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漢 語 資 料 と し て の 詩 学 書 岡島昭浩

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漢 語 資 料 と し て の 詩 学 書 岡島昭浩
﹃語文研究﹄第八十六 ・八十七号︵中野三敏先生退官記念︶一九九九.六
漢 語 資 料 と し て の 詩 学 書
︱ ﹃ 詩 語 砕 金 ﹄ を 例 と し て ︱
こ こ で﹁ 詩 学 書 ﹂ と 呼 ん で い る の は 、 中 野 三 敏 先 生 一
( 九八
一 の
) 呼 び 方 に 従 っ て い る の だ が︵ 中 野 先 生 は 江 戸 期 の 呼 び 方
岡島昭浩
﹁漢語﹂なのか、あるいは﹁国語の中に於ける漢語﹂なの
かという問題がある。
現 在 、﹁ 漢 語 ﹂ と い う と 、 音 読 す る 字 音 語 の こ と を 指 す の
巳氏などのように訳語の方を口語資料としたものがある。漢
詩学書を語彙史の資料として扱ったものとしては、樋口元
思う。
象として、これを語彙史の資料として扱うことを考えたいと
はさまざまな形式があるが、ここでは詩語を集めたものを対
山田忠雄氏 一
( 九五九・一九八一 が
) ﹁詩語砕金の如き作詩書
の類﹂と呼んでいるものとほぼ重なると思われる。詩学書に
していたのではないことを示すものであろう。
ることがあるのは
ながらも、音読の語ばかりではなく、訓読の項目をもあげ
また、明治期のいわゆる漢語辞書が、漢語と書名につけ
親しむべしなどといふ漢語﹂もそうである。
語﹂の項にも引くように、夏目漱石﹃三四郎﹄の例﹁灯火
て も﹁ 漢 語 ﹂ と 呼 ぶ こ と が あ る 。﹃ 日 本 国 語 大 辞 典 ﹄ の ﹁ 漢
が普通であるが、かつてはそれとは違う捉え方もあったよ
籍国字解の類を口語資料とするものと通ずる扱い方と言えよ
いま
に よ っ て い る ︶、 こ れ は 、 樋 口 元 巳 氏 一
( 九八〇 が
)﹁ 漢 詩 作 法
書﹂と呼び、村上雅孝氏 一
( 九九六 が
)﹁ 作 詩 参 考 書 ﹂ と 呼 び 、
う。これを本稿では、漢語資料として扱うことを考える。訳
句 と で も 云 う よ う な も の で 慣 用 句 と 言 う に は 短 い も の︵﹃ 大
うである。例えば、中国由来のものであれば、訓読してい
語の方ではなく、項目の方を取り上げるのである。
漢 和 辞 典 ﹄ の 凡 例 で﹁ 成 句 ﹂ と 呼 ん で い る の は こ れ ら や 慣 用
)
、漢 和 辞 典 を 引 く と 、 国 語 辞 典 で は 立 項 さ れ な い 、
(注 1
、漢 語 と い う 語 が 字 音 語 の み を あ ら わ
しかし、これら詩学書に載せられている項目がそもそも
220
っ て も ﹁ 執 中 ﹂と い う 漢 語 に は 触 れ て い な い の で あ る 。
は あ る の だ が ﹁ 執 中 ﹂は な く 、 な
「 かをとる と
」 いう項目はあ
ゅうをとる を
﹁執中法﹂という項目
」 引いても載せていない。
れ は ﹃ 日 本 国 語 大 辞 典 ﹄で は ﹁ し っ ち ゅ う ﹂﹁ し ゅ う ち ゅ う ﹂﹁ ち
和 辞 典 の ﹃ 新 字 源 ﹄ に は﹁ 執 中 ち ゅ う を と る ﹂ で 載 せ て い る ︶
、こ
ば 、﹃ 大 漢 和 辞 典 ﹄ に は ﹁ 執 中 ﹂と い う 項 目 が あ る が ︵ 小 型 漢
句 も 含 め て い る の で あ ろ う ︶が 載 せ ら れ て い た り す る 。た と え
通は経学であり、作詩はその余技とでもいうべきものであ
漢学﹀はどのようなものであったのか、ということを探る
漢語を充てる事が可能であった、とよくいわれる。
︿素養 と し て の
また、明治期に翻訳語を作り出す際に、漢学の素養があったから
識したものとして、詩学書に見える語句を扱うのである。
の中の漢語﹂ではないとしても、日本人が漢語であると認
詩学書が、字音語の資料ではないとしても、また﹁国語
の材料になるのではないかと思っている。
ためには、中国での漢字の用法も必要であるのだが、それに
典としたものが欲しいのである。日本の漢字の使い方を知る
だとよく言われるが、これを徹底的に日本 の漢字のため の辞
漢字の意味を知るための両方の役割を持つ、鵺のようなもの
思っている。漢和辞典は、中国の古文を読むためと、日本の
という題名ではあまりにも奇妙であろうか︶があればよいと
﹃ 日 本 漢 語 大 辞 典 ﹄ と い う よ う な も の ︵﹃ 日 本 ・ 漢 和 大 辞 典 ﹄
る も の が 異 な っ て い る の だ が 、こ れ ら を 総 合 し た も の と し て 、
このように、漢和辞典類と国語辞典類では項目として立て
には﹃後漢書﹄の用例がとられているのにである
漢 文 資 料 を 漢 語 の 資 料 と し て 扱 う に は 、中 田 祝 夫 氏 一
(九
般的な語彙についてはまだ十分であるとはいえない。
用語などでは漢文資料の利用も多くなって来ているが、一
近世期に限らず、漢文資料が少なかったと思われる。学術
いかと考えられる。従来、語彙史の資料として来たものは、
の文を見るだけでなく、漢文をも見たほうがよいのではな
また、近世の漢語ということを考えるときに、和漢混淆
学の素養﹂の一端がわかるのではないだろうか。
そ の 詩 作 の た め の 参 考 書 で あ る 詩 学 書 を 見 て ゆ く と 、﹁ 漢
ろ う 。し か し 余 技 と は い え 多 く の 漢 学 者 が 詩 作 も し て い る 。
資料にもなりうるのではないかと思う。漢学というと、普
逆 に﹁ 帰 藩 き
﹃日本国語大辞典﹄には
( はん ﹂
) という語は、
あ る の に 、﹃ 大 漢 和 辞 典 ﹄ な ど に は み ら れ な い 。﹃ 佩 文 韻 府 ﹄
は過去の日本人の目を通した用例を用いるのである。上に挙
五二 が
) 提 唱 し 、柏 谷 嘉 弘 氏 一
( 九八七など が
) 平安時代の訓
点本について調査したように、音読符の付いたものを拾い
)
げたような成句も、日本人が成句ととらえたものを取り上げ
上げる、という作業を、江戸時代の漢詩文の訓点について
。
るのである。
も行うことが考えられるが、その前に、こうした詩学書の
注
( 2
こうしたものを編む際、詩学書のようなものも、その編纂の た め
221
詩学書をもとに同時代の読みを確認しうることがあるわけで、
また原作品では読みなどが不明のものもあるが、こうした
ある。
ての豊富な漢文資料に立ち向かう、という筋道を考えるので
書の語彙を整理し、その後に、江戸時代から明治時代にかけ
であろうから、素養といえる部分を押さえるためにこの詩学
とする人はこのような詩学書で語彙を豊富にしていったわけ
類の漢語を整理しておくのもよいのではないか。詩を作ろう
ある。
例集のようなものとなっているので、やや扱いにくい感が
た だ 、﹃ 文 語 砕 金 ﹄ な ど に な る と 、 熟 字 集 と い う よ り も 、 文
詩学書の周辺の 分 野の も の も 参 考 に し た 方 が よ い で あ ろ う 。
を 補 う に は 、﹃ 文 藻 行 潦 ﹄﹃ 文 語 砕 金 ﹄と い っ た 文 語 集 な ど 、
ことなどもあるし、すこし偏った用語集といえよう。これ
うこともある。詩にはあまり抽象的なことは詠まれがたい
他の欠点として、採録されているのが詩語である、とい
あるが、語釈といっても、山田忠雄氏の指摘のように、字に
記してある本もあるのは他の多くの辞書類に比べて強みでは
他の辞書類と同様、文脈が無い、ということがある。語釈が
語学資料としての詩学書にはもちろん欠点もある。まず、
とを調べることが出来るのである。
て漢詩における漢語の読み方はどうであったのか、というこ
べて漢音が優勢になってゆくといわれるが、江戸時代におい
状況についてみることもできる。明治期以降、それ以前に比
また、読み仮名のある詩学書によれば、漢音と呉音の使用
ある程度判断可能ということもある
することが比較的容易である字音語を中心とした調査にな
であるが、辞典類を使うことによって、過去のものと比較
先 述 の よ う に 、 訓 読 の も の も﹁ 漢 語 ﹂ と し て 扱 い た い の
こちらを資料とする。
と し て は 扱 い や す い し 、広 く 流 布 し て い る と 思 わ れ る の で 、
振り仮名が施してあるので読みが確定しやすく、語彙資料
る﹃ 詩 語 砕 錦 ﹄︵ 永 田 俊 平 、 明 和 四 年 序 ︶ よ り も 遅 れ る が 、
士徳らに編纂させたものである。題名、内容ともに似てい
延岡藩主内藤政陽の序を有し、序などによれば政陽が泉要
﹃ 詩 語 砕 金 ﹄ を 見 る こ と に す る 。﹃ 詩 語 砕 金 ﹄ は 、 安 永 五 年 、
さて、本稿では詩学書のうちで最も流布したと思われる
また、読み仮名、訓点などで、単なる漢字連続か字音語かが、
即した解釈であることが多いし、ある特定の詩題での用い方
った。また﹃日本国語大辞典﹄に項目として見えるものの
)
を示しているようである。特定の詩題での用い方を示してい
調査が中心となったが、これも他の資料との比較がやりや
。
るのに文脈が無いというのは大きな欠点であり、実際の漢詩
すいようにということである。
注
( 3
から用例を探すことが望まれることになる。
222
いものを掲げる。
項されているもので、日本での用例が明治以降のものしかな
ま ず﹃ 詩 語 砕 金 ﹄ の 項 目 の 中 か ら 、﹃ 日 本 国 語 大 辞 典 ﹄ に 立
﹃ 莠 句 冊 ﹄、﹁ 屋 背 ﹂﹁ 官 道 ﹂﹁ 帰 藩 ﹂﹁ 鳥 語 ﹂﹁ 病 客 ﹂﹁ 野 禽 ﹂
か ら 使 わ れ て い る も の で あ る 。﹁ 屋 後 ﹂﹁ 籬 下 ﹂ は 都 賀 庭 鐘
降のものを挙げているのであろうが、この熟字自体は古く
客心 官道 帰期 帰途 帰藩 救治 急湍 暁鴉
一望 陰伏 屋後 屋背 海色 海樓 夏雲 佳宴
るところである。
本国語大辞典﹄の日本漢文からの用例の乏しさを感じさせ
え る 。他 に も﹁ 国 手 ﹂が 明 治 の 用 例 し か な い と い う の は 、﹃ 日
は ﹃ 南 総 里 美 八 犬 伝 ﹄、﹁ 帰 途 ﹂ は ﹃ 近 世 説 美 少 年 録 ﹄ に 見
旭日 群童 軽雲 軽烟 軽舸 鶏声 月夜 絃月
来尋 落木 乱鴉 離歌 籬下 柳陰 林影 隣翁
墓門 奔雷 麻衣 密樹 野禽 幽韻 友情 楊花
登高 波間 覇図 波面 悲秋 病客 氷桂 宝匣
泉流 竃烟 双燕 鐸声 断崖 朝暉 鳥語 天壇
書架 新墳 酔態 垂釣 水程 青鞋 性僻 石榻
珠杯 春禽 春昼 時様 小雨 蒸気 松菊 小亭
坐間 残礎 残樽 紫気 舟人 愁容 酒壺 蛛糸
は 日 本 で の 使 用 を 思 わ せ る も の で あ る ︶、漢 籍 で の 古 い 用 例
て ︵﹁ 何 况 在 東 京 還 有 們 的 友 情 来 温 暖 我 的 心 ! ﹂ と い う の
ウ ト
﹃漢
, モ ダ チ コ ヽ ロ イ レ ﹂と あ る も の で あ る 。こ の 語 は 、
語 大 詞 典 ﹄ で は 巴 金﹁ 神 鬼 人 ﹂ と い う 新 し い 例 を あ げ て い
秋 部 の︻ 秋 日 訪 友 人 村 亭 ︼の 詩 題 の も と に﹁ 友 情 ユ
, ウジヤ
て も 、 漢 籍 で の 用 例 が 見 つ か ら な い も の に﹁ 友 情 ﹂ が あ る 。
国 語 大 辞 典 ﹄﹃ 大 漢 和 辞 典 ﹄﹃ 漢 語 大 詞 典 ﹄﹃ 佩 文 韻 府 ﹄を 見
こ れ ら の 語 に つ い て 漢 籍 で の 使 用 状 況 を 見 る と 、﹃ 日 本
苦寒 苦熱 香餌 荒草 江波 豪遊 国手 湖山
冷艶 連朝 論文
含 め れ ば 古 い 用 例 を も つ 語 が 多 く あ る 。﹁ 苦 寒 ﹂﹁ 登 高 ﹂﹁ 籬
平記﹄に音読したと思われるものがある。また、日本漢文を
例 え ば﹁泉流﹂は ﹃ 延 慶 本 平 家 物 語 ﹄ に あ る し 、﹁ 舟 人 ﹂は﹃ 太
の中にそれよりも古い用例を見出すことが出来る語はある。
これは﹃日本国語大辞典﹄によって示したのであって、こ
二 十 一 第 八 、﹃ 大 正 新 修 大 蔵 経 ﹄ 五 十 巻 六 一 〇 頁 ︶ が 見 つ か
資 料 庫 師 生 版 ﹂ を 検 索 し て み る と 、﹃ 続 高 僧 伝 ﹄ の 一 件︵ 巻
る。たとえばインターネットで台湾の中央研究院の﹁人文
籍の用例があるのではないかと思うが、見出せないのであ
この﹁友情﹂も和製漢語というわけではなく、おそらく漢
他の多くの項目が漢籍での用例を持つことから考えると、
がみられない。
下 ﹂﹁ 垂 釣 ﹂ な ど は 、 音 読 し た こ と が 確 か な も の と し て 明 治 以
223
情﹂は見えるのであるが、これは平仄がことなり、
﹁交情﹂の
探 し て み て も 、﹁ 朋 情 ﹂ や 、 字 体 が 似 て い て 意 味 も 通 じ る﹁ 交
るのであるが、これは﹁布衣知友、情款綢狎﹂である。他を
見える。また白話小説では﹃清平山堂話本﹄にも﹁我來尋
春 雪 後 五 壟 道 中 作 ﹂︶、﹁ 來 尋 鳥 爪 人 ﹂︵﹁ 送 潘 士 方 建 昌 ﹂︶ と
隱 居 ﹂︵﹁ 訪 石 子 澗 外 兄 林 亭 ﹂︶、﹁ 來 尋 谷 口 春 ﹂︵﹁ 和 師 直 早
日本での用例としては、佐藤亨﹃幕末・明治初期語彙の研
編 巻 上 冒 頭 の ﹁ 永 源 寺 観 楓 三 首 ﹂ 第 一 首 に も﹁ 暮 鐘 引 客 此
日本での用例としては、藤井竹外﹃竹外二十八字詩﹄後
﹂などと見えるようである。
究 ﹄ に よ れ ば 、 箕 作 阮 甫﹃ 玉 石 志 林 ﹄︵ 安 政 二 年 以 降 ︶ に 見 え
来尋﹂と見え、これは﹁心・ 尋・深﹂と侵韻で押韻して用
誤写などで﹁友情﹂が生じたという筋道は考えがたい。
る と い う 。 電 子 ブ ッ ク ﹃ こ と わ ざ 名 言 の 泉 ﹄︵ 小 学 館 一 九 九
いられている。こうして見ると、この﹁来尋﹂が辞書に載
は、陶淵明﹁飲酒二十首﹂の ﹁採菊東籬下﹂では、辞典類
〇 ︶ の﹁ 一 日 見 ず 、 三 月 の 如 し ﹂ の 項 に よ れ ば 、 高 杉 晋 作 の 、
るものである。
にはとられないのだろうが、梅尭臣﹁和江隣幾有菊無酒﹂
せられないのは不思議である。
﹁来尋﹂という語も、辞典類では漢籍での用例を見出しに
の﹁当時陶淵明、籬下望亦久﹂などによれば、辞典類に採
桂小五郎宛、文久二年九月十八日付の書簡に見えるという。
く い 。﹃ 日 本 国 語 大 辞 典 ﹄ で 、 同 じ 項 目 と し て い る﹁ 来 訊 ﹂ な
録 し て も よ い の で は な い か と 思 え る 。陸 游 の 詩 に も 見 え る 。
﹁佳宴・残礎・珠杯・鐸声 ・籬下﹂も、辞典類では漢籍
ら﹃ 大 漢 和 辞 典 ﹄ で も 見 出 せ る の で あ る が 、
﹁尋﹂は平声侵韻、
なお、これらの語の﹃日本国語大辞典﹄における明治以
ま た 、 岡 鹿 門﹃ 在 臆 話 記 ﹄ 第 三 集 巻 十 一︵﹃ 随 筆 百 花 苑 ﹄ 巻 二 、
﹁ 訊 ﹂ は 去 声 震 韻 で 異 な る 音 で あ る 。﹃ 佩 文 韻 府 ﹄ で も 見 出 せ
降 の 用 例 と い う の は 、﹃ 花 柳 春 話 ﹄で あ る も の が 多 い の だ が
の 用 例 が 探 し 出 せ な い 。﹁ 鐸 声 ﹂ は 陸 游 の﹁ 月 夕 ﹂ に ﹁ 簷 迥
な い が 、 杜 甫 ﹁ 無 家 別 ﹂ に 、﹁ 帰 来 尋 旧 蹊 ﹂ と あ る 。 し か し こ
︵屋後・佳宴・ 帰 途・暁鴉・ 江 波 ・湖山・ 舟 人 ・愁容・ 時
七 四 頁 ︶ に 、﹁ 其 友 情 、 至 レ リ 尽 セ リ ﹂ と あ り 、 文 久 元 年 十 一
れは﹁来﹂と﹁尋﹂の間に切れ目が有り、熟語とはなってい
様 ・ 双 燕 ・ 友 情 ・ 来 尋 ・ 柳 陰 ・ 連 朝 ︶、 こ れ は ﹃ 花 柳 春 話 ﹄
送 鐸 声 ﹂、﹁ 晨 起 ﹂ に ﹁ 榻 上 鐸 声 悲 破 夢 ﹂ と 見 え る 。﹁ 籬 下 ﹂
ない。
が漢文訓読的な漢語を多く含むものであるという米川明彦
月十四日の記事であるが、これは明治四十年以降の筆録にな
し か し 宋 代 に な れ ば 、 陸 游 ﹁ 登 賞 心 亭 ﹂ に﹁ 半 酔 来 尋 白 鷺
付記
洲﹂とあるし、梅尭臣の詩にも、
﹁來尋淮上寺﹂
︵﹁ 施 景 仁 邀 詠
氏 一
( 九八五 の
) 指摘を思い起こさせる。これらの語が﹃ 詩
語砕金﹄に見えるということは、これらの語は明治以降に
泗 州 普 照 王 寺 古 桧 ﹂︶、﹁ 來 尋 觀 魚 臺 ﹂︵﹁ 濠 梁 感 懷 ﹂︶、﹁ 偶 來 尋
224
とが出来るようになっていた︶ということである。
時代のうちに漢詩の世界では使われていた ︵あるいは使うこ
漢籍から取り入れられて使われたというものではなく、江戸
ま た 、 こ れ ら の 中 に は 、﹁ 寒 空 ﹂﹁ 山 風 ﹂ な ど 、 訓 読 す れ
期の用例を見ることが出来るものもある。
勝 ﹂﹁ 別 酒 ﹂ が 都 賀 庭 鐘﹃ 英 草 紙 ﹄ に 見 え る こ と な ど 、 近 世
次に﹃日本国語大辞典﹄において、日本での用例のないも
例として取られていないものもあるであろう。
としての用例であるかどうかが明らかではないために、用
ばそれに対応する和語が有って、そのことにより、字音語
のをあげる。
郷天 暁色 玉杖 金液 吟情 景勝 戸庭 故里
雲臥 園木 花塢 家醞 旱雲 寒空 暁光 凝脂
濺瀑声﹂とある。
いが、これは陸游 ﹁七月十九日大風雨雷電﹂に﹁尚聴飛涛
典 ﹄ で お お む ね 見 出 す こ と が 出 来 た 。﹁ 瀑 声 ﹂ は 見 出 し が た
こ れ ら の 語 の 漢 籍 で の 用 例 は 、﹃ 大 漢 和 辞 典 ﹄﹃ 漢 語 大 詞
菜畦 山閣 山窓 山風 山木 秋懐 秋宵 蒸暑
水雲 酔舞 垂楊 盛筵 征騎 済勝 清賞 石壇
世の漢詩文を掲げるものもみられた。
こ れ ら の 他 に 、﹃ 日 本 国 語 大 辞 典 ﹄ で 、 日 本 で の 用 例 に 近
小艇 傷悼 場圃 紗巾 酒巵 酒味 醇醪 新陽
蝉吟 浅水 浅瀬 霜夜 祖帳 黛眉 丹砂 短艇
る 。﹁ 釣 鉤 ﹂ は ﹃ 日 本 書 紀 ﹄ 巻 二 に 見 え る が 、 普 通﹁ チ ﹂ と 訓
によっていることによる問題点があるのは、先程と同様であ
とがたしかなもののみを用例としている﹃日本国語大辞典﹄
﹁暁色﹂が同じく源順の詩句に見えることなど、音読したこ
た と え ば 、﹁ 暁 光 ﹂ が﹃ 和 漢 朗 詠 集 ﹄ の 菅 原 道 真 の 詩 句 に 、
綸巾 林麓 冷雨 弄瓦
別筵 別酒 芳景 野菊 野色 幽泉 落帽 凉雨
性格の語彙であると考えることが出来るであろう。
これらの近世漢詩文のみの用例を持つ語彙と、同じような
ていて近世までの用例が見出せていない語彙についても、
こ と の よ う で あ る 。 先 に 掲 げ た よ う な 、﹃ 詩 語 砕 金 ﹄に 見 え
ても、和漢混淆文などで使われていなかっただけ、という
といったところである。これらは、漢文脈では使われてい
禊事 山鬼 山渓⋮⋮
客衣 豪華 科頭 沙汀 山径 残照 残碑 村叟
短籬 昼眠 釣鉤 荻蘆 道衣 薄雲 瀑声 晩照
読 さ れ て い る の で 字 音 語 の 例 と は さ れ な い の で あ る 。ま た﹁ 景
225
し、作文用語集への影響もありそうである。こうしたこと
れる漢語辞書の類との相互の影響関係も考えねばならない
以 上 、﹃ 詩 語 砕 金 ﹄ に お け る 項 目 語 を 見 て 来 た が 、 も ち ろ ん 、
を考えつつ、詩学書を見てゆきたいと思っている。
岡 崎 元 軌 ﹃ 日 本 詩 礎 ﹄ な ど に お い て 、﹁ 最 高 峰 ﹂ と い う 語 は
注3 ただし、訓読にとらわれないことも必要であろう。たとえば
ではまた違ってくる。
めの用例集といった性格から来るものであろう。﹃駢字類編﹄
海の東﹂といったようなものまでみられる。これは詩作のた
る い よ う で 、 た と え ば 冒 頭 の ﹁ 東 ﹂ の と こ ろ を み て も 、﹁ 渤
注1 松井利彦氏 一
( 九九〇 一
) 八五頁など参照
注 2 ﹃ 佩 文 韻 府 ﹄ は 、 漢 和 辞 典 類 に 比 べ る と 項 目 と な る 規 準 が ゆ
これらの他にも多くの語がある。各時代を通じて盛んに使わ
れ て い る も の も あ れ ば 、﹃ 日 本 国 語 大 辞 典 ﹄で 立 項 さ れ な い よ
うなものもある。本来はそのようなものも含めた全てを、
﹃詩
語砕金﹄の漢語、として論ずるべきなのであろうが、ここで
は、時代的に見て、それ以前にあまり使われていないように
見えるものについてのみ取り上げた。
おわりに
﹁最も高き峰﹂と訓読するような返り点がみられるが、現在
は 音 読 の 用 例 と し て 徳 富 蘆 花 ﹁ 思 い 出 の 記 ﹂ を 掲 げ る ︶。 こ
で は 音 読 さ れ る 字 音 語 と な っ て い る ︵﹃ 日 本 国 語 大 辞 典 ﹄ で
うしたものが音読されるようになるのが時代的なものなの
中 野 先 生 の﹁ 蔵 書 目 そ の 八 詩 学 書 ﹂ で 、 詩 学 書 の 存 在 を 知
り、これを語彙史の資料、とくに漢語史の資料として使いた
中野三敏 一
( 九八一 蔵
) 書 目 そ の 八 詩 学 書﹃ 文 献 探 究 ﹄ 八
第五篇第三部一︶
中田祝夫 一
( 九五二 国
)語史上の一問題︱漢語の源流について︱
﹃ 国 語 ﹄ 復 刊 二 号 ︵﹃ 古 点 本 の 国 語 学 的 研 究 総 論 篇 ﹄
柏谷嘉弘 一
( 九八七 ﹃
)日本漢語の系譜﹄東宛社
参考文献
ら な い こ と で あ る。
流としてこのような成句があることは指摘しておかねばな
か 文 体 に よ る も の な の か は 考 え ね ば な ら な い が 、字音語の源
いと思い、集めるようにしてきたが、これを実際に語彙史の
資 料 と し て 扱 う の は な か な か 難 し い こ と で あ る 。ま ず は 、個 々
の詩学書の索引のようなものを作っていき、総合索引をめざ
してゆけば、語彙史研究の資料になるだろうと思っている。
詩学書といってもさまざまである。波多野太郎氏 一
( 九八
〇 に
) 収 め ら れ て い る 山 本 北 山 の﹃ 詩 用 虚 字 ﹄ や 、 そ れ を 大 き
く増補したものであると思われる澤熊山の ﹃詩語群玉﹄は、
中国の詩の用例をあげて俗語的な語までも採録している。ま
た、明治期の詩学書になると、新しい事物を読み込もうとし
て新漢語のようなものも採録している。明治期に盛んに出さ
226
波多野太郎 一
(九五四・五五 中
) 国小説戲曲の用語研究ノート
一
二 ﹃
( )(
) 日 本 大 学 文 学 部 研 究 年 報 ﹄ 四・ 五
波多野太郎 一
(九八〇 ﹃
) 白話虚詞研究資料叢刊﹄龍渓書舎
樋口元巳 一
( 九八〇 江
) 戸 時 代 の 啓 蒙 的 漢 詩 作 法 書﹃ 神 戸 商 船 大 学
紀要文科論集﹄二九
松井利彦 一
( 九九〇 ﹃
)近代漢語辞書の成立と展開﹄笠間書院
松井利彦 一
( 九九七 明
)治期漢語辞書の諸相﹃明治期漢語辞書大系
別巻三﹄大空社
村上雅孝 一九九六 作
(
) 詩参考書﹃漢字百科事典﹄明治書院
山田忠雄 一
( 九五九 漢
) 和 辞 典 の 成 立﹃ 国 語 学 ﹄ 三 九
山田忠雄 一
( 九八一 ﹃
)近代国語辞書の歩み﹄三省堂、第二部第二
章﹁漢語辞書の盛行﹂
米川明彦 一
( 九 八 五 ﹃) 欧 州 奇 事 花
/ 柳 春 話 ﹄ の 漢 語 ﹃ 国 語 学 ﹄一 四
〇
本 稿 は 、第 五 九 回 国 語 語 彙 史 研 究 会︵ 一 九 九 八・九・ 二 六 於
奈良教育大学︶での発表の一部をもとにしている。同会にお
いて貴重なご意見を下さった方々に感謝申し上げます。
陸游・梅尭臣の詩の検索には、小田美和子氏の作成された
テ キ ス ト フ ァ イ ル を 、﹃ 清 平 山 堂 話 本 ﹄ の 検 索 に は 、 勝 山 稔 氏
の制作されたテキストファイルを利用した。また、本邦用例
の検索については、情報処理語学文学研究会のテキストデー
タを利用した他、佐藤貴裕氏の協力を得た。記して感謝申し
上げます。
http://kuzan.f-
な お 、﹃ 詩 語 砕 金 ﹄ な ど の テ キ ス ト デ ー タ を 、 ウ ェ ブ ペ ー
ジ上で公開している。現在の
URLは 、
edu.fukui-u.ac.jp/goi.htmで あ る 。
︵校正時付記︶その後も﹁友情﹂を探していたが、後藤章
雄 氏 ﹁﹃ 日 本 詩 紀 ﹄ 拾 遺 ︵ 九 ︶﹂︵ 大 阪 大 学 教 養 部 研 究 集 録
︶によって、源為憲﹁題法華詩・五百弟子品﹂
︵法華經
41
開 題 ︶に﹁ 醒 後 初 知 親 友 情 ﹂と い う 句 の あ る の を 知 っ た 。﹁ 親
友 の 情 ﹂ で は あ ろ う が 、﹁ 友 情 ﹂ に 近 い 表 現 で あ る 。
︵電子版付記︶この電子版は、雑誌の体裁になるべく近づ
けてPDF化したものです。頁などはおおむねあわせてお
りますが、改行等は違っております。
な お 、﹁ 友 情 ﹂ と い う 語 は 、 本 稿 執 筆 後 に 公 開 さ れ た イ ン
ターネット上の﹁全唐詩﹂検索で見いだすことができまし
た。以下の詩に見えるものです。
州刺 史﹂
歐陽詹﹁有所恨二章 並序﹂
韋應物﹁自尚書郎 出為
227
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