
注目すべきは、履軒手製の博山香炉である(図参照)。
中国およびその影響下にある日本の博山香炉は、例外なく脚の上に丸い博山が乗った形を
している(図参照)。履軒もこのような博山香炉の形を知っていた(「夢路草枕」で言及し
ている)。このような形を知った上で、履軒はあえて三峰型の富士山形の香炉を作ったの
である。これは言うまでもなく、中国の博山は実は日本の富士山であるという考えを反映
したものである(注 40)が、この形状の違いは履軒の思想の特徴を間接的に表明するも
のとして興味深い。
『三才図会』「地理」巻八に「蓬莱山図」がある(図参照)。荒海からぬきんでた細い柱
の上に岩山がのっかっている。これについて中野美代子氏は「島への俗人の上陸や接近が
不可能であることのシンボルなのだ」と言う(注 41)。蓬莱山、博山は、人が簡単には近
寄れない神秘的な仙界だったのだ。履軒の幅広の富士山型博山は、現実性、接近可能性を
特徴とし、まさにその対極にあると言えよう。また、従来型の博山炉は西方起源ではない
かと言われている(注 42)。この点でも履軒の博山香炉はその対極にあると言える。
履軒手製 博山香炉(大阪大学懐徳堂文庫所蔵)
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漢代博山香炉(徐廷緑『百済金銅大香炉』三修社、二〇〇五、一九五頁)
蓬莱山(『三才図会』)
三、扶桑木に見る履軒の日本意識(伝説の現実化)
本編末尾の扶桑木に関する議論も、その構造は蓬莱山に関する議論と類似する。すなわ
ち、中国の伝説の扶桑木は『日本書紀』に見える「御木の棹橋」であり、古歌に見える「は
はき木」(近寄ると見えないが遠くからは見えるという大木)のことであるとし、それは
今も現物が残っていると言う。中国のものが日本にあるとし、それは今も我々が目にする
ことができるという論法は、蓬莱山のそれと全く一致することがわかろう。ただし、扶桑
国については、中国の『南史』巻七九に扶桑国の名が見え(注 43)、必ずしも空想上の国
とは言えない。扶桑が日本の代名詞となったのもそのためであり、履軒のみならず日本で
広く見られた一般的な説である(注 44)。
ただ、そもそも扶桑木とは、中国の伝説で、東の果て、日の出るところにあるとされた
巨木で、『山海経』「海外東経」「大荒東経」によると、扶桑の木の根元には九個の太陽、
上には一個の太陽があり、一つの太陽が昇るたびに次の太陽が樹上に上がっていくという。
萩原秀三郎『神樹
東アジアの柱立て』(小学館、二〇〇一)は、混沌たる世界にまず誕
生し、あらゆる生命を生み出すもとになった巨木を宇宙樹、世界樹と呼ぶが、それを象徴
した柱を立てる習慣が東アジアに広く見られることを紹介する(同書五九頁)。日本では、
勇壮な木落としで有名な諏訪大社の御柱がそうであるし、そもそも家の大黒柱もそれであ
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るという。扶桑木はこのような神樹の一種であり、本来非常に宗教的なものである。ちな
みに、補編に引く「桂」も月に生えるとされた木で、本来非常に宗教的な神木であった(注
45)。
中井竹山「扶桑木説」(大阪大学懐徳堂文庫所蔵)
扶桑の大木については、履軒に「扶桑匣記」(『弊帚続編』)が、竹山に、和文の「扶桑
木説」と漢文の「扶桑考」とがある(表紙に「上田蔵」と書かれた仮綴じの写本。
「121.44」)
(図参照)(「扶桑木説」は、中之島図書館蔵中井竹山著『国字牘』にも見える)。竹山「扶桑木説」
は末尾に「寛政九年丁巳八月
竹山居士誌」とある(寛政九年は、一七九七年)。『画觽』
に先立つ成立であり、履軒が竹山の説を採用したのかもしれない。また、山片蟠桃『夢の
代』巻四「歴代第四」にも同様の内容が見える。
履軒「扶桑匣記」(『弊帚続編』)は、内容は、ほぼ『画觽』に等しい。「箒木」「月桂」
などもすべて扶桑に関わるものだとする。冒頭には、「凡物、吾郷独有、而他郷無之者、
雖果瓜虫魚之微、莫不誇張自栄、人情然已。況於千万歳旧物、声溢于海外、録於文史、而
播於歌詠者乎。吾邦可誇於外人者、独有扶桑木与蓬莱山而已矣。然人唯知誇張乎蓬莱、而
不知誇張乎扶桑、甚可惜也」とあり、国粋主義的立場(日本を顕彰する立場)からの執筆
であることがわかる。ちなみに、山片蟠桃『夢の代』「歴代」にも、「然レバ日本ニヲイ
つきのかつら
テ外国に誇ベキハ、コノ二ツノミ」とある。また、「月
桂・箒木・扶桑同物ノ論、ソレ
差ハザルニチカカランカ」とある。
注目すべきは、扶桑木の現物(と信じられていたもの)を履軒や竹山が入手していたこ
とである。履軒が「扶桑木」を得て刀の柄や印材としていたことや、別の話として、脇蘭
室から「扶桑木」を贈られたという記述が見えるからである(注 46)。
現在も大阪大学図書館懐徳堂文庫には「扶桑木板」(E381/器 59/250)が遺されている。
「扶桑木板
水哉館遺物」と書かれた五七㎝×二〇㎝の桐箱に黄色い麻布(おそらく)に
包まれて保存されている( 図参照 )。板は縦五七㎝、横一七㎝、厚さ一㎝で、一角が欠け
ているが、いずれの面も刃物で裁断されている。縦に三つに割れており、接着剤で付けよ
うとした跡が見える。黒ずんだ色をしており、木質は硬く、ケヤキであろうかと思われる。
板に文字や加工は施されていない。竹山「扶桑木説」に言う、脇子善から贈られた扶桑木
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はこれなのであろう。
扶桑木板(大阪大学懐徳堂文庫所蔵)
なお、江戸時代の扶桑木の残骸の物的証拠を求める風潮について補足しておきたい。
地中から掘り出された木を扶桑木だとすることは多かったようだが、石炭もそう考えら
れることがあったようだ。『古事類苑』植物部十「木九」にはそのような実例が多く紹介
されている。
例えば、『愛媛面影』四「伊予郡」「扶桑木」の「本郡村離山より掘出す。一種の埋木
なり。俗相伝上古扶桑と云大樹有けるを、その根年久しく土中に在て朽残りたるなりと、
仍て扶桑木と名く。鎸て印鈕に造るべく、刻みて印籠の帯付と為べし。木質堅緻色深黒に
して光沢あり。最愛玩すべし」などである。また、『重修本草綱目啓蒙』五「石」「石炭」
には「…豫州ヨリ出ル所ノ扶桑木、同物ナリ」とある。『桂林漫録』(寛政十二年)には
「扶桑木」「伊予風土記云、上古有二大木。一曰桂木。一曰臣木。…今桂木の朽残りたる
者、予州、伊予郡、森村と云地の海底より出づ。又同所に桂谷と云地有り。其辺方一里程
の間を掘ば古木を得。土人桂木の根なりと云ふ。二種共に同物にして、即世に称する扶桑
木なり」とある(『日本随筆大成』一−二)。また、履軒が扶桑木(歴木=クスノキ)の
根が残るとする九州の三池も言うまでもなく石炭の産地である。履軒のみならず当時の人
々に扶桑木を思わせる物的証拠が確かに存在したのである。
なお、履軒「扶桑匣記」(『弊帚続編』)には、「扶桑匣」について「余近獲扶桑朽柢三
塊、剖為研匣、…蓋抜奇宝於湮没之中、以表章於後世、豈吾之辟也哉」と説明する。おそ
らく、実物は見栄えのしないものだったのであろう。「華胥国(履軒邸宅)」しかり、「華
胥国額(胡粉で螺鈿風に字を書く)」しかり、別の視点から見ることにより、見栄えのし
ないものに価値を見出そうとする履軒の特徴を表すものと言えよう。
最後に、履軒が、扶桑木をクスノキと考えたことに関する情報を記しておきたい。現在、
日本に見える巨樹・巨木を紹介した渡辺典博『巨樹・巨木
谷社、一九九九)、『続巨樹・巨木
日本全国674本』(山と渓
日本全国846本』(山と渓谷社、二〇〇五)という
興味深い本がある。両書では、様々な木の巨木が紹介されているが、当然、クスノキもあ
る。ちなみに、『左九羅帖』の絵では、幹がまっすぐ伸びた様に描かれており、クスノキ
よりスギに見える。
以上のように、履軒が扶桑木を日本の古伝説の神木と結びつけ、その物的証拠が存在す
るとしたことは、彼の日本中心主義の表れで、信憑性には欠けるが、当時、そう思わせる
物的証拠が多かったことも確かであった。また、宗教からの脱却という履軒思想の特徴の
一つの現れとも言える(注 47)。
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おわりに
『画觽』には履軒の思想傾向が現れている。それは、自らの考える法則性に従い、宗教
的神秘主義を排し、合理的に名実一致を求める姿勢である。ただし、その合理性を追究す
るあまり、妥当性を欠いている場合もある。履軒は博学ではあるが、やはり観念が先立つ
学者だったと言うことかもしれない。
また、注目すべきは、日本と中国に対する独特のスタンスである。履軒は、漢学者では
あるが、中国崇拝者ではなく、むしろ日本を中国より優れていると称揚する立場を取って
いた。ただ、日本の独自性、固有性を強調する国学者とも違い、日本と中国とに共通性を
見出した上で、日本の方がすぐれているという立場を取っている。この履軒の立場は、日
本人の儒者の立場の一つのあり方として注目に値する。
履軒は、微小なものの中に大きな世界が開け、一方、巨大だと思っているものもさらに
大きな視点から見ればやはり微少なものなのだという相対的視点を有していた。『画觽』
に見える「特別なものとしてあがめられているものが実は身近にあるこれなのだ」とか、
「中国人が崇めるものが実は日本にもあり、日本のものの方が中国のものよりもすぐれる」
とかいう論法は、履軒思想の特徴である「視点の移動」の一つの現れと言えるかもしれな
い。
注
(1)『画觽』および『左九羅帖』の翻刻、紹介については、拙稿「中井履軒『画觽』翻刻・解説」(『懐
徳堂センター報』二〇〇七、大阪大学)、拙稿「中井履軒『左九羅帖』『画觽』本文・注釈」(『杏雨』十
一号、武田科学振興財団杏雨書屋、二〇〇八)を参照されたい。
(2)湯浅邦弘編『懐徳堂事典』
(大阪大学出版会、二〇〇一)、大阪大学総合学術博物館編『「見る科学」
の歴史―懐徳堂・中井履軒の目』(大阪大学出版会、二〇〇六)。本草学とは、中国で紀元前から発達し
た薬物学で、植物や動物、鉱物などについて、産地や形態、効能などを研究対象とする。
(3)名物学については、青木正児『中華名物考』(平凡社<東洋文庫>、一九八八、初版は、春秋社、一
九五九)、西村三郎『文明のなかの博物学
西欧と日本』上(紀伊國屋書店、一九九九)一一〇頁を参照
されたい。
(4)他、以下のような箇所がある。
・黄鳥の項「この国になき鳥なれば、図に及ばぬことなれど、ふるくよりよこなまり来りて、世にまぎ
ること多ければなむ。」
・海棠の項「これも図に及ばぬものなれど、世にあらぬものを海棠とよぶ故になむ。」
・女蘿の項「古詩に「蔦与女蘿、施于松上」といへり。蔓延の物ならでは「施」とはいふまじ。これにて
よくわかつべし。ふるき詩伝に「蔦寄生也」と見えたり。これ草本にてよくあたれり。さるを後の人ま
た此をときわかたんとて木本もてかきみだしけり。もろもろのあやまちみなかかる類なりけり。」
・瓜の項「…ふるき名にはあらず。後の世の人は「甜瓜」をまことの瓜なりとおぼひて、豳風七月より
はじめてもろもろふるき文に疑をおこして人の口腹も古今のかはりありなどいふめり。井の内の蛙のこ
ころばえなるべし。」
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・穀の項「…世中のうつりかはる事はみなかかるたぐひなり。およそ今の物を本として古へをかたるは
大なるひがごとにぞ。今の紙は上古よりありなどいふ人も世にはありとかや。われらが凡智のしらぬこ
とにぞ。」「いかなるわざにやあらん、これらをも神秘といふなればせむかたなし。あやしの世や。」
・しのぶの項「いづかたより出たるあやまりにか、「しのぶずり」はもと草のことにはあらぬをさらにま
たあやまりをかさねたりや、いとうし。」
(5)他、「やまぶき」の項、「蕭(よもぎ)」の項、「しのぶ」の項、「楓」の項でも本草学の間違いを指
摘する。単に「本草」と呼んで批判しているが、筆者の調査によれば『本草綱目』にないものもあり、
広く本草学を批判するようだ。
(6)磯野直秀『描かれた動物・植物―江戸時代の博物誌』
(国立国会図書館、二〇〇五)九頁他を参照。
(7)加納喜光「『毛詩草木鳥獣虫魚疏』―詩経名物学の祖」(『月刊しにか』一九九六、一二)は、前近
代の日本の詩経名物学の成果として、
『陸氏草木鳥獣虫魚疏図解』
(淵在寛述)、
『詩経小識』
(稲生若水撰)、
『詩経名物辨解』(江村如圭撰)、『毛詩品物図攷』(岡元鳳撰)、『詩経名物集成』(茅原定撰)の五書を挙
げる。
(8)新井白石の『東雅』と取り上げる題材が重なるものは以下のようである。ユフ、キ(ネギ)、スミ
レ、フフキ、アフヒ、アサザ、ヌナハ、モ、タチバナ、ウリ、カガミ、ヨモギ、ハギ、メド、アサガホ、
フヂ、ツタ、スギ、マキ、ヲカヅラ(楓)、メカヅラ(桂)、サクラ、ツバキ、梧桐(キリ)、穀(カヂ)、
歴木(クヌギ)、樒(シキミ)、木兎(ツク)、雲雀(ヒバリ)、蠣(カキ)、蝿、促織。ヘビ、莱(シバ)、
促織、カシハ、花かつみの項のばれん、カシは内容が一致する。
(9)有坂隆道「豪商升屋平右衛門山片重芳の蔵書・収蔵品について」(中)(『史泉』三四、関西大学史
学会、一九六七)に載せられている。
(10)履軒の蝦夷対策(日本は土地が余っており、豊かであるという認識の下、鎖国主義を主張してい
たこと)(『履軒髦言』所収「利政雑議」「擬喩」、『履軒先生遺稿雑集』所収「蝦夷辨」)。
(11)原文「むかし、神事に「サカキ」とて用ひたるは、すなはち「樒」なり。香ある木なればなるべ
し。いつのころよりか神家の人ら仏を憎むあまりにや、「樒」をも用ひず、外の木を取て「サカキ」と名
づけて用ることとなりたり」。寺山宏『和漢古典植物考』
(八坂書房、二〇〇三)も昔は「しきみ」が「榊」
と言われたと言う(二九六頁)。
(12)原文「俗名「珊瑚珠」てふ木あり。カシの類にて、からたちばなのさましたる実なる。いにしへ、
「おがたま」の木といへるはこれなりと聞。「丘珠」のこころなるべし」。*からたちばなは「百両」の
こと。
(13)新田文庫本『弊帚』に「寓言」と題する漢文作品があり、仏教や有職故実は無知から出発して、
たいしたことのないものを仰々しく扱っていると皮肉る。内容は以下のようである。「田舎者が都の食事
にあこがれて上京した。場末の宿であら米の飯と鰯の乾物と昆布の吸い物を食べて感激して、村人に言
いふらし、記録にも残した。後に都で戦乱があり、先の田舎者の記録が重用されて、以後規範となった」
と。この寓話の末尾に、履軒は、これは仏教や有職故実を皮肉る寓言であろうとほのめかしている(原
文「履軒幽人曰、世伝斯語、不知何所由。史録絶無徴、豈疾瞿曇氏之害者之寓言耶、抑譏典故家之妄邪。
因記」)。
(14)陶徳民『懐徳堂朱子学の研究』(大阪大学出版会、一九九四)第六章「無鬼論」。
(15)ただし、山中浩之、宮川康子ともに近親憎悪的感情だという(『中井竹山・中井履軒』二〇五頁、
宮川康子『自由学問都市大坂』第四章「中井履軒と上田秋成―夢と虚構の世界」)。
すいへうかいだつ
(16)アシカに関しては、『蒹葭堂雑録』巻三「水 豹海 獺の説並図」に記録がある。これを見ると、一
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七九二年、道頓堀で見せ物になったことが見える。芸をさせていたようだ。なお、アシカについては、
梶島孝雄『資料日本動物史』(八坂書房、一九九七)が詳しい(同書四八一頁∼四八三頁)。
(17)同話は、簣山と同じく履軒の弟子である三村其原著の漢文笑話集『花間笑語』や履軒の子柚園著
の雑記『柚園数記』にもそれぞれ別の漢文訳が見える。おそらく履軒の弟子たちが同じ和文を漢文訳す
る練習をしていたのであろう。
(18)この話に類似する話に、上方落語の稲荷俥(いなりぐるま)がある。金持ちが高津神社から産屋
稲荷というところまで人力車を雇い走らそうとすると、産屋の稲荷をたいそう懼れるので、おもしろが
って「わしは稲荷の使いじゃ」と嘘をつき、車代を負けさせる。ところが、その後、車に大金を忘れた
ことに気づき、聞いていた車夫の家までとりに行くと、車夫はすでに大金に気づいて「稲荷の下され物
だ、ありがたい、近所におすそわけだ」と近所の連中を集めて大騒ぎの最中であった。金持ちは「実は
…」と事情を話すべく、
「穴があったら入りたい」と言うと、車夫が「ご恩ある稲荷のお使いに穴なんて。
お社を建てます」と言ったという落ちである。『桂米朝コレクション』五(怪異霊験)(筑摩書房<ちくま
文庫>、二〇〇三)では、稲荷俥は人力車が出てくるので明治以降の話であろうと言う。しかし、アイテ
ムはともかく、筋は古くから存在したはずであろう。宇井無愁『落語の原話』(角川書店、一九七〇)で
は、寛政一〇年江戸版『無事志有意』桃多楼語昔作「玉」を類話として挙げるが、原話は他に存在しそ
うである。
(19)栗本丹洲『千虫譜』七(恒和出版・江戸科学古典叢書所収)には、履軒と同じ河童図が引かれる。
ただし、亀の類としながらも、婦人と姦通するなど妖怪としての性質が説かれる(西村三郎『文明のな
かの博物学』下五七八頁参照)。
(20)伊藤圭介『錦窠図譜』に河童(水虎)図がある(『錦窠図譜の世界―幕末・明治の博物誌』)。ただ
し様子は人間に近い。
(21)履軒著と思われる中之島図書館所蔵『毛詩品物図攷雕題』に引用が見える(井上了「大阪府立中
之島図書館蔵『毛詩品物図攷雕題』について」『懐徳堂センター報』二〇〇四、九二頁、参照)。
『述異記』下に「若羊非羊、若猪非猪」
(22)
『広韻』巻三に「蝹、虫名。如猿、常地下食人脳」と言い、
と描写される。
(23)三好学『桜花図譜』「桜花概説」(芸艸堂、一九二一)、山田孝雄『桜史』(桜書房、一九四一)、寺
山宏『和漢古典植物考』(八坂書房、二〇〇三)二六八頁「さくら」の項、本田正次・松田修『花と木の
文化
桜』(家の光協会、一九八二)第一章
サクラの植物学など。
(24)佐藤俊樹『桜が創った「日本」』(岩波新書、二〇〇五)参照。
(25)小川和佑『桜と日本人』
(新潮社<新潮選書>、一九九三)も、本来、死の花ではなかったサクラが、
近代になって死と結びつけられるようになったことを繰り返し説明している(同書一五頁、三六頁)。
(26)貝原益軒『花譜』巻中「桜」、『大和本草』巻一二「桜」、『農業全書』巻九「桜」に見える。
(27)『先哲叢談』巻二(朱舜水)を参照されたい。
(28)大田南畝『一話一言』巻七(岩波書店本)「桜棠花」「桜とばかりいへば桜桃にてユスラの事也。
文選詩、山桜発欲燃なども山ざくらの事にはあらず、桜桃の事也。羅山集・仁斎集などにも桜をもて海
棠とせり」。
(29)小野蘭山『耋筵小牘』に「稲若水子曰『黄檗唐僧以索古頼以海棠…人見其為唐僧而毎一聞其説信
以為然、過也』」と言う。*稲生若水の原文は未詳。
(30)竹山著『芳山紀行』冒頭「邦俗謂装玖羅為桜。沿習之訛、実海棠是已。本草家往々言是邦種、非
海棠、辨証多端。然華人所説海棠状、多吻合者。曷以断其異。…」
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(31)原文「…愚按此三説皆将退桜名而以垂糸海棠為正名焉。然今真垂糸海棠人間最多而無人不識之者
固海棠之品而非索久頼之属也。…夫桜花之於桜桃也、其名同而物別矣。而説之者往々混而不分。胡人亦
然。…雖如閩粤亦応有此木、而熱壌非其性之所宜、故其開花無有如我国美観者、故舶商曰無此花也、而
世人拠此言竟以為唐山不産此物所以無名家詩賦焉。江村氏之博洽言『王宋固不識佐屈羅、唯因倭人訳語
伝聞其名、而漫寄題焉耳』。抑何不稽之甚耶。宋既曰『賞桜日本盛於唐。余亦嘗得舶上大黄以桜枝穿乾者』。
則不可言彼地不産此木也。…」
(32)小川和佑『桜と日本人』は、チョウジザクラ、ウワミズザクラ、ヤマザクラなど、樹皮を加工し
て用いるサクラの総称だと言う(同書九三頁)。
(33)原文「『字彙』曰「樺、木名。皮可貼弓」、則別此一種木乎。…然桜皮之外、可謂樺者未見之…」。
訳は、平凡社東洋文庫五一六(三二一頁)によった。
(34)細見末雄『古典の植物を探る』(八坂書房、一九九二)「古代の樺桜は何であったか」。
(35)『東雅』巻一六「桜
サクラ」「…ひとの国には、我国の花のごときありとも聞えず。されば倭名
鈔に引用ひし書にみえし所のごときも、ただ其実の事のみいひしは、桜桃といふものを注せしごとくに
して、此にいふ桜をいひしごとくにもみえず。サクラといふ義のごときも亦不詳」。
「また、玉篇を引て、
樺木皮名、可以為炬者也、カバまたカニハといふ。今桜皮有之と注せり」。「今も俗にカバといふ也。又
カバザクラとよぶ樹名もあり。」「されど、漢に樺皮という物は異也」。
(36)『本草正正譌』巻一三「樺
和名カバ、則山桜ナリ。○正譌、樺ノ説詳ナリ、而山桜ニ充ルコト所
見アリテ別ニ樺木考一巻アリ、略之」(名古屋叢書本二二二頁下)。
*ここに言う「樺木考」は『国書総目録』『蓬左文庫目録』では見つからない。
(37)原文「瓊花は大手毬のこと、大手毬は一名手毬花とも呼び、忍冬科の落葉灌木で葉は対生し稍円
形で鋸歯があり、葉の面多少皺があつて縮れ細毛あり、花は白色で玉のやうに集り円く咲くので此の名
があり、支那では詩人の詠賦するところ極めて多い。…瓊花は三十客の一に数へられ、山鵲と共に画か
るるもの多く、双軒庵の旧蔵に呉筠の作と竹田の画いたものがある」(『東洋画題綜覧』二八二頁)。
(38)小野蘭山『耋筵小牘』に「江村氏曰『圭按日本称佐屈羅曰桜、其謬也久矣。桜、桜桃也。是乃郁
李之属而与佐屈羅逈別。…』」と言う。
(39)成瀬不二雄『富士山の絵画史』「鎌倉時代における富士山図の多様性とそれを収束した定型の成立
へ」「富士山図の定型として、三峰型が成立した理由についての試論」(中央公論美術出版、二〇〇五)、
岡本健一「蓬莱山と扶桑樹への憧れ―日本文化古層の探求(下)」
(京都学園大学『人間文化研究』一号、
一九九九)を参照されたい。
(40)履軒の曾孫中井木莵麻呂に「博山炉考」(昭和六年)(懐徳堂文庫・新田文庫所蔵)があり、古書
を博引旁証して履軒の博山富士山説を支持している。
(41)中野美代子「龍と博山炉」(『仙界とポルノグラフィー』青土社、一九八九)。なお、博山炉につい
ては、小杉一雄「博山香炉に関する諸問題」(『中国文様史の研究―殷周時代爬虫文様展開の系譜』新樹
社、一九五九)が詳しい。その細い柱については、小杉氏は火を扱う器物の安全対策であると言う。中
野氏はそうであるにしてもその形状が博山香炉の本質を決定したとする。博山という名称は、六朝頃か
ら登場すると言う。小杉氏は装飾品の名であるとし、中野氏はさらに西方から渡来した装飾物の漢字音
訳であろうと言う。なお、澁澤龍彦氏『唐草物語』中の「蜃気楼」にも博山炉は登場する。
(42)徐廷緑著、金容権訳『百済金銅大香炉 古代東アジアの精神世界をたずねて』
(三修社 、二〇〇五)
第四章「博山香炉の起源」参照。同書は、西方起源説を支持する。実物があるので説得力がある(図参
照)。
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北方系博山香炉(徐廷緑『百済金銅大香炉』三修社、二〇〇五、二〇四頁)
(43)原文「扶桑在大漢国之東二万餘里北。在中国之東、其土多扶桑木、故以為名」。
(44)岡本健一「蓬莱山と扶桑樹への憧れ―日本文化の古層の探求(上)(下)」(京都学園大学『人間文
化研究』一号、二号、一九九九、二〇〇〇)は、題名通り、日本文化の基層には、蓬莱山と扶桑樹への
憧れが存在していることを実証的に説く。岡本は、聖徳太子の「日出づる処」は「扶桑」を意識した国
号であり、蓬莱山と扶桑樹とは今の日本とも関係し、「長生きの寿歌「蓬莱山」から国歌「君が代」が」
「若返りの象徴「扶桑樹」から国旗「日の丸」が」それぞれ制定されたとする。履軒のスタンスは聖徳
太子のそれに通じると言えるかもしれない。また、岡本は、『太平記』読みから仕入れた知識が、大名の
領国経営の指針として重宝された説(若尾政希『「太平記読み」の時代―近世政治思想史の構想』平凡社、
一九九九)と『太平記』に徐福の伝説(始皇帝の命を受け、蓬莱にある不死の薬を求めに行ったという
話)が引かれることとに基づき、江戸時代の幕府・諸藩には一種の楽園創造計画があったのではないか
とする。ただし、北畠親房『神皇正統記』(序論) や 『和漢三才図会』では扶桑国が日本であることを
否定している。
(45)
『太平御覽』巻九五七に引く『淮南子』には「月中に桂樹有り(月中有桂樹)」と言い、
『太平御覽』
巻四に引く虞喜「安天論」には「俗伝に、月中に仙人・桂樹あり。今 其の初めて生ずるを視るに、仙人
の足、漸く已に形を成すを見る。桂樹 後に焉に生ず(俗伝、月中仙人桂樹。今視其初生、見仙人之足、
漸已成形。桂樹後生焉)」とある。
(広島大学、末葭敏久先生 http://home.hiroshima-u.ac.jp/sueyoshi/tsuki2.html
を参照)
(46)原文「家弟ソノ根ノ一木片ヲ伝ヘテ、削刀柄トス。又一片ヲ予ニ頒テ印材トス。堅緻ニテ木性依
然タリ。」「近頃、豊後小浦ノ脇子善ヨリ、ソノ堂楹(*養老二年創建の仏堂の柱)ノ一木片ヲ得タリト
テ、頒チ贈ラル。」
(47)明月述『扶桑樹伝』
(一七九四)、中島広足『歴木辨』
(一八三五)
(『中島広足全集』二に収録)に、
履軒と類似の説が見える。これらと履軒説との関係は探求が待たれる。
*本稿は、平成一八年度武田科学振興財団杏雨書屋研究奨励費の成果の一部である。
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